押尾健一
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県山武郡横芝町 (現・横芝光町) |
生年月日 | (1971-07-03) 1971年7月3日(47歳) |
身長 体重 | 187 cm 85 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1989年 ドラフト4位 |
初出場 | 1998年5月12日 |
最終出場 | 1998年5月17日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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押尾 健一(おしお けんいち、1971年7月3日 - )は千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。
なお、一部で妻は元アイドル歌手の相川恵里と報道された[1]が、押尾自身は「名前の読み方が同じだけの別人」として報道を否定している[2]。
目次
1 来歴・人物
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 詳細情報
2.1 年度別投手成績
2.2 記録
2.3 背番号
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
来歴・人物
プロ入り前
中学生時代から投手として高い評価を受け、東海大学付属浦安高等学校から勧誘を受けたが、心臓に持病のある母のために自宅近くにいたいなどの理由で同じく誘いのあった千葉県立成東高等学校に進学[3]。速球は高校の先輩である鈴木孝政(同じ誕生日でもある)に匹敵すると言われたが、1年夏に左足アキレス腱を故障して3ヶ月入院している[4]。3年春には右ひじを故障したが、夏の県大会では全7試合を一人で投げきって71奪三振、7失点の成績を残した。決勝で知野公昭らを擁する拓大紅陵を5安打完封で破り[5]、チームの選手権大会初出場に貢献した[6]。ちなみに、ヤクルトへの入団後に結婚した女性(現在の妻)は、高校時代の同級生で芸能活動を経験していない[2]。
高校3年生の秋までは、早稲田大学への進学を希望していた[7]。しかし、1989年のドラフト会議でヤクルトから4位で指名。この指名を機に、進路を変更したうえで、契約金4,000万円、年俸420万円(金額は推定)という条件で入団した[8]。
プロ入り後
ヤクルトへの入団後は、一軍公式戦への登板機会がないまま、1991年にアメリカ・マイナーリーグ1Aのサリナス・スパーズへ派遣された。
制球に安定性がなく[9]、一軍公式戦のデビューは、入団9年目の1998年にまで持ち越された。この年には2試合に登板したが、翌1999年には登板機会がなく、シーズン終了後に現役を引退した。
引退後の2000年以降も、打撃投手兼スコアラーとしてヤクルトに在籍[5]。2014年までは、打撃投手兼チーフスコアラーとして、一軍の試合中にベンチ内でバッテリーの配球傾向などを分析していた[10]。
現役時代のチームメイトだった一軍チーフ打撃コーチ・真中満が一軍監督へ昇格した2015年には、新設ポストの「一軍戦略担当スコアラー」へ異動。真中が春季キャンプ中のミーティングで、ナインに対して「押尾が言っていることはコーチと同じ」と伝えるほど厚い信頼関係を背景に、作戦面でチームの14年振りセントラル・リーグ優勝に貢献した[11]。2016年には、戦略担当スコアラーに加えて、新設ポストの「一軍戦略コーチ」を兼務[12]。2017年には、一軍戦略コーチに加えて、一軍の投手コーチ補佐も務めた。一軍のリーグ最下位・真中の監督退任を機に、同年限りでいったん退団したが、2019年からスコアラーとしてチームに復帰。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
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1998 | ヤクルト | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 11 | 2.0 | 1 | 1 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4.50 | 2.50 |
通算:1年 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 11 | 2.0 | 1 | 1 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4.50 | 2.50 |
記録
- 初登板:1998年5月12日、対広島東洋カープ7回戦(草薙球場)、8回表に5番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:同上、8回表に笘篠賢治から
背番号
63 (1990年 - 1999年)
83 (2000年 - 2003年)
101 (2004年 - 2015年)
81 (2016年 - 2017年)
脚注
^ “ヤク新設 戦略担当スコアラー 敏腕チーフを真中監督抜てき”. スポーツニッポン. 2015年2月26日閲覧。
- ^ abヤクルト・押尾コーチ「妻は元アイドルじゃない!」 誤報道に大困惑 (『ZAKZAK』2016年7月23日付記事)
^ 朝日新聞、1988年7月26日付朝刊、千葉地方面
^ 朝日新聞、1989年7月31日付朝刊、千葉地方面
- ^ ab読売新聞、2004年7月7日付朝刊、千葉地方面
^ 朝日新聞、1989年8月10日付朝刊、千葉地方面
^ 朝日新聞、1989年11月27日付朝刊、千葉地方面
^ 読売新聞、1989年12月13日付朝刊、P.19
^ 1998年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
^ ヤクルト新設 戦略担当スコアラー 敏腕チーフを真中監督抜てき(『スポーツニッポン』2014年12月31日付記事)
^ つばめ改革実った 真中ヤクルトを支えた2人の“右腕”たち (『スポーツニッポン』2015年10月3日付記事)
^ 2016年コーチングスタッフについて(東京ヤクルトスワローズ公式サイト2015年11月5日付ニュース)
関連項目
- 千葉県出身の人物一覧
- 東京ヤクルトスワローズの選手一覧
- 日本人のマイナーリーグ選手一覧
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference
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