坂本俊篤
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、 脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です 。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2018年3月 ) 坂本俊篤 坂本 俊篤 (さかもと としあつ、1858年11月30日(安政5年10月25日) - 1941年3月17日)は、日本海軍の軍人、政治家。海軍中将従二位勲一等功三級男爵。貴族院議員。 目次 1 経歴 2 海大の父 3 栄典・授章・授賞 4 親族 5 脚注 6 文献 7 外部リンク 経歴 諏訪藩士・砲術家の坂本俊信の二男として江戸藩邸に生まれ、のち諏訪郡長・坂本俊秀の養子となる。 1879年7月、海軍兵学校(6期)を卒業。同期に斎藤実、山内万寿治がいた。1882年9月、海軍少尉。フランス留学、参謀本部海軍部出仕、海軍参謀部第2課兼海大教官、「高雄」分隊長、「扶桑」水雷長、「比叡」分隊長、「浪速」砲術長などを経、1893年6月に海相秘書官として西郷従道大臣に仕えた。その後、海軍大学校教官兼海軍省軍務局第1課課僚。 日清戦争では「比叡」副長、のち「秋津洲」に乗艦して出征した。戦後、「吉野」副長、軍令部出仕(フランス・ロシア出張)、軍務局第1課課僚、同局軍事課課僚、海大教頭、海大次長、海大校長心得などを歴任し、1902年5月に海軍少将。 日露戦争を前に、1903年12月に海大は一時、休校となる。1904年2月に海大校長から佐世保鎮守府参謀長へ転出し、鮫島員規司令長官から業務の一切を委ねられて多忙を極めた。日露戦後の1905年11月に海大校長に転任し、1905年11月に海軍中将。兼海軍教育本部長、教育本部長、兼将官会議議員を歴任し、1913年5月に予備役編入。1918年10月25日に後備役となる [1] 。 1907年9月には男爵位を授爵して華族となる。1917年7月5日、貴族院議員補欠選挙で貴族院男爵議員に選出された [2] 。 海軍においては主に教育畑を歩み、教育改革に尽力した。墓所は護国寺。 海大の父 坂本俊篤 坂本は12年の長きに渡り海軍大学校教育に携わった。仏国で創設されたフランス海軍大学の調査のため渡仏し、...