契丹
この項目では、民族としての契丹について説明しています。契丹民族が建国した国家・契丹については「遼」を、ヨーロッパ、イスラーム世界で中国を指して使われる呼称については「キタイ (地理的呼称)」をご覧ください。 宋代に描かれた契丹人の絵 契丹 (きったん、キタン、キタイ、 拼音 : Qìdān )は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を 遼 と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。 目次 1 歴史 1.1 契丹の起源と黎明期 1.2 大賀氏の時代 1.3 遙輦氏の時代 1.4 遼 1.5 遼の滅亡後 2 文化・習俗 2.1 婚姻 2.2 経済 2.3 言語 2.4 文字 2.5 葬儀 2.6 宗教 2.7 政治体制 3 構成部族 4 主な指導者と歴代君主 4.1 大賀氏・遙輦氏 4.2 耶律(ヤルート)氏 4.3 北遼と西北遼 4.4 西遼(カラ・キタイ) 5 各言語での「契丹」 6 脚注 7 参考文献 8 関連項目 歴史 契丹の起源と黎明期 『遼史』に記される伝承によれば [1] 、土河(老哈河)の東にある馬孟山(馬鞍山)から白馬に乗った神人が、潢河(西拉木倫河)西岸の平地松林から青い牛の牛車に乗った天女が、両河の合流地点にある木吐山で出会い結婚して8人の子を儲け、契丹古八部の祖先になったとされ、中国の歴史教科書にも紹介されている。また、永州木吐山に始祖・奇首可汗 [2] の祖廟があり、可敦(皇后)と先の八子の像が在るとする。 契丹の起源は拓跋部ではない宇文部から古くに分かれた東部鮮卑の後裔で、庫莫奚もしくは室韋と同系になる考えられている。『新唐書』では、かつて匈奴に破られて逃れてきた東胡の子孫とする。『魏書』、『北史』、『隋書』...