イタリアグランプリ
モンツァ・サーキット | |
レース情報 | |
---|---|
周回 | 53 |
コース長 | 5.793 km (3.600 mi) |
レース長 | 306.720 km (190.596 mi) |
開催回数 | 88 |
初回 | 1921年 |
最多勝利 (ドライバー) | ミハエル・シューマッハ (5) ルイス・ハミルトン (5) |
最多勝利 (コンストラクター) | フェラーリ (19) |
最新開催(2018年): | |
ポールポジション | キミ・ライコネン フェラーリ 1:19.119 |
決勝順位 | 1. ルイス・ハミルトン メルセデス 1:16:54.484 2. キミ・ライコネン フェラーリ +8.705s 3. バルテリ・ボッタス メルセデス +14.066s |
ファステストラップ | ルイス・ハミルトン メルセデス 1:22.497 |
イタリアグランプリ(イタリアGP、英: Italian Grand Prix、伊: Gran Premio d'Italia)は、イタリアで行われる自動車レース。現在はF1世界選手権の1戦として開催されている。
イタリア国内で行われた、イタリアGP以外の名称をもつF1レースも本項目で記述する。
目次
1 概要
2 イタリアグランプリ以外のF1レース
3 特筆すべきレース
4 過去の結果と開催サーキット
4.1 イタリアGP
4.1.1 複数回優勝したドライバー
4.1.2 複数回優勝したコンストラクター
4.2 ペスカーラGP
4.3 サンマリノGP
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
概要
ヨーロッパ発祥の国際グランプリとしては、フランスグランプリ(1906年に初開催)に次いで1921年に創設された伝統あるイベントであり、途中中断を挟みながら継続開催され続けている。1950年以降は、同年に発足したF1世界選手権に組み込まれ、F1において同一名称のグランプリが1年も欠かさず開催されているのは、このイタリアGPとイギリスGPのみである。
初開催の1921年にはブレシア、1937年にはリボーノ(現モンテネーロ・サーキット)、1948年にはヴァレンチノパーク、1980年にはイモラで開催され、途中1929年〜1930年と1939年〜1946年には中断されているが、それ以外は毎年モンツァ・サーキットで開催されている。
1981年から2006年まで同国内のイモラサーキットでもグランプリが開催されていたが、こちらはサンマリノ共和国から名称を拝借する形で、サンマリノGPとして行われていた。グランプリには「1ヶ国につき1年に1開催」が原則とされているためこのような措置が取られていた。
現行のカレンダーではヨーロッパラウンドの最終戦にあたる。シーズン終盤の秋口に行われることから、次のシーズンに関しての重大発表が行われることが多い。
1987年 - ホンダ、マクラーレンに対し、翌年よりエンジン供給。アイルトン・セナのマクラーレン入り。
1989年 - アラン・プロスト、翌シーズンのフェラーリ加入。
1992年 - ホンダ、F1撤退(第2期の終了)。ナイジェル・マンセル、翌シーズンのウイリアムズ離脱。
2006年 - ミハエル・シューマッハ、1度目の引退。
2016年はオランダのビール醸造会社ハイネケンがタイトルスポンサーとなった[1]。
バーニー・エクレストンとイタリア自動車クラブの交渉が長引き、2017年はイモラへの移転やイタリアGPの消滅も噂されていたが、2019年までモンツァで開催されることになった[2]。しかし、イタリアGP開催への政府支援に関してイモラが不服を申し立てたため正式契約が遅れていたが、訴えを取り下げたためモンツァでの開催が確実となり[3]、11月28日に2019年までの開催が正式決定した[4]。しかし、観客動員の減少傾向は変わらず、将来の開催が疑問視されている[5]。
イタリアグランプリ以外のF1レース
イタリア国内で実施されながら、別の名称が付与されたレースがある。1957年には1国で年内に2回の開催を行ったが、1国1開催の原則等の理由により、国名ではなく開催地の名を取ってペスカーラGPという名称が付与された。
- サンマリノGP(イモラ・サーキット)
サンマリノGPの項目を参照のこと。- ペスカーラGP(ペスカーラ)
- 1957年に開催。イタリア共和国アブルッツォ州ペスカーラ県のペスカーラ・サーキットで開催された。この年、このペスカーラGPの2週間後にはイタリアGPが開催されており、イタリア国内で連戦となっている。ヴァンウォールのスターリング・モスが優勝している。
- ペスカーラは海岸沿いの田舎町であるが、バイクの製造工場がありモータースポーツとまったくの無縁ではない。このコースは全長25,572mあり、F1GPが開催されたサーキットとしては最長である。1960年頃から安全対策が叫ばれ、あまりに大きいサーキットでは事故等の救助活動に支障をきたすため今後この様な大きなサーキットは建造される見込みがなく、この最長記録は更新されない公算が非常に大きい。海岸沿いに設置されたこのサーキットでは1924年から1961年までF1GP以外にも様々なレースが開催された。海岸側にはひとつの直角コーナーを挟み合計10km近くものふたつの直線があり、山側は大小さまざまなカーブの連続となっているにもかかわらず優勝平均速度は153.964km/hと極端に低くはない。
特筆すべきレース
- 1956年のイタリアGPは最終戦開催となった。優勝したのはマセラティ・250Fのスターリング・モスだが、自分の車を壊したあとピーター・コリンズから車を譲り受けたランチア・フェラーリ・D50のファン・マヌエル・ファンジオが2位に入り、ファンジオが3年連続の選手権王者を手中にしている。当時はレース中にマシンの乗り換えが許されており、1台の車に複数のドライバーが交代で乗って入賞しポイントを獲得した場合、獲得ポイントを人数で割って配分されるルールであった。この時点で唯一ファンジオ以外に王者の可能性を残すコリンズが、すでに車を降りているファンジオに対し交代を申し出たことで実現した。当時は3台以上、ときには5台以上の車を出走させるコンストラクターが1人のエースを勝たせるというスタイルが一般的であったため、現在のチームオーダー批判のような議論は起きていない。
- 1961年にはF1が前年から排気量が減り1.5リットルエンジンで実施されたが、このイタリアグランプリは最終戦で実施された。前年2.5リットルエンジンで開催された際には、当時使用されていたモンツァ・サーキットのバンク区間が車体に過大な負荷をかけるとして一部ボイコットするという騒動になったが、この年は開始前にそのようなトラブルは起こらなかった。このレースでは混乱を避けるために当時まだ珍しかった2列縦隊スタートが導入されたが、この時点で選手権ランキングトップで予選でも1位のヴォルフガング・フォン・トリップス(フェラーリ)がスタートに失敗、大混乱となった。2周目にはフォン・トリップスがジム・クラークを抜こうとして接触、この事故でフォン・トリップスは死亡する。このレースを制したのはフォン・トリップスと同じフェラーリに乗るフィル・ヒルで、この年のチャンピオンをも獲得した。この年以降F1でバンクが使用されることはなく、その後閉鎖された。
- 1967年のイタリアGPでは、スタート手順に不手際があり大変混乱したレースとなった。この混乱で一番割を食った形の、予選1位であったジム・クラークは大きく出遅れたうえに13周目に右後輪のパンクにも見舞われたにもかかわらず一時は首位を走る活躍を見せたが、結局ガス欠で3位に終わっている。レースは前戦カナダGPを欠場してまで新車を作って持ち込んだホンダのジョン・サーティースが、ジャック・ブラバムをわずか0.2秒差で振り切って優勝した。
- 1970年は年間13戦で争われた選手権の第10戦として行われ、前戦までに5勝して選手権をリードしていたヨッヘン・リント(ロータス)がここで勝てば年間総合優勝が決まるはずであった。最終予選走行中、マシントラブルのためコース・アウトしたリントのマシーンはガードレールの支柱に激突し、ミラノ市内の病院に搬送される救急車の中でリントは息を引き取った。その後リントの得点を上回る者がいなかったため、チャンピオンはリントのものとなった。2013年現在、リントは死後にチャンピオンになった唯一のドライバーである。
- 1971年にはBRMのピーター・ゲシンが優勝を飾っているが、2位との差はわずか0.01秒、4位までが0.18秒、5位までが0.61秒の集団状態のままゴールするという激しいレースで、ラップリーダーが延べ26回入れ替わる展開であった。ゲシンが優勝したのはこのレースただ1回であるが、このときゲシンが記録した優勝平均速度242.616km/hは、2003年のイタリアGPでミハエル・シューマッハが破るまで32年間も守られた。
- 1978年のイタリアGPでは、残り3戦でともにロータスのマリオ・アンドレッティとロニー・ピーターソンの2人のみが選手権王者の可能性を残す状態で開催されたが、スタート直後の多重衝突事故で赤旗中断、ドライバーら自らがピーターソンとヴィットリオ・ブランビラの救出にあたったが、翌日未明にピーターソンは死亡。結局ブラバムのニキ・ラウダが優勝したが、アンドレッティがこの年の選手権王者を獲得した。
- 1979年は、フェラーリの2台がワンツーフィニッシュを果たし、ドライバーズチャンピオン(ジョディ・シェクター)とコンストラクターズチャンピオンのダブル制覇を決めた。シェクターの同僚のジル・ヴィルヌーヴもチャンピオンの可能性を残していたが、チームプレーに徹してシェクターを抜こうとせず、優勝したシェクターに次ぐ2位でフィニッシュした。
- 1987年のイタリアGPでは、油圧スプリングを用いた簡易アクティブ・サスペンションを装備した新車を持ち込んだウィリアムズのネルソン・ピケと、年頭からアクティブ・サスペンションを使用しつづけていたロータスのアイルトン・セナのトップ争いが展開された。ピケは従来通り中盤にタイヤ交換をし、セナはアクティブ・サスと持ち前の技術を活かしタイヤ無交換で優勝を狙ったが、セナはトップ走行中で残り7周の43周目に周回遅れを抜こうとして失敗、スピンしてしまう。結局そのスピンのあいだにピケがセナを抜き、そのままセナの追走を振り切って優勝した。また、このレース開催期間中に、ホンダが翌年からマクラーレンにエンジン供給を開始することと、ウィリアムズへのエンジン供給を打ち切ることを発表し、ちょっとした騒動になった。
- 1988年には、それまで開幕11連勝と圧倒的な強さを発揮していたマクラーレン・ホンダチームがシーズン唯一の敗北を喫することとなった。レース終盤にアイルトン・セナが、周回遅れで走行していたウィリアムズのジャン=ルイ・シュレッサー(病欠のナイジェル・マンセルの代役としてこのレースのみ出場)と接触してしまったことによるもので、これによりフェラーリのゲルハルト・ベルガーがトップに立ち、チームメイトのミケーレ・アルボレートと1-2体制でフィニッシュを果たした。この勝利はマクラーレン・ホンダを倒したことに加え、グランプリ直前に死去したフェラーリの総帥、エンツォ・フェラーリに捧げる勝利として、ティフォシたちを喜ばせることとなった。
- 1991年は、前戦のベルギーグランプリでデビューしたミハエル・シューマッハが電撃的にベネトンに移籍し、5位に入賞しキャリア初ポイントを記録した。それまでベネトンに在籍していたロベルト・モレノは、シューマッハとトレードとなる形でジョーダンに移籍した。
- 1994年は、フェラーリのジャン・アレジがF1キャリア初のポールポジションを獲得し、2位には同僚のゲルハルト・ベルガーでフェラーリ勢がフロントローを独占した。レースは、初優勝を狙うアレジがトップを快走をしていたが、マシントラブルでリタイアした。代わってベルガーがトップとなったが、ピットストップでトラブルが生じ、優勝争いから陥落した。その後、ウィリアムズのデイモン・ヒルとデビッド・クルサードの1-2体制となったが、ファイナルラップのパラボリカ前でクルサードのマシンにトラブルが生じ、リタイア(6位完走扱い)となった。レースは、ヒルが勝ち、チャンピオン争いでリードしている(当GPから2戦出場停止中の)ミハエル・シューマッハとのポイント差を縮めた。
- 1995年は、チャンピオン争いをしていたベネトン・ルノーのミハエル・シューマッハとウィリアムズ・ルノーのデイモン・ヒルがレース中盤にアクシデントによりともにリタイアした。これにより、地元フェラーリ勢のジャン・アレジとゲルハルト・ベルガーによるワンツー走行となったが、ベルガーはアレジ車から落下した車載カメラが直撃する珍しいアクシデントでリタイアし、その数周後にはアレジもマシントラブルでリタイアした。レースは、シューマッハのチームメイトのジョニー・ハーバートが自身F1での2勝目を飾ることとなった。
- 1999年は、マクラーレン・メルセデスのミカ・ハッキネンがチャンピオンに向けてレースをリードしていたが、レース中盤にスピンしリタイアした。マシンを降りたハッキネンがひざまずいて涙するシーンがテレビ中継された。ジョーダン・無限のハインツ=ハラルド・フレンツェンがシーズン2勝目を飾った。
- 2000年は、レース1周目に、フェラーリのルーベンス・バリチェロ、マクラーレン・メルセデスのデビッド・クルサードら7台が絡む事故が発生したが、この事故によりコースマーシャルの1人が犠牲になるという痛ましい事態になった。この事故を受け、レーストラックだけでなく、コース外の安全性にも一層の配慮がされることになった。レースは、ミハエル・シューマッハが制してアイルトン・セナと並ぶ41勝目を挙げた。レース後の記者会見ではミハエルへの最初の質問で「これで勝ち星がセナと並びましたね。今日の勝利はあなたにとって大きな意味を持つものですか」に、「そうだね。この勝利は僕にとってすごく大きな意味を持つものなんだ。ごめん……」とミハエルが泣き崩れた為、インタビュアーが2位ミカ・ハッキネンと3位ラルフ・シューマッハを先にインタビューするハプニングが起きた。テレビ中継後の会見で再び同じ質問が出されると「そんなの言わなくたってわかるだろ。ここはイタリアだよ。そして僕はここ数戦ずっといい結果が残せていなかった。でも、今日やっと復活したんだ。この41勝には多くの人々の支えがあったんだ。だから、1998年に優勝したときよりもすごくうれしいんだ」と答えた[6]。
- 2001年は、レース直前に発生したニューヨークでのアメリカ同時多発テロ事件の犠牲者を悼み、フェラーリがノーズ部分を黒くペイントし、一切のスポンサーロゴを外すなど、各チームが追悼ムードに包まれた。レースではウィリアムズ・BMWのファン・パブロ・モントーヤが自身F1初優勝を果たすが、恒例のシャンパンファイトは行われなかった。
- 2003年、前戦ハンガリーGPでフェルナンド・アロンソに周回遅れにされるなどして不振を極めていたミハエル・シューマッハが、復活の勝利を果たし、このままこの年の王座に輝くことになる。またこのレースで、32年ぶりに優勝スピードが更新され、247.585km/hを記録した。
- 2005年には、出走した20台がすべて完走したが、これは1961年のオランダGP(この時は15台出走)以来、実に44年ぶりの「大記録」であった[7]。また、キミ・ライコネンが最高速370km/hオーバーを記録した。
- 2006年は、2位スタートのミハエル・シューマッハがポールポジションからスタートしたキミ・ライコネンを破ってフェラーリの地元で逆転優勝を果たし、レース後の公式記者会見で2006年シーズン限りでの彼自身のF1ドライバー引退を表明した(その後、2010年に復帰。後任のドライバーはレース直後の会見で2位を獲得し彼の隣に座っていたライコネン)。
- 2008年は、雨に足を掬われ予選を失敗したルイス・ハミルトンとキミ・ライコネンを尻目に、トロ・ロッソのセバスチャン・ベッテルが好走し、最年少ポールポジション(21歳72日)の記録を更新。予選と同様の雨中決戦となった決勝も、タイヤ交換時以外は首位を最後まで守り切りポールトゥーウィン。F1史上最年少表彰台と最年少優勝(21歳73日)を記録した。フェラーリ以外のイタリア国籍チームが優勝したのは1957年ドイツGPのマセラティ以来のことで、イタリア系チームとしては半世紀振り(ただし、これは基本的にイギリスに本拠地を置いていたが、一時期はイタリア国籍のチームとして参戦していたベネトンの1997年ドイツGP優勝を除外した場合)となった。また、フェラーリのカスタマーエンジンを搭載したチームの初優勝(=フェラーリエンジンがフェラーリ以外のチームで挙げた初優勝)となった。
- 2010年は、週末を通して好調だった、フェラーリのフェルナンド・アロンソがポールポジションを獲得。決勝ではフロントローにつけたマクラーレンのジェンソン・バトンにスタートで先行を許すもピットストップで逆転、その後はファステストラップを刻みながら他を寄せ付けない走りで優勝を果たした。フェラーリ移籍初年度でお膝元であるモンツァを勝利したドライバーは1996年のミハエル・シューマッハ以来14年ぶり、ハットトリックを決めたドライバーとしては1950年からフェラーリがF1に参戦してから史上初となる歴史的快挙である。フェラーリの母国凱旋でのハットトリックはこの年のドライバーズチャンピオンシップに望みを繋ぐだけでなくチームの士気をさらに高める大きな勝利となった。
過去の結果と開催サーキット
各グランプリの結果は下記の通り。
イタリアGP
F1世界選手権として開催された1950年以降の結果について記載する。
年 | 決勝日 | ラウンド | サーキット | 勝者 | 所属チーム | 結果 |
---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 9月03日 | 7 | モンツァ | ジュゼッペ・ファリーナ | アルファロメオ | 詳細 |
1951 | 9月16日 | 7 | モンツァ | アルベルト・アスカリ | フェラーリ | 詳細 |
1952 | 9月07日 | 8 | モンツァ | アルベルト・アスカリ | フェラーリ | 詳細 |
1953 | 9月13日 | 9 | モンツァ | ファン・マヌエル・ファンジオ | マセラティ | 詳細 |
1954 | 9月05日 | 8 | モンツァ | ファン・マヌエル・ファンジオ | メルセデス | 詳細 |
1955 | 9月11日 | 7 | モンツァ | ファン・マヌエル・ファンジオ | メルセデス | 詳細 |
1956 | 9月02日 | 8 | モンツァ | スターリング・モス | マセラティ | 詳細 |
1957 | 9月08日 | 8 | モンツァ | スターリング・モス | ヴァンウォール | 詳細 |
1958 | 9月07日 | 10 | モンツァ | トニー・ブルックス | ヴァンウォール | 詳細 |
1959 | 9月13日 | 8 | モンツァ | スターリング・モス | クーパー | 詳細 |
1960 | 9月04日 | 9 | モンツァ | フィル・ヒル | フェラーリ | 詳細 |
1961 | 9月10日 | 7 | モンツァ | フィル・ヒル | フェラーリ | 詳細 |
1962 | 9月16日 | 7 | モンツァ | グラハム・ヒル | BRM | 詳細 |
1963 | 9月08日 | 7 | モンツァ | ジム・クラーク | ロータス | 詳細 |
1964 | 9月06日 | 8 | モンツァ | ジョン・サーティース | フェラーリ | 詳細 |
1965 | 9月12日 | 8 | モンツァ | ジャッキー・スチュワート | BRM | 詳細 |
1966 | 9月04日 | 8 | モンツァ | ルドヴィコ・スカルフィオッティ | フェラーリ | 詳細 |
1967 | 9月10日 | 9 | モンツァ | ジョン・サーティース | ホンダ | 詳細 |
1968 | 9月08日 | 9 | モンツァ | デニス・ハルム | マクラーレン | 詳細 |
1969 | 9月07日 | 8 | モンツァ | ジャッキー・スチュワート | マトラ | 詳細 |
1970 | 9月06日 | 10 | モンツァ | クレイ・レガツォーニ | フェラーリ | 詳細 |
1971 | 9月05日 | 9 | モンツァ | ピーター・ゲシン | BRM | 詳細 |
1972 | 9月10日 | 10 | モンツァ | エマーソン・フィッティパルディ | ロータス | 詳細 |
1973 | 9月09日 | 13 | モンツァ | ロニー・ピーターソン | ロータス | 詳細 |
1974 | 9月08日 | 13 | モンツァ | ロニー・ピーターソン | ロータス | 詳細 |
1975 | 9月07日 | 13 | モンツァ | クレイ・レガツォーニ | フェラーリ | 詳細 |
1976 | 9月12日 | 13 | モンツァ | ロニー・ピーターソン | マーチ | 詳細 |
1977 | 9月11日 | 14 | モンツァ | マリオ・アンドレッティ | ロータス | 詳細 |
1978 | 9月10日 | 14 | モンツァ | ニキ・ラウダ | ブラバム | 詳細 |
1979 | 9月09日 | 13 | モンツァ | ジョディー・シェクター | フェラーリ | 詳細 |
1980 | 9月14日 | 12 | イモラ | ネルソン・ピケ | ブラバム | 詳細 |
1981 | 9月13日 | 13 | モンツァ | アラン・プロスト | ルノー | 詳細 |
1982 | 9月12日 | 15 | モンツァ | ルネ・アルヌー | ルノー | 詳細 |
1983 | 9月11日 | 13 | モンツァ | ネルソン・ピケ | ブラバム | 詳細 |
1984 | 9月09日 | 14 | モンツァ | ニキ・ラウダ | マクラーレン | 詳細 |
1985 | 9月08日 | 12 | モンツァ | アラン・プロスト | マクラーレン | 詳細 |
1986 | 9月07日 | 13 | モンツァ | ネルソン・ピケ | ウィリアムズ | 詳細 |
1987 | 9月06日 | 11 | モンツァ | ネルソン・ピケ | ウィリアムズ | 詳細 |
1988 | 9月11日 | 12 | モンツァ | ゲルハルト・ベルガー | フェラーリ | 詳細 |
1989 | 9月10日 | 12 | モンツァ | アラン・プロスト | マクラーレン | 詳細 |
1990 | 9月09日 | 12 | モンツァ | アイルトン・セナ | マクラーレン | 詳細 |
1991 | 9月08日 | 12 | モンツァ | ナイジェル・マンセル | ウィリアムズ | 詳細 |
1992 | 9月13日 | 13 | モンツァ | アイルトン・セナ | マクラーレン | 詳細 |
1993 | 9月12日 | 13 | モンツァ | デイモン・ヒル | ウィリアムズ | 詳細 |
1994 | 9月11日 | 12 | モンツァ | デイモン・ヒル | ウィリアムズ | 詳細 |
1995 | 9月10日 | 12 | モンツァ | ジョニー・ハーバート | ベネトン | 詳細 |
1996 | 9月08日 | 14 | モンツァ | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
1997 | 9月07日 | 13 | モンツァ | デビッド・クルサード | マクラーレン | 詳細 |
1998 | 9月13日 | 14 | モンツァ | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
1999 | 9月12日 | 13 | モンツァ | ハインツ=ハラルド・フレンツェン | ジョーダン | 詳細 |
2000 | 9月10日 | 14 | モンツァ | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
2001 | 9月15日 | 15 | モンツァ | ファン・パブロ・モントーヤ | ウィリアムズ | 詳細 |
2002 | 9月15日 | 15 | モンツァ | ルーベンス・バリチェロ | フェラーリ | 詳細 |
2003 | 9月14日 | 14 | モンツァ | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
2004 | 9月12日 | 15 | モンツァ | ルーベンス・バリチェロ | フェラーリ | 詳細 |
2005 | 9月04日 | 15 | モンツァ | ファン・パブロ・モントーヤ | マクラーレン | 詳細 |
2006 | 9月10日 | 15 | モンツァ | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
2007 | 9月09日 | 13 | モンツァ | フェルナンド・アロンソ | マクラーレン | 詳細 |
2008 | 9月14日 | 14 | モンツァ | セバスチャン・ベッテル | トロ・ロッソ | 詳細 |
2009 | 9月13日 | 13 | モンツァ | ルーベンス・バリチェロ | ブラウン | 詳細 |
2010 | 9月12日 | 14 | モンツァ | フェルナンド・アロンソ | フェラーリ | 詳細 |
2011 | 9月11日 | 13 | モンツァ | セバスチャン・ベッテル | レッドブル | 詳細 |
2012 | 9月09日 | 13 | モンツァ | ルイス・ハミルトン | マクラーレン | 詳細 |
2013 | 9月08日 | 12 | モンツァ | セバスチャン・ベッテル | レッドブル | 詳細 |
2014 | 9月07日 | 13 | モンツァ | ルイス・ハミルトン[8] | メルセデス | 詳細 |
2015 | 9月06日 | 12 | モンツァ | ルイス・ハミルトン | メルセデス | 詳細 |
2016 | 9月04日 | 14 | モンツァ | ニコ・ロズベルグ | メルセデス | 詳細 |
2017 | 9月03日 | 13 | モンツァ | ルイス・ハミルトン | メルセデス | 詳細 |
2018 | 9月02日 | 14 | モンツァ | ルイス・ハミルトン | メルセデス | 詳細 |
複数回優勝したドライバー
回数 | ドライバー | 優勝年 |
---|---|---|
5 | ミハエル・シューマッハ | 1996, 1998, 2000, 2003, 2006 |
ルイス・ハミルトン | 2012, 2014, 2015, 2017, 2018 | |
4 | ネルソン・ピケ | 1980, 1983, 1986, 1987 |
3 | [9]タツィオ・ヌヴォラーリ | 1931, 1932, 1938 |
アルベルト・アスカリ | 1949, 1951, 1952 | |
ファン・マヌエル・ファンジオ | 1953, 1954, 1955 | |
スターリング・モス | 1956, 1957, 1959 | |
ロニー・ピーターソン | 1973, 1974, 1976 | |
アラン・プロスト | 1981, 1985, 1989 | |
ルーベンス・バリチェロ | 2002, 2004, 2009 | |
セバスチャン・ベッテル | 2008, 2011, 2013 | |
2 | ルイジ・ファジオーリ | 1933, 19341 |
[9]ルドルフ・カラツィオラ | 19341, 1937 | |
フィル・ヒル | 1960, 1961 | |
ジョン・サーティース | 1964, 1967 | |
ジャッキー・スチュワート | 1965, 1969 | |
クレイ・レガツォーニ | 1970, 1975 | |
ニキ・ラウダ | 1978, 1984 | |
アイルトン・セナ | 1990, 1992 | |
デイモン・ヒル | 1993, 1994 | |
ファン・パブロ・モントーヤ | 2001, 2005 | |
フェルナンド・アロンソ | 2007, 2010 |
太字は2018年のF1世界選手権に参戦中のドライバー。
ピンク地はF1世界選手権以外で開催された年。
クリーム地は第二次世界大戦前に行われていたヨーロッパ・ドライバーズ選手権[10]の一戦として開催された年。
^1 - 1934年のカラツィオラとファジオーリは、車両をシェアして優勝した。
複数回優勝したコンストラクター
回数 | コンストラクター | 優勝年 |
---|---|---|
19 | フェラーリ | 1949, 1951, 1952, 1960, 1961, 1964, 1966, 1970, 1975, 1979, 1988, 1996, 1998, 2000, 2002, 2003, 2004, 2006, 2010 |
10 | マクラーレン | 1968, 1984, 1985, 1989, 1990, 1992, 1997, 2005, 2007, 2012 |
9 | メルセデス | 1934, 1937, 1954, 1955, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018 |
8 | アルファロメオ | 1924, 1925, 1931, 1932, 1933, 1947, 1948, 1950 |
6 | ウィリアムズ | 1986, 1987, 1991, 1993, 1994, 2001 |
5 | ロータス | 1963, 1972, 1973, 1974, 1977 |
3 | アウトウニオン | 1935, 1936, 1938 |
BRM | 1962, 1965, 1971 | |
ブラバム | 1978, 1980, 1983 | |
2 | フィアット | 1922, 1923 |
ブガッティ | 1926, 1928 | |
マセラティ | 1953, 1956 | |
ヴァンウォール | 1957, 1958 | |
ルノー | 1981, 1982 | |
レッドブル | 2011, 2013 |
太字は2018年のF1世界選手権に参戦中のコンストラクター。
ピンク地はF1世界選手権以外で開催された年。
クリーム地は第二次世界大戦前に行われていたヨーロッパ・ドライバーズ選手権[10]の一戦として開催された年。
ペスカーラGP
年 | 決勝日 | ラウンド | サーキット | 勝者 | 所属チーム | 結果 |
---|---|---|---|---|---|---|
1957 | 8月18日 | 7 | ペスカーラ | スターリング・モス | ヴァンウォール | 詳細 |
サンマリノGP
脚注
^ "F1とハイネケンが大型契約。イタリアGPのサポートも". AUTOSPORTweb(2016年6月10日).
^ “モンツァが3年の契約延長へ”. ESPN F1 (2016年9月2日). 2016年9月3日閲覧。
^ “イタリアGPの来季開催が正式決定へ。モンツァとイモラの訴訟問題が解決”. AUTOSPORTweb (2016年11月9日). 2016年11月9日閲覧。
^ “モンツァ、F1イタリアGPの開催契約を延長”. AUTOSPORTweb (2016年11月29日). 2016年11月29日閲覧。
^ “チケット売上減少でモンツァでのF1開催が危機に。回避策は「FOMが費用を減額すること」とACI会長”. AUTOSPORTweb (2018年8月23日). 2018年8月28日閲覧。
^ 『GPX』 Round 14 Italian GP、山海堂、2000年、3頁。
^ 1961年のオランダGPの予選には17台が参加し、この内予選10位を記録したロータスのマステン・グレゴリーと、予選14位を記録したクーパークライマックスのイアン・バージェスがエントリーから外されての決勝に参加15台全完走記録である(つまりこの両ドライバーはDNS(Did Not Starting:走行せずの意)扱いになる)。したがって2005年のイタリアグランプリの場合は『予選に参加した全車両が揃って完走した』というF1史上初の快挙であった。
^ F1=イタリアGPでハミルトン優勝、小林は17位 - 日本経済新聞、2014年9月10日閲覧
- ^ ab引退時の国籍。
- ^ ab1931年-1932年および1935年-1939年に行われた四輪モータースポーツにおける最高峰の選手権。現在のF1世界選手権の前身にあたる。イタリアグランプリが選手権の一戦として開催されたのは1931-1932年および1935-1938年。
関連項目
- モータースポーツ
- F1選手権レースの一覧
外部リンク
フォーミュラ1公式ウェブサイト(英語のみ)
|