ホクトベガ





















































































ホクトベガ


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欧字表記
Hokuto Vega
品種
サラブレッド
性別

毛色
鹿毛
生誕
1990年3月26日
死没
1997年4月3日(7歳没・旧8歳)
登録日
1992年10月15日
抹消日
1997年4月3日

ナグルスキー

タケノファルコン
母の父
フィリップオブスペイン
生国
日本の旗 日本(北海道浦河町)
生産
酒井牧場
馬主
金森森商事(株)
調教師
中野隆良(美浦)
厩務員
藤井浩
競走成績
生涯成績
42戦16勝
(中央競馬)32戦7勝
(地方競馬)9戦9勝
(日本国外)1戦0勝
獲得賞金
8億8812万6000円
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ホクトベガは日本の競走馬。1993年エリザベス女王杯勝ち馬。1996年JRA賞最優秀ダートホース、NARグランプリ特別表彰馬。


ダート競走において無類の強さを発揮し、牝馬でありながらダートでは並み居る牡馬をことごとく退ける圧倒的な走りを見せたことから、『砂の女王』とも呼ばれる。




目次






  • 1 生涯


    • 1.1 デビューからエリザベス女王杯優勝まで


    • 1.2 幻に終わった障害転向


    • 1.3 転機となった川崎競馬場


    • 1.4 ダート交流重賞を席巻


    • 1.5 ドバイ遠征と死


    • 1.6 ホクトベガメモリアル




  • 2 競走成績


  • 3 エピソード


    • 3.1 ホクトベガの馬体


    • 3.2 ホクトベガとヒシアマゾン




  • 4 血統表


  • 5 脚注


  • 6 外部リンク





生涯


※馬齢は旧表記を用いる。



デビューからエリザベス女王杯優勝まで


1990年3月26日、ホクトベガは父・ナグルスキーと母・タケノファルコンの間に生まれ、1992年に中央競馬美浦トレーニングセンターの中野隆良厩舎へ入厩する。


1993年のデビュー当初は加藤和宏が主戦騎手を務め、1月5日の新馬戦(中山競馬場)に出走すると、2番人気で逃げ切り勝ちを収める。次戦となった同年1月16日の朱竹賞(中山競馬場、4歳500万円以下)では2着に敗れるが、3戦目のカトレア賞(東京競馬場、4歳500万円以下)で2勝目を挙げる。新馬戦から3戦目まではいずれもダート戦である。


ホクトベガが初めて芝コースを走ったのは、4戦目で初の重賞挑戦となったフラワーカップ(GIII)である。デビューからダートコースしか走ってこなかったにも関わらず2番人気に推され、勝利する。その後は牝馬クラシックの桜花賞・優駿牝馬に出走するも、いずれもベガの前に5着、6着に敗れた。同年秋のエリザベス女王杯では、牝馬三冠がかかるベガに対して、ホクトベガはトライアル競走(クイーンステークス、ローズステークス)においてユキノビジン、スターバレリーナに敗れており、9番人気の評価であった。


ここで調教師の中野はある賭けに出る。「(ホクトベガの)春と2つのトライアルを見て、ある程度の勝負付けは済んだと思ったのです[1]。エリザベスでは距離も延長されて2400m、ホクトベガにしてみればギリギリの距離。でも京都の外回りは4コーナーでぽっかりと内側が空く、しかも枠順は幸いにも1枠…ならば、ここは一つ博打を打とうと…[要出典]」という中野のレースプランは、4コーナーまでは中段からやや後ろの馬群の内側で足を溜めて我慢し、内側が空いた瞬間に一気にラストスパートを掛けるというものだった。これはかつて中野が管理していたグリーングラスが同じ京都競馬場で行われた菊花賞を優勝した際の作戦をほぼそのまま踏襲したものだったが、これが見事に決まり、ホクトベガは4コーナーで最内から先頭勢を強襲、そのまま伸びてエリザベス女王杯を制した。実況を担当した関西テレビ放送の馬場鉄志が発した「東(美浦)の一等星、北斗のベガ!ベガはベガでもホクトベガ!!」というフレーズは現在でも語り草となっている。また、ホクトベガを生産した酒井公平は、「『(ホクトベガが)出走するだけで掲示板に載ればいい』と思っていて京都へ行かなかったが、ホクトベガが優勝したことでテレビの前で(ホクトベガに)申し訳ない気持ちになった」と雑誌でコメントしている[要追加記述]



幻に終わった障害転向


晴れてGI馬の仲間入りを果たしたホクトベガは、1993年12月18日のターコイズステークス(中山競馬場)に出走して3着に敗れ、同年の出走を終える。


1994年(5歳時)は札幌日経オープン、札幌記念(いずれも札幌競馬場)と連勝するが、他のレースでは苦戦が続いた。この状態に陣営では、平地GI優勝馬でありながら障害競走への転向も検討され、実際に障害飛越の練習も行われた。ホクトベガは後にダートコースで圧倒的な強さを見せるが、この時に行われた障害飛越の練習による足腰の強化が活躍に繋がったのではないかと考える者もいたという。さらに、2年前にメジロパーマーが史上初の「障害帰りのGI馬」となったこともあり、程度の差こそあるものの調教において障害飛越の練習を採用する厩舎が急増するきっかけにもなった。現在では、平地競走で調子を落とした馬のリズムを取り戻させるために行う手段の一つとも考えられている。


ホクトベガの障害転向は結局、1995年のアメリカジョッキークラブカップ(中山競馬場)でサクラチトセオーの2着に入ったことで立ち消えになったが、ホクトベガはその後も歯がゆいレースが続いた。



転機となった川崎競馬場


転機が訪れたのは、1995年6月13日の川崎競馬場である。同年から中央と地方競馬の交流が盛んに行われるようになったことで、川崎競馬場伝統の牝馬限定重賞・エンプレス杯が当時としては唯一となる牝馬限定の中央・地方全国交流競走として実施されることとなり[2]、ホクトベガが出走することとなった。


水溜りが出来て田んぼのような不良馬場で行われたレースでは一頭だけ別次元のレースを繰り広げ、同年のダイオライト記念優勝馬で南関東最強牝馬と目されたアクアライデン、ケーエフネプチュン、当時7連勝中で地元の期待を集める川崎のマフィン、笠松代表として安藤勝巳を鞍上に送り込んだクラシャトルなどを全て子供扱いにし、2着のアクアライデンに3.6秒差(18馬身差。公式には「大差」)という圧倒的な力を見せつけて勝利、地方競馬関係者に大きな衝撃を与える。あまりの大差勝ちに鞍上の横山典弘はゴール手前100mから勝利のガッツポーズをしたほどで、表彰式後のインタビューでは『力が違い過ぎましたね』と笑顔で応えた。


このエンプレス杯で、川崎競馬の関係者は3度驚いたという。



  1. 当初、ホクトベガとヒシアマゾンという中央競馬のGI馬2頭が出走登録を行い、そのうちホクトベガが本当に出走した。

  2. 川崎競馬場の地形の関係から生じる左の小回りを、ホクトベガは全く苦にしなかった。


  3. ナイター競走(スパーキングナイター)元年で、ホクトベガにとっても当然ながら初のナイター競走となったが、全く苦にしなかった。


ホクトベガの「砂の女王」の伝説は、ここに幕を開けた。



ダート交流重賞を席巻


エンプレス杯を圧勝したホクトベガは、その後函館記念(函館競馬場)、毎日王冠(東京競馬場)、天皇賞(秋)(東京競馬場)と芝コースのレースに出走したものの、いずれも大敗している。この結果を受けて陣営は翌年からの本格的なダートレースへの参戦を決め、手始めにエンプレス杯と条件が同じ川崎記念(1996年1月24日)に出走させた。


このレースは第1回ドバイワールドカップに出走予定の日本が誇るダート最強馬・ライブリマウントの壮行レースと考えられており、レースでも1番人気に推されていた。他の出走馬も「打倒ライブリマウント」を掲げてトーヨーリファール[3]、アマゾンオペラを筆頭に当時の中央・地方の全国ダート戦線のそうそうたる精鋭たちが顔を揃えていた。しかし蓋を開けてみれば3コーナーで先頭に立ったホクトベガは他馬を全く寄せ付けず、2着・ライフアサヒに1秒(5馬身)差をつける圧勝で交流競走2勝目を飾る。ホクトベガから6馬身差の3着に敗れたライブリマウントの陣営はこの結果にショックを受け、ライブリマウントの壮行レースと考えていた周囲にも動揺が広がったという。


大差勝ちではなかったものの、エンプレス杯のパフォーマンスは再現できたと考えた陣営は、その後もダートの中央・地方交流競走に照準を定め、フェブラリーステークス(東京競馬場)、ダイオライト記念(船橋競馬場)、群馬記念(高崎競馬場)に出走しては次々に勝利を重ねていく。5連勝目となった帝王賞(大井競馬場)では、実況を担当した及川暁が「この実況をお聞きの、大井の、そして地方競馬ファンの皆さん、私は何度でも言いましょう。…ホクトベガ、やはりお前は強かった!」と、その強さに脱帽したと言わんばかりの実況を行った。勢いは止まることを知らず、次走のエンプレス杯で連覇を達成すると、秋の初戦となったマイルチャンピオンシップ南部杯(盛岡競馬場)では、場内実況を務めた井上学が「女王様とお呼び![4]」と実況するほどの圧勝劇で7連勝を達成した。陣営は、もしダート戦で敗れたら潔く引退させる方向だったが、レースが始まってみれば3・4コーナーでの一捲りだけで圧勝してしまい、敗れる要素は何も見つからなかった。


出走条件が4歳以上牝馬に変更となったことで3年ぶりに参戦した11月10日のエリザベス女王杯[5](4着)を挟み、浦和記念(浦和競馬場)でも勝利を飾る。2着・キョウトシチーとは3/4馬身差だったが、内容では完勝だった。続いて出走した芝レースの有馬記念は9着だったが、結局1996年はダートで8戦8勝、ダート交流重賞は前年のエンプレス杯からの連勝を9に伸ばすなど凄まじい成績を残し、この年のJRA賞最優秀ダートホースに選出。またJRA所属馬のためにNARグランプリの受賞資格はなかったが、特別表彰という形で表彰を受ける。そして1997年の最初のレースとして川崎記念に出走し、連覇を達成。ダート交流重賞10連勝・通算16勝目を挙げ、グレート制導入以降のJRA所属馬の最多勝利記録を更新した。このレースはホクトベガの国内におけるラストレースとなることが事前に発表されており(後述)、スタンド改築工事中だったために実質30000人程度の収容能力しかなかった川崎競馬場に2倍近いおよそ59000人もの観客が来場。これはロジータの引退レースとなった、1990年の川崎記念を上回る記録的大混雑であった。


このように、ホクトベガが出走する日の競馬場では入場者数もレコードを記録し、さらに勝ち続けたことでファンの期待も裏切らなかった。特に1996年6月19日の帝王賞では、大井競馬場に定員をはるかに上回る77818人が来場。これは大井競馬場の入場者数の昼夜通じての最高記録である[6]


ダートグレード競走導入前夜のため、数字上では重賞4勝・GI1勝[7]にとどまっているが、競走実績や人気を鑑みれば、ホクトベガは紛れもなく1990年代におけるスターホースの一頭である。



ドバイ遠征と死


ホクトベガは、1997年に実施された第2回ドバイワールドカップに招待されて出走する。このレースがホクトベガの引退レースとなり、レース終了後はそのまま渡欧させてヨーロッパの一流種牡馬との交配が計画されていた。


しかし、当初の開催予定日(3月29日)はドバイでは数十年に一度という猛烈なスコールとなり、レースは4月3日に順延となった。レース本番を迎えたホクトベガは、最終コーナーで転倒し、さらに後続のビジューダンド(Bijou d'Inde)が巻き込まれる形で追突。ホクトベガは左前腕節部複雑骨折となり、予後不良と診断されて間もなく安楽死処置を受けた。鞍上の横山典弘は、のちに自らの強引な騎乗がアクシデントを引き起こしたと悔いたという。


だが、この原因がいずれにあるかは別にしても、かなり不運な要素が重なった事故だったとも言われている。それでも日本国内ではしばらくの間、競馬趣味雑誌や競馬予想紙、競馬予想関係のコラムなどにおいてレース映像程度の資料を根拠として、横山に対する批判記事を書き連ねる光景が繰り広げられた[8]。一時期、横山がJRAの機関紙「優駿」以外の競馬雑誌への登場をほとんど行わなくなったのも、これらの競馬雑誌の編集部やライターに対して不信感を抱いた事が原因とも言われている[要出典]


安楽死処分となったホクトベガの遺体は輸送(検疫)の関係上で日本に帰ることができず、故郷の酒井牧場に建立された墓にはホクトベガのたてがみが遺髪として納められた。



ホクトベガメモリアル


ダートコースで圧倒的強さを誇ったホクトベガの功績を称え、エンプレス杯と川崎記念を連覇し、4戦4勝と無敗を誇った川崎競馬場では、1998年より牝馬限定の中央・地方競馬交流重賞のスパーキングレディーカップに「ホクトベガメモリアル」の冠を付けている。また、最期の地となったドバイにおいても、ホクトベガの名を冠した競走が施行された。


ホクトベガを管理した中野は、ホクトベガの強さについて「彼女はモナ・リザ、その強さは永遠の秘密です[9]」と語っている。


生涯獲得賞金は8億8812万6000円。これは2009年にウオッカが更新するまで、牝馬の獲得賞金最高記録であった。



競走成績




























































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































年月日 競馬場 競走名 人気 倍率 着順 距離 タイム (上3F) 騎手 斤量 勝ち馬/(2着馬)
1993
1.
5

中山

4歳新馬

2人
3.7

1着
ダ1200m(良)
1:12.5
(38.5)

加藤和宏
53
(イズミブルー)

1.
16
中山
朱竹賞

1人
1.5
2着
ダ1800m(不)
1:52.4
(39.8)
加藤和宏
53
サイキョウホウザン

2.
20

東京
カトレア賞

1人
1.9

1着
ダ1600m(良)
1:37.8
(37.4)
加藤和宏
53
(サンエイレコード)

3.
20
中山

フラワーC

GIII
2人
2.9

1着
芝1800m(良)
1:49.7
(35.9)
加藤和宏
53
(タイジュリエット)

4.
11

阪神

桜花賞

GI
6人
16.2
5着
芝1600m(良)
1:37.7
(49.6)
加藤和宏
55

ベガ

5.
23
東京

優駿牝馬

GI
5人
10.2
6着
芝2400m(良)
2:28.2
(36.0)
加藤和宏
55
ベガ

10.
3
中山

クイーンS

GIII
2人
3.3
2着
芝2000m(良)
2:02.6
(36.0)
加藤和宏
54

ユキノビジン

10.
24

京都

ローズS

GII
3人
5.5
3着
芝2000m(良)
2:00.7
(34.9)
加藤和宏
55

スターバレリーナ

11.
14
京都

エリザベス女王杯

GI
9人
30.4

1着
芝2400m(良)
2:24.9
(35.3)
加藤和宏
55
(ノースフライト)

12.
10
中山
ターコイズS

2人
3.7
3着
芝1800m(良)
1:49.8
(34.6)
加藤和宏
56
ユキノビジン
1994
1.
15
阪神

平安S

GIII
2人
5.3
10着
ダ1800m(良)
1:54.3
(40.1)
加藤和宏
54

トーヨーリファール

2.
27
中山

中山牝馬S

GIII
2人
3.6
4着
芝1800m(良)
1:48.3
(36.5)
加藤和宏
56

ホッカイセレス

4.
23
東京

京王杯スプリングC

GII
5人
12.1
5着
芝1400m(良)
1:21.4
(34.7)
加藤和宏
56

スキーパラダイス

6.
12

札幌
札幌日経オープン

1人
2.3

1着
芝1800m(良)

R1:47.2
(35.2)
加藤和宏
55
(モガミサルノ)

7.
3
札幌

札幌記念

GIII
1人
2.0

1着
芝2000m(良)
2:00.9
(35.7)
加藤和宏
56
(エーピーグランプリ)

8.
21
札幌

函館記念

GIII
1人
2.9
3着
芝2000m(良)
2:02.1
(36.7)
加藤和宏
55

ワコーチカコ

10.
9
東京

毎日王冠

GII
11人
26.5
9着
芝1800m(良)
1:45.4
(35.3)
加藤和宏
57

ネーハイシーザー

11.
13
東京

富士S

2人
6.6
6着
芝1800m(良)
1:47.6
(34.8)
加藤和宏
55

サクラチトセオー

12.
18
阪神

阪神牝馬特別

GII
6人
16.3
5着
芝2000m(良)
2:01.2
(37.0)
加藤和宏
57
メモリージャスパー
1995
1.
22
中山

AJCC

GII
6人
57.1
2着
芝2200m(良)
2:14.5
(34.6)
加藤和宏
56
サクラチトセオー

2.
26
中山
中山牝馬S

GIII
1人
3.2
2着
芝1800m(稍)
1:49.5
(34.9)
加藤和宏
57.5
アルファキュート

3.
12
中山

中山記念

GII
2人
10.3
8着
芝1800m(稍)
1:50.8
(34.9)
加藤和宏
56

フジヤマケンザン

4.
22
東京
京王杯スプリングC

GII
11人
25.6
3着
芝1400m(良)
1:21.5
(35.4)

横山典弘
57
ドゥマーニ

5.
14
東京

安田記念

GI
3人
10.1
5着
芝1600m(良)
1:33.5
(34.7)
横山典弘
55

ハートレイク

6.
13

川崎

エンプレス杯

G1
1人


1着
ダ2000m(不)
2:06.5

横山典弘
55
(アクアライデン)

8.
20

函館
函館記念

GIII
5人
8.5
11着
芝2000m(重)
2:03.5
(38.0)

的場均
56

インターマイウェイ

10.
8
東京
毎日王冠

GII
8人
21.6
7着
芝1800m(重)
1:49.2
(35.2)

大塚栄三郎
57

スガノオージ

10.
29
東京

天皇賞(秋)

GI
15人
77.0
16着
芝2000m(良)
2:00.2
(36.9)
横山典弘
56
サクラチトセオー

11.
19

新潟

福島記念

GIII
8人
13.7
2着
芝2000m(良)
2:01.9
(35.4)

中舘英二
56

マイネルブリッジ

12.
17
阪神
阪神牝馬特別

GII
5人
12.8
5着
芝2000m(良)
2:00.8
(35.6)
中舘英二
57

サマニベッピン
1996
1.
24
川崎

川崎記念

G1
2人


1着
ダ2000m(良)
2:07.5

横山典弘
53
(ライフアサヒ)

2.
17
東京

フェブラリーS

GII
3人
4.6

1着
ダ1600m(良)
1:36.5
(37.0)
横山典弘
57
(アイオーユー)

3.
20

船橋

ダイオライト記念

G1
1人


1着
ダ2400m(良)
2:31.3

横山典弘
53
(スペクタクル)

5.
5

高崎

群馬記念

1人


1着
ダ1500m(不)

R1:33.6

横山典弘
53
(ヒカリルーファス)

6.
19

大井

帝王賞

G1
1人


1着
ダ2000m(良)
2:04.2

横山典弘
53
(アイオーユー)

7.
15
川崎
エンプレス杯

G2
1人


1着
ダ2000m(良)
2:06.7

横山典弘
56
(スピードアイリス)

10.
10

盛岡

マイルCS南部杯

1人


1着
ダ1600m(良)
1:38.3

的場均
54
(ヘイセイシルバー)

11.
10
京都
エリザベス女王杯

GI
4人
8.5
4着
芝2200m(良)
2:14.4
(33.7)
的場均
56

ダンスパートナー

12.
4

浦和

浦和記念

G1
1人


1着
ダ2000m(良)
2:05.5

横山典弘
53
(キョウトシチー)

12.
22
中山

有馬記念

GI
9人
31.3
9着
芝2500m(良)
2:36.0
(38.5)

藤田伸二
54

サクラローレル
1997
2.
5
川崎
川崎記念

G1
1人


1着
ダ2000m(稍)
2:06.7

横山典弘
53
(キョウトシチー)

4.
3

UAE

ドバイワールドC




ダ2000m(良)
中止

横山典弘
55.5

Singspiel

※1 南関東競馬主催の重賞競走の格付けは、全て南関東グレードである。
※2 タイム欄のRはレコード勝ちを示す。



エピソード



ホクトベガの馬体


ホクトベガは牝馬ながら500キログラム近い雄大な馬体の持ち主であった。また、逞しく力強いが同時に牝馬らしい丸さに欠けるという見方も多かった。事実、その馬体は牡馬が周回するパドックに入った所で何ら見劣りするものではなく、むしろ他の牡馬たちを凌駕さえする見栄えの良さであった。


蹄と球節は、カナダ産馬である父ナグルスキーの特徴をそのまま受け継いだ様に全体的に深い形をしていた。特に蹄は他の馬より倍近く深く、丁度お碗を逆さにした様な形で、藤井厩務員曰く「他の馬と違って、産まれつきスパイクを穿いている感じだった」と語っている。


調教師の中野はホクトベガの馬体を見て「牝馬には繁殖に向いた馬と競走に向いた馬があるが、ホクトベガの馬体は明らかに競走型である」として、ベガやユキノビジンなど同世代のクラシック路線を競った牝馬たちが次々に引退し、繁殖生活に入るのを横目に競走生活を続行させたが、果たして6歳になってからダート路線で大活躍した。



ホクトベガとヒシアマゾン


同じ中野厩舎所属の1世代後輩ヒシアマゾン(誕生日も同じ3月26日生まれ)と合わせて語られることも多く、「ホクトベガとヒシアマゾン、2頭がレースしたらどちらが勝ったと思いますか」という質問に対し、中野と藤井は「芝でレースをしたら、(ホクト)ベガは(ヒシ)アマゾンに100回挑戦しても勝てないでしょう。でもダートですとアマゾンが100回挑戦してもベガには勝てなかったでしょう」と異口同音に語っている。


この2頭は1996年のエリザベス女王杯と有馬記念(どちらも芝のレース)で対戦しており、ヒシアマゾンが2度とも先に入線している。ただしエリザベス女王杯においてヒシアマゾンは2位入線から降着となっており、確定後の着順としてはホクトベガが上位となる。



血統表









































































ホクトベガの血統(ニジンスキー系/アウトブリード)
(血統表の出典)[§ 1]
父系
ニジンスキー系

[§ 2]



*ナグルスキー
Nagurski カナダ
1981 鹿毛

父の父

Nijinsky
1967 鹿毛

Northern Dancer

Nearctic

Natalma

Flaming Page

Bull Page
Flaring Top

父の母
Deceit
1968 黒鹿毛

Prince John

Princequillo
Not Afraid
Double Agent

Double Jay
Conniver



タケノファルコン
1982 黒鹿毛

母の父
*フィリップオブスペイン
Philip of Spain
1969 黒鹿毛

Tudor Melody

Tudor Minstrel
Matelda
Lerida
*マタドア
Zepherin

母の母
クールフェアー
1978 栗毛
*イエローゴッド
Yellow God

Red God
Sllay Deans
*シャークスキン
*シルバーシャーク
Artrevida F-No.9-c

母系(F-No.)

9号族(FN:9-c)
[§ 3]
5代内の近親交配
なし
[§ 4]
出典


  1. ^ JBIS ホクトベガ5代血統表2016年7月14日閲覧。


  2. ^ netkeiba.com ホクトベガ5代血統表2016年7月14日閲覧。


  3. ^ JBIS ホクトベガ5代血統表2016年7月14日閲覧。


  4. ^ JBIS ホクトベガ5代血統表2016年7月14日閲覧。





脚注





  1. ^ ホクトベガは、牝馬三冠を狙うベガを含めた有力馬には現状で敵わないという意。


  2. ^ 当時のエンプレス杯は夏に行われていた。2003年よりエンプレス杯は春に移動し、この時期には中央・地方交流の牝馬限定重賞の関東オークスが実施されている。


  3. ^ 1994年の第1回平安ステークス勝ち馬。このレースにはホクトベガも出走したが、10着と大敗。競走中止となったドバイワールドカップを除き、生涯で唯一、ダート競走で連対を外している。


  4. ^ この発言はレース後に局内で問題となり、井上はアナウンサーから外され、その後ディレクター職を経て現在は記者となっている。


  5. ^ この年は2200mで施行された。


  6. ^ 施設に定員以上の人員を入場させることは消防法施行規則違反に当たるため、レース後に消防当局から厳重注意処分を受けた競馬場もあった。


  7. ^ 勝利した競走のうち、ダート競走格付け委員会によってフェブラリーステークスはGIに、川崎記念・帝王賞・マイルチャンピオンシップ南部杯はJpnIに、エンプレス杯・ダイオライト記念・浦和記念はJpnIIに格付けされており、現在の基準で言えば重賞12勝・GI6勝である。また、群馬記念は廃止されるまではGIIIの格付けであった。


  8. ^ 折しも当時は、1990年代前半の競馬ブーム「ダビスタブーム」を背景に乱立した競馬雑誌がブームの減速に伴って過当競争に陥っていた上、この種の雑誌に記事を執筆していたライターも乱立の末の一種の過剰供給状態にあり、このような目を惹く記事が多数執筆されている状況があった。[要出典]


  9. ^ 松永郁子『名馬は劇的に生きる』(講談社、2000年)p.83




外部リンク





  • 競走馬成績と情報 netkeiba、Yahoo!スポーツ競馬、JBISサーチ、Racing Post


  • ホクトベガ - 競走馬のふるさと案内所












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