皇太子
皇太子(こうたいし、英: Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子[1]。
一般的には君主国において、日本の皇室における天皇位ならびに海外の王室における君主位(国王など)の法定推定相続人の敬称として使われる。法定推定相続人である女子にも用いられる(英: Crown Princess)。
目次
1 概要
2 法的推定相続人
3 日本の皇太子
3.1 2018年5月現在の皇太子
3.2 日本の皇太子の公務・活動
3.3 日本の皇太子の歴史
3.4 立太子の礼
3.5 皇太弟・皇太甥
3.6 日本の歴代皇太子
4 東アジア諸国の皇太子・王太子
5 ヨーロッパ大陸諸国の王太子・皇太子
5.1 近年の王太女たち
6 サウジアラビアの皇太子
7 現在の世界の皇太子・王太子一覧
8 注釈
9 脚注
10 参照文献
10.1 文献資料
10.2 報道資料
11 関連項目
12 外部リンク
概要
字義としては、「皇太子」とは、「次期皇位継承者の第一順位にあたる、皇帝の男子」のことである。
王位継承の第一順位の王子については、王太子(おうたいし)または王世子(おうせいし)のように言うこともある。「○太子」の言葉自体がいずれ「○」の地位を継ぐ「(男の)子」を意味するため[2]、君主の地位が王である場合には王太子の名称を用いるのが正確といえる。また、君主の地位が大公・公・侯である場合、太子ではなく世子を用いる。[要出典]
しかし現在の日本のマスメディアによる報道などでは、対象が次期国王や次期大公であっても「王太子」・「大公世子」の語は用いられず、「皇太子」を用いるのが通常である。[要出典]
ただし歴史上の人物については、慣例に従って「王太子」の語も用いられる。また次期皇(王)位継承者が弟、孫であるなら、「皇(王)太弟」「皇(王)太孫」の名称を用いるべきともいえるが、実際にはひっくるめて「皇太子」の名称が用いられている。なお、西欧の言語においては、「皇帝か国王か」「子か孫か弟か」に応じた称号の使い分けは見られず、例えば英: Crown Princeの語が用いられる。[要出典]
一方で西欧の言語では、性別によって称号が異なることが多く、女性の次期君主位継承者の称号は、例えば英: Crown Princessの語が用いられる。漢字文化圏では皇太女/王太女と表記されることがある[2]。実例としても、唐の安楽公主について「皇太女」に立てようという動きがあった、と『資治通鑑』等に記されている。
日本の皇室においては、性別における称号の使い分けが行われず、日本で唯一の女性皇位継承者となった即位前の孝謙天皇(重祚後は称徳天皇、第46・48代天皇)について、『続日本紀』は「皇太子」と記している[3]。2005年(平成17年)の小泉純一郎首相政権下での「皇室典範に関する有識者会議」報告書においても、「天皇、皇太子、皇太孫という名称は、特に男子を意味するものではなく、歴史的にも、女子が、天皇や皇太子となった事実が認められるため、女子の場合も同一の名称を用いることが適当である」とされた[4]。
法的推定相続人
法定推定相続人(ほうていすいていそうぞくにん)は、君主位や爵位の継承において将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がない継承権第一位の人物をいう。典型的な例として、長男相続制および男子優先長子相続制における長男や、長子相続制における第一子がある。
継承権第一位が確定しているという点では皇太子(王太子)と共通するが法定推定相続人という単語は称号ではなく系図学的な用語であるため、本人への呼びかけなどとしては用いられない。
推定相続人(すいていそうぞくにん)は、君主位や爵位の継承において、現在は継承権第1位であるが将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がある人物をいう。典型的な例として、長子相続制における子のいない君主の弟・妹や、男子優先長子相続制における息子がいない君主の長女がある。
日本の皇太子
皇室典範第8条
皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。
2018年5月現在の皇太子
諱 | 読み | 生年 | 御称号 | 立太子 | 在位期間 | 続柄 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
徳仁親王 | なるひと | 1960年(昭和35年)2月23日(58歳) | ひろのみや 浩宮 | 1991年(平成3年)2月23日 | 7001270000000000000♠27年304日 | 第125代今上天皇 第一皇男子 |
1889年(明治22年)、皇室の家内法として(旧)皇室典範が定められ、皇位継承順序が明文化された。この旧皇室典範15条では、「儲嗣タル皇子」を「皇太子」としていた。
1947年(昭和22年)に法律として定められた現行の皇室典範8条前段では、「皇嗣たる皇子」が「皇太子」とされている。「儲嗣(ちょし)」もしくは「皇嗣(こうし)」は、いずれも皇位継承順第一位の者を指し、「皇子」とはこの場合、当代天皇の子で男子を指す。
また、皇位継承順序の変更は、「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキ」(旧典範9条)、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」(現典範3条)のみに皇室会議の議(旧典範下では皇族会議の議および枢密顧問への諮詢)により許されている。
成年の皇太子は、摂政就任順の第1位でもあり、1921年(大正10年)11月以降、1926年(大正15年)の大正天皇崩御まで当時の皇太子裕仁親王が摂政に就任した例がある。(詳細は、摂政の項を参照)
「皇太孫」は皇太子不在の際の「儲嗣タル皇孫」(旧典範15条)、「皇嗣たる皇孫」(現典範8条後段)を言う。「儲嗣」もしくは「皇嗣」は、いずれも皇位継承順第1位を指し、「皇孫」とはこの場合、在位中の天皇の孫を指す。
皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費には内廷費が充てられる(皇室経済法第4条)。法律により定額が定められ、平成28年度は3億2,400万円である[5]。
皇太子に関する事務には宮内庁の内部部局の東宮職が置かれる(宮内庁法第六条)。東宮職は一般事務だけでなく皇太子、皇太子妃、さらにはその独立の生計を営んでいない未婚の子女の家政をおこなっている。職員は約50名ほど。料理人や運転手などの管理部の職員もあわせると60数名。[6]
皇太子・皇太子妃は、天皇・皇后と同じく原則的には団体の名誉総裁には着任しない。
なお、皇太子と皇太孫は皇族の身分を離れることができない。
日本の皇太子の公務・活動
儀式・行事[7]- 歳旦祭の儀
- 新年祝賀の儀
- 新年一般参賀
- 元始祭の儀
- 昭和天皇祭皇霊殿の儀
- 昭和天皇祭御神楽の儀
- 講書始の儀
- 歌会始の儀
孝明天皇例祭の儀- 祈年祭の儀
春季皇霊祭の儀- 神殿祭の儀
神武天皇祭皇霊殿の儀
皇霊殿御神楽の儀
秋季皇霊祭の儀・秋季神殿祭の儀- 新嘗祭神嘉殿の儀
- 天長祭の儀
大正天皇例祭の儀
- 臨席(開会式・研究センター・サミット)
- 献血運動推進全国大会(日本赤十字社、厚生労働省主催)
- 全国高等学校総合体育大会
- 国民文化祭
- 全国育樹祭
- 全国障害者スポーツ大会
- 「みどりの愛護」のつどい(国土交通省主催)
- 全国農業担い手サミット
- 世界水フォーラム
- 水と災害に関する特別会合
- 水と衛生に関する諮問委員会
- 青少年読書感想文全国コンクール表彰式及び同パーティー(全国学校図書館協議会、毎日新聞社主催)
- 賢所御神楽の儀
国賓・公賓等外国からの賓客の訪日の歓迎行事・宮中午餐・宮中晩餐等- 会釈(勤労奉仕団・人事異動者)
- 園遊会
- 接見
- 事務総長
- 外国へ赴任する日本大使夫妻
- 離任の駐日大使夫妻始め内外の要人
- 外国から来日中の研修団
- 国内の青少年の代表団
- 受賞者
- ご覧・鑑賞(記念展・演奏会・美術館)
- 聴取・午餐・晩餐・茶会・昼食(総務大臣・各国首脳夫妻・国務大臣・知事・等)
- 講義(大学授業)
- 外国訪問(国際親善・結婚式・即位式・戴冠式・葬儀等)
- 視察・行啓(地方事情・企業・博物館・研究所)
- 国事行為臨時代行
- 進講
- 研究活動
日本の皇太子の歴史
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皇太子は、東宮、春宮、または太子と表記され、「とうぐう」「ひつぎのみこ」「はるのみや」などと読まれた。なお、「東宮」の原義は皇太子の住まう宮殿のことであり、居所を呼ぶことで婉曲的に皇太子その人を指したものである。
朝廷では、皇位を継承すべき皇子や、継承資格を有する皇子に大兄(おおえ)とつけて「大兄皇子」と敬称した。もっとも、大兄皇子と皇太子は必ずしも同義ではない。大兄皇子と敬称されたとしても、絶対的にその地位を保証するものではなく、同時に複数名存在することもあった。
「皇太子」あるいは「太子」という語がいつ成立したのかについては議論がある。例えば、『隋書』倭国伝に「太子」(誰に比定するかは諸説ある)の記述が登場するため推古天皇の時代には「太子」の称号はあったとする説がある。その一方で、飛鳥浄御原令や大宝令によって皇室の諸呼称が定まった時期に初めて制度として確立されたものであるとする説もある[8]。発掘調査では、2014年2月に奈良文化財研究所(奈文研)が実施した平城宮跡東側の発掘調査で、「二人皇」と「太子」の文字が書かれた木簡の削り屑が全国で初めて発見された。木目の状態などから元は同じ木簡に書かれ、本来は「皇太子」と書かれていたとみられる。また、同じく発見された他の木簡には「養老7(723)年」「神亀元(724)年」と読める文字もあったことから、この「皇太子」は首皇子(後の聖武天皇)を指すとみられる。調査した史料研究室長の渡辺晃宏は「『二人』は首皇子の警護の人数を示していると考えられる。」としている[9][10]。
皇太子は、必ずしも在位中の天皇の長男を指すとは限らない。大化以前において天皇は一定の年齢に達していることが必須であり、天皇の子がすぐ跡を継ぐ例はむしろ少なかった。子への継承が通例となって以降も、長幼の序を重んじつつ、本人の能力や外戚、治天の君、武家政権などの実力者の意志などが作用して決定され、長男であれば必ず皇太子になれるとは限らなかった。
また、南北朝時代から江戸時代中期にかけては、次期皇位継承者が決定されている場合であっても、「皇太子」にならないこともあった。これは、当時の皇室の財政難などにより、立太子礼が行えなかったためである。通例であれば、次期皇位承継者が決定されると同時に、もしくは日を改めて速やかに立太子礼が開かれ、次期皇位継承者は皇太子になる。しかし、立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君」(ちょくん、もうけのきみ)と呼ばれた。
南北朝時代において、南朝では最後まで曲がりなりにも立太子礼が行われてきたとされている。これに対して、北朝においては、後光厳天皇から南北朝合一を遂げた遙か後の霊元天皇に至るまで、300年以上に亘って立太子を経ない儲君が皇位に就いている。立太子礼が復活した後も、儲君治定から立太子礼まで1年から数年の期間があり、江戸時代では実質儲君治定が次期皇位承継者の決定であった。
一方、皇太子となっても、諸般の事情により皇位に就くことができなかった例もある。これには、即位以前に薨御された例(菟道稚郎子皇子・聖徳太子・草壁皇子(岡宮御宇天皇)など)、自ら辞退した例(敦明親王(小一条院))、皇太子位を廃されて廃太子となった例(他戸親王・早良親王(崇道天皇)など)がある。特殊な例として、大海人皇子は、皇太子位を辞退して出家した後、壬申の乱を経て天武天皇として即位した。
皇太子には、ほとんどの場合において父が(当今に限らず)天皇である親王(皇子)が就いているが、例外が10例あり、そのうちの8例までが天皇の孫である(仲哀天皇・仁賢天皇・文武天皇(但し母がのちの元明天皇)・淳仁天皇・光仁天皇と、道祖王・康仁親王の廃太子、及び即位前に夭折した慶頼王)。3世以下の王が立太子した例はない。女性が皇太子となったのは過去に内親王が1例あるのみである(奈良時代の女帝・孝謙天皇)。初代神武天皇も立太子を経て即位したと伝えられる。
立太子の礼
皇室典範制定以前と異なり、立太子の礼自体は皇太子の地位の要件ではない。立太子の礼は、天皇における即位の礼と同様、内外に地位を宣明するための儀式である。かつては、幼少の儲君の立太子の礼も行われた。これに対して、現皇室典範制定後は、皇太子の成年を待って立太子の礼を行う。皇太子、皇太孫の成年は18歳とされている(旧典範13条、現典範22条)。
旧皇室典範の下では、立太子の礼は2回行われた。
明宮嘉仁親王:1889年(明治22年)11月3日
迪宮裕仁親王:1916年(大正5年)11月3日
現皇室典範の施行後は、立太子の礼は2回行われている。
継宮明仁親王:1952年(昭和27年)11月10日
浩宮徳仁親王:1991年(平成3年)2月23日
皇太弟・皇太甥
当今の弟が次期皇位継承者である場合には、皇太弟(こうたいてい)、また当今の甥である場合は皇太甥(こうたいせい)と呼ばれる場合がある。院政期においては皇太子の称号は父権の存在を意味した。今鏡には、崇徳天皇が鳥羽上皇に譲位を要請されたが、弟躰仁親王(近衛天皇)の立太子の際、皇太子ではなく「皇太弟」とされたために崇徳天皇は近衛天皇に対する父権を行使できず、院政を行うことができなかったと言う記述がある[11]。
江戸時代までは、次期皇位継承者が確定した時点等において立太子の礼を行い、その方に皇太子の身分を授けることが通例であり、称号については、今上天皇の子である場合だけでなく、兄弟やその他の親族である場合も、「皇太子」と称されることが大半であった。なお、弟宮が次期皇位継承者とされた例は18例あるが、このうち天皇によって称号が「皇太弟」と定められたことが明らかな例は3例のみである[12]。
現在、皇室典範・皇室経済法には皇太弟や皇太甥などに関する記載はない[注釈 1]。仮に皇位継承順第1位の者が在位中の天皇の弟または甥の場合、東宮職員、今まで皇太子の行ってきた公務の引き継ぎ、内廷皇族と宮家皇族で相当に差のでる内廷費・宮廷費などの諸費用をどうするのかという問題が存在する[6]。
今上天皇の退位に関する特例法では、「皇太弟」として想定される秋篠宮文仁親王を皇室典範の規定による「皇嗣」として、皇太子と同等に扱い、東宮職に代わって皇嗣職を置くことが規定されている。
日本の歴代皇太子
[13]
皇太子 | 読み | 天皇から 見た続柄 | 立太子 | 備考 |
---|---|---|---|---|
菟道稚郎子 | うじのわき いらつこ | 子 | 辞退 自殺 | |
木梨軽皇子 | きなしの かる | 子 | 允恭23年 | 自殺 |
厩戸皇子 | うまやど | 甥 | 593 | 逝去 |
草壁皇子 | くさかべ | 子 | 681.2.25 | 早世 |
軽皇子 | かる | 孫 | 697.2.16 | |
首皇子 | おびと | 甥 | 714.6.25 | |
基親王 | もとい | 子 | 727 | 夭逝 |
阿倍内親王 | あべ | 子 | 738.1.13 | |
道祖王 | ふなど | 従叔祖父[14] | 756.5.2 | 廃太子 |
大炊王 | おおい | 従叔祖父 | 757.4.4 | |
白壁王 | しらかべ | 再従伯祖父[15] | 770.8.4 | [16] |
他戸親王 | おさべ | 子 | 771.1.23 | 廃太子 |
山部親王 | やまべ | 子 | 773.1.2 | |
早良親王 | さわら | 弟 | 781.4.15 | 廃太子 |
安殿親王 | あて | 子 | 785.11.25 | |
神野親王 | かみの | 弟 | 806.5.19 | |
高丘親王 | たかおか | 甥 | 809.4.1 | 廃太子 |
大伴親王 | おおとも | 弟 | 810.9.13 | |
正良親王 | まさら | 甥 | 823.4.18 | |
恒貞親王 | つねさだ | 従弟 | 833.2.28 | 廃太子 |
道康親王 | みちやす | 子 | 842.8.4 | |
惟仁親王 | これひと | 子 | 850.11.25 | |
貞明親王 | さだあきら | 子 | 869.2.1 | |
定省親王 | さだみ | 子 | 887.8.26 | |
敦仁親王 | あつぎみ | 子 | 893.4.2 | |
保明親王 | やすあきら | 子 | 904.2.10 | 早世 |
慶頼王 | よしより | 孫 | 923.4.29 | 早世 |
寛明親王 | ゆたあきら | 子 | 925.10.21 | |
成明親王 | なりあき | 弟 | 944.4.22 | |
憲平親王 | のりひら | 子 | 950.7.23 | |
守平親王 | もりひら | 弟 | 967.9.1 | |
師貞親王 | もろさだ | 甥 | 969.8.13 | |
懐仁親王 | やすひと | 従弟 | 984.8.27 | |
居貞親王 | おきさだ | 従兄 | 986.7.16 | |
敦成親王 | あつひら | 従甥 | 1011.6.13 | |
敦明親王 | あつあきら | はとこ | 1016.1.29 | 辞退 |
敦良親王 | あつよし | 弟 | 1017.8.9 | |
親仁親王 | ちかひと | 子 | 1037.8.17 | |
尊仁親王 | たかひと | 弟 | 1045.1.16 | |
貞仁親王 | さだひと | 子 | 1069.4.28 | |
実仁親王 | さねひと | 弟 | 1072.12.8 | 早世 |
善仁親王 | たるひと | 子 | 1086.11.26 | |
宗仁親王 | むねひと | 子 | 1103.8.17 | |
顕仁親王 | あきひと | 子 | 1123.1.28 | |
体仁親王 | なりひと | 弟 | 1139.8.17 | |
守仁親王 | もりひと | 子 | 1155.9.23 | |
憲仁親王 | のりひと | 叔父 | 1166.10.10 | |
言仁親王 | ときひと | 子 | 1178.12.15 | |
尊成親王 | たかなり | 子 | 1183.8.20 | |
守成親王 | もりなり | 弟 | 1200.4.15 | |
懐成親王 | かねなり | 子 | 1218.11.26 | |
秀仁親王 | みつひと | 子 | 1231.10.28 | |
久仁親王 | ひさひと | 子 | 1243.8.10 | |
恒仁親王 | つねひと | 弟 | 1258.8.7 | |
世仁親王 | よひと | 子 | 1268.8.25 | |
熙仁親王 | ひろひと | 従兄 | 1277.11.5 | |
胤仁親王 | たねひと | 子 | 1289.4.25 | |
邦治親王 | くにはる | はとこ | 1298.8.10 | |
富仁親王 | とみひと | はとこ | 1301.8.24 | |
尊治親王 | たかはる | はとこ | 1308.9.19 | |
邦良親王 | くになが | 甥 | 1318.3.9 | 早世 |
量仁親王 | かずひと | 再従甥[17] | 1326.7.24 | |
康仁親王 | やすひと | 三従甥[18] | 1331.11.8 | 廃太子 |
恒良親王 | つねなが | 子 | 1334.1.23 | 横死 |
成良親王 | なりなが | みいとこ | 1336.11.14 | 廃太子 |
益仁親王 | ますひと | 甥 | 1338.8.13 | |
義良親王 | のりよし | 子 | 1339 | |
直仁親王 | なおひと | 弟 | 1348.10.27 | 廃太子 |
熙成親王 | ひろなり | 弟 | 1368 | |
泰成親王 | やすなり | 弟 | 廃太子[19] | |
高仁親王 | たかひと | 子 | 早世 | |
朝仁親王 | あさひと | 子 | 1683.2.9 | |
慶仁親王 | やすひと | 子 | 1708.2.26 | |
昭仁親王 | てるひと | 子 | 1728.6.11 | |
遐仁親王 | とおひと | 子 | 1747.3.16 | |
英仁親王 | ひでひと | 甥 | 1768.2.19 | |
温仁親王 | ますひと | 子 | 夭逝 | |
恵仁親王 | あやひと | 子 | 1809.3.24 | |
統仁親王 | おさひと | 子 | 1840.3.14 | |
嘉仁親王 | よしひと | 子 | 1889.11.3 | |
裕仁親王 | ひろひと | 子 | 1912.7.30 | |
明仁親王 | あきひと | 子 | 1933.12.23 | |
徳仁親王 | なるひと | 子 | 1989.1.7 | 現在 |
東アジア諸国の皇太子・王太子
- 中国
そもそも太子の語は中国に由来するものであり、王や諸侯の後継者が太子と呼ばれた。史上最初に皇帝を名乗ったのは秦の始皇帝であり、始皇帝の時代には皇子の扶蘇が太子として立てられていたので、史上最初の皇太子(皇帝の太子という意味での)は扶蘇であるということになる。もっとも、始皇帝の没後に趙高らの陰謀で排除されたため、扶蘇は即位していない。
特定の皇子を立太子することにより、皇帝が太子以外を寵愛して後継者争いが起こる[20]、皇太子以外が功績抜群であるため派閥抗争が起こる[21]、皇太子が地位に安住して佞臣を近付け修養を怠る、などの弊害がときにみられた。とはいえ、皇帝が絶大な権力を持つ中国において、皇太子を指名しないことはますます派閥抗争の激化などの弊害を招くため、皇太子制は継続されてきた。清の雍正帝はこれらの弊害を正すために太子密建の制を導入し、秘密裏に皇太子を指名して皇帝没後に開封することとした。
- 朝鮮
朝鮮半島においては、高麗のモンゴル干渉期から李氏朝鮮後期まで長らく他国の冊封体制下にあったため、太子の称号が使えず、国王の継承者は「王世子」と呼ばれていた。日清戦争の結果、下関条約が結ばれたことにより清の冊封から外れ、国号を大韓帝国と改めた際に「皇太子」を使うようになった(国王も大韓帝国皇帝となった)。
しかし韓国併合により朝鮮は日本の領土となり、旧皇帝家は日本の王族となり、旧皇太子は王世子となった(前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為シ皇太子及将来ノ世嗣、太皇帝及各其儷匹ノ称呼ヲ定メ並ニ礼遇ノ件)。
- 琉球
琉球王国においては、王世子は中城間切を領地としたので中城王子と称した[22]。
ヨーロッパ大陸諸国の王太子・皇太子
日本語の「(男性の)皇太子」にあたる語は、英語ではCrown Prince、ドイツ語ではKronprinz、スペイン語ではPríncipeである。女性形はそれぞれcrown princess、Kronprinzessin、Príncesaで、これは皇太子の妻にも用いられる。また、君主号が皇帝(emperor)か王(king)かに関らず用いられる。実際にドイツ帝国などで称号として用いられていた。
ローマ帝国においては、皇帝は建前上世襲ではなく、「元老院、ローマ市民の代表者」とされていたため、皇太子にあたる地位はなかった。神聖ローマ帝国においても、もとは選挙王制であり、建前上必ずしも世襲ではなかった。ただし、ハプスブルク家が帝位を独占した後には、次期皇帝としての「ローマ人の王(Rex Romanorum)」の称号を自家の後継者に与えることで、帝位の事実上の世襲を維持した。これとは異なる称号であるが、フランス第一帝政のナポレオン1世も後継者ナポレオン2世を「ローマの王」に任命している。フランス帝政の影響で神聖ローマ帝国が解体し、ハプスブルク家領に世襲制のオーストリア帝国が成立すると、皇帝の後継者たる男子が公的に皇太子(Kronprinz)となった。サラエボ事件で知られるオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公は、事実上の皇太子であったが、傍系であることや貴賤結婚によりその子孫には皇位継承権が許されなかったなどの事情から、皇太子とはあまり呼ばれず、皇位継承者(Thronfolger)と呼ばれた。ロシア帝国では、皇太子に対して「皇帝(ツァーリ)の息子」という意味の語である「ツァレーヴィチ(царевич)」「ツェサレーヴィチ(цесаревич)」という呼称が用いられた。
イギリスでは、王太子にプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)の称号が与えられた[23]。元々はウェールズの君主の称号であるが、1301年、エドワード1世がウェールズ人の反乱を抑えるために王太子にこの称号を与え、以降王太子の称号となった。フランス王国では王太子に「ドーファン(dauphin)」の称号が与えられた。元々はフランス南東部のドーフィネ(Dauphiné)地方の領主の称号であったが、1349年に同地方を王太子領として以降、王太子の称号となった。
この他、以下のヨーロッパの王太子/女(王の法定推定相続人)は、貴族としての特定の儀礼称号が与えられる。
- オランダ - オラニエ公(Prins/Prinses van Oranje)
- ベルギー - ブラバント公(Duc/Duchesse de Brabant)
- スペイン - アストゥリアス公(Príncipe/Príncesa de Asturias)(推定相続人にも与えられる)
これらの国々に、王太子/女 (Crown Prince/Princess) という称号はないため、しばしば同一視される。日本では、王太子/女ではなく皇太子と表記・報道され、現プリンス・オブ・ウェールズも「チャールズ皇太子」と呼ばれることが多い。
スカンディナヴィア諸王国(スウェーデン・ノルウェー・デンマーク)では、特定の儀礼称号は用いられず、王太子/女(Crown Prince/Princess)にあたる語がそのまま呼称として用いられる。現在のノルウェーの王太子ホーコンはH.K.H. Kronprins Haakonと呼ばれ、これは英語に訳すとHRH Crown Prince Haakonとなる。
なお、日本のメディアでは、欧州王室の女性王位継承者の身位について、「皇太王女」として表記したことがある[24]が、近年では単に皇太子と表記されることもある[25]。
近年の王太女たち
1980年のスウェーデンを初めとして近年のヨーロッパ諸国では、後継者問題や女性の地位向上などに伴い、継承順位を男女に係らず長子優先と転換する国が多く現れたため、これに伴い王太女(王位継承者である王女)も増加した。2015年現在、
- スウェーデン - ヴィクトリア
- ベルギー - エリザベート
- オランダ - カタリナ=アマリア
- スペイン - レオノール
の4名がいる。なお、原語では、王太女と王太子妃は同じ呼称(例:Crown Princess)となるが、王太子(例:Crown Prince)と王太女の夫は同じ呼称は名乗らない。例えば、スウェーデンのヴィクトリア王女の夫ダニエルは、結婚により王子(prins)となったが、王太子と同じ称号であるKronprinsは名乗っていない。
サウジアラビアの皇太子
一夫多妻制により、初代国王のアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードには王位継承権を持つ男子が35人いたため、第2代国王のサウード・ビン・アブドゥルアズィーズから第7代国王のサルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズまでの国王と、第7代国王の治世で最初の次期王位継承者となったムクリン・ビン・アブドゥルアズィーズまでの代々の王位継承者は初代国王の実子の異母・同母兄弟であり、王位継承順は兄から弟へと継がれてきた。しかし日本の外務省は、次期王位継承者が国王の弟であっても「王太弟」ではなく一律で「皇太子」と呼称していた[26]。
また、2015年4月29日、サルマーン国王の勅命により異母弟のムクリンが皇太子から解任され、甥にあたるムハンマド・ビン・ナーイフが次期王位継承者に任命されたが、日本の外務省は同じく「王太甥」ではなく「皇太子」として呼称しており、国王の続柄と関係なく次期王位継承者を一律に「皇太子」と呼称している。
2017年6月21日、サルマーン国王の勅命により甥のナーイフが皇太子から解任され、実子のムハンマド・ビン・サルマーンが皇太子に任命された。これにより後に第2代国王となるサウードが1933年に皇太子に就任して以来84年ぶりに国王の実子が皇太子を務めることなった。
なお、サウジアラビアでは、2014年に王位継承順第2位の者の地位と称号が設けられ、ムクリン、ナーイフ、ムハンマドがその地位を継いで来たが、日本語ではこれを「副皇太子」、英語では「Deputy crown prince」と呼称している。2017年6月21日にムハンマド・ビン・サルマーンが副皇太子から皇太子に昇格したことで、以降は副皇太子が空位となっている。
現在の世界の皇太子・王太子一覧
注釈
^ 昭和天皇践祚後、1933年(昭和8年)の継宮明仁親王誕生までは、弟宮である秩父宮雍仁親王が皇位継承順第1位であったが、皇太子・皇太弟とは称されず、一般の皇族のままだった。
脚注
^ 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年]])952頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)858頁参照。
- ^ ab漢字の「子」は、広義では親から生まれたものを指すが、狭義では親から生まれた男を意味する。一方で「女」は娘を意味する。王の息子を王子、娘を王女と呼ぶのは、この用法である。
^ 『続日本紀』天平10年1月13日条「立阿倍内親王為皇太子」、天平勝宝元年7月2日「皇太子受禅即位於大極殿」等
^ 皇室典範に関する有識者会議報告書 総理大臣官邸公式ウェブサイト
^ 宮内庁 予算
- ^ ab宮内庁が密かに頭を悩ます 浩宮が即位したら、「皇太子」がいなくなる 秋篠宮も愛子さまも悠仁さまも、皇太子にはなれない
^ 皇太子同妃両殿下のご日程
^ 本間満『日本古代皇太子制度の研究』(雄山閣、2014年) ISBN 978-4-639-02294-7 P311-316・322-329
^ 平城京跡の木簡に「皇太子」 全国初出土、即位前の聖武天皇か 奈文研 産経ニュース 2015年7月10日
^ 平城京跡の削りくずに「皇太子」 年輪年代測定で裏付け 朝日新聞デジタル 2017年7月4日
^ 河北騰「<論説>「今鏡」研究の新視点」 (1994年) p112-113
^ 平成29年4月21日 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議 最終報告
^ 『日本史小百科 天皇』児玉幸多編 東京堂出版 1981
^ 祖父の従弟
^ 祖父のはとこ
^ 称徳天皇は立太子前に崩御。
^ はとこの子
^ みいとこの子
^ 南北朝合一により
^ 例えば、三国時代の呉において孫権の長男にして皇太子であった孫登の病死後、新たに立太子された三男孫和と皇太子の地位を狙う四男孫覇の間で起こった二宮の変。
^ 例えば唐の高祖の皇太子は長男の李建成であったが、軍功に優れた次男の李世民と争いになり、結局玄武門の変で李世民によって殺害された。
^ 沖縄大百科事典刊行事務局編集『沖縄大百科事典』(下)、沖縄タイムス社、1983年、9頁参照。
^ 現在のところ、女性がこの儀礼称号を与えられた例はない。
^ 例えばスウェーデンのヴィクトリア王女やオランダのユリアナ王女(のち女王)など。(「国内で高い人気を誇る「スウェーデン王室」」欧州王室改革のモデル」『読売新聞』2000年5月31日東京朝刊6頁、「[追悼抄]3月 ベアトリックス女王の母・ユリアナ前女王」『読売新聞』2004年4月18日東京朝刊30頁。
^ スウェーデン皇太子と夕食 東宮御所で『共同通信』2005年4月7日[リンク切れ]
^ 外務省 スルタン・サウジアラビア王国皇太子薨去に際しての弔意メッセージの発出
参照文献
文献資料
- 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
- 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059
- 沖縄大百科事典刊行事務局編集『沖縄大百科事典』(下)、沖縄タイムス社、1983年。
報道資料
- 『読売新聞』2000年5月31日東京朝刊
- 『読売新聞』2004年4月18日東京朝刊
関連項目
- 皇帝
- 東宮職
立太子 - 立太子の礼
- ホンタイジ (称号)
- プリンス
- 王位継承順位
- 太子密建
- エルププリンツ
外部リンク
- 皇太子殿下御外遊記録 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
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