清浄華院
清浄華院 | |
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大殿 | |
所在地 | 京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町395 |
位置 | 北緯35度1分30.6秒 東経135度46分6.4秒 / 北緯35.025167度 東経135.768444度 / 35.025167; 135.768444座標: 北緯35度1分30.6秒 東経135度46分6.4秒 / 北緯35.025167度 東経135.768444度 / 35.025167; 135.768444 |
山号 | なし |
宗旨 | 浄土宗 |
寺格 | 大本山 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | (伝)貞観2年(860年) |
開山 | (伝)開創開山・慈覚大師円仁 改宗開山・法然 |
開基 | (伝)清和天皇 |
中興 | 村上天皇 |
正式名 | 大本山清浄華院 |
別称 | 浄華院(浄花院)、浄山 |
札所等 | 法然上人二十五霊跡23番 |
文化財 | 絹本著色「阿弥陀三尊像(普悦筆)」(国宝)、紙本著色「泣不動縁起」絵巻(重要文化財) |
法人番号 | 9130005000214 |
清浄華院(しょうじょうけいん)は京都市上京区にある浄土宗の寺院。浄土宗七大本山の一つであり、同宗の京都四箇本山(他に知恩院、知恩寺、金戒光明寺)の一つである。呼称は院号のみで、山号・寺号はない。寺伝によれば平安時代に清和天皇の勅願により円仁が開基したとされる。法然上人二十五霊跡23番である。2012年現在の法主は大正大学名誉教授の真野龍海。
目次
1 沿革
1.1 草創
1.2 歴史
2 寺紋
3 境内
3.1 伽藍
3.2 学寮
4 関連施設
5 歴代法主
6 歴史上の人物の墓
7 その他
8 逸話
9 文化財
9.1 国宝
9.2 重要文化財
9.3 その他
10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
沿革
草創
『清浄華院誌要』によれば、貞観2年(860年)、円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により宮中に建立した仏殿・禁裏内道場として発足し、当初は円(法華)密(密教)浄(浄土)戒(戒律)の四宗兼学の寺院であったという。後白河天皇・後鳥羽天皇・高倉天皇の三天皇に授戒した浄土宗祖・法然がその功績により当院を下賜され、以後浄土宗寺院となったと伝える。このため円仁を開創開山、法然を改宗開山として仰いでいる。ただし、宮中における創建については『日本三代実録』『日本紀略』になく、法然が当院を下賜された旨も法然伝にはみえない[1]。
皇室の帰依篤く当初より現在まで御所の近くに有り続けたため、都以外に伽藍を構えたことがないことから「山号がない」とされている。
歴史
清浄華院の存在が史料によって裏付けられるのは鎌倉時代以降であり、鎌倉時代末期の向阿証賢(是心とも、1265年 - 1336年)が事実上の開基である[2]。向阿は乾元2年(1302年)兄弟子・専空より三条坊門高倉(現・中京区御池高倉御所八幡付近)の専修院(専修念仏院)を伽藍や本尊ごと譲り受け、のちに「浄華院」と改称したことが同年3月15日付けの文書から確認できる[3][4]。近世以前の史料中では「浄華院」あるいは「浄花院」と記述されることが多く、これが本来の院名だったと推定される[5]。
少なくとも元弘3年(1333年)頃には浄華院という名称を用いるようになっているが、この浄華院が寺伝通り法然が賜った禁裏内道場の後身であるのか、向阿が自身が創建したものなのかは議論が分かれている。
向阿は初め三井寺にて出家したが名声を厭い礼阿然空の下で浄土門に帰し、仮名法語『三部仮名抄』を著すなどして布教に励み、師の然空とともに鎮西派の京都再定着に大いに貢献した人物である。亀山天皇皇子・恒明親王や三条実重など貴顕の帰依を集めた向阿の活躍により、清浄華院は丹波国や越前国西谷庄などの所領を持っていたことが分かっている。また伽藍も京都の中心地に構えられていることから、当時よりそれなりの勢力をもつ寺院であったことがうかがえる。
その後、清浄華院は14世紀中頃に土御門室町(現・京都市上京区元浄花院町付近)に移転する。この移転は三条坊門殿に住んでいた足利直義が、暦応2年(1338年)に持仏堂的な寺院として等持院を建立、邸宅に隣接していた清浄華院の敷地を接収したためと考えられている。ただし、等持院は(暦応4年(1341年)足利尊氏が後醍醐天皇の供養のため創建したとの説もあり、また清浄華院の敷地が接収されたのは等持院の鎮守御所八幡宮創建時であったなど諸説あるが、少なくとも観応二年(1351年)には土御門室町の地に移転を果たしていたことが分かっている。移転先は昭慶門院が世良親王に譲った御所、土御門殿跡と伝えられている。『増鏡』に昭慶門院の「土御門室町にありし院」が「この頃は寺に成りて」という記事が見え、この「寺」は浄華院のことを指すと考えられている。
いずれにしろ清浄華院は室町時代を通して京のメインストリートであった室町通りに面して境内を営み、土御門東洞院殿や室町第に程近い政治と文化の中心地に伽藍を構えた。
こうした立地も幸いして室町時代には皇室や公家はもちろん、幕府や武家の帰依を受けるようになり、特に称光天皇と足利義教より篤い帰依を受けた佛立恵照国師等凞は鎮西派浄土宗初の香衣と国師号の勅許を得ている。これは等凞の称光天皇の臨終善知識を務めた功績と、清浄華院が伝える円頓戒脈と鎮西派法脈が正統として評価されたことによる。さらに等凞は義教の将軍就任以前からの知己であったことにも由来すると考えられている。このあたりの事情は檀越の一人で等凞と親しい関係にあった万里小路時房による『建内記』に詳しい。
等凞の活躍によりこの頃の清浄華院は隆盛の絶頂を迎えており、「鎮西一流の本山」とも称された。当時の公家の日記や諸史料には、まさに浄土宗鎮西派の筆頭寺院として振る舞う清浄華院の様子が記されている。
当時の京都における浄土宗は、幕府が帰依した禅宗等に比べれば小さな勢力であり、また浄土宗内でも当時西山派に連なっていた廬山寺や二尊院が貴顕の帰依を集め大きな勢力を持ちっていた。そのため朝廷や幕府による庇護を受けて本山の格式を有した鎮西派寺院は清浄華院の他にはなかったのである。しかし、応仁の乱が勃発すると緒戦にて室町第攻防のため戦火に包まれ度重なる戦闘により荒廃し、以後長享元年(1487年)まで伽藍を再建出来なかった。しかしこの頃はいまだ他山の香衣参内や将軍拝賀には当院の仲介と同道が必要とされていたし、また16世紀に遡る洛中洛外図(歴博甲本・上杉本・東博模本)にも当院の伽藍が描かれており、一定の権威と寺勢を保っていたことがうかがえる。
しかし戦国時代の混乱の中で朝廷や幕府の権威が失墜し、織豊政権、徳川幕府と政権が移り変わっていくにつれて、かつての繁栄は失われていくことになる。
天正年間(1573年-1592年)豊臣秀吉の京都都市計画により現在地へ移転。この頃清浄華院は末寺統制に苦慮し、特に清浄華院にて活躍後に新黒谷へ転住した道残の離反の影響は大きく、この時期に寺勢は著しく衰えたとされる。一方、そんな清浄華院の衰微とは対照的に、知恩寺や知恩院が本山としての寺勢を整えていくこととなった。
江戸時代に入って以後も大本山としての権威は保たれることになったものの、幕府の朝廷統制が厳しくなる中で皇室との公的な関係は断たれていくこととなり、紫衣勅許も徳川幕府の帰依を得て総本山となった知恩院の仲介が必要となり、勅命により晋山してきた住持職も台命勅許(幕府が命じ朝廷が許す)という形を取るようになっていった。
しかしながら皇子・皇女の墓が数多く営まれるなど皇室との関係は続き、皇室帰依の寺院として権威を保ち続けた。これは天皇の皇子が早逝すると母方の実家の菩提寺に葬られる習慣があったためで、当院の檀家には公家が多く、檀家出身の娘達が産んだ皇子たちの墓がここに営まれたことによる。天皇の母となった檀家の敬法門院や開明門院の墓も当院の境内に営まれている。敬法門院の子・文仁親王は常磐井宮を相続して京極宮を名乗り、以後清浄華院は京極宮家(桂宮)とは親しい関係を持った。
当院と師檀関係を持った公家には、万里小路家、山科家、東園家、姉小路家、甘露寺家、松木(中御門)家、嵯峨(正親町三条)家、堤家、山本家、下冷泉家、六角家、坊城家、錦織家、玉松家等がある。地下家や宮家の諸大夫、家司、地下役人の檀家も多かった。
伽藍は寛文期の火災や、宝永の大火、天明の大火などで焼失・類焼しているが、その都度御所の用材を下げ渡される形を取って再建されている。そのため御所の格式と同様の建築物を誇った。
また御所に近いことからしばしば上洛する幕府要人や大名の宿所となり、享保期には徳川吉宗に献上されるためベトナムから渡来したゾウの宿所にもなっている。将軍上洛警護や治安維持のために諸藩の藩士が多数上洛した幕末には、御所警備を担当した肥後熊本藩や阿波徳島藩、薩摩藩、会津藩などの藩士の宿所となった。特に会津藩は藩主松平容保が半年ほど逗留した。
明治期に入ると明治初年まで戊辰戦争の薩摩藩の陣所の一つになった他、廃仏毀釈や浄土宗内の混乱、そして失火で伽藍を焼失するなど災難が続いたが、明治44年の法然上人七百年大遠忌には伽藍を再興、現在に至っている。
寺紋
皇室帰依の由緒により、皇室の紋章・菊花紋を許されてきたが、明治以降は皇室の権威に遠慮して菊花に葉をかけた「葉菊紋」を寺紋としている。
現在も皇室由緒寺院として天皇の京都御所還幸啓の際には当院法主も御所へ御出迎えに出るのが慣例となっている。
境内
伽藍
- 御影堂(みえいどう)-大殿(だいでん)とも呼ばれる。本尊は法然上人の御影(肖像)。寺伝では法然が後白河法皇より禁裏内道場を賜ったのは42歳の時であったとされ、その頃の姿であるとされる。脇壇にはゆかりの皇族の位牌を安置する尊牌壇があり、外縁西側には勅使門から続く皇族用の玄関が設けられているのが特徴。現在の建物は明治44年の法然上人七百年大遠忌に落成したもの。西側に骨仏を安置した納骨堂が付属する。
- 御廟-法然の遺骨の分骨を納めた石塔を安置する。京都四箇本山にはそれぞれ法然上人の御廟が建立されている。
- 是心堂-寺務所と信徒会館を兼ね、仏間には勢至菩薩像と向阿是心と礼阿然空の肖像を安置する。名称は当院繁栄の礎を築いた鎌倉時代の僧、向阿の道号よりとられた。法然上人800年大遠忌を記念し、平成23年完成。
- 勅使門-勅使来山や皇族参詣のための門で、常は閉められている。江戸時代には晋山式に紫衣被着と晋山の勅許を奉戴した勅使が来山し、この門をくぐった。現在は晋山式の際のみ開けられている。現在の建物は昭和9年のもの。
- 阿弥陀堂-旧塔頭・松林院の本堂。現在の建物は大正天皇御大典式典にて二条城に設けられた接待所の用材の下賜を受けて建てられている。松林院は中世より続く由緒ある塔頭で、公家の檀家が多く江戸時代は山内塔頭のなかでも格別の扱いをうけた。幕末、松平容保が逗留したのも松林院であった。現在松林院の旧境内地には浄山学寮が建てられており、阿弥陀堂も法務実習に使用されている。本尊は旧松林院の本尊がそのまま安置されている。
- 大方丈-旧阿弥陀堂の本尊、木造阿弥陀三尊像を安置する。
- 不動堂-清浄華院には中世以来重要文化財『泣不動縁起絵巻』に登場する泣不動像と伝える絵画が伝来しており、浄土宗寺院では珍しく不動信仰が盛んである。江戸中期には江戸へ出開帳へ出るなど信仰が隆盛し境内に不動堂が建立された。現在の建物は平成22年に再建されたもの。泣不動像本体は絵画であるため、堂内には木造半丈六の不動明王坐像が安置されている。
- 地蔵堂-地蔵菩薩を祀る。
- 小方丈
- 総門(表門、高麗門)、東裏門-正門は寺町通側にある総門で、河原町通側には東裏門がある。東裏門には延宝4年(1676年)の棟札が打ち付けられており、境内現存最古の建物。
- 鐘楼堂-慶長15年鋳造の近衛殿北政所心光院寄進による梵鐘を掛ける。平成21年に再建。
山王大権現社-鎮守社
浄華稲荷鎮守社。平成29年3月勧請。(昭和初期に廃絶)
学寮
- 浄山学寮 - 佛教大学の別科(仏教専修科)と通信学部生用の全寮制の修行道場。2年制(男女共学)
関連施設
- つきかげ苑 - 介護老人福祉施設
歴代法主
()内は何代目かを記す
- 法然房源空(1)→聖光房弁長(2)→然阿良忠(3)→礼阿然空(4)→向阿是心(5)→玄心(6)→証法玄教(7)→敬法(8)→僧然定玄(9)→等凞(10)→僧尋良秀(11)→良尊(12)→聖深阿縁(13)→玄秀(14)→等胖(15)→僧海等珍(16)→僧禿良玉(17)→皎月等皟(18)→如月良真(19)→暉玉玄照(20)→玄珍瑞鳳(21)→善誉秀馨(22)→満誉良周(23)→淳誉良元(24)→戒誉等俊(25)→願誉寿光(26)→風誉荀才(27)→閑誉三休(28)→全誉大拙(29)→麟誉亮叡(30)→竜誉良休(31)→道残源立(32)→縁誉休岸(33)→恭誉良安(34)→賢誉良久(35)→良光牛越(36)→善誉良随(37)→性誉良覚(38)→原誉良道(39)→信誉良阿(40)→法誉良聖(41)→永誉良存(42)→単誉良故(43)→高誉義天(44)→天誉雲竜(45)→超誉恢竜(46)→章誉了秀(47)→竜誉哲冏(48)→厳誉秋白(49)→浄誉顕照(50)→誓誉貞俊(51)→商誉良義(52)→法誉碩巌(53)→蓮誉知覚(54)→仰誉聖道(55)→忍誉知音(56)→契誉貞道(57)→昭誉徳定(58)→観誉竜応(59)→沢誉舜了(60)→延誉賢従(61)→元誉貞也(62)→徴誉祥真(63)→安誉貫務(64)→斉誉大周(65)→民誉良祐(66)→厚誉了寛(67)→念誉弁承(68)→仏誉賢融(69)→念誉仏定(70)→暢誉法音(71)→願誉智海(72)→浄誉鏡心(73)→性誉真哉(74)→椎尾弁匡(性誉)(75)→石橋誡道(教誉)(76)→長谷川善務(高誉)(77)→高畠寛我(明誉)(78)→江藤澄賢(善誉)(79)→大田秀三(昭誉)(80)→伊藤唯真(願誉)(81)→真野龍海(宣誉)(82)
歴史上の人物の墓
- 山科言継
立入宗継 - 応仁の乱による荒廃した京都の復興のため織田信長に上京を促し皇室の威儀を回復させた人物であり、皇室からの恩典によって清浄華院内に立入宗継旌忠碑が建てられている。また時代祭において織田信長の「織田公上洛列」の先頭で馬に乗り登場する。立入家は奉行衆松田一族の子孫であると伝わる。[6][7]
源光院 - 織田信長の娘。当院檀家の万里小路充房に嫁ぎ長男・孝房を設けたが1600年(慶長5年)10月8日に没し、当院に葬られた。
蜂須賀宗英 - 阿波徳島藩七代藩主。宗英は藩主就任以前に京都で生活していた際に蒔絵師の娘との間に一女(友姫)をもうけ、清浄華院の檀家で公家の東園家へ嫁がせた。しかし友姫は宗英藩主就任以前に没し、宗英はその供養のために彼女が葬られた清浄華院に帰依を寄せるようになった。宗英は藩主引退後江戸で没したが、遺体は当院に葬られる事となった。歴代徳島藩主で徳島以外に墓があるのは彼だけで、徳島藩はその後当院と密接な関係を持った。- 姉小路公知
- 町田秋波
- 玉松操
その他
- 天明大火焼亡横死者供養塔 - 天明の大火の犠牲者を供養する五輪塔。傍らには趣旨を記した石碑も建つ。
- 智満姫供養塔 - 天璋院篤姫の曾祖母に当たる春光院の供養塔。春光院が当院檀家の堤家出身のため島津家によって建立されたと伝える。
逸話
- 記録上発の花火の興行 - 室町時代の公家万里小路時房の日記『建内記(建聖院内府記)』の1447年(文安2年)3月21日条に、浄華院における法事の後に境内にて「唐人」が花火と考えられる「風流事」を行ったという記事が見えている。この記事が火薬を使った花火の最古の記事と見られる。
御土居跡 - 境内東にある墓地の東端に御土居があった。宝永年間に下げ渡され墓地となった。- ゾウの宿舎 - 1729年(享保14年)4月28日、徳川吉宗の意向によって輸入されたゾウが御所に参内、中御門天皇に拝謁した。この時ゾウの宿舎となったのが当院であった。境内の広場中央にゾウ小屋が設けられ、周囲には桟敷や竹矢来が組まれ民衆が見物したという。
- 畳供養 - 当院の大殿は、通常板敷である内陣が畳敷きとなっている。これは江戸時代に大殿が御所の建物の下賜を受けて再建されるのを例としていたため、居住空間であった名残であると考えられている。こうしたこともあり畳と縁深く、全国畳産業振興会より畳供養の法要を依願され、平成25年より毎年春に勤められている。また宗内では比較的珍しく内外陣の境に段差があるのも、貴人の住居であった名残り、あるいは皇族参拝のために格式を設けたものという。
文化財
国宝
- 絹本著色阿弥陀三尊像(普悦筆) 南宋時代 3幅
重要文化財
- 紙本著色泣不動縁起絵巻(重文本) 伝・宅間法眼筆 室町時代
その他
- 紙本著色泣不動縁起絵巻(永納本)狩野永納が後水尾天皇の依頼により重文本を模写したもの。江戸時代。
- 絹本著色渡宋天神図 南宋時代
- 木造不動明王立像(波除不動) 平安時代
- 絹本著色釈迦三尊像 南北朝時代
- 絹本著色浄土五祖像 室町時代
- 絹本著色釈迦涅槃図 江戸時代 海北友賢筆
脚注
^ (梅原、2003)、pp.134 - 135
^ 『国史大辞典』「清浄華院」の項
^ 『国史大辞典』「証賢」の項
^ (梅原、2003)、p.135
^ 『国史大辞典』「清浄華院」の項
^ 早稲田大学図書館 松田丹後守貞秀所蔵太刀:松田氏之子孫ハ立入左京亮・・・の追加注釈がある。
^ 東京大学史料編纂所 室町時代研究第2号(2008年)「室町幕府奉行人丹後守流の世系と家伝史料ー『松田長秀記』の成立のついてー」二 立入家本「松田長秀記」の成立 設楽 薫:P10ー
参考文献
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)「清浄華院」の項(執筆は中井真孝)
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)「証賢」の項(執筆は野村恒道)
- 梅原猛『京都発見五 法然と障壁画』、新潮社、2003
関連項目
- 日本の寺院一覧
廬山寺(廬山天台講寺)- 本禅寺
- 日本の寺の画像一覧
外部リンク
- 清浄華院公式サイト
- 京都寺社案内