足利尊氏
凡例 足利 尊氏 | |
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伝足利尊氏像(浄土寺蔵) | |
時代 | 鎌倉時代末期 - 室町時代初期 |
生誕 | 嘉元3年7月27日(1305年8月18日) |
死没 | 正平13年/延文3年4月30日(1358年6月7日) |
改名 | 又太郎(幼名)、高氏→尊氏 |
戒名 | 等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿 |
墓所 | 京都府京都市北区萬年山等持院 神奈川県鎌倉市寶亀山長寿寺 |
官位 | 従五位上、鎮守府将軍、従四位下、左兵衛督、従三位、武蔵守、正三位、参議、征東将軍、従二位、権大納言、征夷大将軍、正二位、贈従一位、贈左大臣、贈太政大臣 |
幕府 | 室町幕府初代征夷大将軍(在任:1338年 - 1358年) |
氏族 | 足利氏(足利将軍家) |
父母 | 父:足利貞氏、母:上杉清子 |
兄弟 | 高義、尊氏、直義、源淋(田摩御坊)[1] |
妻 | 正室:赤橋登子 側室:加古基氏の娘、越前局ほか |
子 | 竹若丸、直冬、義詮、基氏、鶴王、他 |
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。
目次
1 概要
2 生涯
2.1 誕生から鎌倉幕府滅亡まで
2.2 建武の新政から南北朝動乱へ
2.3 観応の擾乱から晩年まで
3 年表
4 人物
4.1 後世の評価
5 尊氏の肖像
6 系譜
7 偏諱を与えた人物
8 関連作品
9 脚注
9.1 注釈
9.2 出典
10 参考文献
11 関連項目
概要
足利貞氏の次男として生まれる。足利氏の慣例に従い、初めは得宗・北条高時の偏諱を受け高氏(たかうじ)と名乗っていた。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を尊氏(たかうじ)に改める。
後醍醐天皇の独裁体制である建武の新政が急速に人心を失っていくなか、鎌倉方の残党が起こした中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり独自の武家政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやった。天皇側の反攻により一時は九州に都落ちしたものの、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧、光明天皇を擁立して征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。後醍醐天皇は捕虜となったものの吉野に脱出し南朝を創始することになった。
幕府を開いてのち弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に対立し観応の擾乱を引き起こす。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇の崩御後はその菩提(ぼだい)を弔うため天竜寺を建立している。新千載和歌集は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の新続古今和歌集まですべて将軍の執奏によることとなった。
生涯
誕生から鎌倉幕府滅亡まで
尊氏は嘉元3年(1305年)7月27日に足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は母の実家、上杉氏の本貫地である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(現・京都府綾部市)とされる[注釈 1]。また、旧来は栃木県の足利荘(足利市)出生とされる事が多かったが、足利荘説は傍証資料に乏しく近年(90年代以降)では概ね否定されている。
母は貞氏側室の上杉清子(兄に貞氏正室の北条顕時の娘が産んだ足利高義がいる)。後世に編纂された『難太平記』では尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。元応元年(1319年)10月10日、15歳にして従五位下に叙し治部大輔に任ぜられる。また、同日に元服をし、得宗・北条高時の偏諱を賜り高氏(通称は又太郎)と名乗ったとされる[注釈 2]。15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた[2]。そして北条氏一族の有力者であった赤橋流北条氏の赤橋(北条)守時の妹赤橋登子を正室に迎える。その後、守時は鎌倉幕府の執権となる。『難太平記』は、高氏と同じく足利頼氏側室の上杉氏が産んだ祖父・家時が、自分の寿命を縮めることと引き替えに、子孫3代のうちに足利家が天下を取ることを祈願して自刃したと伝えている。元弘元年/元徳3年(1331年)、父・貞氏が死去する。足利氏の家督は一旦は兄の高義が継いでいたが、父より先(高氏の元服以前)に亡くなっていたため、高氏が継ぐことになった。
元弘元年/元徳3年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の乱)。鎌倉幕府は高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父貞氏の喪中であることを理由に出兵動員を辞退したが許されなかった。『太平記』は、このことから高氏が幕府に反感を持つようになったとする。また、足利氏は承久の乱で足利義氏が大将の1人として北条泰時を助けて勝利を導いて以来、対外的な戦いでは足利氏が大将を務めるのが嘉例とされ、幕府及び北条氏はその嘉例の再来を高氏に期待したもので、裏を返せば北条氏が足利氏に圧力を加えても決して滅ぼそうとはしなかった理由でもあった[2]。勝利に貢献した高氏の名声は高まったが、不本意な出陣だったためか、同年11月他の大将を置いて朝廷に挨拶もせずさっさと鎌倉へ戻っており、花園上皇を呆れさせている(『花園天皇宸記』)。
元弘の乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕され、死刑・配流などの厳罰に処された。後醍醐天皇も廃位され、代わって持明院統の光厳天皇が践祚した。元弘2年/正慶元年(1332年)3月には後醍醐天皇は隠岐島に配流された。幕府は高氏の働きに、従五位上の位階を与えることで報いた(『花園天皇宸記』裏書)。
元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城した。高氏は当時病中だったが再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに司令官として上洛した。このとき、高氏は妻登子・嫡男千寿王(のちの義詮)を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている。
名越高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、後醍醐天皇の誘いを受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、4月29日、所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、播磨国の赤松円心、近江国の佐々木道誉らの反幕府勢力を糾合して入洛し、5月7日に六波羅探題を滅亡させた。関東では、同時期に上野国の御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した千寿王も参加している。一方で、高氏の庶長子・竹若丸は伯父に連れ出され、鎌倉を出たが、脱出に失敗して途中で北条の手の物に捕まり殺害されている。
建武の新政から南北朝動乱へ
鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、従四位下に叙され、鎮守府将軍・左兵衛督に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日には従三位に昇叙、武蔵守を兼ねるとともに、天皇の諱「尊治」から偏諱を受け尊氏と改名した[注釈 3]。尊氏は建武政権では自らは要職には就かなかった一方、足利家の執事である高師直、その弟・師泰をはじめとする家臣を多数政権に送り込んでいる。これには、天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。世人はこれを「尊氏なし」と称した。
元弘3年/正慶2年(1333年)、義良親王(のちの後村上天皇)が陸奥太守に、北畠顕家が鎮守府大将軍に任じられて陸奥国に駐屯することになると、尊氏も、成良親王を上野太守に擁立して直義とともに鎌倉に駐屯させている。また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった護良親王は、尊氏をも敵視し政権の不安定要因となっていたが、建武元年(1334年)には父の命令で逮捕され、鎌倉の直義に預けられて幽閉の身となった。
建武2年(1335年)信濃国で北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行の軍勢は鎌倉を一時占拠する。直義は鎌倉を脱出する際に独断で護良を殺害している。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。尊氏は直義の軍勢と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。
足利直義(尊氏の弟)の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめ、京都からの上洛の命令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、天皇は逆に義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺にひきこもり断髪する[注釈 4] が、直義・師直などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出馬する。12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。建武3年(1336年)正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏が京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州の大友近江次郎に出兵と上洛を命じた尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測できる。だが、2月11日に摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。
九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社の宗像氏範の支援を受ける。延元元年/建武3年(1336年)宗像大社参拝後の3月初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒して勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中の鞆で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。
尊氏は洛中をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭を擡げ8月17日に「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている[注釈 5]。足利の勢力は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日、建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言したがこれは直義の意向が強く働いたものとされる。実質的には、このときをもって室町幕府の発足とする。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。一方、後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して独自の朝廷(南朝)を樹立した。
観応の擾乱から晩年まで
延元3年/暦応元年(1338年)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した。翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。造営費を支弁するため、元へ天龍寺船が派遣されている。さらに諸国に安国寺と利生塔の建立を命じた。南朝との戦いは基本的に足利方が優位に戦いを進め、北畠顕家、新田義貞、楠木正成の遺児正行などが次々に戦死し、小田治久、結城親朝は南朝を離反して幕府に従ったほか、正平3年/貞和4年(1348年)には高師直が吉野を攻め落として全山を焼き払うなどの戦果をあげている。
新政権において、尊氏は政務を直義に任せ自らは軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として君臨した。佐藤進一はこの状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した(「室町幕府論」『岩波講座日本歴史7』岩波書店、1963年)。しかし、二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こし、高師直らの反直義派と直義派の対立として現れていく。この対立はついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。尊氏は当初、中立的立場を取っていた。正平4年/貞和5年(1349年)、直義が師直を襲撃しようとするも師直側の反撃を受けた直義が逃げ込んだ尊氏邸を師直の兵が包囲し、直義の引退を求める事件が発生した。直義は出家し政務を退くこととなった。直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたとする説もあるが、後の直義の言動より、直義の師直襲撃にも尊氏は言質を与えていたものと思われ、尊氏は優柔不断に直義にも師直にもいい顔をしていたとの説もある。
師直は直義に代わって政務を担当させるため尊氏の嫡男・義詮を鎌倉から呼び戻し、尊氏は代わりに次男・基氏を下して鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。直義の引退後、尊氏庶子で直義猶子の直冬が九州で直義派として勢力を拡大していたため、正平5年/観応元年(1350年)、尊氏は直冬討伐のために中国地方へ遠征した。すると直義は京都を脱出して南朝に降伏し、桃井直常、畠山国清ら直義派の武将たちもこれに従った。直義の勢力が強大になると、義詮は劣勢となって京を脱出し、京に戻ろうとした尊氏も光明寺合戦や打出浜の戦いで敗れた。尊氏は高師直・師泰兄弟の出家・配流を条件に直義と和睦し、正平6年/観応2年(1351年)に和議が成立した。この交渉において尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てたが、氏直には直義に「師直の殺害を許可する」旨を伝えるように尊氏は命じたという記録が残っている[注釈 6]。和睦後、師直兄弟とともに京に戻るが、この時尊氏は出家姿になってみすぼらしい二人と一緒に上洛するのは「見苦しい」と言って嫌い、彼らに行列の後ろから3里(約2km)ばかり離れてついてくるようにと指示を出していた(『観応二年日次記』)。師直ら高一族は尊氏に見捨てられたような形で、護送中に彼らを父の敵として恨んでいた上杉能憲により殺害された。
直義は、義詮の補佐として政務に復帰した。上記の通り、この一連の戦闘の勝者は直義、敗者は尊氏であり、尊氏の権威は大きく失墜してもおかしくないはずである。ところが尊氏は全く悪びれる様子もなく、むしろ以前より尊大に振る舞うようになる。論功行賞では尊氏派の武将の優先を直義に約束させ、高氏を滅ぼした上杉能憲の死罪を主張し、直義との交渉の末これを流罪にした。また、謁見に現れた直義派の細川顕氏を降参人扱いし、太刀を抜いて縅すなどまるで勝者のように振る舞い、勝ち戦で上機嫌だった顕氏は尊氏の不思議な迫力に気圧され一転して恐怖に震えたという。そもそも尊氏は細かいことに拘らない性格だったが、今回の敗戦も尊氏と直義の戦いではなく、あくまで師直と直義の戦いだと、自分の都合のいいように考えていたようだ[3]。更に、直義の北条泰時を理想とする守旧的な政治は、幾度の戦乱を経て現実に即しているとは言い難かったため、尊氏派に宗旨替えする武将が続出し、敗者だった尊氏側が実際には優勢であるという情勢ができてゆく。このような情勢の中で、直義派の武将が殺害されたり襲撃されたりするなど事件が洛中で続発し、終には直義は政務から再び引退するに至る。尊氏は佐々木道誉の謀反を名目に近江へ、義詮は赤松則祐の謀反を名目として播磨へ、京の東西へ出陣する形となったが、佐々木や赤松の謀反の真相は不明で(後に彼らは尊氏に帰順)、実際には尊氏はむしろ直義追討を企てて南朝と和睦交渉を行った。この動きに対して直義は京を放棄して北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平一統という。この和睦によって尊氏は南朝から直義追討の綸旨を得たが、尊氏自身がかつて擁立した北朝の崇光天皇は廃されることになった。そして尊氏は直義を追って東海道を進み、薩た峠の戦い (南北朝時代)(静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(神奈川県小田原市)の戦いなどで撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。直義は、正平7年/観応3年(1352年)2月に急死した。『太平記』は尊氏による毒殺の疑いを記している。尊氏は直義の死後病気がちになり、以後政務は義詮を中心に執られることになった。
尊氏が京を不在にしている間に南朝方との和睦は破られた。宗良親王・新田義興・義宗・北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を破って鎌倉を奪還した(武蔵野合戦)。一方、畿内でも南朝勢力が義詮を破って京を占拠し、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致し、足利政権の正当性は失なわれるという危機が発生する。しかし近江へ逃れた義詮はすぐに京を奪還し(八幡の戦い)、佐々木道誉が後光厳天皇擁立に成功した為北朝が復活、足利政権も正当性を取り戻した。しかし今度は、佐々木道誉と対立して南朝に下った山名時氏と楠木正儀が京を襲撃して、義詮を破り京を占拠した。尊氏は義詮の救援要請をうけ京へ戻り義詮とともに京を奪還した。
正平9年/文和3年(1354年)には直冬を奉じた旧直義派による京への大攻勢を受ける。翌年には尊氏は京を放棄するが、結局直冬を撃退して京を奪還した。この一連の合戦では神南での山名氏勢力との決戦から洛中の戦に到るまで道誉と則祐の補佐をうけた義詮の活躍が非常に大きかったが、最終的には東寺の直冬の本陣に尊氏の軍が自ら突撃して直冬を敗走させた。尊氏はこの際自ら直冬の首実検をしているが結局討ち漏らしている。
尊氏は島津師久の要請に応じて自ら直冬や畠山直顕、懐良親王の征西府の討伐を行なうために九州下向を企てるが、義詮に制止され果せなかった[4]。正平13年/延文3年(1358年)4月30日、先の直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて死去した[4]。享年54[4]。
『後深心院関白記』によると延文3年(1358年)5月2日庚子の条に、尊氏の葬儀が真如寺 (京都市) で行われたとあり、5月6日甲辰の条の初七日からの中陰法要は、等持院において行われたことがわかる。
墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。これを反映して死後の尊氏は、京都では「等持院」、関東では「長寿院」と呼び表されている。
そして、尊氏の死から丁度百日後に、孫の義満が生まれている。
年表
和暦 | 南朝 | 北朝 | 西暦 | 月日 (旧暦) | 内容 | 出典 |
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嘉元3年 | 後二条天皇 | 後二条天皇 | 1305年 | 7月27日 | 生誕。 | |
元応元年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1319年 | 10月10日 | 従五位下治部大輔に叙任。 | 公卿補任 |
元応2年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1320年 | 9月5日 | 治部大輔辞任。 | 公卿補任 |
元徳2年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1330年 | 6月18日 | 嫡子義詮誕生。 | |
元弘2年 正慶元年 | 光厳天皇 | 光厳天皇 | 1332年 | 6月6日 | 従五位上に昇叙。 | 公卿補任 |
元弘3年 正慶2年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1333年 | 6月5日 | 鎮守府将軍。内昇殿許される。 | |
6月12日 | 従四位下左兵衛督に昇叙転任。 | | ||||
8月5日 | 従三位に昇叙し、武蔵守兼任。名を尊氏と改める。 | 公卿補任 | ||||
| 元弘の乱(~) | | ||||
建武元年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1334年 | 1月5日 | 正三位に昇叙。 | |
9月4日 | 参議に補任。左兵衛督如元。 | | ||||
建武2年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1335年 | 7-8月 | 中先代の乱 | |
8月9日 | 征東将軍宣下。 | | ||||
8月30日 | 従二位に昇叙。 | | ||||
1336年 | 11月26日 | 征東将軍を止む。 | | |||
延元元年 建武3年 | 後醍醐天皇 | 光明天皇 | 1336年 | 2月頃 | 北朝方、多々良浜の戦い | 太平記 |
5月25日 | 北朝方、湊川の戦い | 太平記 | ||||
11月7日 | 北朝方、建武式目制定。 | | ||||
11月26日 | 北朝方、権大納言に転任。 | | ||||
延元3年 暦応元年 | 後醍醐天皇 | 光明天皇 | 1338年 | 8月11日 | 北朝方、正二位に昇叙。征夷大将軍宣下。 | |
興国元年 暦応3年 | 後村上天皇 | 光明天皇 | 1340年 | 3月5日 | 次男基氏誕生、兵庫に福海寺(福海興国禅寺)建立。 | |
正平5年-6年 観応年間 | 後村上天皇 | 崇光天皇 | 1350年 -51年 | | 南朝方、観応の擾乱。征夷大将軍解任。 | |
正平7年 文和元年 | 後村上天皇 | 1352年 | 2月26日 | 弟直義死去。 | | |
正平13年 延文3年 | 後村上天皇 | 後光厳天皇 | 1358年 | 4月30日 | 死去。 | |
6月3日 | 贈従一位左大臣。 | | ||||
弘和元年 永徳元年 | 長慶天皇 | 後円融天皇 | 1381年 | 4月28日 | 贈太政大臣。 | |
人物
尊氏の人間的な魅力を、個人的に親交のあった夢窓疎石が次の3点から説明している(『梅松論』)。
- 1つ、心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。
- 2つ、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。
- 3つ、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。
こうした評には身びいきが含まれている可能性もあるが、他の逸話からも裏付けが取れる[独自研究?]。まず1つ目の戦場での勇猛さだが、ある戦場で矢が雨のように尊氏の頭上に降り注ぎ、近臣が危ないからと自重を促すと、「やはり」尊氏は笑って取り合わなかったという[6]。『源威集』でも、文和4年(1355年)の東寺合戦で危機的状況に陥った際、尊氏は「例の笑み」を浮かべ、「合戦で負ければそれでお終いなのだから、敵が近づいてきたら自害する時機だけを教えてくれればよい」と答え全く動揺することがなかった、という。これらの逸話から、尊氏には無意識にか危機に直面した時に微笑む癖があった事がわかり、また「やはり」「例の笑み」という書き方から、尊氏近辺の人間に尊氏の不思議な微笑はよく知られていたようだ[独自研究?]。『源威集』の著者は「たとえ鬼神が近づいてきたとしても、全く動揺する気配がない」と尊氏の胆力を褒めちぎっており、配下の武将たちに安心感と勇気を与えたと考えられる[独自研究?]。
2つ目の敵への寛容さも、畠山国清や斯波高経など一度敵方に走ったものでも、尊氏は降参すればこれを許容し、幕閣に迎えている。
3つ目の部下への気前の良さは、よく八朔の逸話が取り上げられる[誰によって?]。当時旧暦の8月1日に贈答しあう風習が流行し、尊氏のもとには山のように贈り物が届けられた。しかし、尊氏は届いたそばから次々と人にあげてしまうので、結局その日の夕方には尊氏のもとに贈り物は何一つ残らなかったという(『梅松論』)。こうした姿勢は戦場でも同様で、尊氏は戦場で功績を上げた者を見ると、即座に恩賞を約束するかな書きの下文(「軍陣の下文」と呼ばれる)を、相手に直接与えている。これは、すでに権利者のいる所領を再び別人に与えてしまう事例も発生し、後の史料には100年先まで紛争の種となり、尊氏の子孫たちを悩ましている例すらある(「御前落居記録」第18項)。それでも、戦場の下文がもつ即時性の効果は大きかった。恩賞を約束された本人の感激はひとしおで、これを見た同陣する他の武将たちも競い合うように軍忠に励むようになった。[独自研究?]尊氏が与えたのは下文だけでなく、佩用していた腰刀を直接家臣二人に与えた例や、自身が所用する軍扇[7] を与えたこともある[8]。こうした鷹揚で無頓着な尊氏を見聞きした家臣たちは、みな「命を忘れて死を争い、勇み戦うことを思わない者はいなかった」といい(『梅松論』)、これが尊氏最大の人間的魅力だった[9]。
しかし、これら尊氏の個性が、政治家としての欠点になったとも考えられる。2つ目の敵への寛容さは、決然とした対応の取れない武将としての甘さとも言える。3つ目の誰かれ構わず褒美を与える天真爛漫な性格は、悪く言えば無軌道で、政治家として思慮に欠けている。しかしより深刻だったのは、1つ目の死をも恐れない不思議な性分である。戦場の危機で笑っているうちはいいのだが、いよいよ事態が深刻になると、尊氏はあっさり自害しようとして周囲を何度も慌てさせている。[独自研究?]『梅松論』などによると、尊氏は合戦で苦戦した際には切腹すると言い出し、後醍醐天皇に背いて朝敵となったことを悔やんで一時は出家を宣言するなどの記述がある[注釈 7]。尊氏は正月の書き初めで、毎年「天下の政道、私あるべからず。生死の根源、早く切断すべし」と書いたと伝えられる[6]。どうやら尊氏は、勇気があるというよりも、元来生死に対する執着が薄かったようだ。また、命への執着の薄さは時に周囲にも向けられ、親族や腹心であっても状況次第では意外に冷たく突き放すところがある。直冬の冷遇や正平一統による北朝への裏切り、幼い頃から苦楽を共にし幕府創設に欠かせなかった弟・直義と執事・高師直も、事態が面倒になると案外あっさり切り捨てている。尊氏の対人関係には、普段は相手によらず無類の愛情を示しておきながら、状況次第では簡単に見切ってしまうという、やや無節操な傾向がまま見られる。[独自研究?]
夢窓疎石が指摘する3つの尊氏の人間的魅力は、ひとつにまとめると度量の広さと評することが出来るが、裏を返せば全てに無頓着であり、良くも悪くも「無私」の人だと言える。その場その場では周囲に気を遣い、他人にいい顔をしてみせるが、それは別に深慮があるわけではなく、状況が悪化すると簡単に全てを放り出してしまう。八方美人で投げ出し屋、という人間なら誰しも大なり小なり持ち合わせる傾向が、尊氏はより強かったようだ。こうしてみると尊氏は、自分の理想に向けて周囲を引っ張っていくリーダーではなく、英雄的人物とは言いがたい。[独自研究?]しかし、歴史の表舞台に立った尊氏は、その性格ゆえに周囲の動向に振り回され傷つき、また自身も無意識に周囲を傷つけてしまう苦悩を背負うこととなった[10]。
ところで尊氏は、武将、政治家としてでなく、芸術家としても足跡を残している人物である。連歌については菟玖波集に68句が入集しており武家では道誉に次ぎ二番目に多く入集している。専ら連歌に専念した道誉と異なり和歌についても足跡が多く、新千載集を企画し勅撰集の武家による執奏という先例を打ち立てたことは特筆に価する[独自研究?]。また、源頼義父子が名人として知られていた笙を豊原龍秋から学び、後醍醐天皇の前でも笙を披露している(『続史愚抄』建武2年5月25日条)。後に後光厳天皇も尊氏に倣って龍秋から笙を学んだ(『園太暦』延文3年8月6・8・14日条)[11]。地蔵菩薩を描いた絵画なども伝わっており画才にも優れた人物だった。この他にも扇流しの元祖であるというエピソードもあり、風流や優美さを好む人物だった[独自研究?]。
京都の鞍馬山、奈良の信貴山と並ぶ、 日本三大毘沙門天のひとつである足利市の大岩毘沙門天を信仰していた。
後世の評価
尊氏を逆賊とする評価は、江戸時代に徳川光圀が創始した水戸学に始まる。水戸学は朱子学名分論の影響を強く受けており、皇統の正統性を重視していた。そのため、正統な天皇(後醍醐天皇)を放逐した尊氏は逆賊として否定的に描かれることとなった。水戸学に発する尊氏観はその後も継承され、尊王思想が高まった幕末期には尊皇攘夷論者によって等持院の尊氏・義詮・義満3代の木像が梟首される事件も発生している(足利三代木像梟首事件)。
1934年(昭和9年)、斎藤実内閣の商工大臣であった中島久万吉男爵は、足利尊氏を再評価すべきという過去の文章を発掘されて野党からの政権批判の材料とされ、大臣職を辞任した。(「中島久万吉」項目参照。)
吉川英治が昭和30年代に書いた『私本太平記』は尊氏を主人公としている。
歴史小説家の海音寺潮五郎や井沢元彦は、後醍醐天皇にとどめを刺さなかった点や内部抗争の処理に失敗した点を突き、「人柄が良くカリスマは高いが、組織の運営能力の点では源頼朝や徳川家康に劣っている」「戦争には強いが政治的センスはまるでない」と評価している。
また、正室であった赤橋登子所生(義詮・基氏・鶴王)以外の子に対して冷淡であったかのような見方がされているが、谷口研吾によればこれは正室である登子の意向によるものであり、その背景として実家(赤橋流北条氏)という後ろ盾を失った彼女が自身とその子供たちを守るために他の女性の子供を排除せざるを得なかったからとする[12]。
尊氏の肖像
京都国立博物館所蔵の「騎馬武者像[13]」は、京都守屋家の旧蔵品だったことから、現在でも他の尊氏像と区別する必要もあって守屋家本と呼ばれる。「騎馬武者像」は松平定信編纂の『集古十種』で尊氏の肖像として紹介されたことから一般に広く知られ、2000年代頃までは学校用の歴史教科書でも尊氏の肖像として掲載されていた。しかし、2代将軍義詮の花押が像上部に据えられていることや、騎馬武者の馬具に描かれている輪違の紋が足利家ではなく高家の家紋であるなどの理由から、像主を高師直とする説[14][15]、もしくは子師詮[16]、師冬とする説などが出ている。こうした動きがあることから、2000年代頃から各教科書では尊氏の肖像として掲載されなくなり、「騎馬武者像」として掲載されるにとどまっている[17]。反面、『梅松論』における多々良浜の戦いに臨む尊氏の出で立ちが本像に近く、京都に凱旋した尊氏がこの時の姿を画工に描かせたという記録が残る[18] ことから、やはり尊氏像で正しいとする意見もある[19]。『太平記』によると、尊氏は後醍醐天皇へ叛旗を翻す直前に寺に籠もって元結を切り落としたといい、「騎馬武者像」の「一束切」の姿は、その後翻意して挙兵した際の姿を髣髴とさせるものではあり、その点をもって尊氏像と見なされてきたと考えられている。『太平記』では挙兵の際に味方の武士たちがみな尊氏にならって元結を切り落としたエピソードも伝えている。
鎌倉時代に藤原隆信が描いたとされる神護寺三像のうちの「伝平重盛像」は、平重盛を描いたものと考えられてきたが、1995年に美術史家の米倉迪夫や歴史学者の黒田日出男らによって尊氏像であるとの説が提示された。すぐさま美術史家から、画風や様式が南北朝期に下るものではないとする反論が出て激しい論争になったが、近年は総じて新説が認められる傾向にある。
その他、(右最上部に掲示)広島県尾道市の浄土寺に尊氏を描いたと伝える束帯姿の肖像画が所蔵されている。また、守屋家本とは異なる騎馬姿の尊氏像が神奈川県立歴史博物館にあり、「征夷大将軍源朝臣尊氏卿」と明記された江戸時代後期の肖像画が現存している。
江戸時代に描かれた錦絵には、歌川国芳の「太平記兵庫合戦」(兵庫福海寺で尊氏を探す白藤彦七郎[20])、歌川芳虎の「太平記合戦図」(尊氏、兵庫福海寺に避難する図)、橋本周延の「足利尊氏兵庫合戦図」(尊氏、兵庫福海寺に避難する図)等がある。
尊氏の木像は、大分県国東市の安国寺(重要文化財)のものが最も古い。面貌表現が写実的で理想化が少なく、尊氏の生前か死後間もなく造像されたと見られる。尊氏の木像というと、足利氏の菩提寺である京都市北区の等持院のものがよく知られている。こちらは体部の表現にやや時代が下る造形が見られるものの、頭部は安国寺木像や浄土寺肖像と共通する図様で造られており、中世を下らない時期の作品と考えられる。他には、静岡県静岡市の清見寺(文明17年(1485年)以前の作)、京都市右京区の天龍寺(16世紀の作)、栃木県さくら市の龍光寺(寛文6年(1666年)の再興像)、神奈川県鎌倉市の長寿寺(元禄2年(1689年)の再興像)、栃木県足利市の鑁阿寺(江戸時代・19世紀の作)、同市の善徳寺、同県真岡市の能仁寺などに所蔵されている。また、現代になって作られた銅像が足利市鑁阿寺参道と京都府綾部市安国寺町に設置されている。
系譜
- 父:足利貞氏
- 母:上杉清子
- 異母兄:足利高義
- 弟:足利直義
- 正室:赤橋登子
- 男子:足利義詮
- 男子:足利基氏
- 女子:鶴王(没後に従二位と「頼子」の名が与えられ(『師守記』貞治4年5月8日条)、崇光天皇の后妃に擬えられている[12])
- 男子:足利義詮
- 側室:加古六郎基氏の女(『尊卑分脈』)
- 男子:竹若丸(長男とされる)
- 側室?(『太平記』では「越前局」とするが未詳)
- 男子:足利直冬
- 男子:足利直冬
- その他生母不明の子女
- 女子:某(康永元年(1342年)10月2日、6歳で死去)
- 男子:聖王丸(康永4年(1345年)8月1日、7歳で死去)
- 女子:某(直義養女。法名了清。貞和3年(1347年)10月14日、5歳で死去)
- 女子:某(貞和2年(1346年)7月9日、3歳で死去(『師守記』『門葉記』)、彼女も赤橋登子所生の可能性がある[12])
- 男子:英仲法俊
足利尊氏の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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偏諱を与えた人物
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- (補足)
- 「尊」の字は前述の通り、元々後醍醐天皇(名は尊治)から1字を与えられたものであり、これを与えられた饗庭尊宣、吉良尊義の両名に関しては、尊氏から破格の待遇を受けていたことがうかがえる。
吉見尊頼(吉見義世の子、のち渋川直頼の猶子となり渋川義宗を称す)の「尊」に関しては尊氏から受けたものというよりは、尊氏と同じく後醍醐天皇から1字を受けたものと推測される。- 曾孫の尊満(足利義満の庶長子)や足利義尊(直冬の孫)をはじめ、子孫にも尊氏に肖って「尊」の字を用いる人物が見られる。
関連作品
- 小説
吉川英治『私本太平記(全13巻)』毎日新聞社 1959年~1962年。講談社からは、「吉川英治歴史時代文庫」の一環として、全7巻にて1990年2月~同年4月の間に発刊。
- 『太平記』(1991年NHK大河ドラマ、主演:真田広之) - 上記小説を原作としたテレビドラマ。
山岡荘八『新太平記(全5巻)』講談社 1971年~1972年。また、1986年8月~同年11月の間に「山岡荘八歴史文庫」の一環として全5巻で発刊。
大森隆司『足利尊氏:室町幕府を開いた男(上)(下)』下野新聞社、1989年6月。
村上元三『足利尊氏(上)(下)』(徳間文庫)徳間書店 1991年4月。
童門冬二『足利尊氏』富士見書房 1994年12月。
杉本苑子『風の群像(上)(下)』日本経済新聞社 1997年6月。
桜田晋也『足利尊氏』祥伝社 1999年9月 ※1988年角川書店発刊の「足利高氏」の改訂版として発刊。
森村誠一『太平記(1)~(6)』(角川文庫)角川書店 2004年12月ー2005年2月
- テレビドラマ
- 『怒濤日本史(足利尊氏)』(1966年、MBS、演:神山繁)
- 『太平記』(1991年、NHK、演:真田広之)
- マスコット
- たかうじ君 - 足利市のゆるキャラ[23]
脚注
注釈
^ 京都府の安国寺 (綾部市)に産湯とされる井戸や尊氏の産髪・産着で作った袈裟が現存する。
^ 『続群書類従』第五輯上所収「足利系図」の尊氏の付記に「元應元年叙從五位下。同日任治部大輔。十五歳元服。無官。号足利又太郎。」とある(参考:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(所収:『中央史学』二、1979年)P.11))。
^ 『公卿補任』に「足利源尊氏二十九 八月五日叙。元左兵衛督從四位下。今日以高字爲尊。同日兼武蔵守。」とある(新訂増補国史大系本より)。『足利家官位記』(『群書類従』第四輯所収)にも「元弘三年……同八月五日叙從三位。越階。同日兼武蔵守。今日以高爲尊。」と同様の記述が見られる。『太平記』でも「是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。」とあり、後醍醐天皇からの一字拝領であることが窺える。但しこの文章は、巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」にあり、すなわち2年後の中先代の乱(詳細は本文を参照)の時の改名としているが、実際には『公卿補任』や『足利家官位記』が示す1333年8月5日が正確と考えられている(後藤丹治・釜田喜三郎・岡見正雄校注 『太平記』、日本古典文学大系、岩波書店)。
^ 尊氏は以後も出家や遁世の願望を口にしたり文章や絵画で表現することが多く、また太平記には劣勢となった尊氏が切腹をしようとしては周囲に止められたといったエピソードが多く収録され、非常に精神的に不安定であったことが伺える。
^ この願文は文法や文字に乱れが大きい。
^ こうしたことから尊氏は直義と師直の争いを利用して巧妙に直義も師直も排除する陰謀を張り巡らしたと見る向きもある。しかし尊氏の性格から、単に投げ出しただけとも取れる。
^ 佐藤進一は尊氏を躁鬱病ではないかと推測しているが、佐藤は歴史学者で、医学の専門家ではない。
^ 「南家伊東氏藤原姓大系図」伊東祐重項の傍注に「……祐重継家尊氏公賜御字改氏祐」とある。同系図は、飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯、1977年)や『伊東市史 史料偏 古代・中世』(2006年)にて活字化されている。
出典
^ 兄高義の子とする説もある。
- ^ ab前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(初出:阿部猛 編『中世政治史の研究』(日本史史料研究会、2010年)/所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0
^ 清水(2013)p.80。
- ^ abc瀬野精一郎 著『人物叢書‐足利直冬』吉川弘文館、2005年、p.174
^ 山上八郎『日本甲冑100選』p. 112(秋田書店、1974年)
- ^ ab『臥雲日件録抜尤』〉享徳4年正月19日条
^ 「日月図軍扇」 九州国立博物館蔵。尊氏の花押と、「観応2年(1351年)正月七日津の国宿河原」で拝領した旨を記した小片が挟まれている。
^ 江田郁夫 「コラム 戦場の足利尊氏」峰岸純夫 江田郁夫編 『足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書』 吉川弘文館、2011年、pp.135-144。
^ 清水(2013)pp.40-42。
^ 清水(2013)pp.42-45、90。
^ 豊永聡美「後光厳天皇と音楽」(初出:『日本歴史』567号(1998年)/所収:豊永『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P130-151)
- ^ abc谷口研語「足利尊氏の正室、赤橋登子」 芥川龍男編『日本中世の史的展開』(文献出版、1997年)所収
^ e国宝に画像と解説有り(外部リンク)
^ 藤本正行 『鎧をまとう人びと』吉川弘文館、2000年、pp.164-189、ISBN 978-4-642-07762-0。
^ 下坂守 「守屋家本騎馬武者像の像主について」『京都国立博物館学叢』第4号所収、1982年。京博公式サイトに掲載(PDF)
^ 黒田日出男 『肖像画を読む』 角川書店、1998年
^ 見慣れた肖像画は別人?「足利尊氏像」→「騎馬武者像」 源頼朝像の真偽も… - 産経新聞WEST、2013年3月27日
^ 武田左京亮文秀像に寄せた蘭坡景茝の賛文(『雪樵独唱集』収録)
^ 宮島新一 『肖像画』 吉川弘文館、1994年、pp.235-240、ISBN 4-642-06601-2。同『肖像画の視線』 吉川弘文館、2010年、pp.29-35、ISBN 978-4-642-06360-9。
^ 国立国会図書館デジカル化資料(外部リンク)。
^ 江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田郁夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(戎光祥出版、2011年)P.13)。
^ 『瑞石歴代雑記』。詳細は当該項目(六角氏頼の項)を参照のこと。
^ 足利市イメージキャラクター「たかうじ君」
参考文献
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- 書籍
瀬野精一郎『足利直冬』(人物叢書)吉川弘文館、2005年 ISBN 464205233X
山路愛山 『足利尊氏』岩波書店 (岩波文庫) 1949年
桑田忠親 『足利将軍列伝』 秋田書店 1975年
高柳光寿 『足利尊氏』(新装版)春秋社 1987年9月 ISBN 4-393-48207-7
- 松崎洋二 『足利尊氏』 新人物往来社 1990年3月 ISBN 9784404017031
会田雄次ほか 『足利尊氏』 思索社 1991年1月 ISBN 4-7835-1161-6
小松茂美 『足利尊氏文書の研究』(研究篇、図版篇、解説篇、目録・資料篇の全4冊) 旺文社 1997年9月 ISBN 4-01-071143-4
上島有 『足利尊氏文書の総合的研究.(本文編・写真編)』 国書刊行会 2001年2月 ISBN 4-336-04284-5
- 佐藤和彦監修 『足利尊氏』 ポプラ社(徹底大研究日本の歴史人物シリーズ4) 2003年4月 ISBN 4-591-07553-2
- 櫻井彦・樋口州男・錦昭江編 『足利尊氏のすべて』 新人物往来社 2008年9月 ISBN 978-4-404-03532-5
峰岸純夫 『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー) 2009年 ISBN 978-4-642-05672-4
- 峰岸純夫 江田郁夫編 『足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書』 吉川弘文館、2011年 ISBN 978-4-642-08065-1
栃木県立博物館発行・編集 『開館三〇周年特別企画展 足利尊氏 その生涯とゆかりの名宝』展図録、2012年 ISBN 978-4-88758-069-5
- 清水克行 『人をあるく 足利尊氏と関東』 吉川弘文館、2013年11月、ISBN 978-4-642-06772-0
関連項目
- 『太平記』
- 『梅松論』
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