グループ・サウンズ










グループ・サウンズのひとつ ザ・スパイダース


グループ・サウンズ(またはグループ・サウンド、和製英語: group sounds)とは、ギターなどの電気楽器を中心に数人で編成される、演奏及び歌唱を行うグループ。欧米における「ヴォーカル・アンド・インストゥルメンタル・グループ」の影響を受けたとされ、1967年(昭和42年)初夏より1969年(昭和44年)春にかけて日本で大流行した。略称GS




目次






  • 1 概要:定義


  • 2 歴史


    • 2.1 社会現象


    • 2.2 女性版GS/一人GS/カルトGS


    • 2.3 GSのその後


    • 2.4 新世代によって継承されるGS




  • 3 日本のグループ・サウンズ


    • 3.1 主要10グループ・サウンズ


    • 3.2 その他のグループ・サウンズ


    • 3.3 外国人のグループ・サウンズ


    • 3.4 女性のグループ・サウンズ


    • 3.5 一人GS


    • 3.6 ネオGS


    • 3.7 新世代のグループ・サウンズ




  • 4 脚注


  • 5 関連項目


  • 6 外部リンク





概要:定義






一般的に「グループ・サウンズ」といえば1960年代後半、ジャズ喫茶、ゴーゴー喫茶を中心に活動したロック・グループなどを指している。グループ・サウンズに共通することは、ほとんどのグループがリード・ヴォーカル+エレクトリック・ギター+エレクトリックベース+ドラムスといった編成(スリーピース+ワン)をとっていることであるが、例外的に、初期ザ・ハプニングス・フォーやギターを弾くことを禁じられていたころのザ・フィンガーズ等のギターレスGS、シャープ・ホークスやザ・ワンダースのような、プロのエレキバンドを従えたコーラスGSも存在していた。


「グループ・サウンズ」という呼び名の定義が曖昧例もある。例えばピンキーとキラーズはGSとして扱われることも往々にあったが、クレージーキャッツや後輩のザ・ドリフターズはジャズ喫茶で活動していた時期があったが、音楽性の理由からか、当時も現在もGSとは呼ばれていない。一方でGS以前の活動やGS以外の仕事も多く、そう呼ばれることにも難色を示していたジャッキー吉川とブルー・コメッツはメンバー再編までGSのレッテルを貼られ続けた。また年輩の記者などの中には1970年代以降も、エレクトリックギター編成のロックバンド=グループ・サウンズと表現する人もいた。



歴史


1965年5月、ビートルズなどイギリスのロックバンドの人気が日本にも広まる中で田辺昭知とザ・スパイダースの『フリフリ』を発売、この曲が最初のグループ・サウンズのレコードとされている[1]。次いで8月20日には寺内タケシとブルージーンズが「ユア・ベイビー」を発売、1966年3月にはジャッキー吉川とブルー・コメッツが「青い瞳」、7月1日にはザ・サベージが「いつまでもいつまでも」で続き、これらの楽曲がグループ・サウンズの源流となる。また、同じ頃には加山雄三が「エレキの若大将」の制作もあり、ブルージーンズやザ・ランチャーズをバックにエレキインスト+ヴォーカルというスタイルの楽曲を複数発表している。[要出典]


この年、6月30日からのビートルズ来日公演以降、エレクトリックギター等の楽器を自ら演奏しながら歌うグループが日本で次々とデビューするようになる。このことを受け、若者向け芸能雑誌「週刊明星」がこれらのグループや音楽を総括して「グループ・サウンズ」または「グループ・サウンド」と呼び始めたことをきっかけに広まった呼称で、起源にはいくつかの説がある。1965年に寺内タケシが当時のブルージーンズのジャンルを記者から聞かれた際の「グループ・サウンドだ」「でもそれだと単数形だからグループ・サウンズのほうがいい」というやりとり、またはエレキの若大将を撮影中だった加山雄三がTVのインタビューで「ロックンロール」に代わる新しい名称として「グループ・サウンズ」を提案した、等の説が最初と言われている[2]


当時は音楽ジャンルの細分化が進んでいなかった時代でもあり、ブルー・コメッツやザ・スパイダース、ブルージーンズのように、ビートルズ来日公演以前からプロのバンドとして活動していたものから、ザ・サベージやザ・ワイルドワンズのようなフォーク・ロック・グループ、またザ・タイガースやザ・テンプターズのように「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」に影響を受けた学生が仲間内で結成したアマチュア出身のバンド等までもが「グループ・サウンズ」と称されており、各グループの音楽性や表現性などにはかなりのばらつきがあった。[要出典]


当時の音楽業界はまだまだ旧体制で、各レコード会社には専属の作曲家・作詞家がついており[3]、プロの作家が書いた楽曲や、メンバーが書いたオリジナル曲でも、レコード会社に認められたもののみをシングル曲として発表させられていた。そのため、コンサート(リサイタル)などでは自分たちの好きな洋楽ロック等を中心に演奏し、シングル曲は絶対に演奏しないというポリシーを貫いたグループもいた[4][要出典]


GSブーム初期にはジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・スパイダース、ザ・サベージが人気グループとなり[5]、GSブームの中期から後期にはザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックスがGS御三家と呼ばれた[6]。ただし、スパイダースやブルー・コメッツ、ゴールデン・カップスも、彼らに匹敵する人気GSだった。


2010年代には、1970年以降に現れたPYGや、浅野孝已(ゴダイゴのg)が在籍していたチャコとヘルス・エンジェルなどがGS認定される傾向にある。[要出典]



社会現象


当時は長髪やエレキギターといった要素は不良、若者の非行に結びつけられ、一般社会からの風当たりは非常に強かった。そのため、グループ・サウンズのコンサートを観に行った高校生には停学もしくは退学処分を下され、コンサートに行くこと自体を禁止する中学校・高校が続出した。そしてそれらの不当な処分は、学校側にとってもあたかも当然な処分であるかのように、罷り通っていた。[要出典]


1967年11月に行われたザ・タイガースの奈良あやめ池での野外コンサートで、ファンの転倒事故が発生、重軽傷者を出した[7]。そのためNHKは、『歌のグランド・ショー』で既に収録済みだったザ・タイガースの出演部分をカットし、以後、ジャッキー吉川とブルー・コメッツを例外に、長髪系のグループ・サウンズの出入りを禁止した[7]。また1968年5月にはザ・タイガースの女子高生ファンによるコンサート入場券偽造事件も起きた。


オックスがステージ上で行った失神パフォーマンスにより実際に失神する少女達が続出し、これを契機にPTAや教育関係者の反感を買うこととなった。そして事故防止のためグループ・サウンズのバンドにはコンサート会場を提供しないという劇場や自治体が多くなった[8]「レコード・コレクターズ」の特集によれば自作自演をしたかったGSグループだったが、レコード会社が作家重視だった為、なかにし礼や村井邦彦などフリーの作詞家、作曲家を雇った。GSがやりたくてもやれなかった自作自演を実現したのが、70年代以後の井上陽水らシンガーソングライターである。[要出典]



女性版GS/一人GS/カルトGS


1960年代にはピンキー・チックス、(東京)エンゼル・シスターズ、、松田智加子とTokyo Pink Pearls(東京ピンク・パールズ)など、いくつかのプロの女性GS(事務所に所属)が存在した。そのうちレコードを出したのはピンキー・チックスのみである。女性GSメンバーの中には、70年代にディスコのレコードを出せた歌手もいた。後にサーフ・ロック風のゴールデンハーフもデビューしている。彼女らの「太陽の彼方」はアストロノーツ[9]のカバーだった。エミー・ジャクソンは早すぎた一人GSだったが、GS全盛期には中村晃子、黛ジュン、青山ミチ、小山ルミ、泉アキらの「一人GS」もデビューした[10]。中村晃子の「虹色の湖」、黛ジュンの「天使の誘惑」「恋のハレルヤ」などは、大ヒットになった。黛ジュンの「土曜の夜、何かが起きる」は女性版GSの代表曲である。また、男性版一人GSの荒木一郎はヒット曲のほかに、「僕は君と一緒にロックランドにいるのだ」の意欲作を出した。GSブームが去っ20年ほどたった90年代に注目されるようになったのが、カルトGSである。ザ・ジェノバの「サハリンの灯は消えず」、ザ・ボルテージの「イッツ・ア・マンズ・マンズ・ワールド」[11]などはカルトGSの作品としてあげられる。



GSのその後


1968年夏頃にはGSブームはピークを迎え、100を超えるグループがレコードデビューを果たすも[12]、1969年春にはザ・タイガース、オックスなどの人気グループから主要メンバーが相次いで脱退し、またジャッキー吉川とブルー・コメッツを筆頭にムード歌謡路線に転向するグループも現れ人気は急下降した。同年夏を迎える頃には完全にGSブームは終焉を迎え、1971年に入るとほとんどのグループが解散・自然消滅をした[13][要出典]


その後人気グループ・サウンズに於いてリード・ヴォーカルを務めていた人物の中からは、グループ解散後も歌手やミュージシャン、俳優、またタレントとして芸能界の第一線で活躍し続けている人物も多い。また他の楽器パートを務めていた人物にも、俳優や作曲家、音楽プロデューサー、芸能事務所経営者等として、芸能界の重要人物へと納まっている者が何人も存在する。


1984年から翌1985年にかけてはかつての大手グループの幾つかが出演し演奏するTVのスペシャル番組(90分枠)が度々放送された(メンバー全員としてはワイルドワンズ、ヴィレッジシンガーズ、ジャガーズ、カーナビーツ、そして赤松愛、夏夕介を除いたオックス)。[要出典]


また1988年から1990年にかけて、タイガース・メモリアル・クラブ・バンドと称した大型ユニットが結成され、当時のヒット曲を次々と披露した。さらに、沢田研二の物真似で御馴染みの岩本恭生が彼らに感動し、ザ・タイガースのメンバーの内、加橋かつみ、森本太郎、岸部シローとザ・タイガースマニアというバンドを1993年に結成し、「涙のロマンス」をリリースした。[要出典]


一方ザ・ワイルドワンズも、1981年に再結成し、現在も活動中である。またジャッキー吉川とブルー・コメッツは解散せず(いわゆるGSとしてのブルー・コメッツは1972年秋に解散=再編成という形を採った)にメンバーチェンジを繰り返しながら活動を続け、井上忠夫の逝去後は全盛期の残りの4人という編成に戻している。なおザ・タイガース、ザ・ワイルドワンズは共にGS全盛期、渡辺プロ所属であった(ジャッキー吉川とブルー・コメッツの所属した大橋プロは業務提携という形で渡辺プロの傘下だった)。[要出典]


2002年にはヴィレッジ・シンガーズの『亜麻色の髪の乙女』が島谷ひとみによってカバーされ(詳細はこちらの項目を参照)ヒット、それをきっかけにヴィレッジ・シンガーズはライブ活動を再開し現在も続けている。[要出典]


GSは、ブームが去った後いわゆる『懐メロ』として長らく扱われた。だが、1980年代半ばからのGS研究家、黒沢進による研究や近田春夫による再検証が1990年代後半に功を奏し、一部から注目されるようになった。同じ頃インターネットの普及により、当時発売されたレコードが容易に入手し易くなったこと、そして2007年よりYouTubeなどで当時の映像が視聴出来るようになったこともあり、再評価を得始めている。海外でも『ガレージパンク』や『ガレージロック』、『ソフトロック』として評価されており、ブートレッグ版が発売され、その人気を受け正式にCDがリリースされたりしていた。[要出典]日本ではレーベル別の再編集アルバムや、ジャンル別のアルバム、発売当時そのままの紙ジャケット仕様によるCD再発などのリリースが相次いでいる。



新世代によって継承されるGS






第二次バンドブームが勃興した1980年代半ばに登場したC-C-BはGSの再来と言われた。時をほぼ同じくして、GSが流行した前後に生まれた子供たちによるネオGSムーブメントが東京のライブハウスを中心に起きた。当時の代表的なバンドは ザ・ファントムギフト、ザ・コレクターズ、ザ・ストライクス、ヒッピー・ヒッピー・シェイクス等が挙げられる。このムーブメントは一部のメディアに取り上げられた。その後もデキシード・ザ・エモンズ、ルルーズ・マーブル、ザ・サイクロンズ、thee 50's high teens等がGSを継承していった。


そして21世紀以降もキノコホテル、アポロンズ、ザ・キャプテンズ、ザ・シャロウズ、などのGS風ロックバンドや、ザ・シロップなど、次々とGSフォロワーが生まれている。


2010年以降は、元ジャッキー吉川とブルー・コメッツの三原綱木がプロデュースするザ・ジュリアンズなどのバンドが誕生している。



日本のグループ・サウンズ



主要10グループ・サウンズ


主要10グループ・サウンズ[14]




  • ヴィレッジ・シンガーズ(ヴィレッジシンガーズ)

  • オックス

  • ザ・カーナビーツ

  • ザ・ゴールデン・カップス


  • ザ・スパイダース(田辺昭知とザ・スパイダース)

  • ザ・ジャガーズ


  • ブルー・コメッツ(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)

  • ザ・タイガース

  • ザ・テンプターズ


  • ザ・ワイルドワンズ(ザ・ワイルド・ワンズ、加瀬邦彦とザ・ワイルドワンズ等)



その他のグループ・サウンズ




  • アウト・キャスト(Key. 穂口雄右)

  • アダムス

  • ジ・アップル


  • 井上宗孝とシャープ・ファイブ:曲「追憶」

  • ザ・ヴァン・ドッグス


  • 内田裕也とザ・フラワーズ(内田裕也、Vo. 麻生レミ)

  • 江田聖明とザ・ブレイズ


  • ジ・エドワーズ(G. 大石吾朗):曲「クライ・クライ・クライ」

  • オリーヴ

  • ザ・ガリバーズ

  • ザ・キッパーズ

  • ザ・キングス

  • ザ・クーガーズ

  • ザ・サイレンサー

  • ザ・サニー・ファイブ


  • ザ・サベージ(B. 寺尾聰)

  • ザ・サマーズ

  • ザ・ジェット・ブラザーズ


  • ザ・ジェノバ:曲「サハリンの灯は消えず」

  • ザ・シェリーズ

  • ザ・ジャイアンツ

  • ザ・シャーウッド


  • シャープ・ホークス(Vo. 安岡力也)


  • ザ・スウィング・ウエスト(ザ・スィング・ウェスト等)(Vo. 湯原昌幸)

  • スケルトンズ


  • ズー・ニー・ヴー(Vo. 町田義人)

  • ザ・スパローズ(G&Vo.中本直樹)

  • ザ・スピリッツ


  • ザ・ダイナマイツ(Vo. 瀬川洋、G. 山口冨士夫)

  • ザ・ダーツ

  • ザ・タックスマン

  • ザ・ターマイツ

  • ザ・デビィーズ


  • 寺内タケシとブルージーンズ、寺内タケシとバニーズ


  • 東京ベンチャーズ(ザ・シルビーフォックス)

  • ザ・ナポレオン


  • ザ・ハプニングス・フォー(Key. クニ河内、Dr. チト河内)


  • パープルシャドウズ(パープル・シャドウズ)

  • ザ・バロネッツ


  • ザ・バロン(G. 芹澤廣明、B. 若子内悦郎)


  • ザ・ビーバーズ(Vo. 成田賢、G. 石間秀樹)

  • ファンキー・プリンス

  • フィフィ・ザ・フリー


  • ザ・フィンガーズ(G. 成毛滋)


  • 491(フォー・ナイン・エース)(Vo. ジョー山中)

  • ザ・ブラック・ストーンズ

  • ザ・ブルーインパルス


  • ブルー・シャルム(Key. 馬飼野康二)

  • ザ・プレイボーイ


  • ザ・フローラル(Vo. 小坂忠、Key. 柳田ヒロ)

  • ポニーズ

  • ザ・ホワイト・キックス


  • ザ・ボルテージ(ザ・ボルテイジ)[15]:曲「イッツ・ア・マンズ・マンズ・ワールド」


  • ザ・マイクス(Vo. G. マイク真木、Vo. 高田恭子)

  • ザ・マミーズ

  • ミッキー・カーチスとザ・サムライズ

  • ザ・モージョ


  • ザ・モップス(モップス)(Vo. 鈴木ヒロミツ、G. 星勝)

  • ザ・ヤンガーズ

  • ザ・ライオンズ


  • ザ・ラヴ(G. 藤田浩一)[16]


  • ザ・ランチャーズ(Vo. G. 喜多嶋修)

  • ザ・リリーズ

  • リンガーズ

  • ザ・リンド&リンダース

  • ザ・ルビーズ


  • ザ・レインジャーズ(ザ・レンジャーズ)

  • レオ・ビーツ


  • ザ・ワンダース(Vo. 尾崎紀世彦)



外国人のグループ・サウンズ



  • ザ・クラックナッツ

  • デ・スーナーズ

  • ザ・ハーフ・ブリード

  • ザ・リード



女性のグループ・サウンズ


  • ピンキー・チックス


一人GS



  • 中村晃子

  • 黛ジュン

  • 荒木一郎



ネオGS




新世代のグループ・サウンズ



  • キノコホテル

  • ザ・キャプテンズ

  • ザ・シャロウズ

  • ザ・ブルーバード

  • ザ・シロップ

  • thee 50's high teens

  • ザ・ハイマーツ



脚注





  1. ^ 黒沢進 『日本ロック紀GS編』シンコー・ミュージック、1994年、123頁。ただし発表当時は、グループ・サウンズという概念は具現化しておらず、寧ろインストゥルメンタルの演奏を中心とした「エレキバンド」が幅を利かせていた時期である。黒沢進によれば、この曲に対する当時の世間の評価は「エレキバンドの余技」「エレキバンドが歌も唄いましたよ」という程度ではなかったか、という(黒沢進『熱狂! GS図鑑』「フリフリ」曲紹介の項より)。


  2. ^ ジュリアン・コープ『ジャップロック サンプラー』2007年、90頁。このコープの採用した説の起源は米ローリングストーン誌1969年3月1日号「Rockin' in the Land of the Rising Sun」という記事が原典となっている。


  3. ^ 、ヒット曲を手がけた作家で作詞家には橋本淳、なかにし礼など、作曲家には村井邦彦、筒美京平、すぎやまこういちなどが挙げられる。


  4. ^ エミー・ジャクソンの『涙の太陽 (Crying in a storm)』(のちに安西マリアがカバー)やブルー・コメッツの『青い瞳 (Blue eyes)』が、そうした状況を逆手に取った形で洋楽レーベルから発売され、それらが成功を収めて以降、旧体制は徐々にではあるが崩れ始め、GSのオリジナル曲はほとんどの場合、メンバーと年齢のあまり変わらないプロの作家や、フリーの作家たちの作った(またはメンバー、スタッフなどと共同制作で作った)楽曲であった。また、歌詞やメロディーなどを自己流にアレンジしているグループが数多く存在している。なおGSや歌謡ポップスより前の旧体制下に於いては歌謡曲側と和製ポップス側の交流はあまり見られない状態であった。戦後流入した洋楽のカントリー・ミュージック、ロカビリーで活躍した平尾昌晃が作曲家として、ミッキー・カーチスはラウンジ・ジャズを経てグループ・サウンズに参入している。


  5. ^ 黒沢進『日本ロック紀GS編』シンコー・ミュージック、1994年、114頁。


  6. ^ 『同窓会コンサート』真木ひでと

  7. ^ ab中村俊夫 (2015年12月13日). “「GSバッシング」の真っ只中で行なわれたザ・タイガースのチャリティー・コンサート。”. 大人のミュージックカレンダー. 2017年7月9日閲覧。


  8. ^ こうした一連の出来事もあって「オックスはGSブームの終わりを早めた」との評価もあるが、後年ヴォーカルだった真木ひでと(野口ヒデト)は「僕は逆に(GSブームを)一年半延ばしたと思いますね」と語っている(アルバム『オックス・コンプリート・コレクション』・ジャケット内掲載のインタビュー等より)。


  9. ^ http://www.allmusic.com/.../everything-is-a-ok%21-mw0000...


  10. ^ http://plaza.rakuten.co.jp/ruzerukabu/diary/200904120003/


  11. ^ http://music-calendar.jp/2017031901


  12. ^ 大半のグループが曲数の差こそあれ、シングル盤の発売のみ、またはアルバム発売へと至らず、アルバムの構想が持ち上がるも立ち消えとなったグループが含まれる。


  13. ^ ゴールデン・カップスやモップス、ハプニングスフォーなどは、GSブーム末期から暗中模索しニューロックへと変貌を遂げ、また1971年から1972年にかけGS残党組によってPYG、フラワー・トラベリン・バンドなどのニューロックのグループが結成された。


  14. ^ 黒沢進 『日本ロック紀GS編』 シンコー・ミュージック、1994年、185-187頁。


  15. ^ 串田アキラがこのザ・ボルテイジにヴォーカリストとして在籍していたとする説があるが、『日本ロック紀GS編』150頁によれば、串田は1967年3月に、横浜の「バームス」というバンドから、ボルテイジの前身となるバンド(バンド名不明)の結成に参加したものの、同年10月にそのバンドを抜けた、とある(このバンドが「ザ・ボルテイジ」として正式に活動を始めるのは、翌1968年2月からである)。これに関しては串田本人も、公式サイトで「ボルテイジに所属していた事実はありません」とコメントしている[1]。


  16. ^ のち、藤田はトライアングル・プロの社長を務めた(カルトGSコンプリート・シングルズ4、解説より。発売元テイチクエンタテインメント)。




関連項目



  • リバプールサウンド

  • ガレージロック

  • ニュー・ロック

  • サイケデリック・ロック

  • ネオGS

  • 安西マリア



外部リンク



  • 第38回 ─ グループ・サウンズ - bounce.com 連載(2005年2月19日時点のアーカイブ)







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