天授 (日本)
天授(てんじゅ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。文中の後、弘和の前。1375年から1381年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。
目次
1 改元
2 出典
3 天授期におきた出来事
3.1 誕生
3.2 死去
4 西暦との対照表
5 脚注
6 関連項目
改元
- 文中4年5月27日(ユリウス暦1375年6月26日)[1] 地震災害[2]による改元
- 天授7年2月10日(ユリウス暦1381年3月6日) 弘和に改元
出典
出典は不詳だが、『史記』淮陰侯列伝の「且陛下所謂天授、非人力也」によるか。勘申者は権大納言右近衛大将花山院長親と伝わる[2]。
天授期におきた出来事
※ 南朝関係に限る。
- 元年(1375年)
- 月日不明(6月とも) - 『五百番歌合』が催される。
8月26日 - 九州探題今川了俊が肥後水島の軍営で少弐冬資を暗殺する(水島の変)。
- 2年(1376年)
- 4月 - 『百番歌合』が催される。
- 6月 - 長慶天皇・東宮煕成親王が『千首和歌(天授千首)』を発意する。
- この夏 - 菊池武朝が後征西将軍宮(良成親王か)を奉じて肥後国府に出陣し、今川了俊・大内義弘から防備する。
- 12月 - 今川満範・相良前頼・伊東氏祐らが日向都城を攻め、島津氏久は救援のため天峰に出陣する。
- 3年(1377年)
1月13日 - 今川仲秋が肥前千布・蜷打で菊池武朝と交戦して破る(肥前蜷打の戦い)。
7月13日 - 宗良親王が嘉喜門院に対して詠歌(『嘉喜門院集』)の提出を要請する。
8月12日 - 菊池武朝が肥後臼間野・大水関で今川仲秋・大内義弘らと交戦して敗退する(鎮西合戦)。- この冬 - 宗良親王が信濃へ向かう途中、長谷寺に入って落飾する。
- 4年(1378年)
9月29日 - 菊池武朝・後征西将軍宮が肥後託麻原で今川了俊と交戦して破る(託麻原の合戦)。
12月13日 - 橋本正督が紀伊守護細川業秀を攻撃して敗走させる。
- 5年(1379年)
1月22日 - 山名義理・氏清らの北朝方が和泉土丸城の橋本正督を攻略する。
3月1日〜3日 - 島津氏久が日向蓑原で今川満範を攻撃して破る(蓑原の合戦)。
6月17日 - 菊池武朝が肥後団山に出陣し、今川仲秋と交戦する。- 9月 - これ以前、行宮を吉野から栄山寺に移す。
- 6年(1380年)
7月17日 - 橋本正督が和泉守護山名氏清と交戦して敗死する。
10月8日 - 今川仲秋が肥後水島城を陥落する。
- 7年(1381年)
- 1月 - 内裏歌会が催される(『新葉和歌集』に見える年次の明らかな最新の和歌会)。
誕生
- 2年(1376年)
- 月日不明 - 尊聖、真言宗僧・長慶天皇の皇子(+ 永享4年)
- 3年(1377年)
- 月日不明 - 行悟、天台宗僧・長慶天皇の皇子(+ 応永13年)
死去
- 3年(1377年)
- 8月 - 菊池武義、武将
- 8月 - 阿蘇惟武、武将
9月4日? - 千種顕経、公卿
- 5年(1379年)
11月6日 - 河野通堯、武将・伊予守護
- 6年(1380年)
3月28日 - 授翁宗弼、臨済宗僧(* 永仁4年)
7月17日 - 橋本正督、武将
11月15日(10月13日とも) - 大内弘世、武将・周防守護(* 正中2年?)- 11月(12月とも) - 北畠顕信、公卿・武将(* 元応2年?)
西暦との対照表
※は小の月を示す。
天授元年(乙卯) | 一月※ | 二月 | 三月 | 四月※ | 五月 | 六月※ | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月※ | 十一月※ | 十二月 | |
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永和元年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1375/2/2 | 3/3 | 4/2 | 5/2 | 5/31 | 6/30 | 7/29 | 8/28 | 9/26 | 10/26 | 11/24 | 12/23 | |
天授二年(丙辰) | 一月※ | 二月 | 三月 | 四月※ | 五月 | 六月※ | 七月 | 閏七月※ | 八月 | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ |
永和二年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1376/1/22 | 2/20 | 3/21 | 4/20 | 5/19 | 6/18 | 7/17 | 8/16 | 9/14 | 10/14 | 11/13 | 12/12 | 1377/1/11 |
天授三年(丁巳) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月 | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月 | 十一月※ | 十二月 | |
永和三年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1377/2/9 | 3/10 | 4/9 | 5/8 | 6/7 | 7/6 | 8/5 | 9/4 | 10/3 | 11/2 | 12/2 | 12/31 | |
天授四年(戊午) | 一月※ | 二月※ | 三月 | 四月※ | 五月 | 六月※ | 七月 | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月※ | |
永和四年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1378/1/30 | 2/28 | 3/29 | 4/28 | 5/27 | 6/26 | 7/25 | 8/24 | 9/23 | 10/22 | 11/21 | 12/21 | |
天授五年(己未) | 一月 | 二月※ | 三月※ | 四月 | 閏四月※ | 五月※ | 六月 | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月 | 十一月 | 十二月※ |
康暦元年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1379/1/19 | 2/18 | 3/19 | 4/17 | 5/17 | 6/15 | 7/14 | 8/13 | 9/12 | 10/11 | 11/10 | 12/10 | 1380/1/9 |
天授六年(庚申) | 一月 | 二月※ | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月※ | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月 | 十一月 | 十二月※ | |
康暦二年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1380/2/7 | 3/8 | 4/6 | 5/5 | 6/4 | 7/3 | 8/1 | 8/31 | 9/29 | 10/29 | 11/28 | 12/28 | |
天授七年(辛酉) | 一月 | 二月 | 三月※ | 四月※ | 五月 | 六月※ | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月※ | |
永徳元年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1381/1/26 | 2/25 | 3/27 | 4/25 | 5/24 | 6/23 | 7/22 | 8/20 | 9/19 | 10/18 | 11/17 | 12/17 |
脚注
^ 『南朝編年記略』・『続史愚抄』による。なお、史料上の初出は、『高野山文書』にある天授元年6月2日(ユリウス暦1375年7月1日)付の学侶評定事書写である。
- ^ ab『南朝編年記略』による。
関連項目
天授 - 北魏の時代に劉獲、鄭弁が立てた私年号(527年)。
天授 - 武周で使用された元号(690年 - 691年)。
天授 - 高麗の太祖の元号(918年 - 933年)。
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