蝦夷








アテルイ、モレの顕彰碑
(京都市清水寺)


蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。


中央政権の地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。


大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。




目次






  • 1 語源と用字


  • 2 えみし


    • 2.1 歴史記録


    • 2.2 民族系統


    • 2.3 民俗資料に見えるエミシ




  • 3 えぞ


  • 4 脚注


    • 4.1 注釈


    • 4.2 出典


    • 4.3 参考文献




  • 5 関連項目


  • 6 外部リンク





語源と用字


蝦夷は古くは愛瀰詩と書き(神武東征記)、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読んだ。後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われる[1]。「えぞ」が使われ始めたのは11世紀か12世紀である[2]


えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征記であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。「蝦夷」表記の初出は、日本書紀の景行天皇条である。そこでは、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は、「身を文けて」つまり、邪馬台国の人々と同じく、入墨(文身)をしていたことが分かっている。


古歌で「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」(えみしは一人で百人と人は言うが、我が軍には手向かいもしない)[3]と歌われたこと、蘇我蝦夷のように古代の日本人の名に使われたことから、「えみし」には強くて勇敢という語感があったようである[4]。そこから、直接その意味で用いられた用例はないものの、本来の意味は「田舎の(辺境の)勇者」といったものではないかという推測がある[5]


他方でアイヌ語に語源があると考えた金田一京助は、アイヌ語の雅語に人を「エンチュ (enchu, enchiu)」というのが、日本語で「えみし」になったか、あるいはアイヌ語の古い形が「えみし」であったと説いた[6]


文献的に最古の例は毛人で、5世紀の倭王武の上表文に「東に毛人を征すること五十五国。西に衆夷を服せしむこと六十六国」とある。蝦夷の字をあてたのは、斉明天皇5年(659年)の遣唐使派遣の頃ではないかと言われる[7]。後代に人名に使う場合、ほとんど毛人の字を使った。蘇我蝦夷は『日本書紀』では蝦夷だが、『上宮聖徳法王帝説』では蘇我豊浦毛人と書かれている。毛人の毛が何を指しているかについても諸説あるが、一つは体毛が多いことをいったのだとして、後のアイヌとの関連性をみる説である。また、中国の地理書『山海経』に出てくる毛民国を意識して、中華の辺境を表すように字を選んだという説もある[8]


人名に使った場合であっても、佐伯今毛人が勤務評定で今蝦夷(正確には夷の字に虫偏がつく)と書かれた例がある[9]。蝦夷の蝦の字については、あごひげが長いのをエビに見たてて付けたのだとする説がある[10]。喜田貞吉は、意味ではなく音「かい」が蝦夷の自称民族名だったのではないかと説いた。アイヌ人はモンゴル人から「クイ」、ロシア人からは「クリル」と呼ばれた。斉明天皇5年の遣使の際に、聞き取った唐人が蝦夷の字をあて、それを日本が踏襲したという[† 1]。金田一京助は喜田の説を批判して、「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた[11]。夷の字を分解すると「弓人」になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある[12]


諸説ある中で唯一定まっているのは、「夷」が東の異民族を指す字で、中華思想を日本中心にあてはめたものだということである。「夷」単独なら『古事記』などにも普通にあるが、その場合古訓で「ひな」と読む。多くの学者は用字の変化を異族への蔑視の表れとし、蘇我毛人を蘇我蝦夷としたのも『日本書紀』編者が彼を卑しめたものとする[13]。だが、佐伯今毛人の例を引いてこれに反対する意見もある[14]


用字については、『日本書紀』では蝦夷の夷の字に虫偏をつけた箇所も散見される[15]。蝦夷の字の使用とほぼ同じ頃から、北の異民族を現す「狄」の字も使われた。「蝦狄」と書いて「えみし」と読んだらしい。毛人と結合して「毛狄」と書かれた例もある[16]。一字で「夷」と「狄」を使い分けることもよくあった。これは管轄する国(令制国)による人工的区分で、越後国(後に出羽国)所轄の日本海側と北海道のえみしを蝦狄・狄、陸奥国所轄の太平洋側のえみしを蝦夷・夷としたのである[17]



えみし


古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団もあれば、敵対した集団もあったと考えられている。しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられている。
蝦夷(えぞ)と蝦夷(えみし)とは連続性を有すると考えられてきたが、昭和に入ってから東北地方に弥生時代の稲作遺跡が発見されたことから、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)を、人種的にはともかく、民族的には区別する説が有力となった。


「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一アイデンティティーは無かったと解するか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。



歴史記録


蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『日本書紀』神武東征記中に詠まれている来目歌の一つに愛濔詩として登場する。



えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず


(訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)
「愛瀰詩烏 利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毛勢儒」[† 2]



しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものかどうかは判然とせず、またここで登場する「えみし」が後の「蝦夷」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていない。概ね関東地方から東北地方、北海道にかけて、広く日本列島の東方に住んでいたと考えられている。


5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝に、 478年(順帝昇明2年)倭王武が宋 (南朝)に届けた上表文として以下の記述がある。


「昔より祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」


「自昔祖禰躬環甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」

これにより既にこの時代には蝦夷の存在とその支配が進んでいた様子を確認することが出来る。










































前方後円墳の北限[18][19][20][21][22]

日本海側
太平洋側

島嶼
沿岸
内陸

佐渡

新潟県(佐渡除く)

山形県(庄内除く)
福島県会津

岩手県
宮城県
最北端
なし

菖蒲塚古墳(地図[23]

坊主窪古墳群第1号墳
地図[24]

角塚古墳(地図[25]
最大
菖蒲塚古墳(地図
全長:53m[23]

亀ヶ森古墳(地図
全長:127m[26][27]

雷神山古墳(地図
全長:168m[28]
最古級

稲場塚古墳(地図

杵ガ森古墳(地図

かめ塚古墳(地図







これまでの発掘調査により、古墳時代前期における最古級の前方後円墳の北限は、現在の新潟県・越後平野中部、福島県・会津盆地、宮城県・仙台平野であったと考えられている。同時代の終末期までに北限は、日本海側沿岸ではほとんど北進せずむしろ中越地方に後退するが、日本海側内陸では山形県・村山地方中部まで、太平洋側では岩手県・北上盆地南部まで北進した。


『日本書紀』斉明天皇元年(655年)7月11日条には、難波朝(難波京の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応したとある。そこでは「北」と「東」にぞれぞれ「北越」「東陸奥」と注があり、北は越の方面、東は陸奥の方面と解せる。このうち越国は陸奥国の西に位置するが、越(高志)は都からみて北に位置するので北蝦夷としている[29]。これらの語は当時の蝦夷が二大集団に分かれていたという意ではなく、応対する国(令制国)の管轄によって朝廷が用いた分類であると考えられている。この区別は後に出羽国と陸奥国の管轄になって平安時代まで踏襲されたが、字は北の異民族を指す「狄」に変わり「蝦狄」とも書かれるようになった[30]


蝦夷の生活を同時代人が正面から語った説明としては、斉明天皇5年(659年)の遣唐使と唐の高宗の問答が日本書紀にある。それによると、大和朝廷に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つがる)があった。この使者の説明では、蝦夷は穀物を食べず、家を建てず、樹の下に住んでいた。しかしこのような生活は史料にみえる他の記述とも現在の考古学的知見とも矛盾し、蝦夷を野蛮人と誇張するための創作と思われる。信憑性に欠けるこの説明から確実にわかるのは、都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として存在したことである。


飛鳥時代(7世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。斉明天皇4年(658年)には阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討っている。大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、また和人の築いた柵を越えて襲撃を行った。最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、宝亀11年(780年)に多賀城を一時陥落させた宝亀の乱の伊治呰麻呂、延暦8年(789年)に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。朝廷側は大軍で繰り返し遠征し、征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した。朝廷側の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれた。


蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を和人にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。


平安時代前期(9世紀)になると、畿内朝廷は蝦夷に対する直接の征服活動を諦め、畿内朝廷の支配領域の拡大は現在の岩手県と秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止する。


その後は、現地の朝廷官僚や大和化した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、徐々に大和化が進行していったものと思われる。前九年の役、後三年の役などが勃発し、平安後期の東北北部は戦乱の時代であったが、当事者のうち安倍氏や清原氏は俘囚の長を自称し蝦夷との系譜的関連性を主張しているが、他方源氏などは蝦夷とは全く無関係のまま東北に乗り込んでおり、当時の民族状況の一端が伺える。平安末期になると、蝦夷との血縁的・系譜的関係を主張する奥州藤原氏の支配が東北北端まで及ぶことになる。


藤原氏3代は中尊寺金色堂でミイラになっている。「東夷之遠酋」や「俘囚之上頭」を自称する藤原氏のミイラの調査は注目された。調査の結果、このミイラには指紋には渦紋が多く頭は丸顔で歯のかみ合わせも日本人的であり、藤原氏の骨格は日本人の骨格であるとされた。また、ミイラには内臓や脳漿は全く無く、腹部は湾曲状に切られ後頭部に穴が開いていた。ただ、裂け目にネズミの歯形が付いており、長谷部言人はミイラは自然発生したと主張し藤原3代は日本人であったとした。それに対し、古畑種基はミイラの人工加工説を主張した。木棺3個とも後頭部と肛門にあたる板に穴が開けられていたが、切り口は綺麗で汚物が流出した跡は無く、また男性生殖器は切断されており、加工の跡は歴然だとした。これは極めてアイヌ的な慣行で、樺太アイヌは偉大な酋長が死ぬと近親者は遺体の脳漿と内臓を除去し、何度か塩水を付けて天日で乾かしミイラ(ウフイ)を作る。森嘉兵衛は、和人との何代かにわたる婚姻で骨格は日本人化していたが、精神や葬祭の慣行はアイヌ的なものが変わらず残っていたのではないかとしている。[31]


奥州藤原氏が源頼朝率いる関東地方の鎌倉政権によって滅ぼされると、幕府は東北地方各地に東国武士を派遣し、ここに蝦夷と全く無関係な鎌倉幕府(関東政権)による支配がはじめて東北北端にまで及ぶことになる。相前後して蝦夷、俘囚などと言った民族的諸概念は文献から姿を消し、次項に述べる「エゾ」に置き換わる。



民族系統


蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、江戸時代から学説が分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を和人の一部とする蝦夷辺民説である。現在では、考古学からする文化圏の検討と、北東北にアイヌ語で説明できる地名が集中しているから、少なくとも飛鳥時代(7世紀)以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力である。中央政府側に通訳がついていたことから蝦夷の言語が日本語と相当異なっていたことが分かり、前述の通りアイヌ語系の地名が東北北部に数多く残っていることから、アイヌ語系統の言葉を話していたと推定される[32]。古墳時代の寒冷化に伴い、北海道の道央や道南地方を中心に栄えていた続縄文文化の担い手が東北地方北部を南下して仙台平野付近にまで達し、西南日本から北上して来た古墳文化の担い手と接触・交流していたことが、考古学的に明らかとなっている。彼らが文献上の蝦夷そのものであり、その後、北海道の蝦夷は最終的にアイヌに継承され、東北地方の蝦夷と国内に移配された俘囚は和人に合流したとされる。


一方で、蝦夷(えみし)は「ズーズー弁」(現在の東北方言の始祖)を話し、アイヌとは異なった民族であるとする説[33]もある。 特に東北方言と出雲方言の類似性から、古代出雲系の民族のうち国譲り後も大和王権に従わなかった勢力が蝦夷(えみし)となったとする見方[34]もある。出雲弁とツングース諸語の類似[35]などから、蝦夷(えみし)はもともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方新モンゴロイドの騎馬民族とする説もある。



民俗資料に見えるエミシ


種々の伝説中に、エミシの族長クラスの名として阿弖流為(アテルイ)、大武丸(おおたけまる)などともに赤頭(太郎)(あかず(たろう))の名が残る。民俗学者・柳田国男はこの「赤頭」について、赤髪か、または赤い顔の事だろうとしていた[36]。柳田は同時にエミシの伝説として、東北人は「赤頭太郎などと称して赤い大人(おおひと)がたくさんに来たと信じていた」というものを挙げていた。この「赤い大人」というのも、赤髪か赤い顔が考えられ、また、大きな人であったという事らしい[37]
さらに、蝦夷の語の「蝦」の漢字はエビまたはガマガエルの意だが、ここから蝦夷を、エビの様な赤い色をした異族とする解釈もある[38](夷は異民族を指す語)。


一方、エミシは、当時の東北人から鬼と呼ばれていたらしい[38]。例を挙げると、エミシの族長クラスの一人、大武丸の生誕地が「鬼生田」の地名、その死骸を埋められた場所が「鬼死骸村」、エミシの子孫を自称していた安倍一族と政府軍の戦闘場所が「鬼切部」という具合である。
鬼は、例えば今に残る酒呑童子(しゅてんどうじ)の絵を見れば、髪色は金色か赤色-茶色で、体格も大きく、絵によっては眼も明るい色になっている。そして肌色は赤である。エミシ伝説にまつわる「赤」と「大人」(おおひと)、これらに共通した特徴を持っている事が分かる。

「鬼」「鬼の正体説」の節も参照。



えぞ


中世以後の蝦夷(えぞ)は、アイヌを指すとの意見が主流である[39]。鎌倉時代後期(13世紀から14世紀)頃には、現在アイヌと呼ばれる人々と同一とみられる「蝦夷」が存在していたことが文献史料上から確認される。アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島、蝦夷地などと呼ばれ、欧米でも「Yezo」 の名で呼ばれた。「エゾ」の語源についてはアイヌ語で人を意味する「エンチュ (enchu, enchiu)」が東北方言式の発音により「Ezo」となったとする説がある[33]


アイヌ文化は、前代の擦文文化を継承しつつオホーツク文化(担い手はシベリア大陸系民族の一つであるニヴフといわれる[40])と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。その成立時期は上記「えぞ」の初見と近い鎌倉時代後半(13世紀)と見られており、また擦文文化とアイヌ文化の生活体系の最も大きな違いは、本州や大陸など道外からの移入品(特に鉄製品)の量的増大にあり、アイヌ文化は交易に大きく依存していたことから、アイヌ文化を生んだ契機に和人との交渉の増大があると考えられている。具体的には奥州藤原氏政権の盛衰との関係が指摘されている。


鎌倉時代後期(14世紀)には、「渡党[41]、「日の本[42]、「唐子[43]に分かれ、渡党は和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(『諏訪大明神絵詞』)が残っている。また、鎌倉時代には陸奥国の豪族である安東氏が、幕府の執権北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。


室町時代(15世紀から16世紀にかけて)、和人とアイヌの抗争の時代を生き抜き、和人勢力を糾合して渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は豊臣秀吉・徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列した。


詳細はアイヌを参照のこと。



脚注


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注釈





  1. ^ 高橋崇は蝦夷の自称とは言わないが、中国側が呼んだものとしてこの説に傾く(『蝦夷』20-21頁)。


  2. ^ 下線部「「」は田へんに「比」の一文字、「」は「」(にんべん)に「嚢」の一文字。




出典





  1. ^ 高橋富雄『古代の蝦夷』33頁。


  2. ^ 高橋崇『蝦夷』25-26頁。工藤雅樹『蝦夷の古代史』26頁。


  3. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀。


  4. ^ 高橋富雄『古代蝦夷』23頁、『宮城県の歴史』49頁。工藤雅樹『蝦夷の古代史』33頁。


  5. ^ 高橋富雄『古代蝦夷』23頁、『宮城県の歴史』49-50頁。


  6. ^ 金田一京助「本州アイヌの歴史的展開」(『古代蝦夷とアイヌ』64-65頁)、「蝦夷と日高見国」(110-116頁)、「蝦夷名義考」(同126頁)。


  7. ^ 高橋富雄『古代蝦夷』27-28頁、『宮城県の歴史』52-53頁。


  8. ^ 『山海経』第9海外東経(平凡社ライブラリー 132-133頁)。『工藤雅樹『蝦夷の古代史』46-47頁。


  9. ^ 高橋崇『蝦夷』16頁。


  10. ^ 高橋富雄『古代蝦夷』32-33頁


  11. ^ 金田一京助「蝦夷と日高見国」(『古代蝦夷とアイヌ』116頁)、「蝦夷名義考」(同127頁)。工藤雅樹もこれを支持する(『蝦夷の古代史』117-118頁)。


  12. ^ 高橋富雄『古代蝦夷』32-33頁、『宮城県の歴史』50頁。


  13. ^ 高橋富雄『宮城県の歴史』53頁。


  14. ^ 高橋崇『蝦夷』22-24頁。


  15. ^ 81例中14。高橋崇『蝦夷』12-13頁。


  16. ^ 『日本後紀』延暦16年2月己巳(13日)条。


  17. ^ 熊田亮介「蝦夷と蝦狄」162-165頁。


  18. ^ 概説2 新潟県の弥生時代後期~古墳時代前期 (PDF) (新潟県教育庁)


  19. ^ 概説3 新潟県の古墳時代中期~後期 (PDF) (新潟県埋蔵文化財調査事業団)


  20. ^ Ⅱ-2 考古学 (PDF) (新潟大学附属図書館)


  21. ^ 記念講演2「東北からみた古津八幡山古墳」 菊地芳朗(福島大学) (PDF) (新潟市「蒲原平野の王墓古津八幡山古墳を考える‐1600年の時を越えて‐」)


  22. ^ 小規模墳の消長に基づく古墳時代政治・社会構造の研究(東北大学大学院文学研究科 2006年3月)

  23. ^ ab国指定史跡 菖蒲塚古墳(新潟市)


  24. ^ 山辺 歴史散歩 第293話 (PDF) (山辺町)


  25. ^ 胆沢のクニの始まり(岩手県「いわての歴史文化」)


  26. ^ 福島県喜多方市 灰塚山古墳第3次発掘調査報告 (PDF) (東北学院大学)


  27. ^ 最上川流域における古墳の出現と展開 (PDF) (国土交通省東北整備局山形河川国道事務所「最上川電子大辞典」)


  28. ^ 東北日本における古墳文化の成立と展開 - 特に福島・宮城・山形県を中心として (PDF) (明治大学)


  29. ^ 熊谷公男「阿倍比羅夫北征記事に関する基礎的考察」90頁。


  30. ^ 熊谷公男「阿倍比羅夫北征記事に関する基礎的考察」87-90頁。


  31. ^ 県史シリーズ3 『岩手県の歴史』山川出版社 1972年


  32. ^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、141頁。ISBN 4-06-203994-X。

  33. ^ ab小泉保(1998)『縄文語の発見』青土社


  34. ^ 高橋克彦(2013)『東北・蝦夷の魂』現代書館


  35. ^ 『古代に真実を求めて 第七集(古田史学論集)』2004年、古田史学の会(編集)


  36. ^ 柳田国男『山の人生』岩波文庫、原典1926年、第25章より。


  37. ^ 東部日本では、山中の背の高い「異人」を大人(おおひと)と呼んでいたという(柳田国男『山の人生』第29章)。

  38. ^ ab中村昻(なかむら こう)『金髪碧眼の鬼達』JDC出版、2015年、第六章 第二節。ISBN 978-4-89008-536-1


  39. ^ ただし中世の蝦夷に含まれる渡党という集団は、文化的には近世アイヌに酷似しているが、その実体については諸説あり、青苗文化人の後裔とも、和人が土着化したものとの説もある。渡党の出自が何であれ、かれらは道南で和人の支配体制に取り込まれ、次第に和人化していったとも言われる。


  40. ^ オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー(北海道新聞 2012年6月18日)


  41. ^ 北海道渡島半島の住民で、津軽海峡を往来する交易集団。


  42. ^ 北海道太平洋側(近世の東蝦夷)の住民で、千島方面の産物をもたらした交易集団と推定される。


  43. ^ 北海道日本海側(近世の西蝦夷)の住民で、樺太(唐太)とつながり、中国の産品をもたらした交易集団と推定される。




参考文献




  • 金田一京助「蝦夷と日高見国」、工藤雅樹・編『古代蝦夷とアイヌ』(平凡社ライブラリー、金田一京助の世界2)、平凡社、2004年、ISBN 4582-76503-3。初出は『國學院雑誌』46巻2号、1940年。

  • 金田一京助「本州アイヌの歴史的展開」、工藤編『古代蝦夷とアイヌ』所収。初出は『日本民俗学体系』第2巻、平凡社、1958年

  • 金田一京助「蝦夷名義考」、工藤編『古代蝦夷とアイヌ』所収。初出は『國學院雑誌』61巻12号、1960年。


  • 工藤雅樹『蝦夷の古代史』、平凡社新書、平凡社、ISBN 4-582-85071-5。

  • 熊谷公男「阿倍比羅夫北征記事に関する基礎的考察」、高橋富雄・編『東北古代史の研究』所収、吉川弘文館、1986年、ISBN 978-4642022071 (ISBN 4-642-02207-4)。

  • 熊田亮介「蝦夷と蝦狄 古代の北方問題についての覚書」、高橋富雄・編『東北古代史の研究』所収。

  • 海保嶺夫『エゾの歴史 北の人びとと「日本」」』、講談社[講談社選書メチエ]、 1996年。ISBN 4062580691

  • 川内春人「唐から見たエミシ 中国史料の分析を通して」『史学雑誌』113編1号、pp.43-61、2004年。(ISSN 0018-2478)

  • 児島恭子『エミシ・エゾからアイヌへ』吉川弘文館[歴史文化ライブラリー]273、2009年。ISBN 9784642056731

  • 高橋崇『蝦夷――古代東北人の歴史』、中央公論新社[中公新書]、1986年。ISBN 4121008049

  • 高橋崇『蝦夷の末裔――前九年・後三年の役の実像』、中央公論新社[中公新書]、1991年。ISBN 4121010418


  • 高橋富雄『宮城県の歴史』(県史シリーズ4)、山川出版社、1969年。

  • 高橋富雄『古代の蝦夷』、学生社、1974年。

  • 中村昂『金髪碧眼の鬼達』JDC出版、2015年。ISBN 978-4-89008-536-1


  • 新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-06627-6


  • Across America and Asia Raphael Pumpelly, 1870 - アメリカ人冒険家による1861-1863年の蝦夷調査記録収録



関連項目




  • アラハバキ(荒覇吐)


  • 日高見国、陸奥国


  • 雷神山古墳、遠見塚古墳、末期古墳、つぼのいしぶみ


  • 胆沢扇状地、仙台平野


  • 大和王権、応神天皇、仁徳天皇、蘇我蝦夷、光仁天皇、桓武天皇


  • 鎮守府 (古代)、国府、郡山遺跡、多賀城、胆沢城、紫波城


  • 征夷大将軍、坂上田村麻呂


  • 蝦夷征討、移配、別所


  • 熊襲、隼人


  • アイヌ、渡党、道南十二館


  • 出羽柵、鼠ヶ関

  • 東北熊襲発言

  • 貞観地震

  • 東北地方


  • もののけ姫 - 物語の主人公であるアシタカが蝦夷出身という設定。蝦夷特有の武器である蕨手刀を使用している。


  • 砂沢遺跡 - 青森県弘前市にある弥生時代の遺跡。発見された水田の遺構は、紀元前5~4世紀における東北地方北部への稲作への伝播を示すが、縄文文化を特徴づける土偶も発見されているために、この遺跡を、弥生時代の遺跡の一つとみなす説と、弥生時代の遺跡に含めない説がある。


  • 荒蝦夷 - 仙台市の出版社



外部リンク








  • 道南ミュージアム - 古代国家と蝦夷-文書庫 [リンク切れ]


  • 蝦夷 陸奥 歌枕 [リンク切れ]


  • 征夷史料事纪 (中国語) [リンク切れ]







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