宮本輝紀
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名前 | ||||||||||||||
カタカナ | ミヤモト テルキ | |||||||||||||
ラテン文字 | MIYAMOTO Teruki | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 | 日本 | |||||||||||||
生年月日 | (1940-12-26) 1940年12月26日 広島県広島市 | |||||||||||||
没年月日 | (2000-02-02) 2000年2月2日(59歳没) 北九州市八幡東区 | |||||||||||||
身長 | 171cm | |||||||||||||
体重 | 65kg | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | MF | |||||||||||||
ユース | ||||||||||||||
1956-1958 | 広島山陽高校 | |||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
1959-1969 | 八幡製鉄 | |||||||||||||
1970-1976 | 新日鐵 | |||||||||||||
代表歴 | ||||||||||||||
1960-1971[1] | 日本 | 58 | (19) | |||||||||||
監督歴 | ||||||||||||||
1974-1975 | 新日鐵 (Assistant) | |||||||||||||
1976-1979 | 新日鐵 | |||||||||||||
1981-1985 | 国体福岡県代表 | |||||||||||||
1996-1999 | 九州共立大学 | |||||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
宮本 輝紀(みやもと てるき、1940年12月26日 - 2000年2月2日)は、広島県広島市宇品(現・南区宇品)出身[2](同市内段原山崎町生まれ[3] とする資料もある)の元サッカー選手(MF)・コーチ・監督。日本代表の攻撃的ミッドフィールダーとしてメキシコシティオリンピック銅メダル獲得に貢献した。日本最初のゲームメーカーとも呼ばれる[4][5]。
目次
1 来歴
2 所属クラブ
3 個人成績
4 経歴
5 代表歴
5.1 出場大会など
5.2 試合数
5.3 得点数
6 指導経歴
7 監督成績
8 註
9 関連項目
10 参考文献
11 外部リンク
来歴
1945年8月6日、4歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原山崎町(現・南区)で被爆[3]。一緒に遊んでいた弟を亡くした。同学年の張本勲も近所で被爆している。終戦後は同市宇品(現・南区)に引越し広島市立千田小学校に入学。千田小学校の同期に岡光龍三、一学年上に後に山陽高/八幡製鉄と同じ道を歩む大石信幸がいた。広島市立国泰寺中学校時代に大学生にサッカーを教えてもらいサッカー部に転部[4]。同中学の一学年上に野村六彦、同期に今西和男がいた。宮本と野村は、後の1960年代に「日本を代表する二人のテクニシャン」と称され、誰もが認める存在となるが、その源流は同じ中学にあった[6]。国泰寺中サッカー部は、当時今西が入部できないほど希望者が多い状況だったが、その中でも宮本の才能は際立っており、広大付属の桑田隆幸とともに地元では有名な選手となっていた[4]。国泰寺中学は隣接する国泰寺高校の付属校ではないが、OB が多数進んでいたことから、レギュラークラスを全国有数の名門である国泰寺高校の練習に参加させた[6]。今でいう、Jクラブの一貫教育を昭和30年代に、それも全国レベルの選手たちによって体験させていた[6]。また、国泰寺高校では「全広島対全関西」などの試合が行われ、全日本選手のプレーを身近に見る機会があった[6]。
中学卒業後は野村が進んだ舟入高校へ行く予定だったが、受験制度が変わり、宮本の住む地域からは入りづらくなり、大石信幸が進んだ創部三年目の新興勢力・広島山陽高等学校に進学した[6]。渡部英麿の厳しい指導を受け2、3年と国体準優勝。特に1958年、2年連続で決勝対決となった杉山隆一のいた静岡県代表・清水東との雨中の死闘は有名である[4][7]。翌1959年、クアラルンプールで開催された第1回アジアユースサッカー日本代表にも選出されアジア3位に貢献した。
広島高師出身で東福岡高コーチとしても知られる名将・寺西忠成の目に留まり、寺西からの熱心な要望により八幡製鉄サッカー部に入団[3][6]。寺西は広島一中(現・広島国泰寺高校)で渡辺英麿の一年後輩にあたり旧知の間柄であった。こうした関係から、当時の八幡は山陽の一学年先輩・大石信幸をはじめ、主力は広島出身者だった[8]。八幡でもエースとして活躍し1963年、1964年度全日本実業団サッカー選手権大会2連覇、1964年度の天皇杯優勝に導く。1965年から始まった日本サッカーリーグ (JSL) でも主力選手としてチームを引っ張り、対戦相手はまず宮本をどう抑えるかに苦心した。初年度から2年連続2位の好成績を挙げるなど、通算139試合に出場。また1967年度日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)にも選ばれ、1970年にはJSLアシスト王に輝いた[9]。
代表では1960年、19歳11ヵ月で全日本デビュー。1960年代から1970年代にかけて国内最高のテクニシャンで[10]、そのテクニックは当時の全日本の中でも群を抜いており[4]、1964年東京オリンピックから全日本の頭脳となりゲームを組み立てた。「天才パサー」と呼ばれ[4]、パス1本で相手を窮地に追い込む「元祖キラーパス」は、のちの日本代表司令塔・中田英寿、中村俊輔をも凌ぐと評される[4][11]。前線の釜本邦茂や杉山にパスを供給するのが日本の攻撃パターンだった。当時「パワーの釜本、スピードの杉山、テクニックの宮本」と呼ばれ、このトライアングルはサッカー選手を志す少年たちの憧れだった[4]。表に出ることが好きでない性格で、派手なパフォーマンスは嫌いで口数も少なかった[4]。自らゴールを決めた直後、周囲が歓喜する中、つまらなそうにペッと唾を吐き、一人憮然としていたといわれる[4]。北九州市出身の本間勇輔も大ファンだったと話している他[12]、後藤健生や国吉好弘らも、宮本のプレーを見て感銘を受けたのが、サッカージャーナリストになったきっかけと話している[13]。
パスもさる事ながらゴールにも迫りシュートも連発した。振り幅の小さいシュートでゴールを量産し、MFながら国際Aマッチ18得点は歴代8位、代表での全試合では歴代4位の47得点(出場192試合、歴代3位)を挙げている。いずれもメキシコシティ五輪世代では釜本に次ぐ数字である。そのメキシコシティ五輪では、中盤の守備の要で主将だった八重樫茂生が初戦で負傷。そのため宮本は司令塔でありながら八重樫の代役も兼ねた。パスを出しながら、必死に守備をし縦横無尽に走り回り、メキシコとの3位決定戦では精根尽き果て倒れ込んだ[4][14]。
JSL では138試合出場し通算68得点はランキング6位。この記録は年間14試合しか行われていない時代に残した記録であり、歴代でも上位を争う価値のあるもの[15]。ベストイレブンには6度選出されている。所属した八幡は社業の悪化で、JSL が発足した1965年直後から新人補強で苦戦。ライバルチームとの差が開き、この後はチームとしてのタイトル獲得はならなかった。1974年から選手兼任コーチ、1976年は兼任監督、同年現役を引退し1979年まで監督として指揮を執ったがオイルショック後でさらに補強が厳しくチームは低迷。4年で監督を退いた。
派手嫌いで実直な人柄で知られ、選手として頂点を極めて引退した後も勤務地である北九州市にとどまり、中央に出てくることは無かった[4]。1981年から1985年まで国民体育大会福岡県代表監督。1993年からスタートしたJリーグに新日鉄は、地域性から参加を要請されたが参加しなかった。
1996年、九州共立大学のサッカー部監督に就任、わずか2年で九州大学リーグ1部に昇格させた[9]。
2000年、福岡県北九州市八幡東区の病院で心不全のため死去した[16]。
2006年、日本サッカー殿堂入り。高卒の選手経験者では最初の殿堂入りであった。
母校・山陽高校の正門に入ると右手に宮本の功績を讃える記念碑がある[3]。
所属クラブ
- 1959年 - 1976年 八幡製鉄/新日本製鐵
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1965 | 八幡 | JSL | 7 | - | |||||||
1966 | 11 | - | |||||||||
1967 | 10 | - | |||||||||
1968 | 11 | - | |||||||||
1969 | 7 | - | |||||||||
1970 | 新日鐵 | 6 | - | ||||||||
1971 | 7 | - | |||||||||
1972 | JSL1部 | - | |||||||||
1973 | |||||||||||
1974 | - | ||||||||||
1975 | - | ||||||||||
1976 | |||||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 138 | 68 | |||||||
総通算 | 138 | 68 |
経歴
- 日本代表初出場(国際Aマッチ):1961年6月11日 対韓国戦(国立競技場)
- 日本代表初出場:1960年11月7日 対全韓国(韓国)戦(ソウル)
- 日本代表初得点:1961年8月2日 対マラヤ戦(クアラルンプール)
代表歴
出場大会など
- 1962 FIFAワールドカップ・予選
アジア競技大会 (1962, 1966, 1970)
1964年東京オリンピック(ベスト8)
メキシコシティオリンピック(銅メダル)- 1970 FIFAワールドカップ・予選
ミュンヘンオリンピック予選
試合数
- 国際Aマッチ 58試合 19得点(1961-1971)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1960 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
1961 | 5 | 3 | 4 | 2 | 9 | 5 |
1962 | 7 | 1 | 5 | 3 | 12 | 4 |
1963 | 5 | 2 | 11 | 2 | 16 | 4 |
1964 | 2 | 0 | 19 | 5 | 21 | 5 |
1965 | 4 | 1 | 11 | 6 | 15 | 7 |
1966 | 5 | 3 | 12 | 2 | 17 | 5 |
1967 | 5 | 5 | 18 | 2 | 23 | 7 |
1968 | 4 | 0 | 21 | 1 | 25 | 1 |
1969 | 3 | 2 | 16 | 4 | 19 | 6 |
1970 | 12 | 1 | 12 | 2 | 24 | 3 |
1971 | 6 | 1 | 10 | 1 | 16 | 2 |
通算 | 58 | 19 | 140 | 30 | 198 | 48 |
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
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1 | 1961年8月2日 | マラヤ、クアラルンプール | マラヤ連邦 | 2-3 | 敗戦 | ムルデカ大会 |
2 | 1961年8月6日 | インド | 3-1 | 勝利 | ||
3 | 勝利 | |||||
4 | 1962年8月25日 | インドネシア、ジャカルタ | タイ | 3-1 | 勝利 | アジア競技大会 |
5 | 1963年8月8日 | マレーシア、クアラルンプール | マレーシア | 4-3 | 勝利 | ムルデカ大会 |
6 | 1963年8月10日 | タイ | 4-1 | 勝利 | ||
7 | 1965年3月27日 | マレーシア | 1-1 | 引分 | 親善試合 | |
8 | 1966年12月10日 | タイ、バンコク | インド | 2-1 | 勝利 | アジア競技大会 |
9 | 勝利 | |||||
10 | 1966年12月16日 | シンガポール | 5-1 | 勝利 | ||
11 | 1967年9月27日 | 日本、東京 | フィリピン | 15-0 | 勝利 | メキシコ五輪予選 |
12 | 勝利 | |||||
13 | 勝利 | |||||
14 | 勝利 | |||||
15 | 1967年10月7日 | 韓国 | 3-3 | 引分 | ||
16 | 1969年10月12日 | 大韓民国、ソウル | 2-2 | 引分 | 1970 FIFAワールドカップ・予選 | |
17 | 1969年10月16日 | オーストラリア | 1-1 | 引分 | ||
18 | 1970年12月14日 | タイ、バンコク | ビルマ | 2-1 | 勝利 | アジア競技大会 |
19 | 1971年9月29日 | 大韓民国、ソウル | 中華民国 | 5-1 | 勝利 | ミュンヘン五輪予選 |
(誤差は不明)
指導経歴
- 1974年 - 1975年 : 新日本製鐵 コーチ(選手兼任)
- 1976年 - 1979年 : 新日本製鐵 監督(1976年は選手兼任)
- 1981年 - 1985年 : 国体福岡県代表 監督
- 1996年 - 1999年 : 九州共立大学 監督
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | JSL杯 | 天皇杯 | |||
1976 | JSL1部 | 新日鐵 | 9位 | 18 | 12 | 5 | 2 | 11 | 予選敗退 | ベスト4 |
1977 | 7位 | 18 | 22 | 3 | 2PK勝 6PK敗 | 7 | ベスト8 | 2回戦 | ||
1978 | 8位 | 18 | 26 | 5 | 2PK勝 2PK敗 | 9 | 準決勝 | 1回戦 | ||
1979 | 8位 | 18 | 29 | 6 | 2PK勝 1PK敗 | 9 | 2回戦 | 1回戦 |
註
- ^ ab“宮本 輝紀”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ma/teruki_miyamoto.html
^ 『週刊サッカーマガジン』2008年11月4日号、ベースボール・マガジン社、p56
- ^ abcd今子正義『W杯サッカー日本の礎 原爆少年サッカー魂』南々社、2014、p185-190
- ^ abcdefghijkl『東京スポーツ』2007年10月3日9面 <日本代表を作った男たち 宮本輝紀>
^ 澤野雅彦『企業スポーツの栄光と挫折』青弓社、2005年、p.18
- ^ abcdef「私が出会った和の匠 宮本輝紀(上)(下)」『週刊サッカーマガジン』2013年7月16日、p.68、7月23日号、p.68
^ 大貫哲義『不滅のサッカー王―釜本選手とその仲間たち』大陸書房、1983年、pp.171,172.
^ 『週刊サッカーマガジン』2009年5月26日号 、p.80
- ^ ab“宮本輝紀”. 日本サッカーアーカイブ. 2013年9月6日閲覧。
^ 『週刊サッカーマガジン』2011年5月31日号 、p.70
^ 『週刊サッカーマガジン』2008年11月11日号、p.56
^ 『週刊サッカーマガジン』2010年4月20日号、p.52、エルマーノサッカークラブ
^ 『日本サッカー狂会』、国書刊行会、2007年、p.39、『週刊サッカーマガジン』2008年11月4日号、p.56、Legend=宮本輝紀 - 平田生雄
^ メキシコの星、また一つ消え… 特別編 宮本輝紀を悼む
^ 『週刊サッカーマガジン』2008年11月4日号、p.56
^ 「宮本輝紀さん 59歳 死去=メキシコ五輪サッカー銅メダルのメンバー」毎日新聞、2000年2月3日、2015年9月11日閲覧
関連項目
- 野津謙
- デットマール・クラマー
- 長沼健
- 岡野俊一郎
- 平木隆三
- 川淵三郎
- 八重樫茂生
- 宮本征勝
- 渡辺正
- 小城得達
- 山口芳忠
- 松本育夫
- 桑原楽之
- 横山謙三
- 杉山隆一
- 森孝慈
- 釜本邦茂
- 森健兒
- 野村六彦
- 今西和男
参考文献
- 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
- 『週刊サッカーマガジン』2008年11月4日号他、ベースボール・マガジン社
外部リンク
宮本輝紀 - FIFA主催大会成績 (英語)
宮本輝紀 - National-Football-Teams.com (英語)
- メキシコの星、また一つ消え… 特別編 宮本輝紀を悼む
- 速さの杉山とともに成長したアジアユース1期生 宮本輝紀 賀川サッカーライブラリー
- 日本サッカー殿堂 宮本輝紀 賀川サッカーライブラリー
- 第3回日本サッカー殿堂 掲額者(2006.08.10)
- 日本サッカーアーカイブ 宮本輝紀
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日本代表 - 出場大会 | ||||||||||||||
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