丹羽洋介
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名前 | ||||||
カタカナ | ニワ ヨウスケ | |||||
ラテン文字 | NIWA Yosuke | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | (1940-10-10) 1940年10月10日(78歳) | |||||
出身地 | 広島県広島市 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
ユース | ||||||
広島大学附属小学校 | ||||||
広島大学附属中学校 | ||||||
広島大学附属高等学校 | ||||||
早稲田大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1963-1971 | 東洋工業 | 69 | (1) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
丹羽 洋介(にわ ようすけ、1940年10月10日 - )は、中国上海市生まれ、広島県広島市出身の元サッカー日本代表選手・指導者。
目次
1 来歴
2 個人成績
3 脚注
4 参考資料
5 関連項目
6 外部リンク
来歴
3人兄弟の末っ子[1]。父親は上水道技師で、上海で、のち広島で水道事業に関わっている[1]。そのため上海で生まれ、1944年4歳の時から広島で生活し、太平洋戦争末期に愛知県江南市に疎開していた[1]。そのため広島市への原子爆弾投下からは逃れている。ただ父親は当時広島で働いており、被爆者となってしまった。
広島に戻り広島大学附属小学校へ進学するとサッカーを始める[2]。小学校の1学年上が鬼武健二、同級が桑田隆幸、1学年下が野村尊敬、2学年下が小城得達になる[2]。その後広島大学附属中学校・高等学校と上がる。ただ中学では軟式テニス部に入り、高校からまたサッカー部へ入るようになった[2][3]。同高校サッカー班では前述の面々の他、大島治男、桑原楽之、溝手顕正(元内閣府特命担当大臣)、川瀬隆弘(元年金積立金管理運用独立行政法人理事長)らともプレーした。同級生でサッカー班のマネージャーが山口邦明(元東京弁護士会副会長)。高校2年時に脾臓破裂の大怪我により1年間を棒に振る[4]。高校3年生のときに第37回全国高等学校蹴球選手権大会(高校選手権)に出場して準優勝、大島・桑田とともに大会優秀選手に選ばれている[5]。
鬼武や伊野本孝一(現西條鶴社長)ら高校の先輩に誘われる形で早稲田大学政経学部に進学、早稲田大学ア式蹴球部に入部する[6]。監督の工藤孝一・コーチの堀江忠男に鍛えられ、川淵三郎・桑田・松本育夫・森孝慈・釜本邦茂・大野毅らと共に活躍し、1960年関東大学サッカーリーグ戦優勝を果たす。1960年に全日本(日本代表)に選抜され、同年9月親善試合対FCパフタコール・タシュケント戦で代表デビュー(Cキャップ)を果たした。
1963年、今西和男・岡光龍三らと地元東洋工業(現マツダ)へ入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島F.C)へ入団した[7]。東洋工業では桑田、小城、桑原、松本、石井義信、二村昭雄らと共に、日本リーグ(JSL)4連覇、天皇杯優勝3回に貢献。その中で丹羽は小沢通宏、今西、桑原弘之、大野毅、川野淳次、国枝強らとディフェンダー(フルバック)として活躍、1969年には全日本(日本代表)に再選抜された。1970年の天皇杯ではキャプテンを務め優勝に貢献し、翌1971年現役引退。
引退後は社員として東洋工業/マツダに務めた。入社当初は本社部品部、そして出向扱いで名古屋支社・静岡マツダ・1979年マツダオート石川代表取締役専務[8][9]。石川県立金沢泉丘高等学校サッカー部コーチも務めた[9]。1987年マツダオート長野代表取締役社長として出向、長野県自動車店協会常任理事も務めた[10]。その後マツダ本社の広島復帰の意向があったが退社し、トヨタUグループのネッツトヨタ長野の代表取締役専務を務め、古稀を迎え2011年5月19日同社を退社する。
またマツダオート長野社長時代、「今まで培ってきた技術と知りうる情熱を少年たちに伝えたい」という心から、社屋近くにあった裾花小学校に少年サッカークラブの設立を呼びかけ、1988年に裾花フットボールクラブを設立する[11]。1990年には長野市サッカー協会副会長、1994年には長野市サッカー協会会長を務める。2004年からは長野県サッカー協会会長となり、2010年北信越サッカー協会会長に選出され、長野県をはじめ北信越サッカーの育成に尽力する。長野県サッカー協会会長を退任後2012年7月より、AC長野パルセイロスーパーバイザーに就任[12]。2013年から2015年までAC長野パルセイロの運営会社である長野パルセイロ・アスレチッククラブの社長を務めた。
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | - | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1965 | 東洋 | JSL | 13 | - | 4 | ||||||
1966 | 14 | - | 3 | ||||||||
1967 | 14 | - | 3 | ||||||||
1968 | 14 | - | 3 | ||||||||
1969 | 14 | - | 1 | ||||||||
通算 | 日本 | JSL | 69 | 1 | - | ||||||
総通算 | 69 | 1 | - |
脚注
- ^ abc“02 広島で育つ ~上海で生まれて帰国 家族で楽しく暮らす~”. 週間長野. 2016年1月12日閲覧。
- ^ abc“04 小中学校時代 ~サッカー人生を左右 先輩らとの出会い~”. 週間長野. 2016年1月12日閲覧。
^ “05 高校サッカー ~全国優勝目指す決意 裸電球で個人練習”. 週間長野. 2016年1月12日閲覧。
^ “06 脾臓破裂 ~医師の許可なく再開 猛反対の両親を説得~”. 週間長野. 2016年1月12日閲覧。
^ “07 全国大会準優勝 ~チームは1・2年主体 破竹の勢いで決勝へ~”. 週間長野. 2016年1月12日閲覧。
^ “08 早稲田大学へ ~伝統の早慶戦に憧れ 精鋭が集まった集団~”. 週間長野. 2016年1月12日閲覧。
^ “14 被爆とスポーツ界 ~「負けてたまるか」魂 象徴は広島カープ~”. 週間長野. 2016年1月12日閲覧。
^ “21 仕事に専念 ~工員引き連れて出向 苦闘した貴重な体験~”. 週間長野. 2016年1月12日閲覧。
- ^ ab“22 金沢時代 ~必ず芽が出ると信じ 積み上げた営業努力~”. 週間長野. 2016年1月12日閲覧。
^ “23 長野に出向 ~ディーラーの社長に会社・社員に恵まれる~”. 週間長野. 2016年1月12日閲覧。
^ クラブ紹介 裾花フットボールクラブHP クラブ紹介
^ スーパーバイザー就任のお知らせ AC長野パルセイロ (2012年7月11日)
参考資料
代表タイムライン - 日本サッカー協会
創始者の横顔 - 裾花フットボールクラブ
関連項目
- 広島県出身の人物一覧
- 広島大学附属中学校・高等学校の人物一覧
- 早稲田大学の人物一覧
外部リンク
- 裾花フットボールクラブ