宮本征勝
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名前 | ||||||||||||||
愛称 | エイトマン | |||||||||||||
カタカナ | ミヤモト マサカツ | |||||||||||||
ラテン文字 | MIYAMOTO Masakatsu | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
生年月日 | 1938年7月4日 日本、茨城県日立市 | |||||||||||||
没年月日 | (2002-05-07) 2002年5月7日(63歳没) 日本、茨城県水戸市 | |||||||||||||
身長 | 171cm | |||||||||||||
体重 | 67kg | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | DF | |||||||||||||
ユース | ||||||||||||||
1953-1957 | 茨城県立日立第一高校 | |||||||||||||
1957-1961 | 早稲田大学 | |||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
1964-1974 | 古河電気工業 | 103 | (19) | |||||||||||
代表歴 | ||||||||||||||
1958-71[1] | 日本 | 44 | (1) | |||||||||||
監督歴 | ||||||||||||||
1978-1982 | 早稲田大学 | |||||||||||||
1983-1988 | 本田技研 | |||||||||||||
1992-1994 | 鹿島アントラーズ | |||||||||||||
1995 | 清水エスパルス | |||||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
宮本 征勝(みやもと まさかつ、1938年7月4日 - 2002年5月7日)は、茨城県日立市出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。サッカー日本代表として44試合に出場し、1968年のメキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得した。
目次
1 来歴
2 所属クラブ
3 個人成績
4 指導歴
5 監督成績
6 代表歴
6.1 出場大会
6.2 試合数
6.3 得点数
7 著書
8 出典
9 関連項目
10 外部リンク
来歴
茨城県立日立第一高等学校でサッカーを始め、1956年の第35回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝し、得点王および最優秀選手に選出された。
1957年、早稲田大学第二商学部に入学。在学中は早稲田大学ア式蹴球部に所属し、在学中の1958年にサッカー日本代表に選出され、同年12月の香港代表戦で初出場した。
大学卒業後、1961年から長沼健や大学の先輩・八重樫茂生ら代表選手の揃った古河電気工業サッカー部(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)に入団した。
1959年のムルデカ大会から1972年ミュンヘンオリンピック予選まで日本代表として活躍。国際Aマッチ44試合に出場し1得点[1]。その強靱な体力と背番号から、当時の人気漫画のヒーローになぞらえて「エイトマン」のニックネームで呼ばれた[2]。
1968年の1968年メキシコシティーオリンピックのサッカー競技で開催国のメキシコ代表を破り、アジアでは初めての銅メダルを獲得。1974年に現役を引退した。
1978年から1982年まで早稲田大学、1983年から1988年度(1989年3月)まで本田技研工業の監督を歴任。
なお89年1月に開催された1989 FIFAフットサル世界選手権(現:FIFAフットサルワールドカップ)に出場した日本代表は、約一名(=入社2年目北澤豪と同い年、成人式犠牲の国士舘大学2年で後に本田技研に就職せず日産自動車やJリーグ開幕以降は横浜マリノスで活躍する野田知)を除き同部の選手で構成されていた。
1992年から1994年まで日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の鹿島アントラーズの初代監督に就任し、1992年のJリーグカップでベスト4、1993年のJリーグ・サントリーシリーズ(第1ステージ)で優勝、同年の第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会で準優勝の成績を残した。宮本の退任後、2015年に石井正忠が就任するまでの間、鹿島の監督を務めたのは全てブラジル人(監督代行を2度務めた関塚隆を除く)であり、宮本は21年間にわたって鹿島のクラブ史上唯一の日本人監督だった。
1995年に清水エスパルスの監督に就任。その時に、鹿島アントラーズから吉田康弘、サントス、森岡隆三が加入した。Jリーグの監督としての通算戦績は、64勝46敗。
2002年5月7日、茨城県水戸市で肺炎のため死去した[2]。
2005年5月、第1回日本サッカー殿堂として表彰された。
所属クラブ
- 1953年 - 1957年 : 茨城県立日立第一高等学校
- 1957年 - 1961年 : 早稲田大学ア式蹴球部
- 1964年 - 1974年 : 古河電工
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1965 | 古河 | JSL | 14 | 4 | - | ||||||
1966 | 13 | 4 | - | ||||||||
1967 | 14 | 9 | - | ||||||||
1968 | 14 | 2 | - | ||||||||
1969 | 14 | 0 | - | ||||||||
1970 | 14 | 0 | - | ||||||||
1971 | 9 | 0 | - | ||||||||
1972 | JSL1部 | 11 | 0 | - | |||||||
1973 | 0 | 0 | |||||||||
1974 | 0 | 0 | - | ||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 103 | 19 | |||||||
総通算 | 103 | 19 |
指導歴
- 1978年 - 1982年 : 早稲田大学 監督
- 1983年 - 1989年 : 本田技研 監督
- 1992年 - 1994年 : 鹿島アントラーズ 監督
- 1995年 : 清水エスパルス 監督
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
1983 | JSL1部 | 本田技研 | 8位 | 18 | 14 | 4 | 6 | 8 | 2回戦 | ベスト8 |
1984 | 5位 | 18 | 19 | 7 | 5 | 6 | ベスト4 | ベスト8 | ||
1985 | 3位 | 22 | 28 | 8 | 12 | 2 | ベスト4 | 2回戦 | ||
1986-87 | 9位 | 22 | 20 | 6 | 8 | 8 | ベスト4 | ベスト8 | ||
1987-88 | 8位 | 22 | 20 | 6 | 8 | 8 | ベスト4 | ベスト8 | ||
1988-89 | 9位 | 22 | 27 | 7 | 6 | 9 | 2回戦 | ベスト8 | ||
1992 | J | 鹿島 | - | ベスト4 | ベスト8 | |||||
1993 | 準優勝 | 36 | - | 23 | - | 13 | 予選リーグ | 準優勝 | ||
1994 | 3位 | 22 | - | 16 | - | 6 | 1回戦 | - | ||
1995 | 清水 | 9位 | 52 | - | 25 | - | 27 | - | 1回戦 |
- 1994年はサントリーシリーズ(第1ステージ)のみ。
代表歴
出場大会
1960年ローマオリンピック予選- 1962 FIFAワールドカップ・アジア予選
アジア競技大会 (1962、1966)
1964年東京オリンピック(ベスト8)
1968年メキシコシティーオリンピック(銅メダル)- 1970 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選
1972年ミュンヘンオリンピック予選
試合数
- 国際Aマッチ 44試合 1得点(1958-1971)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1958 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
1959 | 8 | 0 | 6 | 0 | 14 | 0 |
1960 | 1 | 0 | 10 | 2 | 11 | 2 |
1961 | 6 | 0 | 3 | 0 | 9 | 0 |
1962 | 7 | 0 | 5 | 0 | 12 | 0 |
1963 | 4 | 0 | 7 | 0 | 11 | 0 |
1964 | 1 | 0 | 12 | 0 | 13 | 0 |
1965 | 2 | 1 | 5 | 0 | 7 | 1 |
1966 | 5 | 0 | 11 | 0 | 16 | 0 |
1967 | 1 | 0 | 19 | 0 | 20 | 0 |
1968 | 2 | 0 | 19 | 0 | 21 | 0 |
1969 | 2 | 0 | 11 | 0 | 13 | 0 |
1970 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
1971 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 |
通算 | 44 | 1 | 112 | 2 | 156 | 3 |
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
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1 | 1965年3月25日 | シンガポール | シンガポール | 4-1 | 勝利 | 親善試合 |
著書
- 『サッカーに魅せられた男 宮本征勝』加藤栄二著 ISBN 9784380972225
出典
- ^ abc“宮本 征勝”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ma/masakatsu_miyamoto.html
- ^ ab“宮本征勝氏死去/鹿島アントラーズ初代監督”. 四国新聞 (2002年5月7日). 2013年8月31日閲覧。
関連項目
- Jリーグ監督経験者
- 全国高等学校サッカー選手権大会歴代優勝校
外部リンク
- 日本サッカーアーカイブ 宮本征勝
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日本代表 - 出場大会 | ||||||||||||||
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監督歴 | ||||||||||||||||||||||||||||
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