川田利明

























































川田 利明

川田 利明の画像
プロフィール
リングネーム
川田 利明
"ハッスルK"川田 利明
"モンスターK"川田 利明
本名
川田 利明
ニックネーム
デンジャラスK
身長
183cm
体重
105kg
誕生日
(1963-12-08) 1963年12月8日(55歳)
出身地
栃木県下都賀郡大平町(現:栃木市)
所属
フリー
スポーツ歴
レスリング
トレーナー
ジャイアント馬場
佐藤昭雄
天龍源一郎
デビュー
1982年10月4日
テンプレートを表示

川田 利明(かわだ としあき、1963年12月8日 - )は、日本のプロレスラー、実業家、調理人、タレント。栃木県下都賀郡大平町(現:栃木市)出身。プロレスラーとしてはフリーでタレントとしては太田プロダクション所属。2010年以降、プロレスラーとしての活動は休業中である。


「名勝負製造機」とも称される試合巧者振りとキック主体のレスリングスタイルが特徴である。




目次






  • 1 来歴


    • 1.1 学生時代


    • 1.2 若手時代


    • 1.3 天龍たちの離脱、超世代軍入り、四天王プロレス時代にかけて


    • 1.4 馬場死去、三沢たちの離脱


    • 1.5 全日本残留後


    • 1.6 無所属宣言


    • 1.7 三沢との5年ぶりの戦い


    • 1.8 ハッスルKからモンスターKへ


    • 1.9 古巣・全日本参戦


    • 1.10 三沢光晴追悼興行参戦


    • 1.11 長期休養




  • 2 タイトル歴


  • 3 得意技


    • 3.1 フィニッシュ・ホールド


    • 3.2 その他




  • 4 入場テーマ曲


  • 5 人物・エピソード


  • 6 飲食店経営者・調理人としての経歴


  • 7 関連書籍


  • 8 脚注


  • 9 外部リンク





来歴



学生時代


中学時代からプロレスラーを志し、野球部・相撲部に所属。2004年にスマイリーキクチ・有吉弘行と対談を行った際には、中学2年生の時点で身長は公表しているプロフィールと同じ183cmあり、現在も当時と変わっていないと発言している。卒業後は新日本プロレスのテストに合格したが、レスリングの強豪である足利工業大学附属高等学校に筆記で合格、進学した。


高校ではレスリング部に所属。1年先輩に三沢光晴、およびリアルジャパンプロレスに参戦している仮面シューター・スーパー・ライダーがいた。1981年の茨城インターハイ準優勝、滋賀秋季国体優勝(階級はいずれも75kg級)。



若手時代


高校卒業後、先に全日本プロレスに入団していた三沢の誘いもあって、1982年3月、全日本プロレスに入団。1982年10月4日、千葉県大原町(現・いすみ市)消防署前グラウンド大会での冬木弘道戦でデビューを果たした。


冬木とのデビュー戦以来、引き分けを挟んで205連敗を喫した。しかし、2代目タイガーマスクとなった三沢の士道館における練習に同行し、館長の添野義二から現在の戦いの軸となる蹴り技・飛び技を習得し、この時期の川田はコーナーからのムーンサルト・アタックや場外へのプランチャなどを積極的に使うようになった[1]
1985年に海外修行に出発し、テキサス州サンアントニオ地区では冬木弘道とのタッグチーム「ジャパニーズ・フォース」で活動、若手時代のショーン・マイケルズ&ポール・ダイヤモンドの「アメリカン・フォース」と抗争を展開した[2]。帰国後の1987年、天龍源一郎がジャンボ鶴田を超えるため掲げた「レボリューション」に参加。それ以後、同軍団内のサムソン冬木(冬木弘道)とのタッグ「フットルース」でアジアタッグ王座を長期間保持、また天龍とのコンビでも活躍した。



天龍たちの離脱、超世代軍入り、四天王プロレス時代にかけて


1990年春、天龍や冬木がSWS旗揚げに伴って全日本を離脱(「川田も誘いを受けたが残留した」という当初の情報であったが2015年11月の「真夜中のハーリー&レイス・ポッドキャスト」で語った事はこの件は全く事前に知らされず勧誘もなく、もし仮に誘われていても全日に残っただろうと語った[出典無効]。また天龍も「引き抜きなどしていない」「ほんとうに引き抜きをやっていたらイの一番に川田を引き抜いていただろう」[3]と述べている)。大量離脱後の初の試合で2代目タイガーマスクとタッグを組み、以降は鶴田超えを果たすため、三沢らと超世代軍を結成。同時にタイツを後年履き続けることになる黒と黄色の物に新調。1991年7月には三沢とのコンビでゴディ&ウイリアムス組を下し世界タッグ王者に就いた。


1992年10月、旗揚げ記念大会で三冠ヘビー級王座をかけて三沢と対戦。破れはしたが、直後に鶴田が病気で戦線を離脱したため川田は三沢に次ぐNo.2の地位に就くことになる。鶴田の離脱もあって全日本は日本人選手対外国人選手の路線から日本人選手同士の対決路線へと移行、1993年春、川田は“三沢越え”を念頭に超世代軍タッグを解消、鶴田とのタッグで着々と力を付けていた田上明と聖鬼軍を結成。2000年の三沢らの大量退団まで続く四天王プロレス時代の幕開けとなる。田上とのタッグでは度々王座に就き、個人でも1994年・1997年にはチャンピオン・カーニバル優勝、三冠ヘビー級王者も5度(12代、18代、21代、28代、32代)獲得した。


1995年6月9日、日本武道館における世界タッグ選手権で三沢からシングル・タッグを通じて初のフォール勝ち。


1997年4月、チャンピオン・カーニバル優勝決定戦(川田、三沢、小橋による巴戦)で、初めてシングルで三沢から勝利。1998年5月1日の全日本初の東京ドーム大会において、三沢が持つ三冠ベルトの挑戦者、そしてメインイベンターに抜擢された川田は、体重を絞り(当時は105kg)褐色ボディへと変貌を遂げて試合に臨み、三沢から純粋なシングルマッチおよび三冠タイトル戦での初勝利を飾った。試合後、川田は「プロレス人生で一番幸せです。今が!」と大会の最後を締めくくった。


しかし、1999年1月22日大阪府立体育会館の三沢との三冠戦で「垂直落下式パワーボム(別名三冠パワーボム)」まで繰り出し三沢を破ったものの、試合中の怪我によりベルト返上を余儀なくされた。


1990年代終盤から度重なる負傷に見舞われ、完治する前に強行出場し、意地でリングに上がる日々が続いた。この頃までに三沢にシングルで計3回勝利(全日時代後半はほとんどが川田の勝利)し、実力の面でも三沢と同等の評価を受けたが、1997年チャンピオンカーニバル決勝巴戦では小橋との対戦(30分引き分け)直後でスタミナ切れ寸前の三沢との対戦、そして1998年東京ドーム大会ではチャンピオン・カーニバル後の満身創痍状態(主に右手薬指・左ヒザの怪我)の三沢との対戦だったため、コンディション万全の三沢に勝利したのは川田自身も負傷を負った1999年1月22日の三冠戦のみであった。


元横綱審議委員会の内館牧子が三沢追悼記念に寄せた「Number」の記事の中では、「あの90年代の全日の激闘、熱狂、人気に関しては、川田君の存在抜きには語れない」と評している。



馬場死去、三沢たちの離脱


1999年1月31日、馬場の死去に伴い、三沢が全日の代表取締役社長、川田も副社長に就任した。しかし、2000年に三沢を中心にほとんどの所属選手・フロント陣が全日本プロに辞表を提出し、結局選手として残ったのは川田と渕正信、そしてマウナケア・モスマン(現・太陽ケア)の3人だけであった。この時川田は「(離脱するという話を三沢や田上から)聞いていない」と語り、「全日本の看板を捨て切れなかった」と残留の理由を語っている。


実はこの大量離脱のきっかけとなった事件、「三沢光晴代表取締役社長辞任」の数日後に川田1人だけ全日本との契約を更改した。この当時の全日本では1試合幾らの計算で給料が支払われる上、怪我・入院・休場等に関する保障が一切無かった[要出典]。また、一般の生命保険にもその職業柄加入することが出来ず、休場即ち無給の日々が始まるという状況だった。加えて給与そのものも、当時の全日トップの三沢と新日トップの武藤敬司とでは3倍の違いがあると言われていた[独自研究?]。全日本の選手が怪我をしても無理してまでリングに上がっていた理由の一部はここにあり、三沢が改革を実施しようとしていた最重要部分でもあった。



全日本残留後


所属選手3名という危機的状況に陥った全日本は、日本プロレス分裂以後、興行仇として袂を分かっていた新日本との対抗戦に乗り出し、2000年10月9日、新日本東京ドーム大会で当時のIWGPヘビー級王者・佐々木健介と対戦。馬場と猪木の代理戦争として注目を集めた試合で川田は元子から贈られたガウンを羽織って健介から勝利を収めた。敗れた健介はIWGP王座を返上、IWGP王者決定トーナメントに川田も参戦するが、決勝戦で健介に敗れIWGP奪取はならなかった。また、馬場の意向で一度退団した選手は決してリングに上げぬ方針を全日本はとっていたが、「手助けをしたい」という言葉もあって天龍が全日本に参戦する。この直後に川田は天龍とタッグを組むことになったものの、戦うべき相手が隣に居ることに憤っていたという。


川田はその後も新日本のリングに上がり続け、天山広吉や小島聡とのシングルマッチで勝利を収めるなど、団体のエースとして孤軍奮闘の働きを見せる。次第に武藤がケアとのタッグで全日本に上がる機会が多くなり、川田と戦うことも多くなっていた。そして、2002年2月24日の日本武道館にて、当時六冠王であった武藤と三冠選手権試合を行い、これに勝利した。試合後、武藤を破ったリングの上で、「これも、全日本プロレスです」と大会の最後を締めくくったが、過去の流れと同じように、防衛戦を行う前に右膝の負傷が悪化し、長期離脱に追い込まれた。


2003年に復帰すると、ZERO-ONEとの対抗戦にも参戦。2003年5月2日、新日本東京ドーム大会の裏で行われたZERO-ONEの後楽園大会のメインイベント、橋本真也&小川直也組vs武藤&小島組の試合後に乱入し、「お前(橋本)が誰に勝とうが、誰を潰そうが、俺を潰すまでは全日本は潰せないぞ!」とアピール。12月のZERO-ONE領国大会では小川と対戦しドロー。2004年2月には橋本と三冠を賭けて対戦し勝利を収めた。


2004年から始まったハッスルへは旗揚げ当初から参戦。当初は無骨な表情で全日本と変わらずハードな試合を展開しているだけであったが、小川にブルース・リーが身に着けていたことで有名な黄色いジャンプスーツをリング上で受け取って以来、次の大会からはそれを身に着け「ハッスルK」として試合を行うようになった。元々お笑い好きで喋り好きであり、高田総統との舌戦やインリン様との遺恨対決、付け人の石狩太一との「控室劇場」など今までに無いキャラクターを確立した。


2003年9月のトーナメント以来10度の防衛を続けてきた三冠ベルトであったが、2005年2月16日小島に敗北。三冠ベルトを失うと共に約16年間続けてきた平成デビューの日本人選手相手のシングル無敗記録が途絶えた。2005年8月から新日本のG1 CLIMAXに参戦、予選でケンドー・カシンに敗北するも決勝トーナメントに進出。準決勝で藤田和之との異色の対決に臨むが敗北した。なお、この年の1年間で3人もの平成デビューの日本人選手に敗れた格好となった。また、蝶野正洋とこの大会で対戦(いわゆる全日四天王の中で闘魂三銃士全員とシングルでの対戦経験があるのは川田のみ)。藤波辰爾との初対決も実現し勝利を収め、試合後藤波と握手し「試合後の握手は嫌いだが、レスラーになったきっかけの1人であるから」とコメントした。



無所属宣言


2005年3月、無所属(川田は「フリー」という言葉は好きではないとしてこう称する)選手であることを宣言した。その際、馬場の死後6年間に渡って、正式な専属選手契約を交わさないまま、即ちフリーの立場で全日本に出場していたと語り「他団体主催の興行に出場した時、それが全日本の興行がぶつかると、ファンやプロモーターから『全日本所属なのになぜ?』と苦情を言われてきた。この誤解を解きたい」と理由を述べた(なお、2004年まで川田は全日本の取締役に就任していたことや、当時の全日本プロレスの選手契約は口頭契約であったため、この発言は真実ではない部分もある。詳しくは世界タッグ王座#世界タッグ王座のベルト返還請求訴訟を参照。ちなみに、契約を文書にしなければならないという法律はなく、口頭契約でも契約は成立するが、証拠が残らないため、文書化するのが通例である。また、2011のインタビューで全日本では2005年当時はギャラが支払われず、無償で参戦していたことを明かしている[4])。なお、これ以降も全日本へスポットでの参戦を続けている。


なおこれに先立ち、2003年に太田プロダクションとタレント契約を交わしている。当時マット界の窓口業務的な役割はドリームステージエンターテインメント→ハッスルエンターテインメントが担っていた。



三沢との5年ぶりの戦い


2005年4月24日、プロレスリング・ノアの日本武道館大会に来場。三沢に対し「7月18日、その日は空けておきます」と参戦を宣言し、東京ドームで5年4か月振りに三沢と対戦。超危険技を互いに出し合った末、三沢がエルボーで勝利した。


川田は試合後、リング上でマイクを持ち「三沢さん、あえて握手はしません。ずるい話かもしれないけど、今日打つはずだった終止符が打てなくなりました。三沢光晴はいつまでも、オレの1つ上の先輩の力を持っていてください」と意味深長な言葉を述べ、再戦を匂わせた。だが、事前の取り決めなくマイクが先行する形でのアピールを非常に嫌う三沢や仲田龍をはじめとするノア経営陣は川田のこの対応に激怒し「ノアマットへの継続参戦は不可能になった」とコメント(2006年1月FIGHTING TV サムライにて)。後日、ノア取締役渉外部長の仲田は番組プロレス格闘技DX内で、「川田をノアのマットに二度と上げることはない」と改めて断言した[5]。なお川田はこの試合後、控え室の敗戦インタビューで「5年間やってきたことがこの1試合で台無しとなった」とコメントしている。


三沢戦の3日前には大阪府立体育会館での「ハッスル11」で、タッグマッチながらインリン様と戦い、両極端の方向性を持つ2つの試合を無理なくこなす幅の広さを見せた。しかし、後にプロレス誌『紙のプロレス』に掲載されたインタビューによると、1つのことにしか集中できない性格のため、インリン様との試合が終わるまで三沢戦に集中できなかったと告白している。



ハッスルKからモンスターKへ


「ハッスル12」で、ハッスル軍を裏切り高田モンスター軍に寝返って、以降は「モンスターK」を名乗った。2005年11月23日、「U-STYLE Axis」旗揚げ戦でイリューヒン・ミーシャを相手に、1999年の高山善廣戦以来のUWFスタイルで対戦。一方で、ルチャスタイルのdragondoorにも参戦した。


2006年4月の「ハッスル16」での5対5勝ち抜き戦では大谷晋二郎を下した後、WWEで活躍したTAJIRIと初遭遇。相手の策略に嵌まり、両者リングアウトとなった。3日後の「ハッスル・ハウスVol.13」では、TAJIRIに向かい「お前と決着つけてやるよ!」と迫るも、TAJIRIは「そういう知性のカケラも感じないような言葉、大嫌いなんですよ。体が痛くて、しばらくあなたとはやりたくありません」とすかされ、セリフ自体はハッスルのアングルに沿ったものでありながらも、両者のプロレス観の違いをよく表したものとなった。また、高田総統のコスチュームを着用し、イベントで「川田総統代行」として登場した。その姿をTAJIRIからは「がきデカみたい」と言われた。


8月8日の「ハッスルvol.18」では「1クールのレギュラーより1回の伝説」を旗印に「伝説を作りにきた」と参戦してきたハッスル軍のファイナル・ウェポン江頭2:50に対抗して、黒タイツで「川田19:55(「19:55」の由来は登場した際に後楽園ホール壁にある時計に表示されていた時刻と思われる[要出典])」として登場し、江頭に一言物申して会場の大声援を受けた。「ここのリングは大の大人がなんでもどんなことでも真剣に取り組むリングなんだ」とプロとしての名言を吐いた。江頭が「俺が言うのもなんだけど、あんた頭おかしすぎる」「あいつ一人勝ちじゃねーか」「あんな強敵がいるとは思わなかった」「伝説作りに来たのにあいつに伝説作られちゃったよ」と「芸人最終兵器」が自らの敗北を認めた「超レア芸人」となった。


以後は一時ハッスルのオープニングでのMCが名物となり、小島よしおやオリエンタルラジオ、小梅太夫ら芸人との絡みも無難にこなしていた。



古巣・全日本参戦


小島から三冠を取ったケアから初防衛相手に指名され、川田は承諾し1年ぶりに全日本マットに参戦する。2006年8月27日、両国国技館大会でケアの三冠に挑戦するも、ケアを相手に初めて敗れた。その後、世界最強タッグ決定リーグ戦に武藤とのタッグで出場。初戦では小島・天山組に勝利したが、決勝進出決定戦で敗れた。


2007年1月4日、新日本プロレス・全日本プロレス創立35周年記念興行が東京ドームで行われ、川田曰く「全日本プロレスの一員」として参加し中邑真輔とシングル戦を行いミドルキックで勝利する。この大会のベストバウトと称えられ、「名勝負製造機」ぶりを遺憾なく発揮した。2月17日、両国での世界タッグ王座決定戦ではケアと組み、諏訪魔・ロージー組を破り、2000年の団体分裂後初めて世界タッグ王座を獲得した。3月にはチャンピオン・カーニバルに出場したが、決勝で武藤に敗れた。


無我の6月21日の後楽園ホール大会・9月23日の大阪大会では、吉江豊と対戦。激しい肉弾戦の末に連勝を収めた。


8月26日、両国大会で小島・TARU組に敗れ、世界タッグ王座から転落。10月18日、全日本・代々木大会では健介の持つ三冠ヘビー級王座に挑戦するも敗北。12月31日には「大みそかハッスル祭り2007」に参戦した。


2008年、前年同様後楽園ホール5連戦として行われたチャンピオン・カーニバルでは、武藤、ケアに勝利したが小島に敗北、棚橋弘至と激闘の末に引き分けて予選敗退を喫した。8月には、新日本プロレスのG1 CLIMAXに、3年ぶり2度目の出場が決定したが、決勝戦に進出することはできなかった。



三沢光晴追悼興行参戦


過去に仲田が「川田がノアマットに上がることは二度とない」と発言してノアマットへの参戦は不可能だと思われていたが、2009年6月13日に三沢が試合中のアクシデントで急逝したことにより状況が一変。同年9月7日にノア事務所で行われた会見で、10月3日、大阪府立体育会館で行われる三沢光晴追悼興行への参戦が発表され、全日本時代、聖鬼軍でパートナーだった田上と組んで秋山準・KENTAとのタッグマッチが発表された。


2009年9月19日CS放送FIGHTING TV サムライのSアリーナにゲスト出演した際、「対戦はしなくても三沢さんの居るノアマットに上がりたかった」や「今までのナンバーワンのパートナーは三沢さん」と語った。


その後、2010年2月28日日本武道館大会にも参戦して森嶋猛と対戦し、4月には、グローバルリーグ戦'10にもエントリーするなど、ノアへの出場機会が増えていた。



長期休養


2010年6月に開業した後述する居酒屋経営の関係などで、同年後半以降はプロレスラーとしては長期休養状態に入った。『週刊プレイボーイ』2010年10月4日号でのインタビューで川田は「この1年で体重が15kg減った」「居酒屋経営の傍ら病院通いが続いていてリングに上がれる体調ではない」と語っている。当面は居酒屋経営に専念する模様である。2011年7月には『Dropkick』のインタビューに応じ、三沢の死によってプロレスに魅力を感じなくなったことが大きな要因であるとしている[6]。また、引退を表明する意思がないことを明らかにしつつも、「身体を戻すのは相当時間がかかる」と語った[7]


2011年8月、CX「とんねるずのみなさんのおかげでした」にて数年ぶりのメディア出演。居酒屋で出している唐揚げをとんねるずとゲストに食してもらうも、全員「普通です」の答えに、最後は川田自身が食し「普通に美味しい。」とコメントを残した。タレント活動は以降も飲食業と並行して行っている。


2013年5月、小橋建太引退試合の引退セレモニーにて、小橋に花束を渡すためにリングに登場、久しぶりのプロレスの場に姿を見せた。この際も「今はリングに上がっていないんで」と、花道からではなく脇道からリングに上がっている。12月の田上引退試合でも田上本人からの試合出場オファーを断った。その代わりゲスト解説として放送席に座り、セレモニーに出演した。


2017年10月、秋山準・大森隆男デビュー25周年記念セレモニーで、花束贈呈のため全日本プロレスのマットに上がる(この時は小橋、橋誠らとともに花道を通ってリングに上がった)。


2018年4月26日、自身の初プロデュース興行『Holy War』を東京・新木場1stRINGで開催[8]。興行内では全日本の後輩である丸藤正道とのトークバトルにおいて、丸藤が川田に現役復帰を要請する場面もあったが、川田は明言を避けた[8]



タイトル歴


全日本プロレス

  • 第12代・第18代・第21代・第28代・第32代三冠ヘビー級王座

最多防衛回数、最長保持期間の記録保持者

  • 第17代・第20代・第22代・第26代・第28代・第31代・第35代・第42代・第52代世界タッグ王座(パートナーは三沢光晴:2回→田上明:6回→太陽ケア)

個人でも最多戴冠者、田上明とのタッグ(聖鬼軍)では最多戴冠回数、通算防衛回数の記録保持者


  • 第45代・第47代・第49代アジアタッグ王座(パートナーはサムソン冬木)


  • チャンピオン・カーニバル - 2度優勝(1994年、1997年)


  • プロレス大賞 - 1992年年間最高試合賞(6月5日、対スタン・ハンセン戦)敢鬪賞 (1994年、2000年) 殊勲賞 (2004年)


プロレスリングZERO1

  • 第6代ZERO1 世界ヘビー級王座


得意技



フィニッシュ・ホールド


  • ジャンピング・ハイキック(ジャンピング顔面蹴り)

ジャンプして相手の側頭部や顔面を片足の甲の部分で蹴り飛ばす技。初めて三冠ヘビー級王座を獲得したスティーブ・ウィリアムス戦でのフィニッシュホールド。元は試合中盤以降で相手を追い込んだり、あるいは流れを逆転させるためなどに使用されていた。三冠ヘビー初奪取の前後の頃以降から後述のパワーボムと並ぶ川田の必殺技となっている。

  • パワーボム

超世代軍結成以降、現在まで川田の主要フィニッシュ技となっている。師・天龍の強い影響で使うようになった。技を決めてそのままエビ固めでフォールする際、ここ一番の試合では、両足を浮かせて相手の上に覆い被さる様にして押さえ込むのが特徴的。稀に滞空式または滞空式に旋回式を加えて仕掛ける。この技でチャンピオンカーニバル初優勝(対戦相手はスティーブ・ウィリアムス)を達成したほか、高校時代の先輩でありライバルの三沢光晴からシングル・タッグ両方において初勝利を挙げるなど、一般の試合はもちろん、数々の重要試合でもこの技で勝利を挙げている。後述のフロントハイキック同様、「ディイイイイイヤ!」と叫び声をあげて繰り出すこともある。

  • 垂直落下式パワーボム(三冠パワーボム)


1999年1月22日の三沢との三冠戦にて、パワーボムを決めようとした川田を三沢はウラカン・ラナで切って返そうとした。川田はこれを全身で踏ん張り、だらんと体がリングに対し垂直の状態で逆さまで宙づりになった三沢を、そのままツームストーン・パイルドライバーのような形で脳天から垂直落下に叩きつけた、衝撃的な技。そのあと後述の垂直落下式ブレーンバスターで追い打ちをかけて勝利した。なお、この技をかけた際、試合序盤に三沢の後頭部へ裏拳を繰り出した際にひびが入っていた川田の右腕が、技の衝撃で折れてしまい、試合には勝利したものの、この怪我による欠場のため王座を返上することになった。以降は使用していなかったが、2002年に武藤へ挑戦した三冠戦で、武藤に三年の封印をとき、これを繰り出して勝利し三冠を奪取している。

  • ランニング顔面蹴り (デンジャラス・キック、ランニング・ローキック)

座った相手に走りこんで、顔面にサッカーボール・キックを叩き込む技。32代三冠ヘビー級王者時代とその前後においては、フィニッシュ技として多用していた。また、1999年7月17日の高山善廣とのシングル戦では、リングサイドで高山へこの技を見舞い、場外失神KO(試合結果はリングアウト)させたこともある。この試合をレフェリングしていた和田京平は、ジャイアント馬場の墓前で「自分の配慮が足りないばかりにこのような事態を引き起こしてしまった」と涙ながらに語った。その様子を見ていた馬場元子が、これをきっかけとして全日本プロレスの内情に口をはさむようになり、選手大量離脱を引き起こしたとされる[9]

  • 垂直落下式ブレーンバスター

急角度で頭部から相手を落とすブレーンバスター。滞空時間の長い、タメを作ってから決めるのが特徴。90年代後半以降、大一番の試合で、相手をフィニッシュへ追い込むときやパワーボムやジャンピング・ハイキックなどで決着が付かない場合などに使用した秘密兵器的な技。

  • ストレッチ・プラム


別名は顔面締め式あばら折り。川田のオリジナル(考案者という意味でなく、実戦での初使用者。考案者は後述)となる極め技。スタンディング式とグラウンド式がある。当初はスタンディング式のみであった。

スタンディング式は、立っている相手の後ろに立ち、自分の片足を相手の片足のを跨ぐようにして前方へ出して踏み込むことで下半身を固定し、さらに前へ踏み込ませた自分の足とは反対側にある相手の片腕を自分の腋に抱え込むようにして固め、同時に反対側の腋に相手の頭部を斜め後方へ反らして抱え込んで、その状態で相手を絞り上げる。古典的な技であるコブラツイスト(あばら折り)と藤波のオリジナル技であるドラゴン・スリーパー・ホールド(飛龍裸絞め)の合成のような技。

グラウンド式は尻餅を着いた状態の相手の後方に立ち、相手の股の間に自身の片足を差し入れて踏み込んで下半身を固定、上半身のロックはスタンディング式と同じである。その状態で相手を締め上げつつ、股に差し入れた自分の足を軸足として、上半身を横方向に思いっきり捻り上げる。グラウンド式は拷問式とも呼ばれた。

1990年代後半からは、試合中盤以降での痛め技・追い込み技として使用されることが多く、中堅選手相手くらいでしかフィニッシュとしては使用されなくなった。

1980年代に活動していたコントグループ・松竹梅のメンバーで川田と親交が深かった梅村達也がこの技の考案者および命名者である。当初は「梅コブラ」だったが、名前が格好悪いので変更したとのこと。梅村の考案したストレッチ技ということで、苗字の「梅」を取り、梅=プラムの一種ということで命名された。輩で元タッグパートナーの冬木弘道がこの技を真似て「冬木スペシャル」として使っていたが、冬木曰く「小指の角度が違うからストレッチ・プラムとは別の技」とうそぶいてみせた。



その他


打撃技

  • ランニング・フロントハイキック(顔面蹴り)

走りこみ、相手の顔面に片足の裏を叩き込む技。長い期間試合で多用している、川田の代名詞的な技。ロープに振っての「カウンター式」や、コーナーにもたれかかっている相手に対し繰り出す「串刺し式」も存在する。「ディイイイイイヤ」と叫びながら繰り出すことが多い。

  • ステップキック(連続顔面蹴り、拷問顔面蹴り)

相手の後頭部を掴んで前かがみにさせた状態で、顔面に足の甲で軽い蹴りを何発も叩き込む。上記と並ぶ川田の代名詞的技。

  • サッカーボールキック

尻餅をついている相手の背中を全力で蹴りつける。

  • オーバーヘッドキック

背面からのクラッチに対して斜めに後方回転して相手の顔面に蹴りを叩き込む、返し技。同名のサッカー技術に似ていることから、こう呼ばれる。

  • スピンキック

後ろ回し蹴り。川田のそれは回転しながら斜めに倒れこむようにして蹴り足を高く上げ、ふくらはぎから先で相手の胸部から顔面にかけて狙う独特のものである。相手をロープに振ってのカウンターでの使用が多い。

  • 浴びせ蹴り

相手に向かって前方宙返りするように回転しながら踵を浴びせる蹴り技。ここ一番の試合で突如として繰り出すことがある。

  • ミドルキック

中段回し蹴り。立っている相手に連続的に決めることが多い。超世代軍在籍時には、コーナーで連発で決めたり、相手に連続的に見舞いながら徐々に相手をコーナーへ追い込んで行ったりした。その際、蹴ったときに川田が発する「シャーッ」という掛け声を、蹴る度に観客が合唱した。しかし、この掛け声を川田は嫌がっていたため、後に観客はこの掛け声を発しなくなった。

  • 起き上がり小坊師式逆水平チョップ

片手で相手の片手首を掴んでまま、反対の腕で逆水平チョップを相手の胸元へ放ち、相手がマットにダウンしたと同時に捕まえている腕を引っ張り上げて無理矢理相手を起こし、再び逆水平チョップを放つ動作を繰り返す。

  • ラリアット


ハンセンや小橋などの腕力を生かしたものとは異なり、走りこんで加速を付けて相手に放つ。スティーブ・ウィリアムスから、シングル初勝利を奪ったのはこの技である。

投げ技


  • バックドロップ


相手の背後に回り込んで背中の方から相手の左脇に頭を潜り込ませて相手の腰を両手で抱え込み、自身の両手を相手の、へそのあたりでクラッチして体をブリッジさせる勢いで相手を後方へと反り投げた相手を肩口から叩きつける。

極め技


  • 腕ひしぎ逆十字固め

かつてゲーリー・オブライトからギブアップをとったこともあった技。2007年のチャンピンカーニバルで、決勝進出がかかった小島聡戦でも、この技を使用。ギブアップを奪い、10年ぶりの決勝進出を決めた。

  • ニュー・ストレッチ・プラム

改良を加えたグラウンド式ストレッチ・プラム。下半身は同じだが上半身のクラッチが異なる。尻餅状態の相手の後方に立ち、相手の股に自分の片足を差し入れて、その状態でしゃがみ込み、同時に股に差し入れた足とは反対側にある相手の腋に片腕を差し入れた上で自分のもう片腕を掴み、そのまま相手の上半身を横に倒しながら。両腕で胴を絞めながら肩を極める。さらに相手の上半身を横に捻る。

  • 逆片エビ固め


主に試合の序盤に使用されることが多く、この技に移行する前には足をかけていない状態で相手の顔面や肩口にストンピングを入れてから技に入ることが多い。

飛び技


  • 背面式ダイビングエルボードロップ


唯一使用する飛び技。仕掛けた後そのままフォールに持ち込むともある。

ツープラトン技


  • 聖鬼軍スペシャル

一人の相手に対し川田がバックドロップ、田上がノド輪落としを二人掛かりで同時に繰り出すツープラトン技。


入場テーマ曲



  • 「フットルース」ケニー・ロギンス - 天龍同盟加入時代に使用。

  • 「ラストバトル」 - アニメ「バリバリ伝説」より。超世代軍結成期に使用。

  • 「Holy War」 - ビッグマッチではスローバージョンを前奏として使用。今でも、全日本プロレスに参戦する時は、前奏抜きをたまに使用する。

  • 「Holy War(B.B.B.バージョン)」 - 1998、99年頃使用。

  • 「Holy War 21」 - 2000年10月9日、新日本・東京ドーム大会より使用。初披露はその前日のファン感謝デー。

  • 「ソウルドラゴンのテーマ(Blue Eyed Soul)」CARL DOUGLAS - ハッスルK時に使用

  • 「交響曲第9番 ホ短調 作品95, B.178「新世界より」(Z nového světa)第四楽章」アントニン・ドヴォルザーク - モンスターK時に使用



人物・エピソード



  • デビュー以来引き分けを入れて205連敗というドン底からトップレスラーまで這い上がってきた。

  • 1994年10月22日、スティーブ・ウィリアムスとの三冠戦に勝利し初戴冠するも、勝って防衛したのは2003年10月26日のドン・フライ戦が初めてで、9年もの年数がかかった(ただし1995年1月19日の対小橋建太戦では、60分時間切れ引き分けで初防衛に成功している)。

  • 前歯は折れてほとんど無い。試合時は義歯を外している。ただし、地方巡業でのタッグマッチでは義歯をつけたまま試合を行うこともある。

  • ハッスルに参戦するまではマイクパフォーマンスをほとんどしなかった[10]


  • お笑いタレントとの交友は広い。特にダチョウ倶楽部の肥後克広・上島竜兵と仲が良く、川田の紹介で彼と志村けんとの親交も生まれた。得意技の1つ、ストレッチ・プラムは公開当時に活躍していたコントグループから名を取り(「主な得意技」の「ストレッチ・プラム」の項参照)、「ハッスルハウス Vol.2」ではダチョウ倶楽部の肥後克広をリングに上げ、2人でハッスルポーズを決めている。ウッチャンナンチャンのウリナリ!!では勝俣州和の股割りのスペシャルコーチとして登場した。

  • 寡黙で冗談が通じないという全日本時代のキャラクターは自ら作り上げたギミックであることをラジオ番組の中で明かした[11]。友人の肥後に全日本プロレスのパーティーにどうしても来て欲しいと仕事の合間をぬって来てもらった際は明るく出迎えたが、いざカメラを向けられると冷たくあしらったという。

  • プロレス界の風習となった「引退→復帰」の流れを極端に嫌っているため、「俺がプロレス辞める時は『引退』ではなく『休業』ということにしてくれ」と述べている。



飲食店経営者・調理人としての経歴


ラーメンと鶏のから揚げを看板料理とする居酒屋「麺ジャラスK」を2010年6月12日に開店した。店名は自身のニックネームに因む。全日本プロレス旧砧道場から程近い、東京・世田谷通り沿いで、成城学園前駅から徒歩で15分ほど。川田自ら厨房に立つ。定休日は毎週火曜だが、試合出場やイベント出演等の際は臨時休業ありと述べている。2018年現在は2ヶ月に一度程度のペースで、他のプロレスラーを呼んでのトークイベントなども行っている。


ラーメンは、天下一品系の濃厚な鶏白湯スープと中太麺が特徴。


2018年3月31日にはAbemaTV「偉大なる創業バカ一代」に創業者として出演した。



関連書籍


  • 俺だけの王道 川田利明自伝 Dangerous K(小学館、2003年)ISBN 4093874123


脚注





  1. ^ プロレス評議会『プロレス最強は誰だ?』2012年、41頁。


  2. ^ “Wrestler Profiles: Toshiaki Kawada”. Online World of Wrestling. 2012年8月19日閲覧。


  3. ^ 天龍源一郎 『完本 天龍源一郎 LIVE FOR TODAY -いまを生きる-』 竹書房、2016年。ISBN 9784801908444 p225


  4. ^ “伝説の川田利明インタビューを全文掲載!” (2011年11月14日). 2011年12月26日閲覧。


  5. ^ なお、2009年9月7日、三沢の急逝を受けて社長に就任した田上は、同年10月3日に大阪で開催される三沢追悼興行の試合として田上・川田VS秋山準・KENTAのタッグマッチを発表した。[1]。


  6. ^ “伝説の川田利明インタビューを全文掲載!” (2011年11月14日). 2011年12月26日閲覧。


  7. ^ “伝説の川田利明インタビューを全文掲載!その3” (2011年11月16日). 2011年12月26日閲覧。

  8. ^ ab川田利明 得意技“継承”の丸藤に注文「もうちょっと勉強して」 - 東京スポーツ・2018年4月26日


  9. ^ 馬場元子著『ネェネェ、馬場さん』


  10. ^ 川田のマイクアピールとして最も初期のものは新日本プロレス'00.9.16 愛知・愛知県体育館 AMAZINGでの会場内。G1トーナメントの意図的に組まれた両端の健介、川田というカードに対し、健介が「川田がやるとは言ってない、はっきり言ったらやってやる」とトーナメント表を破り捨てたことに、会場に赴きスーツ姿で「全日本の川田として健介を潰す」と短くアピールした。


  11. ^ 高校時代、控室で三沢にやたら話しかけて叱られたというエピソードがある(三沢はこの頃のことを自伝において「俺は試合が終わって疲れてるのに川田が「三沢さん強いっすねぇ〜。全然練習してないのに」と言ってきたんでシメた」と語っている)




外部リンク



  • 太田プロダクション プロフィール

  • ハッスル 選手データ


  • 麺ジャラスK 公式サイト[リンク切れ]


  • 麺ジャラスK 店長 (@orenooudou) - Twitter








Popular posts from this blog

Accessing regular linux commands in Huawei's Dopra Linux

Can't connect RFCOMM socket: Host is down

Kernel panic - not syncing: Fatal Exception in Interrupt