楊尚昆
楊尚昆 | |
中華人民共和国 第4代国家主席 | |
任期 | 1988年4月8日 – 1993年3月27日 |
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副主席 | 王震 |
元首 | 鄧小平(最高指導者) 江沢民(党総書記) |
首相 | 李鵬 |
中華人民共和国 国家中央軍事委員会第一副主席 | |
任期 | 1989年11月 – 1993年3月 |
元首 | 江沢民(党総書記) |
中華人民共和国 国家中央軍事委員会副主席 | |
任期 | 1983年6月 – 1989年11月 |
元首 | 鄧小平(最高指導者) |
中国共産党 中央軍事委員会第一副主席 | |
任期 | 1989年11月 – 1992年10月 |
中国共産党 中央軍事委員会常務副主席 | |
任期 | 1982年9月 – 1989年11月 |
出生 | 1907年5月25日 清、四川省潼南県双江鎮 |
死去 | (1998-09-14) 1998年9月14日(91歳没) 北京市 |
政党 | 中国共産党 |
配偶者 | 李伯釗 |
署名 |
楊尚昆 | |
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職業: | 政治家・軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 楊尚昆 |
簡体字: | 杨尚昆 |
拼音: | Yáng Shàngkūn |
和名表記: | よう しょうこん |
発音転記: | ヤン・シャンクン |
楊 尚昆(よう しょうこん、ヤン・シャンクン、1907年5月25日 - 1998年9月14日)は中華人民共和国の政治家、軍人。中華人民共和国主席、中国共産党中央政治局委員、中国共産党中央軍事委員会第一副主席などを歴任。長征経験者。1980年代から1990年代前半の中国政界で権勢を誇った中共八大元老の一人で、弟の楊白冰と共に「楊家将」と呼ばれ、中国人民解放軍に大きな影響力を及ぼした。
目次
1 経歴
1.1 建国以後
1.2 文化大革命期
1.3 鄧小平体制の下で
2 脚注
3 参考文献
経歴
清朝時代の四川省遂寧県双江鎮(現在の重慶市)に生まれる。中華民国時代の1920年、成都高等師範学校附属小学校に入学し、後に附属中学校に進学。在学中にマルクス主義に触れる。1925年に卒業後、革命運動に参加。中国共産主義青年団の団員を経て、1926年に中国共産党へ入党。上海大学で学びながら、上海総工会による武装蜂起の準備活動に加わる。同年11月、ソ連に派遣され、モスクワ中山大学に入学し、マルクス・レーニン主義を学んだ。1929年、李伯釗とソ連で結婚。モスクワ中山大学で学んだ後は、ソ連の中国問題研究院の研究生となり、コミンテルン中国代表の通訳を務める。1931年に帰国した後は、党中央宣伝部長兼中華全国総工会宣伝部長などを務め、労働運動や抗日運動を指導する。
1933年初頭、楊尚昆は中国共産党の中央革命根拠地である江西省瑞金に赴き、中央ソビエト区中央局の宣伝幹事となる。同年6月、中国工農紅軍第一方面軍政治部主任となり、紅軍の政治活動に参画するようになる。第一方面軍で朱徳や周恩来に従って前線を転戦した後、1934年10月からは彭徳懐率いる第三軍団の政治委員として長征に参加する。途上、第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央委員候補に選出される。陝西省延安に到達後、党中央革命軍事委員会(後の党中央軍事委員会)総政治部副主任・紅軍前線総指揮部政治部主任などに任命され、長期にわたり紅軍における政治工作の指導者として活躍した。
日中戦争期は党中央北方局副書記、後に書記を務め、華北におけるゲリラ戦を指導した。国共内戦期は党中央軍事委員会秘書長として、軍高級幹部に命令を伝達する立場となる。また、1945年10月からは党中央弁公庁主任を務めており、周恩来らを補佐して党中央の日常業務を処理した。
建国以後
1949年10月1日に中華人民共和国が建国された後も、楊尚昆は引き続き党中央委員会副秘書長兼中央弁公庁主任、党中央軍事委員会秘書長として党と軍の日常業務を統括した。1956年9月の第8回党大会で中央委員に選出され[1]、第8期1中全会で中央書記処候補書記に任命された[2]。中央書記処総書記には鄧小平が就任しており、楊尚昆は鄧小平と業務的に密接な関係を持つようになった。そして、鄧小平の信頼を得ることとなる。
文化大革命期
しかし文化大革命の開始直前の1965年11月には党中央弁公庁主任を罷免される[3]。さらに1966年5月4日に始まる党中央政治局拡大会議において批判され[3]、楊尚昆は毛沢東に対して批判的な「実権派」の一員とされ攻撃を受けた。5月22日、中央書記処書記候補の職務を停止され、広東省党委員会書記処書記の職務を解任の上、肇慶地区委員会副書記への降格となり[4]、5月28日には山西省臨汾地区委員会副書記に転じた[4]。
6月27日、劉少奇主宰による「彭真・陸定一・羅瑞卿・楊尚昆反革命集団」についての座談会が行われ、楊は「毛沢東への反逆」を批判されて失脚した。7月3日、楊は「監護審査」を宣告され、以後12年間、1978年まで監禁された[4]。
鄧小平体制の下で
1978年12月の第11期3中全会で名誉回復され[5][6]、1979年9月の第11期4中全会において中央委員として復活[7]。その後、広東省党委員会第二書記、広東省副省長、広州市党委員会第一書記、革命委員会主任、広東省軍区第一政治委員兼軍区党委員会第一書記を歴任し、鄧小平の改革開放政策を支える。1980年3月、全国人民代表大会常務委員会副委員長兼秘書長に選出される(1983年6月まで)。1981年7月、党中央軍事委員会常務委員兼秘書長に任命される。1982年9月の第12期1中全会で政治局委員、党中央軍事委員会常務副主席兼秘書長に昇進[8]。1983年6月、国家中央軍事委員会が設置されるとその副主席を兼任する。1988年4月8日、第7期全人代第1回会議において国家主席に選出された[9]。
1989年の第二次天安門事件では、鄧小平と党総書記である趙紫陽の間を取り持とうと奔走する。同年5月、ソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフが訪中した際、趙紫陽は第13期1中全会において「重要問題は鄧小平に決定権がある」と決議されたことをゴルバチョフに明かしたため、鄧小平と趙紫陽の関係が決裂してしまったが、楊尚昆は趙紫陽が総書記を続投するように説得した。また、同時期に北京の天安門広場で展開されていた民主化デモに対して、共産党指導部は武力弾圧を検討したが、楊尚昆は当初、武力の行使には批判的で、鎮圧を回避しようとした。しかし、50年来の知己である鄧小平の決意が固いと知ると反対せずに従った。中央軍事委員会主席である鄧小平に代わって、中央軍事委員会副主席である楊尚昆が武力行使の実行責任を担い、国家主席としての権限で戒厳令を発令した。楊尚昆の甥が北京軍区所属の第27集団軍を指揮してデモを鎮圧した。
事件後の1989年11月に開催された第13期5中全会において、失脚した趙紫陽に代わって党中央軍事委員会第一副主席に昇格し[10](その後、国家中央軍事委員会第一副主席を兼任)、弟・楊白冰と共に自身に近い将軍を抜擢させるなど中国人民解放軍における影響力を拡大させる。江沢民への権力委譲を進める鄧小平にとって、楊兄弟の軍での権勢は看過できないものとなっていった。鄧小平に引退を迫られた楊尚昆は1992年10月の第14回党大会で政治局委員の退任を余儀なくされ、続く第14期1中全会で中央軍事委員会から事実上追放された。同時に楊兄弟派閥の軍幹部も辞任に追い込まれ、軍内の楊兄弟の影響力が一掃された。1993年3月27日、楊尚昆は国家主席・国家中央軍事委員会第一副主席を退任し、政界を引退。
1998年9月14日、病気のため北京で死去。
脚注
^ 中国共産党第八届中央委員会委員和候補委員名単 (中国語)
^ 中共八届一中全会選出新的中央机构 (中国語)
- ^ ab片岡(1999年)、24ページ。
- ^ abc刘幼琪「[杨尚昆:“外放”离京遭迫害 被监禁长达12年 (4)]」『中国共产党新闻网』 2011年12月2日。
^ (一九七八年十二月二十二日採択)中国共産党第十一期中央委員会第三回総会コミュニケ
^ 中国共産党第十一届中央委員会第三次全体会議公報 (中国語)
^ 中国共産党第十一届中央委員会第四次全体会議公報 (中国語)
^ 第十二届中央委員会第一次全体会議広報(第一号) (中国語)
^ 中華人民共和国全国人民代表大会公告 第一号 (中国語)
^ 中国共産党第十三届中央委員会第五次全体会議広報 (中国語)
参考文献
- 張良 『天安門事件』 文藝春秋、2001年。ISBN 9784163581309
- 片岡幸雄「中国対外貿易機構の変遷(V-1)」 『広島経済大学経済研究論集』 第22巻第1号、1999年6月。
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