トウ小平







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中華人民共和国の旗 中華人民共和国の政治家
鄧小平

小平
Deng Xiaoping


Deng Xiaoping.jpg
鄧小平(1979年)

生年月日
(1904-08-22) 1904年8月22日
出生地
清の旗 清 四川省広安県(現在の広安市)
没年月日
1997年2月19日(1997-02-19)(92歳)
死没地
中華人民共和国の旗 中国 北京市中国人民解放軍総医院
出身校
モスクワ中山大学
所属政党
Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg 中国共産党
配偶者
卓琳
親族
鄧樸方(長男、全国政協副主席)



Danghui.svg 初代中国共産党中央顧問委員会主任

在任期間
1982年9月12日 - 1987年11月2日
党総書記
胡耀邦
趙紫陽



Danghui.svg 第3代中国共産党中央軍事委員会主席

在任期間
1981年6月29日 - 1989年11月9日
党総書記
胡耀邦
趙紫陽




中華人民共和国の旗 初代国家中央軍事委員会主席

在任期間
1983年6月6日 - 1990年3月19日
国家主席
李先念
楊尚昆




中華人民共和国の旗 第3代中国人民政治協商会議主席

在任期間
1978年3月8日 - 1983年6月17日
国家主席
廃止




中華人民共和国の旗 国務院常務副総理

内閣
周恩来内閣
華国鋒内閣
在任期間
1975年1月17日 - 1976年4月7日
1977年7月16日 - 1980年9月10日
国家主席
廃止



その他の職歴


政務院副総理
(1956年9月28日 - 1968年10月31日)

中華人民共和国の旗第2代財政部長
(1952年8月7日 - 1954年9月27日)

中華人民共和国の旗国務院副総理
(1953年9月18日 - 1954年6月19日)

中華人民共和国の旗第6代中国人民解放軍総参謀長
(1954年9月27日[1] - 1968年10月31日)
(1973年3月10日 - 1975年1月17日)

中華人民共和国の旗中国共産党中央委員会副主席
(1973年12月12日 - 1976年4月7日)
(1977年7月16日 - 1980年3月2日)
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鄧小平
各種表記

繁体字:

鄧小平

簡体字:

邓小平

拼音

Dèng Xiǎopíng
和名表記:
とうしょうへい
発音転記:
ドン・シャオピン

英語名:

Deng Xiaoping
各種表記(本名)

繁体字:

鄧先聖

簡体字:

邓先圣

拼音

Dèng Xiānshèng
和名表記:
とうせんせい
発音転記:
ドン・シェンシン

英語名:

Deng Xiansheng
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鄧 小平(とう しょうへい、1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。中華人民共和国を建国した毛沢東の死後、事実上の中華人民共和国の最高指導者となる。毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いた。




目次






  • 1 生涯


    • 1.1 フランス留学時代


    • 1.2 共産主義者として


    • 1.3 文革期


    • 1.4 権力の掌握


    • 1.5 第二次天安門事件


    • 1.6 鄧小平の政策


    • 1.7 死去




  • 2 あだ名


  • 3 逸話


  • 4 脚注


  • 5 参考文献


  • 6 関連項目


  • 7 外部リンク





生涯


1904年、四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれる。初め鄧先聖と名づけられ、幼時には鄧希賢(私塾での学名)も用いる[2]。1920年、16歳のときにフランスに留学する。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という形の苦学生であった。ちなみに鄧小平は16歳で故郷を出た後、死ぬまで一度も帰郷することはなかった。



フランス留学時代


鄧が留学した時代、フランスは第一次世界大戦直後の不景気だったため、パリから遠く離れた市立中等校に入学して節約に励むが、生活費を稼ぐため半年で学校を辞めてしまう。工員、ボーイ、清掃夫など、職を転々と変えながらも堅実に貯金して、1922年10月に再び田舎町の市立中等学校に入学して3か月間学んだのち、パリ近郊のルノーの自動車工場で工員として勤務する。



共産主義者として




鄧小平(1941年)


フランス留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名される。1925年、中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となったため、フランス政府に危険分子と見なされ、フランスでの居心地が悪くなり、1926年モスクワに渡った。東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ。鄧小平がパリを出発した数日後、フランスの警察が鄧小平のアパートを捜査に入り、2月後に国外追放令を出されていた。


1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。


1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍一二九師政治委員となる。この後、華北方面での抗日ゲリラ戦を戦う。1946年以降に国民党と戦った国共内戦では、淮海戦役・揚子江渡河作戦で第2野戦軍政治委員などをつとめ、大きな戦果を収める。1949年の中華人民共和国の成立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。


1952年、毛沢東により政務院副総理に任命され、翌1953年には財政部長(大臣)を兼任する。1954年9月に政務院が国務院に改組されると、引き続き副総理を務める。1955年4月、第7期党中央委員会第5回全体会議(第7期5中全会)において中央政治局委員に選出。さらに1956年の第8期1中全会で党中央政治局常務委員に選出されて党内序列第6位となり、中央書記処総書記として党の日常業務を統括することとなる。


1957年には総書記として反右派闘争の指揮を取る。約55万人が迫害を受け、毛沢東の死後にその99%以上が冤罪であったと認められた事件であった[3]



文革期


鄧小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の鄧小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇主席に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。


1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、鄧は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。


1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏し、鄧小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括。1974年4月、国連資源総会に中国代表団の団長として出席し、演説。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。


着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。すなわち第一次天安門事件である。この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たす。



権力の掌握


1977年7月の第10期3中全会において、党副主席、国務院常務副総理、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。鄧小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、全国普通高等学校招生入学考試を復活させる。


1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、当時は副総理だったが、事実上の中国首脳として初めて訪日して福田赳夫首相らに歓待され、中国の指導者としては初めて昭和天皇と会見した。ロッキード事件の渦中にあった田中角栄の私邸を田中の日中国交正常化の功績を称えるべく訪れた他、日本社会党・公明党・民社党・新自由クラブ・社会民主連合・日本共産党といった野党6党の代表と会談して自らを不老不死の霊薬を求めて来日した徐福に擬えた[4]。千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所を訪れて上海の宝山製鉄所への協力を仰ぎ、東海道新幹線に乗った際はその速さに驚嘆し、パナソニックでは工場建設を呼びかけ、日産自動車の整然と作業する産業用ロボットに感銘を受ける[5]など先進技術、施設の視察を精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。この日本訪問で鄧小平が目の当たりにした日本の経済力、特に科学技術での躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。


同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し[6]、事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。





ジミー・カーター(左)やリチャード・ニクソン(中央)と(1979年の訪米にて)


1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンD.C.で大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。前年の訪日とこの訪米で科学技術において立ち遅れた中国という現実を直視した鄧は改革開放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深圳市など4つの経済特別区の設置を決定する。


鄧小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、鄧小平は華国鋒の追い落としを目論む。華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、鄧小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、鄧小平を支持するものであった。華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、党中央委員会総書記[7])に就任し、鄧小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の1980年には鄧小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここに鄧小平体制が確立した。


鄧小平は当初民主化を擁護していたが、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化した。1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している[8]。翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、鄧は政治改革に全く反対だというわけではなかった。第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。ただし、鄧自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。


後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは、1987年の第13期1中全会で「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。1989年の第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。



第二次天安門事件


生涯に三度の失脚(奇しくもうち二回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬首相らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。


鄧小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。



鄧小平の政策


1978年に日中平和友好条約を結び、同年10月に日本を訪れた鄧小平は、後述の新幹線への乗車で日本の経済と技術力に圧倒された。また、同年11月には、シンガポールの外資誘致の実態を見学した。これらの海外視察から帰国した鄧小平は、第11期3中全会(同年12月)において、それまでの階級闘争路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」という政策を打ち出した。


その代表的な経済政策のひとつが、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置である。一部地域に限り外資の導入を許可・促進することで経済成長を目指すというこの政策は、その後、きわめて大きな成果を収めた。しかし、政治面では共産主義による中国共産党の指導と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経済政策を取った。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)という「白猫黒猫論」[9]に表れている。


1984年3月には訪中した当時の中曽根康弘首相は鄧小平ら中国指導部と会談して第二次円借款の実施や中日友好病院、日中青年交流センター設置などで一致し、鄧小平は経済協力の拡大を呼びかけ[10]、沿海部の経済特区指定も重なり、これ以降日本の対中直接投資は本格化する。一方で当時の胡耀邦総書記と比較して鄧小平は靖国神社問題などで日本に批判的であり、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して愛国主義教育を推進するよう指示を出して南京大虐殺紀念館をつくらせた[11]


1984年12月には、鄧小平とモスクワ中山大学で同窓生だった蒋経国の中華民国(台湾)に提案していた「一国二制度」構想のもと、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に、首相のマーガレット・サッチャー(当時)とともに調印している。蒋経国とはシンガポール首相のリー・クアンユーや香港の商人で密使の沈誠らを通じて交渉を行い[12]、1985年7月には香港などを介した大陸との間接貿易を台湾に事実上解禁させることに成功し(公式には1990年10月からで、対中直接投資は1992年9月に解禁)、1987年11月には三親等以内の大陸親族への訪問の容認を引き出した。


1988年8月に中国訪問した竹下登首相と巨額の第三次円借款実施や日中投資保護協定の締結などで合意し、鄧小平はさらなる対中投資を要請[13]して後に日本側で日中投資促進機構が創設される。NHKと中国中央電視台が共同制作したシルクロード番組で起きた当時の日本の「シルクロードブーム」を受け[14]、日中友好環境保護センターも設置された。


1989年に公職から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していた鄧小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深圳や上海などを視察し、南巡講話を発表した。経済発展の重要性を主張するのみならず、ソビエト連邦の解体などを例にとり「経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながる」と主張する党内保守派に対して、これを厳しく批判した南巡講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。



死去


鄧小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。唯物主義にのっとった遺言により、角膜などを移植に寄付した。本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは鄧楠の希望で実施されなかった。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。


中国中央電視台は鄧の死をトップに報道し、江沢民総書記は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。死後翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部でも追悼の意を表すために半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだときに盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。


鄧小平の死後、鄧が唱えた社会主義市場経済や中国共産党の正当化などの理論は、鄧小平理論として中国共産党の指導思想に残された。




深圳に立つ鄧小平像



あだ名


名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「鄧蝟子(ハリネズミの鄧)」、「鄧矮子(チビの鄧)」と呼ばれたりもした。毛沢東は鄧小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。



逸話




  • フランス留学など、青年期に7年近い欧州生活を送り、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった鄧小平は、いくつかの趣味を持っていた。とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。

  • フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで1番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。


  • サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。

  • 背が伸びなかったのは、フランス滞在中、満足に食事を取れなかった栄養不足からだと後年、語っていた。

  • 鄧小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」である。これは最も鄧が好んだ言葉であり、毛沢東が鄧を弾劾する際にその理由の一つとしている。

  • 実子である鄧樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は多くあり、鄧小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。鄧小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の障害者団体に関わっていたことがある。


  • 1974年の国連資源総会に出席した際、中国は過去も、現在も覇権を求めておらず、将来強大になっても覇権を求めないと演説した[15]


  • 日本国外務省の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、1978年8月の日中平和友好条約交渉において、鄧小平がソ連を覇権主義と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。その際に鄧小平が園田直外相に対し、「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであり、近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではない」と述べたという[16]。同条約調印式の際は日米安全保障条約と自衛隊の軍事力増強を歓迎すると表明した[17]


  • 1977年、 訪中した元陸将・陸上自衛隊第9師団長の三岡健次郎に対して鄧小平は「毛沢東主席は常々『過去のことは水に流そう』と言われた。しかも実際は日本が中国を助けた。日本が蒋介石を重慶まで追いやったから我々は日本軍の占領地域の後方に展開できた。そして8年間に3万から120万にまで増えたし、さらに数百万の民兵まで作り、120万の我々は3年で蒋介石軍を撃破できた。だから皆さんだけを責めるのは不公平だと思う」と述べ[18]、鄧小平の要請で三岡健次郎が設立した中国政経懇談会が始めた自衛隊OBによる日中交流は中断なく今日まで続いてる[19]


  • 1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の第11期3中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らしている。日産自動車の工場を訪れた際は「ロボットはお金のことを言わないし、彼らがストライキするのを心配する必要もない」と述べ[5]、日本車の美しさも誉め称えたため、日産自動車から最高級乗用車の日産・プレジデントが特別に贈られた[20]。ほかには、「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を残してもいる。事実、訪中した鈴木善幸自民党総務会長に対し、中国での日中共同の兵器工場を建設する計画を鈴木本人によれば真剣に提案してきたという[21]。訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いた鄧小平は立ちつくしたと、入江相政は言っている[22]。この後に鄧小平は昭和天皇の訪中に拘り始め、1984年に田中角栄元首相を通して日本に働きかけるも宮内庁は沖縄訪問を優先したので断られた[23]。天皇の訪中は今上天皇となってから1992年に実現する。


  • 1979年に訪中した松下幸之助に対して孫悟空の寓話を持ち出して日本の電子産業全体で中国の電子産業を支援させるという「君子の約束」を交わし[24][25]、松下は訪中の際は鄧小平に構想の遅れを詫びていた[26]


  • 1989年に鄧小平は訪中した王永慶(中華民国で「台湾の松下幸之助」と呼ばれる)と会談し、巨大プロジェクト「海滄計画」が打ち出されるも台湾政府に中止された[27]


  • 大韓民国大統領の朴正煕とは三菱商事の当時の藤野忠次郎社長の後押しで経済協力とホットライン開設を目的に接触していた[28][29]。朴正煕の暗殺で立ち消えとなった中韓のホットラインは2015年に娘の朴槿恵大統領が開設するまで実現されなかった[30]


  • 蒋介石との世界反共連盟設立や文鮮明との国際勝共連合創設などの活動で日本の反共主義者の代表格や「右翼のドン」とされた笹川良一とは日中国交正常化から親交を結んだ[31]


  • 北朝鮮最高指導者の金日成は長年の付き合いから「親密な同志で戦友」と評価していたが[32]、その後継者の金正日は後継者内定後初の外遊である1983年6月の訪中から帰国した際に中国の改革開放を「社会主義や共産主義を捨てた」「修正主義」と批判したことで鄧小平は「なんて馬鹿な奴だ」「世間知らずの小童」と唾棄し、焦った金日成は謝罪を約束してそれを拒む金正日と口論になっている[33]。黄長燁によれば、金日成は中国式改革開放に肯定的であり[34]、金日成は生涯最後の外遊である1991年の中国訪問で鄧小平から改革開放を迫られて帰国後の会議で羅津・先鋒経済貿易地帯の設置を決定するも[32]、その跡を継いだ金正日は計画経済に固執して苦難の行軍という大飢饉を起こして結局鄧小平死後の21世紀に入ってから17年ぶりに訪中して中国に経済支援を仰いだ。


  • 歴史認識では「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたという[35]。ただし、奥野誠亮大臣の発言や閣僚の靖国神社参拝については「日中友好を好ましいと思わない人がいる」と批判している。



脚注


[ヘルプ]



  1. ^ この日、第1期全国人民代表大会第1回会議において政務院総理の周恩来が国務院総理に就任して国務院が成立。第1期全人代第1回会議の最終日である翌日、国務院副総理・秘書長の選出が行われた。副総理・閣僚・秘書長らが正式に任命されたのは9月29日。


  2. ^ “著名共産党人改名趣事:鄧小平幼時叫“鄧先聖””. 人民網. (2009−01ー15). http://culture.people.com.cn/GB/40479/40482/8680378.html 2017年9月23日閲覧。 


  3. ^ 伊藤正『鄧小平秘録』、25ページ。


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  7. ^ 1982年9月に開催された第12回党大会における党規約改正で党主席制が廃止され、党の最高ポストとして中央委員会総書記が設置された。


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  9. ^ 実際の発言は「白猫」ではなく「黄猫」である(矢吹晋『鄧小平』、講談社現代新書版71-72ページ)。


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  11. ^ 笠原十九司『体験者27人が語る南京事件』高文研


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  34. ^ 久保田るり子『金正日を告発する 黄長燁が語る朝鮮半島の実相』162頁、2008年


  35. ^ 徐鵬「鄧小平:從抗日主將到推動中日友好的歷史巨人」『中国共産党新聞』(『人民網』)、2012年9月24日閲覧。



参考文献



  • 伊藤正 『鄧小平秘録』(上下巻、扶桑社、2008年/文春文庫、2012年)

上巻 ISBN 4-16-783815-X、下巻 ISBN 4-16-783816-8



  • 矢吹晋 『鄧小平』(講談社〈講談社現代新書〉、1993年/講談社学術文庫、2003年)

  • 鄧榕 『わが父 鄧小平 「文革」歳月』(上下巻、藤野彰ほか訳、中央公論新社、2002年)


三女鄧榕(毛毛)による、文化大革命期における家族の回顧録。


  • ベンジャミン・ヤン 『鄧小平政治的伝記』(加藤千洋・優子訳、朝日新聞社、1999年/岩波現代文庫、2009年)

  • 寒山碧 『鄧小平伝』(伊藤潔編訳、中公新書、1988年)


著者は1938年生、名は秘密保持の為のペンネーム。原著は香港で出版。



  • ハリソン・ソールズベリー 『ニュー・エンペラー 毛沢東と鄧小平の中国』(天児慧監訳、福武書店、1993年/福武文庫 上下巻、1995年)


  • 天児慧 『巨竜の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)

  • 『鄧小平伝 中国解放から香港返還まで』(東京新聞出版局、1997年)



解放軍文芸出版社編、公的性格の伝記。


関連項目



  • 鄧小平理論

  • 韜光養晦

  • 鄧小平故居

  • クリストファー・パッテン

  • エズラ・ヴォーゲル


  • 大地の子(山崎豊子の小説で、鄧小平をモデルとした人物が登場する)



外部リンク






  • 鄧小平 風刺漫画






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先代:

設置


国家中央軍事委員会主席


1983年 - 1990年


次代:

江沢民







先代:

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全国政治協商会議主席


1978年 - 1983年


次代:

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林彪



国務院常務副総理


1975年 - 1976年
1977年 - 1980年


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万里







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薄一波


財政部長


1953年 - 1954年


次代:

李先念


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華国鋒


中央軍事委員会主席


1981年 - 1989年


次代:

江沢民







先代:

設置



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1982年 - 1987年


次代:

陳雲







先代:

張聞天



中央書記処総書記


1956年 - 1968年


次代:

胡耀邦


 People's Liberation Army Flag of the People's Republic of China.svg 中国人民解放軍





先代:

黄永勝



総参謀長(1期目)


1975年 - 1976年


次代:


鄧小平(2期目)







先代:


鄧小平(1期目)



総参謀長(2期目)


1977年 - 1980年


次代:

楊得志











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