ミス・ワールド
設立年 | 1951年 |
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種類 | ミス・コンテスト |
本部 | ロンドン |
位置 |
|
公用語 | 英語 |
会長 | ジュリア・モーリー |
重要人物 | エリック・モーリー |
ウェブサイト | www.missworld.com |
ミス・ワールド(Miss World)は1951年にイギリス・ロンドンで第1回大会が行われて以来、毎年開催されている世界を代表するミス・コンテスト[1][2]。
目次
1 歴史
2 中国の圧力
3 ミス・ワールド機構
4 コンテスト
5 歴代のミス・ワールド
6 近年のミス・ワールド
7 優勝者出身国
8 歴代の日本代表
8.1 日本代表創設当初から2012年まで
8.2 代表派遣の取り止め
8.3 ミス・ワールド2013日本代表選出開始
9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク
歴史
1951年、ビンゴ・ホールの経営者であったエリック・モーリーが「Festival Bikini Contest」という名のイベントを企画した。これは、そのころ広まりつつあったビキニを着た女性の美人コンテストでありイギリスのみならず各国から参加者を集めたもので、スウェーデンから来た女性が優勝した。このイベントを新聞などが好奇心たっぷりに「ミス・ワールド」の名で報じたのが、この名の誕生の由来である。モーリーは、一度限り・単発のイベントとしてビキニコンテストを開催したが、この影響で、翌年からミス・ユニバースが始まったほか、後年のミス・インターナショナル、ミス・アースといった世界のミスコンが行われるようになった。
ミス・ユニバースの開催に刺激され、モーリーは世界で一番の美女を探そうという「ミス・ワールド」を毎年開催することに決めた[3][4]。第2回のミス・ワールドは、ビキニに替えてより刺激の少ない水着コンテストが行われた。1959年から、BBCがコンテストの模様を放送するようになり、テレビの普及とともにミス・ワールドも人気イベントとなっていった。
1980年代には「目的のある美」をスローガンとして単なる美人コンテストからの脱却を図ろうとし、美貌のほかに知性や個性も選考基準に加えるように基準を改めた[5]。1990年代に入りテレビ中継される国はほぼ全世界におよび視聴者は20億人に達したが、一方で発祥の地イギリスでは古いタイプの見世物であり政治的に正しくないとの批判を浴びるようになり、1998年にFiveが放送を再開するまでイギリスでは1988年からの10年間放送されないという事態になった[6][7]。
2000年に創設者エリックが死去して以降、現在のミス・ワールド機構会長はエリックの妻ジュリア・モーリーである。ジュリアの指揮した2001年大会はナイジェリア人が優勝し初のアフリカからのミス・ワールドが誕生したほか、コンテストの裏側の候補者の素顔や浜辺での水着シーンの放送、視聴者が電話やネットで投票に参加するなどリアリティ番組の要素が導入された。
コンテストは1990年代以降、ロンドンを離れて世界各地のリゾート地を中心に開催されている。2003年から2005年までの決勝誘致に成功した中国・海南省の三亜など、リゾート地ではミス・ワールド決勝を誘致する動きが盛んだが、一方で宗教や地元の慣習との軋轢も起こっている(中国開催の問題点については後述)。1996年バンガロール大会では現地のヒンドゥー教関係者や一般市民から開催反対運動を起こされた。また2002年大会ではナイジェリアの首都アブジャで開催される予定だったが、北部ナイジェリア出身のナイジェリア代表が地元ムスリム指導者から姦淫の罪で石打ちの刑にすると脅される事態となり、これを受けヨーロッパを中心に各国代表が辞退したり各国政府がナイジェリア代表の救済のために動いた結果、決勝開催地はロンドンに移された。2015年大会からは水着審査が廃止された。
世界大会は200カ国以上で中継されている。
中国の圧力
2010年の第60回大会では、開催地である中国側から選考委員に「ミス・ノルウェーは低い点に抑えるよう」露骨な圧力がかけられたと、デーリー・ニューズ紙が報じて話題になった。
ミス・ノルウェーは、数日前に選考委員会から「トップ・モデル賞」を獲得し、今大会の本命だったとされていたが、5位にも入らなかった事が憶測を広げる要因となった。また、ノルウェー・ノーベル委員会が、中国の民主活動家の劉暁波にノーベル平和賞を与え、中国との関係が悪化していた。[8]
また2015年の65回大会でも、法輪功を支持するカナダ代表のアナスタシア・リンが中国のビザ発給を拒否され、香港に足止め。結局帰国させられることとなった。
ミス・ワールド機構
ミス・ワールド機構(Miss World Organization)は世界の耳目を集めるミス・ワールド決勝を毎年開催・運営する。1951年の創設以来、ミス・ワールド機構は2億5,000万ポンド以上を子供たちへの寄付にあててきた。またミス・ワールド予選を行うフランチャイズ組織を世界140カ国で認定している。
コンテスト
ミス・ワールドの栄冠への道は長い。世界決勝の前年に、各国の候補者は国内予選で優勝するか、「ミス・ワールド」の名称を使用することを許可された各国フランチャイズ組織によって国家代表として認定されなければならない。各国代表が集結する世界決勝は1ヶ月もの長さに及ぶ。数回に及ぶさらなる選抜、その合間のパーティーやディナー、舞踏会、奉仕活動が続き、最後には各国代表は15人から20人まで絞られて世界に中継される決勝に臨む。
2003年以降は、世界決勝の期間中にファースト・トラックというイベントが入るようになった。これらのイベントで優勝した者は自動的に決勝に勝ち進む。これらのイベントは毎年内容が変わるが、以下はその一例である。
- ビーチ・ビューティー(浜辺での水着コンテスト。毎回開催)
- タレント(知性を競う)
- ミス・スポーツ(体力を競う)
- ビューティー・ウィズ・ア・パーパス(「目的のある美」、各国代表が地元で行ってきた社会奉仕活動の有意義さを審査する)
- トップ・モデル
- パーソナリティー
- ピープル・チョイス(視聴者選考)
- コンテスタンツ・チョイス(出場者同士の選考)
歴代のミス・ワールド
この項目「ミス・ワールド」は途中まで翻訳されたものです。(原文:en:List of Miss World titleholders) 翻訳作業に協力して下さる方を求めています。ノートページや履歴、翻訳のガイドラインも参照してください。要約欄への翻訳情報の記入をお忘れなく。(2008年6月) |
年 | ミス・ワールド | 国 | 会場 |
---|---|---|---|
1951 | Kicki Håkansson | スウェーデン | リセウム・シアター(イギリス・ロンドン) |
1952 | May Louise Flodin | スウェーデン | |
1953 | デニス・ペリエ | フランス | |
1954 | Antigone Costanda | エジプト | |
1955 | Carmen Susana Duijim Zubillaga | ベネズエラ | |
1956 | ペトラ・シュルマン | 西ドイツ | |
1957 | Marita Lindahl | フィンランド | |
1958 | Penelope Anne Coelen | 南アフリカ連邦 | |
1959 | Corinne Rottschafer | オランダ | |
1960 | Norma Gladys Cappagli | アルゼンチン | |
1961 | ローズマリー・フランクランド | イギリス | |
1962 | Catharina Johanna Lodders | オランダ | |
1963 | キャロル・ジョーン・クロフォード | ジャマイカ | |
1964 | アン・シドニー | イギリス | |
1965 | レズリー・ラングリー | イギリス | |
1966 | Reita Faria | インド | |
1967 | Madeleine Hartog Bell | ペルー | |
1968 | ペネロペ・プラマー | オーストラリア | |
1969 | Eva Von Rueber-Staier | オーストリア | ロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン) |
1970 | Jennifer Josephine Hosten | グレナダ | |
1971 | Lucia Tavares Petterle | ブラジル | |
1972 | ベリンダ・ローマ・グリーン | オーストラリア | |
1973 | マージョリー・ウォーレス | アメリカ合衆国 | |
1974 | ヘレン・モーガン | イギリス | |
Anneline Kriel | 南アフリカ共和国 | ||
1975 | Wilnelia Merced Cruz | プエルトリコ | |
1976 | シンディ・ブレイクスピア | ジャマイカ | |
1977 | Mary Ann Catrin Stavin | スウェーデン | |
1978 | Silvana Rosa Suárez | アルゼンチン | |
1979 | Gina Ann Cassandra Swainson | バミューダ諸島 | |
1980 | Gabriella Brum | 西ドイツ | |
キンバリー・サントス | グアム | ||
1981 | Carmen Josefina "Pilin" Leon Crespo | ベネズエラ | ロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン)、およびアメリカ合衆国マイアミ |
1982 | Mariasela Alvarez Lebron | ドミニカ共和国 | ロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン) |
1983 | サラ=ジェーン・ウット | イギリス | ロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン) |
1984 | Astrid Carolina Herrera Irrazábal | ベネズエラ | ロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン) |
1985 | Hólmfríður Karlsdóttir | アイスランド | ロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン) |
1986 | Giselle Jeanne-Marie Laronde | トリニダード・トバゴ | ロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン)およびマカオ |
1987 | Ulla Weigerstorfer | オーストリア | ロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン)およびマルタ |
1988 | リンダ・ペトゥルスドッティル | アイスランド | ロイヤル・アルバート・ホール(イギリス・ロンドン)およびスペイン・マラガ |
1989 | Aneta Beata Kreglicka | ポーランド | 香港コンベンション・アンド・エキシビション・センター(香港)および台湾・台北 |
1990 | Gina Marie Tolleson | アメリカ合衆国 | ロンドン・パラジウムおよびノルウェー |
1991 | Ninibeth Beatriz Leal Jimenez | ベネズエラ | ジョージア・ワールド・コングレス・センター(アメリカ合衆国アトランタ)および南アフリカ |
1992 | Julia Alexandrovna Kourotchkina | ロシア | サンシティ(南アフリカ) |
1993 | リサ・ハンナ | ジャマイカ | サンシティ(南アフリカ) |
1994 | アイシュワリヤー・ラーイ | インド | サンシティ(南アフリカ) |
1995 | ジャクリーン・アギレラ | ベネズエラ | サンシティ(南アフリカ)、UAE・ドバイ、およびコモロ |
1996 | Irene Skliva | ギリシャ | バンガロール・クリケット場(インド、バンガロール)およびセーシェル |
1997 | ダイアナ・ヘイデン | インド | Plantation Club Resort(セーシェル, マヘ島 ) |
1998 | Linor Abargil | イスラエル | Lake Berjaya Mahé Resort(セーシェル, マヘ島 )、およびフランス・パリ |
1999 | ユクタ・ムーヒ | インド | オリンピア(イギリス・ロンドン)およびマルタ |
2000 | プリヤンカー・チョープラー | インド | ミレニアム・ドーム(イギリス・ロンドン)およびモルジブ |
2001 | Ibiagbanidokibubo "Agbani" Asenite Darego | ナイジェリア | サンシティ(南アフリカ) |
2002 | アズラ・アキン | トルコ | アレクサンドラ・パレス(イギリス・ロンドン)およびナイジェリア |
2003 | ロザンナ・デービソン ※クリス・デ・バーの娘 | アイルランド | 美麗之冠大劇院(中国・三亜市)、北京、上海、西安 |
2004 | マリア・フリア・マンティージャ | ペルー | 美麗之冠大劇院(中国・三亜市) |
2005 | ウンナー・ビルナ・ヴィヒャルスドッティル | アイスランド | 美麗之冠大劇院(中国・三亜市) |
2006 | タタナ・クハロヴァ | チェコ | 文化科学宮殿(ポーランド・ワルシャワ) |
2007 | 張梓琳 | 中国 | 美麗之冠大劇院(中国・三亜市) |
2008 | クセーニャ・スヒノワ | ロシア | サントン・コンベンションセンター Sandton Convention Centre(南アフリカ共和国・ヨハネスブルグ) |
2009 | ケーン・アルドリノ | ジブラルタル | ギャラガー・コンベンションセンター(南アフリカ共和国・ヨハネスブルグ) |
2010 | アレクサンドリア・ミルズ | アメリカ合衆国 | 美麗之冠大劇院(中国・三亜市) |
2011 | サルコス・コリメナレス | ベネズエラ | アールズ・コート・エキシビション・センター(イギリス・ロンドン) |
2012 | 于文霞 | 中国 | オルドス競技場(中国・オルドス市) |
2013 | ミーガン・ヤング | フィリピン | バリ・ヌサ・ドゥア・コンベンション・センター Bali Nusa Dua Convention Center(インドネシア・ヌサドゥア) |
2014 | ロレーヌ・ストラウス | 南アフリカ共和国 | エクセル展覧会センター(イギリス・ロンドン) |
2015 | ミレイア・ララグナ・ロソ | スペイン | 美麗之冠大劇院(中国・三亜市) |
2016 | デル・バレ, ステファニーステファニー・デル・バレ[9] | プエルトリコ | MGMナショナル・ハーバー(アメリカ合衆国メリーランド州オクソンヒル) |
2017 | マヌシ・チラー | インド | 三亜体育中心(中国・三亜市) |
2018 | ヴァネッサ・ポンセ | メキシコ |
近年のミス・ワールド
マヌシ・チラー(ミス・ワールド 2017)
ミーガン・ヤング(ミス・ワールド 2013)
サルコス・コリメナレス(ミス・ワールド 2011)
アレクサンドリア・ミルズ(ミス・ワールド 2010)
ケーン・アルドリノ(ミス・ワールド 2009)
クセーニャ・スヒノワ(ミス・ワールド 2008)
張梓琳(ミス・ワールド 2007)
タタナ・クハロヴァ(ミス・ワールド 2006)
優勝者出身国
2018年現在
優勝回数 | 国 |
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6 | ベネズエラ、インド |
4 | イギリス (ほか1名が1974年に辞退) |
3 | アイスランド、ジャマイカ、スウェーデン、アメリカ合衆国、南アフリカ |
2 | アルゼンチン、オーストラリア、オーストリア、オランダ、ペルー、トルコ、プエルトリコ、ロシア、中華人民共和国 |
1 | バミューダ、ブラジル、チェコ、ドミニカ共和国、エジプト、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、グレナダ、グアム、アイルランド、イスラエル、ナイジェリア、ポーランド、トリニダード・トバゴ、ジブラルタル、フィリピン、スペイン、メキシコ |
歴代の日本代表
年次は世界大会開催年を示す。一部例外を除いて、これは日本代表選出年と一致する。
1963年まではミス・ユニバース日本代表と共に選出されていた。1965年以後は「世界のビューティ・コングレス」(後に国際文化協会と改称)が選出するようになった。1964年のナカタニ・ヨシコは当時の新聞でもカタカナで報じられており、詳細は不明である[10]。
1956年:戸倉緑子 世界大会で『第3位』(総合第4位)日本初参加。当時20歳で身長165cm、体重54kg、B85W53H90[11]。戸倉の順位は、現在に至るまで歴代日本代表の最高順位である。
1957年:依藤宗子 世界大会で『第4位』(総合第5位)当時21歳で身長165cm、体重53kg、B89W55H92[11]。
1958年:奥瀬寿子
1959年:一の瀬千恵子
1960年:村井睿子 世界大会で『トップ15』
1961年:村上千恵 世界大会で『トップ15』
1962年:池田照子 世界大会で『第4位』(総合第5位)準ミス・麻畠美代子は1964年、日東航空おやしお号墜落事故により21歳で殉職[12]
1963年:原田美弥子
1964年:ナカタニ ヨシコ
1965年:小口侑子 世界大会で『トップ16』
1966年:小早志春美
1967年:外山智香子
1968年:三好僚子
1969年:辛島恵美子
1970年:中村久子(海外ではナカムラ・ヒサヨ)
1971年:池田恵美子
1972年:カジタニ アキコ
1973年:マツナガ ケイコ
1974年:島周子 世界大会で『第6位』(総合第7位)
1975年:藤原千春
1976年:朝久野典子
1977年:重村千鶴
1978年:山口裕子
1979年:日比野元美
1980年:伊藤加奈子
1981年:岸直実 世界大会で『トップ15』
1982年:菊地睦子(菊地恵子)
1983年:中原三枝
1984年:大曽根文子
1985年:杉本治子
1986年:杉村睦
1987年:海野圭子
1988年:崎久保和美 双子の姉・春美は同日、同じ舞台でミス・インターナショナル日本準代表に選出[13]
1989年:武藤かをり
1990年:岩崎朋子
1991年:津田純子
1992年:菊池薫
1993年:宮坂謡子(ゆうよう子)
1994年:須志田しのぶ(プロ野球選手村田善則と結婚)
1995年:久保真理
1996年:藤井美由紀
1997年:更家しのぶ
1998年:望月里恵
1999年:三堀彩
2000年:菅井万里子
2001年:浜野由佳
2002年:鍋田裕子
2003年:西出薫
2004年:後藤美菜子
- (株)SMJ イネス リグロン主催のミス・ワールド日本代表
2005年:篠原絵理奈
2006年:近藤和葉
2007年:渡部累
- (社)国際文化協会主催のミス・ワールド日本代表
2008年:久保寺瑞紀
2009年:佐々木えるざ 世界大会で『トップ16』
2010年:松永博子
2011年:田中緑 世界大会で『トップ31』
2012年:五十嵐希
2013年:※下記の事情に因り代表派遣の取り止め
- (株)クーインターナショナル主催のミス・ワールド日本代表
2013年:田中道子
2014年:河合ひかる
2015年:中川知香
2016年:吉川プリアンカ 世界大会で『トップ20』[14]
2017年:山下晴加 世界大会で『トップ15』[15]
2018年:伊達佳内子 世界大会で『トップ30』タレント部門1位(戦国武将伊達政宗の直系21代目の末裔[16])
日本代表創設当初から2012年まで
日本代表の決定大会は、2012年まではミス・インターナショナル(日本代表決定大会、および世界大会)と同じ社団法人国際文化協会が主催・運営を行っていた。2012年度にはミス・ワールド単体での日本代表決定コンクールの選出は廃止され、ミス・インターナショナル日本代表決定コンクールで準日本代表に選ばれた3人の中から1人をミス・ワールドの日本代表として改めて選ぶ方式が採用された。このため、同協会が主催や協賛するイベントではミス・インターナショナルの日本代表とともに出演する場合もあった他、日本代表決定コンクールで上位入賞者に贈られるタスキ(サッシュ)も、ミス・インターナショナルのデザインと全く同じものを使用した事例があった。
代表派遣の取り止め
しかし2013年度日本代表派遣選出は一度廃止されることが決定した。
ミス・ワールド事務局本部と国際文化協会とは1965年からミス・ワールド単体で日本代表を選出・派遣する目的で締結してきたが、今回のようにミス・インターナショナルの準ミス日本代表から選出する方式を問題視し、2012年12月21日にミス・ワールド本部から派遣契約を結ばないとの連絡があった。今後「ミス・ワールドの代表のみ選出する団体とだけ契約を結ぶ」とのことであった。
ただ、このような契約打ち切りの問題は日本だけではなく、国際文化協会が同様に契約を打ち切った日本国外の団体について調べたところ、フィリピンやメキシコなど複数の国のミス・ワールドを選出する団体も契約を打ち切られたか、打ち切りを通告されている国があり、今後も複数の大会に派遣している国・地域の団体との契約が切られる可能性があるという。このため当初2013年ミス・インターナショナル日本代表決定大会で選出された準ミス日本代表3人から改めてミス・ワールド日本代表を選出することが不可能となった[17]。
ミス・ワールド2013日本代表選出開始
団体種類 | 一般社団法人 |
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設立 | 2015年6月9日 |
所在地 | 東京都港区北青山1丁目4-1 ランジェ青山414号 |
主要人物 | 大橋一陽(代表理事) |
活動地域 | 日本 |
活動内容 | ミス・ワールド日本代表選考及び大会運営業務 |
ウェブサイト | http://missworld.jp/ |
その後、株式会社クーインターナショナルと、ミス・ワールド機構が2013年度以後の日本での専属ライセンスを結ぶことになり、改めて2013年度ミス・ワールド日本代表を募集することが決まり、日本代表の派遣が継続されることになった。クー社から株式会社国際美文化研究所に委託する形でミス・ワールド日本代表を選出することになり現在に至る。2015年6月9日にはミス・ワールド・ジャパンが一般社団法人化された。
脚注
^ “Tianjin Miss World China Pageant comes to a close”. China Daily (2009年8月28日). 2011年5月24日閲覧。
^ “Miss Universe on August 23”. Timesofmalta.com. 2011年5月24日閲覧。
^ “Frontline World: A Pageant is Born”. Pbs.org. 2011年5月24日閲覧。
^ “Bet on Miss World Pageant”. Covers.com. 2011年5月24日閲覧。
^ Tiza.com. Miss World
^ Should the Miss World pageant have gone ahead?
^ Mayor's frosty reception for Miss World
^ “ミス・ワールド大本命落選 中国陰謀説、ノーベル賞の腹いせ!?”. MSN産経ニュース. 産業経済新聞社. (2010年11月3日). http://sankei.jp.msn.com/world/china/101103/chn1011030246001-n1.htm 2015年10月20日閲覧。
^ “Puerto Rico's Stephanie Del Valle crowned Miss World 2016”. GMA Network (2016年12月18日). 2016年12月19日閲覧。
^ あでやかに"健闘"誓う『朝日新聞』1964年11月7日夕刊3面
- ^ ab『週刊サンケイ』1959年7月臨時増刊号33頁、46頁
^ 雪の朝、墜落の悲報 スチュワーデスは準ミス日本『朝日新聞』1964年2月18日夕刊7面
^ 双子で?ミスと準ミス?美女日本代表選考の2大会『読売新聞』1988年7月17日26面
^ ミス・ワールド・ジャパン2016(1) 日本代表は吉川プリアンカが受賞WWSチャンネル、2016年9月15日
^ 『ミス・ワールド・ジャパン2017』7,150人の頂点は現役女子大生・山下晴加が日本代表決定。<全29枚>WWSチャンネル、2017年9月15日
^ 「ミス・ワールド2018」日本代表決定 伊達政宗の末裔・慶応大学の伊達佳内子さんモデルプレス、2018年8月28日
^ “2013年度ミス・ワールド日本代表の世界大会への派遣中止のお知らせ” (プレスリリース), 国際文化協会, (2013年1月9日), http://www.miss-international.org/ja/news/2013/01/2013-6.html 2013年2月3日閲覧。
関連項目
- ミスター・ワールド
- ミス・ユニバース
- ミス・インターナショナル
- ミス・アース
- ミス・スキューバ
外部リンク
- ミス・ワールド公式サイト
- ミス・ワールド・ジャパン
ウィキメディア・コモンズには、ミス・ワールドに関するカテゴリがあります。