ニコラ・サルコジ
フランスの政治家 Nicolas Sarkozy | |
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2010年10月28日、欧州人民党サミットにて | |
生年月日 | (1955-01-28) 1955年1月28日(63歳) |
出生地 | フランス パリ17区 |
出身校 | パリ第10大学 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | (共和国民主連合→) (共和国連合→) (国民運動連合→) 共和党 |
配偶者 | マリー=ドミニク・キュリオリ(1982年 - 1996年) セシリア・シガネール=アルベニス(1996年 - 2007年) カーラ・ブルーニ=サルコジ(2008年 - ) |
サイン | |
憲法院裁判官 | |
在任期間 | 2012年5月15日 - |
第23代 フランス共和国大統領 | |
在任期間 | 2007年5月16日 - 2012年5月15日 |
アンドラ共同大公 | |
在任期間 | 2007年5月16日 - 2012年5月15日 |
国務大臣 内務・国土整備大臣 | |
内閣 | ドミニク・ド・ヴィルパン内閣 |
在任期間 | 2005年6月2日 - 2007年3月26日 |
大統領 | ジャック・シラク |
国民運動連合総裁 | |
在任期間 | 2004年11月28日 - 2007年5月14日 |
その他の職歴 | |
オー=ド=セーヌ県議会議長 (2004年4月1日 - 2007年5月14日) | |
国務大臣 経済・財務・産業大臣 (2004年3月31日 - 2004年11月29日) | |
内務・治安・地方自由大臣 (2002年5月7日 - 2004年3月30日) | |
共和国連合総裁(代行) (1999年4月16日 - 1999年12月4日) | |
通信大臣 (1994年7月19日 - 1995年5月11日) | |
政府報道官 (1993年3月30日 - 1995年1月19日) | |
予算大臣 (1993年3月30日 - 1995年5月11日) | |
ヌイイ=シュル=セーヌ市長 (1983年4月29日 - 2002年5月7日) |
ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ(フランス語: Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa、1955年1月28日 - )は、フランスの政治家。第23代フランス大統領(フランス第五共和政)(2007年5月16日 - 2012年5月14日)およびアンドラ公国の共同大公。国民運動連合や、その後継の共和党総裁などを歴任した。フランスの大統領としては異色の新保守主義者、新自由主義者とされる。ユダヤ人を母に持つハンガリー移民2世で、ともにアメリカですら例のない移民2世、ユダヤ系の大統領の誕生はフランスの多民族国家化を強く印象づけた。本人はカトリック信者である[1]。
目次
1 経歴
1.1 生い立ち
1.2 政治家へ
1.3 閣僚
1.4 大統領
1.5 大統領退任後
2 政治活動に関連した疑惑
3 主張・政策
3.1 基本政策
3.2 外交
3.2.1 アメリカ合衆国
3.2.2 日本
3.2.3 ロシア
3.2.4 リビア
3.2.5 中国
3.2.6 中東
3.3 内政
3.3.1 憲法改正の発議
3.3.2 経済政策
3.3.3 移民政策
3.3.4 フランスのアイデンティティの確立
3.3.5 エネルギー政策
4 人物
4.1 人物像
4.2 私生活
5 舌禍
6 批判
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
経歴
生い立ち
パリ出身。子供時代をパリ17区、次いでヌイイ=シュル=セーヌで過ごす。父方はハンガリー・アラッチャーン(Alattyán)の下級貴族の家系。父ナジボーチャイ・シャールケジ・パール(ハンガリー語: nagybócsai Sárközy Pál、1928年5月5日 - )は、ソ連軍に占領された祖国を逃れ、仏軍占領下のドイツに渡り、そこでフランス外人部隊の兵士となる。新兵教育を受けるも不適格とされ、1948年にマルセイユで除隊。名前をフランス風に、ポール・サルコジ・ド・ナジ=ボクサと改名した。広告業者となった父ポールは1949年、パリ17区の医師の娘で、法学部の学生だったアンドレ・マラー(1925年10月12日 - )と出会い結婚した。母方は、テッサロニキ出身のギリシア系ユダヤ人で、祖父の代にカトリックへ改宗している。
ニコラ・サルコジが5歳のとき、父ポールが妻とニコラら3人の息子を見捨て離婚。後に他の女性と2回再婚している。ニコラは、母と母方の祖父に育てられ、貧しい少年時代を送る。母アンドレは、苦しい家計を支えるため、勉学を再開して弁護士となった。ニコラは、「この頃の屈辱が自分の人格形成に最も大きく影響した」と述べている。ニコラの兄ギヨーム・サルコジ(1951年6月18日 - )は繊維会社の社長で、フランス経団連 (MEDEF) の副会長も務めた。弟フランソワ・サルコジ(1958年6月3日 - )は、小児科医を経て生物学者となっている。いずれも優等生だった兄弟とは対照的に、ニコラの中学、高校の成績は芳しくなく、日本の中1にあたる6年生の時に英語の成績が悪く留年している。
また腹違いの弟でアメリカ人銀行家のオリヴィエも優秀でカーライル・グループのディレクターとして活躍している。(彼が2015年に再婚した妻は、元人気子役で現在はデザイナーに転身した富豪のオルセン姉妹のメアリー=ケイトである)
政治家へ
1973年、バカロレア(大学入学資格)を取得し、パリ第10大学に入学。当時はジャーナリストを志していた。1976年、大学在学中に、ジャック・シラクの結成した保守政党・共和国連合 (RPR) へ入党する。1977年パリ西郊の高級住宅地オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌの市議会議員に最下位で当選する。同年共和国連合中央委員に選出される。1978年から1979年まで共和国連合青年部全国代理、1979年から1981年まで共和国連合全国青年委員会委員長。大学卒業後は一時パリ政治学院に在学していたが、ここでも英語がネックとなり修了できなかった。1981年に弁護士資格を取得し、不動産を専門とする法律事務所をパリに共同で開設する。1983年、28歳でイル=ド=フランス地域圏議会議員、ヌイイ=シュル=セーヌの市長に当選する( - 2002年)。犯罪の減少など一定の成果を上げる。
1988年、国民議会(下院)議員に初当選。ヌイイ市長と兼職する。1993年、バラデュール内閣の予算相として初入閣。同年、ヌイイ市内で発生した幼稚園立てこもり事件が起こる。この事件では、市長として犯人と直接交渉に臨み、人質の解放に貢献して全国的に有名となる。1995年フランス大統領選挙ではジャック・シラクから離反し、シャルル・パスクワに付いて対立候補のエドゥアール・バラデュールを支持する。しかし決選投票の結果、シラクが大統領に当選したため、第1次シラク政権では冷遇された。1997年に与党共和国連合(RPR)ナンバー2に返り咲き、1999年欧州議会選で事実上の党首として陣頭指揮を取るが惨敗を喫し、一時は政治生命の危機も囁かれ、党の役職を全て辞して弁護士としての活動に戻った。
閣僚
2002年5月、ラファラン内閣の内務・治安・地方自由相として入閣、久々の表舞台となったが、サルコジ自身は首相職を望んでいたため、ますますシラクとの関係が微妙なものとなった。2003年3月19日に治安回復を目指し、軽犯罪の厳罰化と街娼の取り締まりなどを目的としたサルコジ法を施行させる。サルコジ内務相の強硬な治安政策によって、国内の犯罪発生件数は激減し、実績を買われたサルコジは一躍、優秀な政治家になる。2004年、経済・財務・産業相に異動。同年11月29日、RPRの流れを組む国民運動連合 (UMP) の党首選挙において、85%の得票率で党首に選出される。シラクはサルコジの権力増大を恐れ、サルコジは財務相を辞任する。
2005年5月31日よりド・ビルパン内閣の内相に就任する。同年発生したパリ郊外暴動事件の鎮圧にあたる。この際、暴動に加わった若者に対して、「社会のくず (Racaille)」「ゴロツキ (Voyou)」などと発言したことが物議を醸すが、こうした強硬な態度がかえって世論の支持を集めた。暴動の最中の11月12日にイフォップ社が有権者958人を対象に行った電話による世論調査では、国民運動連合の支持者の90%が、極右政党支持者の97%がサルコジ内務相の強硬姿勢を支持すると応えた。
大統領
2007年フランス大統領選挙に立候補。保守層や勤労世帯を中心に支持を集め、同年5月6日の決選投票で社会党のロワイヤル候補を下し、大統領に当選する。同月16日、第23代大統領に就任。
大統領に当選直後、地中海に自家用ジェット機とマルタの豪華ヨット(全長60メートル、推定賃料週20万ユーロ=約3240万円)でクルージングし、野党からはあまりに豪華すぎると批判された。これに対し彼は「何が問題か。私は逃げも隠れも謝りもしない」と反論した。
上記の豪遊では批判されるも、旧植民地マグレブ出身の法務職員であったラシダ・ダティの法相への抜擢や、セネガル出身の黒人女性の副官房長への抜擢、野党である社会党出身の政治家の大臣への登用(エリック・ベッソン、ベルナール・クシュネル)など、これまでのフランスでは考えられなかった画期的な人事を行った。法務省では次官級の幹部が総辞職してこれの妨害に動くという事態となったが、閉鎖的なフランス国内に風穴を開ける革命的なことであると北米のメディアに評されている。国民からの支持率も高く、70パーセント台を記録した。2007年6月に行われたフランスの国民議会選挙では彼の率いる与党・国民運動連合(UMP)が地滑り的勝利を収め、日本の週刊誌エコノミストはフランス版小泉純一郎と彼を評した。
同年10月、フランス大統領府はサルコジの給与を現状の2倍以上に引き上げる意向を示した。与党・国民運動連合は「大統領であるのに他の閣僚よりも給与の額が低いから」と説明したが、折りしもサルコジの改革に対して野党・国民から批判が高まりつつある時期の給与増額は波紋を呼んだ。野党社会党のビアンコ議員は「多くの国民が月末に出費をやりくりしているご時世にいかがなものか」と批判した。
2012年フランス大統領選挙に出馬したが、決選投票にて社会党のフランソワ・オランドの前に敗北を喫し、2012年5月15日を以て第23代大統領を退任した。
大統領退任後
大統領退任後は、政界から離れ、国際会議に出席したり、家族との時間を増やすなど悠々自適の生活を送る一方、2017年に行われる大統領選挙への出馬を示唆するなど復帰への意欲は隠さなかった[2]。
2013年3月21日、2007年の大統領選挙の時、女性富豪から違法に献金を受け取っていたとされる疑惑で、ボルドーの捜査当局はサルコジを刑事訴追した[3]。また、2014年7月1日、不正事件の捜査に絡み、フランスの司法当局が事情聴取のために身柄を拘束されている[4]。
2014年9月19日には政界復帰を宣言し[5]、11月29日には国民運動連合総裁に選出[6]。翌2015年3月29日に執行された県議会選挙の決選投票ではサルコジ率いるUMPを含む右派連合が大勝した[7]。だが2016年2月16日には検察当局が2012年大統領選挙における不正会計疑惑(後述)のサルコジに対する捜査を開始すると発表し、大統領再選の戦略に暗雲が立ち込めると予測された[8]。それでも7月2日にはUMPから改名した共和党の総裁を辞任すると表明したことは、大統領選挙への準備のためとも言われた[9]。
2016年8月22日には正式に2017年大統領選挙編出馬を表明[10]。右派陣営の候補者を目指したが、11月20日に行われた予備選挙の第1回投票では3位となり、決選投票には残れなかった。サルコジは1位となったフランソワ・フィヨン元首相の支持を表明した上で[11]政界撤退を表明した[12]。
政治活動に関連した疑惑
2012年に行われたフランス大統領選挙において、サルコジ陣営が広告代理店を通じて不正会計処理を行い、選挙活動費の法定上限を回避した疑惑が持ち上がった。複数の代理店社員やサルコジ陣営の幹部は、詐欺行為があったことを認めており、サルコジ自身も裁判にかけられる可能性が出ている[13]。
2007年に行われたフランス大統領選挙で、リビアのカダフィ大佐から5,000万ユーロに及ぶ違法な政治献金を受けた疑いが浮上。2018年3月20日、身柄を拘束されパリ郊外の警察施設で事情聴取を受けた[14]。聴取後に釈放されたが、3月21日に汚職、違法な選挙資金調達、リビアからの公金の隠匿の容疑で訴追された[15]。
主張・政策
基本政策
シラク政権のイラク戦争反対により冷え込んだ対米関係の改善やフランスの北大西洋条約機構(NATO)復帰、フランス伝統のド・ゴール主義を捨て英米型の新自由主義を行った。モットーは「もっと働き、もっと稼ごう」。一方でサルコジの政策は、かつてのカダフィ支配下のリビアやロシアとの関係を重視するなどイデオロギーにとらわれない全方位外交的な面は引き継いでいる。
外交
アメリカ合衆国
- 外交姿勢は親米派とみなされることが多く、対米追従を拒否していたシラク大統領は後任として首相ド・ビルパンを推したため、内務大臣であり大統領を目指していたサルコジとシラク、ド・ビルパン間には不協和音が目立っていた。2007年8月にはアメリカ大統領ブッシュから別荘に招かれ、イラク戦争当時の対立を克服する事で合意。親米ぶりを強調した。
- しかし2008年に南オセチア紛争が勃発するとアメリカの対外政策に苦言を呈したり、金融危機が悪化するとその責任はアメリカにあると発言するなど、アメリカに対する批判を積極的に行うようになった[16]。
日本
- 親日家として知られていたシラクとは異なり、サルコジの日本文化に対しての嫌悪感が窺える発言は多い。2004年1月に中華人民共和国香港特別行政区を訪問した際、「香港は魅惑的な都市だが、東京は息が詰まる。京都御所はうらぶれている。有名な庭園も陰気だった」「ポニーテールの太った男同士が戦うことがなぜそんなに魅力的なのか。(相撲は)インテリのスポーツではない」との蔑視発言を行った[17][18]。
- もっともサルコジ自身は大統領就任以前ほとんど日本との縁がなく、こうした発言は多分にシラクの親日派ぶりに対抗したもののようである。一方で外交政策の面では、日本の国際連合の常任理事国入りを幾度となく支持するなど、多くの面で伝統的な日仏関係を踏襲したものとなっている[19][20][21]。
ロシア
- 欧州主要国の政治家の中ではドイツのゲアハルト・シュレーダー元首相、イタリアのベルルスコーニ元首相に続いて、親露的な姿勢をとっており、ウラジーミル・プーチン大統領とは信頼関係が厚い。2015年7月にはロシアによるクリミア併合後に、西側主要国の主要政党としては初めて、自身が党首を務める共和党の議員団のクリミア訪問を実現させた。
リビア
- 大統領当選直後は「人権外交」を掲げて、圧政国家には物申す姿勢を明らかにしていたが、その後、独裁者として知られるリビアのカダフィ大佐のフランス訪問を認めて国民や野党から非難を浴びた。サルコジ自身は、会談で人権問題に触れたと弁明した。アラブの春ではリビア内戦へのNATOの軍事介入を主導し、リビア・フレンズ会合で議長を務めた(また、同じく独裁者のバッシャール・アル=アサドともシリアで会談したが、シリア内戦でシリアの友人たちの結成を主導した)。
中国
- リビア同様に人権問題を抱える中国を訪問した際には、人権担当相を訪問団に加えず人権問題・民主化問題にも触れなかったため、野党から批判された。これら一連の会談や訪問には「人権派」として知られるクシュネル外相は同行しなかった。
- 2008年8月、北京オリンピックの開会式に出席した。
- 2008年12月、ポーランド北部グダニスクでチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世と会談し、「ダライ・ラマはチベット独立を求めていないと説明した。私は中国当局との対話を勧めた」と語った。これに対し、中国国営新華社通信は6日配信の論評で「思慮のない行動だ。中国人民の感情を傷つけるだけでなく、中仏関係にも害を与える」と批判した。サルコジは中国の反発ぶりに関し「私はフランス大統領として自由であり信念もある。事態を緊張させるつもりはない」と強調。「(中国は)静かに対応すべきだ。世界は中国のより一層の開放を求め、中国は欧州の投資を必要としている」とも話した[22]。
中東
- 親イスラエル・親アラブ姿勢でも知られ、2007年春の大統領選期間中からイスラエルやアラブ諸国を巻き込んだ地中海連合構想を提唱しており、設立にも成功した。2008年12月からのイスラエルによるガザ侵攻では、イスラエルとハマースの両者に和平を働きかけ、自らイスラエルに来訪し停戦交渉を行った。しかし、より親イスラエル色の強い米国が攻撃続行を支持している為もあり、イスラエルは拒否を続けている。また、ハマースはイスラエルによるガザ地区封鎖解除を停戦の条件にしており、サルコジはこれに対して批判している(パレスチナ問題#イスラエル「鋳られた鉛("Operation Cast Lead")作戦」も参照)。アラブ首長国連邦フランス軍敷地の設置に成功するなどアラブ諸国とは軍事的な協力関係も深めた。
内政
憲法改正の発議
2008年7月21日、サルコジの2007年大統領選挙時の公約であった憲法改正案が議会により1票差で可決された。その内容は、大統領再選を2期に限定することや、大統領による人事を拒否する権利を議会に付与することなど、議会の権限を強化する案が織り込まれている[23]。
経済政策
- 国民議会選挙後の2007年8月、サルコジが2007年の大統領選挙で公約にしていた減税法案が議会で可決された。この減税法案は財政赤字削減よりも経済成長を優先するもので、所得税率の引き下げなどが含まれる。欧州連合(EU)では加盟国に2010年までの財政均衡化を求めているが、サルコジはこれに対し減税によって歳入減となり財政赤字削減が遅れるとして2012年に先送りにするよう求めた。
サブプライムローン問題に端を発する金融危機が本格化し、世界経済に深刻な損害を与えるようになると、サルコジはEU議長国の大統領として積極的に金融危機への対応のイニシアティヴを取った。2008年10月18日には、アメリカ合衆国大統領のジョージ・W・ブッシュ、欧州委員会委員長のジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾと会談を行い、主要国に新興国(中華人民共和国やインドなど)を含めた国による首脳会談(金融サミット)の開催を漕ぎつけた。金融サミット直前の11月13日には「ドルはもはや基軸通貨ではない」と発言し、ブレトンウッズ体制を構築する必要性をも説いた。
移民政策
- 強気な姿勢は国民からも一定の人気がある。特に70歳以上の老年層における支持率が高い。移民が数多く暮らしている治安が安定しない地域を視察し、彼等を「社会のくず」「ごろつき」呼ばわりした事は大きな波紋を呼んだ。こうした発言はフランス各地で起こった若者達による暴動激化の一因だとされている。しかし彼はそれでもその姿勢を崩さず、批判を浴びてもそれを物ともしないばかりか、ますます過激な強硬発言を増やしている。自身も移民2世であるためか、逆に移民に対し強硬な発言も躊躇しない傾向にあり、暴動を起こしている若者達、彼らを心情的に支持する層からは憎悪の対象となっている。もっとも、「私は移民反対のジャン=マリー・ルペン党首(国民戦線)とは違う。この国には優秀な移民が必要だ」とも主張するなどその移民政策は選択的移民政策と評されている[24]。
フランスのアイデンティティの確立
- 2009年、サルコジは、フランス国民の定義とフランスの価値観を移民に共有させる方法について問題提起し、この2点を議論するよう国民に呼びかけた[25]。そのうえで、移民省に命じてフランス全土450ヶ所で討論会を開催するなど、議論への積極的な参加を国民に要請している[25]。この議論について、サルコジは「フランスとは何かを知る崇高な運動」[25]と位置づけているが、ドミニク・ド・ビルパンが「こんな重大なテーマを経済危機で団結すべき時に持ち出すべきではない」[25]と指摘するなど、サルコジを支える与党勢力からも懐疑的な意見が出された。同じく与党のアラン・ジュペは、この論議は「国内の対立、特にイスラム教徒への反感をあおった」[25]と指摘している。
エネルギー政策
- エネルギー政策の柱を原子力発電に据えており、福島第一原子力発電所事故後に各国で起きた見直しの議論に対しても、政策の見直しなどではなく、安全基準の強化にするべきとの見解を発表した[26]。また近年広がりを見せている再生可能エネルギーについても「原子力を代替はできない」と判断している[26]。
- 福島原発の事故に対しても、アレヴァ社による技術支援以外に、原発についての国際基準の作成や安全対策をG8の議題とすることなどを含めた姿勢を明確にした[26]。
- 2011年3月31日には来日して菅直人首相と会談を行い、国際的な安全基準を導入することを主張したが、一方では事故による政策への影響を認め、安全基準に適合しない発電所については廃止を検討しているとした[27]。
人物
人物像
身長は163cm程度といわれ、「ナポレオンより背が低い」と言われるほど平均的なフランス人(男性の平均身長175.6cm)に比べて低く、いつも上げ底の靴を履いている[28]。そのため、フランスの有料チャンネルテレビ局Canal+の政治風刺人形劇『Les Guignols de l'info』の中では、シラク大統領(当時)人形がサルコジ人形を「スマーフ (Schtroumpf)」と呼んでいたこともあった[29]。大のタバコ嫌いでワインを含め酒も飲まない。好物はチョコレート。
親英米と言われるが英語があまり堪能でなく、上述のように学校時代は英語のために2度落第した。この点でシラク前大統領が英語に堪能でありながら人前で話すのを避けていたのと対照的といわれる。なお、2008年10月にサルコジになりすましてサラ・ペイリンと「会談」したカナダのコメディアンは「フランス語訛り」の英語を話していたという。
パリ大学卒で弁護士で移民2世という出自でもあり、高級官僚を養成するENA出身(エナルク)の官僚的な政治家が支配的なフランス政界の中で、庶民派というイメージを強く打ち出している。演説や語りも、庶民にもわかりやすい単純で率直な言い回しを好み、国民に直接訴えかけるスタイルである。
尊敬する政治家としてイギリスのトニー・ブレアを挙げたほか、イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニを「政治家としての手本」としており、大統領当選時に真っ先に電話するなど親密な関係で知られる。
私生活
3度結婚しており、元妻マリーとの間に息子2人、前妻セシリア(1957年 - )との間に息子1人、現妻カーラ(1967年12月23日 - )との間に娘1人、合わせて4人の子供がいる。元妻マリーは、コルシカ島の寒村の薬局の娘で、1982年に結婚し、ピエールとジャンの2男をもうけた。前妻セシリアは、作曲家イサーク・アルベニスのひ孫にあたり、モデルや元老院議員秘書を経て、テレビ司会者と結婚し、2女をもうけていた[30])。セシリアとは、双方ともに配偶者のいる中、不倫愛をつらぬき、1996年に結婚。1998年には息子ルイが生まれる。サルコジは、内務省に席を設けるなどしてセシリアを厚遇した。しかし、セシリアは2005年、支持者の実業家とニューヨークへ駆け落ち。ド・ビルパン首相(当時)からは、「妻を魅了できないで有権者を魅了できるのか」と皮肉られた。夫妻は2006年に復縁したが、セシリアはファーストレディとなることを拒絶。結局、夫妻は2007年10月に離婚した。その後、2008年1月に元スーパーモデルで歌手のカーラ・ブルーニと3度目の結婚を果たした。2011年10月19日に女児が誕生。
舌禍
- 「人間のクズ」 - 大統領就任前の2005年10月にパリ市内などで暴動が発生した際、参加者に対して。
- 「それなら、お前が失せろ。この野郎」 - 2008年2月23日、パリの国際農業見本市会場で来場者と握手中、握手を拒否し「私に触るな」と言った一般男性に向かって。
- 「髷を結った太った男達による、美しいとはいえないスポーツ」- 2007年5月、日本の大相撲に対して。日本相撲協会はこの発言を受け、「フランス大統領杯」を廃止した。
批判
哲学者のアラン・バディウは「サルコジ」なるものを新たな恐怖政治の症候としてとらえ、「このチビ・ナポレオンによる恐怖のために、完全に現実的なものになった内からの脅威に直面して、国家は、ジュネが演劇『バルコニー』のなかですでに与えていた国家の一方向的な形態、つまり警視総監──ちなみにかれの夢のコスチュームは、ゴム製の巨大なペニスだ──という形態をとってしまった」と批判している[31]。
脚注
^ BBC News Profile: Nicolas Sarkozy
^ “サルコジ前仏大統領、違法献金疑惑で不起訴に 政界復帰に道”. AFPBBNews (フランス通信社). (2013年10月8日). http://www.afpbb.com/articles/-/3001013?ctm_campaign=txt_relation&3019378 2014年7月1日閲覧。
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^ “サルコジ仏前大統領を事情聴取のため拘束”. AFPBBNews (フランス通信社). (2014年7月1日). http://www.afpbb.com/articles/-/3019378?ctm_campaign=photo_topics 2014年7月1日閲覧。
^ “サルコジ仏前大統領、政界復帰を宣言 「他に選択肢なかった」”. AFPBB News (フランス通信社). (2014年9月23日). http://www.afpbb.com/articles/-/3026697 2016年11月21日閲覧。
^ “UMP党首にサルコジ前仏大統領選出、政界引退宣言から2年半”. AFPBB News (フランス通信社). (2014年12月1日). http://www.afpbb.com/articles/-/3033115 2016年11月21日閲覧。
^ “仏県議選、右派政党が大勝 社会党政権に打撃”. AFPBB News (フランス通信社). (2015年3月30日). http://www.afpbb.com/articles/-/3043959 2016年11月21日閲覧。
^ “サルコジ前仏大統領、選挙不正会計で正式捜査 再出馬に暗雲”. AFPBB News (フランス通信社). (2016年2月17日). http://www.afpbb.com/articles/-/3077181 2016年11月21日閲覧。
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^ “サルコジ氏、来年の仏大統領選に出馬表明”. AFPBB News (フランス通信社). (2016年8月22日). http://www.afpbb.com/articles/-/3098344 2016年11月21日閲覧。
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^ “サルコジ前仏大統領、選挙不正会計で裁判へ”. AFP (2017年2月7日). 2018年3月21日閲覧。
^ “仏警察、サルコジ元大統領を拘束=リビアから違法献金疑惑”. AFP (2018年3月20日). 2018年3月21日閲覧。
^ “サルコジ仏元大統領、汚職疑惑で訴追 リビア大佐から選挙資金調達か”. AFP. (2018年3月22日). http://www.afpbb.com/articles/-/3168271 2018年3月22日閲覧。
^ 「サルコジ仏大統領、去り行くブッシュ米大統領をチクリ」 フランス通信社、2008年11月16日。2008年12月17日閲覧。
^ 「日本を引き合いに大統領批判―フランス」 世界日報、2007年1月16日。2008年7月11日閲覧。
^ 「<07仏大統領選挙>サルコジ氏勝利による日仏関係の行方は - 東京」 フランス通信社、2007年5月8日。2008年7月11日閲覧。
^ 「仏大統領、日本など5か国の安保理常任理事国入りへの「支持」を表明」 フランス通信社、2007年1月9日。2008年7月11日閲覧。
^ ニューヨーク時事 (2009年9月24日). “日本の常任理入り支持=仏大統領”. 時事ドットコム (時事通信社). http://www.jiji.com/jc/zc?k=200909/2009092400062 2010年2月20日閲覧。
^ “日仏首脳、EPA締結へ共同研究開始で一致”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年4月14日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100414-OYT1T00376.htm 2010年4月14日閲覧。
^ 「ダライ・ラマ:仏大統領と会談、対話を強調 中国は猛反発」 毎日jp、2008年12月7日。
^ フランスで憲法改正案、1票差で可決 フランス通信社、2008年7月22日。
^ Danièle Lochak Le tri des étrangers : un discours récurrent, Éditeur GISTI, Revue Plein droit 2006/2 (n° 69) doi:10.3917/pld.069.0004
- ^ abcde福原直樹「『フランス人とは何か』――サルコジ政権が問い――ゆがむ論議広がる反発――『崇高な運動』か『移民・イスラム排斥』か」『毎日新聞』48147号、13版、2010年1月11日、4面。
- ^ abcサルコジ仏大統領原子力推進の強い意志表明 サイエンスポータル 2011/04/02閲覧
^ 仏サルコジ大統領が訪日 国際安全基準の策定を主張
^ 国末憲人『サルコジ』77頁、新潮選書
^ ちなみに、ロシアのつるふさの法則のように、第五共和国の歴代大統領は、長身とそうではないものが交互で就任するというトリビアが存在する。
^ 吉田徹「大統領サルコジの誕生」月刊現代、2007年07月号
^ アラン・バディウ『サルコジとは誰か』榊原達也訳、水声社,2009年、16頁
関連項目
サルコジ主義(fr:Sarkozysme)- セゴレーヌ・ロワイヤル
- フランソワ・フィヨン
- サルコジ法
ジャン・アレジ (顔が似ているといわれる)
外部リンク
“NICOLAS SARKOZY”. フランス国民議会. 2012年5月7日閲覧。(フランス語)
公職 | ||
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先代: アシル・ペレッティ | ヌイイ=シュル=セーヌ市長 1983年 - 2002年 | 次代: ルイ=シャルル・バリー |
先代: マルタン・マルヴィ | 予算大臣 1993年 - 1995年 | 次代: フランソワ・ドベール 予算担当副大臣 |
先代: ルイ・メルマズ | 政府報道官 1993年 - 1995年 | 次代: フィリップ・ドゥスト=ブラジー |
先代: アラン・カリニョン | 通信大臣 1994年 - 1995年 | 次代: フィリップ・ドゥスト=ブラジー 文化大臣 |
先代: ダニエル・ヴァイヤン 内務大臣 | 内務・治安・地方自由大臣 2002年 - 2004年 | 次代: ドミニク・ド・ヴィルパン |
先代: フランシス・メール | 経済・財務・産業大臣 2004年 | 次代: エルヴェ・ゲマール |
先代: シャルル・パスクワ | オー=ド=セーヌ県議会議長 2004年 - 2007年 | 次代: パトリック・ドヴジャン |
先代: ドミニク・ド・ヴィルパン 内務・治安・地方自由大臣 | 内務・国土整備大臣 2005年 - 2007年 | 次代: フランソワ・バロワン |
先代: ジャック・シラク | フランス共和国大統領 第23代:2007年 - 2012年 | 次代: フランソワ・オランド |
先代: ヤネス・ヤンシャ スロベニア | 欧州理事会議長 2008年 | 次代: ミレク・トポラーネク チェコ |
党職 | ||
先代: フィリップ・セガン | 共和国連合総裁 代行 1999年 | 次代: ミシェル・アリヨ=マリー |
空位 ジャン=クロード・ゴーダンが代行 最後の在位者 アラン・ジュペ | 国民運動連合総裁 2004年 - 2007年 | 空位 ジャン=クロード・ゴーダンが代行 次代の在位者 ジャン=フランソワ・コペ |
爵位 | ||
先代: ジャック・シラク | アンドラ共同大公 ジュアン・エンリク・ビベス・イ・シシリアと共同 2007年 - 2012年 | 次代: フランソワ・オランド |
外交職 | ||
先代: スティーヴン・ハーパー カナダ | 主要国首脳会議議長 2011年 | 次代: バラク・オバマ アメリカ合衆国 |
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