藤尾正行
日本の政治家 ふじお まさゆき | |
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生年月日 | 1917年1月1日 |
出生地 | 栃木県 |
没年月日 | (2006-10-22) 2006年10月22日(89歳没) |
死没地 | 東京都 |
出身校 | 上智大学文学部新聞学科 明治大学(中退) |
前職 | 読売新聞社記者 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 文学士 |
第109代 文部大臣 | |
内閣 | 第3次中曽根内閣 |
在任期間 | 1986年7月22日 - 1986年9月9日 |
第43代 労働大臣 | |
内閣 | 鈴木善幸内閣 |
在任期間 | 1980年7月17日 - 1981年11月30日 |
衆議院議員 | |
選挙区 | 旧栃木2区 |
当選回数 | 11回 |
在任期間 | 1963年11月22日 - 1996年9月27日 |
藤尾 正行(ふじお まさゆき、1917年(大正6年)1月1日 - 2006年(平成18年)10月22日)は、日本の政治家。勲章は勲一等旭日大綬章。位は正三位。
衆議院議員(11期)、文部大臣(第109代)、労働大臣(第43代)、自由民主党政務調査会長(第31代)を歴任した。
目次
1 来歴
2 人物
2.1 文部大臣罷免
2.2 政治姿勢
3 関連項目
4 脚注
来歴
栃木県出身。明治大学中退、上智大学文学部新聞学科卒業。読売新聞社記者を経て、河野一郎に見出され1963年の第30回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧栃木2区から出馬し、初当選した(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・西岡武夫らがいる)。当選後、政界入りのきっかけである河野一郎が率いる春秋会に入会。その後、福田赳夫が立ち上げた清和会に入会し、福田邸に毎朝日参して福田の指導を受ける側近であった。1973年、青嵐会の旗揚げに参加し、同会の代表世話人を務める。1975年から衆議院文教委員長、1976年から衆議院内閣委員長を務める。
1980年、鈴木善幸内閣で労働大臣に任命され、初入閣した。1983年から自由民主党政務調査会長を3期にわたって務める。政調会長在任中の1985年、大蔵省の地方自治体への一律補助金削減法案に反対して政調会長室への大蔵官僚の出入りを禁止。最終的に竹下登大蔵大臣の斡旋により、大蔵省が藤尾の主張を全面的に受け入れたため、政調会長室への大蔵官僚の出入りを認めた。
1986年、第3次中曽根内閣で文部大臣に任命されるが、自身の歴史認識をめぐる発言により中曽根康弘首相から辞任を促されるもこれを拒否したため、文部大臣を罷免される。閣僚罷免は1953年の広川弘禅農林大臣以来33年ぶりで、憲政史上3例目。以後、入閣や党三役への起用はされないまま、1996年の第41回衆議院議員総選挙には出馬せず、政界を引退した。1998年11月3日、勲一等旭日大綬章受章。
2006年10月22日、肺炎のため東京都内の病院で死去。89歳没。
人物
文部大臣罷免
1986年、第3次中曽根内閣で文部大臣に任命されるが、入閣直後に歴史教科書問題に関連して「戦争で人を殺しても殺人(罪)には当てはまらない」「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国側にも責任がある」等の対談中の発言が月刊誌『文藝春秋』(1986年10月号)に掲載され、野党をはじめとする左派から「放言大臣」と非難された。大韓民国や中華人民共和国の反発を憂慮した中曽根首相は、藤尾の自発的な閣僚辞任を求めるが、藤尾が「発言を問題にするのであれば罷免すればよい」と主張して辞任を拒否したため、中曽根は罷免権を発動し、藤尾文部大臣を罷免した。
この際、官邸は前もって対談における藤尾の発言内容を把握しており、内閣官房長官後藤田正晴は9月3日(10月号は9月10日発売)に、文藝春秋に外務省アジア局長の藤田公郎を派遣。藤田は文藝春秋に対し、2か所の削除、訂正を申し入れたが文芸春秋側はこれを拒否し、内容証明をもって中曽根首相、後藤田官房長官に対し事前検閲であり憲法違反だとして抗議を行った[1]。
藤尾自身は後年、この発言について「(風見鶏と揶揄されていた中曽根の)その場しのぎの外交に一石を投じる意図であえて行った」と主張した。中曽根が藤尾を罷免したことについて、小林よしのりは『戦争論2』のなかで「中曽根は韓国のご機嫌を取るために藤尾氏を罷免」したと述べている[2]。一連の言動から藤尾を「信念の人」として評価する声がある一方、この発言により韓国や中国から「極右妄言政治家」として見られるようになった。
なお、罷免された直後に自身の発言の反響や、記者時代の回想をも交えた「放言大臣 再び吠える」が文藝春秋(1986年11月号)に掲載され、同稿は翌年に文藝春秋読者賞を受賞した。翌1987年6月には、評伝『剛直怒濤の現代政治家藤尾正行 それからの100日 近代日本の歪みを衝く』(近代政経研究会)[3]が出版された。
政治姿勢
1988年に発覚したリクルート事件で竹下内閣が退陣し、経世会による自民党支配が続く中で、党の金権体質を真っ向から批判する数少ない政治家であった。歴史認識の面でも1990年には、北朝鮮を訪問し、植民地支配をめぐる戦後補償を金日成に対して約束した訪朝団団長の金丸信を強く批判した。日華議員懇談会の会長を長らく務め、親台派議員の代表格であった。
関連項目
- 栃木県出身の人物一覧
脚注
^ 江藤淳『同時代への視線』「総理官邸の「事前検閲」」
^ 小林よしのり 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論2』 幻冬舎、2001年10月1日。ISBN 9784344001312。p171。
^ 内容目次は以下。
- 第1部 藤尾正行闊達放談 放言大臣 大いに吠える、放言大臣 再び吠える、「日本を考える」、今こそ民族精神の作興を、政界一匹狼 「矛を納めず全国行脚へ」、
- 第2部 藤尾発言の衝撃-大臣の首を飛ばす「第4の権力」に怒る、総理官邸の「事前検閲」、中曽根総理の陳謝の仕方について、中曽根流ゴメンナサイ外交、知っておくべき歴史的事実、官邸のシナリオに踊ったマスコミ
- 第3部 藤尾正行-その人と行動・剛直怒涛の半生、文部大臣罷免事件
議会 | ||
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先代: 登坂重次郎 | 衆議院文教委員長 1976年 - 1978年 | 次代: 菅波茂 |
先代: 徳安實藏 | 衆議院内閣委員長 1975年 - 1976年 | 次代: 坂村吉正 |
公職 | ||
先代: 海部俊樹 | 文部大臣 第109代:1986年 | 次代: 塩川正十郎 |
先代: 藤波孝生 | 労働大臣 第43代:1980年 - 1981年 | 次代: 初村滝一郎 |
党職 | ||
先代: 田中六助 | 自由民主党政務調査会長 第31代:1983年 - 1986年 | 次代: 伊東正義 |
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