第二号新興丸
新興丸 | |
---|---|
基本情報 | |
船種 | 貨物船 |
クラス | 新京丸型貨物船 |
船籍 | 大日本帝国 日本 パナマ |
所有者 | 大阪商船 東亜海運 関西汽船 佐野安商事 新興汽船 Golden Buffalo Shipping Corp. Yuan Ta S.S.Corp.Ltd. Chi Fa Shipping Co.S.A. Lien Hsing Navigation Corp.S.A. |
運用者 | 大阪商船 東亜海運 大日本帝国海軍 第二復員省/復員庁 関西汽船 佐野安商事 新興汽船 Golden Buffalo Shipping Corp. Yuan Ta S.S.Corp.Ltd. Chi Fa Shipping Co.S.A. Lien Hsing Navigation Corp.S.A. |
建造所 | 浦賀船渠 |
母港 | =大阪港/大阪府 東京港/東京都 |
姉妹船 | 新京丸型貨物船基本型12隻 新京丸型貨物船船体延長仕様50隻 新京丸型貨物船砕氷仕様1隻(白海丸)[1] |
航行区域 | 遠洋/近海 |
信号符字 | JPTM |
IMO番号 | 5180934 45381(※船舶番号) |
改名 | 新興丸→第二号新興丸→ 新興丸→第二金丸→ Golden Buffalo→ Yuan Ta→Chi Fa→ Lien Hsing |
建造期間 | 204日 |
経歴 | |
起工 | 1938年8月16日 |
進水 | 1938年11月29日 |
竣工 | 1939年3月7日 |
除籍 | 1992年 |
要目 | |
総トン数 | 2,577トン(1942年) 2,651トン(1961年) |
純トン数 | 1,448トン(1942年) |
載貨重量 | 4,117トン(1942年) 4,010トン(1961年) |
排水量 | 5,886トン(1942年) |
登録長 | 90.8m(1942年) |
垂線間長 | 89.91m(1942年) |
幅 | 13.72m(1942年) |
深さ | 7.28m(1942年) |
登録深さ | 7.25m(1942年) |
高さ | 23m(水面からマスト最上端まで) 8m(水面から船橋最上端まで) 12m(水面から煙突最上端まで) |
機関方式 | ディーゼル機関1基(1961年) |
ボイラー | 石炭重油混焼缶2基(1942年) 重油専焼缶2基(1956年) |
主機関 | 低圧タービン付き複二連成レシプロ機関1基(1942年) |
推進器 | 1軸 |
最大出力 | 1,870IHP(1942年) 2,700BHP(1961年) |
定格出力 | 1,200IHP(1942年) |
最大速力 | 13.6ノット(1942年) 14.6ノット(1961年) |
航海速力 | 11.0ノット(1942年) 12.0ノット(1961年) |
航続距離 | 不明 |
旅客定員 | 1等6名(1942年) |
乗組員 | 51名 |
1941年9月5日徴用 出典は原則として『昭和十八年版 日本汽船名簿』[2] 高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記) |
第二号新興丸/新興丸 | |
---|---|
基本情報 | |
艦種 | 特設砲艦(日本海軍) 特別輸送船(第二復員省/復員庁) |
艦歴 | |
就役 | 1941年9月20日(海軍籍に編入時。日本海軍) 大湊警備府部隊/横須賀鎮守府所管 1945年12月1日(第二復員省/復員庁) 横須賀地方復員局所管 |
除籍 | 1945年12月1日(日本海軍) 1946年8月15日(復員庁) |
要目 | |
兵装 | 最終時[4] 12cm単装砲2門 九六式25mm機銃連装4基 同単装6基 九三式13mm単装機銃1基1門 九二式7.7mm機銃2基2門 小銃5挺 爆雷投射機2基 爆雷投下台2基 二式爆雷20個 |
装甲 | なし |
搭載機 | なし |
レーダー | 仮称2号電波探信儀2型改4 1組 |
ソナー | 97式水中聴音機1組 仮称3式探信儀1組 |
その他 | 水中処分具1組 小掃海具1組 |
徴用に際し変更された要目のみ表記 |
第二号新興丸(だい2ごうしんこうまる)は、日本海軍が第二次世界大戦中に運用した特設砲艦兼敷設艦である。東亜海運が所有する貨物船の新興丸を徴用したもので、同名の特設砲艦との区別のため艦名に第2号と番号を付された。大戦終結時に樺太からの引揚民間人を輸送中、1945年8月22日にソ連海軍潜水艦の攻撃で損傷、多くの死傷者を出した(三船殉難事件)。
なお、日本海軍の同時期の特設艦船で新興丸の名を持つ汽船は他に2隻ある。特設砲艦第一号新興丸は丸井汽船の貨物船新興丸(934総トン)を改装したもので[1]、1945年1月9日にボルネオ島沿岸でオランダ海軍の潜水艦O19の雷撃により撃沈された[5]。特設敷設艦新興丸は新興商船の貨物船新興丸(6479総トン)を改装したもので、1944年10月18日にルソン島沿岸で空襲により撃沈された[6]。
目次
1 船歴
2 砲艦長
3 脚注
4 参考文献
5 外部リンク
船歴
新興丸は浦賀船渠第441番船として1938年8月16日に起工し、1938年11月29日に進水、
1939年3月7日に竣工した。新京丸を1番船とする浦賀船渠設計の2000総トン級貨物船系列の1隻で、同系列でも船主ごとに細部の設計に差異が多いうち、瑞興丸と本船が回廊付きの船橋を有する完全な同型である[1]。細部の異なる同系列船は22隻あるほか、逓信省が定めた統一規格船(平時標準船)C型も基本的に同設計で、こちらは41隻が建造された[7]。船体中央に機関部と船橋を置き、その前後に2つずつの倉口と単脚型のマスト1本ずつを配置したシンプルな船型である。うち後部船倉は倉口が2つ開いているものの、内部は区切られていない。新興丸の搭載主機は当時一般的な三連成レシプロエンジンではなく、浦賀船渠が開発した新型エンジンを採用しており、低圧シリンダーを蒸気タービンに変更したタービン付複二連成機関と呼ばれる方式である[2]。三連成レシプロの新京丸と比べ200馬力以上も最高出力が向上した[1]。搭載主缶は石炭重油混焼缶を搭載した。
商船として竣工後、当初は大阪商船所有船だったが、1939年8月12日に東亜海運に移籍する。新船主の東亜海運は、1939年8月に海運各社の現物出資で設立された国策企業であった[8]。
日米関係の悪化で対米戦準備が始まると、1941年(昭和16年)9月5日付で新興丸は日本海軍に徴用され[9]、9月20日に特設砲艦兼敷設艦へ類別された。このとき、同じ特設砲艦に同名の新興丸(丸井汽船、934トン)がおり、区別のため海軍部内限りで第二号新興丸と改称した[10]。特設砲艦兼敷設艦の標準武装は12cm砲を片舷に3門指向可能というものであるところ、写真の分析によると本艦改装完了時の兵装は船首・船尾・中央構造物後端に12cm単装砲各1基が設置されている[1]。機雷関係の設備では後部甲板上に機雷移動用軌条が2列敷かれ、船尾楼を貫通して船尾から突き出し、そのまま海面へ連続投下可能となっている。後部船倉が機雷庫となり、定数で93式機雷120個を搭載した[1]。なお、新京丸型は特設砲艦へ改装するのに手頃な性能であり、5隻が特設砲艦・本船を含む7隻が特設砲艦兼敷設艦として徴用されたほか、特設掃海母艦と特設電纜敷設船としても1隻ずつ徴用されている[1]。
第二号新興丸は大湊警備府部隊、一時はその隷下の千島方面特別根拠地隊に属し、大戦の全期間にわたって北海道・樺太・千島列島方面で行動した。船団護衛や哨戒に従事している。戦術の変化に対応し、対空兵器の強化やレーダーの装備も実施された(要目表参照)。1943年(昭和18年)8月8日に樺太東方のオホーツク海上北緯46度50分 東経144度40分 / 北緯46.833度 東経144.667度 / 46.833; 144.667でアメリカ海軍の潜水艦サーモンの魚雷攻撃を受けるが、被害を免れた[11]。木俣(1993年)は、1945年(昭和20年)6月末に日本海軍が行った宗谷海峡への対潜機雷堰構築に第二号新興丸も参加したとしている[12]。7月には空襲を受けた青森市の復旧・救護のための物資・食糧輸送を行い、終戦を迎えた。終戦時、平時C型を含む新京丸型系列船計64隻のうち残存していたのは第二号新興丸と国津丸[13]のみで、戦後浮揚された金津丸(平時C型)[14]を含めても3隻だけだった。
1945年8月9日のソ連対日参戦後、8月11日にソ連軍の侵攻で樺太の戦いが始まった。当時日本領だった南樺太には40万人以上の民間人が居住しており、樺太庁は民間人の本土引き揚げを図った。日本の陸海軍も輸送に協力することとなり、第二号新興丸も他の14隻の艦船とともに大泊港からの緊急輸送を命じられた[15]。8月15日の日本のポツダム宣言受諾発表後も8月23日にソ連軍が島外移動禁止を発令するまで輸送は継続され、船団を組む余裕も無く、各個に避難民を収容して北海道へ脱出した[15]。第二号新興丸も大泊で民間人約3600人を収容すると8月20-21日の夜に単独で出航、9ノットの速力で小樽港へ向かった。8月22日午前5時過ぎに留萌北西沖に差し掛かったところで、正体不明の艦船を発見した直後に魚雷攻撃を受け、回避を試みたが右舷2番船倉に1発が命中した[16]。これは留萌沖に上陸地点偵察任務で派遣されたソ連潜水艦L-12とL-19で、続けて浮上砲撃を加えてきた[16]。この時点で日本海軍はすでに一切の戦闘を禁じていたが[17]、第二新興丸は便乗民間人の協力も得て12cm砲と25mm機銃による応戦を開始した[16]。1発を相手潜水艦に命中させたとの説もある[16]。第二号新興丸は通報により飛来した日本軍の水上偵察機1機に援護され、留萌港へ逃げ込むことに成功した。犠牲者数は死者250人・行方不明100人とも[18]、遺体が確認できただけで298人とも言われる[16]。なお、同様に小樽へ向かっていた小笠原丸と泰東丸も本艦と前後して留萌沖でソ連潜水艦の攻撃を受けいずれも撃沈されている(三船殉難事件)。またソ連側のL-19も8月23日に日本海軍の宗谷海峡機雷堰に接触して沈没したと推定される[19]
第二号新興丸は修理され、第二復員省(旧海軍省)の下で復員輸送艦として使用された。1946年(昭和21年)8月に徴用解除となって民間船を統制する船舶運営会へ引き渡され[20]、船名も元の新興丸に戻された。同年10月、GHQの命令により船主の東亜海運が解散され、閉鎖機関に指定される。樺太・千島地区からの日本人引き揚げがソ連によって許可されると、同年12月の第1次引揚に新興丸も投入されて再び樺太へ赴き、12月7日に第3船として函館港へ帰還した[21]。1948年(昭和23年)10月10日、船主を関西汽船に変更。第二復員局にチャーターされて特別輸送艦となり、小樽と樺太との間の復員輸送に従事する。1951年(昭和26年)1月20日、関西汽船に返還。1956年(昭和31年)5月、搭載主缶を重油専燃缶に交換した。1961年3月6日、新興丸は佐野安商事に売却され、第二金丸に船名を変更する。同年5月、主機をディーゼル機関に交換するなどの改装を受ける。1965年(昭和40年)4月30日、第二金丸は新興汽船に売却された。1966年(昭和41年)1月26日、第二金丸はパナマのゴールデン・バッファロー海運へ売却されてゴールデン・バッファローと改名した[19]。1970年(昭和45年)、ゴールデン・バッファローはユエン・タ汽船[22]に売却され、ユエン・タと改名した。1972年(昭和47年)ユエン・タはチ・ファ海運[22]。に売却されチ・ファと改名した。1973年(昭和48年)、チ・ファはリエン・シン・ナビゲーション・コーポレーション[22]に売却され、リエン・シンに改名した。1974年(昭和49年)に撮影されたリエン・シンの写真では、船橋周辺が大幅に改装されていた。1975年(昭和50年)以降の詳細な行動はわかっていないが、昭和を超えた1992年(平成4年)に船籍が抹消された。
太平洋戦争に参加した日本商船としては、一番最後まで商業航海についた長齢船であった。
砲艦長
- 谷井末吉 大佐:1941年9月20日[23] - 1942年2月20日[24]
- 糸川季忠 大佐:1942年2月20日[24] -
脚注
- ^ abcdefg岩重(2009年)p.40-41
- ^ ab運輸通信省海運総局(編) 『昭和十八年版 日本汽船名簿(内地・朝鮮・台湾・関東州)』其の一(下)、運輸通信省海運総局、1943年、内地在籍船の部823頁、JACAR Ref.C08050084900、画像44枚目。
^ Ansyu_Maru_class
^ 「第二号新興丸兵器軍需品目録」『大湊警備府管下引渡目録』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08011186200
^ Cressman (1999) , p. 607.
^ 岩重(2009年)p.38。
^ 岩重(2011年)p.37には50隻建造とあるが、これは同一要目の新京丸型船体延長仕様9隻を含む。
^ 「関係会社打って一丸 東亜海運会社設立―海運の総合力発揮へ」『大阪毎日新聞』1939年8月6日。
^ 海軍省兵備局 『昭和一八・六・一現在 徴傭船舶名簿』 JACAR Ref.C08050008000、画像17枚目。
^ 同様に、丸井汽船の新興丸も区別のため海軍部内限りで第一号新興丸と改称した。
^ Cressman (1999) , p. 371.
^ 木俣(1993年)、229-231頁。
^ 同船はコックピット作戦で空爆を受けて大破着底し、浮揚後シンガポールに曳航されて移動、修理中に終戦。修理未了のまま英軍に接収され、1947年3月にシンガポール近海で海没処分。
^ 同船は1945年7月24日の呉軍港空襲により沈没した。1948年浮揚、1967年にパナマ企業に売却され1970年頃に解体された。
- ^ ab中山(2001年)、177-179頁。
- ^ abcde木俣(1993年)、235-236頁。
^ 軍令部は、当初は停戦交渉成立までの自衛戦闘を容認していたが(昭和20年大海令第48号)、その後、支那方面艦隊を除く海軍総隊に対して8月22日午前0時を基準時として一切の戦闘行為停止を命じている(昭和20年大海令第49号・第50号)。
^ 中山(2001年)、180頁。
- ^ ab木俣(1993年)p.229,238
^ 佐世保地方復員部 『昭和二十一年八月十五日現在 引渡目録 新興丸』JACAR Ref.C08011329300
^ 函館市史編さん室(編) 「樺太・千島からの引揚げ状況」『函館市史』通説編第4巻、函館市、2002年、98-99頁。
- ^ abcなつかしい日本の汽船ではいずれもパナマの船会社とされ、1974年撮影のリエン・シンの船尾にもパナマ国旗が掲げられているが、#慟哭の海p.171に「風の便りではマレーシアの船会社に売り渡され「ゴールデン・バッファロー号」と命名され、東南アジア航路でその生涯を終えたという」とあること、企業名が中国語のようなものであることから、パナマに売り渡された後、マレーシアの華僑、そしてパナマの華僑という順番に売り渡された可能性もある。
^ 『海軍辞令公報(部内限)第716号 昭和16年9月20日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100
- ^ ab『海軍辞令公報(部内限)第815号 昭和17年2月21日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072084300
参考文献
- 岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド―日の丸船隊ギャラリー』 大日本絵画、2009年。ISBN 978-4-499-22989-0。
- 岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド2‐日の丸船隊ギャラリー』 大日本絵画、2011年。ISBN 978-4499230414。
- 木俣滋郎 『撃沈戦記 PART IV』 朝日ソノラマ〈新戦史シリーズ〉、1993年。ISBN 4-257-17255-X。
- 中山隆志 『一九四五年夏 最後の日ソ戦』 中央公論新社〈中公文庫〉、2001年。ISBN 4-12-203858-8。
- 『慟哭の海 樺太引き揚げ三船遭難の記録』 北海道新聞社/編、道新選書、1988年8月。ISBN 978-4893639295。
Cressman, Robert (1999). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. Annapolis MD: Naval Institute Press. http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron.html.
外部リンク
1/700戦時輸送船模型集:第二号新興丸 - 岩重多四郎による戦時状態の再現模型
"Lien Hsing" - 「リエン・シン」と名前を変えた後の写真と船歴を掲載