L-19 (潜水艦)
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艦歴 | |
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発注 | レニングラードオルジョニキーゼ第189海軍造船所/ウラジオストク第202造船所 |
起工 | 1935年12月26日 |
進水 | 1938年5月25日 |
就役 | 1939年11月4日 |
退役 | |
その後 | 戦没:1945年8月29日 |
除籍 | 1958年4月3日 |
性能諸元 | |
排水量 | 水上:1,120トン 水中:1,425トン |
全長 | 85.3m |
全幅 | 7.0m |
吃水 | 4.05m |
機関 | 水上:BM6式ディーゼル機関2基 水中:PG-9式電気モーター2基 2軸推進 |
最大出力 | 水上:2,200hp 水中:1,300hp |
最大速力 | 水上:15.0ノット 水中:9.0ノット |
航続距離 | 水上:10ノット/10,000海里 |
燃料 | 重油:-トン |
乗員 | 55名 |
兵装 | B-24 1936年型 10cm(51口径)単装速射砲1基 21-K 1934年型 4.5cm(46口径)単装高射砲1基 53.3cm水中魚雷発射管単装8門(前部6門、後部6門、予備魚雷18本) 機雷18発 |
L-19(ロシア語: Л-19、エール・ヂヴィナーッツァチ)は、ソ連の赤軍海軍所属の潜水艦である。第二次世界大戦末期(日本のポツダム宣言受諾表明ならびに停船命令布告後)の1945年8月22日、日本の引き揚げ船に対し無差別攻撃を行った、いわゆる「三船殉難事件」の加害艦である。2017年現在ロシア側は依然として攻撃自体を認めていないが、対日作戦を通じて唯一沈没した艦船として認めている。日本では同事件について、戦争犯罪ではないかという批判がある[要出典]。
目次
1 概要
1.1 建造
1.2 作戦行動
1.3 沈没
1.4 捜索
2 脚注
3 外部リンク
概要
建造
1935年12月26日、L-19はレーニネツ級潜水艦第XIIIシリーズの7番艦として第189工場で起工された。翌1936年にはウラジオストクの第202工場に建造場所を移され、1938年5月25日には進水、1939年11月4日には赤色海軍太平洋艦隊に編入された。
作戦行動
第二次世界大戦での日本の戦闘停止後の1945年8月22日に、国際法に違反し日本の艦船への攻撃命令を受けた僚艦L-12とともに留萌沖に出没。2艦による共同作戦にて小笠原丸、泰東丸、第二号新興丸に攻撃(雷撃及び砲撃)を加え沈没又は大破させ、民間人の引揚者に1,700人を超す死傷者を出した(三船殉難事件)。
沈没
作戦後、L-12はウラジオストク港へ帰投したが、L-19は礼文島沖合で通信を行ったのを最後に消息を絶ち、行方不明となった。何らかの理由で沈没したものと推定されている。第二号新興丸を攻撃時に反撃され損傷を受けていること、沈没したと推定される海域(二丈岩近海)に機雷を敷設した記録があることなど沈没の原因は複数存在する。
なお、L-12の乗組員らは勲章を授与され、国家的な英雄として祭り上げられたが、L-19については存在自体黙殺されていたという。[要出典]
捜索
宗谷海峡周辺では、操業中の漁船が金属片を巻き上げたことがあるなどから沈没船の存在が知られていたほか、サハリンプロジェクトの調査船も海底付近で船影らしき存在を確認してきた。なお、同海域では、1943年にアメリカ海軍の潜水艦ワフー (SS-238 Wahoo) も沈没しており、両者を取り違えている可能性もある。
2005年、ロシア海軍太平洋艦隊は、艦隊創立60周年の節目にあたり調査船イースクラによりを捜索海域に派遣、水中音波探知機などを使い海底調査を行ったが空振りに終わった。2006年6月には、大型揚陸艦ペレスヴェートと海洋観測艦GC-47、イースクラによりL-19の追悼式典が行われている。[1][2]
脚注
^ РИА Новости - История - В Магадан в рамках "Похода памяти" прибывает корабль "Пересвет" (ロシア語)
^ На Сахалин прибывает корабль "Пересвет", совершающий "Поход памяти". 09.06.2006. . ДВФО, Корсаков, Южно-Курильск. Сахалин.Инфо (ロシア語)
外部リンク
Великая Отечественная - под водой (ロシア語)
У Л-19 и «ВАХИ» одна судьба (ロシア語)