阪神甲子園球場
阪神甲子園球場 Hanshin Koshien Stadium 甲子園球場、甲子園 | |
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阪神甲子園球場(2009年8月13日) 第91回夏の甲子園、徳島北×日大三戦の試合風景 | |
施設データ | |
所在地 | 日本 兵庫県西宮市甲子園町 |
開場 | 1924年(大正13年)8月1日[1] |
所有者 | 阪神電気鉄道 |
管理・運用者 | 阪神電気鉄道[1] |
グラウンド | 外野 - 天然芝 内野 - 土 |
ダグアウト | ホーム - 一塁側 ビジター - 三塁側 |
照明 | 屋根上投光器照明 - 2基、照明塔 - 4基 照度 - バッテリー間:2500ルクス 内野:2500ルクス 外野:2000ルクス[1] |
建設費 | 250万円(着工当時) |
設計者 | 大林組 |
建設者 | 大林組 |
旧称 | 甲子園大運動場(開場 - 1929年?) 甲子園球場(1929年? - 1964年2月13日) |
使用チーム • 開催試合 | |
全国高等学校野球選手権大会(1924[2] 年・第10回大会 - 現在)[注 1] 選抜高等学校野球大会(1925年・第2回大会 - 現在)[注 2] 阪神タイガース(1936年 - 現在)[注 3] 毎日甲子園ボウル(1947年・第1回大会 - 現在)[注 4] 日本フットボール優勝大会[注 5](1925年・第8回大会 - 1928年・第10回大会) 南海ホークス(1948年 - 1949年) 社会人野球日本選手権大会(1974年・第1回大会 - 1979年・第6回大会) | |
収容能力 | |
47,508人(内野:28,465席、外野:19,043席)[3] | |
グラウンドデータ | |
球場規模 | グラウンド面積 - 約13,000 m2 両翼 - 95 m (約311ft) 中堅 - 118 m (約387 ft) 左右中間 - 118 m (約387 ft) |
フェンス | 2.6 m |
阪神甲子園球場(はんしんこうしえんきゅうじょう)は、兵庫県西宮市甲子園町にある野球場。通称「甲子園球場」または「甲子園」(以下、原則として甲子園球場に統一)。阪神電気鉄道が所有している。
目次
1 概要
2 沿革
2.1 建設の経緯
2.2 周辺の開発と戦火
2.3 戦後
2.4 大改修
2.5 年表
3 21世紀の大改修
3.1 基本構想の発表
3.2 工期短縮公表
3.3 第1期改修
3.4 第2期改修
3.5 第3期改修
4 球場データ
5 球場設備
5.1 スタンド
5.1.1 座席区分
5.1.2 銀傘
5.2 フィールド
5.2.1 土
5.2.2 芝
5.2.3 マウンド
5.2.4 ベンチ
5.2.5 フェンス
5.3 ブルペン
5.4 室内練習場
5.5 ナイター設備
5.6 蔦・外壁
5.7 スコアボード・バックスクリーン
5.7.1 歴史
5.7.2 表記
5.8 甲子園ライナービジョン
5.9 広告
5.10 歴史館
5.11 野球塔
5.11.1 初代
5.11.2 2代
5.11.3 3代
5.12 ミズノスクエア
6 ギャラリー
7 浜風
8 プロ野球に関するエピソード
9 プロ野球・高校野球以外での使用
9.1 社会人野球
9.2 WBSC U-18ワールドカップ
9.3 フットボール
9.4 連合体育大会
9.5 その他のイベント
9.6 ロケーション撮影
9.6.1 映画
9.6.2 テレビ番組
9.6.3 CD・DVD
9.7 公開放送
10 交通機関
10.1 列車・バス
10.2 自家用車
11 脚注
11.1 注釈
11.2 出典
12 関連文献
13 関連項目
14 外部リンク
概要
西宮市に全国中等学校優勝野球大会の開催を主目的として建設された、日本で最初に誕生した大規模多目的野球場であり、収容人数は日本の野球場の中で最大である[注 6]。
日本プロ野球セントラル・リーグの阪神タイガースの本拠地球場であるほか、全国高等学校野球選手権大会および選抜高等学校野球大会という2大高校野球全国大会が戦前から優先的に開催されており、日本国内では大学野球における明治神宮野球場と並んで「野球の聖地」と称されている。
名称の一部である「甲子園」は先の2大高校野球全国大会の通称にも使用され(「夏の甲子園」「春の甲子園」)、そのことから野球の大会のみならず高校生の各種全国大会や、全国各地域が競うイベントなどにおいて「〇〇甲子園」のようにその大会・イベントの名称として使われることもある[4]。
また、大学野球の試合にも使用され、毎年春・秋に開かれる関西六大学野球連盟と、関西学生野球連盟リーグ戦の一部試合が当球場にて実施されている。野球以外では、アメリカンフットボールの全日本大学選手権の決勝戦である甲子園ボウルが開催されている。
2007年秋より、老朽化対策、耐震補強、快適性の向上、環境への配慮を目的に3年計画でオフシーズンのみの改修工事を進め、2009年春に球場本体の改修工事が完了、2010年春には外構整備工事を完了させ、大幅にリニューアルした。また、2008年からは野球場としては日本では珍しいオフィシャルスポンサー制度を採用しており、2015年3月現在はアサヒビール・東芝・ミズノ(以上3社は当初より)・三菱電機(2009年より)・セブン-イレブン(2015年より)の5社がスポンサーとなっており、いずれの企業も施設命名権ないし球場設備に関わっている(2008年から2012年までみずほ銀行、2010年から2014年まで本田技研工業も参加)。
紙テープ、紙吹雪、ウェーブによる応援は常時禁止されている。また周囲が住宅地であるため、周辺環境に配慮して、午後10時以降はトランペット・太鼓を使った鳴り物応援は禁止となる。ただし、タイガース勝利時の「六甲おろし」は午後10時以降でも合唱される。
この球場の広さから、関西では敷地などの面積を示す際に慣用単位として「甲子園球場△個分」という表現が使用されることがある[5]。
なお、『阪神甲子園球場』は1995年に阪神電気鉄道により商標登録されており(第3037323号ほか)、2012年には『甲子園』(野球用途に限る。第5509344号)も同様に商標登録されている[6]。
沿革
建設の経緯
大正年間に始まった全国中等学校優勝野球大会は、豊中球場に始まり第3回大会から兵庫県武庫郡鳴尾村(1951年に西宮市と合併)にある鳴尾球場で開催されていたが、人気の高まりにつれ同球場の仮設スタンドでは大勢の観客を収容しきれなくなっていた。後に試合中に観客がグラウンドになだれ込んで試合が中断するという事態にまで発展し、特に1923年の第9回大会では鳴尾球場に近い地元甲陽中が決勝戦で和歌山中との近畿対決を制したことから、中等学校野球人気がピークに達した。
この事態を重く見た主催の大阪朝日新聞は、本格的な野球場建設を提案。また鳴尾球場の所有者である阪神電鉄も、鳴尾球場と同じ鳴尾村に流れていた申川(さるかわ・武庫川の支流)と枝川を廃川とした後にできた埋め立て地の開発の一環で新球場の計画を進めていて利害関係が一致した。当時国内にあった野球場では参考になるものがなく、ニューヨークにあったニューヨーク・ジャイアンツの本拠地、ポロ・グラウンズをモデルに設計されたと謂れている。完成するまでの名称は枝川運動場だったが大正13(1924)年が十干十二支の最初の組み合わせである甲子年(きのえねとし)という縁起が良い年という事もあり後に甲子園大運動場(こうしえんだいうんどうじょう、看板表記は阪神電車甲子園大運動場)と命名。起工式は1924年3月11日に行われ、同年8月1日に竣工式が行われた。
当初は陸上競技場や球技場としても利用されることを念頭に設計されたため、グラウンドは三角形で、ポール際のコーナーが丸みを帯びるという形状で、中堅119ないし120m・両翼110mに対し左右中間が128mもあるという、現在の目から見ても過大といえるサイズとなった。さらに1934年にはホームベースがさらに9mほど下げられたため、同年の日米野球に出場したベーブ・ルースをして"too large(デカすぎだ)"と驚かせている。開設当時はまだ外野も土のままであった。また、スタンドは「5万人収容」と公称され、グラウンドの内野にあたる部分のみが鉄筋コンクリート製(50段、高さ14.3m)であり、現在のアルプススタンド、外野スタンドは土盛りの上に20段の木造スタンドがあった。内野席全体(現在のアルプススタンドを除く)には鉄傘が設置された。こけら落としは阪神間学童運動会で、同年夏から全国中等学校優勝野球大会の会場となった。また、大阪毎日新聞が主催していた日本フットボール優勝大会(サッカー、ラグビーの全国大会、詳細は後述)や選抜中等学校野球大会も翌年から開催されている。建設当時の甲子園球場は、時代の先端を行く施設でもあり、水洗トイレ、カレーライス、コーヒーが評判となった[7]。
周辺の開発と戦火
球場完成後も周辺の開発が阪神電鉄によって進められ、遊園地、動物園、水族館(この3つは甲子園娯楽場として)、総合競技場(甲子園南運動場)、テニスコート(甲子園庭球場、甲子園国際庭球場)、競技用プール(甲子園水上競技場)などが設けられ、阪神電鉄のものではないがそれより前から存在していた鳴尾競馬場とゴルフ場(現在の鳴尾GCコースの前身)を含め一帯は阪神間モダニズムを代表する一大レジャーゾーンとなった。総合競技場は大運動場が野球場としての形状見直しによって、陸上競技場や球技場としての機能を分離したものである。甲子園大運動場から甲子園球場に名称が変更された時期は定かではないが、この時期である可能性が高い。球場は改良が進められて外野に芝が張られ、現在のアルプススタンド・外野スタンドにあたるスタンドが増築され、公称収容人数は7万人となった。スタンド増築の際にフェアグラウンドの形状が変更され、現在に近い形となってほぼ野球専用となった。それでも当時の日本の野球場としては広大であり、小柄で非力な日本人選手の体型とボールの品質の低さもあって、本塁打が極端に出にくいことで知られていた[注 7]。また、1935年には所有者の阪神電鉄によって大阪野球倶楽部(球団名大阪タイガース・現阪神タイガース)が設立され、甲子園を本拠地とした。ただしフランチャイズ制度が導入される以前はホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、阪急西宮球場や後楽園球場とともに各球団が使用していた。
しかし太平洋戦争が激化すると野球どころではなくなり、大日本学徒体育振興大会(幻の甲子園)を最後に中等学校野球が、1945年1月の正月大会(非公式大会)を最後にプロ野球が戦中の使用を終えた。球場や周りの施設は軍が接収し、グラウンドのうち内野は芋畑、外野は軍のトラック駐車場、スタンドはバックネットから三塁内野席あたりまでは日本造機工場、一塁側あたりは普通海兵養成所、三塁側アルプスあたりは対潜音響研究所、一塁側アルプスあたりは川西航空機倉庫と陸軍輸送隊、レフトスタンドは興亜ベアリング工場[8]、ライトスタンドは阪神青年学校になった[9]。また鉄傘も金属類回収令のために供出を余儀なくされている。周りの施設も川西航空機の工場や鳴尾飛行場などに転用された。1945年8月には空襲を受けている。また機銃掃射による攻撃も幾度か受けており、弾痕が残った鉄扉が2007年に撤去されるまで長らく関係者入り口にあった(普段は開け放しになっていた。米軍接収時の試し撃ち跡ともいわれている。現在は甲子園歴史館に展示)。
戦後
終戦後は鳴尾飛行場とともに米軍に接収され、1946年はプロ、中等学校の各種野球の公式戦の開催ができず、代わりに阪急西宮球場で行われ、選抜大会は中止となった。
翌年(1947年)にはスタンドの一部とグラウンドの接収が解除されたため、春と夏の中等学校野球、プロ野球が再開され、甲子園ボウルも始められた。なお球場全ての接収解除は1954年まで待たなければならなかった。ホームランを増やすため、プロ野球再開のシーズン途中にラッキーゾーンが日本で初めて設けられた(当初はプロ使用時のみ)。周りの施設の土地は住宅などに転用されたため、阪神電鉄関連のレジャー施設はプール(現在はテニスコートとクラブハウスになっている)と場所を移した遊園地(甲子園阪神パーク)のみに縮小された。
1948年にはプロ野球においてフランチャイズ制が暫定導入され、大阪タイガースが甲子園球場を専用球場とし、自前の大規模球場を持たない南海ホークスとともに主催試合のほとんどを甲子園球場で行うようになった。南海電鉄は中百舌鳥球場を所有していたが、中百舌鳥の立地条件が悪いため、戦後からこの年までは公式戦を当球場及び阪急西宮球場で開催していた。ただし南海ホークスの使用は暫定的なもので、1950年から名目上のフランチャイズであった大阪市内に新設された大阪スタヂアムに移転した。
1950年のセ・パ2リーグ制になってからは阪急西宮球場が阪急ブレーブスの本拠地となったため、パ・リーグの試合は専ら西宮球場で行われ、当球場は阪神タイガースを中心にセ・リーグの公式戦のみが行われる状態が続いた(逆に当球場が高校野球などで使用できない時でも、タイガースが西宮球場で公式戦を行うことは1990年までなかった)。2リーグ分裂後に当球場で行われたパ・リーグの主催試合は、2011年の東北楽天ゴールデンイーグルス対オリックス・バファローズ戦が初である(詳細は後述)。
大改修
その後はナイター施設の新設や座席、スコアボードの改修がなされていった。特に1976年からは数年かけて座席の更新が行われている。またグラウンドの大きさの見直しもあり、1991年にはラッキーゾーンを撤去した。このように当時の基準に合わせる改良が幾度も行われたが、最新の球場に比べて施設の老朽化や陳腐化は避けられず、また建物の耐用年数を考慮すると、いつかは建て替え、もしくは全面的な改修をしなければならないことは明白だった。そのため1990年代初頭には阪神電鉄首脳がドーム球場化を念頭において、アメリカの主要ドーム球場を視察して回った。当初は赤字だった阪神パークを閉鎖して、その跡地と周辺地を加えた用地(阪神パークの用地だけでは不足で、周りの用地買収が必要だったため)にドーム球場を建設する計画で進められていったようであり、実際に1993年には「(同年秋に開始する)西梅田再開発事業の終了の10年後を目処にドーム球場の建設を始めることを検討している」という報道がされている[10]。
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の際、スタンドの一部に亀裂や崩落が発生。基礎部分の検査が行われたが問題なく、この年の選抜大会を前に亀裂や崩落箇所のみの補修が行なわれた。住民感情に配慮して第67回選抜高等学校野球大会の中止も検討されたが、予定通り開催された。
この地震の被害やバブル崩壊により、阪神電鉄は事業計画を見直すこととなり、阪神パークのある場所(2004年にららぽーとを誘致)でのドーム建設計画は正式発表されることなく白紙撤回された。その後改めて球場本体の構造強度の検査結果を踏まえ、工期はシーズンオフ3期に分割し、基礎部分を残して大規模改修をすることとなった。2004年7月には「西大阪線延伸事業が一段落する2008年のシーズンオフを目途に着工し、2010年以降の完成を目指す」という構想の概要が報道されたが、正式発表は2005年11月となり、着工は2007年秋からとなった。2010年春には全体の工事が完了した(詳細は後述)。
年表
1924年 - 3月11日、起工。7月31日、完成。12月、蔦が植栽される。
1925年 - 初代スコアボードを正式開設。
1929年 - 内野スタンド内部改装、貴賓室新設。東西スタンドを木造から、鉄筋コンクリート50段、高さ14.3mに改築。「アルプススタンド」の通称が付く。
1931年 - アルプススタンドにも鉄傘がかけられる。
1932年 - 10月1日、一塁側アルプススタンド下に室内運動場、三塁側アルプススタンド下に温水プール完成。
1934年 - 外野中央に2代目スコアボード完成(通称・軍艦形)。
1935年 - 大阪タイガース(現阪神タイガース)が誕生。
1936年 - 外野東西スタンドを木造から、鉄筋コンクリートに改築。「ヒマラヤスタンド」の愛称がつく。フェアグラウンドがほぼ現在の形となり、バックスクリーンも設けられた。現在のプロ野球初の公式戦を開催。
1937年 - 三塁側アルプススタンド下の温水プールが甲子園プール完成に伴い閉鎖。
1943年 - 金属類回収令により鉄傘が供出される。
1945年 - アメリカ軍に接収される。
1947年 - 球場の接収が一部解除される。5月26日、ラッキーゾーンの設置工事が完了。
1948年 - 大阪タイガースが甲子園球場を専用球場とする。また南海ホークスも甲子園球場を主に使用した。
1950年 - 南海ホークスが大阪スタヂアムに移転する。11月、初の日本シリーズ(当時は日本ワールドシリーズ)開催(第3戦のみ)。
1951年 - 内野ネット裏を中心として大屋根(銀傘)が復活。オールスターゲームの記念すべき第1戦開催。
1954年 - 球場全体の接収が解除。
1956年 - ナイター照明設備完成。その年の夏の甲子園球場でも早速、ナイターとなる試合も発生した。
1958年 - スコアボードが完全手書き式に変更。さらにスコア表示と下段を一部改造。
1963年 - 内野側に広告設置。
1964年 - 2月14日、球場名を甲子園球場から現在の阪神甲子園球場に変更。室内練習場完成。
1974年 - 看板広告を変更。
1976年 - 座席更新開始(以後数年にわたる)。グラウンド改装。公称を中堅120m、両翼91mに変更。
1978年 - 三塁側アルプススタンド下の温水プール跡に室内練習場を新設。
1979年 - センターバックスクリーンに2面広告装置「トライビジョン」完成(1996年まで)。
1982年 - 銀傘をアルミ合金に葺き替え。天然芝張替え。オーバーシードによる二毛作に成功し、通年緑化。
1984年 - 開場60周年(開場以来の「甲子」の年にあたる)を記念し、スコアボードを3代目のものに更新。
1985年 - タイガース創立50年を記念し、甲子園駅から球場へ続く通路に虎の銅像が建立される。
1991年 - この年からTUBEの夏のライブが恒例化(2015年のライブをもって一旦終了)
1992年 - ラッキーゾーン撤去。公称を両翼96mに変更。
1993年 - スコアボード右半分をカラービジョンのフリーボードに変更。
1994年 - 開場70周年を記念し、開場当時の姿を模したモニュメントがはめ込まれた記念碑が阪神甲子園バス停付近に建立される(2006年10月にお色直しの上、虎の像のそばに移設。跡地にはグッズショップが建てられた)。
1995年 - 1月17日、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)発生。スタンドの一部が損壊。
1996年 - アニメーション「炎の5回裏」登場。
1997年 - 「トライビジョン」を4面広告装置「ペンタビジョン」に変更。
2002年 - 内野席の一部座席間隔を拡大し、収容人員が約53,000人に減少。
2003年 - スタンド内を全面禁煙化。
2004年 - 新室内練習場が完成。女子トイレ増設とフェンスラバーなどの改良工事実施。21世紀の大改修の具体案がまとまる。
2005年 - スコアボード右側のフリーボードをLEDに改良。また、バックネット付近のフェンス広告を、電動で回転するものに変更。DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定。
2007年 - 2月、新室内練習場の隣に新クラブハウスが完成。3月4日、阪神甲子園バス停付近に新しく「タイガースショップ アルプス」が完成。
2008年 - 3月、第1期リニューアル工事完了。内野スタンドが改修される。
2009年 - 3月、第2期リニューアル工事完了。アルプスと外野スタンド、照明塔、銀傘が改修される。公称を中堅118m、両翼95mに変更。
2010年 - 3月、第3期リニューアル工事完了、これにてリニューアル終了。甲子園歴史館が完成。三塁側外に売店基地棟が完成。球場外周が整備される。
2011年 - 3月、スコアボード左側をフリーボードLEDビジョンに、審判名表示部分とプレー記録をLEDに、ボールカウンターをSBOからBSOに変更完了。4月15 - 17日、1950年の2リーグ分立以降初となるパシフィック・リーグ球団の主催公式戦(楽天対オリックス戦)を開催(後述)。
2016年 - 9月、水樹奈々がソロ歌手として初めて当球場でライブを開催する。
2018年 - 3月、1・3塁側ともベンチをメジャーリーグ仕様に改造。外野フェンス下にあった赤土の部分を人工芝化(インフィールドで初の人工芝敷設)。
21世紀の大改修
基本構想の発表
2005年11月7日に基本構想として正式発表された。改修に関する主な構想は下記の通り(詳細は外部リンクを参照)。
- 2007年10月着工、2010年3月竣工。シーズンオフを中心に3期にわけて工事を行い、プロ野球・高校野球はともに開催予定とする。
- 天然芝と黒土、オープンエアー(グラウンドに屋根をかけない)の形態維持。
- 甲子園球場のシンボルとされている蔦を改修工事前に一旦伐採(2006年度と2007年度のシーズンオフ2年間に分けて行う)し、工事終了後に再植栽。
バリアフリー対策により、収容人員を4万7,000人に縮小。
工事時期は以下の通り。
- 2007年シーズンオフは内野スタンド内部の改装と銀傘の撤去(2008年シーズンは銀傘なし)を実施。
- 2008年シーズンオフはアルプス・外野スタンドの内部及び観客席の改装と新銀傘の設置を実施。
- 2009年シーズンオフは内野スタンドの観客席更新と外周整備を実施。
ドーム化見送りに関しては高校野球界から「青空の下でプレーできなくなり、高校野球に相応しくない」との反対論が続出していた。また収容人数を減らすことにより今以上に阪神戦のチケットの競争率が高くなり、球場へ見に行けなくなるファンが今よりも増えてしまう可能性があるため、改修するのなら増席をするべきだという意見もあった。
なお、この改修により2007年 - 2009年のシーズンは阪神がホームとなるポストシーズン(クライマックスシリーズと日本シリーズ)のゲームを甲子園球場で行わないことが2005年11月の実行委員会で了承された。なお2008年まで阪神の監督を務めた岡田彰布はこの球団の対応に対し苦言を呈している。実際の代替開催先は以下の通り。
- 2007年は阪神がホームとなるポストシーズンゲームは開催されず。
- 2008年は工事開始日までに開催できなかったレギュラーシーズン1試合をスカイマークスタジアムで、クライマックスシリーズ第1ステージを京セラドーム大阪で開催。
- 2009年は後述の工期短縮により10月にレギュラーシーズン2試合を行った。
試合ではないが、毎年オフシーズンに行っていたイベントも場所を変えて開催された。
- 阪神の「ファン感謝デー」は「ファン感謝の集い」として2007年はインテックス大阪で、2008年はワールド記念ホールで開催。
甲子園ボウルは長居陸上競技場で開催(2007年、2008年)。
工期短縮公表
2006年7月に上記基本構想の工期を短縮することが発表された。変更後の工事予定は以下の通り。
- 2007年シーズンオフは内野スタンドの内部及び観客席の改装を実施(旧銀傘を維持)。
- 2008年シーズンオフはアルプス・外野スタンドの内部及び観客席の改装と銀傘の撤去・付け替えを実施。
- 2009年シーズンオフは外周整備を実施。
これにより、2008年シーズンも旧銀傘が維持され、球場本体は2009年3月までに完成することになった。
また改修に先立つ形で、2007年2月に球場西隣のテニスコート(旧甲子園水上競技場跡)があった場所にクラブハウスを建築し、球場内にあったロッカーやトレーニングルームなどの選手関連施設や球団事務所を移している。また外壁の工事はシーズン中も行われた。
第1期改修
2007年オフから予定通り工事を開始し、2008年3月11日に大林組より引渡しを受け工事完了となった。内野スタンド部の構造は改修前とは大幅に変わり、外見上は新築同様となった。工事以前の構造を確認できるのは主だった柱ぐらいである。これまで観客用の回廊だった1階が関係者専用エリアとされ、2階の回廊と3階の回廊が観客エリアとなった。また分煙化も図られ、喫煙室も新設された。
後に無観客で行われた練習試合において、グラウンドとダグアウトとの段差が90cmもあることや、後列のベンチに座ると天井が低すぎるなどの危険性を選手側から指摘されたため、ベンチを前にずらすなど手直しを行った。これ以外では特に問題はなく、3月22日に第80回選抜高等学校野球大会で内野エリアのリニューアルオープンを迎えた。
第2期改修
2008年5月には第2期改修の変更概要が発表され、同年10月より工事が開始、翌年3月12日に大林組より引渡し完了。アルプススタンドには2階回廊、外野スタンドには1階回廊が追加され、観客用施設面積が増やされたほか、銀傘とサブスコアボード、照明が替えられた。また外野の観客動線の変更により、スコアボード下にあった外野中央門が廃止された。銀傘の下には法人会員制の「ロイヤルスイート」と、リボン状LEDボード「甲子園ライナービジョン」が設置された。この改修で野球開催に関する球場本体の改修は全て終了した。また乳幼児を伴う観客への利便性向上のため、託児所(有料)、授乳室が新設された。
第3期改修
2009年10月から翌年3月まで行われた第3期の改修では、銀傘上部の太陽電池パネルの設置、グッズや軽食を販売する売店基地棟の設置、広場など各種イベント開催スペースの拡充、球場外野の外周道路の床面に煉瓦ブロックの敷設など、試合開催には支障をきたさない工事が行われた。
この工事に付随し、「甲子園歴史館」が外野席下にオープン。また、外周道路の煉瓦ブロックは「KOSHIEN NAMING BRICK MEMBERS」としてファンなどから購入者を募り、ブロック1個ごとに購入者の名前や短文を刻印して敷設された。
球場データ
- 所在地:兵庫県西宮市甲子園町1-82
- 敷地面積:54,203.54m2
- 総面積:約38,500m2(2007年までの公称値39,600m2)
- グラウンド面積:約13,000m2(2009年より、2007年まで実測値13,500m2、公称14,700m2)
- スタンド面積:約22,600m2(2009年より、2007年まで実測値20,800m2、公称24,900m2)
- その他(スコアボード棟など):約2,900m2
- 収容人数:47,808席(内野:28,765席、外野:19,043席)(2009年 - 2011年) → 47,757席(内野:28,714席、外野:19,043席)(2012年 - 2013年) → 47,541席(内野:27,498席、外野:19,043席)(2014年 - 2015年) → 47,508人[3](内野:28,465席、外野:19,043席)※車椅子席は総数31席。
- 中堅:118m
- 左右中間:118m
- 両翼:95m
- 内野:土(日本の黒土と中国福建省の白砂を調合)、人工芝(ファウルゾーンの一部)
- 外野:天然芝(ティフトン、ペレニアル・ライグラス)
- 照明:銀傘庇部2基、照明塔4基
- 照明数:ロングアーク(1,500W)504台、ナトリウムランプ(600W)208台、ショートアーク(2,000W)44台、合計756台
- 照明塔高さ:44m
- 電光掲示板:3基
- スコアボード:縦13m×横31.6m(全体の大きさ)
- サブスコアボード:縦2.5m×横28.3m
- リボンビジョン(甲子園ライナービジョン):縦1.2m×横249.6m(映像表示部大きさ)
- 工事発注者:阪神電気鉄道
- 設計・施工:大林組(※リニューアル工事も担当)
球場設備
バックネット裏を覆う「銀傘(ぎんさん)」と呼ばれる大屋根、時計台型のスコアボードが特徴。かつては球場外周の外壁が蔦(つた)に覆われていたが、リニューアル工事に伴って一旦取り払われてから再植栽されている(後述)。
スタンド
一層式にもかかわらず収容人員47,000人以上と、非常にスケールが大きい。内野席側の規模はそれほどではないが、外野席は他球場の倍程度の規模で全収容人員の4割程度を占めている(一般的なプロ野球球団の本拠地は2 - 3割の球場が多い)。時に阪神タイガースの新外国人選手が開幕前に球場フィールドに足を踏み入れて「非常に大きな球場だ」と驚く様子が関西のスポーツ新聞で報じられることがある[注 8]。座席は緑色系統で統一されている。
開場した頃はグラウンドの内野に面した部分のみが鉄筋コンクリート製(50段、高さ14.3m)であり、現在のアルプススタンド・外野スタンドの位置には土盛りの上に20段の木造スタンドがあった。その後1929年にアルプススタンドが、1936年に外野スタンドが内野スタンド並みに改築されている。またファウルグラウンドの規則改正のため当初の設計より内野スタンドとアルプススタンドは全体的にグラウンド側に増築されている。そのため内野スタンドとアルプススタンドは最前列がグラウンドレベルになっており、戦前にはすでに現在のフィールドシートのような座席となっていた。通常グラウンドレベルにある本塁後方のアナウンス室などは半地下となっている[注 9]。
三宅秀史によると、三宅が阪神タイガースに入団した頃(1950年代)は一塁側内野スタンドの下に二軍選手の合宿所があった[11]。佐々木信也も自身が湘南高校時代に出場した第31回全国高等学校野球選手権大会で、当初の宿舎があまりに酷かったため途中から球場スタンド下の二軍選手用合宿所に宿舎を変更してもらったと語っている[12]。なお、選手の宿泊施設は後に専用の合宿所『虎風荘』が球場向かいの甲子園七番町に建てられ永らく使用された後、阪神鳴尾浜球場完成とともに同敷地内に移転している。
内野スタンド、アルプススタンド、外野スタンドはそれぞれ分かれた構造となっており、リニューアル後もその構造を引き継いでいる。このうち内野スタンドとアルプススタンドは2階と3階がスタンド内の通路で繋がっており、現在では内野席であれば通路内に限り1塁側アルプススタンドから3塁側アルプススタンドまで自由に移動ができる(そのため、通路から座席に向かう際には、各ゲートに配置されている係員がその都度チケットを確認する方式となっている)。また、それぞれスタンド間にはグラウンドから球場外まで通じる通路があり、リリーフカーの出入りや観客の退場路などに使用されている。
2007年からの改修後は選手などの関係者向け施設は内野スタンドとアルプススタンドの1階に集中している。以前はアルプススタンドの1階の他、内野スタンドの2階部分、外野スタンドの1、2階部分を関係者エリアとしていたが、スタンドの観客向けの施設を増やすために各所に移動している。
「アルプススタンド」は元々は通称であったが、現在は正式名称として使われている。この通称は拡張直後の夏の中学野球の折、『朝日新聞』に連載記事を持っていた当時の人気風刺漫画家・岡本一平が、「ソノスタンドハマタ素敵ニ高ク見エル、アルプススタンドダ、上ノ方ニハ万年雪ガアリサウダ」の一文をつけた風刺漫画を載せたのが由来である。これには、「一緒に観戦していた息子の太郎(後の芸術家・岡本太郎)がふと呟いた」という説と「登山家の藤木九三(当時朝日新聞勤務)がスタンドをアルプスに形容したのを一平が伝え聞いた」という説がある。このアルプススタンドの部分が内野スタンドと分かれていて、座席が背もたれなしの長椅子形式となっているのはプロ野球球団の本拠地球場の中では唯一、甲子園球場のみである。また外野スタンドは拡張後に同じく朝日新聞紙上で「ヒマラヤスタンド」と名付けられたが、あまり普及しなかった。
放送席や記者席はバックネット裏にある。リニューアル前は中段にあり記者席の後ろにも観客席があったが、リニューアル後は最上段に寄せられている。記者席・ラジオブース(上段)の入り口は別の所にあり仕切りもあるため隔離されているが、テレビ放送席(中段)は特に仕切りがない場所に仮設される。高校野球が行われる場合、NHK大阪放送局、毎日放送(選抜)、朝日放送(選手権)のそれぞれの放送席に大会公式ポスターが数枚(ABCの場合は大会スローガンが大書きされたものも)貼り付けられたパネルセットが仮設される。放送席、記者席ともに開放型のため空調はなく、激しい雨が降ると特にテレビ放送席では風向きによっては雨粒が入り込んで濡れることもある。
プロ野球公式戦開催日に限り、バックスクリーン手前にあるビアガーデン「ココナッツガーデン」内にホームランボールが直接着弾すれば、レシート持参で試合当日の営業開始時から着弾時までの飲食代全額が返金になるサービスが行われている。これまでのところ着弾はないため実施されたことはないが、このサービスは現在も継続されている(打者は阪神タイガースに限らず、ビジターチームの選手も対象。但し、着弾以降の飲食代は対象外)[13]。
座席区分
内野は、バックネット裏の「グリーンシート」(5,134席)を中心として、外野スタンドに向かって「アイビーシート」(1塁側)3,740席(※2015年まで)・「ブリーズシート」(3塁側)3,683席(※2015年まで)、アルプススタンドの「アルプス席」(1塁側6,276席、3塁側6,169席)と続いている。「グリーンシート」と「アイビーシート」・「ブリーズシート」は銀傘下にあり、中・上段であれば雨天時でもほぼ傘を差さずに観戦が可能である。「ブリーズシート」は2013年まで「アイビーシート(3塁側)」であったが、2014年より新たに独立した名称が与えられた。ちなみに「アイビーシート」のアイビーとは蔦を、「ブリーズシート」のブリーズとは浜風を、それぞれ意味している。
さらにフィールドシートとして、「グリーンシート」の下部に「TOSHIBAシート」(968席)、「アイビーシート」・「ブリーズシート」の下部に「SMBCシート」(1塁側1,125席、3塁側1,143席)を設けている。これらのフィールドシートの名称はネーミングライツによるものである。2008年からネーミングライツが設定されており、「SMBCシート」は当初「みずほ銀行シート」で2008年からの5か年契約(高校野球開催時を除く)であった[14]。「SMBCシート」となった2013年からの契約内容は非公表である。なお他の多くの球場とは異なり、フィールドシートには防球用の金網があり、さらに後列との往来は制限されていない。
また、2009年からは銀傘真下に法人向けの個室「ロイヤルスイート[注 10]」(33室 + 貴賓室1室、348席)、3塁側内野席上段に掘りごたつタイプのグループシート(ボックスシート)「三ツ矢サイダーボックス」(4人用6組と5人用11組の79席。利用者には三ツ矢サイダーやバヤリースなどアサヒ飲料商品が贈呈される)が設置されたが、使用はプロ野球開催時に限られている[注 11]。2012年からは1塁側内野席上段にも同様の三ツ矢サイダーボックスが4人用6組と5人用5組の49席が設置された。なお「三ツ矢サイダーボックス」のネーミングライツの契約内容は明らかにされていない。
通常、甲子園球場では、スタンドの段数表記は1段、2段…と数字表記であるが、2012年シーズンから座席間違いを防ぐため、TOSHIBAシート・みずほ銀行シートのみA段、B段…というアルファベット表記に変更された。
2013年から、セブン-イレブンジャパンと命名権を締結したシートとなる「セブン-イレブン ファミリーシート」(1塁側アルプス席の下段アイビーシート側の一部)と、「セブン-イレブン エキサイトシート」(1塁側アルプスの最前列の一部)(いずれも家族・グループ用の4組1セットのチケット席)が新設された[15]。チケットも提携しているチケットぴあのみで販売される(サークルKサンクスを除く)。
2014年からは、「ブリーズシート」の一部に「セブン-イレブン ツイン・トリプルシート(ツイン20シート、トリプル10シートの計70席)」、1塁及び3塁のアルプスシート上段に「Ponta デッキシート(1ボックス最大16名で合計64席)」(命名スポンサーはローソン)、年間予約席のSMBCシートの一部がクッション性が高くなって両サイドを通路とした「SMBC リラックスシート(2人掛け7シート、4人掛け4シートの計42席)」、グリーンシート上段の「パノラマボックス(10ボックス、20席)」の4種のシートが追加された。この変更に伴い、座席数は47,757席から47,541席に変更となる[16]。
2016年からは、アイビーシート・ブリーズシートの上段の一部を改装し、床を全面クッション仕様とした5 - 6名収容の「ボックスシート」と、2名掛けシートの「ブリーズペアシート」を新設したことで、定員が33名減少して47,508席となった[3]。ボックスシートに関しては、2017年度からは阪急阪神グループの一つである阪急阪神ポイントがネーミングライツを取得し、シート名が「Sポイントボックス」となる[17]。
外野は、バックスクリーンを隔ててライトスタンド側「ライト外野席」(9,595席)とレフトスタンド側「レフト外野席」(9,448席)に二分されている。2006年からはレフトスタンドの一部に「ビジター応援席」が設置された。詳細は当該項目を参照。
プロ野球ウエスタン・リーグ公式戦の開催日においては、基本的にバックネット裏のグリーンシートとTOSHIBAシートのみ開放される(観客が多い場合は、更にアイビーシートなどが開放されることもある)。全席自由席で、2017年時点では入場料は大人1,000円(但しタイガースファンクラブ会員は500円)。
高校野球においては、春の選抜大会では全席自由席だが、夏の選手権大会では2018年の記念大会より初めて前売り指定席が導入された。プロ野球公式戦におけるグリーンシートとTOSHIBAシートが「中央特別自由席」(春の選抜大会)または「中央特別指定席」(夏の選手権大会。2018年より導入、コンビニに設置の端末などで前売り発売)[注 12]となり、アイビーシート・ブリーズシートとSMBCシートが「1塁特別自由席」または「3塁特別自由席」になる。なお、「アルプス席」は名称はそのままであるが、出場校の関係者が優先となる。外野席は、選抜大会では従来より無料開放されているが、選手権大会では2018年の大会より有料化され、また満員の際は入場制限される。
- 「アルプス席」という名称は2001年まで高校野球開催時のみ使用されていたが、プロ野球でも「アルプス席下さい」という人が後を絶たなかったので、2002年以降はプロ野球公式戦でも「アルプス席」という名称を用いている。2001年以前は、読売ジャイアンツ戦およびオールスター戦・日本シリーズなどの特別試合では「内野B指定席」と、巨人戦以外のプロ野球公式戦では「内野自由席」と、それぞれ呼ばれていた。
- アルプススタンドにおいては、高校野球開催時は出場校の応援団やブラスバンドなどが陣取りやすいように最前部などで一部の座席が撤去されており、プロ野球開催時と高校野球開催時とでは座席配置・座席数が異なっている。高校野球閉幕後、再び座席が設営されプロ野球仕様に復元されたのちプロ野球公式戦が開催される。
改築前の座席区分はフィールドシート部分が「ボックスシート」(グループシートではない)、アイビーシート部分が「イエローシート」、ブリーズシート部分が「オレンジシート」であり、グリーンシート部分は今より狭いものであった。また席の色は緑・黄・オレンジとそれぞれ名称別に塗りわけられていた。2001年シーズンまではアルプスを除いた内野席上段部全体を「内野A指定席」と設定し、緑色のシートが設置されていた。ただ、オレンジシートのメンテナンスはイエローシートほど行き届いておらず、色が褪せたり傷んでいる椅子もいくつか見受けられた。
なお、野球以外の催し物では、スタンド部分の座席区分はプロ野球と同じになる場合がある。
銀傘
銀傘は開設当初「鉄傘(てっさん)」と呼ばれ内野席全体(後のアルプス部分を除く)を覆っており、その素材から「大鉄傘(だいてっさん)」と呼ばれて、さらに1930年には女性客の人気を狙ってアルプススタンドまで拡張された。しかし、第二次世界大戦中の1943年に鉄材供出のために取り外され、その後1950年までの7年間は青天井の状態が続いた。その後1951年にジュラルミン製の銀傘として復活したが(この当時の銀傘は川崎重工業製)、一・三塁内野席の半ばからネット裏の客席にだけの開設当初より小さいものが設置され、1982年にはアルミニウム合金製に葺き替えられた(柱はそのまま)。
2009年には4代目のガルバリウム鋼板製のものに架け替えられた。商品名は、淀川製鋼ヨドルーフ180ハゼ。大きさは開設当初と同じ大きさであり、アルプスを除く内野席全体を覆っている。銀傘の下には個別の観覧席であるロイヤルスイートがあり、その壁面下部にリボン状LEDボード「甲子園ライナービジョン」が設置されている。また2代目の銀傘からは中央に外野席向けのサブスコアボードがある。
2010年には屋根上に太陽電池パネルを設置し、同年3月1日より稼動を開始した。パネルは本田技研工業の子会社・ホンダソルテック製で推定発電量は年間193,000 kW/h、またこれによって年間133トンの二酸化炭素排出を抑制できる[18]。
銀傘を支えるための柱は客席内に立てられており、後ろの客席(約10段ほど)からは柱が邪魔になるため観戦しにくくなっている。なお、代を重ねるごとに下段側の柱は上方に移っている。
銀傘の中央部には、野球中継で使用するためにテレビ各局が共同でハイビジョン対応のリモコンカメラを設置している。このカメラは2台設置されているため、地上波の並列中継(高校野球ではNHKと民放、プロ野球では在阪局とサンテレビ)があってもそれぞれ1台ずつ使用できる。
銀傘の上に上がったボールは、そのまま雨樋を通ってロイヤルスイートの屋根の上に落ちるようになっている。
フィールド
現在は中堅118m, 両翼95m, グラウンド面積約13,000m2と公称され、左右中間は118mということが公表されている。2007年オフからの改修以前は中堅120m, 両翼96m, グラウンド面積14,700m2(この数値は日本プロ野球球団の本拠地中で最大)と公称され、左右中間は119mあるといわれていたが、この数値には長年疑問が呈されており、たとえば野球場研究家の沢柳政義は、著書『最新野球場大事典』(大空社、1999年)で、中堅118.1m, 両翼94.7m, 左右中間117.9mとする数値を発表していた。甲子園球場は落成以来たびたび改修を行いフィールド等の形状が変更されてきたが、それに伴う不動産登記の合筆は行われておらず、法務局にすら正しい図面が存在していなかった。1991年にはラッキーゾーン撤去に伴い測量が行われているが、この時の記録は全く残されておらず、球場自身も正しい数値を把握していなかった。結局は改修に伴う実測により2008年にグラウンド面積の数値が、2009年に中堅、両翼の数値が現在のものに改められた[19]。すでにグラウンドは改修によってやや狭くなっていたが過去にさかのぼって13,500m2だったと訂正された。しかし、阪神タイガースオーナーの坂井信也は、それでもフェアグラウンド面積が日本プロ野球球団の本拠地中で最大と主張している[20]。
フェアグラウンド面積の大きさの根拠としては左右中間から両翼寄りの広さがあげられる。外野フェンスはソフトボールのフィールドのように本塁を中心とした半径118mの円弧を描く形状で、ファウルポールの近くで急角度に絞り込まれる。これは国内の他の球場には見られないもので、左右中間からポール手前にかけては改装前の甲子園球場の公称値通りに作られた広島県立びんご運動公園野球場(尾道・しまなみ球場)の一例を除き国内では最も深い。ファウルグラウンドはかつての公称値からしばしば広大であると言われていたが、実際のところは千葉マリンスタジアムや札幌ドームに及ばないものであり、さらに2007年オフからの改修で塁線及びベースから60ft(約18.3m)という規定に近いところまで削られている。
2014年11月11日に行われた「日米野球シリーズ・日本プロ野球80周年記念試合 阪神・巨人連合軍対アメリカ大リーグ選抜」の親善試合では、マウンド・ホーム付近を赤土ブレンドに変更しダートサークルを設置、ウォーニングゾーンを褐色に着色するなどの措置が取られた。
グラウンドの広さはしばしば変更されている。1934年の夏にはファウルゾーンの広さの規則改正(1931年、90ftから現行の60ftへ)によりホームベースをバックネット裏方向へ移設し、両翼の数値こそ短くなったが全体はさらに広くなった。1936年には外野スタンドの改築とアルプススタンドのグラウンド側への増設に伴い現在に近いものとなった。1950年代などの写真ではセンターと左右中間の3ヶ所に「390 ft」(≒118.9m)の表示が確認できる。ラッキーゾーンは1947年に設置され1991年まで使用された。当初、高校野球時には取り外していたが、1949年の夏の大会からはそのまま使用していた。設置中には幾度か位置が変えられている。1976年には内野スタンドの改造に合わせてホームベースを移設、中堅120m、両翼91mと公称されるようになった。また、このときラッキーゾーンを従来より前にせり出す改修もおこなわれている[21]。1991年オフにはラッキーゾーンを撤去、一部は甲子園歴史館と甲子園球場に近い兵庫県立西宮今津高等学校の中庭に保存されている。
グラウンド整備は阪神電鉄子会社の阪神園芸の手によって行われている。内野は黒土、外野はフェンス際を除いて天然芝で、外野フェンス際とファウルグランウンドのうち内野スタンド(アルプスを含まず)沿いには人工芝が張られている。
土
内野グラウンドは独特の黒土である。鹿児島、岡山、鳥取、大分など日本国内の黒土と中国福建省の白砂をブレンドしている。季節の雨量や太陽光量などを考慮し、春は白砂を多く(黒土5.5:白砂4.5)、夏は黒土を多く入れる(黒土6:白砂4)などしてブレンド具合を変えている。内野で激しい動きを見せるボールの行方が、スタンドの観客にも見えやすくするための配慮である。
当初は淡路島の土が使われていた。土質には研究に研究を重ね、同じ頃に売り出した甲子園住宅地の売価が当時坪あたり40円であった[22] ところ、球場の土には坪あたり50円を費やしたという。
高校野球では出場選手がこの土を持ち帰ることが慣習になっている。
芝
外野グラウンドは、フェンス際を除いて、日本のプロ野球の本拠地としては稀少となった天然芝である。開場当初は外野も土のグラウンドであったが、1928年12月から1929年2月にかけて芝が張られた。
天然芝については、1982年からオーバーシードといわれる芝の二毛作方式を採用している。夏芝「ティフトン」と冬芝「ペレニアル・ライグラス」を用いることによって、一年中緑の芝生でプレーできるようになった。夏芝から冬芝への切り替えが9月下旬から10月上旬、冬芝から夏芝への切り替えが4月下旬から5月上旬である。2009年オフには同じ品種のものに張り替えられた。撤去したものは大阪府と兵庫県の公立校に譲渡されている。
外野が天然芝の球場ではフェンス際は芝の育成が難しいために、通常はウォーニングゾーンも兼ねて土となっているが、甲子園球場ではフェンス際まで芝が張られておりウォーニングゾーンは白線を引くことにより設けている。外野ファウルライン付近は2008年まで白線に沿って土のままであったが、阪神タイガース選手会からの要望により2009年より芝が植えられ、芝の上に直接白線が引かれている。内野部分の芝が一部はがされ土の部分が広がった[23]。
外野フェンス際の僅かな部分は天然芝ではなく、赤土であった。ただ、これまでは雨天時にはこの赤土が流れ出してしまうこともあり整備に手間がかかっていたことから、2018年シーズンよりフィールド内では初めて人工芝とする。
マウンド
ピッチャーマウンドのプレート後部には、放水用の蛇口がある。試合前に7 - 8人の整備員が一列に並んで内野全体に大型のホースで水を撒いており、高校野球のテレビ中継では試合前にこの姿がよく放映されている。この水は井戸水で、海から近いために若干の塩分を含んでおり飲用には適さない。かつて、近畿で真夏に異常渇水に見舞われた時、井戸水を使用していることを知らない人たちが「水の使いすぎ」と問題視したこともあった。
ベンチ
ベンチには、2列のプラスチック製長椅子、フェンス際の座席バーと計3列の座席が設置されている。前列ベンチ及びバーは露天となっているが、雨天時には巻き上げ式の屋根をせり出せる構造となっている。また、夏季の暑さ対策としてエアコンが装備されている。
1塁側・3塁側ともにベンチはグランウンドより下に掘り下げられているため、野手がファウルボールを追いかけてベンチに突っ込んでしまうと頭から落ちてしまう危険性がある。実際に、2008年3月の改修直後のお披露目で、当時の岡田監督などから転落の危険性と天井の低さなど数ヶ所の不備を指摘されたことで、急遽再工事で改修され、現在の姿となった[24]。
改修以前のベンチは3列であったが、2008年シーズンより2列に変更された。その後、ベンチ全体がグラウンドより低い位置にあるためサインが伝達しにくいとの改善の要望が現場から出たことから、2018年度開幕に合わせてMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島などでも採用されているメジャーリーグスタイルに改修。従来の2列ベンチに加え、前列ベンチとフェンスとの間に背もたれのない座席バーを設置した[25]。また、併せて、空調の増強も行われた[24]。
ベンチ裏は階段を下りると控室となっており、ここに大型の鏡が設置されているので控え選手は素振りでスイングのチェックなどができる。なお、これらは3塁側のみスタジアムツアーで見学が可能となっている。
フェンス
前述の通り、外野フェンスは独特の形状となっており、特にファウルポール際はクッションボールの処理が難しい。フェンスの構造はラバーと金網の組み合わせという一般的なものだが、ラバーは2004年から太陽工業製のメジャー風の厚いものとなっており、ラバーの最上部で打球が跳ねることも多い[26]。なおアルプススタンド部分のラバーは2009年より帝人ファイバー製[27] である。現在のラバーにする以前にもラバーの最上部で打球が跳ねることがあり、ラッキーゾーン撤去元年にはいわゆる「幻のホームラン」事件が起こり、ルールに新たな取り決めが加えられた。外野フェンスの高さは公表されていないが、沢柳政義は2.6m(ラバー部1.9m, 金網部0.7m)としているほか、3.0mとされることがある。
ブルペン
アルプススタンド1階内部は簡易室内練習場となっており、プロ野球では1999年からここにあるブルペンを使用している。投手交代時はリリーフ投手がここから移動して、アルプススタンドと外野スタンドの間にある通路からリリーフカーに乗ってマウンドに向かう。室内練習場になる前は、1塁側は体育館、3塁側は25mの温水プールであった。「3塁側の室内練習場は床が高くなっている」、「3塁側室内練習場の外にはマンホールが多数設けられている」など、元がプールであったことを彷彿とさせる部分が今も確認できる。
高校野球の試合時は、室内練習場は次の試合に出場するチームのウォーミングアップ場として使用するため、ファウルグラウンドに仮設ブルペンをバッテリー1組分設置する。2007年オフの改修以前はバッテリー2組分が常設されており、ラッキーゾーン撤去後暫く(1992年 - 1998年)はプロ野球でもこちらのブルペンを使用していた。2007年の改修以降はファウルグラウンドが狭くなったためにプロ野球開催時は撤去するようになったが、2013年からは再び常設となった[28]。しかしプロ野球開催時に使用されることなく2017年6月に再び撤去され、高校野球開催時のみに設置させることになった[29]。
1991年以前はラッキーゾーンにブルペンがあり、リリーフカーもここから出ていた。車両の採用は1960年代途中からであったが、自動車ではなくバイクであった。1970年代終盤から自動車やサイドカーとなったがラッキーゾーン撤去時に一旦廃止され、のち1999年にブルペンの変更に伴い復活した。リリーフカーは1999年の復活から2011年途中まではダイハツ工業製の電気自動車を使用。1塁側リリーフカーと3塁側リリーフカーの違いはカラーリングのみ。以前は3塁側リリーフカーの右側(すなわち、投手が座る助手席側)にカーテンが設けられていたが、2011年よりカーテンは外されている。この2011年のシーズンからメルセデス・ベンツの日本法人がスポンサーになり、カラーリングも変更[30] されたのに続き、9月13日からは3代目としてスマート・フォーツー(電気自動車仕様)を導入した。2016年より車両が4代目となる新型スマート・フォーツーに更新される。リリーフカーは内外野のスタンドの狭い隙間を通って出入りするため、スタンド内に戻る際はフェンス手前でターンしてバックで入庫している。
室内練習場
室内練習場は当初1978年に3塁側アルプススタンド下(現在のブルペン)に設けられたが手狭であったため、2004年に新たに甲子園水上競技場跡にあったテニスコートの一部を転用して室内練習場が造られた。総工費は約9億円で広さは3,600m2。1塁側と陸橋でつながれている。基本的にタイガースの選手用であるが、他球団の選手が使用することもある(タイガース遠征中にソフトバンクが間借りしたこともある)。また、2009年度第1回の12球団合同トライアウト会場としても使用された(当初は球場本体で一般公開として予定されていたが、当日は雨天のため室内練習場にて非公開で実施)。
ナイター設備
銀傘の上の2基と、照明塔4基で構成されている。この構成は1956年の新設時のままであるが、形状とランプの位置は異なる。銀傘の上のものは新設時のものより細長くなっている。
2008年の外野席改修工事実施までの照明塔はスタンドに直接設けられていた。1つの照明灯につき2本の柱が観客席内に建てられていたため、柱の直後の観客席からは大幅に視野が狭められていた。2009年からスタンド外の2本とスタンド最上段の2本の鉄柱で支える方式となり、外野の2本には大型看板が設置されるようになった。
蔦・外壁
完成当時の球場外壁はコンクリートのままであり、1924年12月に安価で見た目を向上させる策として外壁を覆う蔦が植栽された。正面の7号門と8号門の周りには日当たりの悪いところでも生育しやすいウコギ科の蔦を、その他の部分は冬に葉を落とすブドウ科の蔦を採用し、阪神園芸の手で管理されていた。かつては約430株ほどが植えられ、葉の総面積はおよそ畳8,000畳分あると言われた。
この蔦はリニューアル工事に伴いいったん取り払われ、外壁をレンガで覆った後に再び植えられている。蔦を取り払った後でレンガ張りにするまでは代わりに蔦をイメージした緑のパネルで外壁が覆われていた。蔦は、2000年に高校野球20世紀メモリアル事業の一環として全国の高校野球連盟加盟校4,170校に配布され、現在も育てられている[31]。そのうち生育状態の良い苗が233校から集められ、2008年6月14日、「ツタの里帰り」として甲子園球場に植えられ始めた[32]。この233校の名前を刻んだ銘板がレフトスタンド照明塔支柱の根元にある。約10年がかりで蔦に覆われた外壁に戻る予定。ただし球場正面はガラス張りに変更されている。
加盟校に植栽された「甲子園球場の蔦」(兵庫県立尼崎西高等学校)
3年目の蔦(画像の部分は植栽後1年程度)
8年目の蔦(2015年6月10日)
スコアボード・バックスクリーン
時計型が特徴のスコアボードは、現在の球場のシンボルマークにもなっている。現在の物は3代目[33]。
歴史
開設当時の甲子園球場のスコアボードは得点掲示のみをする仮設の板であった。これは1924年の夏の高校野球の開催に間に合わせるために球場を建設したため、常設のものが間に合わなかったためである。1925年に選手名も表示するスコアボードが正式に開設された。この当時から球場独特の明朝体の選手・チーム名表記がなされていた。位置は両方とも現在のセンター後方ではなくややライト寄りに位置していた。この頃にはまだバックスクリーンの概念がなく、センター後方も全て座席となっていた。
しかし、当時のスコアボードは最大で十六回[注 13] までしか書き記すことができなかった。1926年の夏の大会・静岡中学 - 前橋中学の試合は延長十九回まで続き、常設のスコアボードにやぐらで仮設のスコアボードを急ごしらえして凌いだ。その後1933年準決勝の明石中学 - 中京商業の試合は延長二十五回まで0-0の同点という試合となり、その仮設のやぐらに0のパネルが並び続けたため見づらいということから、1934年にスコアボードをセンター後方に造りなおすことになった。1936年には外野スタンドの改築と同時にバックスクリーンが設置されている。
2代目のスコアボードは1934年から1983年までの延べ半世紀にわたって使用された。スコアボード左側に選手名表記、真ん中に時計とボールカウント(ただしストライクも赤色ランプ)、審判団、右にスコア(当初は上段に九回まで、延長十回以後は下段[注 14] に記した)を表記するものだった。外野スタンドは改築前でそのスタンドに合わせて建設したため、高さは現在の3代目スコアボードの半分程度(スコア表示部分と三菱電機の広告がある緑色の部分の境目あたり)であり位置もホーム寄りだったため、外野スタンドの改築後は見えにくくなっていた。
当初は阪神電鉄の車両部のスタッフが遠隔操作でスコアやボールカウントを操作していたが、ナイター設備が1956年に完成すると、機械部分を雨からカバーする目的で使われていたガラスが反射して見づらいことから、ガラスを外して手動に改修。1958年にはスコア表示を十二回[注 15] までとし、下段はその日の試合結果(プロ野球の場合は他球場の経過)を表すものに変更された。2代目スコアボードの選手名、高校野球のチーム名は、全て球場係員の手による白ペンキを用いた手書きであった。選手名は全て明朝体に近い独特の書体で書かれており、明朝体よりもやや横幅が広いので字全体がひしゃげた感じであった。電光掲示が少なかった当時においても、明朝体で選手名を表示する球場は少なかった。ただし基本的には2文字分記入するのが精一杯のサイズだったために、3文字はまだしも4文字以上の選手名の表示や記入作業は難しく、チーム名も広島商業が「広商」となるなど、基本的には2文字分の大きさだった。書体ともども、職人芸といえる高度な技術が必要であった。さらに作業はスコアボードの裏側で行われたため、夏期は屋外以上の熱気がこもり、肉体的にも消耗度の高い大変な作業であった。プロ野球の選手(特に阪神タイガースの選手)のものは消えないように処理されたものが使われていたが、それ以外のものはすぐに消せるものが使われた。プロ選手のボードは金属製であったが、高校野球用はベニヤ板だった、との証言もある。高校野球においてプロ選手と同じ苗字の選手がいた場合は、プロ選手用のボードを使いまわすこともあった。高校野球の雨中の試合においては手書きの部分のペンキが雨で流され、時間の経過とともに読みとれなくなることが多かった。この状態はよく「(スコアボードが)涙を流す」とか「洟(はな)を垂れる」などと表現されていた。これらの特徴もまた甲子園球場の独特の雰囲気を演出していたため、2代目のスコアボードへ強い思い入れを持つオールドファンは多い。
1979年にはバックスクリーン部分に2面広告装置「トライビジョン」が設置された。ホームランが出た際にはこのトライビジョンの周囲の電飾が発光するようになっている。
その後、球場開設60年を機にスコアボードの近代化を実施することになり、1984年に2代目をモチーフにした電光掲示板を設置した。高さと位置は外野スタンドに合わせたもので、表示部分より下側はバックスクリーンとなっている。トライビジョンはそのまま残したためバックスクリーンが前後2つになる形となった。発光素子は白色電光を用いて日本初の白黒ボードとし、2代目の雰囲気を残した。イニング表示は漢数字のままで、イニング単位のスコア表示は十回までに省略されたが、新たに合計得点(計)・ヒット数(H)・エラー数(E)も表示できるようにした。延長戦で十一回以上となった場合は、一回 - 十回のスコアを全て消去した上で十一回の得点を一回のところに、それ以降の回はイニング数の下1桁と同じ漢数字のところに表示していた。スコア部分はチーム名や各イニング得点などの部分ごとに分割されていた。スコアの下には白黒の大型フリーボートがあり、プロ野球の試合中では打席に立った打者の打率(AV)とホームラン数(HR)が表示され、阪神が勝利した試合ではヒーローインタビュー後の「六甲おろし」合唱時に白黒アニメーションが表示されていた。バックネット裏のサブスコアボードも同時に電光表示化され、本体と同じスコア表示とボールカウンター、プレーの記録(ヒット、エラー、野選)の表示ができるものとなった。1992年からは球速表示もされるようになった。
1993年から右半分は三菱電機のブラウン管方式オーロラビジョンを採用してスコア部分も含めた全面フリーボードとなり、カラー化された。「六甲おろし」合唱時のアニメーションがカラー化されたほか、動画が取り込めるようになったため、試合中のリプレイ放映や、攻守交替時にコマーシャルが放映されるようになった。電光化されたイニング表示もそれまでと同じもの(一 - 十計HE[注 16])が踏襲されており、更新されなかったサブスコアボードに合わせている。十一回からは十回までのスコアを消去した上で十一回からのスコアが入力され、十一回以降のイニングの漢数字は1文字分のところに2文字(十と一から五)が縦書きで表示される。スコアのイニング表示は大会の規定イニング(春の選抜大会と夏の全国大会の高校野球は十五回、プロ野球は十二回、プロ野球の日本選手権シリーズは十五回)までとなる。プロ野球時の打者の打率とホームラン数も以前とほぼ同じ位置に表示されている。また、広告も変更されている。さらに2009年からは、ライナービジョンにも打率とホームラン数が表示されている。
1997年には左側の選手名部分を、ある程度の多色表示が可能で明るい新型の三原色によるカラーブラウン管に更新した。それまでは攻撃中チームを横長の赤いラインで表示し、打席に立つ打者は中央にある赤いランプを点灯させて表示していたが、それらは廃止して、現在でも踏襲されている、チームイニシャル(またはチーム名)の上下いずれかと打席に立つ打者の部分のみ細い赤いラインで表示するようになった。同時にチーム名表示部分も拡張された。2003年9月15日、阪神のサヨナラ勝ちでリーグ優勝へのマジックナンバーを1としたデーゲーム終了後、マジック対象チームであるヤクルトスワローズの試合(対横浜ベイスターズ)がオーロラビジョンで中継された際には、ビジターチームのチーム名が表示される部分に2チームのチーム名(SとYB)が上下2段で、選手名が表示される部分の一番打者から九番打者のところに横浜・ヤクルト戦の1回から9回までのスコアが、また10番目(DH制のときに投手名が表示される)のところに合計得点(計)が表示され、ホームチームの選手名が表示される部分の一番上の段には於・横浜スタジアムと表示された。このときイニングの数字と計の文字は緑色で表示された。また、球場には電車で来るように呼びかけている「ノーマイカー甲子園」の表示も左側、選手名の欄で表示されることがあるが、この時は赤色や黄色が表示された。
2005年からオーロラビジョンがブラウン管からLEDに変更され、よりクリアな映像が楽しめるようになった。スコア部分の文字も、大きさはブラウン管の時と同じながら1文字あたりドット数が16×16から24×24に増え、オーロラビジョンは491,520個のLEDによって構成された。
なお、2代目以降、大時計下にはSEIKO、3代目の途中2001年頃からCITIZENの広告が入る。2002年から2008年までは右側オーロラビジョン下部にトヨタ自動車、2010年の途中からLED掲示方式で三井住友銀行の広告が入っている。
2009年からは銀傘の更新とともにサブスコアボードが更新され、スコア表示部がメインスコアボード同様のフリーボードに変更された。メイン・サブ共にレイアウトが自由になったのを機に、高校野球時はイニングスコアの十回の部分をなくして一回から九回までの表示とし、チーム名の部分をそれまでの3文字表記から4文字表記できるようにした。なお延長時には十回から新規に表示しなおしている(プロ野球時のイニングスコアは従来通り一回から十回まで)。
サブスコアボードの両サイドに2009年はきんでんと奥村組が、2010年は奥村組とビルボード大阪が広告を出している。
メインスコアボード、サブスコアボードは2010年オフに改修が行われた[34]。メインスコアボードは、左側の選手名部分を動画も表示できるLEDフリーボードにし、ほっともっとフィールド神戸に次いで日本2つめの2面式ビジョン[注 17] になる。中央下部のプレーの記録(ヒット、エラー、野選)表示と審判名表示が統合されLED化し、試合経過時間・守備交代経過時間もここに表示できるようになった。また、サブスコアボードと共にアウトカウント表示もSBOから国際基準のBSOに変更された。投球数も表示されるようになった。従来からあった右側のビジョンも更新が行われ、解像度・動画表示性能が向上している。通常は時計下にあるBSOランプを利用するが、メインスコアボードにBSOを出すことも可能。
2011年には、メインスコアボードを立体商標として特許庁に出願し、認められている[35]。
今後、2018年シーズンオフから2019年春にかけて、スコアボードを1面の大型ビジョンとするなどの改修が計画されている[36][37]。
試合開始前にはサブスコアボードのファウルボールに注意の画面とアナウンスは阪神主催試合と高校野球で共通使用している。試合中のファウルボールのアナウンスは阪神主催試合はサブスコアボードに注意画面でアナウンスは自動放送されるが、高校野球はサブスコアボードの下半分に注意画面でアナウンスはウグイス嬢が行っている。
表記
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電光板左側の選手名および高校野球時のチーム名表記は、手書き時代と同じように明朝体の字体を忠実に再現している。選手名部分は漢字で3文字分が表示できるようになっており、同一チーム内に同姓の選手がいる場合に表示する下の名前の1文字は一回り小さい文字が右下に寄せて表示される(姓が1文字の場合は、姓の漢字が標準より少し下に表記される)。ただし、俊介や大和のように下の名前のみで登録されている選手や、韓国または台湾出身で3文字(フルネーム)で表示される選手の場合は全て他の漢字と同じ大きさの文字になる。また、一行ではカタカナ・ローマ字(縦書きで表示)でも最高6文字までしか表示できないため、外国人選手などで選手名が7文字を超える場合は後述のように文字を小さくして枠内に二行で表示するなどの方法をとっている。また、韓国や台湾出身の選手では1文字(姓のみ)で表示する場合と3文字(フルネーム)で表示する場合があるが、これはそれぞれの所属チームでの表記に合わせている。
- 1990年 - ディステファーノ(中日ドラゴンズ)は「ディステ(改行、右へ二文字下げて)ファーノ」と表示された(第1号)。
- 1997年 - グリーンウェル(阪神)は「グリーン(改行、右へ三文字下げて)ウェル」と表示された。
- 2001年 - シュールストロム(広島東洋カープ)は「シュール(改行、右へ二文字下げて)ストロム」と表示された。
- 2006年 - フェルナンデス(楽天、「フェル(改行、右へ二文字下げて)ナンデス」)とオクスプリング(阪神、「オク(改行、右へ一文字下げて)スプリング」)の2名が改行されて表示された。
- 2007年 - 前年同様にフェルナンデス(楽天)とフェルナンデス(広島、ともに「フェル(改行、右へ二文字下げて)ナンデス」)と、グライシンガー(ヤクルト、「グライ(改行、右へ二文字下げて)シンガー」)の二名が改行されて表示された。また、ローマ字表記の登録名となったTSUYOSHI(千葉ロッテマリーンズ)は、綴りを「TUYOSI」に変更して一行で表示された。
- 2008年 - フェルナンデス(楽天)、グライシンガー(巨人に移籍)に加え、コズロースキー(広島、「コズロー(改行、右へ三文字下げて)スキー」)が分けて表示された。
- 2009年 - フェルナンデス(オリックスに移籍)、グライシンガーに加え、ファルケンボーグ(福岡ソフトバンクホークス、「ファルケン(改行、右へ三文字下げて)ボーグ」)が分けて表示された。またバーナム・ジュニア(ロッテ)は、ジュニアを一文字分でJr.と表示したため改行はされていない。
- 2010年 - スタンリッジ(阪神)が「スタン(改行、右へ一文字下げて)リッジ」と表示された。これは、「ッ」と「ジ」の濁点が干渉し一行で表示しづらくなるためこの表示になった。また、メッセンジャー(阪神)は7文字だが「ッ」と「ャ」の表示を工夫して一行で表示している。
- 2011年 - MICHEAL(巨人)をカタカナでマイケルと表記した。カルロス・ロサ(ロッテ)は「カルロス・(改行、右へ四文字下げて)ロサ」と表記。
普段は使用する機会が少ないが、DH制に備えて選手名は10人分確保されており、9番打者の右横が投手枠となる。また、試合開始30分前の先発バッテリー発表時には9番目の枠に投手、10番目の枠に捕手の名前を表示したが2011年からは右側に両方(投手・捕手)表示するようになったため左側に捕手・投手名は書かなくなった。
2017年5月5日から7日の対広島戦では、ゴールデンウィークの特別企画「ゴールデンウィークこどもまつり」の一環として、子供連れのファンにも選手を覚えてもらう目的で、日本人選手に限り表示を平仮名にする試みを行った(ただし、外国人選手については通常と同じく片仮名表記であった。また、審判員も日本人選手同様に平仮名表記とした)[38][39][40][41]。また、翌年の2018年のゴールデンウィークにも同様の表記を行なっている
左側がフリーボード化されてから、選手名表示にアニメーションが加えられている。
スターティングメンバー発表 - 場内アナウンス「○番、(守備位置)、(選手名)」で、守備位置読み上げ時にそれを表す数字・記号が表示され、選手名読み上げ時はプロ野球では選手名が中央に大きく表示された後吸い込まれるように所定の位置に納まり、高校野球では選手名が所定の位置でパネル式のように横回転しながら表示される。なお審判員表示はアニメーションなし。- 選手交代時 - 交代及び代打・代走からそのまま守備につく選手名とポジションが反転し横回転すると、新たな出場選手名とポジションが反転表示され、通常表示と反転表示の点滅を経て通常表示となる。フリーボード化以前は新たな出場選手名とポジションの反転表示と通常表示の点滅のみ。
審判員の名前は球審と塁審の4人制のみの対応のため、高校野球時のナイターやプロ野球のオールスター・日本シリーズ開催時の外審(線審)は名前が表示されない。プロ野球開催時で外審がいる場合、試合開始前にスコアボード右側のカラースクリーン部分に並列する形で表示して紹介する。2010年までは審判の名前の上には「UMPIRE」と表記されていたが、2011年以降は「UMPIRES」とLEDによる複数形の表記に変更されている(写真を参照)。球審の表記は、2010年まではプロ野球12球団の本拠地の中では当球場が唯一「Chief umpire(チーフ・アンパイア)」の略であるCHを用いていた(過去では中日球場や平和台野球場が球審をCHと表記)が、スコアボード改修後は他球場と同じく「Plate umpire(プレート・アンパイア)」の略であるPLに変更されLED化された。また塁審の表記は、一塁→IB・二塁→IIB・三塁→IIIBのように、ローマ数字とBの組み合わせとなっており、これも改修の際にLED化された。
ヒット、エラー等の判定は審判の名前の上にある横3文字分の枠の中に、ヒットの場合はH、エラーの場合はEとエラーをしたポジションの数字(白色)が表示される。1ヒット1エラーの場合はHE7のように表示される。また1つのプレーで2人がエラーをした場合にはE53(この場合はサードとファースト)と表示される。フィルダースチョイスの場合はFcと表示される。
2011年の改修以降は担当審判と時計カウンターを表示する部分と一体化されている[注 18]。
スコアボードのチーム名(得点側)は電光化されてから漢字3文字(詰めても3.5文字)までしか表示できなかったため、高校野球時には智弁和歌山→和智弁、駒大苫小牧→駒大苫などのように工夫して表示してきた。この表示方法は、NHKやABCテレビの高校野球中継でも用いられることが多かった。また、1991年夏の大会では同名の高校を区別するため、詰めれば3.5文字入ることを利用して、智弁和歌山→和・智弁、智弁学園(奈良)→奈・智弁、大阪桐蔭→大・桐蔭、桐蔭学園(神奈川)→神・桐蔭と中点(0.5文字分)付きで表記された。このうち智弁和歌山のみ1997年まで中点付きの表記が継続された。ただし、秋田経法大付(現・明桜)→経法大付(2002年選抜)、日高中津分校→日高中津(1997年選抜)と4文字で表示された例がある(いずれもLED化前)。また校名表記は原則として新字体を用いる(「智辯」→「智弁」、「○○大附」→「○○大付」等)が、2014年春の白鷗大足利は新字体の「鴎」ではなく正式な表記の「鷗」(「鴎」の「メ」の部分が「品」)が用いられた。
2009年の選抜大会からはバックネット上のスコアボード改修を機に高校野球時に限り、イニングスコアの十回部分をなくし一回から九回までを1イニング分ずらして表示することでチーム名が漢字4文字まで表示できるようになった。2014年選手権では日大鶴ヶ丘が5文字で表記されている。ただし早稲田佐賀→早 佐 賀(2017年選手権)のような省略を余儀なくされる場合や、早稲田実→早 実(2009年選抜。2010年選手権では早稲田実)、新潟明訓→明 訓(2010年選手権。2012年選手権では新潟明訓)、鹿児島実→鹿 実(2011年選抜。2015年選手権では鹿児島実)、智弁和歌山→和 智 弁(兄弟校の智弁学園と区別をつけやすいようにという事情がある)などの伝統校の中には表記を変えないように要請したり、県岐阜商のように得点側の表記変更と同時に選手名側の表記も変更(県 立(改行)岐阜商→県岐阜(改行)商)した学校もあった。
なお右半分のフリーボード化以前は、下部の試合結果表示部分で表示が2試合分までの場合はチーム名が6文字まで表示されていた。この際のチーム名は他の部分で使われている明朝体ではなくゴシック体で表記されており、1990年選手権大会の済々黌はゴシック体の「黌」が表示できず、やむなくひらがなを使用し済々こうと表記された。表示が3試合分の場合は通常通り明朝体での3文字表記となっている。
選手名側のチーム名は、通常4文字以上の場合は上下2段に表記し上下段ともに最高3文字ずつ(最高6文字)であるが、表示部分が拡張された1997年以降は市和歌山商(現・市和歌山)→市 立(改行)和歌山商(2005年選抜ほか)→市和歌山(2014年選手権ほか)、県和歌山商(現呼称・和歌山商)→県 立(改行)和歌山商(2007年選抜)や九州国際大付→九 州(改行)国際大付(2009年選手権ほか)、日本航空石川→日本航空(改行)石 川(同)、自由ケ丘(2010年選抜ほか)、二松学舍大付→二 松(改行)学舎大付(2014年選手権ほか)、東海大熊本星翔→東海大(改行)熊本星翔(2018年選手権)など、3文字以内ずつに分けにくい場合は1段が4文字で表示されることもある。枠内には余裕があるため、2005年選抜大会では4文字の部分は枠をフルに使用し通常と同じ大きさで表示されたが、2006年以降は中央の3文字分×2段の部分に通常より小さい文字で表示されている。1996年以前はこのような場合でも4文字で表示されることはなく、秋田経法大付は1990年の選抜大会などで秋 田(改行)経法大と表示されていた。2011年選手権大会の東京都市大塩尻は4文字以内に分割することが不可能であったため、都市大(改行)塩 尻と略称で表記された。
プロ野球の試合ではどちら側のチーム名も漢字ではなくアルファベットの略称(阪神タイガース→T、読売ジャイアンツ→G、横浜DeNAベイスターズ→DB、オリックス・バファローズ→Bsなど)で表示される。
高校野球ではボーク、守備妨害など観客からは分かりにくいプレー・判定に対し、場内に説明がされないので「表示してほしい」と要望があったことから、このようなケースの際には2001年よりスコア表示の下に判定を表示するようになっている[42]。
また、現在のバッターが誰かを表示するランプは2代目スコアボードのときから上段のビジターの選手名と下段のホームの選手名の中間に9個の赤いランプがつけられていた。3代目スコアボードにも9個の赤いランプ(選手名の表示は10人分あるが、DH制の場合ピッチャーは打席に入らないため)が踏襲されていた。1997年からは、ランプとそれまで選手名とポジションの間で攻撃中のチームを表示していた赤いライン(一番から九番まで、DH制の場合はピッチャーのところまでが1本につながっていた)を廃止し、選手名ごとに区切った短い赤いラインで表示するようになった。
他の球場の多くが代打のポジションを「H」・「PH」、代走のポジションを「R」・「PR」としているのに対し、甲子園球場では代打は「打」、代走は「走」と漢字表記しているのも特徴である。ただし、オープン戦などDH制で行う場合の指名打者は「DH」、投手は「P」[注 19] と表記される。
高校野球のアナウンスで工業、商業、学園、学院、実業が付く学校名は対戦校と校歌斉唱のみ「○○工業高校」「○○商業高校」「○○学園高校」「○○学院高校」「○○実業高校」と言う。それ以外は「○○工業」「○○商業」「○○学園」「○○学院」「○○実業」と言う。またスターティングメンバー発表時や初打席の時には背番号を言わない代わりにポジションと選手名(「君」付け)を再度言う、審判紹介時の締めの言葉が「以上でございます。」ではなく「以上、4氏でございます。」といった、プロ野球との言い回しの違いもある。
甲子園ライナービジョン
2008年オフの銀傘改修の際に設置された三菱電機製リボン状LEDボード(オーロラリボン)である。サイズは縦1.2m×横249.6m。アメリカでは広く採用されているもので、日本初として2006年に採用が発表されたが、設置はクリネックススタジアム宮城(2007年に日本初設置)・千葉マリンスタジアム(2008年設置)に先行されている。プロ野球の試合ではタイガースの応援や選手紹介の映像動画、CM、打席に立った選手のシーズン通算成績と当日の打撃記録、デジタル数字表示によるボールカウント[注 20]、他球場速報(オーロラビジョンの映像と連携した映像が流されることもある)などを、高校野球でもその日の試合結果を表示する。
また、NTTドコモ提供で「ドコモオーエン甲子園」をファンからメッセージを募り、試合前、イニングのインターバルを利用して応援メッセージが流されている。当初、プロ野球公式戦の阪神主催試合のみだったが、2012年の夏の高校野球でも応援メッセージが流された。
2011年の楽天イーグルス主催試合では「がんばろう東北」(ワインレッド地白文字)と楽天イーグルスロゴ、または同チーム協賛スポンサーの企業の広告を表示。
タイガース主催試合では、3回裏に「3」にちなんで三菱電機の広告が表示される。初期は水色(かつての三菱電機のコーポレートカラー)のバックに「三菱電機 オーロラビジョン」「三菱電機 オーロラリボン」「MITSUBISHI」が表示されていたが、2014年シーズンより「(スリーダイヤ)MITSUBISHI ELECTRIC」が表示される。
広告
ラッキーゾーンが設置されたごく初期のころ(1950年代初め)、ラッキーゾーンに直接広告看板を貼り付けていたことがあったが、1950年代後半ごろからフェンスに貼り付ける形になった。
甲子園球場ではフェンス、スタンド、ベンチに広告看板を掲出しているが、高校野球の全国大会期間中は日本高校野球連盟との取り決めで、ベンチ・バックネットのものについては広告をラバー製のシートで隠している。高校野球の兵庫県大会、あるいは1998年に開かれた「AAAアジア野球選手権大会」(アジアの高校生年代の野球大会)の時は広告フェンスを隠さず、通常と同様の状態で試合を行っている。
外野フェンスに関しては、選抜高等学校野球大会時のみ、歴代優勝校の校章と校名、優勝回が書かれた白い校板を掲示していた。この校板は1932年の第7回大会から掲示されていたが、1984年の第56回大会2日目第1試合に行われた佐賀商対高島の試合において、外野でワンバウンドしてラッキーゾーンに入る、本来ならばエンタイトルツーベースとすべき当たりを審判が間違えてホームランと判定してしまう事件が起きたことから、その翌日から伝統の校板は撤去された。これは校板が白くて大きいためにボールが見えにくかったためである。
フェンス部分は1983年夏の大会まで内外野全て脱着式[注 21] だったが、1984年に内野部分にラバーが貼られるようになってからは内野部分の広告はそのまま露出し、外野部分とバックネット付近の広告を隠す(ラッキーゾーンの付近にある広告は取り外し式)ようになった。左中間・右中間にある大会名表示は春の大会は1985年・第57回以後、白パネルから緑地白文字のシートで広告を隠す方式に変更。夏の大会は元々から緑地白文字で、1985年の第67回大会までは1文字ずつ(大会の回数については2桁の数字を1枚にまとめた)切り離したパネル式のものだったが、1986年の第68回大会以後は春の大会同様シートをかける形になった。
1992年にラッキーゾーンが外され外野にラバーが貼られた際には大会名の入ったグリーンのシートで広告を隠すようになった。
- (例)通常主催者のクレジットは左中間、大会名は右中間のフェンス部分に表示された
- 春の大会 主催 日本高等学校野球連盟・毎日新聞社 第○回選抜高等学校野球大会
- 夏の大会 主催 日本高等学校野球連盟・朝日新聞社 第○回全国高等学校野球選手権大会
1995年選抜大会には阪神・淡路大震災の復興を祈念する文言が右中間側に、復旧作業のお礼を示す文言が左中間側に、また2008年の第80回大会記念には大会歌「今ありて」の歌詞の一部「今ありて未来も扉を開く」が右中間側にそれぞれ掲示された。
2010年からは外野フェンスの広告をそのまま出すことになり、大会名はバックネット付近のフェンスに掲示することになった。これは、外野フェンスの広告を提供する14の企業・団体[注 22] が外野席下に新設された「甲子園歴史館」の協賛社となったため、この協賛社から歴史館の運営費用を捻出するためと、歴史館に高校野球に関する資料を大量に展示したためである。このため、高校野球大会を主催・後援する高野連、朝日・毎日の両新聞社と協議したうえで、高校野球期間中もフェンス広告を隠さないことになった[43][44]。
本塁後方のフェンス広告(2か所)は1980年代前半から2004年まではカネボウが、2005年から2016年までは江崎グリコおよびグリコ乳業が、2017年からはサンスターおよびアットホームが広告を出している。2005年から幕巻き取り式による電動で複数の広告パターンを交代で出せるようになり、2013年オープン戦からはそれまでの緑地白文字のモノクロ広告からカラー広告が中心となった。試合前の打撃練習中の際「阪神甲子園球場」の幕が出ている時がある。オールスターゲームや日本シリーズの時のみ協賛企業(オールスター開催時は三洋電機 → ガリバーインターナショナル → マツダ → マイナビ。日本シリーズ開催時はコナミ → 三井住友銀行)の広告となる。なお、高校野球の時は2005年までは広告部分は緑のシートで覆って隠され、電動表示幕変更後は広告のない緑一色の表示を出していたが2010年選抜大会から大会名表示を行なうようになった。大会名はバックネット左側(1塁側寄り)、主催団体表示は同右側(3塁側寄り)のそれぞれ回転広告看板に表示される(特にテレビ中継では左側=1塁側の大会名表示の箇所が頻繁に映されている)。なお、バックネット裏(電動表示幕横)とベンチ側の広告は従来どおりシートで隠してある。
セ・パ交流戦開催期間中のみ、本塁後方のフェンス広告の横に「日本生命 セ・パ交流戦」の広告文字が追加される。2008年は交流戦終了後も本塁向かって左側のフェンス広告横のみ「セ・パ交流戦」だけを削除した「日本生命」が掲出され、2009年も開幕時からそのまま継続して掲出された。日本生命の広告は2014年公式戦まで続き、同年の日本シリーズは「SMBC日本シリーズ2014」、2015年シーズンからは「JTEKT」に変更されている。
また、外野入場口のうち、グラウンド最前列にあるコカ・コーラウェスト提供の看板は、普段コカ・コーラやジョージアのものであるが、夏の高校野球期間中はアクエリアスに差し替えてある。
2011年は東日本大震災被災地への復興支援として、高校野球(春・夏とも)では「がんばろう!!日本」(大会特別スローガン。!!の箇所は野球のバットとボールをデザイン)を、プロ野球では「みんなに笑顔を届けたい。」(グリコ協賛広告)をそれぞれ随時表示している。また、同4月のパ・リーグ公式戦・楽天対オリックスでは「がんばろう(イーグルス球団ロゴ)東北」の広告を掲げている。2012年の楽天主催試合では「edyは6月1日楽天edyに」という広告が掲示された。日本生命の広告はシートで隠してあった。2013年は江崎グリコの広告に色が付き更に同社が主催するキャッチフレーズ大賞でグリコの商品のキャッチフレーズが載る事になった。
スコアボード下の壁面のうちバックスクリーンに該当しない部分には三菱電機が広告を出している。2018年現在は「MITSUBISHI ELECTRIC オーロラビジョン」。その部分はプロ野球時の試合開始前、攻守交代時、本塁打時、試合終了後に点灯する。過去には「三菱ビデオ ファンタス」 → 「モバイルは三菱電機」 → 「携帯は三菱電機」 → 「霧ヶ峰ムーブアイ」などと出していた。
トライビジョン(バックスクリーン下側部分)の広告は、1979年から2004年まではカネボウ、2005年から2016年まではグリコグループ、2017年からは山九が広告を出している。1979年から1996年まではトライビジョン(2面広告+緑一色)という名称で、1997年から2010年までペンタビジョン(4面広告+緑一色)の名称であったが、2011年3月バックスクリーンが改修され再びトライビジョンの名称になっている。大きさは高さ3,450mm×長さ14,392mmで[45]、「おいしさと健康glico」とホームラン用の「ポッキー」の2面広告で電動により2種類のパターン(そのうち1種類はプレー中に使用する緑一色のパターンなので、広告として使用できるのは1種類)を掲示することができる。本塁打時には周囲の電飾が点滅するとともに「ホームランおめでとう!」のパターンが掲示される。2010年のペンタビジョンの時は「おいしさと健康glico」「ビールにCratz=クラッツ」「Posca」(ホームラン用のみポッキー)の広告が入っていた。高校野球期間中と阪神球団以外の主催試合では一切使用しない。2011年からホームラン時に電球が光る部分をLEDに替えている。以前は表示中の故障により緑一色に戻らなかった時のために、上部に巻き上げ式スクリーンが収納されていた。1999年頃に、阪神戦で1度故障により使われた。また2011年7月8日に行われた、ウエスタン・リーグの阪神対ソフトバンク戦で、5回表ソフトバンク柳田悠岐のホームランの時に「ホームランおめでとう!」の「ホームラン」までしか表示せず、また緑に戻らなくなり、試合を中断して球場職員が手動で緑に戻す作業を行った。
スタンド最上段には縦約2m×横約15mの看板が全面に設置されていた。リニューアル工事に伴い内野スタンド部分のものがロイヤルスイート上部壁面へ移設され、外野照明塔設備の両サイドがそれまでのものから、縦に大きい照明内蔵式看板になっている。またこれとは別に、銀傘先端直下に横断幕形式の広告(銀傘から吊り下げる形で掲出されており、札幌ドームとほぼ同じ)が採用されている。
歴史館
1985年に、ライトスタンド1階部分の一角(22号門の跡)に「阪神タイガース史料館」が作られた。ここでは選手の記念品やチャンピオンフラッグなどが展示され、スタンド内部へは直接の通行不可ながら試合開催時などに無料開放されていた。その後外野スタンドの改修工事に伴う準備により、2008年の夏に展示物は一旦撤去され、夏の高校野球の期間中に高校野球の記念品の展示を行った後、閉鎖された。その後2010年3月14日に、レフトスタンドの1階(17号門の跡)とレフト・ライトスタンドの2階部分で新たに「甲子園歴史館」として、高校野球や甲子園ボウルに関するものも展示に加えて新規に有料施設としてオープンしている。
野球塔
甲子園球場のスタンド外には、高校野球を記念して建立されたモニュメント「野球塔」が存在する。
初代
1934年、夏の甲子園20回大会を記念して、大阪朝日新聞社が建設。球場北東の松林(現在の甲子園警察署付近)に高さ30mの塔のほか、20本の柱廊、直径35m・8段・2,500名収容の階段型観覧席を備え、柱には第1回大会から第20回までの優勝校・選手名が1枚ずつ銅製の銘板に刻まれていた。しかし存在していた期間は短く、塔は近くに新設された鳴尾飛行場への離着陸の邪魔になると太平洋戦争中に撤去、銘板は軍に供出され、残りの列柱も空襲で崩壊、跡地も戦後に道路(現在の国道43号)の拡張時に区画整理され無くなった。現在は鋳潰されなかった銘板がいくつか残されており、そのうち第2回・慶應義塾普通部のものが野球体育博物館に、第20回・呉港中のものが甲子園歴史館に展示されている。
2代
正式名称は「選抜高校野球塔」。1958年、春のセンバツ30回大会を記念して、毎日新聞社が建設。球場西側の敷地に高さ4.5mのモニュメントを建設し、台座には第1回大会からの優勝校が刻まれた。リニューアル工事に伴い、2006年に撤去。
3代
2010年のリニューアル第3期工事の完工にあわせて高野連・朝日新聞社・毎日新聞社の3団体により建設された。場所はレフトスタンド後方(「甲子園歴史館」の入口ゲート前にあたる)で塔の高さは15m。20本の列柱の一部には、春・夏それぞれの優勝校名が刻印された銘板が取り付けられている。
ミズノスクエア
2010年に一塁側場外へ整備されたイベント広場はミズノがネーミングライツを取得しており、ミズノスクエアと名づけられている。契約期間は5年間。リニューアル前まで球場正面に設置されていた「野球王ベーブ・ルースの碑」のレリーフ(1949年松岡阜制作[46])が移設されているほか、金本知憲連続全イニング出場世界記録記念碑、ミズノのグラブ、バット、スパイク・ボールの歴史について学べるパネルが設置されている。
ギャラリー
球場へのアプローチの夜景(2010年3月21日撮影)
球場入口回りの夜景(2010年3月21日撮影)
球場の夜景(2010年3月21日撮影)
球場の夜景(2010年3月21日撮影)
野球王ベーブ・ルースの碑
浜風
野球の開催シーズン(特に夏季の晴天時)はライトからホーム方向へ海風が吹くことが多く、球場の特徴の一つとなっており、「浜風」と呼ばれている[47]。ただし海風でありながら昼間から強く吹くこともある。浜風が強い日は風が舞っていて、スタンドの高さより上空に打球が上がった際には打球が強く風の影響を受け、野手を悩ませる球場である。特にライトへ打球を飛ばす左打者にとっては不利な球場であり、また右打者にとっても完全な追い風になることは少なく、メリットの少なさから、この浜風で本塁打を損している選手は非常に多い。夏の高校野球の際にはライトからレフト方向に吹くことが多く、左方向の打球がよく伸びる。
この浜風の特性を逆手に取って、左打者であった掛布雅之やランディ・バースらは、芸術的と評される流し打ちでレフト方向への本塁打を量産した。
アルプススタンドと外野スタンドの“隙間”は風の抜け道となっており、浜風が舞っている日でも右翼ポール際への打球はよく伸びる。赤星憲広(左打者)が2005年に放った唯一の本塁打(現役中に放った3本のうち、これが最後のものとなった)は、その右翼ポール際に放ったもの。
“奇跡のバックホーム”のように、この浜風が試合結果を左右してしまうこともある。
ただし2009年の銀傘架け替えにより、内野スタンド上の従来の広告看板があった場所が金網のみになったために風の吹き方が変わり、浜風が弱まったのではないかとも言われている[48]。
プロ野球に関するエピソード
球場初の日本シリーズ(当時は日本ワールドシリーズ)は阪神の試合ではなく、1950年11月25日の松竹ロビンス対毎日オリオンズの第3戦である。この年はフランチャイズがまだ正式に制度化されておらず、シリーズは1試合ごとに会場を代えて行われた。
1953年10月12日にも日本ワールドシリーズ・南海対巨人の第6試合が開かれたが、有料入場者は6,346人でシリーズワースト記録となった。これは当時の規定に「第1・第3・第5・第7試合と第2・第4・第6試合の使用球場は毎年両リーグが交互にこれを指定する。ただし、第1・第2試合と第3・第4試合と第5・第6試合の使用球場はそれぞれ連続して同一地域にある球場を指定する」とあったためで、この年の偶数試合の球場指定権はセ・リーグ、つまり巨人側にあったためである。
1972年9月19日の阪神対巨人22回戦の試合中20時20分に、「3塁側アルプススタンドを20時40分に爆破する」という電話があり、5回裏2死で八番代打安藤統男の打席の20時38分に試合が一時中断。不審物は発見されず、12分後試合は再開された[49]。
1973年10月22日の阪神対巨人戦、勝ったチームがセ・リーグ年度優勝を決める試合で、巨人が9-0で勝ち、日本プロ野球記録の9年連続リーグ優勝を決めた。ところが試合終了後、余りに不甲斐ない試合に激怒した阪神ファンがグラウンド内に乱入したため、巨人は胴上げを宿舎で行った。前年の1972年も巨人は甲子園球場でリーグ優勝を決めているが、このときも阪神ファンがグラウンド内に乱入したため、球場での胴上げは中止となっている。これが後に各地の球場のフェンスが高くなった一因とも言われている[要出典]。さらに2002年、9月24日に巨人がリーグ優勝を決めた際も、警備員は通常より多く配置された。
阪神による日本シリーズの開催は1962年(対東映)、1964年(対南海)、1985年(対西武)、2003年(対ダイエー)、2005年(対千葉ロッテ)、2014年(対福岡ソフトバンク)の6度となっている。このうち、3度(1962年、1964年、2005年)は甲子園球場で相手チームの胴上げを見ているが、一方で、阪神が唯一日本一になった1985年は西武ライオンズ球場で日本一になったため、阪神の日本一の胴上げは甲子園球場では一度も行われていない[注 23]。
1985年の日本シリーズ第4戦の有料入場者数は51,554人で、これは日本シリーズの最多入場者数記録である。
1992年9月11日の阪神対ヤクルト18回戦では、日本プロ野球史上最長試合が行われた。3-3と同点のまま9回裏に入り、2死走者1塁の場面で阪神・八木裕が放った打球は一旦は本塁打の判定がなされ、ヒーローインタビューのお立ち台まで用意されたものの、ヤクルト側の抗議を受け審判団が協議した結果、判定が覆えり二塁打となり得点も認められなかった。今度は阪神が抗議を始めたため試合が中断し、のちに阪神側が二塁打の判定を受け入れ試合が再開されたが、結局は延長15回引き分け、試合時間は6時間26分(中断37分を含む)にも及んだ[50]。
2011年3月11日、この日発生した東日本大震災の影響により、東北楽天が本拠地球場として使用している宮城球場(当時の愛称は「日本製紙クリネックススタジアム宮城」)が損壊し、修繕のため同球場での試合開催が4月28日まで不可能となったため、阪神球団の厚意もあり、4月15日 - 同17日に楽天対オリックス戦が当球場で代替開催され、3日間で計6万3千人が来場した。パシフィック・リーグ球団主催による公式戦の開催は、現行の2リーグに分立した1950年以来、初の出来事であった。場内アナウンスは日本製紙クリネックススタジアム宮城に準じて行われた。なお、リリーフカーは使用されず、リリーフ投手はアイビーシートとアルプス席との間の通路から登場、そのまま走ってマウンドに向かった。翌2012年も前年の開催が好評だったことを受けて、4月10日に東北楽天対埼玉西武戦を当球場で開催し、平日ながら2万2千人が来場した(当初は翌11日も同カードを開催予定であったが雨天中止となったため、10月4日に日本製紙クリネックススタジアム宮城にて振替試合を行った)。東北楽天は当初2013年以降も当球場で主催試合を開催する意向を示していたが、結局2013年以降は組まれていない。
同じく2011年10月19日、この日行われていた横浜戦で、阪神の選手がゴロを打った際に折れたバットがスタンドに飛び込んできて、女性の観客の顔面を直撃し、女性は傷跡が残るほどの怪我をした。女性側は「ネットなど安全設備に不備があった上に、観客への注意喚起が足りなかった」などとして、試合を主催していた阪神タイガースに対し、約1,300万円の損害賠償を求め神戸地裁尼崎支部に提訴した[51]。
2016年5月8日、この日行われた東京ヤクルトスワローズ戦で、空から魚の死骸が落ちてくるトラブルが発生し、試合が一時中断した[52]。過去には、2003年8月27日(対巨人戦)では5回裏途中に猫が、2013年8月31日(対広島戦)では5回表の直前にイタチが、それぞれグラウンドに乱入し試合が一時中断している[53]。
2017年5月5日から7日の対広島戦では、こどもの日に因んで、日本人選手と審判員についてはスコアボードで平仮名表記とした[38][39][40][41]。2018年も同様の企画を実施した。
2017年9月8日の対横浜DeNA戦で、鳥谷敬が通算2000安打を達成した。阪神の生え抜き選手が甲子園球場で2000安打を達成したのはこれが初である[注 24]。また、他球団では王貞治(巨人)と若松勉(ヤクルト)が甲子園球場で2000安打を達成しているが、奇遇にも、甲子園球場で2000安打を達成した3選手はいずれも背番号1の左打ち選手である[54]。
2018年のシーズンより、7回表の開始前にビジターチームの球団歌ないし応援歌が流れるようになった。
2018年9月9日の対巨人戦では、小雨が降る中で試合を強行した[注 25]が、途中から雨脚が強くなり4回表終了時に一時中断。一旦は雨脚が弱くなったものの再び強くなり、結局はノーゲームが宣告された。中断時間は1時間28分にも及び、甲子園球場における降雨での中断としては過去最長となった[55]。
2018年のシーズンにおいて、甲子園球場でホームランを最も多く打った選手はDeNAのソト(10試合で6本)であり、阪神以外のチームの選手が同一シーズンで最も多く甲子園球場でホームランを打ったのは61年ぶりであった[注 26]。同年の阪神選手では福留孝介と糸井嘉男の5本が最多であり、阪神選手は合計で20本、一方で阪神以外のチームの選手は合計で48本打っており、このマイナス28本差はラッキーゾーン撤去後の1992年以降では最悪であった。ちなみに同年の阪神は甲子園球場での戦績は21勝39敗2分で借金18であったが、これも球団史上最悪であった[56]。
プロ野球・高校野球以外での使用
過去には様々なイベント・催し物が行われた(後述)が、現在では一般向けのイベントには基本的に開放されていない。過去に「マスターズ甲子園」や「草野球甲子園」など特別なイベント大会が行われた程度で、更に日中のみ(夜間は厳禁)と、条件はかなり厳しい[57][58]。現在では、毎年年末に行われている『レッドスターベースボールクラブカップ』の決勝戦(12月下旬)の会場として使用されている(2014年以降)[59] が、これも主催する「レッドスターベースボールクラブ」の創設者が元阪神の赤星憲広という縁からである。
ほぼ毎日行われている「スタジアムツアー」でも、フィールドの立ち入りはベンチ前の人工芝ゾーンに限定されており、土の部分には立ち入ることはできない(代わりに、ケースに入れられた内野の土を手で触らせてもらえる)。
社会人野球
過去には社会人野球の大会もあった。1973年まで行われていた日本産業対抗野球大会(サンベツ)が廃止されたことを受けて新たに作られた「社会人野球日本選手権大会」の1974年第1回から1979年第6回までの大会を当球場にて行った。それ以後は社会人野球の公式大会は行われていない。
WBSC U-18ワールドカップ
2015年8月28日から9月6日にかけて開催された、WBSC U-18ワールドカップの第27回大会において、9月4日・5日のスーパーラウンドと6日のファイナルラウンドのうち決勝戦が阪神甲子園球場で行われた。日本代表はファーストラウンドとスーパーラウンドの計8戦を全勝し決勝戦に臨んだが、決勝戦ではアメリカ代表に1-2で敗戦し、初優勝はならなかった[60]。
フットボール
現在は全日本大学アメリカンフットボール選手権決勝である甲子園ボウルが毎年12月に開催されている。
開場翌年の1925年から1928年(うち1927年は大正天皇が1926年末に崩御したため取りやめ)までは全国高等学校サッカー選手権大会及び全国高等学校ラグビーフットボール大会の前身の大会(1925年は2競技合同の「日本フットボール優勝大会」、1926年と1928年はそれぞれ「全国中等学校蹴球選手権大会」と「全国中等学校蹴球大会」)の会場となった。1929年には新設の甲子園南運動場での開催となったため、球場での開催は3回のみとなった。
1994年2月19日には、第10回全国中等学校蹴球選手権大会以来66年ぶりとなるサッカーの試合が開かれた。これはJリーグのプレシーズンマッチ(シーズン開幕前の公開練習試合)として開かれたガンバ大阪対ヴェルディ川崎の試合で、翌々年の1996年にも開催された。外野の部分を使用したが大きさが足らないために内野の一部に天然芝が仮設された。
連合体育大会
西宮市では、市立の全ての小学校および中学校の生徒による体育大会を、甲子園球場にて毎年秋にそれぞれ1回開催している。内容は、学校対抗でリレーなどのトラック競技を行ったり、市内全学校が地区毎に数ブロックに分かれて共同でマスゲーム・組体操を披露するものである。もちろん球場のフィールド内で行われるため、参加者全員が「甲子園の土を踏む」わけである。つまり西宮市立の小学校高学年または中学校に通った者であれば、その多くが「甲子園の土を踏む」ことを、男女を問わず実際に体験していることになる。(なおテレビなどで写されるように、球場内の土を生徒が持ち帰ることは禁止している。)
小学校と中学校は別々の開催であり、それぞれ「小学校連合体育大会(略称・小連体)」、「中学校連合体育大会(略称・中連体)」と呼ばれている。中連体は全員参加だが、小連体は6年生のみの参加である。かつては5年生も参加していた。中連体では、全プログラム終了後には、各校ごとに校歌を歌いながら人文字やエール交換をする。(ただし放送では、エール交換を控えるよう勧告している。)
球場まで市内南部の学校からはいずれも徒歩で向かうが、北部(生瀬駅、西宮名塩駅周辺など)の学校からはバスで向かっている。
参加各校の生徒はスタンドで待機しつつ、観戦および応援をする。なお、観戦場所は学校ごとに指定されているため、学校によって外野席になったり、屋根・テーブル付きのグリーンシートになったりして差が出る。ただし、場所は毎年順番に変わる。
甲子園球場の外野部分の天然芝の中にはミミズが多数生息しており、特に裸足で行う組体操の時には、このミミズがしばしば参加者を驚かせることがある。また、連合体育大会開催前日には、甲子園球場近くの小・中学校が、甲子園球場周辺を掃除している。
球場の改修工事に伴い、小連体・中連体共に2007年度から2009年度までの3年間と、東北地方太平洋沖地震のためプロ野球のペナントレースが遅くなったため日本シリーズと重なってしまう可能性が懸念されたので2011年は休止となった。
その他のイベント
戦前は特に色々なイベントが行われていた。1938年と1939年には全日本選抜スキー・ジャンプ大会が観客4万人を呼ぶ人気のスポーツとして外野のグラウンドを利用して開催されたが、長野県から運ぶ雪の輸送コストや天候不順が心配されて、わずか2年で終わった。他にも野外映画会や鷹狩り、野外歌舞伎、馬術大会、戦車博覧会、1940年には「紀元2600年奉祝・興亜厚生大会」と銘打たれた極東・東南アジア各国の代表との交流会等が開催されることもあった。
戦後はボクシングやコンサートなどでよく使用されていたが、球場周辺は住宅街で騒音問題があること[61] や、後に阪神間にもそれらの用途に向いた施設(大阪ドームなど)が多くできたこと、特にコンサートでは天然芝である外野にステージを設営するため大規模なステージを組むことが不可能なこと、設営前後の天候次第で芝生に大きなダメージを与えてしまうこともあり、現在ではほぼ使用されていない。過去に当球場でコンサートを開いたアーティストには、エマーソン・レイク・アンド・パーマー、イーグルス、Mr.Children、サザンオールスターズ、JUDY AND MARY、TUBE、水樹奈々、MAN WITH A MISSIONなどがいる。特にTUBEは1991年から毎年コンサートを開催し続けており2002年以降当球場でコンサートを開催したアーティストはTUBEのみであったが[61]、25年目となる2015年に終了することがメンバー自身によって発表された[62]。TUBEのコンサートは当初8月末の土曜日に開催されていたが(7月に開催された年もある)、晩年はプロ野球との日程の兼ね合いで9月上旬の土曜日ないし日曜日となり、終いには秋分の日である9月23日までずれこんだことで、ファンから「夏に見たい」という要望があったことや、騒音問題があることが理由で終了となった。ただ、TUBEとしてはタイミングが合えば再開させる意向も示している[61](2016年は8月にほっともっとフィールド神戸で開催)。翌2016年9月22日、阪神ファンである水樹奈々がTUBEと入れ替わるような形で当球場でコンサートを行った[63]。当球場でTUBE以外のアーティストがコンサートを開催するのは15年ぶりであり、またソロアーティストのコンサートは男女を問わず開場以来初めてであった。
この他、1991年から2006年まで[64]学校法人立志舎グループの各専門学校生徒を対象とした野球大会BEST COLLEGES 硬式野球選手権大会が毎年(11月下旬 - 12月上旬頃)開催されていた。
創価学会主催による祭典、1966年9月18日「第三回関西文化祭」や1984年9月30日「第4回世界平和文化祭」などの催しでも利用されたことがある。
2017年11月23日には、阪神電鉄主催で球場内グラウンドを走ることができるリレーマラソン大会「阪神沿線駅交流 甲子園リレーラン」が開催され(但しこれもフィールド内は人工芝部分に限定)[65]、2019年1月6日にも第2回が開催予定。
ロケーション撮影
映画
- ミスター・ルーキー
- 2002年公開。長嶋一茂主演。阪神タイガース全面協力の下、現役選手や本物の球場スタッフを揃えてロケが行われた。主にペナントレース終了後の11月頃にロケを行ったため、シーズン中の真夏の試合のシーンでは出演者、エキストラ共に薄着のため寒さに震えながらのロケであった。
- アゲイン 28年目の甲子園
- 2015年1月公開。中井貴一主演。2013年12月21日・22日にロケが行われた。
なお、2014年の台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』では、当時の球場と外観が大きく異なるため、「初代」の球場としてセットで再現された[66](ただしアルプススタンドは改築後であり内野スタンドが改築されたことがないため、初代とは言い難い)。
テレビ番組
- 必殺シリーズ特番
- 1986年1月3日放送の『当たるトラ年! 今年も大躍進 必殺&タイガース』では、「歴代仕事人ベストオーダー」の発表でスコアボードを使用した。
- H2〜君といた日々
- 2005年1 - 3月放送のドラマ。TBS系列 (JNN) 全国ネットの木曜22時ドラマ枠。山田孝之主演。高校野球の全国大会に出場するシーンの撮影で当球場が使用された。ただし、この時は実際の大会(当時)のようなフェンスのシート隠しはせず、またバックネットのフェンス広告は当時回転式広告盤を設置する工事が行われていたため、通常より高めの仮設フェンスを使って隠していた。
- ぷちトラ!
- 2009年のシーズン中、GAORAの阪神戦中継直前に放送された。ランディーズと水樹奈々が、この年スタンドの改修工事が完成した球場のリニューアルポイントを紹介している。
CD・DVD
- THE HANSHIN KOSHIEN STADIUM 〜大正・昭和・平成 悠久の時を経て〜
- 2007年夏発売。球場内の様々な位置にカメラが入っている。但しこれはリニューアル前の映像であるため、現状とは異なっている。
- 一度でも良いから見て見たい! 日本一有名なスポーツスタジアム 阪神甲子園球場の全て
- 2011年夏発売。甲子園球場のリニューアルに携わった人々の話を聞きつつ、普段はカメラが入る事の出来ない場所にも入って新しくなった甲子園球場のリニューアルポイントを紹介している。
- SMASHING ANTHEMS
- 2015年11月発売。球場の外周にて、通常盤のジャケットと初回限定版のフォトブックの撮影を行った。
公開放送
1985年10月17日と2010年3月19日に『おはようパーソナリティ道上洋三です』の、1991年8月31日に『おはよう朝日です』の公開放送が当球場で行われている。
交通機関
列車・バス
阪神本線甲子園駅下車の経路が最も多く利用されている。
甲子園駅の隣駅である鳴尾駅(大阪側)、久寿川駅(神戸側)まではともに1km弱の距離である。特急列車を利用しない観客の中には、試合終了後の混雑を避けるために、徒歩でこれらの両駅を利用する者もいる。
阪神なんば線開業後は、大阪市此花区からはもとより、特に相互乗り入れ先の近鉄奈良線沿線の東大阪市・奈良県生駒市・同奈良市、更に大阪難波駅から近鉄特急を利用すれば名古屋[注 27]、伊勢志摩、同駅乗り換えで南海沿線からのアクセスも格段に向上している。また京セラドーム大阪への最寄り駅、ドーム前駅へも乗り換えなしで行けるようになった。
JR神戸線甲子園口駅からは約2km離れており、徒歩では約40分ほど、阪神バス利用でも約10分ほど、それぞれかかる。そのためプロ野球及び高校野球開催の時は誤下車防止の為三ノ宮駅及び大阪駅での乗り換えの案内の時に阪神電鉄を利用するように案内している。
バスの場合、阪神バス「阪神甲子園」または「ららぽーと甲子園西」下車すぐ。
なお、2005年以降、プロ野球シーズン中のナイトゲーム開催日に限り、阪神バスが試合終了後に宝塚行きとなんば(OCAT)行きの臨時便をそれぞれ運行しており、ゲームセットから20分後を目途に発車する[注 28] 。但し、これらの臨時便は年次によって運行されない場合や、2018年のように土曜・日曜・祝日のみ運行する[67](平日以外のナイトゲームは実質7月ないし9月上旬のみ)場合があるため注意が必要。このほか、かつては西宮北口行きも運行した時期があったが現在は運行されていない。
自家用車
球場周辺には観客用の専用駐車場はないため、違法駐車の防止も含めて、電鉄・球団側はシーズン中、CMや球場内・駅構内・車内アナウンス、駅ポスターなどで「来場には電車・バスをご利用ください」と頻繁に告知している。そのため、阪神西宮駅などの少々離れた駅近くの駐車場に車を停めて、電車や路線バスで来場すること(パークアンドライド)を勧めている。なお、ロイヤルスイート席の利用客に限り、球場敷地内に用意された駐車場を1室につき1台分のみ利用することができる。
球場より南方に1kmほど下った浜甲子園駅跡地にごく少数だけ駐車場が用意されているが、一般客の利用はできず、あくまで高校野球大会などの際に遠方からの来客と観戦ツアーバスのために用意されているものである。球場まで距離があるため、夏の高校野球選手権大会開催時にはシャトルタクシーが用意される。
高校野球出場校の中には、自校の応援貸切バスを球場近くのマンションといった一般住宅の駐車場を開催期間借用する形で使用したり、球場至近のCorowa甲子園(旧イオン甲子園店)の駐車場や野球開催時にのみ営業される私営駐車場を観客が利用するといったことも多々見られる。
甲子園阪神パークの跡地にあるららぽーと甲子園の駐車場は、当球場での試合開催日は観戦客の駐車を排除するため、3時間を超える駐車には本来の駐車料金に加え、特別駐車料金6,000円が加算される(買い物客およびキッザニア甲子園利用客には一定の条件で特別駐車料金は免除される)。また、球場周辺のコインパーキングも同様に、試合開催日当日に限り割増料金を設定している。
甲子園阪神パークが閉園した2003年までは、阪神パークの南側にあった大駐車場を球場の客向けに使用していた。また、2002年までは甲子園競輪場の駐車場を借用することで、両駐車場合わせて2000台以上の駐車スペースを確保していた。
近年では、ベンチャー企業のakippaが、球場周辺で空きガレージを保有する民家と提携し、会員向けにその空きガレージを一時的に駐車場として提供するサービスを行っている。
脚注
注釈
^ 1941年・第27回大会は地方予選中に中止、1942年から1945年は開催なし、1946年・第28回大会は阪急西宮球場で代替開催。
^ 1942年から1946年は開催なし。
^ 1946年は未使用、専用球場化は1948年から。
^ 1960年・第15回大会は阪急西宮球場で、2007年・第62回大会と2008年・第63回大会は長居陸上競技場で代替開催。
^ 1926年からは「全国中等学校蹴球選手権大会」と「全国中等学校蹴球大会」に分割、1927年は中止。
^ 東京ドームの立見席を含む収容人数ははっきりしていないが、実数に近い発表による満員時の観客数では2012年現在は東京ドームを上回っている。
^ ラッキーゾーン設置以前のプロ野球公式戦796試合でオーバーフェンスの本塁打は49本しか出なかった。この中で、個人最多記録は景浦将と山下実の各4本である(宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年、p.368)。
^ 日刊スポーツ大阪本社版2018年1月30日付1面では、新外国人選手のロサリオが甲子園球場のグラウンドを視察したあと、記者から広さについて問われ「そこまで広くない」と答えている。
^ 日本の大半の球場はバックネット裏に事務室、場内放送用ブース、電光掲示板の操作室などが設置されており、その分スタンドが高く設定されている場合が多い
^ 年間契約のみで1室平均1,000万円。室外には観戦用座席が設けられているほか、室内には大型モニター、ビアサーバーなどが設けられている。食事が提供されるため、このロイヤルスイートのみ飲食物は持ち込み禁止とされている。
^ 例外で、ABCテレビが夏の甲子園大会期間中に自社が契約しているロイヤルスイートの一室を特設スタジオとして使用している。
^ このうち、バックネット裏の118席(テレビ中継で常時映る最前列エリア)については、2016年の選抜大会以降、夏の選手権大会も含めて近畿地方の軟式野球チームの小・中学生向けの招待席となっており、一般客の利用はできない(座席の背もたれにカバーが掛けられている。「8号門クラブ」も参照)。
^ イニング表示はアラビア数字で表記された戦後の一時期を除き漢数字で表記されており、当時十回以降の部分は「一」と「〇」から「六」が縦書きで表記されていた。
^ この時も「一」と「〇」から「八」が縦書きで表記されていた。
^ この時のイニング表示から十回を「十」1文字で、また十一回・十二回を「十」と「一」および「二」の縦書きで表記するようになった。
^ ただし漢字部分の書体は明朝体になった。他の電光化された漢数字部分も同様。
^ ただし、神戸のものは、この当時、製造会社が左側が東芝ライテック製、右側が甲子園球場と同じ三菱電機製と左右で異なっている(2015年の改修では、右側は三菱電機のままとされたが、左側はアメリカのダクトロニクス製のマルチビジョンとなった)。
^ 2008年から2010年まではスコアボード棟手前、2枚のバックスクリーンの中間部分にプロ野球開催時に限り電光式デジタル時計カウンターが仮設された。2008年から試合の攻守交代時のインターバルをできるだけ2分15秒(投手交代時は2分45秒)以内に収めて試合時間短縮をしようという球界の奨励に基づいて義務付けられた時刻表示のため。
^ かつてはDH制時の投手も、9人制の時と同じ「1」と表記されていた。
^ 三塁側の座席の一部からはサブスコアボードのボールカウンターが銀傘の柱(屋根部分)の影となり見えにくかったために、2009年のシーズン途中から追加された。
^ 1969年のみ、明治神宮野球場でも外野に限り着脱パネル式の広告を貼り付けていた
^ 2017年度の14社は、田辺三菱製薬、東進ハイスクール、at home、MACNICA、デサント、サンスター、パナソニック、ほけんの窓口、住友化学、朝日新聞、クボタ、ジョーシン、LOTTE、タカラホーローシステムキッチン
^ フランチャイズ制や12球団制になって以降、千葉ロッテも本拠地で日本一を一度も決めていない(一度も日本一になることなく球団が消滅した近鉄を除く)。
^ 球団初の2000安打達成者である藤田平は、後楽園球場での対巨人戦で達成している。
^ 日曜日のデーゲームで当日のチケットは前売り完売していたことや、当年の阪神は試合消化のペースが非常に遅くシーズン終盤にこれ以上は試合中止にすることは避けたい思惑があった。
^ 1957年、与那嶺要(巨人)と岡嶋博治(中日)、阪神の並木輝男・藤本克巳・田宮謙次郎・三宅秀史がそれぞれ3本を打って以降、2017年までいずれの年も阪神の選手が最も多くホームランを打った。ちなみに最多は1986年のバースで25本。
^ 不定期で近鉄の特急車両を使用したプロ野球観戦ツアーも実施されており、近鉄名古屋駅と甲子園駅とを直接結ぶ団体専用列車が運行されることがある。
^ 但し、試合が長引いた場合は、試合途中であっても、宝塚行きは22時には、難波行きは23時には、それぞれ発車する。
出典
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^ 虎党・水樹奈々 甲子園ライブ決定に涙,デイリースポーツ,2016年4月11日
^ 1990年・2017年は神宮球場、2007年から2016年は千葉マリンスタジアムにて開催。
^ “【お知らせ】~阪神甲子園球場のグラウンドでマラソンができる~阪神電車主催の「阪神沿線駅交流 甲子園リレーラン」 参加者大募集中”. ニュースリリース. 阪神電気鉄道 (2017年8月10日). 2017年9月24日閲覧。
^ 知っておくと映画がもっと楽しくなるかも! 日本と台湾で大感動を巻き起こした甲子園映画『KANO』の秘密5選 ロケットニュース24 2014年12月26日
^ 阪神バスからのお知らせ (PDF) - 阪神バスホームページ、2018年4月2日
関連文献
- 松浦 煕忠「甲子園球場の芝草管理 ―甲子園は二毛作―」、『芝草研究』第20巻第1号、日本芝草学会、1991-1992、 78-86頁、 doi:10.11275/turfgrass1972.20.78、2016年12月4日閲覧。
関連項目
阪神タイガースの歌(六甲颪)- ジェット風船
野田誠三 - 球場の設計者。長年タイガースのオーナーも務めた。- Tigers-ai
- サンテレビボックス席
- かち割り
全国高等学校野球選手権兵庫大会 - かつては会場として使用されたこともあったが2005年以降は使用されていない。甲子園で試合する高校は、スコアボードをバックに記念撮影することが許されている。- 日本の野球場一覧
- 男どアホウ甲子園
西浦達雄 - プロ野球では「炎の5回裏」等の場内BGMを担当。また朝日放送における全国高校野球選手権大会中継のエンディングテーマソングの作詞・作曲・歌唱担当。- 甲子園の名がつく高校生大会一覧
甲子園 (地名) - 球場建設と同時期に開発された周辺地域、高級住宅街として知られる西宮七園の一つ。
素盞嗚神社 (西宮市) - 隣接しており「甲子園神社」、「タイガース神社」とも呼ばれている。- KANO 1931海の向こうの甲子園
- 大甲子園
外部リンク
阪神グループ
- 公式サイト
- 阪神甲子園球場リニューアル計画基本構想について (pdf)
阪神甲子園球場のリニューアル[リンク切れ]
【公式】阪神甲子園球場 (@enjoy_koshien) - Twitter
- 2015年2月に飲食・物販担当のTwitterとして開設、2017年1月から球場公式Twitterに
【公式】阪神甲子園球場 (enjoy_koshien) - Instagram
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