アストリア (重巡洋艦)





































































USS Astoria (CA-34) operating in Hawaiian waters on 8 July 1942 (NH 97682).jpg
艦歴
発注

起工

1930年9月1日
進水

1933年12月16日
就役

1934年4月28日
退役

除籍

その後

1942年8月9日に戦没(第一次ソロモン海戦)
性能諸元

排水量
9,950 トン
全長
588 ft (179 m)
全幅
61 ft 9 in (18.8 m)
吃水
19 ft 5 in (5.9 m)
機関

バブコック&ウィルコックス製水管缶8基
ウェスティングハウス製ギヤードタービン4基、4軸推進、107,000hp
最大速
32.7ノット (61 km/h)
乗員
士官、兵員899名
兵装
8インチ砲9門
5インチ砲8門
3ポンド砲2門
50口径機銃8門

アストリア (USS Astoria, CA-34) は、アメリカ海軍の重巡洋艦。ニューオーリンズ級重巡洋艦の2番艦。艦名はオレゴン州アストリアに因む。その名を持つ艦としては2隻目。ニューオーリンズ級重巡洋艦は、もともとはアストリアがネームシップとなる予定だった。しかし、アストリアの竣工がニューオーリンズ (USS New Orleans, CA-32) より遅れたため、ネームシップの座もニューオーリンズに譲らざるを得なかった。




目次






  • 1 艦歴


    • 1.1 大戦前


    • 1.2 斎藤大使遺骨の礼送


    • 1.3 真珠湾攻撃まで


    • 1.4 第二次世界大戦


    • 1.5 南西太平洋での戦い


    • 1.6 珊瑚海海戦


    • 1.7 ミッドウェー海戦


    • 1.8 第一次ソロモン海戦


    • 1.9 最期




  • 2 脚注


  • 3 参考文献


  • 4 関連項目


  • 5 外部リンク





艦歴



大戦前


アストリアは1930年9月1日にワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍造船所で起工する。1931年7月1日に CL-34 (軽巡洋艦)から CA-34 (重巡洋艦)に艦種変更され、1933年12月16日にレイラ・C・マッカイ(オレゴン州アストリアを創立したジョン・ジェイコブ・アスター遠征隊のメンバーであるアレクサンダー・マッカイの子孫)によって命名、進水し、1934年4月28日に艦長エドマンド・S・ルート大佐の指揮下就役した。


1934年の夏にアストリアは太平洋で長距離整調巡航を行う。ハワイ諸島に加え、サモア、フィジー、オーストラリアのシドニー、ニューカレドニアのヌーメアを訪問し、1934年9月26日にサンフランシスコに帰還した。


1934年秋から1937年2月までの間にアストリアは偵察部隊の第7巡洋艦分艦隊の一部としてカリフォルニア州サンペドロを拠点として作戦活動に従事した。1937年2月に第6巡洋艦分艦隊に配属され、活動を継続する。両艦隊での活動の間、アストリアは平時の通常任務を行った。この頃、後に大将に昇進するリッチモンド・K・ターナー大佐が、昇進目当てで航海局への手紙作戦の末、アストリア艦長に就任した[1]



斎藤大使遺骨の礼送




斎藤博


1939年初め、アストリアは第20次フリート・プロブレム(英語版)に参加するために西インド諸島に向かった。演習終了後、アストリアはクレブラ島を艦隊とともに出港し、3月3日にチェサピーク湾に到着した。ノーフォークで燃料を補給した後、アストリアはアナポリスに入港した。これより先の2月26日、日本の斎藤博・前駐米大使がワシントンで死去した[2]。1925年に当時のエドガー・A・バングロフト駐日大使が日本で客死した際、軽巡洋艦多摩で遺体を礼送した返礼として[3]、アメリカ側はパナイ号事件の火消しにも奔走した斎藤大使の遺骨を軍艦で礼送することとなった[2][4]。斎藤大使の遺骨はワシントンの日本大使館付きの北沢直吉二等書記官に護られてアストリアに乗せられ、アストリアは3月18日にアナポリスを出港した。


3月24日にパナマ運河を通過する頃、アストリアは「在パナマ日本人団より、故斎藤大使の遺骨に対し哀悼の意を捧げます」というメッセージを受け取った。アストリアは4月4日にハワイに到着し、その同じ日には斎藤大使夫人と2人の娘が龍田丸(日本郵船、16,955トン)でホノルルに到着した。2日後、アストリアは先に出港した龍田丸に続いてホノルルを出港し、日本に向かった。


4月17日、アストリアは吹雪型駆逐艦3隻(響、狭霧、暁)に先導され、出迎えの軽巡洋艦木曽と21発の礼砲をかわし、星条旗と日章旗を半旗に掲げて横浜港に入港[3]。午後、斎藤大使の骨壷の引渡し式が行われた[5]。斎藤大使の葬儀は4月18日に築地本願寺に於て行われた[2][6]。葬儀の後、日本側はアストリア乗組員に対し最大限のおもてなしを行った。
4月24日、リッチモンド・ケリー・ターナー大佐(アストリア艦長)とポール・シーマー・シース中佐(アストリア副長)とはジョセフ・グルー駐日大使等と共に昭和天皇と謁見する[7][8]。駐日アメリカ大使館付け海軍武官ハロルド・M・ビームスは後に、「ターナー艦長がアメリカ側の最大限の誠意の表れとしてこの大任を果たしたことは、最も晴れがましいことだ」と回想した。後刻、斎藤大使夫人と娘からアメリカ側に塔が贈られ、その塔はアナポリスの海軍兵学校構内、ルース・ホールの正面に現存している[9]


アストリアは4月26日に上海に向けて出港し、29日に到着。5月1日まで滞在し、その間にアジア艦隊(英語版)司令長官ハリー・E・ヤーネル大将の訪問を受けた。アストリアは香港、フィリピンを経て5月21日朝にグアムに到着。同地でアストリアは、掃海艇ペンギン (USS Penguin, AM-33) および雑役艦ロバート・L・バーンズ (USS Robert L. Barnes, AG-27) とともに座礁した陸軍輸送船U. S. グラントの救助にあたった。作業後、アストリアはサンフランシスコからジャンク「シードラゴン」で太平洋を横断し香港に向かっている途中で消息を絶った冒険家リチャード・ハルバートン(英語版)の捜索に参加し、およそ42万平方キロメートルの範囲を捜索したがハルバートンを発見することはできず、捜索は5月29日に打ち切られた。



真珠湾攻撃まで


10月、アストリアの母港はサンペドロから真珠湾に移った。1940年春、アストリアは第21次フリート・プロブレムに参加してハワイ水域で訓練を行った。1941年4月2日、アストリアは真珠湾を出港し、4月8日にロングビーチに到着後、13日にメア・アイランド海軍造船所に入渠して1.1インチ75口径4連装機銃(英語版)とレーダーを装備した。アストリアは7月11日に出渠し、ロングビーチ、サンペドロを経て7月24日に真珠湾に向けて出港した。


7月31日に真珠湾に戻ったアストリアは、9月前半までオアフ島とミッドウェー島との間で哨戒を行った。その後、太平洋に出没するドイツの仮装巡洋艦に備えてグアムおよびフィリピン行きのアメリカ船舶に護衛がつくこととなった。アストリアは輸送船ヘンダーソン (USS Henderson, AP-1) を護衛し、グアムとマニラに寄港した後、10月29日に真珠湾に帰投。アストリアは局地的な哨戒任務に戻り、事が平和なまま5週間が過ぎ去った。



第二次世界大戦


この頃、太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将は、険悪になっていく日米情勢に呼応し、ミッドウェー島とウェーク島に海兵隊の飛行機を増援として輸送することとした。アストリアは12月5日に空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) 基幹の第12任務部隊(ジョン・H・ニュートン少将)とともに出港し、ミッドウェー島に18機のSB2U ビンディケーターと第231海兵飛行群の要員を輸送することになった。


12月7日の真珠湾攻撃当日、アストリアの属する第12任務部隊はハワイの西方1,100キロの地点にあり、ミッドウェー島に向かっている途中だった。翌日9時、第12任務部隊はウィルソン・ブラウン中将が乗る重巡洋艦インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) と合流し、数日間、報道によればまだ近くにいるはずの日本の空母を捜し求めた。12月13日、アストリアは真珠湾に帰投。休む間もなくウェーク島救援のための艦隊が臨時編成され、艦艇の他給油艦ナチェス (USS Neches, AO–5) および水上機母艦タンジール (USS Tangier, AV-8) を加えて16日に出撃してウェーク島に急行したが、23日にウェーク島は陥落して救援は成らなかった。12月29日、アストリアは真珠湾に帰投したが、その際アストリアに40名の船客が乗ってきた。彼らは戦艦カリフォルニア (USS California, BB-44) の乗組員で、真珠湾攻撃でカリフォルニアが着底した際の、一等整備兵曹マーティン・W・ベンダーを含む生存者だった。アストリアは空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) 基幹の第11任務部隊に合流し、12月31日に真珠湾を出港したが、1942年1月11日、日本の潜水艦伊6の雷撃によりサラトガが損傷したため、アストリアは僚艦とともにサラトガを護衛して引き返した。


第11任務部隊は、レキシントンを新しく中枢に据え、アストリアはシカゴ (USS Chicago, CA-29) 、ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) および9隻の駆逐艦とともにキングマン・リーフとキリスィマスィ島の間を哨戒する予定だった。しかし、1月21日午後に計画が改められ、ウィリアム・ハルゼー中将が企図するマーシャル諸島への一撃に呼応してウェーク島を攻撃することとなった。第11任務部隊はナチェスを加えて23日に真珠湾を出撃。しかし、出撃直後にナチェスが伊72に撃沈され、燃料不足が懸念されたことと代わりのタンカーがいなかったこともあって、第11任務部隊のウェーク島への奇襲作戦は中止された[10]。1月24日、第11任務部隊は真珠湾に帰投した。



南西太平洋での戦い


2月16日、アストリアは空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を基幹とする第17任務部隊(英語版)(フランク・J・フレッチャー少将)に参加し、ルイビル (USS Louisville, CA-28) 、駆逐艦シムス (USS Sims, DD-409) 、アンダーソン (USS Anderson, DD-411) 、ハムマン (USS Hammann, DD-412) およびウォーク (USS Walke, DD-416) 、給油艦グアダルーペ (USS Guadalupe, AO-32) とともに出撃し、初めはカントン島方面に向かった。しかし、ラバウル攻撃に向かったブラウン中将の第11任務部隊が日本の陸上攻撃機と交戦の末、被害はなかったものの燃料が乏しくなったため空襲が中止になり、ブラウン中将が増援を要請していたのに応えて第11任務部隊と合流することとなり、両任務部隊は3月6日にニューヘブリディーズ諸島近海で合流した。


両任務部隊はラバウル攻撃を第一としたが、日本軍がニューギニア島のラエ、サラモアに上陸するに及び、目標をラエとサラモアに切り替えた。アストリアは奇襲作戦中、ルイビル、シカゴ、オーストラリア重巡洋艦オーストラリア (HMAS Australia, D84) およびアンダーソン、ハムマン、ヒューズ (USS Hughes, DD-410) とともにジョン・G・クレース(英語版)少将(オーストラリア海軍)の指揮下に入り、ルイジアード諸島ロッセル島近海で空母部隊の間接護衛にあたる一方で、ヌメアからポートモレスビー向かう陸軍部隊を援護した。


3月10日に行われた、104機の艦載機による南からのオーエンスタンレー山脈を越えた攻撃は奇襲となり、日本軍の諸艦船に大きな損害を与えた。この攻撃はこの方面での日本軍の侵攻計画に狂いが生じ、この方面への機動部隊の派遣を要望する必要性に迫られた。



珊瑚海海戦



3月14日、アストリアは第17任務部隊に再合流し、3月の残りの期間は珊瑚海で哨戒に従事した。アストリアはフレッチャー少将の命により、ポートランド (USS Portland, CA-33) 、ヒューズおよびウォークとともに給糧艦ブリッジ (USS Bridge, AF-1) のいるヌメアに向かい、4月1日に到着した。翌日出撃し、珊瑚海の第17任務部隊に合流。2週間余りの哨戒の後、4月20日から27日までトンガタプ島に滞在した。


この頃、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は日本軍によるポートモレスビー占領作戦に関する機密文書を受け取り、ニミッツ大将はこの作戦を粉砕すべく、第11任務部隊の新司令官にオーブリー・フィッチ少将を任命し、第17任務部隊と合同して珊瑚海に向かうよう命じた。アストリアは4月27日に第17任務部隊とともに出撃し、5月1日に2つの任務部隊は合流した。5月3日、フレッチャー少将は日本軍がツラギ島を占領したとの報に接した。フレッチャー中将は同地に空襲を仕掛けて、同時にヨークタウンの直衛にあたっていたアストリアをチェスター (USS Chester, CA-27) とともにツラギ島に送り込んで、動けなくなった艦船を片付ける腹であったが異議が出て、最終的には空襲のみが行われた。


5月5日から6日にかけては特に動きがなかったが、5月7日に戦局は大きく動いた。レキシントンからの飛行機がポートモレスビーへ進撃する日本の輸送船団を発見し、空母祥鳳を撃沈。一方、日本側の飛行機も給油艦ネオショー (USS Neosho, AO-23) と護衛のシムスを空母と誤認して攻撃し撃沈した。5月8日朝、フレッチャー少将は攻撃隊を発進させた。アストリアは敵襲に備えて対空陣形を取り、攻撃隊は空母翔鶴、瑞鶴を捜し求めた。11時ごろ、第17任務部隊に翔鶴と瑞鶴からの攻撃隊が襲いかかり、これと同時にヨークタウンとレキシントンからの攻撃隊も翔鶴と瑞鶴を発見した。互いの主力部隊の距離はおおよそ9.7キロから13キロ離れており、これは海戦終了まで変わらなかった。日本側攻撃隊の攻撃は二段階に分かれており、第一波の雷撃機と第二波の急降下爆撃機からなっていた。アストリアのチョーンシー・R・クルッチャー艦長は「短くも激しい対空砲火を撃ち上げた」と回想したように、アストリアはレキシントン上空に猛烈な対空弾幕を張り、任務部隊が分離するとヨークタウンの防衛に回った。アストリアの射手は一連の攻撃を「始まったかと思えば、すぐに終わった」と振り返り、少なくとも4機の日本機を撃墜したであろうと主張した。


12時45分、レキシントンは大きく損傷を受けながらもいまだ航行していたが、やがて激しい爆発を起こし、消火しきれないほど炎上。16時30分までに航行不能となり、レキシントンのフレデリック・C・シャーマン艦長は艦の放棄を決意し、総員退艦を令した。救助活動を終え、レキシントンは駆逐艦フェルプス (USS Phelps, DD-360) の魚雷により処分された。第17任務部隊は大損害を蒙ったものの、日本軍のポートモレスビー侵攻を最終的に断念させたことで、戦略的勝利を得ることができた。


アストリアはミネアポリス、ニューオーリンズ (USS New Orleans, CA-32) 、駆逐艦アンダーソン、ハムマン、モリス (USS Morris, DD-417) およびラッセル (USS Russell, DD-414) とともにヌメアに向かい、5月12日に到着。翌13日、アストリアと僚艦はヌメアを出港してトンガタプ島を経由し、5月27日に真珠湾に帰投した。



ミッドウェー海戦



重巡洋艦群は遅くとも5月30日まで真珠湾で整備を行い、突貫工事で修理を終えたヨークタウンとともに、ミッドウェー島に接近する日本艦隊に打撃を与えるべく出撃した。6月3日の時点で日本の輸送船、掃海艇および2隻の水上機母艦、そして南雲忠一中将率いる第一航空艦隊を発見した。ヨークタウンは攻撃隊を発進させ、アストリアは予想される日本機の攻撃に備えた。


やがて、ヨークタウンに飛龍からの攻撃隊が襲いかかってきた。18機の九九式艦爆は、第3戦闘任務群のF4F ワイルドキャットに阻まれ、10機を喪失。残り8機のうち2機はアストリアとポートランド、駆逐艦の対空砲火で撃墜した。しかし、残りの6機がヨークタウンに対して投弾して爆弾3発を命中させ、ヨークタウンは炎上。フレッチャー少将は13時10分に自身、幕僚および将旗をアストリアに移した。ヨークタウンの被害対策班の働きにより、13時40分までにはヨークタウンは応急修理を終え、航行可能になった。しかし、程なくして友永丈市大尉率いる10機の九七式艦攻と、護衛の6機の零戦がやってきた。アストリアは海中に向けて砲火を撃ち込み、水柱の壁を作って雷撃を阻止しようとした。にもかかわらず、九七式艦攻のうちの2機がヨークタウンに魚雷を命中させ、ヨークタウンはまたもや大きな損害を受けた。ヨークタウンは放棄されることとなり、アストリアはヨークタウンの乗組員を救助して東に向かい、放棄されたヨークタウンにはヒューズが監視役としてつけられた。


翌6日、ヨークタウンは潜水艦伊168の雷撃を受けた。日本艦隊は完敗を喫して退却していったが、伊168は損傷した空母の撃沈を命じられていた。伊168はヨークタウンに向けて魚雷を4本発射し、2本が命中。残る1本はハムマンの艦底で爆発してハムマンをへし折った。ヨークタウンはすぐには沈まなかったが、7日未明に横転して沈没した。アストリアは第17任務部隊の旗艦としてミッドウェー島北方を行動し、6月8日正午に第11任務部隊と合流。6月11日、フレッチャー少将はサラトガに将旗を移し、部隊は6月13日に真珠湾に帰投。アストリアはしばらくの間、修理と訓練を行った。



第一次ソロモン海戦





戦没3日前の1942年8月6日に撮影されたアストリア


8月初め、アストリアは第62.3任務群に加わり、ツラギ島およびガダルカナル島からの反攻作戦を支援することとなった。8月7日朝、アストリア以下の巡洋艦群はガダルカナル島沖に到着し、ガダルカナル島、ツラギ島など島嶼に対する上陸作戦全般を支援した。7日から8日にかけては日本機の反撃があり、アストリアは空襲から輸送船団を守りぬいた。


8月8日から9日にかけての深夜、三川軍一中将率いる第八艦隊の重巡洋艦と軽巡洋艦、駆逐艦がサボ島西方からガダルカナル島沖に入ってきた。当時、巡洋艦群はガダルカナル島沖の輸送船団に対する敵襲に備えて、3つのグループに分かれて哨戒していた。アストリアはヴィンセンス (USS Vincennes, CA-44) およびクインシー (USS Quincy, CA-39) と同じグループに属し、サボ島とフロリダ諸島間の海域にいた。三川中将の艦隊はサボ島西方を進み、シカゴ (USS Chicago, CA-29) 、オーストラリア重巡洋艦キャンベラ (HMAS Canberra, D33) および駆逐艦パターソン (USS Patterson, DD-392) 、バッグレイ (USS Bagley, DD-386) のグループに対して砲雷撃を行い、キャンベラは大破し、シカゴは艦首部に魚雷が1本命中して戦線離脱した。このグループは警報を発しなかったか[11]、他のグループの受信状態が芳しくなかったか[12]、ともかく異変を周囲に知らしめることはなかった。三川艦隊は些細なミスから2つのグループに分離し北上。どちらのグループもアストリアらがいるグループに迫りつつあった。


突然、ヴィンセンスがサーチライトに捉えられ、信号弾を発射したところ一斉射撃を受け、反撃もままならず撃たれる一方だった。クインシーも砲撃により炎上し、周囲を明るく照らし出した。当のアストリアは、三川艦隊のサーチライトに対してすぐさま反撃したものの、一瞬相手を味方ではないかと疑って砲撃を中止。相手を確認して再び砲撃を再開したが、三川艦隊からの5斉射のうち4つまでは命中しなかったが、5つ目がアストリアの中央部に命中し、飛行機格納庫を炎上させ、相手にとっては照明要らずとなった。アストリアも一方的に撃たれ始め、速力が低下した。アストリアが、前方でのた打ち回っているクインシーを避けて追い越したその時、衣笠のサーチライトがアストリアを捉え、猛然と砲撃してきた。さらに被害が増えたアストリアは最後の反撃を行い、これは鳥海の第一砲塔に命中した。


三川艦隊は高速で去っていき、アストリアはコントロールを失いつつ南に向かったが、やがてすべての動力が止まった。3時ごろまでには、70名の負傷者を含む約400名の乗組員が船首楼甲板に集まった。アストリアはおよそ65発も被弾しており、依然炎上していた。乗組員はバケツリレーで消火にあたり、負傷者は艦長室に移送された。駆逐艦バッグレイ (USS Bagley, DD-386) が接近し、アストリアの負傷者を収容した。その時、アストリアの艦尾方向に明かりが点り、バッグレイは明かりに照らされた、ヴィンセンスの生存者が乗ったいかだを発見した。いかだを収容したバッグレイは再びアストリアの傍らに戻り、325名の乗組員がバケツリレーの援軍としてはせ参じ、消火作業の一方で排水を行ったり戦死者を水葬にする準備も行った。7時ごろ、掃海駆逐艦ホプキンス (USS Hopkins, DMS-13) もかけつけ、アストリアを曳航する準備に取り掛かった。ウィルソン (USS Wilson, DD-408) も9時ごろから消火と排水の手伝いを行い、10時過ぎにホプキンスとウィルソンはアストリアの曳航を開始。少し経てばブキャナン (USS Buchanan, DD-484) および攻撃貨物輸送艦アルチバ (USS Alchiba, AKA-6) も合流して曳航作業を支援することになっていた。



最期


しかしながら、デッキより下の火災は確実に強まり、爆発音が確認された。船体は10度から15度へと大きく傾き、水線下に開いた穴により傾斜を改善させる試みは全て無駄に終わり、傾斜の増加は続いた。ブキャナンが11時30分に到着したが、アストリアの船体は大きく傾き接近することができなかった。ブキャナンはアストリアの右舷に位置し、救助の乗組員は艦後部に集中した。アストリアのグリーンマン艦長は正午に艦の放棄を命じた。


アストリアは右舷を上にしてゆっくり転覆し、12時16分に完全に沈没した。ブキャナンは2隻の動力艦載艇を降ろし、日本潜水艦からのものと思しき成果のない攻撃で時折中断しつつも乗組員の救助を始めた。アストリアが沈む直前にアルチバがようやく到着し、32名を救助した。


ちなみに、ガダルカナル島上陸作戦の総指揮を執っていたのは、前述にあるように、かつてはアストリアの艦長も務めたターナー少将だった。


アストリアは第二次世界大戦の戦功で3個の従軍星章を受章した。


2019年1月30日にサボ島に眠る本艦を故・ポール・アレンの調査チームがヴィンセンスともに発見したことが明らかになった。



脚注





  1. ^ 谷光, 383ページ

  2. ^ abc#昭和天皇実録七巻753-754頁『(昭和十四年四月)十八日 火曜日(駐米大使斎藤博死去/米国大統領への返電)』

  3. ^ ab#写真週報62号p.6『アストリアの結ぶ日米親善』


  4. ^ 昭和14年4月14日官報第3680号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『◎逓信省告示第千六十七號 開港港則施行規制第三十八條ノ規定ニ依リ横濱税關ニ於テ軍艦アストリア號ヨリ故特命全權大使齋藤博遺骨上陸儀禮中昭和十四年四月十七日午後一時ヨリ同一時四十分迄左記區域内ニ於ケル一般船舶ノ航行ヲ禁止ス』


  5. ^ #写真週報62号p.7『午後一時十五分、アストリア號の艦裁定は静かに舷梯に横付され、遺骨を納めた白木造りの御堂は武装の米國水兵に捧持されて艇に移された。』


  6. ^ 昭和14年4月19日官報第3684号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ17『◎勅使差遣 故特命全権大使齋藤博葬送ニ付昨十八日午前九時勅命トシテ侍從入江相政ヲ其邸ニ差遣サレ幣帛ヲ下賜セラレタリ』


  7. ^ #昭和天皇実録七巻757頁『(昭和十四年四月)二十四日 月曜日(米国軍艦アストリア艦長を御引見)』


  8. ^ 昭和14年4月26日官報第3689号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ15『◎謁見(略)米國軍艦アストリヤ艦長大佐リッチモンド、ケリー、ターナー今般渡來ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦副長海軍中佐ポール、シーマー、シースヲ從ヘ本邦駐剳同國匿名全權大使ジョセフ、クラーク、グルー同伴同大使館附海軍武官海軍大佐ハロルド、メッドペリー、ベミスト共ニ一昨二十四日午前十時四十分 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ』


  9. ^ 外部リンク "That pagoda"


  10. ^ 『戦史叢書38』377、414ページ、石橋、244ページ、The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II


  11. ^ 中名生正己「アメリカ巡洋艦はいかに戦ったか」『アメリカ巡洋艦史』156ページ


  12. ^ 中名生, 154、155ページ




参考文献



  • 外務次官沢田廉三『故齋藤大使遺骨礼送艦「アストリア」号来朝ニ関スル件』(故斉藤大使遣骨礼送艦「アストリア」号来朝に関する件) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C01001773600

  • 外務次官沢田廉三『故齋藤大使葬儀並ニ「アストリア」号乗組員ニ対スル便宜供与ニ関シ謝意表明方ノ件』(故斎藤大使葬儀並「アストリア」号乗組員に対する便宜供与に関し謝意表明方の件) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C04014732600


  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書38 中部太平洋方面海軍作戦(1)昭和十七年五月まで』朝雲新聞社、1970年

  • 木津重俊編『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年、ISBN 4-905551-19-6

  • 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X

  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年

  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年


  • 谷光太郎「ターナー上陸軍司令官」『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 978-4054009820

  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年



  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)

    • 『米国海軍大佐「リッチモンド、ケリー、ターナー」外一名叙勲ノ件』。Ref.A10113310500。

    • 『写真週報62号 4月26日』。Ref.A06031065700。




関連項目


  • 第二次世界大戦中のアメリカ海軍の喪失艦一覧


外部リンク



  • Navy photographs of Astoria (CA-34)

  • ごちゃまぜ歴史写真 アストリア号の斎藤大使遺骨礼送

  • That pagoda

  • この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。





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