白露 (白露型駆逐艦)
白露 | |
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基本情報 | |
建造所 | 佐世保海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 白露型駆逐艦 |
艦歴 | |
発注 | マル1計画 |
起工 | 1933年11月14日 |
進水 | 1935年4月5日 |
就役 | 1936年8月20日 |
最期 | 1944年6月15日、タンカーと衝突し沈没 |
除籍 | 1944年8月10日 |
要目(計画時) | |
基準排水量 | 1,685トン |
全長 | 111m |
最大幅 | 9.9m |
吃水 | 3.5m |
ボイラー | ロ号艦本式缶3基 |
主機 | 艦本式オール・ギアードタービン2基2軸 42,000hp |
速力 | 34ノット |
航続距離 | 18ktで4,000浬 |
乗員 | 226名 |
兵装 | 50口径12.7cm連装砲 2基4門 50口径12.7cm単装砲 1基1門 40mm単装機銃 2基 61cm4連装魚雷発射管 2基8門 (魚雷16本) 爆雷投射機2基 爆雷×16 |
白露(しらつゆ)は、日本海軍の駆逐艦[1]。1944年(昭和19年)6月中旬、マリアナ沖海戦を目前にタンカーと衝突して爆沈した[2]。
目次
1 艦名
2 艦歴
2.1 太平洋戦争緒戦
2.2 ソロモン海の戦い
2.3 第二十七駆逐隊
2.4 清洋丸衝突事故
3 歴代艦長
3.1 艤装員長
3.2 艦長
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
艦名
本艦は一等駆逐艦白露型の1番艦である[3]。この名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「白露」に続いて2隻目。『白露』とは露の美称の事で、小倉百人一首第37番には文屋朝康の作として「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」が収められている[4]。
艦歴
「初春型駆逐艦」は当初12隻が建造される予定であったが、復元性能不良が判明し、設計を変更した艦型が有明型駆逐艦である[5]。「白露」は佐世保工廠で1933年(昭和8年)11月14日に起工[6]。同年12月15日、初春型駆逐艦「有明、夕暮」は初春型から除かれ、『一等駆逐艦有明型』が登録された[7]。同日附で建造中の有明型3隻に対しそれぞれ「白露(シラツユ)」、「時雨(シグレ)」「村雨(ムラサメ)」の艦名が与えられる[1]。1934年(昭和9年)11月19日、有明型駆逐艦は登録を抹消されて「有明、夕暮」は初春型に戻り、あらたに白露型駆逐艦が新設、有明型3番艦だった「白露」は同型の1番艦(ネームシップ)となった[7]。1935年(昭和10年)4月5日に進水[6]。1936年(昭和11年)8月20日に竣工した[6]。
同年10月上旬北海道で陸軍特別大演習が実施されるにあたり、昭和天皇は戦艦「比叡」を御召艦として横須賀から北海道へ向かう事になった[8]。竣工したばかりの「白露、時雨」は御召艦「比叡」の供奉艦に指定され、9月24日から10月12日まで同艦と行動を共にした[9]。この北海道行幸後も、「比叡、白露、時雨」は行動を共にする。2隻は1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖で行われた昭和11年特別大演習観艦式(御召艦「比叡」、供奉艦「鳥海、愛宕、足柄」)に参加。再び御召艦「比叡」または「愛宕」の供奉艦(航海時、海軍兵学校行幸時)となり、10月30日の「比叡」横須賀着まで特別任務を遂行した[10]。
太平洋戦争緒戦
1938年(昭和13年)、第27駆逐隊が編成される。白露型2隻(白露、時雨)と初春型2隻(有明、夕暮)の混成部隊であった[11]。太平洋戦争開戦時、同隊は第1艦隊第1水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)に属し、柱島泊地に所在していた。山本五十六連合艦隊司令長官の座乗する戦艦「長門」「陸奥」等と共に小笠原近海まで進出している。なお旗艦「阿武隈」及び第一水雷戦隊所属の第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)は南雲機動部隊の警戒部隊として真珠湾攻撃に参加しており、第27駆逐隊とは別行動であった。
1942年(昭和17年)1月中旬、「白露、時雨」は第九戦隊(司令官岸福治少将:軽巡洋艦大井、北上)の指揮下に入り、台湾方面への輸送船団を護衛した。5月、珊瑚海海戦に参加。6月のミッドウェー海戦では中途まで出撃した。
ソロモン海の戦い
7月中旬、艦隊の編制がかわり第27駆逐隊は第四水雷戦隊(司令官高間完少将:旗艦「由良」)に所属する。四水戦には白露型姉妹艦4隻で構成された第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)が所属しており、既にスラバヤ沖海戦などで活躍していた。8月、第27駆逐隊はマーシャル諸島で活動し、9月2日、アパママを占領。以後、「時雨」と共にガダルカナル島輸送作戦に7回従事。
10月24日、ガダルカナル島米軍ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍総攻撃に呼応し、日本海軍は陸上支援および脱出米艦隊攻撃のため小規模の艦隊を派遣した。「白露」は第6駆逐隊司令山田勇助大佐の指揮下に入り、第6駆逐隊(暁、雷)と共に突撃隊を編制。他に第二攻撃隊(指揮官:高間四水戦司令官、旗艦秋月、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、由良)、輸送隊(敷設艦津軽、軽巡龍田、27駆《時雨、有明》)等がガダルカナル島ルンガ泊地への突入を企図して行動を開始していた。突撃隊3隻(暁、雷、白露)は25日朝にルンガ泊地への突入に成功、「軽巡洋艦1隻、駆逐艦1隻」撃沈を報告。実際は駆逐艦「ゼイン」に対し損傷を与え、艦隊曳船「セミノール」、沿岸哨戒艇「YP-284」を撃沈という戦果をあげた。帰途空襲を受けるが3隻とも重大な損傷を受けることはなかった。だが第二攻撃隊はSBDドーントレス急降下爆撃機とB-17型爆撃機の波状攻撃を受け「由良」沈没、「秋月」中破、「五月雨」小破の損害を受けた。四水戦旗艦は「秋月」より「村雨」、続いて「朝雲」に変更された。
その後、11月12日に第三次ソロモン海戦に参加。第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)はガダルカナル島とラッセル諸島間の警戒が任務だったため、挺身艦隊(第十一戦隊:比叡、霧島)の後方を航行しており、大混戦となった第三次ソロモン海戦第一夜戦には参加していない。同夜戦において第2駆逐隊より「夕立」が沈没している[12]。13日、「白露」は第16駆逐隊「雪風」、「照月、「時雨」、「夕暮」と共同し、第一夜戦で舵故障の損傷を受けた戦艦「比叡」を護衛した。「白露」は機銃掃射で若干の損傷を受けた。午後になり第27駆逐隊は航行不能となった「比叡」の雷撃処分を命じられるが、発射直前に「時雨」に中止命令が出される。実行されたかどうかは不明。
続いて「白露」は一時的に第十八戦隊(司令官松山光治少将)の指揮下に入る[13]。パプアニューギニアのラエに対する輸送作戦参加を命じられ、第27駆逐隊僚艦と分離した。輸送隊は第2駆逐隊司令橘正雄大佐を指揮官とする駆逐艦5隻(春雨、白露、電、磯波、早潮)で編制されていた[14]。11月23日2100分、「白露」以下輸送隊はラバウルを出港し、ラエへ向かった[15]。24日18時以降、輸送隊は米軍機の執拗な夜間空襲を受けて第15駆逐隊の「早潮」が大破、大火災となる[16]。早潮乗組員を各艦で救助したのち、「白露」は「早潮」を砲撃により処分した[17]。輸送作戦も失敗に終わる[18]。
次の任務はブナ輸送作戦であった。第10駆逐隊司令阿部俊雄大佐を指揮官として、駆逐艦4隻(夕雲、巻雲・風雲、白露)は11月28日19時にラバウルを出撃する[19]。進撃中の29日昼間に輸送艦隊はB-17型爆撃機の空襲を受ける[20]。「白露」は直撃弾と至近弾により前部が大破し、船体切断の危機に瀕した[20][21]。戦死者6名[22]。「巻雲」も至近弾により損傷し、輸送作戦は中止された[23]。次の輸送作戦のため「巻雲」は「白露」に接舷すると便乗陸軍兵を受け取り、「巻雲、風雲」は先行してラバウルへ帰投した[24]。「白露」は「春雨、夕雲」に護衛されて夕刻にラバウル着[24]。投錨できないため「白露」は軽巡洋艦「天龍」に接舷して停泊した[24]。
ラバウルで応急修理をおこなったのち、12月19日同地発、22日トラック泊地帰投[25]。工作艦「明石」で修理を行うなどして、1943年(昭和18年)1月はトラック泊地で待機。1月24日、姉妹艦「春雨」は空母「隼鷹」航空隊基地要員をウエワクへ輸送中に米潜水艦「ワフー」の雷撃で大破、擱座した(2月23日、天津風・浦風・雄島に曳航されトラック着)。2月16日、「白露」は陽炎型「野分(左舷機械のみ使用可能)」と共にトラック泊地を出港して内地へ向かうが[26]、悪天候の中で修理した電気溶接の部分に亀裂が生じてしまう[27]。19日12時、2隻はサイパンに緊急退避[28]。上級司令部の命令で「野分」は先に横須賀へ帰投したので、応急修理を施した「白露」は25日単艦でサイパンを出港する[29]。3月2日佐世保に帰投する[30]。前部船体を切断するなどの修理作業が長崎で7月まで行われた[31]。
第二十七駆逐隊
「白露」の修理中も戦局は動いていた。7月12日、コロンバンガラ島沖海戦に参加した第二水雷戦隊司令部は、司令官伊崎俊二少将及び司令部要員ごと旗艦「神通」と共に沈没した。そこで日本海軍は消耗していた第四水雷戦隊を解隊し、同隊戦力と司令部をそのまま第二水雷戦隊に転用した。これにより第27駆逐隊も第二水雷戦隊所属となる。また「時雨」が『呉の雪風、佐世保の時雨』と謳われるようになったのもこの時期である。だが7月20日、第27駆僚艦「夕暮」が米軍機の空襲を受け沈没。7月24日、27駆僚艦「有明」が座礁後に空襲を受け沈没。10月15日附で第27駆逐隊から除籍され、同隊は「時雨、白露」の2隻になってしまった[32]。
同時期、第2駆逐隊も「夕立、村雨」を喪失して「春雨、五月雨」の2隻体制となっており、7月1日附同隊解隊[33]。その後、「五月雨」は10月1日附[34]、「春雨」は11月30日附[35]で第27駆逐隊に編入された。ここに第27駆逐隊は白露型4隻(白露、時雨、五月雨、春雨)で行動することとなった。
修理完成後の「白露」は再びソロモン諸島方面に進出、「時雨、五月雨」と合流した。11月2日、第27駆逐隊は第三水雷戦隊(司令官伊集院松治少将:旗艦「川内」)の直率で米軍巡洋艦部隊と交戦する(ブーゲンビル島沖海戦)。本海戦で「白露」は0052至近弾により舵故障、そのため「五月雨」と衝突して損傷し、「白露」は最大速力16ノット、「五月雨」は20ノットになった[36]。ラバウルへ帰投後、「時雨、白露」は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛して内地へ帰投、佐世保工廠で修理を行った[37]。
1944年(昭和19年)1月以降、船団護衛等に従事。2月には大和型戦艦「武蔵」の護衛を複数回にわたって行う。2月10日トラック→14日横須賀(武蔵、軽巡大淀、白露、初春、満潮、玉波)[38]。24日横須賀→29日パラオ(武蔵、白露、満潮、藤波)[39]。24日、悪天候の中で白露一番砲塔照準口が破損、修理中の少尉候補生1名が波浪にさらわれ行方不明となった[40]。3月29日、連合艦隊司令部はパラオ大空襲を回避するため主力艦をパラオから脱出させた(海軍乙事件)。「武蔵、愛宕、鳥海、高雄、春雨、白露、満潮、藤波、浦風、磯風、谷風、浜風」は外洋へ出る[41]。ところが「武蔵」は米潜水艦「タニー」に襲撃され、魚雷1本命中により小破[42]。連合艦隊司令部は「武蔵」の直衛を第17駆逐隊(浦風、磯風、谷風、浜風)から「白露、藤波、満潮」に入れ替え、「武蔵」を含む4隻を呉へ回航させた(4月3日着)[43]。
5月下旬より第27駆逐隊(白露、時雨、五月雨、春雨)はビアク島への輸送作戦(渾作戦)に加わる。6月2日の第一次渾作戦では戦艦「扶桑」、重巡洋艦「青葉、羽黒、妙高」等と出撃したが、米軍出現の情報によりソロンへ入港した[44]。6月7日、ビアク島増援のため第二次渾作戦に従事、陸軍部隊を載せた駆逐艦6隻(敷波、浦波、時雨、白露、五月雨、春雨)とソロンを出発するが、第27駆逐隊司令艦「春雨」が米軍爆撃機の攻撃で沈没、駆逐隊司令白濱政七大佐が戦死した[45][46]。「白露」も機銃掃射を受け4名戦死、5名の重傷者を出した[47]。戦闘終了後、僚艦と共に春雨乗組員を救助する[48]。8日にビアク島北西で巡洋艦3隻・駆逐艦14隻(日本側は戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦8と誤認)で編成された米艦隊と交戦する[49]。「時雨、五月雨」等が小破し、増援作戦は中止された[50]。「白露」は魚雷8本を発射したが戦果はなく[51]。第27駆逐隊は米艦隊の砲撃を振り切って退避に成功した[52]。
清洋丸衝突事故
6月15日未明、輸送船団(タンカー3隻)を護衛していた「白露」は船団中を不用意に旋回運動を行い、油槽船「清洋丸」と衝突[2]。爆雷誘爆により約3分で沈没した[2]。経過は以下のとおり。
「あ号作戦」発動にともない第27駆駆逐隊(時雨、白露)および駆逐艦「浜風」、「響」、「秋霜」は、第一補給部隊(日栄丸、国洋丸、清洋丸)の護衛を命じられ[53]、6月14日にダバオを出撃して小沢機動部隊本隊との合流地点へむかった[54]。護衛時の隊形は、第17駆逐隊「浜風」が船団先頭にあって、浜風右斜め後方1kmに「日栄丸」、浜風左斜め後方に「国洋丸」、浜風2km後方に「清洋丸」が位置し、船団右側の「日栄丸」(基準艦)と左側「国洋丸」の距離は1km、油槽船3隻は船団航行方向に対し逆三角形に配置されていた[55]。さらに「日栄丸」右舷1.5kmに「響」、「国洋丸」左舷1.5kmに「白露」、「清洋丸」の右舷後方を「時雨」が、同船左舷後方を「秋霜」が警戒していた[55]。
6月15日午前2時40分、ミンダナオ島北東海面は『天気明暗、月齢23.7、濃雲アリテ暗黒ナリシモ12糎双眼鏡ニテ1500米迄艦影ヲ認メ得タリ』という状況であった[56]。船団は速力14ノットを発揮していた[57]。同時刻、「白露」(1,685トン)は米潜水艦の雷撃を回避中に船団内を横断することになり、タンカー「清洋丸」(国洋汽船・1万536トン)と衝突する[58]。「白露」は爆雷と前部弾薬庫の誘爆により海上で炎上、2時43分〜2時47分の間に沈没した[59][60][61]。
当時の状況について、給油船「日栄丸」の事故報告書は『白露は日栄丸の前路を右より左に横ぎり日栄、国洋の間を反転し更に清洋の前を右より左に航過せんとせりしか或はその儘反航せんと企図したるものの如く、その際清洋丸(之字運動のため右に60度変針)[62]右に回頭せしめたため清洋丸の艦首にて衝撃せられたるなる可し』『(白露)0241ヨリ約3分間ニシテ沈没セリ 爾後約一分間海上ニ火災アリ 爆雷一個爆発セリ』と報告[63]。以下の如くの所見を報告した[64]。
- (一) 護衛艦ハ船団ノ前路ヲ横断シ又ハ船団隊内ニ入ルベ可ラズ[64]
- (二) 船團内ノ各船ハ厳格ニ正位置ヲ保持スベシ[64]
- (三) 事故発生ノ際 信号ハ処置ニ必要ナルモノヲ最小限度ニ止ム可シ(不用意発光信号ヲ発スルモノアリレタメ)[64]
- (四) 事故発生ノ際最近ノ護衛艦ハ令ナクシテ救助ニ當リ爾余ノ隊ハ特令ナケレバ任務ヲ続行スベシ[64]
- (五) 見張ヲ厳ニシ他ノ行動ニ注意シ彼我行動ノ正否如何ニ拘ラズ不祥事ヲ起サザル様注意スベシ[64]
「白露」の生存者は第17駆逐隊「浜風」等に救助された[65]。「浜風」によれば、スコールを抜けたところ「白露」の姿がなく騒動となり、「浜風」は補給部隊司令官の命令により反転救助へ向かう[58]。すると白露水雷長が投げ込んだ訓練用魚雷(魚雷頭部に発光装置がある)の明かりを発見、午前6時以降全力で救助作業を行ったという[58]。生存者准士官以上12名、下士官兵143名(浜風報告では141名だが、清洋丸に2名救助されている)[66]。沈没地点(北緯9度10分 東経126度50分 / 北緯9.167度 東経126.833度 / 9.167; 126.833)[67]。「日栄丸」戦闘詳報によれば事故発生地点は(北緯9度50分 東経126度56分 / 北緯9.833度 東経126.933度 / 9.833; 126.933)[56]。または(北緯9度9分 東経126度05分 / 北緯9.150度 東経126.083度 / 9.150; 126.083)[68]。
なお「白露」と衝突した「清洋丸」は浸水被害を受けたものの重大な損傷とは見做されず[66]、そのまま第一補給部隊としてマリアナ沖海戦に参加した。6月20日、「清洋丸」は米軍機動部隊艦載機の空襲を受け損傷し、護衛の第17駆逐隊「雪風」により雷撃処分された[69]。
8月10日、「白露」と「春雨」は白露型駆逐艦[70]、
第27駆逐隊[71]、
帝国駆逐艦籍[72]より除籍された。
なお「白露」「春雨」除籍から間もなく、「五月雨」は8月18日にパラオ近海で座礁、26日に米潜水艦の雷撃を受けて大破・放棄された。10月10日附で除籍[73]、「時雨」1隻のみとなった第27駆逐隊も解隊された[74]。10隻が建造された白露型駆逐艦はこの時点で「時雨」1隻となっていた。
歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』301-303頁による。階級は就任時のもの。
艤装員長
- 天谷嘉重 少佐:1935年8月15日 - 1936年6月1日[75]
艦長
- 天谷嘉重 少佐:1936年6月1日[75] - 1936年12月1日
- 福岡徳治郎 少佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日[76]
- 谷井保 少佐:1937年12月1日 - 1938年8月2日[77]
- 勝見基 少佐:1938年8月2日 - 1939年2月20日[78]
- 浜中脩一 少佐:1939年2月20日[78] - 1939年4月1日[79]
- 竹大孝志 少佐:1939年4月1日 - 1939年11月15日[80]
- 鈴木保厚 少佐:1939年11月15日 - 1940年10月15日[81]
- 杉谷永秀 少佐:1940年10月15日 -
- 橋本金松 少佐:1942年4月25日 -
- 松田九郎 少佐:1943年9月14日 -
脚注
- ^ ab#達昭和8年12月pp.11-12『達百四十九號 艦艇製造費ヲ以テ昭和八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦二隻掃海艇一隻左ノ通命名ス|昭和八年十二月十五日 海軍大臣大角岑生|驅逐艦 佐世保海軍工廠ニ於テ建造 白露シラツユ|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 時雨シグレ|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 村雨ムラサメ|潜水艦 三菱造船株式會社神戸造船所ニ於テ建造 伊號第七十二潜水艦|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 伊號第七十三潜水艦|掃海艇 株式會社大阪鉄工所ニ於テ建造 第十七號掃海艇』
- ^ abc#戦藻録(1968)347頁
^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『驅逐艦|一等|白露型|白露、時雨、村雨、夕立、春雨、五月雨、海風、山風、江風、涼風』
^ #日本海軍艦艇写真集17駆逐艦34頁
^ #駆逐艦戦隊106-110頁『「初春」型建造経過』
- ^ abc#昭和12年12月1日現在艦船要目公表範囲p.4『白露|一等駆逐艦|(艦諸元略)|佐世保工廠|8-11-14|10-4-5|11-8-20|(装備略)』
- ^ ab#駆逐艦戦隊105-106頁
^ #北海道行幸の際の海軍儀礼、行動等に関する件(2)p.1
^ #北海道行幸の際の海軍儀礼、行動等に関する件(2)p.10
^ #和11年特別大演習観艦式賜饌艦設備に関する件 訓令中改正の件(1)p.8,13『午後2時40分、御召艦横須賀ニ向ケ出港ス。駆逐艦時雨、白露ハ賜饌後御召艦附近ニ待機シ御召艦出港ノ際供奉ス』
^ #日本海軍艦艇写真集17駆逐艦35頁
^ 白露と共にルンガ泊地に突入した第6駆逐隊の「暁」も、山田勇助駆逐隊司令と共に沈没している。
^ #昭和17年9月〜18戦隊日誌(6)p.5『ロ.任務編制軍隊区分』
^ #昭和17年9月〜18戦隊日誌(7)p.7『2dg司令指揮下春雨、白露、電、磯波、早潮ヲ以テ特別護送隊ヲ編成、佐五特本隊(RZL)横五特一部及582空(以上RZM)人員物件ヲ搭載…』
^ #昭和17年9月〜18戦隊日誌(7)p.7『…11月23日2100RR出撃RRi北方航路ヲ西進天候予期ニ反シ良好ナリシモ敵機ノ触接ヲ受ケザリシヲ以テ進撃続行…』
^ #戦藻録(1968)248頁
^ #昭和17年9月〜18戦隊日誌(7)p.9『尓後火災全艦ヲ覆ヒ白露砲撃(指揮官ノ令ニ依ル)ト相前後シ魚雷誘爆艦中央部大破シテ2305沈没セルヲ以テ全隊RRニ向ヒ25日未明ヨリ敵機ノ触接ヲ受ケタルモ異状ナク1800RR着』
^ #昭和17年9月〜18戦隊日誌(6)p.3『25日夜ヲ期シテ決行セルRZM.RZL方面海軍部隊ノ増強スラ敵機ノ妨害ヲ受ケ我ガ方駆逐艦1ヲ失ヒテ挫折ノ已ムナキニ至レリ』
^ #昭和17年9月〜18戦隊日誌(7)p.10『…29日夜突入ニ決シ10dg(秋雲欠)白露ハ陸軍山縣兵団長以下約800名ヲ搭載10dg司令官指揮下ニ28日1900RR出撃…』
- ^ ab#戦藻録(1968)250頁
^ #昭和17年9月〜18戦隊日誌(8)p.27『(二)損傷「白露」(11.29)損傷概要:前部士官室、左舷側直撃弾ニ依リ大破孔、船体歪曲、1・2区漏水、1・2号缶使用不能|記事:P.T回航可修理迄要20日間、P.Tニテ修理ノ上内地回航徹底修理ヲ要ス』
^ #昭和17年9月〜18戦隊日誌(8)p.28『(三)戦死(行方不明ヲ含マズ)「白露」(11.29)准士官以上0、下士官兵6、計6』
^ #昭和17年9月〜18戦隊日誌(7)p.10『…29日1100ロング島トロキワ島中間ニ於テ敵B-17型6機ト交戦其ノ1機ヲ撃墜(不確実)セルモ白露直撃弾至近弾各一ヲ受ケ大破(船以可能速力9節)巻雲亦至近弾各ニ依リ損傷セルヲ以テ敵機天候ノ状況同夜ノ揚陸不可能ト判断、追撃ヲ中止シ反転帰途ニ附キ…』
- ^ abc#昭和17年9月〜18戦隊日誌(7)p.10『…白露ヲ護衛RRニ向ヒアリタルガ第一次輸送不成ノ緊急対策トシテ1日夜別編先遣増援隊揚陸ニ決シ10dg司令ハ護衛指揮ヲ風雲駆逐艦長ニ委シ巻雲(兵団長乗艦)ハ先行30日0730RR着、風雲亦1200頃ヨリ先行ノ予定ナリシヲ以テ2dg司令ニ白露ノ護衛ヲ命ジ巻雲ヲシテ直ニ陸軍人員ノ移乗死傷者ノ処置及船体兵器機関損所ノ検査修理ニ當ラシメタリ、1400風雲・1700 2dg(春雨)夕雲白露夫々RR着、白露ハ投錨不能ナリシヲ以テ天龍ニ横付セシム…』
^ #昭和17年12月〜四水戦日誌(1)p.14『白露ハ前月29日「ブナ」陸軍増援輸送任務中敵機ノ爆撃ニ依リ船體ニ被害アリ「ラボール」ニ於テ応急修理ヲ行ヒ19日同地発22日「トラック」着修理ニ従事ス』
^ #野分物語(文庫)46-47頁
^ #昭和17年12月〜四水戦日誌(4)p.39『19日1812白露/17日18日荒天(風向北東突風22米平均風速19米傾斜片舷1?度)ニ依リ?テ怒濤ノ衝撃ヲ受ケ左舷30糎程ノ口ヲ起シ左ノ損傷ヲ生ジタリ|一.左舷自19番ビーム至30番ビーム最大幅40糎最少幅15糎ノ破口亀裂』
^ #昭和17年12月〜四水戦日誌(4)p.38『19日1200野分/1200野分、白露「サイパン」着』
^ #昭和17年12月〜四水戦日誌(4)p.10『白露ハ「トラック」ニ於テ応急修理ノ上16日「トラック」発(野分ト同航同駆逐艦長ノ指揮ヲ受ク)18日荒天ノ為損傷部ノ一部破損シ19日「サイパン」ニ入港応急工事ヲ実施25日「サイパン」発単独佐世保ニ回航ス』-p.57『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動』
^ #昭和17年12月〜四水戦日誌(5)p.7『白露ハ前月25日単独「サイパン」発2日佐世保着尓後同地ニ於テ船体修理ニ従事ス』
^ #日本海軍艦艇写真集17駆逐艦38-39頁
^ #内令昭和18年10月(4)p.8『内令第二千百五十九號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月十五日海軍大臣嶋田繁太郎|第四駆逐隊ノ項中「嵐、萩風、」ヲ、第十一駆逐隊ノ項中「初雪、」ヲ、第二十四駆逐隊ノ項中「江風、」ヲ、第二十七駆逐隊ノ項中「有明、夕暮」ヲ、第三十駆逐隊ノ項中「三日月、」ヲ、第三十一駆逐隊ノ項中「、清波」ヲ削ル』
^ #内令昭和18年7月(1)p.37『内令第千三百十一號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年七月一日海軍大臣嶋田繁太郎 第二駆逐隊ノ項ヲ削ル』
^ #内令昭和18年10月(1)p.11『内令第二千三十五號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月一日海軍大臣嶋田繁太郎|第二十七駆逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、五月雨」ヲ加フ|第三十二駆逐隊ノ項中「早波」ノ下ニ「、玉波」ヲ加フ』
^ #内令昭和18年11月(6)p.21『内令第二千五百二十一號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十一月三十日海軍大臣嶋田繁太郎|第二十七駆逐隊ノ項中「五月雨」ノ下ニ「、春雨」ヲ加フ|第三十駆逐隊ノ項中「卯月」ノ下ニ「、夕月」ヲ加フ』
^ #戦史叢書96ガ島撤収後393頁
^ #S1806二水戦日誌(5)p.14『12日時雨、白露5Sノ直衛トシテ佐世保ニ向ケ「トラツク」発 時雨17日、白露18日佐世保着、20日入渠爾後待機整備』
^ #武藏上264頁
^ #武藏上268頁
^ #武藏上272頁
^ #武藏上300頁
^ #武藏上308頁
^ #武藏上312頁
^ #戦藻録(1968)335-336頁
^ #昭和19年6月〜第27駆逐隊日誌(1)p.6
^ #戦藻録(1968)338頁
^ #昭和19年6月〜第27駆逐隊日誌(4)p.18
^ #昭和19年6月〜第27駆逐隊日誌(2)p.9『1319 白露 春雨ノ救助ヲ始ム』
^ #戦藻録(1968)339頁
^ #昭和19年6月〜第27駆逐隊日誌(1)p.7
^ #昭和19年6月〜第27駆逐隊日誌(1)p.27『2245白露→渾部隊/我発射セリ發射雷数八本』
^ #昭和19年6月〜第27駆逐隊日誌(4)p.18『0300迄敵艦隊ノ追跡砲撃ヲ受ク 一時危機ニ陥リシモ離脱』
^ #昭和19年6月〜第27駆逐隊日誌(1)p.8、#日栄丸日誌(3)白露遭難p.7
^ #武藏上463頁
- ^ ab#日栄丸日誌(3)白露遭難p.42
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^ #日栄丸日誌(2)白露遭難p.27
- ^ abc#武藏上464-467頁
^ #昭和19年6月〜第27駆逐隊日誌(1)p.10『・240 白露清洋丸ト触衝 白露大爆發・243 白露沈没 浜風救助ニ赴ク』
^ #昭和19年6月〜第27駆逐隊日誌(4)p.19『敵潜水艦ノ魚雷航跡ヲ発見 回避運超中 重油船ト触衝 爆雷誘發 0247頃沈没ス』
^ #日栄丸日誌(3)白露遭難p.24『6月15日 浜風駆逐艦長 浜風機密第150845番電/左舷補機室附近ニ清洋丸艦首ト触衝 爆雷及前部弾薬庫誘爆 0245 沈没ス 救難者準士官以上12名下士官兵141名 艦長戦死』
^ #日栄丸日誌(2)白露遭難p.30
^ #日栄丸日誌(3)白露遭難pp.24-25, 44-45
- ^ abcdef#日栄丸日誌(2)白露遭難pp.24-25、#日栄丸日誌(3)白露遭難pp.21-22, 44-45
^ #あ号作戦戦時日誌(2)p.24『(浜風)15日白露ハ清洋丸ト衝突沈没スルヤ之ガ救助ニ任ズ』
- ^ ab#日栄丸日誌(3)白露遭難pp.43-45
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^ #あ号作戦戦時日誌(2)p.25『二十日清洋丸敵艦爆ニ依ル被害甚大ノ為メ放棄ニ決スルヤ雪風之ヲ雷撃處分ス』
^ #内令(秘)昭和19年8月(3)p.9『内令第九三七號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十九年八月十日 海軍大臣|軍艦、航空母艦ノ部中「、飛鷹」ヲ、同敷設艦ノ部中「、津軽」ヲ削ル|驅逐艦、一等神風型ノ項中「、松風」ヲ、同卯月型ノ項中「、水無月」ヲ、同白露型ノ項中「白露、」「、春雨」ヲ、同不知火型ノ項中「、谷風」ヲ、同夕雲型ノ項中「、早波」ヲ削ル(以下略)』
^ #内令(秘)昭和19年8月(3)p.10『内令第九四一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年八月十日 海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「谷風、」ヲ削ル|第二十二驅逐隊ノ項中「水無月、」ヲ削ル|第二十七驅逐隊ノ項中「白露、」及「、春雨」ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「松風、」ヲ削ル|第三十二驅逐隊ノ項中「早波、」ヲ削ル』
^ #内令(秘)昭和19年8月(3)p.11『内令第九四三號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 津軽|呉鎮守府在籍 軍艦 飛鷹 右帝国軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 春雨|呉鎮守府在籍 驅逐艦 谷風|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 白露、驅逐艦 水無月、驅逐艦 松風|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 早波 右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 呂號第百十六潜水艦、呂號第百十七潜水艦|呉鎮守府在籍 伊號第三十三潜水艦、呂號第百四潜水艦、呂號第百五潜水艦、呂號第百十四潜水艦|佐世保鎮守府在籍 伊號第百八十三潜水艦、伊號第百八十四潜水艦、伊號第百八十五潜水艦、呂號第百六潜水艦、呂號第百八潜水艦、呂號第百十一潜水艦|舞鶴鎮守府在籍 呂號第三十六潜水艦、呂號第四十二潜水艦、呂號第四十四潜水艦|右帝国潜水艦籍ヨリ除カル|舞鶴鎮守府在籍 第二十四號海防艦 右帝国海防艦ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 特務艦 塩屋 右帝国特務艦籍ヨリ除カル|昭和十九年八月十日 海軍大臣』
^ #内令(秘)昭和19年10月(2)p.35『内令第一一五九號 艦艇類別等級別表中次ノ通改正ス 昭和十九年十月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等長良型ノ項中「長良、」「、名取」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「大鷹、」ヲ、同敷設艦ノ部中「、白鷹」ヲ削ル|驅逐艦、一等神風型ノ項中「、朝風」「、夕凪」ヲ、同初雪型ノ項中「、敷波」ヲ、同白露型ノ項中「、五月雨」ヲ、同松型ノ項中「松、」ヲ削ル(以下略)』
^ #内令(秘)昭和19年10月(2)pp.35-36『内令第一一六二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十月十日海軍大臣|第十九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十七驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「、夕凪」ヲ削ル|第四十三驅逐隊ノ項中「松、」ヲ削リ「槇」ノ下ニ「、桐」ヲ加フ』
- ^ ab『官報』第2823号、昭和11年6月2日。
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参考文献
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- Ref.C08030148300 『昭和19年6月1日〜昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。「渾作戦警戒隊戦闘詳報 自昭和19年6月8日至昭和19年6月9日 駆逐艦五月雨」
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- Ref.C08030685200 『昭和19年5月1日〜昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(2)』。「自昭和19年6月1日至昭和19年6月30日 特設運送船(給油船)日榮丸戦時日誌」
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ISBN 4-257-17283-5。 - 雑誌「丸」編集部 『ハンディ判日本海軍艦艇写真集 17 駆逐艦 春雨型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』 光人社、1997年10月。
ISBN 4-7698-0818-6。 - 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』(光人社、1997) ISBN 4-7698-0803-8
著者は1943年12月から1944年9月まで「野分」航海長勤務。トラック空襲時、「香取」を護衛。
- 佐藤静夫 『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』 光人社NF文庫、2004年1月。
ISBN 4-7698-2408-4。
- 佐藤静夫 『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』 光人社NF文庫、2004年1月。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
- 手塚正己 『軍艦武藏 上巻』 新潮文庫、2009年。
ISBN 978-4-10-127771-4。
関連項目
- 白露
- 水雷戦隊
- 海難事故
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