青葉 (重巡洋艦)
青葉 | |
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公試中の青葉(1927年) | |
基本情報 | |
建造所 | 三菱造船長崎造船所 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 重巡洋艦 |
級名 | 青葉型重巡洋艦 |
艦歴 | |
発注 | 大正12年度艦艇補充計画 |
起工 | 1924年2月4日 |
進水 | 1926年9月25日 |
就役 | 1927年9月20日 |
最期 | 1945年7月28日、呉にてアメリカ軍機の攻撃を受け大破、着底 |
除籍 | 1945年11月20日 |
その後 | 1947年7月1日、解体 |
要目(竣工時 → 改装後) | |
基準排水量 | 8,300トン → 9,000トン |
全長 | 185.17 m |
最大幅 | 15.83 m → 17.56 m |
吃水 | 5.71 m → 5.66 m |
主缶 | ロ号艦本式缶専焼10基、同混焼2基 → ロ号艦本式専焼缶12基 |
主機 | 三菱パーソンズ式タービン4基4軸 |
出力 | 102,000馬力 |
速力 | 36ノット → 33.43ノット |
燃料 | 重油1,400トン 石炭:400トン → 重油:2,040トン |
航続距離 | 14ノット7,000海里 → 14ノットで8,223海里 |
乗員 | 643名 → 657名 |
兵装 | 竣工時 50口径20cm連装砲3基6門 45口径12cm単装高角砲4門 61cm連装魚雷発射管6基 八年式二号魚雷24本 留式7.7mm機銃2挺 改装後 50口径20.3cm連装砲3基6門 45口径12cm単装高角砲4門 61cm4連装魚雷発射管2基 九三式魚雷16本 25mm連装機銃4基 13mm連装機銃2基 |
装甲 | 舷側76mm 水平32-35mm 主砲25mm |
搭載機 | 1機 → 2機 (カタパルト0 → 1基) |
青葉(あおば/あをば)は[1][2]、日本海軍の重巡洋艦[3]。
青葉型重巡洋艦(青葉型一等巡洋艦)の1番艦[4]。
三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で建造された[5][6]。
その艦名は、京都府加佐郡に位置する青葉山から因んで名付けられた[7][8][9][10]。艦内神社は青葉山の青葉神社。
目次
1 艦歴
1.1 建造経緯
1.2 竣工後
1.3 太平洋戦争緒戦
1.4 ガダルカナル島の戦い
1.5 昭和18年の行動
1.6 第十六戦隊
1.7 最期
2 歴代艦長
2.1 艤装員長
2.2 艦長
3 同型艦
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
艦歴
建造経緯
古鷹型重巡2隻・青葉型重巡2隻のうち、加古・衣笠は神戸川崎造船所で、古鷹・青葉は三菱長崎造船所で建造されている。大正時代の日本海軍は、7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷)[11]。
1922年(大正11年)8月11日、建造予定の一等巡洋艦2隻に『衣笠』と『古鷹』の艦名が与えられた[12]。
10月9日、川内型軽巡洋艦として建造予定だった『加古』の艦名を一等巡洋艦1番艦に流用する事が決定する[13]。それと共に加古・古鷹・衣笠は一等巡洋艦に類別された[14][15]。
この変更により衣笠はどの造船所で建造するかも『未定』となってしまった[16]。
1923年(大正12年)9月18日、建造予定の一等巡洋艦に『青葉』の艦名が与えられ[1]、加古・古鷹・衣笠に続く4隻目の一等巡洋艦として登録された[17]。同日附で衣笠を川崎重工業神戸造船所で建造する事が正式に決まった[18]。
軍艦青葉は仮称艦名第4甲級巡洋艦として1924年(大正13年)2月4日、起工[19][20]。
1926年(大正15年)9月25日、進水[5][21]。進水式には皇族の高松宮宣仁親王海軍少尉が立ち会っており[22]、進水式に派遣された第五戦隊(重巡〈加古、古鷹〉、軽巡〈川内、由良〉)のうち古鷹に乗艦している[23][24]。加古・古鷹も参加した進水式は無事に終了した[25][26]。
1927年(昭和2年)4月11日、三菱造船所に青葉艤装員事務所を設置[27]。
青葉は9月20日に竣工した[5]。同日附で艤装員事務所を撤去[28]。
なお姉妹艦衣笠は1924年(大正13年)1月23日に起工、1925年(大正15年)10月24日進水、1926年(昭和2年)9月30日竣工[29][30]。青葉と比べて起工は衣笠の方がはやかったが、進水(青葉9月25日/衣笠10月24日)・竣工(青葉9月20日/衣笠9月30日)ともに青葉からやや遅れている[5][30]。
後日、ロンドン海軍軍縮会議の結果『ロンドン海軍軍縮条約』が1930年(昭和5年)10月2日に締結されて日本が批准すると、加古型(古鷹型)・青葉型の計4隻(加古、古鷹、青葉、衣笠)は甲巡洋艦(重巡洋艦)に定義され、これにともない日本海軍の「一等巡洋艦・二等巡洋艦」の定義も変更された[31]。
竣工後
1927年(昭和2年)9月20日の竣工と共に、青葉は佐世保鎮守府籍に編入された[20]。同年12月1日、青葉型2隻(青葉、衣笠)は第二艦隊・第五戦隊に編入[20][30]。第五戦隊は一等巡洋艦4隻(加古、古鷹、青葉、衣笠)を揃えた。旗艦は加古から衣笠に交代している[32][33]。
1928年(昭和3年)12月4日、第五戦隊(衣笠、青葉、加古、古鷹)は御大礼特別観艦式(横浜沖、御召艦榛名)に参加した[34]。同年度の艦隊編制替でも第五戦隊の構成は変わらず、引き続き重巡4隻(加古、古鷹、衣笠、青葉)を揃えた[35]。
1929年(昭和4年)11月7日、古鷹は第五戦隊から除かれた[36][37]。第五戦隊は重巡3隻(加古、衣笠、青葉)となった[37]。
1930年(昭和5年)12月1日、重巡2隻(加古、衣笠)が予備艦となり第五戦隊から除かれ[30][38]、古鷹を編入[36]。第五戦隊は2隻(青葉、古鷹)となった[39]。
1931年(昭和6年)5月8日、カタパルト(呉式二号射出機)の不調により[40]、青葉の搭載飛行機(一五式水上偵察機)が墜落事故を起こした[41]。12月1日、重巡2隻(青葉、古鷹)は予備艦となる[20][36]。第五戦隊は当分編制しないことになった[42]
1932年(昭和7年)12月1日、重巡3隻(青葉、衣笠、加古)[43]で第五戦隊を編制[20][30][38]。
1933年(昭和8年)5月20日、ふたたび第五戦隊は当分編制しないことなり[44]、重巡3隻(加古[38]、青葉[20]、衣笠[30])は第六戦隊を編制する[44]。
11月15日、第六戦隊から加古が外れ[38]、古鷹が編入された[36]。同隊は重巡3隻(古鷹、衣笠、青葉)となった[45]。
1934年(昭和9年)11月15日、青葉型2隻(青葉、衣笠)は呉鎮守府籍へ転籍した[20][30]。同日附で三川軍一大佐(青葉艦長)は重巡鳥海艦長へ転任[46]。軍令部副官伍賀啓次郎大佐が青葉艦長に補職される[47]。
1935年(昭和10年)11月15日、青葉型2隻(青葉、衣笠)は第七戦隊に編入された[20][30]。
1936年(昭和11年)2月15日、古鷹が第七戦隊に編入される[36]。当時は古賀峯一少将を司令官として第七戦隊(青葉〈旗艦〉、衣笠、古鷹)を編制していた[48]。10月、青葉と衣笠は夜間航行中に衝突事故を起こした[49]。訓練終了後、青葉・衣笠・古鷹の単縦陣は速度を6ノットに減速することになったが、衣笠は青葉の信号を見落とし9ノットで直進、誰一人気付かないまま青葉の艦尾に衝突した[50]。衣笠の艦首は潰れてしまったが、深刻な損害ではなかった[51]。
12月1日、重巡3隻(青葉、衣笠、古鷹)は予備艦となる[20][30][36]。
太平洋戦争開戦以前は日中戦争に出動し、上海上陸作戦の支援などを行っている。
1938年(昭和13年)6月3日、松山光治大佐(衣笠艦長)は重巡高雄艦長へ転任[52]。姉妹艦である青葉艦長広瀬末人大佐が青葉艦長と衣笠艦長を兼務することになる[52]。6月15日、佐藤勉大佐(当時、軽巡球磨艦長)が衣笠艦長に任命されたことで、広瀬大佐は衣笠艦長の兼務を解かれた[53]。
同年11月〜1940年10月まで改装工事を行い、主砲の口径を20.3cmに変更した。
1940年(昭和15年)11月15日、青葉は第六戦隊(加古、古鷹)に編入[54][20]。同隊は重巡3隻(青葉、加古、古鷹)となる。
1941年(昭和16年)3月1日、衣笠が第六戦隊に編入される[54][30]。第六戦隊は重巡4隻(青葉、加古、衣笠、古鷹)を揃えた[54]。
第六戦隊旗艦は3月下旬に一時加古から古鷹に変更された[55][56]。続いて加古から青葉に替わるが[57]、4月10日に加古に戻った[58]。
8月12日、第六戦隊旗艦を青葉に変更する[59]。
9月15日、第六戦隊司令官は牧田覚三郎少将から五藤存知少将に交代する(五藤少将は、当時の第二水雷戦隊司令官。後任は田中頼三少将)[60]。五藤少将は正式に第六戦隊旗艦を加古から青葉に変更した[61]。
太平洋戦争緒戦
1941年(昭和16年)12月8日の開戦時、本艦は南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官。旗艦鹿島)・第六戦隊(司令官五藤存知少将:第1小隊〈青葉、加古〉、第2小隊〈衣笠、古鷹〉)に所属し、トラック諸島方面へ進出、グアム島攻略作戦など中部太平洋の作戦に参加した[54]。
一方、開戦劈頭でのウェーク島占領を企図したウェーク島攻略部隊(指揮官梶岡定道少将)は、第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将:軽巡〈夕張〉、第29駆逐隊〈追風、疾風〉、第30駆逐隊〈睦月、如月、弥生、望月〉)と第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将:天龍、龍田)を基幹として攻撃を開始したものの、F4Fワイルドキャット戦闘機4機と陸上砲台の反撃により駆逐艦2隻(如月、疾風)を撃沈され、撃退された[62]。そこで12月21日の第二次攻略作戦では、南雲機動部隊より派遣された第八戦隊司令官阿部弘毅少将指揮下の第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)の空母2隻(蒼龍、飛龍)、第八戦隊の重巡2隻(利根、筑摩)、第17駆逐隊の駆逐艦2隻(谷風、浦風)が作戦に参加し、さらに第六戦隊の重巡4隻も投入された。12月21日に攻撃は開始され、23日にウェーク島のアメリカ軍海兵隊は降伏した[63]。
その後、1942年(昭和17年)2月に海軍従軍作家の海野十三が青葉に乗艦し、将兵の生活を従軍記にまとめている[64]。海野は青葉将兵の勤務態度に強い感銘を受けると同時に、居住環境の悪さについても言及している[65]。
1942年(昭和17年)4月下旬、ポートモレスビー攻略を目指してMO攻略部隊が編制され、青葉以下第六戦隊重巡4隻、空母祥鳳(南洋部隊所属)、駆逐艦漣(第7駆逐隊)、第六水雷戦隊(旗艦夕張)等は、第四艦隊司令長官井上成美中将を総指揮官として作戦に参加する(ポートモレスビー作戦)[66]。
5月7日、第六戦隊の水上偵察機はアメリカ軍機動部隊の位置把握に貢献したが、一方でアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けた。第六戦隊と漣は祥鳳を護衛しきれず、祥鳳は集中攻撃を受けて撃沈された[67]。五藤司令官(青葉座乗)はアメリカ軍の第二次空襲を回避するため北東への退避を決定、このため六戦隊は約300名ほどの祥鳳脱出者を救助することが出来なかった[68]。内火艇をおろしかけていた青葉では退避決定を受けて救助作業を中止、漂流する生存者たちに『ユックリヤッテレアトデムカエニクル』の手旗信号が送られたという[69]。空襲の危険が去ったのち漣が反転して祥鳳の沈没現場に戻り、203名を救助した[70]。
5月8日、第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊に編入され第五戦隊(妙高〈旗艦〉、羽黒)や第五航空戦隊の空母2隻(瑞鶴〈旗艦〉、翔鶴)等と合流すべく分離、六戦隊第1小隊(青葉、加古)は引き続き第六水雷戦隊やMO攻略部隊と行動を共にした[71]。
5月下旬から6月上旬にかけて、第六戦隊は日本本土へ回航され呉で整備に従事していた[72][20]。6月5日、日本海軍はミッドウェー海戦で大敗を喫し、連合国軍の重要拠点ポートモレスビーの攻略とソロモン諸島における基地航空兵力の拡充は急務とされた[73]。第六戦隊および第十八戦隊(天龍、龍田)は各隊・各小隊ごとに南方へ出撃し、7月上旬までにソロモン諸島へ進出した[72][20]。
第四艦隊(司令長官井上成美中将)は『SN作戦』(南太平洋方面の航空基地適地調査・設営・各航空基地強化)と『「リ」号研究作戦』を下令する[74]。ガダルカナル島航空基地の設置、ラエ、カビエン、ツラギ、ラバウル各基地の強化、またソロモン諸島航空基地適地の捜索等の諸任務に、第六戦隊・第十八戦隊・第六水雷戦隊(夕張、第29駆逐隊〈追風、夕月〉)・第30駆逐隊(睦月、望月、卯月)等を投入する[75]。第六水雷戦隊(夕張、追風、夕月、卯月、睦月)はガダルカナル島の基地設営輸送船団を護衛、ガダルカナル島へむかった[76]。7月14日、連合艦隊第二段作戦第二期の兵力部署改編により第六戦隊・十八戦隊・夕張・各駆逐隊は外南洋部隊に編入された[72]。
ガダルカナル島の戦い
1942年(昭和17年)8月7日、東部ニューギニア方面の「レ」号作戦支援、SN作戦支援のため六戦隊第1小隊(青葉、加古)はアドミラルティ諸島方面へ、第2小隊(衣笠、古鷹)はラバウルに向けて出発した[77]。同日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動しガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いが始まった。五藤司令官は独断で作戦を中止し、六戦隊4隻を率いて第八艦隊旗艦鳥海(司令長官三川軍一中将)と合流すべくラバウルへ急行した[78]。夕刻、ラバウル港外で8隻(重巡5隻〈鳥海、青葉、加古、衣笠、古鷹〉、軽巡2隻〈天龍、夕張〉、駆逐艦1隻〈夕凪〉)の艦艇が集結する[79]。回転整合すら行っていない「烏合の衆」であったが、ガダルカナル島方面へ出動した[80]。
8月8日-9日、第六戦隊は外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官(元鳥海・元青葉艦長)の指揮下で第一次ソロモン海戦に参加する。夜戦突入前の8日早朝、外南洋部隊重巡(鳥海、青葉、衣笠、加古)は各艦水上偵察機1機(計4機)を発進させ、ガ島周辺の偵察を実施した[81]。青葉1号機はガ島方面の偵察を実施、ツラギ南西90浬に戦艦らしきもの1隻、ツラギ沖に大巡1・商船4・駆逐艦3、ガ島泊地に商船15・駆逐艦4・軽巡2を報じた[81]。この情報と基地航空隊の報告を総合し、第八艦隊はガダルカナル島のアメリカ軍勢力を戦艦1・巡洋艦4・駆逐艦9・輸送船15と判断し、突入を決断している[81]。夜戦においては、本艦の魚雷発射管への被弾で小火災が発生するが、大事には至らなかった[82]。本戦闘で魚雷のほかに20cm砲183発、12cm高角砲84発、25mm機銃190発を発射した[83]。
8月9日午前8時、三川長官直率隊(鳥海、天龍、夕張、夕凪)が分離してラバウルとショートランド泊地へ向かい、六戦隊の重巡4隻はカビエンへ向かった[84]。しかし10日午前7時15分、青葉の後方800mを航行していた加古がアメリカの潜水艦S-44の雷撃で撃沈された[84][38]。青葉水上偵察機1機が戦隊前路を警戒していたが、S-44を阻止できなかった[84]。また六戦隊も之字運動を実施しておらず、乗組員の疲労も頂点に達していたという事情もある[84]。第六戦隊は3隻(青葉、古鷹、衣笠)となった。
8月24-25日、鳥海及び第六戦隊は第二次ソロモン海戦に際し増援部隊輸送船団(指揮官/第二水雷戦隊司令官田中頼三少将:旗艦神通)支援のために出動した[30]。だが戦局には全く関与しなかった。
10月11日、水上機母艦2隻(日進、千歳)および護衛の駆逐艦(秋月型〈秋月〉、第19駆逐隊〈綾波〉、第11駆逐隊第1小隊〈白雪、叢雲〉、第9駆逐隊〈朝雲、夏雲〉)はガダルカナル島へ物資を揚陸、それと並行して第一次挺身攻撃隊(第六戦隊部隊)および第二次挺身攻撃隊(指揮官/第三戦隊司令官栗田健男中将:戦艦〈金剛、榛名〉、第二水雷戦隊〈軽巡五十鈴、第15駆逐隊、第24駆逐隊、第31駆逐隊〉)によるヘンダーソン基地艦砲射撃を実施するため出撃する[85]。第六戦隊は10月上旬からヘンダーソン飛行場基地に対する砲撃に備え、訓練をおこなっていた。
第六戦隊司令官五藤存知少将を指揮官とする外南洋部隊支援隊は、重巡3隻(青葉、衣笠、古鷹)、第11駆逐隊第2小隊の駆逐艦2隻(吹雪、初雪)という戦力であった[86]。だが10月11日夜、待ち伏せていたノーマン・スコット少将ひきいる米艦隊(重巡洋艦2、軽巡洋艦2、駆逐艦5)との間にサボ島沖海戦が勃発する[87]。第六戦隊首脳は日進隊や昼間基地航空隊の偵察結果から「敵艦隊は存在しない」と判断して事前の索敵を十分におこなっておらず、左舷前方から出現した艦影(米艦隊)を日進隊と誤認[88]。気付いた時には米艦隊に丁字を描かれた状態であった[88]。先制攻撃を受け、初弾が青葉艦橋を貫通して五藤司令官や艦幹部を殺傷[89]。さらに二番・三番砲塔破壊、前檣・方位盤・二番高角砲・射出機・機関部に損害を受けた[90]。青葉は『我青葉……』を連送しながら面舵に変針し、戦闘能力を失いつつも煙幕を展開して戦場を離脱した[88][89]。主砲発砲数は7発、戦死79名(士官、五藤司令官を含む)であったという[88][54]。また本海戦で米艦隊との交戦により2隻(重巡〈古鷹〉、駆逐艦〈吹雪〉)が沈没[91]、救援にむかった駆逐隊からも空襲により2隻(叢雲、夏雲)が沈没した[87][92]。なお損害を受けた米艦隊もルンガ沖から撤退したため、翌13日の第三戦隊によるヘンダーソン基地艦砲射撃は成功した[93][94]。
古鷹の沈没により、第六戦隊は青葉型2隻(青葉、衣笠)となった。10月15日午後、青葉はトラック泊地へ帰投した[88]。山本五十六連合艦隊司令長官が本艦を訪問し、損傷状況を視察している[88]。命中弾は不発弾が多く、のちに修理時に検分した造船士官は「仮に全砲弾が炸裂していれば沈んでいた」と述べている[95]。不発弾の多さに対し山本長官は「もふ此の戦には決して負けないと云ふ自信が出来た」と周囲に語っている[88]。
10月16日には青葉艦長(久宗米次郎)・古鷹艦長(荒木伝大佐)が連合艦隊司令部(戦艦大和座乗)を訪れ、連合艦隊参謀長宇垣纏少将のみ報告を聴く[88]。敗因について宇垣参謀長は「事前の偵察不充分、第十一航空艦隊の航空活動の失敗、第八艦隊司令部が陸上勤務でソロモン方面の実状を知らない、酸素魚雷の誘爆」の四点を挙げている[88]。
大破した青葉は内地へ回航され、10月22日に内地へ到着した[96][20]。第二次ソロモン海戦で損傷した軽巡神通や駆逐艦各艦(白雲、夕霧)等と共に、呉海軍工廠で修理を受けた[97][98]。
修理にあたって、前檣を三脚檣に改修、艦橋構造物を改修、対空機銃の強化を実施[54]。また予備砲身がないため大破した三番砲塔は撤去され、25mm3連装機銃1基を装備した[54]。
11月10日、第六戦隊は解隊された[99]。健在だった衣笠は第八艦隊直属[30]、修理を要する青葉は呉鎮守府部隊に編入という配備が決まった[100]。同日附で2隻(重巡〈古鷹〉、空母〈龍驤〉)は軍艦籍より除籍された[101]。
11月14日、第三次ソロモン海戦に参加中の衣笠が撃沈された[102][30]。古鷹型・青葉型計4隻は加古・古鷹・衣笠が立て続けに沈没し、青葉1隻を残すのみとなった[54]。
11月18日、青葉にて第六戦隊の残務整理を開始する[103]、12月5日をもって残務処理事務所は呉海兵団へ移転した[104]。
昭和18年の行動
修理を終えた青葉(3番砲塔なし)は1943年(昭和18年)2月15日附で第八艦隊に編入された[105][106]。同時に呉を出発し[107][108]、2月20日にトラック泊地へ到着した[109][20]。つづいてソロモン方面へ進出、3月2日にラバウルへ到着した[20]。3月3日、ラバウルを出発し翌日にカビエンに到着する(同日、ビスマルク海海戦)[20]。
4月1日附の戦時編制改定により第30駆逐隊(望月、三日月、卯月)が外南洋部隊に編入、軽巡龍田が第八艦隊から除かれ、代艦として軽巡夕張が編入された[105]。第八艦隊司令長官も三川軍一中将にかわって鮫島具重中将が任命された[105][110]。
連合艦隊と第十一航空艦隊(南東方面艦隊)が『い号作戦』を準備中の4月3日午前3時、青葉はニューアイルランド島・カビエン[111](メウエパセージ港)にてアメリカ軍機(B-17)の爆撃を受け被弾する[112][113]。
戦死36名・負傷者75名を出し、浅瀬に擱座した[109]。魚雷の誘爆が大破・擱座の一因となった[105]。青葉の損傷は昭和天皇にも報告された[114]。
また青葉の附近では駆逐艦文月も被弾して損傷している[115]。軽巡川内は青葉の曳航を試みたが浸水増加のため失敗し、工作艦を派遣する事態となった[112]。『い号作戦』指揮のため山本司令長官、小沢治三郎中将等とラバウルに滞在していた宇垣連合艦隊参謀長は『折角修理成りて來れる艦何の働も無く、又大被害あり。昨日敵の偵察あり危険を豫感して八艦隊より轉錨を慫慂せるに動かざる事山の如く遂に此の不運を來せり。』と述べている[112]。
4月5日、工作艦山彦丸が到着して擱座した青葉の排水を実施、約一週間という見通しが立つ[116]。
4月21日、軽巡川内による青葉曳航の試みは成功し、2隻(青葉、川内)は4月24日(25日とも)にトラックへ帰投した[109][54]。工作艦明石に接舷して応急修理を実施した[117]。
7月25日、青葉はトラックを出発する[109][20]。青葉は給糧艦伊良湖、陽炎型駆逐艦2隻(天津風、浦風)と船団を組んでいた[118]。8月1日[20]、4隻は呉に到着する[119]。
以後、青葉は11月24日まで再び修理に従事した[54]。この際航空巡洋艦や高速艦隊への給油艦として改装される事も検討されたが、結局行われなかった[120]。前檣楼に21号電探を装備し、対空機銃を増設する[54]。一方、破損していた機関部の修理が行われなかった為、以後最高速力が28ノット程度まで減少している[120][121]。
第十六戦隊
1943年(昭和18年)11月25日、第一南遣艦隊・第十六戦隊に編入された[20]。12月15日、青葉は呉を出撃、マニラを経て12月24日にシンガポールへ進出した[20]。速力が落ちていた事もあって同方面で輸送任務に従事した[54]。
1944年(昭和19年)2月27日、シンガポールを出撃する[20]。3月上旬、第十六戦隊旗艦青葉(同戦隊司令官左近允尚正少将)は、指揮下の利根型重巡洋艦2隻(利根〈艦長黛治夫大佐〉、筑摩〈艦長則満宰次大佐〉)と共にインド洋で通商破壊作戦に従事した。この時、利根が撃沈したイギリスの商船ビハール号の捕虜処刑問題を巡ってビハール号事件が発生した。3月15日、ジャカルタに入港してサ一号作戦部隊は解散した[20]。
4月23日、触雷して沈没した駆逐艦天霧の救助作業に従事した[20]。24日、タラカンに入港して天霧乗組員を揚陸した[20]。
6月上旬、青葉は十六戦隊旗艦として渾作戦に参加する[20]。軽巡鬼怒や第27駆逐隊((時雨、五月雨)等と行動を共にした。
7月25日、リンガ泊地に進出[20]。以後、訓練に従事する[20]。
10月中旬以降の捷号作戦(レイテ沖海戦)では当初、日本軍第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)に所属していたが、第二遊撃部隊に編成替えとなり、第十六戦隊旗艦として後方での兵員輸送を命じられた。10月21日、リンガ泊地を出港する[20]。10月23日、青葉はルソン島西方でアメリカの潜水艦ブリーム (USS Bream, SS-243) の雷撃で大破した[122]。右舷前部機械室への魚雷命中により右に13度傾斜した。この状態で鬼怒に曳航され、マニラ湾に入港する。その翌日にもアメリカ軍の空母艦載機による攻撃を受けた[20]。同地での応急修理により5ノットの航行が可能となり、レイテ沖海戦で損傷していた重巡熊野と共に本土回航を命じられた。
11月6日、重巡2隻(青葉、熊野)及びマタ31船団はサンタクルーズを出港するが同日午前中に熊野がアメリカ潜水艦の雷撃で大破され、青葉は熊野に対して『われ曳航能力なし』と伝達し、熊野を残置して内地へ向かった。11月25日、熊野はサンタクルーズ湾でアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて撃沈された。12月12日、青葉はかろうじて呉軍港に帰投した[54][20]。
最期
前述の通り、青葉はレイテ沖海戦におけるブリームの雷撃で大破しており呉で本格的修理を行う予定であったが、あまりにも大きすぎる損傷のために修理の見込みが立たず呉工廠近くに繋留放置されていた[54][20]。
1945年(昭和20年)2月下旬、第1予備艦に指定される[123]。
3月にアメリカ軍空母機動部隊による攻撃が開始されると青葉も防空砲台として対空戦闘を行った[20]。
4月20日、第四予備艦に指定[124]。
6月20日、特殊警備艦に指定されたが[20][125]、7月24日に命中弾1至近弾1、7月28日に命中弾4を受けて艦尾はほぼ切断状態となり、右舷に傾斜して着底した(呉軍港空襲)[126]。
青葉はそのままの状態で終戦を迎え8月15日附で予備艦となり[20]、11月20日附で除籍された[20]。1946年(昭和21年)11月より播磨造船の手により解体された[54]。
現在、海上自衛隊第一術科学校には青葉の艦首に装着されていた菊花紋章が、大和ミュージアムには青葉の主砲砲身の尾部が展示されている。
歴代艦長
※脚注無き限り『艦長たちの軍艦史』90-93頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
艤装員長
- 大谷四郎 大佐:1927年4月1日 -
艦長
- 大谷四郎 大佐:1927年9月20日 - 1927年11月15日
井上肇治 大佐:1927年11月15日 - 1928年12月10日- 日暮豊年 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
片桐英吉 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
古賀峯一 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日- 星野倉吉 大佐:1931年12月1日 - 1932年11月15日
- 小池四郎 大佐:1932年11月15日 - 1933年11月15日
杉山六蔵 大佐:1933年11月15日 - 1934年2月20日
三川軍一 大佐:1934年2月20日 - 1934年11月15日- 伍賀啓次郎 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
- 平岡粂一 大佐:1935年11月15日 - 1937年11月25日
- 広瀬末人 大佐:1937年11月25日 - 1939年11月15日
- 秋山勝三 大佐:1939年11月15日 - 1940年11月1日
森友一 大佐:1940年11月1日 - 1941年7月25日- 久宗米次郎 大佐:1941年7月25日 - 1942年11月10日
- (兼)荒木傳 大佐:1942年11月10日 - 1942年12月31日(本職:筑摩艦長)
- 田原吉興 大佐:1942年12月31日 - 1943年2月24日
- 山森亀之助 大佐:1943年2月24日 - 1944年6月4日[127]
- 山澄忠三郎 大佐:1944年6月4日[127] - 1945年1月1日[128]
- (兼)村山清六 大佐:1945年1月1日[128] - 1945年8月15日[129] (本職:呉海軍港務部長)
同型艦
- 衣笠
脚注
- ^ ab#達大正12年9月p.1『達第百九十一號 艦艇製造費ヲ以テ大正十二年度ニ於テ長崎三菱造船所ニテ建造ニ着手スヘキ一等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル 大正十二年九月十八日 海軍大臣財部彪 七千百頓級巡洋艦 青葉アヲバ』
^ #ハンディ判艦艇写真集11p.66『艦名の由来』-『青葉(あおば)―山岳名』
^ #ポケット海軍年鑑(1937)p.35『一等巡洋艦"青葉 あをば" これは衣笠と艦型も要目も寸分違はぬと云つてよい同型艦、しかも起工、進水(大正15年)竣工とも同じ年と云ふ因縁深い姉妹艦である。華府條約といふ勝手な制限はわが重巡陣にたつた一隻の追加も許さなかつたのであるが、今年昭和十二年の元旦は、自由なる自主的軍備への出発の日である。昭和初年世界を風靡した不況をのり切つて生まれた造船日本の理想艦の姿が加古であり、青葉である。伸び上つた艦首と低く下つた艦尾はわが海軍獨特の形である。』
^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|一等|青葉型|青葉、衣笠』
- ^ abcd#艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『青葉|一等巡洋艦|(艦諸元略)|三菱長崎造船所|大正13-2-4|大正15-9-25|昭和2-9-20|(装備略)』
^ #日本軍艦集2600年版p.27『一等巡洋艦 青葉(あをば) 基準排水量7,100噸、長さ179.84米、幅15.47米、平均吃水4.5米、速力33節、備砲20糎砲6門、12糎高射砲4門、魚雷發射管12門、起工大正13年2月4日、進水大正15年9月25日、竣工昭和2年9月20日、建造所三菱長崎造船所-よくもこれだけの排水量にかかる重武装を積んだと驚かされる。』
^ 『昭和2年6月3日(金)海軍公報第124号 p.10』 アジア歴史資料センター Ref.C12070309000 『○軍務一部第一三九號ノ三 呉海軍人事部ヨリノ軍艦青葉艦名起源ニ就キ照會ニ對シ同艦ハ丹後若狭國境ノ青葉山ニ因ミ命名セラレタルモノナル旨回答セリ 昭和二年六月三日 海軍省軍務局』
^ #青葉記念写真p.3『記念写真受領ニ関スル件 今回本艦艦名ニ因メル青葉山ノ写真ヲ記念トシテ特ニ寄贈シタキ旨 同峯所在地タル京都府下加佐郡志楽村長(以下略)』
^ #浦賀船渠寄贈品p.2『青葉スキー場寫眞願寄贈ノ義ニ付伺出ノ件』
^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.121『青葉(あをば)|艦種/一等巡洋艦|艦名考/山名に採る、青葉山別称青羽山、又は彌山(ミセン)と謂ふ。若狭國にあり、附近日本海岸に聳立し、従つて頂上よりは岬角海光の眺望潤大なり、標高2,376尺。』
^ #達大正1年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十六日 海軍大臣男爵斎藤實 |艦艇類別標準|軍艦|巡洋艦|一等|七千頓以上|二等|七千頓未満』
^ #達大正11年8月p.8『達第百五十一號 軍備補充費ヲ以テ大正十一年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等巡洋艦二隻ニ左ノ通命名セラル|大正十一年八月十一日 海軍大臣男爵加藤友三郎|川崎造船所ニ於テ建造 衣笠キヌカサ|三菱長崎造船所ニ於テ建造 古鷹フルタカ』
^ #我海軍軽巡に関する問合せの件p.3『衣笠加古|7.100|未起工(契約済)|古鷹|7.100|未起工(契約済)|III衣笠|7.100|仝右未起工』
^ #達大正11年10月p.2『達第百七十六號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ノ内加古ノ艦型ヲ一等巡洋艦ニ變更シ大正十一年度ニ於テ川崎造船所ニ於テ建造セシム|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎』
^ #達大正11年10月p.2『達第百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎|巡洋艦一等ノ欄ニ「加古、衣笠、古鷹」ヲ加ヘ同二等ノ欄「加古、」ヲ削ル』
^ #達大正11年10月p.2『達第百七十七號 軍備補充費ヲ以テ大正十一年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等巡洋艦二隻ノ内衣笠ノ建造年度ヲ大正十二年度ニ繰下ゲ建造所ハ未定トス|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎』
^ 『達第百九十三號 艦艇類別等級表中巡洋艦一等ノ欄古鷹ノ下ニ青葉ヲ加フ 大正十二年九月十八日 海軍大臣財部彪』
^ #達大正12年9月p.1『達第百九十二號 一等巡洋艦衣笠ノ建造所ヲ川崎造船所トシ製造費支出科目ヲ艦艇製造費ニ變更ス 大正十二年九月十八日 海軍大臣財部彪』
^ #ハンディ判艦艇写真集11pp.71-72(青葉竣工直後写真)
- ^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyzaaabacadaeafagahai#ハンディ判艦艇写真集11p.104(重巡洋艦『青葉』行動年表)
^ #ハンディ判艦艇写真集11p.68(青葉進水式写真)
^ #宣仁親王殿下御発着の件p.13
^ #青葉進水式儀礼p.7『附圖』
^ 『大正15年9月25日(土)海軍公報第4159号 p.28』 アジア歴史資料センター Ref.C12070304600 『○艦船所在○九月二十五日午前十時調【長崎】(将旗)加古古鷹川内由良』
^ #青葉進水式儀礼p.11『15.9.25 第五戦隊司令官 海軍大臣 青葉進水式ニ關スル任務無事終了 午後二時』
^ 『大正15年9月28日(火)海軍公報第4161号 p.34』 アジア歴史資料センター Ref.C12070304600 『○軍艦進水 三菱造船株式會社長崎造船所ニ於テ建造ノ軍艦青葉本月二十五日午前十時十五分進水セリ』
^ 『昭和2年4月11日(月)海軍公報第81号 p.43』 アジア歴史資料センター Ref.C12070308400 『○事務所設置 軍艦青葉艤装員事務所ヲ三菱造船株式會社長崎造船所内ニ設置シ本月六日ヨリ事務ヲ開始セリ|伊號五十八潜水艦艤装員事務所ヲ横須賀海軍工廠内ニ設置シ本月八日ヨリ事務ヲ開始セリ』
^ 『昭和2年9月17日(土)海軍公報第215号 p.14』 アジア歴史資料センター Ref.C12070310300 『○事務所撤去 軍艦青葉艤装員事務所ヲ三菱造船株式會社長崎造船所内ニ設置中ノ處本月二十日撤去ス』
^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『衣笠|一等巡洋艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|大正13-1-23|大正15-10-24|昭和2-9-30|(艦装備略)』
- ^ abcdefghijklm#ハンディ判艦艇写真集11p.105(重巡洋艦『衣笠』行動年表)
^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.30『一等巡洋艦"青葉 あをば" これは衣笠と艦型も要目も寸分違はぬと云つてよい同型艦。しかも起工、進水(大正15年)竣工ともに同じ年と云ふ、因縁深い姉妹艦である。昭和10年度はこの青葉とそれに古鷹、衣笠の3隻で第六戰隊を編成し聯合艦隊の第二艦隊に属してゐる。軍縮會議の結果生まれた巡洋艦と云ふものゝ定義を記して見ると、大正10年(1921年)のワシントン會議では巡洋艦の基準排水量は10,000頓を超ゆるを得ず。又備砲の口徑は8吋(20,31糎)を超ゆるを得ず。と云ふことに制限し、更に昭和5年(1930年)の倫敦會議では巡洋艦は1,850頓以上10,000頓以下のものとし、その中備砲口徑6,1吋を超ゆるものを甲級巡洋艦、5,1吋以上6,1吋以下の備砲を有するものを乙級巡洋艦とした。(1,850頓以下でも5,1吋を超える大砲を積めば巡洋艦と見做す)』
^ 『昭和2年12月3日(土)海軍公報第277号 p.7』 アジア歴史資料センター Ref.C12070311200 『○旗艦變更 第二艦隊司令長官ハ本月一日第五戰隊司令官ノ旗艦ヲ加古ヨリ衣笠ニ、第二水雷戰隊司令官ノ旗艦ヲ夕張ヨリ名取ニ變更セリ』
^ 『昭和3年1月23日(月)海軍公報第313号 p.11』 アジア歴史資料センター Ref.C12070313500 『○旗艦變更 第二艦隊司令長官ハ自一月二十三日至二月十四日第五戰隊司令官ノ旗艦ヲ一時衣笠ヨリ加古ニ變更ス(略)』
^ #ハンディ判艦艇写真集11pp.114-115(衣笠御大礼観艦式写真)
^ #海軍制度沿革(巻4、1939)p.42『昭和三.一二.一〇(内令三四九)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 榛名 比叡/第五戰隊 加古 古鷹 衣笠 青葉/第二水雷戰隊 鬼怒 第十二 第二十三 驅逐隊/第二潜水戦隊 長鯨 第七 第十八潜水隊(以下略)』
- ^ abcdef#ハンディ判艦艇写真集11p.42(重巡洋艦『古鷹』行動年表)
- ^ ab#海軍制度沿革(巻4、1939)p.43『昭和四.一一.三〇(内令二七五)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 妙高 那智 足柄 羽黒/第五戰隊 加古 衣笠 青葉/第二水雷戰隊 鬼怒 第十一 第十二 第十九驅逐隊/第二潜水戦隊 長鯨 第十八 第十九潜水隊|(編入略)|昭和四年(略)第二艦隊 一一.七(内令二五〇)古鷹(五戰)』
- ^ abcde#ハンディ判艦艇写真集11p.43(重巡洋艦『加古』行動年表)
^ #海軍制度沿革(巻4、1939)p.43『昭和五.一二.一(内令二二八)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 妙高 那智 足柄 羽黒/第五戰隊 青葉 古鷹/第二水雷戰隊 鬼怒 第十一 第十二 第十九驅逐隊/第二潜水戦隊 長鯨 第十九 第二十八潜水隊|(編入略)|(削除略)』
^ #青葉飛行機遭難p.3『軍艦青葉搭載飛行機遭難事件報告』
^ #柿沼少佐叙勲p.2『(略)本月八日横須賀軍港軍艦青葉ニ於テ飛行機ニ搭乗同艦ヨリ射出、飛行中機體ニ故障ヲ生シ海中ニ墜落重傷ヲ負ヒ危篤ニ陥リ(以下略)』
^ #海軍制度沿革(巻4、1939)p.44『昭和六.一二.一(内令二一四)|一二.一 艦隊編制改定セラル但シ當分ノ間第一艦隊第二戰隊、第二艦隊第五戰隊及第三艦隊ハ之ヲ編成セス(内令二一四)』
^ #海軍制度沿革(巻4、1939)pp.45-46『昭和七.一二.一(内令三七二)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 高雄愛宕摩耶鳥海/第五戰隊 衣笠加古青葉/第二水雷戰隊 神通 第七 第八 第十一 第十二驅逐隊/第二潜水戦隊 球磨 第十八 第十九潜水隊|(編入略)|(削除略)』
- ^ ab#海軍制度沿革(巻4、1939)p.46『昭和八.五.二〇(内令一八二)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 高雄愛宕摩耶鳥海/第五戰隊/第六戰隊 衣笠加古青葉/第二水雷戰隊 神通 第七 第八 第十一 第十二驅逐隊/第二潜水戦隊 球磨 第十八 第十九潜水隊/第二航空戰隊|(編入略)|(削除略)|五.二〇聯合艦隊、第一航空戰隊及第三艦隊ヲ常設ト爲ス(内令一七九乃至一八一)艦隊編制改定セラル但シ當分ノ間第一艦隊第二戰隊、第三潜水戰隊、第二艦隊第五戰隊、第二航空戰隊及第三艦隊第五水雷戰隊ハ之ヲ編制セズ(内令一八三)』
^ #海軍制度沿革(巻4、1939)pp.46-47『昭和八.一一.一五(内令三五一)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 高雄愛宕摩耶鳥海/第五戰隊/第六戰隊 古鷹衣笠青葉/第二水雷戰隊 那珂 第六 第十 第十一 第十二驅逐隊/第二潜水戦隊 由良迅鯨 第十九 第二十九 第三十潜水隊/第二航空戰隊|(編入略)|(削除略)』
^ 『職課2自9月至12兵科2(6)/公文備考 昭和9年B人事 巻7 p.47』 アジア歴史資料センター Ref.C05023341700 『青葉艦長 海軍大佐 三川軍一 補鳥海艦長』
^ 『職課2自9月至12兵科2(7)/公文備考 昭和9年B人事 巻7 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.C05023341800 『軍令部副官 海軍大佐 伍賀啓次郎 補青葉艦長』
^ #海軍三等士官71頁
^ #昭和11年T事件巻5p.1『第七戦隊青葉衣笠觸衝報告』
^ #海軍三等士官83頁
^ #海軍三等士官85頁
- ^ ab『昭和13年6月7日(発令6月3日付)海軍辞令公報(部内限)号外第192号 p.25』 アジア歴史資料センター Ref.C13072073900
^ 『昭和13年6月15日(発令6月15日付)海軍辞令公報(部内限)号外第195号 p.34』 アジア歴史資料センター Ref.C13072073900
- ^ abcdefghijklmno#ハンディ判艦艇写真集11pp.83-84『戦中に青葉の前檣に電探を装備』
^ 『昭和16年3月31日(月)海軍公報(部内限)第3759号 p.30』 アジア歴史資料センター Ref.C12070394000 『○将旗移揚 第六戰隊司令官ハ三月二十七日将旗ヲ古鷹ニ移揚セリ 大湊要港部司令官ハ三月二十八日将旗ヲ大泊ニ移揚セリ』
^ 『昭和16年4月5日(土)海軍公報(部内限)第3763号 p.36』 アジア歴史資料センター Ref.C12070394100 『○将旗復歸 第六戰隊司令官ハ三月二十九日将旗ヲ加古ニ復歸セリ』
^ 『昭和16年4月4日(金)海軍公報(部内限)第3762号 p.31』 アジア歴史資料センター Ref.C12070394100 『○将旗一時移揚 第六戰隊司令長官ハ三月三十日将旗ヲ一時青葉ニ移揚セリ』
^ 『昭和16年4月14日(月)海軍公報(部内限)第3770号 p.9』 アジア歴史資料センター Ref.C12070394300 『○将旗復歸 第六戰隊司令官ハ四月十日将旗ヲ加古ニ復歸セリ』
^ 『昭和16年8月15日(金)海軍公報(部内限)第3872号 p.42』 アジア歴史資料センター Ref.C12070396600 『○将旗移揚 第六戰隊司令官ハ八月十二日将旗ヲ青葉ニ移揚セリ』
^ 『昭和16年9月15日(発令9月15日付)海軍辞令公報(部内限)第713号 p.26牧田免職・五藤補職・木下免職、p.27高橋補職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100
^ 『昭和16年9月5日(金)海軍公報(部内限)第3890号 p.41』 アジア歴史資料センター Ref.C12070397300 『○旗艦變更 第六戰隊司令官ハ九月一日旗艦ヲ青葉ニ變更セリ』
^ 城英一郎日記121頁「(昭和16年)一二月一二日(金)晴 当直」
^ 城英一郎日記124-125頁「(昭和16年)一二月二三日(火)晴」
^ 海野十三『赤道南下』309頁
^ 海野『赤道南下』24-25頁等
^ 戦史叢書49巻195頁
^ 戦史叢書49巻248頁
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^ #暁の珊瑚海(文庫)221-222頁
^ 戦史叢書49巻285頁
^ 戦史叢書49巻287頁
- ^ abc戦史叢書62巻43頁『第六、第十八各戦隊のSN作戦における活躍』
^ 戦史叢書62巻38頁『作戦発想の経緯』
^ 戦史叢書62巻38頁『SN作戦及び「リ」号研究作戦の準備』
^ 戦史叢書62巻40頁『SN作戦計画の下令』
^ 戦史叢書62巻44頁『第六水雷戦隊のSN作戦における活躍と同隊の解散』
^ 戦史叢書49巻430頁
^ 戦史叢書49巻442頁
^ #連合艦隊の生涯161頁『(一)第一次ソロモン海戦』
^ 戦史叢書49巻465頁
- ^ abc戦史叢書49巻466-467頁『敵情偵察』
^ 戦史叢書49巻482頁
^ 戦史叢書49巻486-487頁
- ^ abcd戦史叢書49巻493-494頁『引き揚げと加古の沈没』
^ #戦藻録(1968)202頁『十月十一日 日曜日 晴 艦隊トラック出撃』
^ #連合艦隊の生涯165-167頁『(三)サボ島沖海戦』
- ^ ab#戦藻録(1968)202-203頁『十月十二日月曜日 晴 サボ島沖海戦。ガ島飛行場に對し巡戦を以てする夜間主砲砲撃』
- ^ abcdefghi#戦藻録(1968)208-210頁『十月十六日金曜日 曇 サボ島沖夜戦青葉古鷹實戦失敗談。』
- ^ ab#ハンディ判艦艇写真集11p.39『恐るべきレーダーの威力』
^
#ハンディ判艦艇写真集11pp.100-101(サボ島沖海戦直後写真)
^ 城英一郎日記193頁「(昭和17年)一〇月一二日(月)曇、稍寒し」
^ 城英一郎日記193頁「(昭和17年)一〇月一三日(火)曇」
^ #戦藻録(1968)204頁
^ 城英一郎日記194頁「(昭和17年)一〇月一四日(水)晴、前夜雷鳴あり、今朝は秋晴爽なり」
^ #造船士官の回想 下68頁
^ #S1707呉防備戦隊日誌(4)pp.38-39及びp.55『22(天候略)二.青葉豊後水道入泊掩護(略)』
^ #S1709呉鎮日誌(5)pp.39-41『四参考 (イ)部下艦船(特設艦船ヲ含ム)ノ行動』
^ #S1709呉鎮日誌(8)p.1『四.参考(イ)部下艦船(特設艦船ヲ含ム)ノ行動』
^ #戦隊行動調書p.6『11.10 6S解隊 6S(衣笠欠)ハ呉鎮守府ヘ』
^ #S1709呉鎮日誌(5)pp.16-17『十日〇〇〇四軍令部総長→十日〇四三〇各鎮長官 各警長官 各艦隊長官|大海機密第一〇〇〇〇四三五番電 昭和十七年度帝国海軍戦時編制中大海機密代二三一四二九番電第二項(内報)ノ通改定セラル(一部省略)<内報抄録>一.第六戦隊ヲ解隊シ衣笠ヲ第八艦隊ニ青葉ヲ呉鎮守府部隊ニ編入/二.龍驤、古鷹、伊號第三十潜水艦及伊號代三十三潜水艦ヲ戦時編制ヨリ除ク』
^ #S1709呉鎮日誌(5)p.17『十日〇〇〇八海軍大臣→十日一〇五〇各鎮長官 各警長官 各艦隊長官|官房機密第一〇〇〇八八三番電 十日附古鷹、龍驤ヲ軍艦籍ヨリ除カル』
^ #戦藻録(1968)235頁『十一月十四日土曜日 雨 衣笠沈没其他損傷。』
^ 『昭和17年11月18日(水)海軍公報(部内限)第4245号 p.17』 アジア歴史資料センター Ref.C12070423600 『○残務整理 青葉司令部残務整理ハ軍艦青葉ニ於テ行フ 追テ郵便物ハ呉郵便局氣付青葉司令部残務整理員宛』
^ 『昭和17年12月4日(金)海軍公報(部内限)第4258号 p.27』 アジア歴史資料センター Ref.C12070423800 『○事務所移轉 青葉司令部残務整理ハ十二月五日以後呉海兵團内ニ於テ行フ』
- ^ abcd戦史叢書96巻130-131頁『外南洋部隊の作戦の概要』
^ #S1801呉鎮日誌(4)p.4『十五日(一)青葉(八艦隊ニ編入)ヲ直率部隊ヨリ除キ山霜丸ヲ加フ』
^ #S1802佐伯防備戦隊日誌(1)p.41『2月14日1340呉防戦司令官(宛略)一.青葉15日1900水ノ子通過東水道ヲ出撃TPニ向フ針路概ネ150度(略)』
^ #S1801呉鎮日誌(5)p.44『四.参考(イ)部下艦船(特設ヲ含ム)ノ行動|青葉|一五 外南洋ニ向フ』
- ^ abcd戦史叢書62巻321-322頁『青葉、川内に曳航されてトラック入港』
^ 城英一郎日記258頁「(昭和18年)四月一日(木)曇、稍寒し(略)午後、小林〔仁〕中将(長官)/4F、井上〔保雄〕中将〔大湊警備府〕(大警長官)親補式。他に、鮫島〔具重〕8F、河瀬〔四郎〕5F長官、高木〔武雄〕高雄警備府長官親補せらる。〔久邇宮〕朝融王殿下、一九聯空司令官。(以下略)」
^ 城英一郎日記259頁「(昭和18年)四月三日(土)晴後曇 当直(略)○「青葉」〔重巡洋艦〕カビエン在泊中、夜間盲爆にて、後部に爆弾命中、火災なるも後〔に〕消火。(以下略)」
- ^ abc#戦藻録(1968)279-280頁『四月三日土曜日晴ラボール第一日 GF長官陣頭指揮の為ラボール進出。以號作戦(X・Y作戦)。修理完成内地より歸投せる青葉敵機の為又々大損傷。GF陣頭指揮進出の理由』
^ #S1803第4航空軍関係電報(3)p.1『(宛略)二.三日早朝敵籔機「カビエン」ニ来襲シ同地入泊中ナリシ青葉(巡洋艦)炎上シ驅逐艦一損傷ヲ受ケタリ(略)』
^ 城英一郎日記259頁「(昭和18年)四月四日(日)雨後曇、雨(中村武官休み) ○「青葉」其後、稍心配を要する件につき、午前上聞。(以下略)」
^ #S1709第八艦隊日誌(7)p.19『(ト)4月3日「メーウェ」泊地停泊ノ青葉及「スエツフエン」水道南方回避行動ノ文月ハ0320ヨリ0410ノ間ニ敵機ノ攻撃ヲ受ケ青葉ハ浸水擱座文月ハ中破セリ』
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関連項目
- 青葉山 (京都府・福井県)
中曽根康弘 - 海軍主計中尉に任官後、青葉で訓練を受けた。
この世界の片隅に - この世界の片隅に (映画)
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