筑摩 (重巡洋艦)















































































































筑摩

Japanese heavy cruiser Chikuma.jpg
基本情報
建造所
三菱重工業長崎造船所
運用者
 大日本帝国海軍
艦種
重巡洋艦
級名
利根型重巡洋艦
艦歴
発注
(マル2計画)
起工
1935年10月1日
進水
1938年3月19日
就役
1939年5月20日
最期
1944年10月25日戦没
除籍
1945年4月20日
要目(注[1]
基準排水量
11,213トン
公試排水量
13,320トン
全長
201.6 m
最大幅
19.4 m
吃水
6.23 m (公試)
主缶
ロ号艦本式缶8基
主機
艦本式タービン4基4軸
出力
152,915馬力(全力公試成績)
速力
35.44ノット(全力公試)
35.74ノット (過負荷全力)
燃料
2,690トン
航続距離
18ノットで8,000海里 (計画)
乗員
竣工時定員869名[2]
兵装
20.3cm連装砲4基8門
12.7cm連装高角砲4基8門
25mm連装機銃6基12挺
13mm連装機銃2基4挺
61cm3連装魚雷発射管4基
装甲
舷側:145mm 甲板:35mm
搭載機
水上機6機 (カタパルト2基)
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筑摩(ちくま)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦[3]。利根型重巡洋艦(二等巡洋艦利根型)の2番艦[4]
その艦名は、筑摩川(千曲川、信濃川の上流部)に因んで命名された[5][6]。この名を持つ帝国海軍の艦船としては筑摩型防護巡洋艦1番艦筑摩[7]に続いて2隻目[6]
筑摩は真珠湾攻撃やミッドウェー海戦など太平洋戦争の重要な戦闘に参加し、レイテ沖海戦で沈没した[8]。艦内神社は筑摩神社である。艦名は海上自衛隊の護衛艦に継承された。




目次






  • 1 艦歴


    • 1.1 太平洋戦争まで


    • 1.2 太平洋戦争緒戦


    • 1.3 アメリカ軍機動部隊との戦い


    • 1.4 昭和18年の行動


    • 1.5 昭和19年の行動


    • 1.6 沈没




  • 2 兵装変遷


  • 3 歴代艦長


    • 3.1 艤装員長


    • 3.2 艦長




  • 4 同型艦


  • 5 参考文献


  • 6 脚注


  • 7 関連項目





艦歴



太平洋戦争まで


利根型2隻(利根、筑摩)はいずれも三菱重工業長崎造船所にて建造された[9][10]。当初は15.5cm三連装砲塔を搭載予定であった[10]。軍縮条約脱退により20cm連装砲塔4基を前甲板に集中させた航空巡洋艦となったが[11]、書類上は二等巡洋艦(軽巡洋艦)である[4][12]


筑摩は1935年(昭和10年)9月28日に命名[3][13]。同時に朝潮型駆逐艦2隻(3番艦満潮、4番艦荒潮)も命名されている[14][15]。3隻(筑摩、満潮、荒潮)は同日附で艦艇類別等級表に登録された[16]
命名直後の10月1日、筑摩は起工[10][17]


1938年(昭和13年)3月19日、進水[18][19]。筑摩進水後の3月29日[20]、本艦を建造した船台では大和型戦艦2番艦武蔵の建造が始まった[21]
5月18日、日本海軍は筑摩と共に建造中の利根型1番艦利根艤装員長龍崎留吉大佐を筑摩艤装員長に任命、龍崎は利根型2隻(利根、筑摩)艤装員長を兼務する[22]
5月19日、筑摩艤装員事務所で事務がはじまる[23]
11月1日、龍崎大佐(利根、筑摩艤装員長)は敷島型戦艦2番艦(当時工作艦)朝日特務艦長に任命される[24]。軍令部課長原鼎三大佐が利根艤装員長に補職[24]。妙高型重巡洋艦4番艦羽黒艦長友成佐市郎大佐が羽黒艦長と筑摩艤装員長を兼務することになった[24]。11月20日、三菱長崎造船所で1番艦利根が竣工する[9]


12月10日、友成大佐(羽黒艦長、筑摩艤装員長)は筑摩艤装員長との兼職を解かれ、西尾秀彦大佐が筑摩艤装員長に任命される[25]
12月20日、西尾大佐は筑摩艤装員長と知床型給油艦4番艦佐多特務艦長の兼務を命じられる[26]


1939年(昭和14年)1月28日、水上機母艦能登呂艦長来島茂雄大佐が佐多特務艦長を兼務することになり、西尾大佐の職務は筑摩艤装員長のみに戻った[27]
5月20日、筑摩は就役した[28][10]。同日附で艤装員事務所を撤去[29]。西尾秀彦艤装員長は制式に筑摩艦長(初代)となる[30]。横須賀鎮守府籍[31]


筑摩竣工と同時期、最上型巡洋艦の15.5cm三連装砲塔を20cm連装砲塔に交換することになり、これに伴い日本海軍は最上型巡洋艦で編制されていた第七戦隊を解隊[32]。第七戦隊司令官清水光美少将は5月20日附で、利根型2隻(利根、筑摩)で新編された第六戦隊司令官に補職される[30]。清水司令官は第六戦隊旗艦を利根に指定した[33]
7月下旬、第六戦隊(利根、筑摩)は舞鶴港に初入港[34]。舞鶴に帰港するときは、艦載機を栗田水上機基地に預けることになった[34]
10月10日、筑摩水雷長神田武夫少佐は第四艦隊副官に補職[35](後日、神田は駆逐艦潮艦長[36]、野分艦長[37]等を歴任)。
10月20日、西尾(筑摩艦長)は呉鎮守府附となり(11月15日附で呉海軍工廠総務部長)[38][39]、原鼎三大佐(利根艦長)が利根艦長と筑摩艦長を兼務する[38]


11月15日、第六戦隊司令官は清水光美少将から田結穣少将に交代、第六戦隊は古鷹型重巡洋艦と青葉型重巡洋艦で再編される[39]。軽巡洋艦で編制されていた旧第八戦隊は解散[40]。利根型2隻(利根、筑摩)は再編された第八戦隊に移動し、第八戦隊司令官には後藤英次少将(前職第二水雷戦隊司令官)が任命される[39]。第八戦隊旗艦は利根に指定[41]
同日附で原大佐(利根艦長および筑摩艦長)は戦艦山城艦長に転じ、大西新蔵大佐が利根艦長に、旅順要港部参謀長橋本信太郎大佐が筑摩艦長に、それぞれ補職[39]。筑摩の幹部も交代し、駆逐艦白雲水雷長飛田清大尉が筑摩水雷長に(後日、駆逐艦長波艦長)、扶桑分隊長千早正隆大尉も筑摩分隊長に任命された[42]
12月1日、利根型2隻(利根、筑摩)は舞鶴鎮守府に転籍する[31]。利根型2隻(利根、筑摩)は舞鶴市民にとって親しみのある軍艦となった[34]。舞鶴鎮守府には利根型2隻(利根、筑摩)より大きな艦艇が所属しておらず、両艦は舞鶴戦艦とも呼ばれた[43]


1940年(昭和15年)3月下旬より中国大陸沿岸での作戦に従事[31]。11月1日、筑摩艦長橋本信太郎大佐は戦艦日向艦長へ転任(太平洋戦争前半の第三水雷戦隊司令官。レイテ沖海戦時の第五戦隊司令官)[44]。戦艦(特務艦)摂津特務艦長小暮軍治大佐が筑摩艦長に補職され、伊崎俊二大佐(重巡最上艦長)が最上艦長と摂津特務艦長を兼務する[44]
10月11日、新鋭の最上型重巡3隻と利根型2隻(熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩)は紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式に参加した[45]
11月29日、第八戦隊司令官後藤英次少将は横須賀鎮守府附となり、海軍省人事局長伊藤整一少将が第八戦隊司令官となる[46]




開戦前の宿毛湾にて(1941年)


1941年(昭和16年)4月10日、海軍大学校長南雲忠一中将が第一航空艦隊司令長官に補職[47]。伊藤整一少将は第八戦隊司令官から連合艦隊参謀長(第一艦隊参謀長兼務)へ転任(当時の連合艦隊司令長官は山本五十六大将)[47][48]。軍令部第一部長宇垣纏少将が、伊藤の後任として第八戦隊司令官となった[47]
8月1日附で伊藤整一中将は連合艦隊参謀長を免じられ、第八戦隊司令官宇垣纏少将は連合艦隊参謀長に転出[49]。後任の第八戦隊司令官は阿部弘毅少将となる[49]


8月11日、小暮軍治大佐(筑摩艦長)は戦艦陸奥艦長へ転じ、海軍省教育局第二課長古村啓蔵大佐が筑摩艦長(五代目)として着任[50][51]。筑摩は古村艦長の元で太平洋戦争に突入した。計画上は水上偵察機6機搭載可能だったが(筑摩での実験では三座水偵4機、複座水偵4機、計8機搭載)[52]、搭乗員の不足と機数の不足から、水上偵察機4隻(二座2機、三座2機)に制限された[53]



太平洋戦争緒戦


太平洋戦争初期は第一航空艦隊(通称:南雲機動部隊)に属し、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃に参加[54]。第一次攻撃隊に先駆けて筑摩から零式水上偵察機(岡政治飛行兵曹長)が発進してオアフ島周辺を偵察、午前3時8分「敵艦隊真珠湾ニ在リ、真珠湾上空雲高1700米、雲量七、0308」「真珠湾在泊艦ハ戦艦10、甲巡1、乙巡1」「真珠湾上空、風向80度、風速14米」を発信した[55]。日本への帰途中、第八戦隊(利根、筑摩)、第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:蒼龍、飛龍)、第17駆逐隊第1小隊(谷風、浦風)は南雲機動部隊本隊から分離、南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官(旗艦鹿島)の指揮下に入り、ウェーク島第二次攻略戦に参加する[56]。筑摩艦載機は敵情偵察、対潜警戒に活躍したが、1機が大破した[57]。12月29日、日本本土の柱島泊地に帰投した[31]


1942年(昭和17年)1月10日、第二航空戦隊と共に日本を出撃し15日にトラック泊地に着いた[31]。同月24日のアンボン空襲や2月19日のポートダーウィン空襲を支援した[58]。3月1日、クリスマス島付近で米駆逐艦エドサル(DD-219 Edsall)と遭遇する[59]。姉妹艦利根や第三戦隊の金剛型戦艦2隻(比叡、霧島)と共にエドサルを撃沈したが、約1時間半の砲戦で36cm砲弾297発、20cm砲弾844発を消費している[60][59]。霧島・利根はエドサルを米軽巡マーブルヘッドと錯覚し、また比叡・筑摩は敵艦が駆逐艦であると見抜いたものの、回避行動を行う相手に命中弾を得られなかった[61]。4隻がエドサルを撃沈できたのは、空母赤城・蒼龍から発進した九九式艦上爆撃機計17機が命中弾と至近弾を与え、エドサル撃沈のお膳立てをしたからである[62][59]
また同日にはジャワ島南南西200浬地点でオランダの貨物船メイモットヨート(8,000t)と遭遇した[63]。まず第27駆逐隊の駆逐艦2隻(有明、夕暮)が砲撃を行ったがなかなか撃沈できなかった[64][65]。さらに陽炎型駆逐艦複数隻(不知火、磯風)も砲撃に加わった[65]。すると旗艦赤城の左舷後方にいた筑摩は独断で砲撃を開始し、20cm砲弾が赤城の頭上を飛び越えていった[66]。南雲長官は直ちに射撃中止命令をおくったが、筑摩は射撃停止までに数斉射を放ち、メイモットヨート(モッドヨカード)を撃沈している[66]
3月4日、ジャバ島南岸チラチャップに接近、オランダの商船エンガノ(1万5000t)を駆逐艦浦風(第17駆逐隊)と共に撃沈した[67][68]。当初筑摩は主砲の砲撃でエンガノを沈めようとしたが、徹甲弾を使用したため船体に穴をあけるのみであり、魚雷を使用せざるを得なくなった[69][70]。発射雷数1本[71]


その後も筑摩は機動部隊の構成艦として転戦し、4月にはインド洋に進出し4月5-9日のセイロン沖海戦に参加、4月23日に舞鶴着[31][72]。舞鶴海軍工廠で各部の修理を行う[73][74][75]。5月16日、舞鶴出港[31]。柱島泊地へ移動する[76]



アメリカ軍機動部隊との戦い


1942年(昭和17年)5月27日、柱島泊地を出撃した[31]。第八戦隊は第一航空艦隊司令長官南雲中将の指揮下、南雲機動部隊(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第二航空戦隊《飛龍、蒼龍》、第三戦隊《榛名、霧島》、第八戦隊《利根、筑摩》、第十戦隊〔旗艦《長良》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第10駆逐隊《風雲、夕雲、巻雲、秋雲》〔秋雲は燃料補給部隊護衛〕、第4駆逐隊《嵐、野分、萩風、舞風》〕)としてミッドウェー海戦に参加する[77]



6月5日、南雲機動部隊からは計7機の偵察機が発進予定であった(筑摩水偵2機、利根水偵2機、榛名水偵1機、赤城艦攻1機、加賀艦攻1機)[78]。筑摩1号機は午前1時35分に、筑摩4号機は午前1時38分に発進して機動部隊北北東方面を索敵、このうち筑摩1号機(機長:黒田信大尉/筑摩飛行長。旧姓都間。海兵66期)はアメリカ軍機動部隊の上空を通過したが、雲のため見逃している[79][80]。またアメリカ艦載機と接触しながらこれを報告しなかったこともアメリカ艦隊発見の遅れに直結し、敗因の一つになったと言われる。午前5時30分、利根4号機がアメリカ軍機動部隊の存在を報告、午前6時38分に筑摩5号機が利根4号機と交代するため発進した[81]。空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)がアメリカ軍機動部隊から発進したSBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲攻撃で被弾炎上すると、筑摩5号機は空母飛龍の攻撃隊を誘導[82]。米空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5)の撃破に貢献したが、5号機は帰投せず行方不明となった[83][84]
また筑摩は蒼龍の被弾炎上を目撃し、古村(筑摩艦長)は親交のあった柳本柳作大佐(蒼龍艦長。柳本は古村の後任の駐英武官)[85]を気遣い、筑摩のカッターボートを救援に派遣している[86]。蒼龍沈没時、第17駆逐隊第2小隊(浜風、磯風)が乗組員の救助を実施[87]。筑摩が残したカッターボートは放棄されたが、艇員8名は磯風に収容された[88]
6月24日、第八戦隊は内地(大湊)に帰投[31]。北方作戦を支援後する[31]


7月14日、南雲忠一中将は第三艦隊司令長官に補職、三川軍一中将は第八艦隊司令長官に、第八戦隊司令官阿部弘毅少将は第十一戦隊司令官へ転任[89]。解隊された第五航空戦隊司令官原忠一少将が第八戦隊司令官となる[90][91]。また搭載水上偵察機も三座水偵に統一した[92]


北方作戦支援を終えた第八戦隊(利根、筑摩)は桂島泊地を経て[31]、7月16日に舞鶴へ帰港[31][93]。同地では軽巡那珂や駆逐艦複数隻(大潮、薄雲)等と共に、修理と整備に従事する[73][94][95]。8月6日、第八戦隊(利根、筑摩)は舞鶴を出発[31][96]
新司令官を迎えた第八戦隊(利根、筑摩)は、ガダルカナル島の戦いにともなう第二次ソロモン海戦(1942年8月)、南太平洋海戦(1942年10月)に参加した[97]
10月22日、筑摩は秋月型駆逐艦2番艦照月(第61駆逐隊司令則満宰次大佐)[98]と共に機動部隊から分離し南方で索敵を行うがアメリカ艦隊を発見できず、本隊と合流した[99]。南太平洋海戦では前衛艦隊に所属し、機動部隊本隊の前方を進んだ[100]






南太平洋海戦で作戦行動中の筑摩(1942年10月)


10月26日午前6時30分、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将(旗艦比叡)を指揮官とする機動部隊前衛は、(戦艦《比叡、霧島》、重巡《筑摩、利根、鈴谷》、軽巡《長良》、駆逐艦《谷風、浦風、磯風、秋雲、風雲、巻雲、夕雲》)として行動。同隊は筑摩を先頭とした単縦陣となり[101]、針路90度、速力30ノット、各艦距離1万3000mで東方に進撃していた[102]
午前7時にアメリカ軍偵察機が出現した[103]。それ以降断続的に空襲を受け、午前7時26分以降、空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6)のSBDドーントレスの急降下爆撃により、艦橋左舷、主砲指揮所、艦橋右舷に爆弾が命中[104][105]。広瀬貞年中佐(筑摩副長)、砲術長北山勝男少佐(砲術長)、山口栄治大尉(水雷長)、飛行長斎藤仁大尉等幹部多数が戦死、古村啓蔵大佐(艦長)と沖原秀也中佐(航海長)も負傷[106]。さらに至近弾により右舷缶室に浸水して右舷に傾斜、速力23ノットとなる[107]。僚艦利根はスコールに隠されたためアメリカ軍機の攻撃を受けず、重傷を負った古村(艦長)は「爆弾の配給も、少しは公平にして貰いたい」と回想している[108][109]
筑摩の古村艦長は午前7時47分に酸素魚雷を投棄させたが、3分後、魚雷発射管付近に直撃弾があった[110]。酸素魚雷の誘爆という致命的事態は免れるも艦載機が炎上、戦闘不能状態となる[111][112]。午前8時35分、原忠一第八戦隊司令官は第17駆逐隊(谷風、浦風)を護衛につけトラック回航を命令、3隻(筑摩、浦風、谷風)は午前9時20分頃に前衛艦隊と分離して退避した[113][114]。戦闘配食にコーンビーフが出たが、戦死者の肉片が散乱し食事どころではなかったという[115]
正午すぎ、B-17爆撃機数機の水平爆撃を受けるも、アメリカ軍が筑摩の速力を過大に見積もったため命中しなかった[116][117]。29日午前、トラック泊地に到着[118]。山本五十六海軍大将(連合艦隊司令長官)が視察に訪れ、乗組員の労を労っている[119][120]。この海戦で乗組員937名の筑摩は副長・砲術長・主計長を含む162名(883名中151名[121]。また戦死192名・重軽傷95名とも[122])の戦死者を出した[123]


この後、南太平洋海戦で損傷した空母2隻(翔鶴、瑞鳳)、重巡2隻(熊野、筑摩)は駆逐艦8隻(第4駆逐隊《嵐、野分》、第61駆逐隊《秋月》、第10駆逐隊《秋雲》、第17駆逐隊《浦風、谷風、磯風、浜風》)に護衛されて内地へ帰投、11月6-7日にそれぞれの母港へ到着した[124]
11月10日、古村啓蔵大佐(筑摩艦長)は横須賀鎮守府附となり退艦[125](12月5日より戦艦扶桑艦長[126]。翌年6月9日、戦艦武蔵艦長[127])。またサボ島沖海戦で大破した重巡洋艦青葉艦長久宗米次郎大佐が戦艦長門艦長へ転じ、同海戦で沈没した重巡古鷹艦長荒木伝大佐が、筑摩艦長と青葉艦長を兼務する[125]
12月31日、田原吉與大佐が青葉艦長および軽巡洋艦大淀艤装員長に補職、荒木大佐の職務は筑摩艦長のみとなる[128]



昭和18年の行動


1943年(昭和18年)1月20日、重永主計大佐が筑摩艦長に任命される[36]。荒木大佐(前筑摩艦長)は佐世保海軍港務部長へ転任した(後日、ラバウル空襲で戦死した中岡大佐の後任として重巡愛宕艦長)[129][36]


2月末に修理を完了し[130]、利根に先駆けてレーダーを装備し下甲板舷窓を閉鎖する不沈対策を行った。同時期、僚艦利根も内地に戻り、呉や舞鶴で修理に従事する[31]
3月15日、第八戦隊司令官は原忠一中将から岸福治少将(第九戦隊司令官)に交代[131]
3月22日、第二航空戦隊司令官角田覚治少将指揮のもと[132]、空母2隻(隼鷹、飛鷹)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻(夕暮、陽炎、初月、涼月)は内地を出発、3月27日にトラックへ到着した[133][134][31]


4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、宇垣纏連合艦隊参謀長(元第八戦隊司令官)が負傷する海軍甲事件が起こった[135]。後任の連合艦隊長官古賀峯一大将の指揮下[136]、山本の遺骨を乗せた大和型戦艦2番艦武蔵が内地に帰投する。
5月17日[137]、戦艦3隻(武蔵、金剛、榛名)、空母飛鷹、重巡2隻(利根、筑摩)、駆逐艦5隻(第24駆逐隊《海風》、第27駆逐隊《有明、時雨》、第61駆逐隊《初月、涼月》)はトラック泊地を出発[138]。5月22日、横須賀帰着(武蔵のみ木更津冲入泊)[139][140]
5月24日附で筑摩水雷長は高橋達彦大尉(後日、駆逐艦敷波艦長[141]。同艦沈没時に戦死)から、駆逐艦嵐水雷長[142]等を歴任した田中一郎大尉に交代した[143]
25日は木更津沖に移動した。アッツ島の戦いにより北方作戦に備えたが[144]、同島守備隊は5月29日に玉砕した。


6月30日、アメリカ軍はニュージョージア諸島のレンドバ島に上陸を開始する。つづいてニュージョージア島にも上陸を敢行し、ニュージョージア島の戦いが始まった。
7月8日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将[145]指揮下の空母4隻(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳、沖鷹)、水上機母艦日進、重巡3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡洋艦2隻(大淀、阿賀野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、萩風》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月、初月》、夕雲型《玉波》)は内地を出撃[146][147]。7月15日、トラック泊地に到着[31]


続いて第八戦隊司令官岸福治少将指揮下の巡洋艦部隊(利根、筑摩、最上、大淀)及び第十戦隊(阿賀野、磯風、嵐、萩風、初月、涼月)はラバウルに進出[148]。利根は嵐、筑摩は萩風、大淀は磯風に接舷しそれぞれ補給を実施[149]。準備完了後、第十戦隊司令官大杉守一少将(萩風座乗)指揮下の4隻(水上機母艦《日進》、不知火型3隻《萩風、嵐、磯風》)はラバウルを出撃、ブーゲンビル島のブインへと向かうが、ブイン直前でアメリカ軍機70機以上の攻撃を受け日進が沈没した。
このあと、第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐指揮下の第4駆逐隊(萩風、嵐)のみソロモン諸島に残ることになった(2隻は8月6日のベラ湾夜戦で沈没)[150]。他艦(利根、筑摩、最上、阿賀野、大淀、磯風、涼月、初月)はトラックへ帰投した[150][31]。以後は主に中部太平洋で行動した。



10月16日、利根がタービンの機関故障で3軸運転となり、これに伴い第八戦隊旗艦となる。利根は本格的修理のため内地に向かった[31]
11月1日、アメリカ軍がタロキナ岬(ブーゲンビル島)に上陸したことでブーゲンビル島の戦いが生起[151]。連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、第一航空戦隊航空兵力(ろ号作戦参加)に続いてトラック泊地所在の水上兵力主力を南東方面部隊(指揮官草鹿任一中将)に編入する[152]
11月3日午前7時45分、遊撃部隊指揮官(第二艦隊司令長官栗田健男中将、愛宕座乗)指揮下の重巡洋艦部隊(第四戦隊《愛宕、高雄、摩耶、鳥海》、第七戦隊《鈴谷、最上》、第八戦隊《筑摩》)、第二水雷戦隊(軽巡《能代》、第32駆逐隊《玉波、涼波、藤波、早波》)としてトラック泊地を出撃[152][153]
栗田艦隊は11月4日午前10時頃より、連合軍機による触接を受ける[154]。また駆逐艦島風等が護衛していたタンカー日章丸がカビエン(ニューアイルランド島)北方で空襲を受け損傷したため、栗田中将は艦隊より2隻(鳥海、涼波)を日章丸救援に派遣した[153]。夜、夜間攻撃を受けるが被害なし[155]




ラバウルで交戦中の筑摩(1943年11月)


11月5日朝6時、栗田艦隊(遊撃部隊)はラバウル(ニューブリテン島)に到着[154]。約2時間後の午前9時以降、米機動部隊による空襲を受け、栗田艦隊は摩耶大破航行不能等の損害を受けた[154]。筑摩は9時31分、右舷カタパルト付近に至近弾を受けた[156]。軽傷3名、一番魚雷発射管が使用不能、若干の浸水という被害が発生したが[157]、他の艦に比べて損害は軽かった[154]。南東方面部隊はラバウル進出中の2隻(鳥海、涼波)を含めて遊撃部隊のトラック泊地帰投を命令[158]。11月7日以降、筑摩以下重巡部隊は漸次トラック泊地に帰投した[158]


その後、筑摩は僚艦と共に内南洋方面諸島を行動する。
12月7日、駆逐艦3隻(第61駆逐隊《涼月、初月》、第17駆逐隊《谷風》)に護衛された呉回航部隊(重巡《筑摩》、空母《瑞鶴》)はトラック泊地を出発(谷風は途中で反転)[159][160]。12月12日、筑摩以下各艦は呉へ到着した[161][162]。損傷の修理と並行して、利根で問題となったタービンの修理を行った。



昭和19年の行動


1944年(昭和19年)1月1日、第八戦隊は解隊(八戦隊司令官岸福治中将は軍令部出仕)[163]。この再編により利根型重巡洋2隻(利根、筑摩)は最上型重巡洋艦で編制された第七戦隊に編入される[164][165]。当時の第七戦隊司令官は西村祥治中将[166]
1月10日、筑摩艦長は重永主計大佐から則満宰次大佐(海軍機雷学校教頭)に交代[167]。則満は南太平洋海戦時の第61駆逐隊司令である[98][168]
2月6日、翔鶴型空母2隻(翔鶴、瑞鶴)は巡洋艦2隻(筑摩、矢矧)および駆逐艦5隻(第61駆逐隊《初月、若月》、第10駆逐隊《秋雲、風雲、朝雲》)と内地を出発[169]。2月13日[31]、シンガポール(リンガ泊地)に進出[170][171]


3月上旬、利根型重巡2隻(利根、筑摩)は南西方面艦隊所属の第十六戦隊(司令官左近允尚正少将)の指揮下に入り、重巡3隻(青葉、利根、筑摩)でインド洋における通商破壊活動を実施する[172]。この時、撃沈した商船ビハール号捕虜の処遇に関し、戦後になり問題が発生した(ビハール号事件)[173]
3月25日、第七戦隊司令官は西村祥治中将から白石萬隆少将[174]に交代(西村中将は9月10日より第二戦隊司令官)[175]
本艦は3月から5月までインド洋で通商破壊戦に従事した後(前述)、機動部隊に所属しマリアナ沖海戦(1944年6月)に参加した。本海戦で前衛部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)所属の各艦(第四戦隊《愛宕、高雄、鳥海、摩耶》、第一戦隊《司令官宇垣纏中将:大和、武蔵》、第三航空戦隊《千歳、千代田、瑞鳳》、第七戦隊、第二水雷戦隊等)が小沢機動部隊本隊の攻撃隊を誤射する中、則満(筑摩艦長)は射撃命令を出さず筑摩は発砲しなかった[176]。内地帰投後、7月9日に出撃し、リンガ泊地へ向かう[177]



沈没




ガンビア・ベイの後ろに見える筑摩




サマール島沖海戦で交戦中の筑摩


1944年(昭和19年)9月10日、筑摩水雷長は田中一郎大尉から、駆逐艦子日水雷長[142]や長波水雷長[178][179]等を歴任した西村正直大尉に交代[175]。後日、田中大尉(少佐)は松型駆逐艦15番艦椿艤装員長[180]および初代駆逐艦長[181]となった。
10月15日、第七戦隊司令官白石萬隆少将は海軍中将に昇進[182]


10月下旬、第七戦隊(熊野、鈴谷、利根、筑摩)は栗田艦隊(第一遊撃部隊)に所属してレイテ沖海戦に参加[183]。黛治夫(利根艦長)によれば、則満(筑摩艦長)は作戦の失敗を予見して「だいたい沈められることになる」と語ったという[184][185]
筑摩は水上偵察機5機を搭載し、索敵任務に投入した[186]。空襲直前には、搭載していた1号機と2号機を発進させている[187]
10月25日、サマール島沖海戦に於いて第七戦隊各艦は、戦艦金剛、重巡羽黒(第五戦隊司令官橋本信太郎少将旗艦)と共に米護衛空母ガンビア・ベイ (USS Gambier Bay, CVE-73)等 を砲撃した[188]。海戦序盤、第七戦隊旗艦熊野が被雷して落伍すると[189][190]、則満筑摩艦長が臨時に第七戦隊の指揮をとった[191]。七戦隊司令部(白石中将、参謀他)は熊野から鈴谷に移動するが、同艦も被弾して速力低下をきたす[192][193]。このあと、鈴谷は酸素魚雷の誘爆により沈没した[194][195]


ガンビア・ベイの艦長の証言によると最初の着弾があったのが0820頃、0850頃にガンビアベイの破棄を決定、0910頃にガンビア・ベイは沈没した。またガンビア・ベイのベテラン乗組員の証言によるとガンビアベイは最後尾に置かれ戦艦及び重巡からの直撃弾を繰り返し浴び0907に沈没したと述べられている。ガンビアベイは戦艦及び重巡の砲撃によって前部機関室に浸水が発生しエンジン1機を失い、最終的に、6隻の重巡洋艦が距離2000ヤード(約1.8288km)まで接近し8インチ銃からの約20発の砲撃を浴びせガンビア・ベイは沈没したとされている[196]


だが追撃戦中の8時53分頃、筑摩はアメリカ艦載機により魚雷1本を艦尾に受けて火災が発生した[197][198]
護衛空母ナトマ・ベイから発進したTBF アヴェンジャーによる雷撃である[199]
本艦は舵故障と速力低下のため、栗田艦隊より取り残されて落伍[200]、応急修理を実施した(利根は羽黒に続行)[201]。10時20分頃から再びアメリカ軍機の空襲を受ける[202]
生存者の証言によれば、弾薬が尽きて演習弾で応戦するものの、午後4時頃に艦中央部に複数の命中弾を受ける[203]。左舷に傾斜し、総員退艦が発令された。筑摩はその後、警戒艦に指定された駆逐艦野分(第4駆逐隊)[204]により雷撃処分された[205][195]。海面を漂っていた筑摩生存者は120名余が野分に救助されたが、野分もその晩にアメリカ艦隊に捕捉され撃沈された[206][207]。野分に救助されなかった短期現役士官のみ、3日間の漂流ののちにアメリカ海軍に救助され、戦後日本に帰還した[208]。筑摩・野分の生存者は、筑摩航空機搭乗員を除けば1名のみであった。筑摩搭載偵察機は2機が未帰還機となり、2機が不時着して失われ、1機が稼動状態にあった[209]
また重巡鳥海も航行不能となったあと駆逐艦藤波(第32駆逐隊)に処分された[195]。だが藤波も戦場離脱中に撃沈され、鳥海乗組員ごと全滅した[210]


11月21日、第七戦隊は解隊された(白石司令官は軍令部出仕)[211]。残存していた重巡2隻(熊野、利根)は第五戦隊(妙高、羽黒)に編入された[212][213]。筑摩が所属していた舞鶴鎮守府(舞鶴海軍工廠)では、単艦で帰投した利根を見て筑摩の沈没を覚ったという[214]


1945年(昭和20年)4月20日、筑摩は海軍から除籍された[215]。筑摩の慰霊碑は鎌倉市に建立されたが、1979年(昭和54年)11月11日には母港の舞鶴に軍艦利根・筑摩慰霊碑が建立された[216]



兵装変遷


利根型重巡洋艦は開戦の時点で最新鋭巡洋艦であり戦没まで大規模な改装はなかった。しかしながら戦時中には戦訓によりレーダー(電探)の装備と対空機銃の増備を実施している。以下にその変遷を記述するが、いずれも推定であることに注意されたいところ。




  • 1943年(昭和18年) 損傷修理の際に後部予備指揮所両側に25mm連装機銃各1基増備、21号電探を装備(前檣)

  • 同年12月から翌年2月ころ 25mm連装機銃4基を同3連装機銃に交換。


  • 1944年(昭和19年)6月以降、マリアナ沖海戦の戦訓により機銃の大幅な増備。25mm3連装機銃4基、同単装23挺を増備。また22号2基(前檣)、13号1基(後檣)を装備する。


レイテ沖海戦時(最終時)の筑摩の機銃とレーダー(電探)は、



  • 25mm3連装機銃8基、同連装4基、同単装23挺。合計55挺

  • 電探:21号1基、22号2基、13号1基


と推定される。



歴代艦長






※『艦長たちの軍艦史』125-126頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。



艤装員長



  1. (兼)龍崎留吉 大佐:1938年5月18日[22] - 1938年11月1日[24]

  2. (兼)友成佐市郎 大佐:1938年11月1日[24] - 1938年12月10日[25]

  3. 西尾秀彦 大佐:1938年12月10日[25] - 1939年5月20日[30]



艦長



  1. 西尾秀彦 大佐:1939年5月20日[30] - 1939年10月20日[38]

  2. (兼)原鼎三 大佐:1939年10月20日[38] - 1939年11月15日[39]


  3. 橋本信太郎 大佐:1939年11月15日[39] - 1940年11月1日[44]

  4. 小暮軍治 大佐:1940年11月1日[44] - 1941年8月11日[50]


  5. 古村啓蔵 大佐:1941年8月11日[50] - 1942年11月10日[125]

  6. 荒木伝 大佐:1942年11月10日[125] - 1943年1月20日[36]

  7. 重永主計 大佐:1943年1月20日[36] - 1944年1月7日[167]

  8. 則満宰次 大佐:1944年1月7日[167] - 10月25日戦死(同日附で海軍少将)[217]



同型艦



  • 利根 [II]


参考文献



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    • 元航空本部員・海軍大佐永石正孝『海上決戦の花形 重巡洋艦とその搭載機 連合艦隊の前衛として重巡の果たす役割と艦載水上偵察機の変遷


    • 元軍令部部員・海軍大佐三代一就『軍令部の秘策は利根型で実現されたか 主砲を前部に集中、後部を航空兵装にあてた利根型誕生の背景と内幕


    • 当時「鈴谷」艦長・海軍大佐寺岡正雄『「鈴谷」最後の艦長レイテ沖決死の突撃行 至近弾により次々と誘爆、全艦火の海と化し沈没したサマール沖の実相


    • 元「筑摩」艦長・海軍大佐古村啓蔵『先頭第一の栄光に生きた重巡「筑摩」 真珠湾から南太平洋海戦の被弾、遂には比島沖に没した獅子奮迅の記録


    • 当時「利根」艦長・海軍大佐黛治夫『不滅の重巡「利根」の悔いなき航跡 落日せまる太平洋を縦横無尽に疾駆したライオン艦長の戦場報告


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    • 戦史研究家大浜啓一『日本重巡十八隻の戦歴』


    • 当時「筑摩」艦長・元海軍少将古村啓蔵『前衛「筑摩」と南太平洋海戦』


    • 元熊野掌航海長兼通信長・海軍大尉青山総市『前衛部隊熊野マリアナ沖決戦記』


    • 元鈴谷艦長・海軍大佐寺岡正雄『七戦隊鈴谷サマール沖の最期』




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    • 連合艦隊最後の決戦場レイテ沖海戦回想録―左近允尚敏『われらが軍艦 重巡「熊野」の最期』


    • ミッドウェーの惨劇を艦長が吐露する痛恨の手記―曾爾章『重巡最上出撃せよ ミッドウェー海戦もうひとつの悲劇




  • 安永弘 『死闘の水偵隊』 朝日ソノラマ文庫、1994年。 著者は筑摩の乗組(水上偵察機操縦)。レイテ沖海戦から生還。

    • 安永弘 『サムライ索敵機 敵空母見ゆ! 予科練パイロット3300時間の死闘』 光人社、2002年。 朝日ソノラマ文庫の改訂



  • 「第七章 巡洋艦筑摩」『両舷直の航跡』 山本佐次郎、成山堂書店、1994年1月。
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     著者は筑摩竣工時の主砲射手。

  • 利根型重巡 [歴史群像]太平洋戦史シリーズVol.47、学習研究社、2004年



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    • 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030116400。

    • 『昭和18年5月1日〜昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030116900。

    • 『昭和17年9月11日〜昭和18年11月30日 第3戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030041900。

    • 『昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030100500。

    • 『昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030100700。

    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030050000。

    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030050100。

    • 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030050200。

    • 『昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(1)』。Ref.C08030048100。

    • 『昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(2)』。Ref.C08030048200。

    • 『昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(3)』。Ref.C08030048300。

    • 『昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(4)』。Ref.C08030048400。

    • 『昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(5)』。Ref.C08030048500。

    • 『昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(6)』。Ref.C08030048600。

    • 『昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(7)』。Ref.C08030048700。

    • 『昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(8)』。Ref.C08030048800。

    • 『昭和18年12月1日〜昭和18年12月31日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573000。

    • 『昭和19年1月1日〜昭和19年1月31日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573100。

    • 『昭和19年2月1日〜昭和19年2月29日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573200。

    • 『昭和19年3月1日〜昭和19年3月31日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573300。

    • 『昭和19年4月1日〜昭和19年4月30日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573500。

    • 『昭和19年5月1日〜昭和19年5月31日 軍艦利根戦時日誌』。Ref.C08030573600。

    • 『昭和19年3月9日 軍艦利根戦闘詳報』。Ref.C08030573400。

    • 『昭和19年6月20日 軍艦利根戦闘詳報 第7号(あ号作戦中対空戦闘に対する分)』。Ref.C08030713100。

    • 『昭和19年5月1日〜昭和19年11月25日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030572400。

    • 『昭和19年7月1日〜昭和19年10月25日 軍艦筑摩戦時日誌(1)』。Ref.C08030575000。

    • 『昭和19年7月1日〜昭和19年10月25日 軍艦筑摩戦時日誌(2)』。Ref.C08030575100。

    • 『昭和18年11月1日〜昭和18年12月31日 佐伯防備隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030410600。

    • 『昭和19年7月1日〜昭和19年10月25日 軍艦筑摩戦時日誌(1)』。Ref.C08030575000。

    • 『昭和19年7月1日〜昭和19年10月25日 軍艦筑摩戦時日誌(2)』。Ref.C08030575100。

    • 『昭和19年10月1日〜昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(3)第7戦隊』。Ref.C08030039300。

    • 『昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)』。Ref.C08030037100。




  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館

    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。

    • 海軍研究社編輯部 編 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』 海軍研究社、1937年2月。

    • 海軍研究社編輯部 編 『日本軍艦集 2600年版』 海軍研究社、1940年7月。

    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711』 海軍大臣官房、1939年。

    • 海軍大臣官房 『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』 海軍大臣官房、1940年。




脚注





  1. ^ 機関出力、速力は筑摩の実測値。乗員は法令上の定員。他は計画値、もしくは利根の値


  2. ^ 昭和14年5月20日付 海軍内令 第407号改正、海軍定員令「第48表ノ2 二等巡洋艦定員表 其ノ5」。この数字は飛行科要員を含み特修兵を含まない。

  3. ^ ab#達昭和10年9月p.21『達第百十五號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル|昭和十年九月二十八日 海軍大臣大角岑生|三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 八千五百頓級巡洋艦 筑摩(チクマ)』

  4. ^ ab#艦艇類別等級表(昭和15年12月25日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|利根型|利根、筑摩|』


  5. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.140『艦名の由来』

  6. ^ ab#幕末以降帝国軍艦写真と史実139頁『筑摩(ちくま) 艦種二等巡洋艦 二檣(信號用)矢矧・平戸と姉妹艦なり 艦名考川の名、千曲川に採る、川名は又筑摩川・千阿川・知隈川等に作る、此艦名には筑摩の字を適用せられたるなり、川は信濃國作久村郡の渓谷に發源し、下流信濃川となりて新潟に於て海に注ぐ。艦歴(略)昭和6年4月1日除籍。(要目略)


  7. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.200『◎二等巡洋艦筑摩命名ノ件 明治四十四年四月一日(達三七) 佐世保海軍工廠ニ於テ建造ノ伊號二等巡洋艦ヲ筑摩ト命名セラル』


  8. ^ #大内、航空戦艦142-145頁『(ホ)「利根」級巡洋艦の戦歴』

  9. ^ ab#艦船要目(昭和15年12月25日)p.3『利根|二等巡洋艦|(要目略)|三菱長崎造船所|9-12-1|12-11-21|13-11-20|15.5c/m…12 12.7c/m高角8(性能略)』

  10. ^ abcd#艦船要目(昭和15年12月25日)p.3『筑摩|二等巡洋艦|(要目略)|三菱長崎造船所|10-10-1|13-3-19|14-5-20|15.5c/m…12 12.7c/m高角8(性能略)』


  11. ^ #大内、航空戦艦124-126頁『(ロ)「利根」級巡洋艦の特徴』


  12. ^ #豊田利根筑摩(1980)37-40頁『生い立ち』


  13. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)pp.203-204『◎巡洋艦筑摩命名ノ件 昭和十年九月二十八日(達一一五) 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル 三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 筑摩チクマ』


  14. ^ #達昭和10年9月p.21『達第百十六號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ駆逐艦二隻ニ左ノ通命名ス|昭和十年九月二十八日 海軍大臣大角岑生|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 駆逐艦 満潮(ミチシホ)|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 駆逐艦 荒潮(アラシホ)』


  15. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.210『◎驅逐艦満潮及荒潮命名ノ件 昭和十年九月二十八日(達一一六)』


  16. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.69『昭和十年九月二十八日(内令三六四) 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦二等利根型ノ項中「利根」ノ下ニ「、筑摩」ヲ加フ/驅逐艦一等朝潮型ノ項中「大潮」ノ下ニ「、満潮、荒潮」ヲ加フ』


  17. ^ #筑摩通知p.2『龍骨据付ノ日 昭和十年(一九三五年)十月一日』


  18. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.163(筑摩進水式写真)


  19. ^ 『昭和13年3月22日(火)海軍公報 第3292号 p.30』 アジア歴史資料センター Ref.C12070370200 『○進水 軍艦筑摩三月十九日三菱長崎重工業株式會社長崎造船所ニ於テ進水セリ』


  20. ^ #武藏上27頁


  21. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.162

  22. ^ ab『昭和13年5月18日(発令5月18日付)海軍辞令公報(部内限)号外 第183号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C13072073800 


  23. ^ 『昭和13年5月23日(月)海軍公報(部内限)第2916号 p.23』 アジア歴史資料センター Ref.C12070373400 『○艤装員事務所設置 軍艦筑摩艤装員事務所ヲ三菱重工業株式會社長崎造船所内ニ設置シ五月十九日事務ヲ開始セリ|軍艦瑞穂艤装員事務所ヲ神戸市兵庫區東出町一丁目神戸海軍監督官事務所内ニ設置シ五月十八日事務ヲ開始セリ』

  24. ^ abcde『昭和13年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)号外 第256号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500 

  25. ^ abc『昭和13年12月10日(発令12月10日付)海軍辞令公報(部内限)号外 第271号 p.5』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800 


  26. ^ 『昭和13年12月20日(発令12月20日付)海軍辞令公報(部内限)号外 第276号 p.17』 アジア歴史資料センター Ref.C13072075000 


  27. ^ 『昭和14年1月28日(発令1月28日付)海軍辞令公報(部内限)第292号 p.23』 アジア歴史資料センター Ref.C13072075300 


  28. ^ #海の武将19頁


  29. ^ 『昭和14年5月20日(土)海軍公報(部内限)第3212号 p.6』 アジア歴史資料センター Ref.C12070380700 『○事務所撤去 筑摩艤装員事務所ヲ五月に十日撤去ス』

  30. ^ abcd『昭和14年5月20日(発令5月20日付)海軍辞令公報(部内限)第338号 p.44』 アジア歴史資料センター Ref.C13072075700 

  31. ^ abcdefghijklmnopqrs#ハンディ判艦艇写真集12pp.160-161(重巡洋艦『利根・筑摩』行動年表)


  32. ^ 『昭和14年5月26日(金)海軍公報(部内限)第3217号 p.29』 アジア歴史資料センター Ref.C12070380700 『○残務整理 第七戰隊司令部ニ係ル残務整理ハ自今第六戰隊司令部ニ於テ行フ』


  33. ^ 『昭和14年5月24日(水)海軍公報(部内限)第3215号 p.21』 アジア歴史資料センター Ref.C12070380700 『○将旗掲揚 第六戰隊司令官ハ五月二十二日将旗ヲ利根ニ掲揚セリ』

  34. ^ abc#舞廠造機部158-161頁『重巡利根・筑摩の母港初入港』


  35. ^ 『昭和14年10月10日(発令10月10日付)海軍辞令公報(部内限)第389号 p.15』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076400 

  36. ^ abcde『昭和18年1月22日(発令1月20日)海軍辞令公報(部内限)第1038号 p.15田原免職・冨岡補職・重永補職・荒木免職、p.16神田補職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089400 


  37. ^ 『昭和18年7月5日(発令7月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1165号 p.38』 アジア歴史資料センター Ref.C13072092000 

  38. ^ abcd『昭和14年10月20日(発令10月20日付)海軍辞令公報(部内限)第393号 p.5』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076500 

  39. ^ abcdef『昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.21清水免職、p.22田結補職・後藤補職、p.28西尾補職・原免職・橋本補職・大西補職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 


  40. ^ 『昭和14年11月17日(金)海軍公報(部内限)第3362号 p.45』 アジア歴史資料センター Ref.C12070381900 『○将旗撤去 舊第八戰隊司令官ハ十一月十五日将旗ヲ阿武隈ヨリ撤去セリ』


  41. ^ 『昭和14年11月15日 海軍公報(部内限)第3363号 p.51』 アジア歴史資料センター Ref.C12070381900 『○旗艦指定 第二艦隊司令長官ハ第二水雷戰隊ノ旗艦ヲ神通ニ、第七戰隊ノ旗艦ヲ熊野ニ、第八戰隊ノ旗艦ヲ利根ニ、第三潜水戰隊ノ旗艦ヲ五十鈴ニ十一月十五日孰モ指定セリ|第八戰隊司令官ハ十一月十六日旗艦ヲ利根ニ指定セリ』


  42. ^ 『昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.9飛田補職、p.12千早補職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800 


  43. ^ #両舷直の航跡75-76頁『舞鶴戦艦、花の十六人衆』

  44. ^ abcd『昭和15年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第550号 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079300 


  45. ^ #紀元二千六百年特別観艦式・第三章p.1


  46. ^ 『昭和15年11月29日(発令11月28日付)海軍辞令公報(部内限)第561号 p.33』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079700 

  47. ^ abc『昭和16年4月10日(発令4月10日付)海軍辞令公報(部内限)第614号 p.29南雲補職・伊藤免職、p.30宇垣補職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072080700 


  48. ^ 『昭和16年4月14日(月)海軍公報(部内限)第3770号 p.9』 アジア歴史資料センター Ref.C12070394300 『○将旗撤去 舊第八戰隊司令官ハ四月十一日将旗ヲ撤去セリ』

  49. ^ ab『昭和16年8月1日(発令8月1日付)海軍辞令公報(部内限)第683号 p.3』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081700 

  50. ^ abc『昭和16年8月11日(発令8月11日付)海軍辞令公報(部内限)第688号 p.23』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081700 


  51. ^ #重巡十八隻288頁


  52. ^ #ハンディ判艦艇写真集12p.148『利根型の航空艤装』


  53. ^ #重巡十八隻77頁


  54. ^ #重巡十八隻119頁『第八戦隊(利根、筑摩)』


  55. ^ #海の武将27頁


  56. ^ #重巡十八隻120頁


  57. ^ #海の武将30頁


  58. ^ #海の武将31頁

  59. ^ abc#豊田利根筑摩(1980)57-59頁


  60. ^ #海の武将32頁


  61. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦498頁


  62. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦496頁


  63. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦495頁


  64. ^ #機動部隊の栄光(単行本)90頁

  65. ^ ab#S1703一戦日誌(1)p.5『三月一日 第十八駆逐隊一小隊、第二十七駆逐隊二小隊及磯風「ジャバ」南方海面ニ於テ蘭国武装商船(モッドヨカード號)ヲ砲撃撃沈ス』

  66. ^ ab#機動部隊の栄光(単行本)91頁


  67. ^ #海の武将32頁


  68. ^ #S1703一戦日誌(1)pp.5-6『三月四日 浦風 筑摩艦長ノ指揮下ニ入リ「ジャバ」南方海面ニ於テ武装貨物船(エンガノ號)拿捕ノ為主隊ト分離之ヲ撃沈五日早朝主隊ニ合同ス』


  69. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦510頁


  70. ^ #豊田利根筑摩(1980)60-61頁では浦風が雷撃したとする


  71. ^ #S1703一戦日誌(1)p.26『五日筑摩艦長(宛略)戰斗概報 筑摩浦風ハ蘭國武装貨物船「ENGGANO」(船問人ナシ)ニ對シ一九五七射撃開始射距離三粁乃至一.五粁 二〇四一筑摩雷撃二〇四三之ヲ撃沈ス 沈没位置南緯一一度五六.二分東経一〇八度二一分 発射彈数筑摩主砲三一高角砲一八一 浦風主砲八 発射雷数筑摩一』


  72. ^ #S1704舞鎮日誌(1)p.62『二三(天候略)〇九三〇 第八戰隊(利根、筑摩)入港(以下略)』

  73. ^ ab#舞廠造機部217-221頁『ミッドウェー海戦の前後』


  74. ^ #S1704舞鎮日誌(1)p.9『(2)其ノ他ノ主要工事 利根、筑摩、第三十三潜水隊、長良及君川丸ノ整備工事、薄雲ノ特定修理工事、其ノ他ノ艦船兵器及陸上部隊等ノ主要訓令通牒工事ハ概ネ豫定通進捗シ長良、君川丸整備工事ハ夫々本月末完成セリ』


  75. ^ #S1705舞鎮日誌pp.10-11『(2)艦船其ノ他ノ工事 利根筑摩第三十四驅逐隊及第三十三潜水隊ノ整備工事竝ニ薄雲ノ特定修理工事、大潮ノ損傷復舊工事、其ノ他艦船兵器及陸上部隊ノ主要造修訓令通牒工事ハ概ネ豫定通進捗中ナリ』


  76. ^ #海の武将35頁


  77. ^ #木俣空母261-263頁『第八章 ミッドウエー海戦』


  78. ^ #海の武将38頁


  79. ^ #海の武将39頁


  80. ^ #豊田利根筑摩(1980)66-67頁


  81. ^ #海の武将41頁


  82. ^ #海の武将41頁


  83. ^ #海の武将42頁


  84. ^ #豊田利根筑摩(1980)79-81頁


  85. ^ [1] p.6


  86. ^ #重巡十八隻290-291頁


  87. ^ #1航艦戦闘詳報(1)p.45『爾後漂流中ノ者ヲ前甲板ニ収容シ負傷者ノ治療ヲ行ヒ一六〇〇頃迄ニ駆逐艦浜風磯風ニ収容ヲ了ス』


  88. ^ #1航艦戦闘詳報(3)p.19『一四三〇|浜風|筑|貴艦派遣ノ「カッター」ハ止ムナク放棄セリ艇員八名ハ磯風ニ収容シアリ』


  89. ^ 『昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 p.50南雲・三川・阿部補職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 


  90. ^ 『昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 p.1原補職・大西補職・岡田免職・兄部補職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072086300 


  91. ^ #重巡十八隻121頁


  92. ^ #重巡十八隻85頁


  93. ^ #S1707舞鎮日誌(2)p.20『一六(天候略)〇六一五 八戰隊(利根筑摩)入港(以下略)』


  94. ^ #S1707舞鎮日誌(1)pp.7-8『(b)艦船整備工事 名取(十日)神威(十八日)三十一驅潜隊(三十一日)呂六三潜(十七日)ノ整備工事ハ何レモ概ネ順調ニ進捗各附記ノ通完成作戰地ニ向ケ進出セリ 利根、筑摩ニ對スル整備工事ハ十六日入港以来極力進捗中』


  95. ^ #S1708舞鎮日誌p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂工事=豫定通進捗中/霞工事=損傷復舊工事ノ爲本月十三日入港目下損傷部調査中 (b)利根筑摩ノ整備工事ハ六日完成シ作戰地ニ向ケ進出セリ 夕風(二十一日)、室戸(二十四日)ハ附記ノ通入稿以來極力進捗中』


  96. ^ #S1708舞鎮日誌p.60『六(天候略)一一四五筑摩出港 一三〇〇利根出港(以下略)』


  97. ^ #重巡十八隻293-294頁『ソロモン海に築く屍の山』

  98. ^ ab『昭和17年10月7日(発令10月7日付)海軍辞令公報(部内限)第959号 pp.45-46』 アジア歴史資料センター Ref.C13072087200 


  99. ^ #海の武将116頁


  100. ^ #海の武将117頁


  101. ^ #重巡洋艦戦記113-114頁『南進、そして反転北上』


  102. ^ #海の武将51頁


  103. ^ #海の武将118頁


  104. ^ #海の武将53頁、「昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(2)」pp.11


  105. ^ #重巡洋艦戦記116-117頁『屍の山、血の河』


  106. ^ #豊田利根筑摩(1980)15-18頁


  107. ^ #海の武将54.122頁


  108. ^ #海の武将120頁


  109. ^ #重巡洋艦戦記117-119頁『魚雷を投棄す』


  110. ^ #海の武将55.121頁


  111. ^ #海の武将55頁、「昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(2)」pp.25


  112. ^ #豊田利根筑摩(1980)22頁


  113. ^ #海の武将56.122頁


  114. ^ #S1710筑摩戦時日誌(2)p.12『〇九一七谷風浦風護衛ノ下ニ「トラック」ニ向かフ』


  115. ^ #海の武将123頁


  116. ^ #海の武将56.123頁


  117. ^ #重巡洋艦戦記122頁『奇妙な戦場心理』


  118. ^ #重巡洋艦戦記124-125頁『筑摩は母艦の身代わり?』


  119. ^ #海の武将57.126頁


  120. ^ #重巡洋艦戦記36-37頁


  121. ^ #重巡洋艦戦記123頁


  122. ^ #豊田利根筑摩(1980)31頁


  123. ^ #海の武将125頁


  124. ^ #S1711七戦隊日誌(1)p.22『11月1日1717第三艦隊司令長官/一.左ノ各艦(隊)ハ左記ニ依リ内地ニ帰投修理整備作業ニ任ズベシ(1)回航地 艦名:横須賀 翔鶴第四駆逐隊(萩風欠)、秋月/呉:熊野筑摩、第十七駆逐隊第1小隊秋雲 佐世保:瑞鳳、第十七駆逐隊第2小隊 (2)行動(イ)11月2日1400以後「トラック」発各回航地毎ニ先任艦長指揮シ回航スルモノトス。但シ呉佐世保ニ回航スルモノハ途中迄同一行動ヲ執リ分離時迄瑞鳳艦長指揮スベシ(以下略)』

  125. ^ abcd『昭和17年11月10日(発令11月10日付)海軍辞令公報(部内限)第982号 p.25』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088000 


  126. ^ 『昭和17年12月5日(発令12月5日付)海軍辞令公報(部内限)第107号 p.27』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088500 


  127. ^ 『昭和18年6月9日(発令6月9日付)海軍辞令公報(部内限)第1140号 p.43』 アジア歴史資料センター Ref.C13072091500 


  128. ^ 『昭和18年1月6日(発令12月31日付)海軍辞令公報(部内限)第1024号 p.3』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089000 


  129. ^ 『昭和18年11月17日(発令11月17日付)海軍辞令公報(部内限)第1263号 p.41』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094400 


  130. ^ #S1701第八戦隊日誌(5)p.18『(二)戰備 利根ハ二十一日ヨリ、筑摩ハ十七年十一月初旬以降夫々舞鶴及呉ニ在リテ修理整備ニ從事 筑摩ノ諸工事ハ二月末完了セリ』


  131. ^ 『昭和18年3月15日(発令3月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1069号 p.6』 アジア歴史資料センター Ref.C13072090000 


  132. ^ #S1701第八戦隊日誌(5)pp.29-30『(ハ)作戦指導 前月ニ引続キ三月二十一日迄内地ニ在リテ整備補給竝ニ諸訓練ニ從事 三月二十二日2sf司令官指揮ノ下ニ8Sヲ率ヰ内海出撃「トラック」ニ回航、二十七日着尓後同地ニ警泊待機諸訓練ニ從事』


  133. ^ #S1801二水戦日誌(4)p.5『3月22日-3月28日|陽炎(将旗15dg)|2sf(隼鷹飛鷹)8S(利根筑摩)|佐伯-「トラック」』


  134. ^ #S1712四水戦日誌(5)p.25『21日1203(将旗)2sf|2sf及61dg(秋月欠)15dg(陽炎欠)夕暮「トラック」ニ向ケ佐伯発』-p.38『22日|(天候略)|一.夕暮陽炎初月涼月ト共ニ2sf8Sノ直衛ニ任ジツツ佐伯発トラックニ回航ス(略)』


  135. ^ #武藏上129頁


  136. ^ #S1701第八戦隊日誌(5)p.49『(二)十七日GF長官指揮ノ下ニ8Sヲ率ヰ「トラツク」發横須賀ニ回航二十二日着二十五日同地發木更津沖ニ回航二十九日同地發横須賀ニ回航右期間整備補給竝ニ諸訓練ニ從事』


  137. ^ #武藏上142頁


  138. ^ #S1801二水戦日誌(6)p.14『一七(天候略)一.一〇〇〇武藏3S 8S 2sf(飛鷹)横須賀ニ向ケ「トラック」發61dg(d×2)27dg(d×2)24dg〇七〇〇出港右護衛ニ任ズ海風本日附主隊編入』


  139. ^ #S1801二水戦日誌(6)p.6『五月十七日 五月二二日|海風|武藏 3S 8S 2sf(隼鷹欠)|「トラック」→横須賀|海風主隊編入中』


  140. ^ #S1805四水戦日誌(1)pp.6,33『27dg(時雨、有明)ハ前記任務ノ後17日GF電令作第564号ニ依リGF主隊ニ編入セラレ内地回航部隊(1S(大和欠)、3S、8S、2sf(隼鷹欠))直衛任務ニ従事「トラック」発 22日横須賀着』


  141. ^ 『昭和19年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1405号 p.11』 アジア歴史資料センター Ref.C13072097100 

  142. ^ ab『昭和17年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第837号 p.11田中免職、p.12西村正直補職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072111700 


  143. ^ 『昭和18年5月25日(発令5月24日付)海軍辞令公報(部内限)第1124号 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.C13072091100 


  144. ^ #S1709三戦隊日誌(3)p.13『2.敵ノ「アッツ」島来襲ニ伴ヒ主隊ニ編入ノ上五月十七日「トラツク」発東京湾ニ回航二十二日機動部隊本隊ニ編入セラレ急速北方作戰準備ヲ實施セルモ作戰取止メトナリ内地ニ於テ訓練整備ニ從事スルコトヽナレリ』


  145. ^ #木俣空母486-488頁『第一航空戦隊の再出撃(七月)』


  146. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.18『…翌十日機動部隊指揮官指揮ノ下ニ第八戦隊ヲ率ヰ0600同地發1230沖ノ島出撃「トラック」ニ回航15日着急速補給ヲ完了機動部隊第一部隊(8S 61dg)及第三部隊(日進)ヲ率ヰ14S(那珂)ヲ併セ指揮シ16日早朝「トラック」發ニテ搭載人員ヲ「ミレ」方面ニ輸送ノ予定ナシリ所…』


  147. ^ #S1709日進詳報(2)p.38『七月三日一八二五機動部隊指揮官|8S 10S外日進|KdB機密〇三二一一〇番電 一.略/二.冲鷹日進玉波(日進艦長ノ命ヲ受ケ日進警衛ニ任ズ)ハ便宜各所在地發七月十一日一二〇〇迄ニ當部隊ニ合同セヨ|無電』-『七月十日〇五三〇日進(宛略)日進玉波〇五〇〇「トラック」ニ向ケ發|無電』-『七月十四日〇五〇〇瑞鶴|艦隊|日進冲鷹玉波嵐ハ列ヲ解キ日進艦長所定ニ依リ概ネ當隊ニ續行「トラック」ニ入泊スベシ|信号』


  148. ^ #S1709日進詳報(2)pp.25-26『二.計画 日進ハ六月二十五日機動部隊ニ編入何回第四支隊ヲ輸送「トラツク」ニ同航後同支隊ノ「ソロモン」方面転用決定セラルヤ八戰隊司令官指揮ノ下ニ大淀最上阿賀野ト共ニ「ラボール」ニ同航同地ニテ自動車彈薬等ノ一部ヲ卸シ陸軍約四〇〇名ヲ搭載ノ上十戰隊司令官(萩風坐乗)指揮下ノ下ニ七月二十一日ラボール發磯風萩風嵐護衛二十二日一六〇〇ブイン着揚陸ヲ行ヒ同日二一〇〇發「ラボール」ニ歸環ノ予定ナリキ』


  149. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.36『…21日1500「ラバウル」ニ入泊直ニ乙部隊ニ対スル積換補給(嵐ハ利根、萩風ハ筑摩、磯風ハ大淀ヨリ燃料補給満載)並ニ「ラバウル」ニ於ケル揚搭作業ヲ開始シ…』

  150. ^ ab#S1701八戦隊日誌(6)p.40『…出撃前日(23日附)4dg南東方面部隊編入ノGF電令ニ接シタルヲ以テ不取敢第一部隊ヨリ除キ第十戦隊司令官所定ニ依リ磯風ノ魚雷弾薬等ヲ同隊ニ移載ノ上第一部隊ハ24日0915「ラバウル」ヲ出撃セリ…』


  151. ^ #叢書96ガ島撤収後382頁『連合軍のタロキナ上陸とわが航空攻撃』

  152. ^ ab#叢書96ガ島撤収後396-397頁『栗田部隊のラバウル進出の決定』

  153. ^ ab#叢書96ガ島撤収後397-399頁『ラバウル進出と逆上陸計画との絡み合い』

  154. ^ abcd#叢書96ガ島撤収後399-400頁『米空母機による第一次被空襲と被害―十一月五日』


  155. ^ 「昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」pp.7


  156. ^ 「昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」pp.8


  157. ^ 「昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(8)」pp.14

  158. ^ ab#叢書96ガ島撤収後400-401頁『重巡部隊のトラック帰投』


  159. ^ #S1812十戦隊日誌(1)p.4『(ロ)61dg(凉月初月)七日「トラツク」発呉行ノ8S(筑摩)瑞鶴ノ護衛ニ任ズ』


  160. ^ #S1812十戦隊日誌(1)p.23『八谷風|八 一五五五阿賀野(略)昨日二三〇〇筑摩ト分離歸投ス 異状ナシ』-p.45『七(天候略)〇五〇〇天津風雪風千歳伊良湖ヲ護衛トラック発/〇八〇〇凉月初月谷風瑞鶴筑摩ヲ護衛横須賀ニ向ケ「トラツク」発』


  161. ^ #S1701第八戦隊日誌(8)p.26『(四)六日8S(筑摩)ハ聯合艦隊信令第六四五號ニ依リ兵器其ノ他ノ物件ヲ處理シ(弾薬等一部7Sニ還納以来)陸揚中ノ物件ヲ揚収回航準備ヲ完成、七日〇八〇〇8S(筑摩)瑞鶴61dg(涼月初月)ヲ率ヰ「トラック」發二三〇〇途中迄直衛トナレル谷風ヲ「トラツク」ニ皈投セシメ十一日一六〇〇豊後水道沖島通過十二日〇一〇〇呉ニ入港セリ』


  162. ^ #S1811佐伯防備隊(6)p.39『八日一一四八呉防戰司令官(宛略)電令第四〇八號 筑摩瑞鶴第六十一駆逐隊ハ十一日一四三〇N31°55′E132°50°ニ達シ尓後東水道ニ侵入ノ予定速力二十四節(以下略)』


  163. ^ 『昭和19年1月1日(発令1月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1292号 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.C13072095200 


  164. ^ #戦隊行動調書p.8『昭和19 一.一 利根筑摩 7Sニ編入』


  165. ^ #第八戦隊日誌(8)p.27『(ハ)昭和十九年一月一日附ヲ以テ第八戰隊解隊セラレ、筑摩及利根ハ第七戰隊ニ編入セラル』


  166. ^ 『昭和18年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1249号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094100 

  167. ^ abc『昭和19年1月10日(発令1月7日付)海軍辞令公報(部内限)第1295号 p.39』 アジア歴史資料センター Ref.C13072095200 


  168. ^ 『昭和18年2月3日(発令2月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1047号 pp.41-42』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089600 


  169. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.27『六(天候略)矢矧10dg初月若月0630昭南ニ向ケ翔鶴瑞鶴筑摩ヲ護衛洲本發0615朝雲昭南ニ向ケ洲本発』


  170. ^ #重巡十八隻350頁


  171. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.30『二〇(天候略)0000雪風初霜千歳ヲ護衛鹿児島発/0926 10dg瑞鶴ヲ護衛呉ニ向ケ発/1703翔鶴初月リンガ着/1725若月リンガ着』


  172. ^ #重巡洋艦戦記184-186頁『「サ一号作戦」の後難』


  173. ^ #重巡洋艦戦記187-188頁


  174. ^ 『昭和19年3月25日(発令3月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1388号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C13072096900 

  175. ^ ab『昭和19年9月13日(発令9月10日付)海軍辞令公報(甲)第1592号 p.24西村補職、p.25田中免職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072096900 


  176. ^ #佐藤 艦長(文庫)465-468頁『友軍機誤射事件の真相』


  177. ^ #S1907筑摩戦時日誌(1)pp.13-14『自昭和十九年七月九日至昭和十九年七月十六日軍艦筑摩行動圖』


  178. ^ 『昭和17年6月1日(発令6月1日付)海軍辞令公報(部内限)第873号 p.37』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085700 


  179. ^ 『昭和17年7月1日(発令7月1日付)海軍辞令公報(部内限)第892号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 


  180. ^ 『昭和19年11月14日(発令11月12日付)海軍辞令公報(甲)第1643号 p.50』 アジア歴史資料センター Ref.C13072101900 


  181. ^ 『昭和19年12月7日(発令11月30日付)海軍辞令公報(甲)第1662号 p.13』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102200 


  182. ^ 『昭和19年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(甲)第1620号 p.8』 アジア歴史資料センター Ref.C13072101600 


  183. ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊p.4『(ハ)第七戰隊(将旗熊野、鈴谷、筑摩、利根)ハ第一遊撃部隊ノ第二部隊(3S 7S 10S《旗艦矢矧 17dg 野分》及清霜)ニ属シ第一部隊ト共ニ1YBノ主力トシテ「シビアン」海経由「サンベルナルヂノ」海峡突破「レイテ」泊地突入ヲ企図ス』


  184. ^ #重巡洋艦戦記190-191頁


  185. ^ #重巡十八隻312頁


  186. ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊p.6『(ロ)搭載機ノ戰斗概要(基地派遣後ノ戰斗ヲ除ク)』


  187. ^ 安永弘『死闘の水偵隊』392頁 著者は筑摩所属機(朝日ソノラマ、1994)


  188. ^ #レイテ(1971)138-139頁『米護衛空母に砲弾の嵐』


  189. ^ #撃沈戦記(2013)147頁


  190. ^ #レイテ(1971)129頁


  191. ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊p.8『〇七二四|(旗艦)熊野被雷(出シ得ル速力約一四節)筑摩艦長ヲシテ一時七戰隊ノ指揮ヲ執リ筑摩利根ヲ率ヰ進撃セシム対空戦斗砲雷戦』


  192. ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊p.8『〇八三〇|旗艦ヲ鈴谷ニ変更ス 鈴谷被爆ニ依リ出シ得ル最大速力二三節 熊野ハ單艦「サマール」島ニ接岸北上セシム』


  193. ^ #重巡洋艦戦記212-214頁『至近弾をくらう』


  194. ^ #重巡十八隻280-282頁『全乗員退艦せよ』

  195. ^ abc#レイテ(1971)157頁


  196. ^ Cox, Robert Jon. “USS Gambier Bay (CVE 73)”. 2011年3月16日閲覧。(元アメリカ海軍兵による個人サイトとのこと)


  197. ^ #サイパン・レイテ海戦記263頁


  198. ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊pp.26-27『〇八五三|敵艦爆約三十機雷撃機数機筑摩利根羽黒鳥海ノ附近ニ来襲対空戰斗 筑摩ノ両舷ニ雷撃機各二機超低空ニテ襲撃ス尚筑摩上空ニ敵戰斗機数機アリ筑摩ハ全放火ヲ挙ゲテ射撃中ナルヲ認ム(利根ヨリ目視距離五粁内外)筑摩右舷ニ雷撃機一機戰斗機一機計二機撃墜(利根ヨリ目視セル筑摩ノ被雷状況左ノ通)最初右舷ヨリ来襲セル雷撃機二機ニ対シ向首回避運動中筑摩ノ左舷ヨリ更ニ雷撃機二機超低空ニテ襲撃間モナク船尾ニ魚雷命中セルモノヽ如ク火焔ト共ニ船ノ全長ニ近キ大水柱昇騰後甲板單装機銃等被弾スルヲ認ム 後甲板後半部大破沈下セルモノヽ如キモ稍低速航行ヲ續ケ奮戦シツヽアリ「我舵故障」ノ信號ヲ掲ゲツヽ旋回中後部ヲ除キ外形上ノ著被ヲ認メズ』


  199. ^ #撃沈戦記(2013)152頁


  200. ^ #レイテ(1971)140-141頁


  201. ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊p.8『〇八五三|筑摩敵機ノ襲撃ヲ受ケテ船尾被害大、舵故障ニテ分離ス 利根ハ羽黒《5S旗艦》ト共ニ敵空母ヲ猛攻シツヽ進撃ス』


  202. ^ #捷号戦闘詳報(6)第7戦隊p.43『(三)筑摩ハ二十五日〇七二四(旗艦)熊野損傷後一時利根ヲ指揮シツヽ敵ヲ急追大ニ戰果ヲ擧ゲツヽアリシガ雷撃機ノ来襲ヲ受ケ〇八五三被雷後速力急減シ分離尓後数次ニ亘ル敵機ノ攻撃ヲ受ケタルモノヽ如ク一一二〇野分ヲ之ガ警戒ニ分派セラレタルモ其ノ後両艦共消息ナク全員壮烈ナル最後ヲ遂ゲタルモノト認ム』


  203. ^ #サイパン・レイテ海戦記396頁


  204. ^ #捷号詳報(6)第7戦隊p.32『1120野分→1YB/筑摩ノ位置知ラサレ度』-『1142将旗1YB→野分通報 筑摩「野分ハ筑摩ノ警戒艦トナレ筑摩ノ位置「タクロバン」ノ85度125浬1120」』


  205. ^ #重巡十八隻297頁


  206. ^ #駆逐艦野分物語222頁


  207. ^ #レイテ(1971)175頁


  208. ^ #駆逐艦野分物語221頁、林義章(筑摩4番主砲砲員)談。


  209. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」pp.45


  210. ^ #レイテ(1971)186頁


  211. ^ 『昭和19年11月29日(発令11月21日付)海軍辞令公報(甲)第1655号 p.53から』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000 


  212. ^ #戦隊行動調書pp.5,8『5S/1121 熊野利根5Sヘ』『7S/11.21.将旗ヲ撤ス』


  213. ^ #重巡十八隻106、119頁


  214. ^ #舞廠造機部341-342頁


  215. ^ 『海軍公報第121號(甲配付)昭和20年4月27日(金)』 アジア歴史資料センター Ref.C12070204400 『内令第三四六號(軍極秘)舞鶴鎮守府在籍 軍艦 筑摩 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年四月二十日 海軍大臣』


  216. ^ #両舷直の航跡68-70頁『利根と筑摩』


  217. ^ 『昭和20年2月16日(発令昭和19年10月25日付)海軍辞令公報(甲)第1723号 p.42』 アジア歴史資料センター Ref.C13072103400 




関連項目



  • 古村啓蔵

  • 信濃川


  • 筑摩 [I] (防護巡洋艦)


  • あぶくま型護衛艦
    • ちくま (護衛艦)






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