習志野俘虜収容所
習志野俘虜収容所(ならしのふりょしゅうようじょ)は、千葉県千葉郡幕張町実籾字実花新田(現・習志野市東習志野)にあった陸軍習志野演習場区域内に開かれた俘虜収容所である。なお、俘虜情報局編『大正三四年戦役俘虜写真帖』には「収容所位置」として、千葉県千葉郡二宮村と書かれている[1]。
第一次世界大戦期、日独戦ドイツ兵捕虜約1,000人を収容した事で後世に知られるようになった[2]。収容所長は西郷隆盛の嫡子である西郷寅太郎大佐が務めていた。また、西郷所長が在職中に死亡した後は、山崎友造大佐(後に少将)が収容所の閉鎖まで所長を務めた。
目次
1 概要
2 捕虜の生活について
3 文化交流について
4 収容所生活での事件
5 出典
5.1 参考文献
5.2 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
概要
第一次世界大戦時にドイツの租借地であった中華民国青島で、日本の捕虜となったドイツ兵4,715名のうち、約1,000名を1915年(大正4年)から1920年(大正9年)まで収容した施設である。建設費用は43,000円で、収容所(1,300坪)に加え、その他所員の詰所、炊事所、物置、附属舎など数百坪という大規模な施設だった。日露戦争時にロシア人捕虜を収容した施設とは異なる。
捕虜の生活について
ドイツ人捕虜は徴兵された者が大半であり、母国で様々な職業技術を習得している者も多かった。日本側が用意した収容棟の他に、ドイツ人捕虜の中で建築技術を持った者がラウベ(あずまや)と呼ばれる小屋や演奏会・演劇を行う為の野外ステージを作り、捕虜劇団はイプセンに挑戦し、捕虜仲間を講師にした「捕虜カレッジ」や映画鑑賞も行われていた。
また、サッカーやテニス等のスポーツや「習志野捕虜オーケストラ」(指揮はハンス・ミリエス)も組織され、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト等の諸作品やヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」が演奏され、単調な捕虜生活を彩っていた。収容棟と収容棟の間には菜園が作られ、ビールやワインの醸造までも行われていた。また、稲毛海岸や御滝不動尊金蔵寺などへの遠足も定期的に行われていた。
文化交流について
収容所内の印刷所では日本情緒あふれる絵はがきが作られた他、ドイツ兵の中には日本の文化に深い興味をもち、日本の民話の翻訳に没頭する者(フリッツ・ルンプ)もいた。また、地域との交流も行われており、演芸会をのぞきにきた地域の子供達がドイツ兵からラムネをもらったり、収容所見学に来た小学生の一行にドイツ兵が「ボトルシップ」をプレゼントしたなどのエピソードも残されている。
その交流を通じて石鹸やマヨネーズなどの製法も伝えられたが、中でもカール・ヤーンら5名のソーセージ職人は、千葉市に新設された農商務省畜産試験場の求めに応じてソーセージ作りの秘伝を公開し、この技術は農商務省の講習会を通じて、日本全国に伝わっていった。そこで習志野を「ソーセージ製法伝来の地」と見る説もある。その他、同収容所から房総の牧場に出張してコンデンスミルクの技術指導をした者、東京銀座のカフェーで洋菓子作りの指導を行った者などが知られている。日独開戦前、山梨県のぶどう園(現、サントリー登美の丘ワイナリー)に招かれ、指導にあたったワイン技師・ハインリッヒ・ハムなども収容されていた。
収容所生活での事件
4年半に及ぶ習志野での捕虜生活において最大の事件は、1918年の秋から世界中で大流行した「スペインかぜ」(インフルエンザ)によって、25名のドイツ兵と西郷所長が命を落としたことであった。12月に最初の死者が出て、2番目の犠牲者は西郷所長であった。1919年1月1日、朝から高熱を出していた西郷は医師が止めるのも聞かず、乗馬で収容所へ向った。年頭のあいさつとして敗戦の衝撃に沈んでいるドイツ兵を励まし、この新年が彼らにとって帰国の年となることを伝えようとしたのである。あるドイツ兵は、所長の死亡はこの日の午後4時であったと記している。
スペインかぜで倒れた者、その他の持病で亡くなった者計30名のドイツ兵の墓碑は、習志野陸軍墓地(現習志野霊園、船橋市)にあり、今日でも毎年11月の国民哀悼の日になると駐日ドイツ大使館の駐在武官を迎えて慰霊祭が行われている。
出典
参考文献
- 習志野市教育委員会『ドイツ兵士の見たニッポン』(2001年、丸善ブックス) ISBN 4-621-06094-5
- 瀬戸武彦『青島から来た兵士たち』(2006年、同学社) ISBN 4-8102-0450-2
- 習志野市教育委員会『習志野市史研究3』(2003年3月1日)
日露戦争期に開設されたロシア人俘虜収容所については
- 習志野市HP「日露戦争と習志野」
なお、2005年(平成17年)11月13日付の産経新聞「日露戦争捕虜収容所の写真集発見」が報じたところによると、習志野に収容されたロシア兵の生活を克明に記録した写真50枚が陸上自衛隊衛生学校で発見されている。陸軍東京予備病院の岡谷米三郎一等軍医が1905年(明治38年)12月10日に撮影したもので、約15,000人が暮らした収容所内の炊事場、洗濯場やロシア正教の礼拝、学校、ビリヤードやトランプを楽しむ遊戯室、散歩中芝生に横たわるロシア兵などが写し出されており、国際法に則った処遇ぶりがわかるものとなっている。
関東大震災の際に開設された朝鮮人収容所については
- いわれなく殺された人びと―関東大震災と朝鮮人 ISBN 978-4-250-83024-2
脚注
^ 大正三四年戦役俘虜写真帖(国立国会図書館デジタルコレクション) 2017年3月20日閲覧
^ “ドイツ兵収容所から100年の絆 ボトルシップ、写真など 習志野で企画展”. 千葉日報. (2013年11月21日). http://www.chibanippo.co.jp/news/local/167170 2013年11月21日閲覧。
関連項目
- 板東俘虜収容所
- 日独戦ドイツ兵捕虜
- 似島俘虜収容所(似島検疫所)
- 青野原俘虜収容所(青野原演習場)
- 習志野
- 千葉県の軍事拠点や軍事史跡一覧
フリードリヒ・ハック - 当収容所に在籍していた。
ヨハンネス・ユーバーシャール - 当収容所に在籍していた。
カール・フォン・ヴェークマン - 当収容所に在籍していた。
アルフレート・マイヤー=ヴァルデック - 当収容所に在籍していた。
田中信男 (陸軍軍人) - 当収容所に勤務していた。
外部リンク
- 習志野市社会教育課
- チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会
- ドイツ捕虜オーケストラの碑
- DIJドイツ-日本研究所所蔵の習志野収容所史料