ウラジーミル・レーニン
ウラジーミル・イリイチ・レーニン Владимир Ильич Ленин | |
---|---|
1920年のレーニン | |
通称: | レーニン |
生年: | (1870-04-22) 1870年4月22日 |
生地: | ロシア帝国シンビルスク県シンビルスク郡シンビルスク |
没年: | (1924-01-21) 1924年1月21日(53歳没) |
没地: | ソビエト連邦 ロシア共和国 モスクワ県ポドリスク郡ゴールキ |
思想: | 共産主義 |
活動: | 十月革命 コミンテルン創設 |
所属: | ロシア社会民主労働党 ロシア共産党(ボリシェヴィキ)) |
影響を受けたもの: | カール・マルクス カール・カウツキー ゲオルギー・プレハーノフ |
廟: | レーニン廟 |
ウラジーミル・イリイチ・レーニン(ロシア語: Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日 – 1924年1月21日)は、ロシアの革命家、政治家。ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ、のちに共産党と改名)の指導者として活動し、十月革命を成功させ、革命政府において人民委員会議議長を務めた。また、第二インターナショナルに代わる共産主義政党の国際組織としてコミンテルンの創設を主導した。政治、経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、その思想はレーニン主義として継承された。
本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(Влади́мир Ильи́ч Улья́нов)であり、レーニンは筆名。多くの著作でエヌ・レーニン(Н. Ленин)と署名していた。本人が「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」と名乗った例はない。
目次
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 青年時代
1.3 政治家へ
1.4 ロシア社会民主労働党の再建と分裂
1.5 第一革命と労農民主独裁論
1.6 帝国主義戦争と革命的祖国敗北主義
1.7 二月革命から十月革命へ
1.8 権力の獲得
1.9 ブレスト=リトフスク条約
1.10 暗殺未遂事件
1.11 コミンテルンの創設
1.12 戦時共産主義からネップへ
1.13 正教会弾圧
1.14 ソ連邦の形成とグルジア問題
1.15 死去
2 死後
3 評価
4 補足
5 脚注
6 参考文献
7 外部リンク
生涯
生い立ち
ソビエト連邦 |
---|
最高指導者 |
レーニン · スターリン マレンコフ · フルシチョフ ブレジネフ · アンドロポフ チェルネンコ · ゴルバチョフ |
標章 |
ソビエト連邦の国旗 ソビエト連邦の国章 ソビエト連邦の国歌 鎌と槌 |
政治 |
ボリシェヴィキ · メンシェヴィキ ソビエト連邦共産党 ソビエト連邦の憲法· 最高会議 チェーカー · 国家政治保安部 ソ連国家保安委員会 |
軍事 |
赤軍 · ソビエト連邦軍 ソビエト連邦地上軍 · ソビエト連邦海軍 ソビエト連邦空軍 · ソビエト連邦防空軍 戦略ロケット軍 |
場所 |
モスクワ · レニングラード クレムリン · 赤の広場 |
イデオロギー |
共産主義 · 社会主義 マルクス・レーニン主義 スターリン主義 |
歴史 |
ロシア革命 · ロシア内戦 · 大粛清 第二次世界大戦 · 独ソ戦 · バルト諸国占領 冷戦 · 中ソ対立 · キューバ危機 ベトナム戦争 · 中ソ国境紛争 アフガニスタン紛争 · ペレストロイカ マルタ会談 · 8月クーデター ソ連崩壊 |
1870年、ヴォルガ河畔のシンビルスク(現ウリヤノフスク)にて、アストラハン出身の物理学者イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフとマリア・アレクサンドロヴナ・ブランクの間に生まれる。父イリヤはアジア系の血を引いており、母マリアはドイツ人、スウェーデン人、ユダヤ人の血を引いていた。しかし両親は子どもたちをロシア人として育てた[1]。
父イリヤは物理学者としてだけでなく、著名な教育者(ドヴォリャンスキー学院の物理と数学の上席教師で、非ユークリッド幾何学の発見者の一人であるニコライ・ロバチェフスキーとは大学時代からの親友だった)でもあり、その学者としての活躍を皇帝に評価されて1882年に貴族に列せられた地元きっての名士だった。当然、息子のレーニンも貴族に属していた訳であるが、父は貴族の地位に甘んじず奴隷や貧困といった階級問題を息子達に伝える努力を惜しまなかった。父の影響により生じたレーニンら子供達の価値観はより貧しい階級や異民族への同情と、階級制度への嫌悪を育む事になる。事実、1歳で早世した次女オルガ・イリイチナ・ウリヤノヴァ、19歳の若さで早世した三女オルガ・イリイチナ・ウリヤノヴァ(姉と同名)、生まれた年に亡くなった三男ニコライ・イリイチ・ウリヤノフの3人の子供達を除けば、レーニンを含むウリヤノフ兄弟姉妹5人全員が革命家の道を選んでいる。
青年時代
高名な学者の子に相応しく兄弟は成績優秀だったが、とりわけレーニンは神童の誉れが高かった。9歳の時にシムビルスク古典中高等学校に進学すると、全学科全学年を通じて首席で通して卒業時に金メダルを授与されている。しかしこの時期、レーニンの身に相次いで親族の不幸が襲った。1886年1月に敬愛する父イリヤ・ウリヤノフが脳出血で倒れて亡くなり、翌年にはペテルブルク大学理学部に在籍していた兄のアレクサンドル・ウリヤノフが、ロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に加わった容疑で絞首刑にされたのである。同じく疑いが掛けられた姉のアンナ・ウリヤノヴァは追放の処分を受けた。
レーニンは兄の受難に対する見解をほとんど史料に残していない。しかしカザン大学時代にカール・マルクスの著作に触れ、彼の唱える理想に傾倒したことは、レーニンの反政府思想の大きな原動力となった。こうした中で1887年8月にレーニンは父の母校であるカザン大学に入学してラテン語・ギリシャ語などの古典言語を専攻したが、レーニンはカザン大学でも勢いを得ていた学生運動に参加し、1887年12月に暴動行為により警察に拘束され、大学から退学処分を受けた[2]。
退学となったレーニンは母の移住していたカザン県コクシキノに移住したのち、カザンに戻った。1889年には母がサマーラ県に買った農場に移住したもののうまくいかず、サマーラ市へと転居した[3]。1891年、レーニンは学外学生としてサンクトペテルブルク大学の試験を受け、全科目で満点をとった。試験官は彼に修了証明書を与えるよう推薦した。同年11月には弁護士を開業する資格を得た[4]。その後サマーラの弁護士事務所に勤めたものの1年半ほどで辞職し、1893年にはペテルブルクへと移住した[5]。
政治家へ
ペテルブルクでマルクス主義運動家として活動しはじめたレーニンは、1895年に労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成するが、12月7日に逮捕・投獄され、1897年にシベリア流刑となり、エニセイ県ミヌシンスクの近くのシュシェンスコエ村に追放された。
1898年7月、彼は同じく流刑とされていた社会主義活動家ナデジダ・クルプスカヤと結婚した。1899年4月に『ロシアにおける資本主義の発達』を出版。1900年1月に刑期が終了し、プスコフにしばらくとどまったのち7月にスイスへ亡命した[6]。
ロシア社会民主労働党の再建と分裂
レーニンが流刑地にいた頃、ロシアの社会民主主義者の間では経済主義と呼ばれる考え方が影響力を拡大していた。ツァーリズムを打倒するための政治闘争より労働者の経済的地位の向上を目指す経済闘争を重視するものであった。レーニンはこの経済主義に反対し、広く支持を得た。刑期終了後の1900年12月、彼は同じく経済主義に反対して政治闘争を重視する活動家とともに政治新聞『イスクラ』を創刊した。編集局のメンバーは彼のほかにマルトフ、ポトレソフ、プレハーノフ、アクセリロード、ザスーリチであった。この新聞を中心とするグループはイスクラ派と呼ばれた。それまでに多数の偽名を用いていたが、1901年12月に初めて「レーニン」(レナ川の人)という名を使用している。流刑地の近くを流れているレナ川から取ったとされることもあるが、レーニンの流刑地はエニセイ川沿いのシュシェンスコエであって、レナ川を訪れたことはその死までなかった[7]。
1902年、レーニンは経済主義批判を主な目的として『何をなすべきか?』を書いた。労働者の自然成長的な経済闘争はそれ自体としてはブルジョア・イデオロギーを超えない、と指摘し、社会主義を目指す政治闘争を主張したものである。彼はその際に「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」というカウツキーの言葉を引用した。この考え方は後に外部注入論と呼ばれるようになる。
イスクラ派のイニシアティブにより、1903年にロシア社会民主労働党 (Российская Социал-Демократическая Рабочая Партия = РСДРП, RSDRP) 第2回党大会が開かれた。この大会は1898年3月14日に結成されたまま弾圧によって機能停止していた同党を再建した。しかしイスクラ派は組織論や指導部の構成をめぐって分裂し、再建されたばかりの党はボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)という二つの分派に分かれた。「イスクラ」編集局の6名のうち、レーニン以外の5名はメンシェヴィキへ移ったため、レーニンはボリシェヴィキの突出した指導者となった。
第一革命と労農民主独裁論
1905年に血の日曜日事件が起こり、ロシア第一革命が始まると、レーニンは革命のスローガンとして「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」を提示した(『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』)。革命の性格をブルジョア革命としながらも、自由主義ブルジョアジーがその推進力となることは否定し、プロレタリアートと農民(小ブルジョアジー)がブルジョア革命を遂行するものと考えた。
帝国主義戦争と革命的祖国敗北主義
1914年8月に始まった第一次世界大戦は帝国主義戦争と規定。交戦国のいずれも帝国主義国であり、支持すべきでない、という立場を取った。第二インターナショナルを形成していた各国の社会民主党がそれぞれ自国政府を支持したのとは逆に、革命を容易にするという観点から自国政府の敗北を主張した(革命的祖国敗北主義 )。この考え方を表したボリシェヴィキのスローガンが「帝国主義戦争を内乱へ転化せよ」である。
1916年にはチューリヒで帝国主義戦争の経済的基礎を分析し、『帝国主義論』を出版して、資本主義は自由競争の段階から独占の段階へと転化したこと、列強諸国による植民地の奪い合いが激しくなっていることなどを指摘した。また、帝国主義を資本主義の最高の発展段階、生産が社会化する社会主義革命の準備段階と歴史的に位置づけた。
二月革命から十月革命へ
1917年2月にロシアで二月革命が勃発すると、レーニンはドイツ政府との協定によって封印列車でペトログラードに戻り『四月テーゼ』を公表した。臨時政府をブルジョアジーの権力、ソヴィエトをプロレタリアートの権力と見なし、前者から後者への全面的な権力の移行を主張するものだった。
同年7月にペトログラードで兵士たちの武装デモ (七月蜂起) が発生したが、その武装デモに関わるボリシェヴィキの求心力低下を狙って、ロシア臨時政府が「レーニンはドイツのスパイである」との情報をペトログラード駐留部隊の前で公表した為、レーニン及びボリシェヴィキの支持は急落し、武装デモ側の部隊は臨時政府側の部隊に次々と武装解除されて、武装デモは鎮圧された[8]。臨時政府により、多くのボリシェヴィキの幹部たちが逮捕された。レーニンはフィンランドへの逃亡に成功したが、ボリシェヴィキの勢力は一時的に大きく後退することになった。その後8月に右派のラーヴル・コルニーロフ将軍の反乱が起こると臨時政府の側に立った。その際、臨時政府がボリシェヴィキ幹部の釈放に応じた為、ボリシェヴィキの党勢を急速に挽回することが出来た。9月末にはレーニンはペトログラードへと戻った。反乱との闘争を通じてボリシェヴィキは支持を拡大し、ペトログラードとモスクワのソビエトで多数派を占めることができた為、レーニンはボリシェヴィキ内で武装蜂起による権力奪取を主張し、反対するジノヴィエフやカーメネフを批判した[9]。また、トロツキーがソビエト大会にあわせた蜂起を主張したことについても、絶好のチャンスを逃してしまうことを恐れ、ボリシェヴィキ単独での即時蜂起を主張した[10]。
彼が十月革命の直前に書き、革命直後に出版したのが『国家と革命』である。国家を階級支配の機関とみる国家観に立ち、既存の国家機構は奪取するだけでなく粉砕して新しい国家機構をつくらねばならない、と主張することにより、臨時政府からソヴィエトへの権力移行を理論的に基礎づけようとするものだった。また、レーニンは本書で「いずれ国家は死滅する」と無国家社会への展望を記している。
権力の獲得
10月24日、臨時政府側がボリシェヴィキの印刷所を制圧したのをきっかけとしてボリシェヴィキの軍事革命委員会は首都を掌握し、1917年10月26日、レーニンはペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエト軍事革命委員会の名で声明を発表し、「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエトの機関−ペトログラードのプロレタリアートおよび守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会−の手にうつった」と宣言した。翌日、全ロシア労働者・兵士代表ソヴィエト第二回大会において平和に関する布告を発表し、第一次世界大戦の全ての交戦国に無併合・無賠償の講和を提議。同時に土地の私有を廃止する土地に関する布告や世界初の八時間労働制の法制化を発表した。同大会では臨時政府として人民委員会議が設立され、レーニンは初代人民委員会議議長に選ばれた。
一方、ソヴィエト政府は政権発足と同時にブルジョア新聞を閉鎖し、12月20日には秘密警察として反革命・投機・サボタージュ取締り非常委員会(全露非常委員会・БЧК チェーカー)を創設して反政府派の弾圧を始めた。憲法制定議会の選挙は11月に実施されたものの、第一党は得票率40パーセントを得た社会革命党となりボリシェヴィキは得票率24パーセントにとどまったため、翌年1月5日にはボリシェヴィキ自身が開催を求めていたはずの憲法制定会議を開会直後に退席し、同日解散させた[11]。
ブレスト=リトフスク条約
無併合・無賠償の講和は全ての交戦国に拒否されたが、ドイツ帝国との講和交渉が1917年12月に始まり、ドイツは広範な領土の併合と多額の賠償金を要求した。帝政時代の債務は帳消しにしていたレーニンだが、この要求を受け入れることを主張した。ニコライ・ブハーリンのような強硬派のボリシェヴィキ指導者はドイツで革命を誘発する手段として戦争の継続を主張した。講和交渉を担当したレフ・トロツキーは中間の立場に立った。講和交渉の決裂後ドイツがロシア国内に侵入を始め、ソヴィエト政府は国土の西部地域の多くを失った。その結果レーニンの主張は多くの支持を得、最終的に不利な条件で1918年3月にブレスト=リトフスク条約に署名することとなった。しかしこの結果、当時ボリシェヴィキと連立政権を組んでいた社会革命党左派(左翼エスエル)は政権から離脱し、同年7月6日、駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ伯爵暗殺を皮切りに反ボリシェヴィキ蜂起を起こす。
戦争から手を引いたソヴィエト政権は首都をモスクワに遷都、ボリシェヴィキはその名をロシア共産党と改め、7月に開催した第5回全ロシア・ソヴィエト会議においてソヴィエト憲法を制定。左翼エスエル蜂起を受け共産党以外の政党を禁止した。
暗殺未遂事件
1918年8月30日、レーニンが会合での演説を終え自動車に乗ろうとしたとき、3発の銃声と共にレーニンは倒れた。そのうちの2発が彼の肩と肺に命中した。レーニンは自分のアパートへ運ばれ、他の暗殺者の存在を恐れ病院への搬送を拒絶した。医者が呼び出されたが銃弾の摘出は危険すぎたので手術は行われなかった。
なお、この時現場にいたエスエル党員ファーニャ・カプランが逮捕され、即決裁判の後9月4日に処刑されたが、彼女は既に失明同然だったことなどから、犯人は別人だった可能性がある。いずれにしても、この事件はミルバッハ暗殺と合わせて右翼エスエルを弾圧するきっかけになった。
また、「報復」と称して事件とは無関係の512人もの旧貴族や臨時政府の閣僚を含む政治家、軍人が、ただ帝政派であるという理由だけで逮捕、処刑された(→赤色テロ)。
コミンテルンの創設
第二インターナショナルは、加盟する社会民主主義政党が第一次世界大戦においてそれぞれ自国政府を支持したために瓦解した。再建も試みられたが、ボリシェヴィキは独自に1919年にコミンテルンを創設した。レーニンは社会民主主義政党とのどんな協力も拒否する共産主義政党を「『左翼』小児病」と呼んで批判するとともに、社会民主主義政党が旧来のイデオロギーを捨てずにコミンテルンに加盟しようとする動きを警戒してコミンテルンの加入条件を厳格化した。また、1920年のコミンテルン第2回大会に対して「民族・植民地問題に関するテーゼ」を執筆し、従属民族や植民地の解放と共産主義革命の結合を図った。
戦時共産主義からネップへ
革命後の列強による干渉戦争や内戦により、ボリシェヴィキ政権は戦時体制を強いられた(戦時共産主義)。企業は国有化され、農民からは余剰穀物が徴発された。内戦終了後、レーニンは新経済政策(ネップ)と呼ばれる新しい政策を打ちだした。余剰穀物の徴発に代えて食糧税を導入し、税を納めた後の残りは市場で自由に処分することを認めた。一定の範囲内で私的商業も認めた。レーニンはこれを労農同盟の再建として解説する一方、ロシアの現状では国家資本主義も一歩前進だと主張した[12]。
正教会弾圧
レーニンは少年時代には既に、権力と癒着し腐敗していたロシア正教会に幻滅していた。マルクス主義的無神論者であり、正教会を反革命の温床とみなしていた。1922年3月、イヴァノヴォ州シューヤで発生した教会財産接収に反対するデモが暴徒化した。死者まで招いたこの事態に憤慨し、3月19日にロシア正教会の弾圧を指示、『これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない』と厳命した[13]。これにより多くの主教達を処刑し、教会資産の没収が強行された。同様の弾圧は、ウクライナ正教会、グルジア正教会など、ロシア正教会以外の正教会やイスラム教のモスクに対しても行われた。チェーカーを動かし、聖職者の処刑と教会資産の没収が強行されていったのである。以降グラスノスチまで、イコンの所持は禁止された。レーニンは後に、「宗教は毒酒である」と言葉を残している。
ソ連邦の形成とグルジア問題
レーニンは1921年末から健康状態を悪化させ、1922年には何度か発作を起こして職務から離れた[14]。その間、各ソヴィエト共和国をどのように構成するかが問題となり、とりわけグルジアをめぐって党内に対立が起こっていた。1921年2月にグルジア社会主義ソビエト共和国が成立して以来、ロシア共産党中央委員会カフカース局がグルジアをアゼルバイジャン・アルメニアとともにザカフカース連邦として構成しようとする計画を進めたのに対し、グルジア共産党がグルジアの独立性を主張して抵抗していた。
1922年8月、ヨシフ・スターリンは、各ソヴィエト共和国が自治共和国としてロシア連邦共和国に加入する、という「自治化」案を作成した。レーニンはこれを大ロシア排外主義として批判し、ロシア連邦共和国は他の共和国とともにソヴィエト同盟に加入する、という代案を出した。スターリンはレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、修正案を受け入れ、同年10月のロシア共産党中央委員会総会ではレーニンの代案にそった決議を通過させた[15]。
しかしこの決議ではグルジアはザカフカーズ連邦を通じてソヴィエト同盟に加入することになっていたため、グルジア共産党は拒否し、中央委員会のメンバーが総辞職した。11月にはロシア共産党のオルジョニキーゼが独立派のグルジア共産党員を殴るという事件が起こる。病床にあったレーニンはこれを重大なことと受け止め、オルジョニキーゼやその後ろだてとなっていたスターリンを非難した。12月31日に口述筆記された覚え書きで、彼は「抑圧民族、すなわち、いわゆる『強大』民族にとっての国際主義とは、諸民族の形式的平等をまもるだけでなく、生活のうちに現実に生じている不平等にたいする抑圧民族、大民族のつぐないとなるような、不平等をしのぶことでなければならない」と記した。
この問題をきっかけにレーニンとスターリンの関係は極度に悪化し、レーニンは翌1923年1月4日の「大会への手紙」(いわゆる『レーニンの遺書』)の覚え書きでスターリンの書記長職からの解任を提案するに至った。3月5日にはトロツキーにグルジア問題への取り組みを依頼し(トロツキーは病気を理由に拒否)、3月6日にグルジアの反対派に向けて「あなたがたのために覚え書きと演説を準備中です」という手紙を口述した。しかし3月10日、彼は発作に襲われて右半身が麻痺し、会話能力と共に筆記能力を永久に失った[16]。
死去
レーニンは暗殺未遂の後遺症、戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、1922年3月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。5月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。8月には一度復帰するものの11月には演説がうまくできなくなって再び休養を命じられる。さらに12月の2度目の発作の後に病状が急速に悪化し、政治局は彼に静養を命じた。スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった。
モスクワ郊外のゴールキ(現在のゴールキ・レーニンスキエ)の別荘でレーニンは静養生活に入った。レーニンを診察するために、国外からオトフリート・フェルスター、ゲオルク・クレンペラーらの著名な脳医学者が高額の報酬で雇われ、鎮静剤として臭化カリウムなどが投与された。レーニンは、症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことはなく、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された。クルプスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の1923年3月6日に3度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、1924年1月20日に4度目の発作を起こして翌1月21日に死去した。
レーニンの死因は公式には大脳のアテローム性動脈硬化症に伴う脳梗塞とされている。彼を診察した27人の内科医のうち、検死報告書に署名をしたのは8人だった。このことは梅毒罹患説の根拠となったが、実際は署名をしなかった医師は単に他の死因を主張しただけであって、結局この種の説を唱えた医師は1人のみだった。フェルスターらが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、椎骨動脈、脳底動脈、内頸動脈、前大脳動脈、頭蓋内左頸動脈、左シルビウス動脈の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの循環器にも強い動脈硬化が確認されている[17]。なお、レーニンの父イリヤ、姉アンナ、弟ドミトリーはいずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝的要素が強いと考えられている(革命家としてのストレスもそれに拍車をかけた)。
死後
葬儀は1月27日にスターリンが中心となって挙行され、葬儀は26日に行う、というスターリンが送った偽情報によりモスクワを離れていたトロツキーは、参列することができなかった。
レーニンの遺体は、死後ほどなく保存処理され、モスクワのレーニン廟に現在も永久展示されている。その遺体保存手段については長らく不明のままで、「剥製である」という説や「蝋人形ではないか」という説も語られていた。
ソ連崩壊後、1930年代から1950年代にレーニンの遺体管理に携わった経験のある科学者イリヤ・ズバルスキーが自身の著作で公表したところによれば、実際には臓器等を摘出の上、ホルムアルデヒド溶液を主成分とする「バルサム液」なる防腐剤を浸透させたもので、1年半に1回の割合で遺体をバルサム液漬けにするメンテナンスで現在まで遺体を保存しているという[18]。
なお、ロシア政府はエリツィンのころより、遺体を埋葬しようと何度も計画しているが、そのつど国内の猛反対にあい撤回されている。ロシア国民にとっては良くも悪くも近代ロシアの父と見る節があり、また根強い共産党及びソビエト政権への支持層からの反対が大きく、クレムリンの壁と霊廟に「強いロシア」のイメージを重ねる者も多い。2012年12月に大統領のウラジミール・プーチンはレーニン廟を聖遺物に準えて保存を主張した[19]。
評価
レーニン死後のボリシェヴィキの党内闘争では、対立する諸派はいずれもレーニンの忠実な後継者としてふるまった。スターリン派はマルクス・レーニン主義を体系化し、トロツキー派はボリシェヴィキ・レーニン主義を標榜した。その過程でレーニンは神格化されていった。スターリン批判によりスターリンの権威が落ちた後も、レーニンの権威はほとんど揺らがなかった。
レーニンのロシア革命が植民地解放運動を支援したこともあって、第三世界ではレーニンを評価する傾向がある。
一方、第二インターナショナルの社会民主主義者はレーニンを厳しく批判した。カール・カウツキーは1918年に出版された『プロレタリアートの独裁』で民主主義論の観点からボリシェヴィキの一党独裁を批判した。レーニンに比較的近い政治的立場をとっていたローザ・ルクセンブルクも獄中で書いた草稿「ロシア革命のために」でボリシェヴィキによる憲法制定議会の解散について批判的な視点を示した。レーニンはカウツキーに対して『プロレタリア革命と背教者カウツキー』で反論し、カウツキーを背教者と非難した。
保守派は、議会制民主主義や資本主義経済を擁護する観点から社会主義や共産主義を批判し、レーニンについても否定的な評価を下すのが一般的である。冷戦期には、スターリン時代のソ連をナチス・ドイツと同等の体制と見なし、レーニンをその創始者として否定的に評価する全体主義論が大きな影響力を持った。ウィンストン・チャーチルはレーニンに対して、忌み嫌いつつもある種の畏敬の念を抱き、「ロシア人にとって最大の不幸はレーニンが生まれたことだった。そして二番目の不幸は彼が死んだことだった」「彼の目的は世界を救うことだった。そしてその方法は世界を爆破することだった」と語っている。ソ連末期のグラスノスチ以後に公開された文書により、内戦の時期にレーニンが政敵に対して行使したテロルの実態が明らかになると、レーニンをスターリンと同等の独裁者として評価する傾向が強まった。ロシアのドミトリー・ヴォルコゴーノフやアメリカのリチャード・パイプスがこの傾向を代表する。ヴォルコゴーノフは、一党独裁制や強制収容所などを確立したレーニンを「不寛容という全体主義的イデオロギーの生みの親」と述べ、アドルフ・ヒトラーらの先駆と評した。
一部のマルクス主義者から「レーニンの理論の幾つかはマルクスの理論と食い違っている」という批判もある。
補足
- クレムリンにはレーニンが使用していた執務室と私室が保存されているが、見学は許可されていない。
- 出生地のウリヤノフスクではウリヤノフ一家の家宅が公開されている。
- ペトログラードはレーニンにちなみ、レニングラードと改名された。また、生地のシンビルスクも彼の本名にちなんでウリヤノフスクと改名された。レニングラードは1991年のソ連崩壊時に元(第一次世界大戦前)の名、サンクトペテルブルクに戻された。ただし、同市のある州の名前はレニングラード州のままである。
脚注
^ ロバート・サーヴィス『レーニン』上巻、岩波書店、2002年、第1章
^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p13 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p15 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
^ ロバート・サーヴィス『レーニン』上巻、岩波書店、2002年、114ページ
^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p16-17 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p24-25 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p4 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
^ 「ロシア革命 破局の8か月」p131-132 池田嘉郎 岩波新書 2017年1月20日第1刷
^ 栗生沢猛夫 『図説 ロシアの歴史』p120 河出書房新社、2010年。ISBN 9784309761435
^ 「ロシア革命 破局の8か月」p203-204 池田嘉郎 岩波新書 2017年1月20日第1刷
^ 栗生沢猛夫 『図説 ロシアの歴史』p122-123 河出書房新社、2010年。ISBN 9784309761435
^ 『レーニン全集』第32巻355頁、大月書店
^ 中沢新一「レーニン礼賛」の驚くべき虚構 岩上安身公式サイト「WEB IWAKAMI」に掲載。「諸君!」 1997年1月号掲載
^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p84 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p86-87 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
^ 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p100 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行
^ 小長谷正明『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足―神経内科からみた20世紀』、中公新書、1999年 P.41-46
^ 実際に処理している画像
^ “レーニンは赤の広場にとどまるべき”. ロシアNOW. http://jp.rbth.com/articles/2012/12/17/40459
参考文献
- モッシェ・レヴィン『レーニンの最後の闘争』、河合秀和訳、岩波書店
- イリヤ・ズバルスキー、サミュエル・ハッチンソン『レーニンをミイラにした男』、赤根洋子訳、文春文庫
ドミトリー・ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』上・下、日本放送出版協会、1995年、 ISBN 4-14-080238-3 / ISBN 4-14-080239-1
N・ヴァレンチノフ『知られざるレーニン』(風媒社、1972年)- "Was Lenin a Marxist?", Simon Clarke [1]
外部リンク
Marxists.org Lenin Internet Archive - 著作、伝記および写真
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