五カ年計画
五か年計画(ごかねんけいかく、ロシア語:Пятилеткаピチリェートカ)とは、一般的には、政府及び地方自治体、あるいは各企業・事業団体が経済運営や事業計画について、5年の期間で達成すべき目標とその手法について定めた長期的な計画の事である。また、世界恐慌の時にソビエト連邦は、この政策を行い、世界恐慌から逃れることができた。
例として4期に渡り実施したエーザイの戦略的五カ年計画、さいか屋で店員の給与を半額とするなどの対応を盛り込んだ復興五カ年計画、閣議決定した時短 (労働)に関する「世界とともに生きる日本-経済運営五ヶ年計画」、かつて東京都が示したプロジェクト型ビジョンの施策「東京緊急開発行動五ヶ年計画」などがあり、鷲宮町は1993年(平成5年) - 埼玉県の許可を受け五カ年計画で第二浄水場施設の増設を行っている。弾丸列車は1954年までに開通させることを目標とした「十五ヶ年計画」に基いたものであった。アメリカの軍事拡張計画でも五ヶ年計画がある。
旧ソ連の経済計画
特にその中で、ソビエト連邦が国家発展を希求し、重工業中心の工業化及び農業の集団化(コルホーズ)に関して逐次作成した、5年間に渡る長期計画の事を指す場合が多い。農業を集団化することが目的で、この五ヶ年計画中にソビエト全土でコルホーズを組織するキャンペーンを展開している。
社会主義国の多くでは、ソ連と同様に重要産業の国有化とともに五カ年計画などの計画経済、教育の無償化などが行われた。ソビエト連邦はこの計画によって世界恐慌を乗り切ったが、その裏には政治犯に対する強制労働や、「スタハノフ運動」が背景にあった。ソビエト連邦の経済において公式批判の後も、ソビエト政府はゴスプランが作成する五ヶ年計画を掲げ、軽工業への一定の配慮を示しながら、冷戦にも備えている。第一次世界大戦後のソ連では1933年頃に海軍力の増強を図っており、連邦海軍の第二次五ヶ年計画においては4隻の巡洋艦の建造を認めキーロフ級巡洋艦、タシュケント (嚮導駆逐艦)、ストロジェヴォイ級駆逐艦の建造を決定。この計画は7U号と呼ばれ、第二次五ヶ年計画で建造されたグネフヌイ級駆逐艦の純粋な発展型とされる。ソビエツキー・ソユーズ級戦艦や「カリーニン」と「カガノーヴィチ」の追加2隻が承認は1938年の第三次五カ年計画として計画が纏められ、ようやく建造が承認されたものである。
ウドムルト自治ソビエト社会主義共和国は五カ年計画の下で工業国化され、ウラル工科大学は五カ年計画から理工系エリートの養成がされていた時代に高等教育機関としてソビエト経済の重工業を中心とした発展において期待されていく。マグニトゴルスクも五カ年計画によって急速に発展した都市であり、スターリングラード攻防戦で知られるスターリングラード市は五カ年計画で重点的にモデル都市として整備された結果、指折りの製鉄工場である赤い10月製鉄工場、大砲を製造していたバリカドイ(バリケード)兵器工場、さらにスターリングラード・トラクター工場(別名 ジェルジンスキー工場)など、ソ連にとって国家的に重要な大工場が存在する有数の工業都市として知られた。ニジニ・タギルも1931年からの第二次五カ年計画が始まると次々に投資がなされた。
アレクセイ・スタハノフは当時「第二次五カ年計画」の計画達成に頭を悩ませていたソビエト連邦において一躍「第二次五カ年計画」をはじめとするソビエト連邦の社会主義建設におけるシンボルに祭り上げられる。逆にアンドレイ・プラトーノフは農業の集団化を押し進めることに疑問を呈する一方、イリヤ・エレンブルグの作風はモダニズムの傾向が著しいが、五カ年計画が始まった1930年代には国策である工業化を肯定的に捉える。五カ年計画をうけてウラジーミル・セミョーノフらは1923年、「新モスクワ都市計画」を発表。
ニコライ・シュヴェルニクは五カ年計画に基づく重工業化に対する熱心な唱道者で政治的に復権を果たしている。マクシム・サブーロフはゴスプラン議長に再任され第5次五カ年計画を統括、第二次世界大戦後のソ連経済の再建に当たるが、他の計画策定者とともに第6次五カ年計画の非現実性については後に批判されている。
五カ年計画による社会主義国家建設に邁進するため、対外関係の緊張緩和が優先されまた、世界恐慌をきっかけに台頭したファシズムに対抗する関係上からも、1930年代を通じて、マクシム・リトヴィノフは反ファシズムの集団安全保障政策を引っさげ、縦横無尽の活躍を見せたという。
ピャチレートカは五カ年計画を表すロシア語のПятилеткаから命名されている。ボルシェビーク (製菓)は1971年、第九次五カ年計画早期達成の功績でソ連最高会議のレーニン勲章を受けている。 この他、ソビエト連邦の宇宙開発は五カ年計画と繋がっていた。五カ年計画に基づくダム・河川総合開発で代表的なものとしてはエニセイ川(ブラーツクダム他)がある。サハリンの鉄道は第九次および第十次五カ年計画において各線の信号自動化やCTC化を進めた。
なお、単に五カ年計画と呼ぶ場合は1928年からの第一次五カ年計画を指すことが多く、第二次以降は第二次五カ年計画などと呼ぶことが一般的である。
その他の国の経済計画
また、中国、ベトナム、インド、韓国といった国々も五カ年計画を作成している(中国の五カ年計画、インドの五カ年計画、大韓民国の経済・韓国の五カ年計画)。
かつて日本の戦前期の革新官僚らもソ連の五カ年計画方式を導入。
旧満州国においても満州産業開発五カ年計画が作成され施行された。
宮崎正義もソ連の五カ年計画を参考に、満州国と日本で官僚主導の統制経済を目指していた。
戦後の日本も鳩山一郎内閣の経済自立五カ年計画から宮澤喜一内閣の生活大国五カ年計画まで五カ年計画と題された経済計画がつくられた。中曽根康弘内閣では経済計画を定性的にすべきとして「展望と指針」に言い換えられた時期もあった。また各省庁単位でも、法(例:道路整備緊急措置法(昭和33年法律第34号))に基づき策定された五カ年計画に沿って事業が行われた。
中国でも近年では「計画」が「規画」という言葉に言い換えられている。
近代から現代にかけての世界の一体化においてナチス下のドイツでは四カ年計画が、その他の国においても五カ年計画で開発独裁を、ネパールの経済やまた十大建設 (台湾)現在では学術的・文化的発展も視野にいれた新十大建設を五ヶ年計画で打ち建てた。パキスタンの歴史においてもイギリス王冠から独立し、経済の方で五カ年計画がつくられ、高度経済成長が始まった。 ブータンにおいても1960年代から進んだブータン国の開発・研究(第1-2次五カ年計画)により、幸福こそ人のそして国家の究極の目標としていた。
ハンガリーのドゥナウーイヴァーロシュはハンガリー人民労働者党中央委員会によって1949年に鉄鋼コンビナートで重工業に従事する労働者のための住宅を建設することを決められ、1950年代に五カ年計画で都市建設が始まった。
アルメニアのエレバン放送では五カ年計画に対するジョークもある。
トルコも経済面では世界恐慌後にスターリンの巨額の融資と経済顧問団派遣をうけ、ムスタファ・ケマル・アタテュルクの下で1934年から五カ年計画を導入する。
スロベニアの歴史において1946年以降、五カ年計画が実施されることとなり、スロベニアでは重工業への転換を行いながら生産数を三倍にすることが期待されたため、全ての主な銀行、工場、運輸、流通、商業、貿易が国有化、地方の小規模商店は協同組合の一部として組み込まれるなど全ての面での国有化が進んだ。
ジャワハルラール・ネルーも、経済開発政策を打ち出し、その後も5年ごとに五カ年計画が発表された。ネルーは、企業の私有は認めていた。
ジャン=ルイ・ボルローも、住宅、雇用の保障を3つの柱とする、社会統合のための五カ年計画を発表。 ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズは顕著な業績として第2次五カ年計画によってサウジアラビアのインフラストラクチャーを整備。日本は2009年から2014年のアルジェリア五カ年計画に関与しインフラ整備をはじめとする2860億ドルの投資を行っており在アルジェリア日本人はこのプロジェクトに関係している。
関連項目
- ソビエト社会主義共和国連邦
- ヨシフ・スターリン
- アレクセイ・スタハノフ
- 世界恐慌
- コルホーズ
- ソビエト連邦の経済
- ピャチレートカ(小惑星)
四カ年計画(ドイツの首相アドルフ・ヒトラーの経済計画)