相馬大作事件
相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは、文政4年4月23日(1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件。
秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。
目次
1 経緯
1.1 事件の背景
1.2 相馬大作について
1.3 事件の経過
1.4 その後
2 講談
3 長谷川伸の『相馬大作と津軽頼母』
4 相馬大作を扱った物語
4.1 小説・講談本
4.2 評伝・その他
4.3 映画、ドラマ
4.4 漫画
5 脚注・参照
6 関連項目
7 参考文献
経緯
事件の背景
弘前藩主・津軽氏と盛岡藩主・南部氏の確執は、戦国時代の末期から安土桃山時代、弘前藩初代藩主である大浦為信(後に津軽為信)の時代に端を発する。もともと大浦氏は、盛岡藩主となった三戸氏(三戸南部氏)と同じく、南部氏の一族だった。この大浦氏に久慈氏(南部氏の庶流とされる)から養子に入った大浦為信は、1571年(元亀2年)に挙兵し、同じ南部一族を攻撃して、津軽地方と外ヶ浜地方および糠部の一部を支配した。さらに大浦為信は、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、当時の三戸南部氏当主・南部信直に先駆けて参陣し、所領を安堵されて正式に大名となった。このような経緯から、盛岡藩主・南部氏は弘前藩主・津軽氏に対して遺恨の念を抱いていた。ただ、津軽氏側は南部氏とは異なる出自であることを主張していた。
1714年(正徳4年)には、両藩の間で檜山騒動と呼ばれる境界線紛議が起きた。これは、陸奥国糠部郡野辺地(現・青森県上北郡野辺地町)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺地の帰属に関して両藩が争った問題である。弘前藩は既成事実を積み重ね、文書類などの証拠を整備して、一件を仲裁する幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はこれに上手く対応できなかったため、この地域は幕府により弘前藩の帰属と裁定された。この処置は盛岡藩に不満をもたらした。なお、この一件は相馬大作事件の107年も前の出来事である。
事件の前年の1820年(文政3年)には、盛岡藩主・南部利敬(従四位下)が39歳で死去(弘前藩への積年の恨みで悶死したと伝わる)。利敬の養子・南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえにいまだ無位無官であった。同じ頃、弘前藩主・津軽寧親は、ロシアの南下に対応するために幕府から北方警備を命じられ、従四位下に叙任された(従来は従五位下)。また、高直し(藩石高の再検討)により、弘前藩は表高10万石となり、盛岡藩8万石を超えた。盛岡藩としては、主家の家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、上の地位となったことに納得できなかった。
相馬大作について
通称相馬大作、本名は下斗米将真(まさざね)である。下斗米氏は本姓は平氏、平将門の子孫である相馬師胤の末裔である。相馬師胤の8世の子孫である光胤の4男胤茂の子胤成が正平年間、南部氏につかえて南部の家中になった。下斗米というのは、今の岩手県福岡から7、8km西北にある村であるが、ここに住み知行百両で郷名を取って下斗米氏を名乗るようになった。その後、数代を経て下斗米宗兵衛常高に至る[1]。下斗米宗兵衛常高(寛政六年1794年死去)は紙蝋漆を扱う平野屋を興し一代で豪商となり、さらに安永年間数度の献金により二百石となり盛岡支配福岡居住となる。下斗米宗兵衛の子が下斗米総兵衛である。
陸奥国二戸郡福岡(現・岩手県二戸市)の盛岡藩士・下斗米総兵衛の二男に生まれた秀之進は、無類のきかん坊だったが、病弱であった兄が父母に「家督は弟に譲って下さい」と頼んでいるのを盗み聞きし、脱藩して1806年(文化3年)に江戸に上った。江戸では実家の商売上のつきあいがあった美濃屋に4ヶ月ほど世話になった後、知り合いの紹介で夏目家に入門することにした。
相馬大作は夏目長右衛門という旗本に師事して武術を修めたが、1年ほどで夏目が1808年正月に文化露寇への対応で仙台藩兵2千名と共に択捉島に派遣を命じられると、次に平山行蔵(夏目は平山の高弟)に入門。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになった。
父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設。相馬大作の姉婿の田中館栄八や下斗米惣蔵、欠端浅右衛門、田中館連司[2]、一条小太郎などの人々数十人が入門した。同塾では武家や町人の子弟の教育にあたった。同年10月、同塾は近郷の金田一に移転する。兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、武道場(演武場)、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていた。門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたといわれている。その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わる(二戸市歴史民俗資料館に遺品の大刀、大砲、直筆の遺墨碑(拓本)が展示されている)。当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていたが、大作も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国(ロシア)なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたという。この思想は、師匠の平山行蔵の影響とされる[3]。
ただ、遠州浜松に予定していた東海第二兵聖閣が台風によって海に流されたことや、有能な財務担当の細井萱次郎[4]が「コロリ」であっけなく死亡したことから、兵聖閣の経営状態は極めて悪化していた[5]。
事件の経過
1821年(文政4年)、秀之進は寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を予告した。[6]。これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現・秋田県大館市白沢の国道7号線沿い[7]付近で、陸中国鹿角郡花輪(現・秋田県鹿角市)の関良助[8]、下斗米惣蔵[9]、一条小太郎[10]、徳兵衛、案内人の赤坂市兵衛[11]らと大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていたが、密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。なお、物語の多くでは紙で作った大砲1発を打ち込んだことになっているが、実際には大名行列は現場を通らず、竹で作った小銃20門を秋田藩に持ち込んだとされている(未使用)。
秀之進の父、総兵衛は大吉[12]と喜七[13][14]と徳兵衛[15]という仙台藩出身の刀鍛冶を雇っていた。しかし、彼らは代金が払われないために仙台藩に帰郷できないでいた。そのうち秀之進の計画を知り、さらに身の危険を感じ、事件の計画を津軽藩に密告した。大吉と喜七、徳兵衛の3人はこの功績により津軽藩に仕官することになる[16]。
暗殺の失敗により、秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、江戸に隠れ住んだ。江戸でも道場を開いていたと言われている。しかし、幕吏(実は弘前藩用人・笠原八郎兵衛[17])に捕らえられ、1822年(文政5年)8月、千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。享年34。門弟の関良助も小塚原の刑場で処刑されている。
一方、津軽寧親は藩に帰還後体調を崩した。参勤交代の道筋を許可もなく変更したことを幕府に咎められたためとも噂されたが、寧親は久保田で何日か滞在しており、その間に道筋変更の願いを提出したとする記録がある[16]。寧親は数年後、幕府に隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごした。この寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成された[18]。
なお、この事件と前後して、盛岡藩内では当主替玉相続作戦(前年に家督相続したばかりの南部利用(南部吉次郎)が、事故による負傷のため急死。未だ将軍御目見得前であったため、改易・減封をおそれた家臣団は、吉次郎に年格好が似た従兄の南部善太郎をひそかに「南部利用」として擁立した。)などを行っていて、津軽藩の家格云々どころではなかった上に、「現役の自藩士による他藩藩主襲撃未遂事件」が露呈すると、藩の存続自体がますます危うくなる状況だった。
津軽藩の記録では、これは南部藩家老南部九兵衛の計画によるものであるという。秀之進と関以外の関係者は事件後情報が漏れないように、牢につながれた[19]。また、秀之進の息子と弟は南部藩に保護された[16]。
その後
老中青山忠裕が自邸にて経緯を糺した際に、武士の立場上から秀之進に同情を寄せたという話も残っている。
当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は後世になって講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、弘前藩はそれを隠そうと、隠居ということにしたのではないかと噂した。実際は津軽寧親は普通に隠居し、その後は風雅を楽しんで暮らしている。
この事件は水戸藩の藤田東湖らに強い影響を与えた。当時15~16歳で江戸にいた東湖は相馬大作事件の刺激から、後に『下斗米将真伝』を著した。この本の影響を受けて儒学者の芳野金陵は『相馬大作伝』を著した。さらに長州藩の吉田松陰は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ、暗殺が成功したか地元住民に訊ね、また長歌を詠じて秀之進を称えた[20]。吉川弘文館『国史大辞典』の相馬大作に関する評伝は、「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、両家の和親について自覚を促すことにあったらしい」というものであった。平戸藩主・松浦静山は「児戯に類すとも云べし」とこの一件を酷評している。
盛岡藩の御用人であった黒川主馬等が提唱した忠義の士・相馬大作の顕彰事業により、南部家菩提所である金地院境内の黒川家墓域内に供養碑が建立された。この供養碑には頭脳明晰となる力があるとの俗信が宣伝され、かつては御利益に与ろうと石塔を砕いてお守りにする者が後をたたなかったという。黒川家によれば、同家による補修・建て替えは数度におよび、現在の石塔は何代目かのものである。
妙縁寺には秀之進の首塚がある(住職の日脱が秀之進の伯父であったため首を貰い受けた)。また、秀之進の供養のために1852年(嘉永5年)10月、南部領盛岡に感恩寺が建立され、秀之進の息子(後の英穏院日淳贈上人)が初代住職となった。妙縁寺と感恩寺はいずれも日蓮正宗の寺院。斬首で使用された刀「延寿國時」(南北朝時代の作)は、青森県弘前市指定文化財として市内に現存する。
また、東京都台東区の谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎役者の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取ったので1882年(明治15年)2月、右団次によって建立された。
講談
江戸時代の講談に取りあげられた「相馬大作事件」の種本や刊行物の類は現在は発見されていない。1884年(明治17年)の改新新聞に連載された『檜垣山名誉碑文』が1885年(明治18年)に刊行された。1888年(明治21年)には講談『檜山麒麟の一声』が講釈師・柴田南玉によって演じられ、相馬大作の勇武を持ち上げ人気を博した。相馬大作事件が大衆に知られて人気が出たのは、柴田の高座からであると言われている[21]。また、『檜山実記・相馬大作』などの演題も、田辺南龍・邑井一・邑井貞吉などの講釈師によって演じられた。
しかし、この弘前藩を一方的に悪者に仕立てたこれらの講談に対し不満を抱いた旧弘前藩士らは抗議し、訴訟にまでなった。警視庁は公演や芝居は差し止め、刊行本は発売禁止としたが、押さえきれず、表向きの看板をはずした中で興行はつづいた。1923年(大正12年)、東京八丁堀では講釈師・神田魯山が興行を行った。1927年(昭和2年)には東京神田での宝井琴慶、浅草での西尾麟慶の興行などが有名になっている。宝井琴慶の「檜山」は、相馬大作が江戸両国橋上で津軽家の御乗物に発砲し、仕損じて木更津に逃げるという筋書きであるという。
長谷川伸の『相馬大作と津軽頼母』
相馬大作を裏切った刀工の一人徳兵衛は、身の危険を感じながらも相馬大作を終始にわたって手伝い、犯行予定現場まで相馬大作に同行し、その後相馬大作の行動を江戸の奉行所や弘前藩で証言して、弘前藩にはその功績によって武士に取り立てられた。徳兵衛の子孫である菊池武夫は、弘前藩が悪者扱いされている多くの「相馬大作物」の存在を憂い、作家長谷川伸に家に伝わる文書一切を預けた。長谷川伸はその文書から研究を始め、さらに多くの史料を集め、相馬大作物の「トンチキさ」に気づく。長谷川は小説『相馬大作と津軽頼母』を『大衆文芸』誌1943年1月号から1944年2月号まで連載。さらに、戦後時に触れ書き改めている。
長谷川は自身の小説『相馬大作と津軽頼母』を「事実に近いノン・フィクション小説」としている。
この小説によって弘前藩の冤はかなりすすがれてもいるが、弘前藩の反省点も同時に描かれている。津軽氏の出自に関して、弘前藩と盛岡藩は異なる主張をしていたが、弘前藩用人の笠原八郎兵衛による江戸での強引な工作に反感を感じた奉行の青山忠裕は、わざわざ「津軽家古来、南部家臣下の筋目」などと判決文に相馬大作の言い分を全面的に取り入れ、これを聞いた相馬大作は落涙している。
津軽頼母は笠原八郎兵衛と対立する弘前藩の重臣で、より広い視点から事件を見ており、勇猛な考えを持つ藩士が多い中、思い切った行動を取りながらも事件を穏便にすまそうとする人間として描かれている。
相馬大作を扱った物語
小説・講談本
春光舎風禽 『桧垣山名誉碑文』 上下 1884年 中島清七
大橋真里 『相馬大作忠勇録:桧山神祠』 1886年 大橋真里
春光舎風禽 『桧垣山名誉碑文』 1887年 中島清七
夢香仙史編 『桧山相馬大作忠勇伝』 1888年中村芳松 1888年赤松市太郎 1890年辻本九兵衛 1890年中桐れい 1887年偉業館 1886年多久正典
亀井栄(湧溢) 『相馬大作』中近堂 1892年
邑井吉瓶講演 『講談百種 第七冊 檜山麒麟一声 上』 1893年 九皐館
邑井吉瓶講演 『講談百種 第八冊 檜山麒麟一声 中』 1893年 九皐館
邑井吉瓶講演 『講談百種 第九冊 檜山麒麟一声 下』 1893年 九皐館
春光舎風禽 『桧山騒動実記:相馬大作』 1894年 粟生田久次郎
喋々亭言海 『桧山相馬大作』 1896年 中村芳松
神田伯猿 『相馬大作』 1898年 盛業館
神田伯竜 『相馬大作:桧山実記』 1902年 中川玉成堂- 『通俗小説文庫,1月之巻』 1906年 近事画報社
樋口二葉 『日本怪傑伝.相馬大作』 1909年 晴光館
大坪朴堂 『相馬大作』 1911年 文成社
山下碧泉 『相馬大作:義烈』 1911年 日吉堂
春江堂編 『大和桜武勇の誉.浪花節:相馬大作』 1912年 春江堂
児玉花外 『日本英雄物語.忠魂義胆相馬大作』 1914年 中央書院
阪本富岳 『長篇講談 相馬誠忠録』 1916年 博文館
石井香夢 『日本五大お家騒動:檜山騒動』 1926年 誠文堂
白柳秀湖 『とこなつの国.戀の相馬大作』 1926年 叢文閣
流泉小史 『剣豪秘話』-男谷信友の巻- 1930年 (昭和四年 文藝春秋一月号 掲載[22])
額田六福『相馬大作』春陽堂 1932年
青柳武明 『平山行蔵 : 江戸の剣豪 第十五夜 相馬大作』 1943年 学習社
直木三十五、三上於莵吉共著 『相馬大作』 博文館 1941年
村雨退二郎 『矢立峠 - 相馬大作』北辰堂 1956年
長谷川伸『相馬大作と津軽頼母』「日本歴史文学館16」講談社 1988年。他に「全集 7」朝日新聞社
直木三十五『三人の相馬大作』、新版「直木三十五作品集」文藝春秋 1989年、復刻「全集 20」示人社 1991年
山田風太郎『お江戸英雄坂』旺文社文庫 1985年 [23]
柴田錬三郎 『平山行蔵』富士見書房 1987年
- 信原潤一郎 『天涯の声』 光文社文庫 2008年 ISBN 978-4-334-74390-1
宇江佐真理 『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』 角川文庫 2008年 ISBN 978-4043739028
梶よう子 『みちのく忠臣蔵』 文藝春秋 2009年 ISBN 978-4-16-328260-2
秋山香乃 『吉田松陰 大和燦々』 NHK出版 2014年 ISBN 978-4140056554
評伝・その他
大田才次郎 『新世語』 1892年 有則軒
修養道人 『胆力錬磨術 相馬大作の豪胆八丁堀の同心を弱らす』 1903年 大学館
葦名慶一郎 『日本武士気質』 1908年 新公論社
中村吉蔵 『最近劇論と劇評 東京座の相馬大作』 1913年 岡村書店- 早稲田大学編輯部 『通俗日本全史.第12巻 相馬大作、津軽越中守を討たんとする事』 1913年 早稲田大学出版部
樋口麗陽 『大日本裏面史 格上と相馬大作事件の勃発』 1915年 歴史研究会
幸田露伴 『日本史伝文選 下巻』1920年 大鐙閣- 岩手県教育会盛岡市部会編 『郷土資料 修身科補充教材 相馬大作』 1935年 岩手県教育会盛岡市部会修身研究部
- 大政翼賛会岩手県支部 『興亜の礎石 近世尊皇興亜先覚者列伝』 1944年 大政翼賛会岩手県支部
干河岸貫一編 『近世百傑伝 相馬大作』 1958年 博文堂
海音寺潮五郎『列藩騒動録 (下)』2016年 講談社文庫(改版) ISBN 978-4-06-293324-7
映画、ドラマ
尾上松之助『相馬大作』映画・明治 41年、横田商会- 『相馬大作と伊達の三次』映画・大正 3年、天活
- 尾上松之助『檜山騒動(騒動檜山二代目)』映画・大正 3年
中村吉十郎『檜山騒動相馬大作』映画・大正 6年、小林商会- 尾上松之助『相馬大作』映画・大正 7年、日活
- 尾上松之助『檜山騒動』映画・大正 7年
澤村四郎五郎『相馬大作(桧山大騒動)』映画・大正 8年、天活- 尾上松之助『相馬大作』映画・大正 9年、日活
- 尾上松之助『相馬大作漫遊記』映画・大正10年、日活
吉野二郎 『相馬大作』 映画・大正10年、松竹キネマ
実川延松 『相馬大作』 映画・大正10年、帝国キネマ演芸- 『相馬大作』 映画・大正10年、小松商会
- 澤村四郎五郎『相馬大作』映画・大正11年
- 阪東太郎『相馬大作』映画・大正15年、東亜キネマ
- 河部五郎『鬼傑の叫び』映画・昭和 2年
片岡千恵蔵『相馬大作 武道活殺の巻』映画・昭和 4年
河津清三郎『三人の相馬大作』映画・昭和 6年、新興キネマ
小金井勝 『相馬大作 前篇・後編』映画・昭和 6年、河合キネマ
尾上栄五郎『相馬大作』映画・昭和 9年、松竹キネマ
嵐寛寿郎『江戸の龍虎』映画・昭和17年、日活- 嵐寛寿郎『剣豪相馬武勇伝 檜山大騒動』映画・昭和31年、新東宝
堀雄二『講談ドラマ 相馬大作』テレビ単発・昭和39年、NHK
堤大二郎『八百八町夢日記スペシャル みちのく忠臣蔵』日本テレビ単発・平成 3年
漫画
若月てつ『かげろう剣士 怪傑相馬大作』野球少年1955年連載
よこきけんじ『相馬大作』漫画王1956年2月号
脚注・参照
^ 海音寺潮五郎『列藩騒動録(下)』
^ 田中舘愛橘の祖父
^ 岩手県教育会盛岡市部会編 『郷土資料:修身科補充教材 相馬大作』
^ 曾祖父は細井広沢である。(長谷川伸『相馬大作と津軽頼母』)
^ 長谷川伸『相馬大作と津軽頼母』
^ 長谷川伸の『相馬大作と津軽頼母』では、果たし状を送らず、大名行列の前に立ちふさがってから直接隠居を勧める予定であったとしている
^ 物語では矢立峠とされることが多いがこれは誤りである。現在3カ所に標示があり、矢立峠近くにも「史跡標示」があるが、これは吉田松陰の『吉田松陰東北遊記伝』の記述から来ている。松陰は犯行現場を地元住民からまた聞きしている。また、碇ヶ関村の県境付近にも「史跡標示」があるが、これは『下斗米将真伝』の記述に沿ったものである。また、白沢を狙撃場所とする記述もある。相馬大作の従兄弟は白沢と記述しているが、白沢は岩抜山のすぐ北の地名であるし、津軽側の史料は岩抜山と記述しているので、長谷川伸は『相馬大作と津軽頼母』で現場は橋桁集落と白沢集落の間にある岩抜山とした。「岩抜山」の呼称は明治32年の鉄道トンネル開通以降の呼称で、それ以前は近くの集落の名前をとって「橋桁山」と呼ばれていた(『北羽歴研史論集二』)
^ 実家が花輪にあったが、母の生家がある福岡の地に養子に入り、事件時には22歳であった。
^ 兵聖閣で兵学や武術を修めるかたわら、独学で易や天文を研究し、自宅の土蔵の屋根に観測台をつくり毎夜天体を観測していたという。事件時には29歳。
^ 福岡給人の息子で、事件時には19歳の少年であった。
^ 花輪在住の南部藩の山林巡視員。橋桁山への山道を案内し、襲撃には不参加。名字は赤塚説もある(『相馬大作と津軽頼母』)
^ 生1780年-没1848年。仙台藩で安倫(やすとも)や国包(くにかね)に刀工を学び、刀工名を万歳安国と称した。多くの「相馬大作物」では大悪人とされる。3人の刀鍛冶のうち親分肌の男である。根っからの職人だが芝居などの芸能にも通じていた。大吉は事件後弘前藩に仕官し佐々木大吉と名乗る。(『萬歳安国一代記』荻田如牛)大吉は後に2百石で津軽藩に仕官することになる
^ 直接弘前藩に暗殺への警告文章を渡したのが喜七である。南部藩にいた頃は、南部藩主と同じ字があることから嘉兵衛と名乗った。喜七は野辺地を越え、狩場沢陣所に書簡を届けた。喜七の祖父は関脇宮城野錦之助である。(長谷川伸『相馬大作と津軽頼母』)
^ 喜七は弘前藩に2百石で仕官し小島嘉兵衛貞勝と改名した。喜七の義理の息子は小島左近貞邦で、弘前藩の銃隊の中隊長を務めたが、野辺地戦争 で戦死した。小島左近の孫は小島音之進で、明治16年青森県師範学校を卒業後、明治17年には同校舎長、明治19年に同校教導、明治30年に故郷に戻った後、第五十九銀行取締役、津軽銀行監査役を歴任する。(『明治肖像録』)
^ 大吉の弟子である徳兵衛は秀之進と現場まで一緒に行き、後に暗殺未遂の実態を江戸の奉行所や弘前藩において詳細に語った。徳兵衛は百石で津軽藩に仕官した。
- ^ abc『北羽歴研史論集二』
^ 1830年に作成された笠原八郎兵衛の彩色木像が残されていて、弘前市指定有形文化財に指定され弘前城史料館に展示されている。後年、笠原八郎兵衛の金を惜しまぬ工作のため弘前藩の財政は逼迫した。八郎兵衛はその責任を問われ、知行半減と蟄居の処分を受けている。
^ 隠居までは事件から数年も経た後であり、隠居後は悠々自適に風流を愉しんで暮らした。
^ 牢につながれたのは現場まで行った下斗米惣蔵、一条小太郎、赤坂市兵衛の3人。北町奉行から彼らを江戸に差し出すように命じられた南部藩は重臣らが相談して出奔したということで牢につなぐことに決定した。赤坂市兵衛は実行犯ではなく命令書に名前が無かったので花輪に帰された。下斗米惣蔵と一条小太郎は16年後牢から出され、それぞれ惣助と太郎という町人とされた(『相馬大作と津軽頼母』)
^ ただし南部藩政に関しては藩領内視察の結果、著しく酷評している。
^ 『あきた』1970年6月1日号
^ 流泉小史は岩手県水沢市出身の作家で「剣豪」を造語した。
^ 山田風太郎には相馬大作が登場する『怪異二挺根銃 - 津軽忍法帖』『春夢兵』『剣鬼と遊女』『大いなる伊賀者』などの多数の著作がある
関連項目
- 津軽と南部
- 野辺地戦争
- 田中舘愛橘
参考文献
『北羽歴研史論集二』相馬大作事件と矢立峠の誤伝、1995年、鷲谷豊