ハンガリー君主一覧
ハンガリー君主一覧(ハンガリーくんしゅいちらん)では、ハンガリー王国の成立から消滅に至るまでの国王、および王国成立以前の君主である大公、第一次世界大戦後の状況を一覧で示す。
目次
1 概要
2 歴代大公
2.1 アールパード朝
3 歴代国王
3.1 アールパード朝
3.2 空位時代
3.2.1 プシェミスル朝
3.2.2 ヴィッテルスバッハ朝
3.3 選挙王制
3.3.1 アンジュー朝
3.3.2 ルクセンブルグ朝
3.3.3 ハプスブルグ朝
3.3.4 ヤゲロー朝
3.3.5 ハプスブルグ朝
3.3.6 フニャディ朝
3.3.7 ヤゲロー朝
3.4 ハプスブルク君主国
3.4.1 ハプスブルグ朝
3.4.2 ハプスブルグ=ロタリンギア朝
4 第一次世界大戦後
4.1 ハンガリー王兼オーストリア皇帝およびハンガリー王位請求者関連系図
5 関連項目
概要
ハンガリー国王の即位の儀式。聖イシュトヴァーンの王冠を戴き、白馬にまたがってギャロップで丘に上り、東西南北の天空にサーベルで十字を切る。マジャル人を外敵から守護する決意の象徴である |
中世ハンガリーを支配したアールパード朝は、10世紀後半から11世紀前半のゲーザ、イシュトヴァーン1世の頃に統一された。その後、王位を巡る内紛が起こって一時衰えたが、11世紀後半のラースロー1世やカールマーン1世、さらに12世紀後半のベーラ3世の代に対外進出して勢力を拡大し、最盛期を迎えた。
しかしベーラ3世の死後、王位を巡って争いが起こり、国力が衰退し始める。そして王位争いに勝利したアンドラーシュ2世が支持者に所領を分与したことで王権が著しく衰退し、大貴族の台頭を招くことにもなった。ベーラ4世の代にはモンゴル軍の侵攻によって国内が荒廃した。
その後、ラースロー4世が王権強化を図ったが失敗して暗殺された。そして1301年、アンドラーシュ3世の死によりアールパード朝は断絶し、選挙王制へと移行した。その選挙王制のもとでハンガリー王とポーランド王を兼ねたラヨシュ1世は、ハンガリーの「大王」として有名である。
歴代大公
アールパード朝
895年から896年頃、後のハンガリー王国となった地を征服したアールパードは、それ以前の、宗教的指導者(kende)と軍事的指導者(gyula)から成る二大族長制を廃止し、単独の大公となった。死後はアールパードの子孫のみに大公・王位継承権があると定められた王朝がアールパード朝である。997年に大公に即位したイシュトヴァーンは、3年後に王位に即いた。
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
---|---|---|---|
アールモシュ 819年 - 895年 | 855年頃 - 895年頃 | ||
アールパード 845年 - 907年 | 895年頃 - 907年頃 | アールモシュの息子。 | |
ジョルト(ゾルタ) 896年 - 949年 | 907年頃 - 947年頃 | アールパードの息子。 | |
ファリチ(ファイス) ? - 955年 | 947年頃 - 955年頃 | アールパードの三男ユタシュの息子。 | |
タクショニュ 933年 - 971年 | 955年頃 - 972年頃 | ジョルトの息子。 | |
ゲーザ 949年頃 - 997年 | 972年頃 - 997年 | タクショニュの息子。 | |
イシュトヴァーン 969年頃 - 1038年 | 997年 - 1000年 | ゲーザの息子。 |
アールパードの孫に当たるタクショニュ以前、大公の座を継承するのは、「アールパードの血を引く最年長の男子」とされていたが、キリスト教への改宗と共に、先代の長男が引き継ぐこととなった。そのため、アールパードとタクショニュの間の大公は明白ではなく、特にアールパードの末子でタクショニュの父に当たるジョルトの在位は、キリスト教化を経てからの後付けとも考えられている。
歴代国王
アールパード朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
---|---|---|---|
イシュトヴァーン1世(聖王) 969年頃 - 1038年 | 1000年 - 1038年 | ||
オルセオロ・ペーテル 1011年 - 1046年 | 1038年 - 1041年 | イシュトヴァーン1世の甥。 | |
アバ・シャームエル(ゾルタ) 990年 - 1044年 | 1041年 - 1044年 | イシュトヴァーン1世の義兄。 | |
オルセオロ・ペーテル(復位) 1011年 - 1046年 | 1044年 - 1046年 | ||
アンドラーシュ1世(エンドレ1世) 1013年 - 1060年 | 1046年 - 1060年 | イシュトヴァーン1世の従甥。 | |
ベーラ1世 1016年 - 1063年 | 1060年 - 1063年 | アンドラーシュ1世の弟。 | |
シャラモン 1053年 - 1087年 | 1063年 - 1074年 | アンドラーシュ1世の息子。 | |
ゲーザ1世 1044年 - 1077年 | 1074年 - 1077年 | ベーラ1世の長男。 | |
ラースロー1世(聖王) 1046年 - 1095年 | 1077年 - 1095年 | ゲーザ1世の弟。 | |
カールマーン1世(文人王) 1074年 - 1116年 | 1095年 - 1116年 | ゲーザ1世の長男。 | |
イシュトヴァーン2世 1101年 - 1131年 | 1116年 - 1131年 | カールマーン1世の息子。 | |
ベーラ2世(盲目王) 1108年 - 1141年 | 1131年 - 1141年 | カールマーン1世の甥。 | |
ゲーザ2世 1130年 - 1162年 | 1141年 - 1162年 | ベーラ2世の息子。 | |
イシュトヴァーン3世 1147年-1172年 | 1162年 - 1172年 | ゲーザ2世の長男。 | |
ラースロー2世(対立王) 1131年 - 1163年 | 1162年 - 1163年 | ゲーザ2世の弟。 | |
イシュトヴァーン4世(対立王) 1133年 - 1165年 | 1163年 - 1165年 | ラースロー2世の弟。 | |
ベーラ3世 1148年 - 1196年 | 1172年 - 1196年 | イシュトヴァーン3世の弟。 | |
イムレ1世 1174年 - 1204年 | 1196年 - 1204年 | ベーラ3世の長男。 | |
ラースロー3世 1199年 - 1205年 | 1204年 - 1205年 | イムレ1世の長男。 | |
アンドラーシュ2世(エンドレ2世) 1177年 - 1235年 | 1205年 - 1235年 | イムレ1世の弟。 | |
ベーラ4世 1206年 - 1270年 | 1235年 - 1270年 | アンドラーシュ2世の長男。 | |
イシュトヴァーン5世 1239年 - 1272年 | 1270年 - 1272年 | ベーラ4世の長男。 | |
ラースロー4世 1262年 - 1290年 | 1272年 - 1290年 | イシュトヴァーン5世の息子。 | |
アンドラーシュ3世(エンドレ3世) 1265年 - 1301年 | 1290年 - 1301年 | イシュトヴァーン5世の従弟。 |
空位時代
アンドラーシュ3世の死によってアールパード家が断絶した後、いずれもベーラ4世の血を引くボヘミア・ポーランド王家出身のヴァーツラフ3世、下バイエルン公オットー3世、ナポリ王家出身のカーロイ・ローベルトによって王位が争われた。
プシェミスル朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
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ヴェンツェル 1289年 - 1306年 | 1301年 - 1305年 | ベーラ4世の曾孫。 |
ヴィッテルスバッハ朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
---|---|---|---|
オットー 1261年 - 1312年 | 1305年 - 1307年 | ベーラ4世の孫。 |
選挙王制
1308年以後は選挙王制となり、まずアンジュー家のカーロイ・ローベルト(カーロイ1世)が即位した。
アンジュー朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
---|---|---|---|
カーロイ1世 1288年 - 1342年 | 1308年 - 1342年 | イシュトヴァーン5世の曾孫。 | |
ラヨシュ1世(大王) 1326年 - 1382年 | 1342年 - 1382年 | カーロイ1世の長男。 | |
マーリア 1371年 - 1395年 | 1382年 - 1385年 | ラヨシュ1世の次女。 | |
カーロイ2世 1345年 - 1386年 | 1385年 - 1386年 | ラヨシュ1世の又従弟。 | |
マーリア(復位) 1371年 - 1395年 | 1386年 - 1395年 |
ルクセンブルグ朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
---|---|---|---|
ジグモンド 1368年 - 1437年 | 1387年 - 1437年 | マーリアの夫。 |
ハプスブルグ朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
---|---|---|---|
アルベルト 1397年 - 1439年 | 1437年 - 1439年 | ジグモンドの娘婿。 |
ヤゲロー朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
---|---|---|---|
ウラースロー1世 1424年 - 1444年 | 1440年 - 1444年 |
ハプスブルグ朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
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ラースロー5世 1445年 - 1457年 | 1445年 - 1457年 | アルベルトの息子。ジグモンドの孫。 |
フニャディ朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
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マーチャーシュ1世 1458年 - 1490年 | 1458年 - 1490年 |
ヤゲロー朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
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ウラースロー2世 1456年 - 1516年 | 1490年 - 1516年 | ラースロー5世の甥。アルベルトの孫。ジグモンドの曾孫。 | |
ラヨシュ2世 1506年 - 1526年 | 1516年 - 1526年 | ウラースロー2世の息子。 |
ハプスブルク君主国
1526年にラヨシュ2世から王位を継承したフェルディナーンド1世(フェルディナント)以降は、オーストリア・ハプスブルグ家の当主(オーストリア大公)、またはその嗣子によってハンガリー王位が世襲された。ただし初期に2人、中期に1人の対立王がいた。
ハプスブルグ朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
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フェルディナーンド1世 1503年 - 1564年 | 1526年 - 1564年 | ウラースロー2世の娘婿。 | |
ヤーノシュ1世(対立王) 1487年 - 1540年 | 1526年 - 1540年 | ||
ヤーノシュ2世(対立王) 1540年 - 1571年 | 1540年 - 1570年 | ヤーノシュ1世の息子。 | |
ミクシャ1世 1527年 - 1576年 | 1564年 - 1576年 | フェルディナーンド1世の長男。ウラースロー2世の孫。 | |
ルドルフ 1552年 - 1612年 | 1576年 - 1608年 | ミクシャ1世の次男。 | |
マーチャーシュ2世 1557年 - 1619年 | 1608年 - 1619年 | ルドルフの弟。 | |
フェルディナーンド2世 1578年 - 1637年 | 1619年 - 1637年 | マーチャーシュ2世の従弟。 | |
フェルディナーンド3世 1608年 - 1657年 | 1637年 - 1647年 | フェルディナーンド2世の三男。 | |
フェルディナーンド4世 1633年 - 1654年 | 1647年 - 1654年 | フェルディナーンド3世の長男。 | |
リポート1世 1640年 - 1705年 | 1655年 - 1705年 | フェルディナーンド4世の弟。 | |
ヨージェフ1世 1678年 - 1711年 | 1705年 - 1711年 | リポート1世の長男。 | |
ラーコーツィ・フェレンツ2世(対立王) 1676年 - 1735年 | 1705年 - 1711年 | ||
カーロイ3世 1685年 - 1740年 | 1711年 - 1740年 | ヨージェフ1世の弟。 | |
マーリア・テレージア 1717年-1780年 | 1740年 - 1780年 | カーロイ3世の長女。 |
ハプスブルグ=ロタリンギア朝
肖像 | 名前 | 在位年 | 付記 |
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ヨージェフ2世 1741年 - 1790年 | 1780年 - 1790年 | マーリア・テレージアの長男。 | |
リポート2世 1742年 - 1792年 | 1790年 - 1792年 | ヨージェフ2世の弟。 | |
フェレンツ1世 1768年 - 1835年 | 1792年 - 1835年 | リポート2世の長男。 | |
フェルディナーンド5世 1793年 - 1875年 | 1835年 - 1848年 | フェレンツ1世の長男。 | |
フェレンツ・ヨージェフ1世 1830年 - 1916年 | 1848年 - 1916年 | フェルディナーンド5世の甥。 | |
カーロイ4世 1887年 - 1922年 | 1916年 - 1918年 | フェレンツ・ヨージェフ1世の大甥。 |
第一次世界大戦後
第一次世界大戦末期、ハンガリーはオーストリアから完全に分離独立し、ハンガリー民主共和国、ハンガリー・ソビエト共和国を経て、新たなハンガリー王国が成立した。この「王国」はハプスブルグ=ロタリンギア家傍系のヨーゼフ・アウグスト(ヨージェフ・アーゴシュト)大公を国王に推戴しようとしたが、協商国やルーマニアの支持が得られずに断念し、ソビエト政権打倒に功績のあったオーストリア=ハンガリー帝国海軍提督ホルティ・ミクローシュが摂政の地位に就き、国王空位のまま独裁体制が敷かれた。この間、別系統の傍系のアルブレヒト・フランツ(アルベルト・フェレンツ)大公も王位請求者として一時活動した。1944年のホルティ失脚後も、1946年にハンガリー第二共和国が成立するまで「王国」は形式上存続した。
一方で、最後の国王であったカーロイ4世(オーストリア皇帝カール1世)は自身の退位を認めず、1921年には王国に復帰しようと試みた(カール1世の復帰運動)。しかしこの動きは小協商諸国やフランス、ホルティらによって阻止され、ハンガリー議会はハプスブルグ=ロタリンギア家の王位継承権を否定する議決を行った。カーロイ自身は翌1922年の死まで退位を認めず、その後も長男オットー(元オーストリア皇太子)が名目上のハンガリー王を名乗った。現在はオットーの長男のカールが名目上の王位請求者である。
ハンガリー王兼オーストリア皇帝およびハンガリー王位請求者関連系図
フランツ1世 (フェレンツ1世) | カール | ヨーゼフ・アントン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナント1世 (フェルディナーンド5世) | フランツ・カール | カール・フェルディナント | エリーザベト・フランツィスカ | ヨーゼフ・カール | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランツ・ヨーゼフ1世 (フェレンツ・ヨージェフ1世) | カール・ルートヴィヒ | フリードリヒ | ヨーゼフ・アウグスト (ヨージェフ・アーゴシュト) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
レオポルト バイエルン王子 | ギーゼラ | オットー・フランツ | アルブレヒト・フランツ (アルベルト・フェレンツ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アウグステ (ヨーゼフ・アウグスト妃) | カール1世 (カーロイ4世) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オットー (フェレンツ・ヨージェフ2世) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール (カーロイ5世) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連項目
- ボヘミア君主一覧
- ポーランド君主一覧
- オーストリア皇帝
- ハンガリーの国家元首一覧
- ハンガリーの首相一覧