藤沢子山
凡例 藤沢 子山 | |
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時代 | 江戸時代 |
生誕 | 享保16年5月27日(1731年7月1日) |
死没 | 寛政10年6月21日(1798年8月3日) |
別名 | 滕(修姓)、周(名)、子山(字・通称)、雪斎・藍川(号)[1]、良達[2] |
諡号 | 文穆先生 |
墓所 | 佐渡市両津秋津 |
主君 | 土方義苗 |
藩 | 伊勢菰野藩 |
氏族 | 藤沢氏 |
父母 | 藤沢長達 |
子 | 藤沢明卿 |
藤沢 子山(ふじさわ しざん)は江戸時代中期の佐渡国の儒学者、漢詩人、医師。伊勢菰野藩医官。『子山佐渡志』を著した。
目次
1 生涯
2 著書
3 逸話
4 家族
5 脚注
6 参考文献
生涯
享保16年(1731年)5月27日[1]藤沢長達の長男として生まれた[3]。寛延元年(1748年)[4]父に従い江戸に出て、入江南溟に古文辞学を学んだ[3]。その後京都に上り、吉益東洞・山脇東洋に医学を学び[3]、龍草廬と交流した[5]。父が菰野藩に出仕し、菰野に赴任すると、これに従い、文化2年(1805年)4月医官となった[2]。
母が高齢になると帰郷し、医業を営みつつ、西川恒山・中山漸廬と儒学を研鑽し、古文辞学を批判した[3]。天明2年(1782年)6月佐渡奉行石野広通に学才を認められ、奉行所書院で月3度四書を講義し、後の先例となった[3]。
晩年相川から湊に移った[6]。寛政10年(1798年)6月21日68歳で死去し[3]、加茂郡籠米村(佐渡市両津秋津)大蔵九郎右衛門屋敷跡に葬られた[1]。諡号は文穆先生[1]。
著書
- 『佐渡志』 - 天明・寛政頃編。『佐渡叢書』第5巻所収。全3巻あったが、火事により第3巻(寺社部)のみ残る。田中葵園『佐渡志』と区別のため「子山佐渡志」と称される[6]。
- 『藍川詩稿』[5]
- 『校韓詩外伝』[5]
- 『大学私考』[5]
- 『雪斎漫録』[5]
- 『為学成式』[5]
- 『唐明近体詩集』[3]
詩は『麗沢詩集』『日本詩選』にも多数入選している[7]。
逸話
ある佐渡奉行が骨董品を安値で購入し、「とても安価だった。まことに掘り出し物だ。」と子山に自慢した。子山は「値段は物と釣り合ってこそ買うべきである。法外な安値ばかり求めるようでは、遂には盗品をも買うようになる。人の上に立つ者のすることとは思えない。」と諌めた[3]。
家族
- 父:藤沢長達 - 佐渡奉行所医師、菰野藩儒者。
- 長男[1]:藤沢明卿 - 名は晙、号は拙斎・海嶼[3]。中年の頃上国で西洋究理学を学び、天保年間帰郷して西洋医学を広めた[8]。亀田鵬斎に「拙斎記」を贈られ、拙斎と号した[3]。安政元年(1854年)7月11日73歳で没[3]。
- 孫:藤沢三省 - 明卿の養子[1]。江戸で林洞海に医学を学び、安政3年(1856年)相川町で種痘を始め[9]、奉行所詰医師となった[7]。明治34年(1901年)没[7]。
脚注
- ^ abcdef山本 1974, p. 34.
- ^ ab菰野町 1941, p. 358.
- ^ abcdefghijk萩野 1927, p. 144.
^ 萩野 1927, p. 142.
- ^ abcdef本間 1915, p. 63.
- ^ ab山本 1974, p. 33.
- ^ abc萩野 1927, p. 145.
^ 本間 1915, p. 64.
^ 岩木 1927, p. 234.
参考文献
本間周敬 『佐渡人名辞書』 本間周敬、1915年3月。NDLJP:1183197/52
岩木拡 『相川町誌』 相川町役場、1927年7月。NDLJP:1173593/127
萩野由之 『佐渡人物志』 佐渡郡教育会、1927年10月。NDLJP:1188906/83
- 山本修之助 「解題」『佐渡叢書』第5巻、佐渡叢書刊行会、1974年。
菰野町史編纂委員 『菰野町史』 菰野町史刊行会、1941年1月。NDLJP:1042154/208