泉親衡の乱
泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)は、鎌倉時代初期の1213年(建暦3年)2月15日に発覚した内乱。鎌倉幕府御家人で信濃源氏の泉親衡が源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立し執権北条義時を打倒しようとした陰謀とそれに続いた合戦を指す。一般的には和田合戦の前哨戦とされている。
概要
鎌倉幕府では、1204年に将軍頼家が幽閉された後に暗殺され、北条氏によって源実朝が将軍に擁立されていた。
建暦3年2月、千葉成胤を泉親衡の郎党青栗七郎の弟で安念坊という僧が訪ね、千寿丸を擁しての挙兵への協力を求めてきたことが発端である。成胤は安念坊を捕縛し義時の元へ連行し、彼の自白により親衡に与同した武士は張本130人余、伴類200人にのぼったことがわかり、そのうち和田義盛の子である義直、義重、甥の胤長ら十数人が直ちに捕縛された。当時、義盛は上総国の自領伊北庄に行っており鎌倉を留守にしていたという。
泉親衡は直ちに遣わされた捕縛の使者と合戦に及び、その混乱に乗じて逐電。急を聞いて駆けつけた義盛が一族の赦免を嘆願し、義直、義重は許されたが、胤長は事件の張本であるとして許されず、3月に陸奥国岩瀬郡へ配流され、屋敷は没収されることと決まった。
胤長の屋敷は一旦は義盛が拝領することとなったが、義時の反対に遭い、結局は北条氏の預かりとなったため、面目を潰された義盛は北条氏を打倒する意思を固め、和田合戦に繋がることとなった。
泉親衡は、源満仲の弟満快の子孫と伝えられ、自身も源氏の一族であったことから、一御家人である北条氏の下風に立つことを好まなかったとされている[誰によって?]が、乱にかかる捕縛者のうち和田一族以外は直後に放免されている上に、親衡も生き延びており、和田一族を滅ぼす目的で義時が義盛を挑発した事件であったとも言われる[1]。一方で、さほど有力な御家人でもない親衡が鎌倉で300人以上の武士を集めていることから、乱の黒幕は義盛、もしくは義盛の子や孫の世代の和田一族とする説もある[2]。
脚注
^ 石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中公文庫、1974年)p302、坂井孝一『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』(講談社選書メチエ、2014年)
^ 山本幸司『日本の歴史9 頼朝の天下草創』(講談社、2001年)、永井晋『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー、2010年)