日露戦争

































日露戦争

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戦争:明治三十七八年戦役 日露戦争

年月日:1904年2月8日 - 1905年9月5日

場所:満州南部[注釈 1]、遼東半島、黄海、日本海

結果:大日本帝国の勝利、ポーツマス条約締結
交戦勢力

大日本帝国の旗 大日本帝国


  • 満州軍(鴨緑江軍)

  • 連合艦隊



ロシア帝国の旗 ロシア帝国

  • ロシア満州軍


  • 太平洋艦隊, バルチック艦隊


関与国・勢力を参照


指導者・指揮官

Flag of the Japanese Emperor.svg 明治天皇

War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大山巌




  • War flag of the Imperial Japanese Army.svg 児玉源太郎


  • War flag of the Imperial Japanese Army.svg 黒木為楨


  • War flag of the Imperial Japanese Army.svg 奥保鞏


  • War flag of the Imperial Japanese Army.svg 乃木希典


  • War flag of the Imperial Japanese Army.svg 秋山好古


  • War flag of the Imperial Japanese Army.svg 野津道貫


  • War flag of the Imperial Japanese Army.svg 川村景明


  • Naval Ensign of Japan.svg 東郷平八郎


  • Naval Ensign of Japan.svg 島村速雄


  • Naval Ensign of Japan.svg 秋山真之


  • Naval Ensign of Japan.svg 上村彦之丞


  • Naval Ensign of Japan.svg 片岡七郎


  • Naval Ensign of Japan.svg 明石元二郎



Imperial Standard of the Emperor of Russia (1858–1917).svg ニコライ2世

ロシア帝国の旗 アレクセイ・クロパトキン




  • ロシア帝国の旗 ニコライ・リネウィッチ


  • ロシア帝国の旗 アレクサンドル・カウリバルス


  • ロシア帝国の旗 アレクサンドル・ビルデルリング


  • ロシア帝国の旗 グリッペンベルク


  • ロシア帝国の旗 アナトーリイ・ステッセリ


Naval Ensign of Russia.svg ステパン・マカロフ†
Naval Ensign of Russia.svg ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー
Naval Ensign of Russia.svg エヴゲーニイ・アレクセーエフ


戦力
約300,000人
約500,000人
損害
戦没88,429人,うち戦死戦傷死は55,655人[注釈 2]
病死27,192人
負傷者153,584人[1]
捕虜1,800人[3]
戦死25,331人
戦傷死6,127人
病死11,170人
負傷146,032人
[4]
捕虜79,000人[3]

日露戦争



  • 旅順口

  • 仁川沖

  • 旅順閉塞

  • 鴨緑江

  • 南山

  • 得利寺

  • 黄海

  • 蔚山沖

  • 宗谷沖

  • 旅順攻囲

  • 摩天嶺

  • 大石橋

  • 析木城

  • 遼陽

  • 沙河

  • 黒溝台

  • 奉天

  • 日本海

  • 樺太






日露戦争(にちろせんそう)(ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー)は、1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島と満州の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島が主な戦場となった他、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。


講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を全面的に承認された他、ロシア領であった樺太の南半分を割譲され、またロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を移譲された。同様に東清鉄道の旅順-長春間支線の租借権も譲渡された。なお、賠償金については一切の要求を認められなかった。




目次






  • 1 戦争目的と動機


  • 2 関与国・勢力


  • 3 背景


    • 3.1 朝鮮半島をめぐる日露対立


    • 3.2 日英同盟


    • 3.3 開戦に至るまでの議論・世論


    • 3.4 直前交渉


    • 3.5 各国の思惑


    • 3.6 外貨調達




  • 4 経過


    • 4.1 開戦時の両軍の基本戦略


    • 4.2 開戦


    • 4.3 旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦


    • 4.4 旅順攻略


    • 4.5 奉天会戦


    • 4.6 日本海海戦


    • 4.7 講和勧告と樺太攻略


    • 4.8 講和へ


    • 4.9 年表




  • 5 影響


    • 5.1 日本


    • 5.2 ロシア


    • 5.3 西欧


    • 5.4 アメリカ


    • 5.5 清朝


    • 5.6 大韓帝国


    • 5.7 モンテネグロ公国


    • 5.8 その他各国


    • 5.9 「開戦に関する条約」の創設




  • 6 その後の日露関係


  • 7 発行物


  • 8 日露戦争を題材とした作品


    • 8.1 小説


    • 8.2


    • 8.3 映画


    • 8.4 テレビドラマ


    • 8.5 漫画


    • 8.6 ゲーム




  • 9 脚注


    • 9.1 注釈


    • 9.2 出典




  • 10 参考文献


    • 10.1 歴史書


      • 10.1.1 戦時史料




    • 10.2 従軍記・回想録


    • 10.3 近年刊行の関連書籍




  • 11 関連項目


  • 12 外部リンク





戦争目的と動機




戦場となった地域の俯瞰図




大日本帝国の旗 大日本帝国[注釈 3]

ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、日本帝国の安全保障[5]を堅持することを主目的とした。開戦の後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。


他方、2月10日の開戦の詔勅に続くはずだったとみられる詔勅草案もあり、ここでは信教の自由を強調し開戦の不幸を強調している[6]


朕先に、憲法の条章に由り、信教の自由を保明せり。汝有衆、各々自らその信依する所を選み、之に案ずるを得ると共に、また、よく他の言依する所を尊重し、互いに相犯すなきを要す。




此の次、不幸にして露国と釁端を開けり。朕が平素の志に違い、戦を宣するに至りたるの事由は、朕既に業に之を示せり。事少しも宗教と相関せず、朕が信教に対する一視同仁は、更に平時に薄ることあるなし。汝有衆、よく朕が意を体し、信仰帰依の如何を問わず、互いに相親み相愛し協力同心以て、朕が意を空うするなきを期せよ。





ロシア帝国の旗 ロシア帝国

満洲および関東州の租借権・鉄道敷設権等の利権の確保。満州還付条約不履行の維持(満州に軍を駐留)。朝鮮半島での利権拡大における日本の抵抗の排除。直接的には日本側からの攻撃と宣戦布告を戦争理由とした。


戦争の性格


日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また二国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。このことから、横手慎二は日露戦争は第0次世界大戦 (World War Zero) であったとしている[7]



関与国・勢力
























日本側
ロシア側
戦争参加国・勢力

大日本帝国の旗 大日本帝国



ロシア帝国の旗ロシア帝国
モンテネグロの旗 モンテネグロ公国(ただし宣戦布告はしたが、戦闘には参加せず。)


支持勢力

大韓帝国の旗 大韓帝国
(一進会をはじめとする親日派知識人と親日派両班) 



大韓帝国の旗 大韓帝国
(高宗をはじめとする支配者階級と親露派・独立派知識人)


同盟国・支援国

イギリスの旗 イギリス帝国(日英同盟)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
清の旗 大清帝国
(厳正中立を宣言していたが、ロシアの事実上の植民地となっている東三省を回復すべく暗に協力したとの説有り[8][9]。袁世凱は配下の北洋軍閥を用い諜報や馬賊隊編成などで日本に協力、諜報将校を日本軍の特別任務班に派遣)



フランスの旗 フランス(露仏同盟)
ドイツの旗 ドイツ帝国
清の旗 大清帝国(露清密約、開戦後同年5月18日に破棄。張作霖など一部の馬賊は協力)



観戦武官





沙河会戦後に撮られた、黒木為楨と観戦武官の集合写真


日露両陣営には欧米と南米諸国から数多くの観戦武官が派遣されていた。日本側には13ヶ国から合計70名以上が来訪しており、その国籍はイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ、オーストリア、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン=トルコであった。同盟国であるイギリスからが最多でエイルマー・ホールデン(英語版)を始めに33名を数えた。アメリカからはマッカーサー元帥の父親であるアーサー・マッカーサー・Jrが赴任していた。


観戦武官のレポートはそれぞれの国で物議を醸した。取り分け機関銃が戦場を支配していた事と騎兵が無用の長物と化していた事は、未だにナポレオン戦争時代の幻想を引きずっていたヨーロッパ軍人の間では受け入れ難く、東洋特有の事情として一蹴された。やがて彼らは第一次世界大戦でその現実に直面する事になった。



背景



朝鮮半島をめぐる日露対立


大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦対馬占領事件があったため)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。


当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年(明治37年)2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。


一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。



日英同盟


ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これにより、ロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。


近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力はなく、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年(明治31年)に租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満州への進出を押し進めていった。


1900年(明治33年)にロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年(明治35年)に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。
日本が2国以上と戦う時は、イギリスの参戦を義務付ける条約となっていたことから、露清密約による清国の参戦は阻止された。



開戦に至るまでの議論・世論





反ロシアの風刺地図。慶應義塾大学の学生が作った(1904年)


日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、
1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山縣の別荘・無鄰菴で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会議」が行われた。桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること[10]」、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず[11]」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。
桂は後にこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映されることになる。


同じく4月、ロシア系企業の「朝鮮木商会社」が韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告し[12]、5月になってロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦 (竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめた (龍岩浦事件)[13]


日本とロシアの緊張関係が高まる中、メディアや言論界でも盛んに論争が行われた。6月12日にアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣が訪日し国賓として迎えられた。訪日の目的は外遊だったため、軍高官との交流はあったものの正式に行われた交渉はひとつもなかった。新聞各紙はクロパトキン訪日が関係好転の契機となることに期待し、当初は好意的に様々な憶測を報じたが、実質的な成果が無い事に失望した[14]。また、同時期にベッサラビアで行われたユダヤ人に対するポグロムの情報が日本に入り、ロシア不信の論調が高まるようになった。


6月24日に日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書が内閣に提出された(七博士建白事件)。万朝報紙上で非戦論の論陣を張っていた幸徳秋水は「社会が学者を養っているのは開戦の建白を提出させるためではない」と批判した。実際、この時点では開戦論にまで言及する言論は少数派だったが、ロシアによる7月に成立した龍岩浦租借条約によってロシア南下の危機感は現実的なものとなった[14]。さらに、非戦論の拠り所となっていたロシア側の満州撤兵論者セルゲイ・ヴィッテ大臣が失脚し、南下政策の撤回に希望が持てなくなった。非戦派の万朝報が社説で「最後の期限」とした第三次撤兵期限が履行されなかった10月8日を境に、日本の新聞各紙の論調は開戦論一辺倒となった[14]



直前交渉




開戦時の戦力比較(露・日:歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、砲撃支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千、予備部隊400万対46万)


1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やクロパトキンも主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(後の十月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。


日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。日本側は2月8日に旅順口攻撃を行い、2月11日に大本営を設置し、3月15日に元老の松方正義、井上馨らが帝国軍人援護会を結成した。



各国の思惑


帝政ドイツは心情的には帝政ロシア側であったが具体的な支援は行っていない。



外貨調達


[15]戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。当時、政府の戦費見積もりは4億5千万円であった。日清戦争の経験で戦費の1/3が海外に流失したので、今回は1億5千万円の外貨調達が必要であった。この時点で日銀の保有正貨は5千2百万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかった。外国公債の募集には担保として関税収入を当てることとし、発行額1億円、期間10年据え置きで最長45年、金利5%以下との条件で、高橋是清(外債発行団主席)は桂総理・曾禰蔵相から委任状と命令書を受け取った。


開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。とくにフランス系の投資家はロシアとの同盟(露仏同盟)の手前もあり当初は非常に冷淡であった。またドイツ系の銀行団も慎重であった。


是清は4月にイギリスで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行の成算を得た。当時の香港上海銀行ロンドン支店長はのちのイギリス首相デーヴィッド・キャメロンの高祖父であり、高橋が戦費調達のためイギリスを訪れた際には、この支店長から助力を得たというエピソードがある[16]。またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視するアメリカのドイツ系ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得、ニューヨークの金融街から残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した[17]


第1回は1904年5月2日に仮調印にこぎつけた。結果当初の調達金利を上回る6%での調達(割引発行なので実質金利は7年償還で約7%)となったが、応募状況はロンドンが大盛況で募集額の約26倍、ニューヨークで3倍となり大成功の発行となった。1904年5月に鴨緑江会戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0%(償還7年で実質約7.4%)を底として、1905年3月の第3回ではドイツ系の銀行団(M・M・ヴァールブルク&COなど[18])も参加し、4.5%での借り換え調達[注釈 4]に成功した。この3月および続く7月の募集でパンミュア・ゴードンが引受に参加している。11月の第5回には公開市場で募集、利率を4%に下げ、無担保で消化できた。このときから是清はロスチャイルドへ根回しをしていた。好条件はベアリング家の貢献もあった[19]


終戦後、1907年の第6回ではN・M・ロスチャイルド&サンズとロチルド・フレールも参加している。後者は1910年新たに4億5000万フラン貸したが、1951年9月末で4億3432万8700フランが未償還であった[19]


結局日本は1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1億3000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行した[19]。この内最初の4回、8200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。しかし、切り替えのために鉄道国有法を制定する必要があった。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。この公債は、第一次世界大戦の後まで残ることとなった。


国の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2629万円とされる[20][注釈 5]



経過




日露戦争の経過




朝鮮半島を進軍中の日本軍歩兵(1904年撮影)



開戦時の両軍の基本戦略




大日本帝国の旗 日本側 


海軍が第一艦隊と第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。その後、陸軍が第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍、第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。


1904年2月11日大本営が設置された。このときは1903年の大本営条例の全部改正により軍事参議院が設置され、戦時においても初めて軍令機関が陸海軍並列対等となったことから、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名共に幕僚長とされた。


ロシア帝国の旗 ロシア側 

陸軍は日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引き付けながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。海軍は太平洋艦隊は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦オスリャービャが間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかった。



開戦





児玉源太郎




満州で撮影されたロシア軍の第23砲兵旅団の写真




仁川沖海戦で炎上するロシア艦(右がヴァリャーグ)




鴨緑江に架けた仮設橋を渡る第一軍部隊




遼陽会戦でロシア軍の使用した観測気球の気嚢


日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた[注釈 6]。2月23日には日本と大韓帝国の間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。


ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。


一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。これに対し日本海軍は第三艦隊に代わり上村彦之丞中将率いる第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。この時捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった[21]



旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦



黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。


旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定した。だが海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。4月6日に行われた陸軍の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文には「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある[22]ように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し続け、閉塞作戦失敗後は機雷による封鎖策に転換し、4月12〜13日に実施されたが失敗した。


ロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が命された。


6月20日現地総司令部として満州軍総司令部が設置され、大本営から指揮権が移された。
6月8日に大連に到着した第三軍司令部は、すでに上陸していた第一、第十一師団(共に第二軍より抽出された)を麾下に加えて前進を開始し、6月26日までに旅順外延部まで進出した。7月12日には伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入る。8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向け砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。


これを受けて旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊が失った艦艇はわずかであったが、今後出撃できないような大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦・コルサコフ海戦)。ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈するなど(常陸丸事件)活発な通商破壊戦を続けていたが、8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与えその後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。だがロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。


8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日-9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日-10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。


10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。



旅順攻略





旅順水師営で降伏したステッセル将軍(中央右)




旅順要塞への28サンチ砲の砲撃


第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。しかしながら港湾への大弧山からの観測射撃を8月~10月まで、黄海海戦を挟んで実施し旅順艦隊の壊滅には成功していた。しかし日本側にそれを確認することができず、その後の作戦運用に混乱をもたらすことになった。


第三軍は、要塞東北方面の防衛線を突破しその背後にある、旅順要塞で最高峰である「望台」を占領することで要塞の死命を制し、海軍の要望も果たそうとした。9月19日と10月26日の前後に分けて行われた第二回総攻撃は、突起部を形成している第一回総攻撃で占領した拠点の周辺を安定化させることを目的とし、203高地以外の作戦目標を攻略して目的を達成していたが、中央には失敗と判断された。


この際に第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼ全てを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引き籠っている海域だけが俯瞰できず、このころより海軍は、より旅順港を一望できる203高地の攻略を優先するよう要請をしだす。この海軍の要請に大本営も追認するが、第三軍と、上級司令部である満州軍は東北方面主攻を主張し続け対立。大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針を変更するよう促す。


11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが、途中より乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取り止め、203高地攻略に方針を変更する。戦況を懸念した満州軍総参謀長児玉源太郎大将は、大山巌元帥の了承をもらって旅順方面へ向かっていたが、直前に乃木が攻撃目標を変更したことを受けて、その攻略に尽力した。激戦の末、12月4日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。しかしその後も要塞は落ちず、第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行し、翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領。


これを受けてロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意。旅順艦隊は203高地を奪われた時点で、すでに艦砲と乗員を陸地に揚げて防衛戦に投入しており、戦力としては無力化していたが、観測射撃を受けるようになった。しかし日本側の砲弾の品質問題などで殆どの艦は船底を貫通されることはなく、殆どの艦艇は要塞降伏前後に、すぐさま使用できないように全て自沈させられた。


沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導の下、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。2月には第三軍が戦線に到着した。



奉天会戦





渡河を実施する奉天のロシア軍


日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。2月21日に日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。


この結果を受けて日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。一方両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。



日本海海戦



バルチック艦隊は7ヶ月に及んだ航海の末日本近海に到達、5月27日に連合艦隊と激突した(日本海海戦)。5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。これに対して連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻という、近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされ追い込まれたロシア側も和平に向けて動き出した。


また欧米各国における「ロシア有利」との予想をくつがえすだけでなく、バルチック艦隊が壊滅するという予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドやフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させた。



講和勧告と樺太攻略



セオドア・ルーズベルト大統領は日本海海戦の後に外務大臣小村寿太郎から要請を受け、1905年6月6日に日本・ロシア両国に対し講和勧告を行い、ロシア側は12日に公式に勧告を受諾した。


日本軍は和平交渉の進む中7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる[23]。講和以降の樺太には王子製紙、富士製紙、樺太工業などのパルプ産業企業が進出した。



講和へ



ロシアでは、日本軍に対する相次ぐ敗北とそれを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、国民の間には厭戦気分が蔓延し併せて経済も停滞の一途をたどり、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。さらにバルチック艦隊が壊滅し制海権も失っていた上に、日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけ、国家としての戦争継続が困難な情勢となっていた。


日本は勝利に次ぐ勝利でロシアを土壇場まで追い詰めたものの、19か月の戦争期間中に戦費18億円余[要出典]を投入、戦費のほとんどは戦時国債によって調達し、また当時の日本軍の常備兵力20万人に対して総動員兵力は109万人に達したことなどから、国内産業の稼働が低下し経済的にも疲弊するなど国力の消耗が激しかったことから、講和の提案を拒否しなかった。


アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ニューハンプシャー州・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。


明治天皇は、講和条約締結から約8か月後の1906年6月7日に、帝国軍人後援会に対し慰労の勅語を下した[24]


明治三十七 八年の戦役に際し、時に及び財を募り、以て軍人、家族、遺族、廃兵救護の経営に資し、克く軍人援護の績を致せり。朕深く之を嘉す。


年表





















































































































































































事柄
大日本帝国の旗 日本

ロシア帝国の旗 ロシア
その他

1904年
2月 6日 : 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。 11日:大本営を設置
23日:大韓帝国と日韓議定書を結ぶ
12日:清国が局外中立を宣言する
8日:日本陸軍先遣隊が仁川に上陸
8日:日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
9日:仁川沖海戦
10日:相互宣戦布告
24日:第一次旅順口閉塞作戦
3月 27日:第二次旅順口閉塞作戦
4月 1日:非常特別税法、煙草専売法を公布する 8日 : 英仏協商が締結される
5月 1日:鴨緑江会戦

8日:日本軍、遼東半島に上陸開始
6月 15日:常陸丸事件
20日:満州軍総司令部を設置する

7月 28日:ヴャチェスラフ・プレーヴェ内務大臣、暗殺される
8月 10日:黄海海戦
22日:大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ
14日:蔚山沖海戦
19日:第一回旅順総攻撃
30日:遼陽会戦
9月
10月 9日:沙河会戦

15日:バルチック艦隊出航
11月 26日:第二回旅順総攻撃
12月 5日:日本軍、旅順口203高地を占領
31日:第三回旅順総攻撃

1905年
1月 2日:旅順開城 1日:非常特別税法改正法、塩専売法、相続税法を公布する
28日:竹島を命名し島根県の管轄とする閣議決定
22日:血の日曜日事件が起きる
各地でストライキが起きる

25日:黒溝台会戦
2月
3月 1日:奉天会戦
8日:鉱業法を公布する 31日:第一次モロッコ事件
4月
5月 27日:日本海海戦

6月 9日:セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告 各地で反乱・暴動起きる(ロシア第一革命の始まり)
14日:戦艦ポチョムキンの反乱が起きる
7日:ノルウェーがスウェーデンからの分離独立を宣言する
12日:ロシア、講和勧告を正式に受諾
7月 7日:日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始) 29日:桂・タフト協定を締結する 23日:ニコライ2世、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世とビヨルケ密約を結ぶ
31日:日本軍、樺太を占領
8月 9日:ポーツマスで日露講和会議が始まる 12日 : 日英同盟を改訂する 20日:孫文、中国同盟会を結成(於東京)
9月 1日:日露両国、休戦議定書に調印(休戦) 5日:日比谷焼打事件

5日:日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印
10月 14日:日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准(終戦)
ゼネラル・ストライキが起きる
17日:ニコライ2世、十月詔書に署名する

12月 20日:大本営を解散



影響



日本


日本はこの戦争の勝利でロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで日露関係は急速に改善し、革命によりロシア帝国が崩壊するまでその信頼関係は維持された。この条約により相互の勢力圏は確定され日本は朝鮮半島の権益を確保した上、ロシア帝国の軍事的脅威を排除して当面の安全保障を達成した。また新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道を獲得するなど満州における権益を得ることとなった。


こうして、日本は最大の目標は達成した。しかし講和条約の内容は、賠償金を取れないなど国民にとって予想外に厳しい内容だったため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こった。結果戒厳令が敷かれるまでに至り、戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。これはいかなることであれロシア側へ弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民の期待を煽ったために修正が利かなくなっていたこともあり、国民の多くはロシアに勝利したものの日本もその国力が戦争により疲弊しきっていたという実情を知らされず、相次ぐ勝利によってロシアが簡単に屈服したかのように錯覚した反動から来ているものである。なお、賠償金が取れなかったことから、大日本帝国はジェイコブ・シフのクーン・ローブに対して金利を払い続けることとなった。「日露戦争で最も儲けた」シフは、ロシア帝国のポグロム(反ユダヤ主義)への報復が融資の動機といわれ、のちにレーニンやトロツキーにも資金援助をした。


しかし、当時列強諸国からも恐れられていた大国であるロシアに勝利したことは、同盟国のイギリスやアメリカ、フランスやドイツなどの列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与したのみならず、非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、後には「五大国」の一角をも占めることとなった。


この戦争において日本軍および政府は、旅順要塞司令官のステッセルが降伏した際に帯剣を許すなど、武士道精神に則り敗者を非常に紳士的に扱ったほか、戦争捕虜を非常に人道的に扱い日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。日本軍は国内各地に捕虜収容所を設置したが、愛媛県の松山にあった施設が著名であったため、ロシア兵側では降伏することを「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある[注釈 7]。終戦後、日本国内のロシア兵捕虜はロシア本国へ送還されたが、熊本県の県物産館事務所に収容されていたロシア軍士官は帰国決定の日に全員自殺している[注釈 8]


また、元老でありながら参謀総長として戦争を指揮した山縣有朋の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論[注釈 9]とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱えて、1907年には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「帝国国防方針」案が纏められる。だが、戦後の財政難から師団増設は順調にはいかず、18師団を20師団にすることの是非を巡って有名な2個師団増設問題が発生することになった。


日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦後、ロマン・コンドラチェンコによって築かれていた旅順要塞の堡塁を模倣し、永久防塁と呼ばれた演習用構造物を陸軍習志野錬兵場内に構築、演習などを行い要塞戦の戦術について研究したというエピソードが残されており、当時の陸軍に与えた影響の大きさを物語っている。なお、脚気惨害については、「陸軍での脚気惨害」、「海軍の状況」を参照のこと。



ロシア


不凍港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、この敗北を期に極東への南下政策を基にした侵略を断念した。南下の矛先は再びバルカンに向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの侵略を企むオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。


また、戦時中の国民生活の窮乏により、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの叛乱等より始まるロシア第一革命が発生することになる。



西欧


イギリスは日露戦争に勝利した日本への評価を改め、1905年8月12日にはそれまでの日英同盟を攻守同盟に強化する(第二回日英同盟協約)。また日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ日露協約、英露協商を締結した。既に締結されていた英仏協商と併せて、欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟の対立へと向かった。こうしてイギリスは仮想敵国を、日露戦争の敗北により国力が疲弊したロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大していく。


イギリスでは「教育勅語」こそ日本発展の原動力として、菊池大麓博士に講演を依頼したほどであった。ドイツのヴィルヘルム2世はドイツ軍に「汝らは日本軍隊の精神にならえ」と訓話をした。



アメリカ




ポーツマスにおける日露両政府代表団


アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでおり、日露講和後は満州でロシアから譲渡された東清鉄道支線を日米合弁で経営する予備協定を桂内閣と成立させていた(桂・ハリマン協定、1905年10月12日)。これはアメリカの鉄道王ハリマンを参画させるというもので、ハリマンの資金面での協力者がクーン・ローブすなわちジェイコブ・シフであった。この協定は小村外相の反対によりすぐさま破棄された。日本へ外債や講和で協力したアメリカはその後も「機会均等」を掲げて中国進出を意図したが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。


大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され1906年のノーベル平和賞を受賞したが、彼の対日感情はポーツマス講和への協力以降、急速に悪化してゆく。またルーズベルト大統領は新渡戸稲造の『武士道』を陸海軍に教科書として配布した。


急激に国力と存在感を高めた黄色人種国である日本への人種差別感情に併せて、中国利権からの締め出しによる焦り、さらに日比谷焼打事件の際、日本の群衆の怒りが講和を斡旋したアメリカにも向けられて東京のアメリカ公使館などが襲撃の対象となったことなどを受けて、アメリカの世論は憤慨し黄色人種への人種差別感情をもとにした黄禍論が高まっていく。これら日米関係の急速な悪化により、第二回日英同盟協約で日本との同盟を攻守同盟の性格に強化したばかりのイギリスは、新たに巻き起こった日本とアメリカの対立に巻き込まれることを恐れ始めた[26]



清朝


日露戦争の戦場であった満州は清朝の主権下にあった。満州民族による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという封禁政策を取り、中国内地のような目の細かい行政制度も採用しなかった。開発も最南部の遼東・遼西を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れ、東清鉄道やハルビンを始めとする植民都市の建設まで許すこととなった。さらに義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。1901年の北京議定書締結後もロシアの満洲占拠が続いたために、張之洞や袁世凱は東三省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。


終戦後は、日本は当初唱えていた満洲における列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。こうした状況に危機感をつのらせた清朝は直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努め、終戦の翌々年の1907年には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。ある推計によると、1880年から1910年にかけて、東三省の人口は743万4千人から1783万6千人まで増加している[27]。さらに同年には袁世凱の北洋軍の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。


また、日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。また、1917年のロシア帝国崩壊後は日本が一手に利権の扶植に走り、1932年には満州国を建国した。第二次世界大戦で日本が敗れて満州国が滅亡すると、代わって侵攻してきたソ連が進駐に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。中華民国を継いだ中華人民共和国がソ連から満州を完全に返還されたのは1955年のことであり、日露戦争から50年後のことであった。


現代中国の高校歴史教科書では日露戦争について、日本あるいはロシアの近代化過程の一部として触れられているものの、詳しく言及はしない(清朝の領土で起きた点を中心に記述するのが多い)。[要出典]



大韓帝国




日露戦争の風刺画


開戦前の大韓帝国では、日本派とロシア派での政争が継続していたが、日本の戦況優勢を見て、東学党の系列から一進会が1904年に設立され、大衆層での親日的独立運動から、日本の支援を受けた合邦運動へ発展した。ただし当初の一進会の党是は韓国の自主独立であった。


戦争後、ロシアによる脅威がなくなった朝鮮半島では日本の影響が絶大となり、のちに大韓帝国は様々な権利を日本に委譲することとなり、さらには日本の保護国となる。1910年(明治43年)の日韓併合条約の締結により、大韓帝国は大日本帝国に併合された。




モンテネグロ公国


モンテネグロはロシア側に立ち、1905年日本に宣戦布告し、ロシア軍と共に戦うため義勇兵を満州に派遣していた[28]。しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。後に第一次世界大戦では共に連合国として戦うことになったが、モンテネグロ王国はその最中セルビア王国によって併合された(ユーゴスラビア王国)。その後第二次世界大戦においてはユーゴスラビアと日本は戦争状態になったが、1952年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国との間で書簡が交わされ、日本とユーゴスラビアの間の戦争状態は日本国との平和条約発効の日(1952年4月28日)をもって終了することが合意された[29]



しかしその後、セルビア・モンテネグロ(旧名ユーゴスラビア連邦共和国)からモンテネグロが独立する際にこの問題が取り上げられた。モンテネグロおよびセルビア・モンテネグロはユーゴスラビア社会主義連邦の継承国であると認められておらず、モンテネグロと日本との戦争状態に関する条約は不在の状態となった。2006年(平成18年)2月14日に鈴木宗男衆議院議員は、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか。」との内容の質問主意書を提出した[30]。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない。」との答弁書を出している[31]


2006年6月3日のモンテネグロ独立宣言に際し、日本政府は、6月16日に独立を承認し、山中あき子外務大臣政務官を総理特使として派遣した[32]。UPI通信社は、6月16日、ベオグラードのB92ラジオのニュースを引用し、特使は独立承認と100年以上前に勃発した日露戦争の休戦の通達を行う予定と報道した[33]。ただし日本国外務省からは、特使派遣報告をはじめとして日露戦争や休戦に関連する情報は出されていない[34]。(参考:外交上の終結まで長期にわたった戦争の一覧)。


なお、日英同盟の規定により、当時の日本が2ヶ国以上と戦争状態になった場合、イギリスにも参戦義務が生じることとなる。仮に日本がモンテネグロの宣戦布告を無視しなかった場合、かなり厄介な問題を引き起こすこととなった[注釈 10]



その他各国


当時、欧米列強の支配下にあり、第二次世界大戦後に独立した国々の指導者達の回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」と記される[35]など、欧米列強による植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる[注釈 11]


また、第一次エチオピア戦争で、エチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例があるが、これは英仏の全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える(ただし1804年に独立したハイチはナポレオン率いるフランス軍を撃退して世界初の黒人共和国となっており、有色人種が白人に勝利した一例である)。また、絶対君主制(ツァーリズム)を続ける国に対する立憲君主国の勝利という側面もあった。いずれにしても日露戦争における日本の勝利が世界に及ぼした影響は大きく、日本に来ていたドイツ帝国の医者エルヴィン・フォン・ベルツは、自分の日記の中で日露戦争の結果について「私がこの日記を書いている間にも、世界歴史の中の重要な1ページが決定されている」と書いた。


実際に日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域や、ヨーロッパ諸国の植民地がそのほとんどを占めていたアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会、オランダ領東インドにおけるブディ・ウトモ等に影響を与えている。


なお、日露戦争での日本の勝利は、当時ロシアの支配下にあったフィンランドをも喜ばせ、東郷平八郎の名が知れ渡り「東郷ビール」なるビールが製造されたとの逸話があるが、これは誇張ないし誤りである。実際にフィンランドのビール会社が製造した「東郷ビール」は、全24種のラベルがある「提督ビール」(Amiraali Olut) のうちの一つに過ぎない。この提督ビールには、東郷平八郎以外にも山本五十六、そしてロシア海軍の提督の肖像が使われている。



「開戦に関する条約」の創設


日本がロシア皇帝ニコライ2世に対し宣戦布告をしないまま旅順港のロシア旅順艦隊を襲撃したことから、1907年の万国平和会議では開戦に関する条約創設の討議が行われた。またハーグ陸戦条約の改訂が行われた。日本は双方に署名し、1911年の第2次桂内閣期に批准した(日本における効力発生は1912年)。



その後の日露関係


満州へのアメリカ進出を警戒した日露両国は次第に接近した。1907年、日露両国は第一次日露協約を締結し、相互の権益を保全するという合意を締結した。以降、日露関係はほとんど同盟状態に近いものとなった[36]。しかしロシア革命の勃発によってこの関係は崩壊することになる。



発行物


特殊切手として(1906年4月29日)、1銭5厘、3銭の切手が発行された。



日露戦争を題材とした作品



小説




  • 司馬遼太郎 『坂の上の雲』全8巻、文春文庫、1999年、ISBN 4167105764, ISBN 4167105772, ISBN 4167105780, ISBN 4167105799, ISBN 4167105802, ISBN 4167105810, ISBN 4167105829, ISBN 4167105837


  • 吉村昭 『海の史劇』、新潮文庫、1981年、ISBN 4101117101


  • 田山花袋 『一兵卒』(青空文庫)






  • 与謝野晶子『君死にたまふことなかれ』(1904年9月、雑誌『明星』に掲載)


映画



  • 『明治天皇と日露大戦争』(1957年、新東宝、監督:渡辺邦男)

  • 『日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里』(1957年、監督:森一生)

  • 『明治大帝と乃木将軍』(1959年、監督:小森白)

  • 『明治大帝御一代記』(1964年、監督:大蔵貢)

  • 『日本海大海戦』(1969年、監督:丸山誠治)

  • 『二百三高地』(1980年、監督:舛田利雄)

  • 『日本海大海戦 海ゆかば』(1983年、監督:舛田利雄)



テレビドラマ



  • 『海は甦える』(3時間ドラマ、TBS、1977年8月29日)

  • 『二百三高地 愛は死にますか』(全8回、TBS、1981年1月 - 2月)

  • 『ポーツマスの旗』(全4回、NHK総合、1981年12月)

  • 『坂の上の雲』(全13回、NHKスペシャルドラマ) - 2009年から2011年まで足掛け3年にわたり年末に放送された。



漫画




  • 江川達也『日露戦争物語』 - ただし、この作品は日清戦争の途中で打ち切りになっている。


  • 安彦良和『天の血脈』


  • 野田サトル『ゴールデンカムイ』 - 日露戦争終結直後の北海道や樺太を舞台とし、主人公を始め多くの帰還兵が登場する。



ゲーム



  • 『Tsushima』『Port Arthur』Marc W. Miller / GDW 1975年、国際通信社 コマンドマガジン日本版30号、1995年、ボードゲーム

  • 『二百三高地』、バンダイifシリーズ、ボードゲーム

  • 『日本海海戦』、バンダイifシリーズ、ボードゲーム

  • 『日露戦争』、エポック社 1982年、国際通信社、 2001年・2010年 、ボードゲーム

  • 『日本海大海戦』、エポック社 1983年、ウォーゲームエレクトロニクス

  • 『奉天会戦』、コマンドマガジン第16号、国際通信社 、1997年、ボードゲーム

  • 『日露戦争』、ジェネラル・サポート 1999年・2002年・2004年、PC向け


  • en:1904-1905: The Russo-Japanese War (Avalanche Press, 1999)、ボードゲーム

  • 『らいむいろ戦奇譚』、エルフ 2002年、※18禁ゲーム

  • 『旅順攻略/奉天決戦』、コマンドベスト第11号、国際通信社、2009年、ボードゲーム

  • 『Distance Guns:Russian-Japanese War at Sea』、Storm Eagle Studios - 日露戦争の海戦ゲームで、日本未発売。



脚注


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注釈





  1. ^ 露清密約(特に1900年締結第二次露清密約)により、ロシア帝国の事実上の植民地状態にあった。


  2. ^ 靖国神社資料、靖国神社戦争別合祀者数による。日本長期統計総覧によれば死没84,435人[1]、戦死戦病死は「日清戦争ヨリ満州事変ニ至ル日本外交ノ経済的得失」によれば55,655人[2]


  3. ^ 公文書において対外的には 大日本国 日本帝国 あるいは単に帝国と表記された。


  4. ^ 3億円、割引発行なので償還20年で実質5.0%、担保は煙草専売益。


  5. ^ 日露戦争ではしばしば高橋による外債工面が注目されるが、金本位制においては正金は交換の媒体にすぎず、海外からの物資調達は日本からの交易品輸出により支弁され正金はその融通のための仮の穴埋め(ヴェール)にすぎない。高橋の外貨調達がなければ決済資金不足により海外との交易が途絶する可能性があったためロンドン金融街とシフらによる与信供与の重要さは特筆されるものであるが、彼らが日本人の為に費用を負担してくれたのかと言えばそうではなく、日本人を信用して資金を用立ててくれたという事である。最終的な戦費は(外債用の支払い利息を含め)すべて日本政府(すなわち日本人)が負担した。ポーツマス条約で戦争賠償金が期待できないことが明らかになるとロンドンにおける日本国外債の評価は一時混乱した。


  6. ^ 日本軍による戦闘行為は国交断絶後に開始されており当時は国際法上合法とされた。


  7. ^ 捕虜も参照。


  8. ^ このうち、東部シベリア狙撃第13連隊に所属していた「イグナティアン・ドレヴイチャセウイチ」の墓が熊本市のフランシスコ修道院の近くに現存する[25]


  9. ^ 従来は、島国である日本本土の防衛を重視して海軍の充実が主唱されてきたが、アジア大陸最東部の満洲・韓国を支配圏に置いた以上は、日本も大陸国家としての備え(即ち強力な陸軍)が必要であるとする主張のこと。


  10. ^ 日英同盟の主旨の一つは、日本とロシアが戦争に突入した際に、フランスなどロシアの友好国が参戦するのを牽制することである。イギリスが簡単に参戦してしまっては、逆にロシアの友好国が参戦する呼び水になってしまう。


  11. ^ たとえばカナダサスカチュワン州のウクライナ系移民は自分達の町にミカドと名付けている。




出典




  1. ^ ab“帝国書院|統計資料 歴史統計 戦争別死傷者数”. 2018年10月14日閲覧。


  2. ^ “テーマで見る日露戦争 VI 統計”. 国立公文書館 アジア歴史資料センター. 2018年10月14日閲覧。

  3. ^ ab“時事ドットコム:日露戦争のロシア将兵捕虜”. (2012年11月26日). オリジナルの2013年4月26日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/Jzl5s 


  4. ^ Samuel Dumas, Losses of Life Caused By War (1923)


  5. ^ NHK高校日本史・日清戦争 〜中国観の変化〜


  6. ^ 伊藤、p.p.150。原文は旧表記。


  7. ^ 横手慎二『日露戦争史――20世紀最初の大国間戦争』(中央公論新社[中公新書], 2005年)、John W. Steinberg・Bruce W. Menning・David Schimmelpenninck van der Oye・David Wolf・横手慎二共著“The Russo-Japanese War in Global Perspective (History of Warfare)”BRILL; illustrated edition edition (February 28, 2007)


  8. ^ 《北京日報》;記者:董少東;責任編輯:王敏 (2015年1月26日). “日俄戦争時清政府中立:“聯日拒俄”” (簡体中文). 環球網>歴史頻道>中国史>正文. 2015年9月23日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年1月26日閲覧。


  9. ^ 《老年生活報》電子版 (2011年10月14日). “日俄戦争中清廷為何暗助日本” (簡体中文). 《老年生活報》電子版>第05版 歴史透視. 2011年10月14日閲覧。


  10. ^ 徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』541ページ(原本の漢字表記は旧字)


  11. ^ 徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』539-540ページ(原本の漢字表記は旧字)


  12. ^ 東亜関係特種条約彙纂 P.783 東亜同文会 1904年5月22日


  13. ^ 竜巌浦事件 コトバンク

  14. ^ abc片山慶隆『日露戦争と新聞:「世界の中の日本」をどう論じたか』 <講談社選書メチエ> 講談社 2009年 ISBN 9784062584531 pp.58-81.


  15. ^ 本項目は主に山本利久「マーチャント・バンク」『新潟産業大学経済学部紀要』第29号pp.89-110[1]に基づいて記述した。


  16. ^ “日露戦争の戦費、英首相の高祖父から助力…首相”. 読売新聞. (2013年6月20日). オリジナルの2013年6月25日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/1zyPE 2013年6月20日閲覧。 


  17. ^ 「財務省今昔物語7」寺井順一(財務総合政策研究所主任調査官)[2][リンク切れ][3][リンク切れ]


  18. ^ ロン・チャーナウ 『ウォーバーグ ユダヤ財閥の興亡(上)』 日本経済新聞社 1998年 p.175.

  19. ^ abc日本興業銀行 『日本外債小史』 1948年1月 第三章第二節


  20. ^ “帝国書院 | 統計資料 歴史統計 戦争別戦費”. 帝国書院. 2018年10月14日閲覧。


  21. ^ 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』「江田島移転のころ」(原書房)、アジア歴史資料センター「????三隻の被補者員数取調の件」(Ref:C04014276700 )


  22. ^ 長南政義「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)132p。他にも同書132pには期日が不明ながら軍令部参謀山下源太郎の「(陸軍の)上陸直後、海軍は旅順の陸上攻撃を要求せざるべし」との発言があったといい、なるべく陸軍の援助なく独力にて旅順を陥れんとする野心があった。


  23. ^ 北海道新聞「サハリンの日本兵慰霊碑再建を 苫小牧の梅木さん訴え」2008年10月14日[リンク切れ]


  24. ^ “中野文庫 - 勅語(明治39年) 帝国軍人援護会ヘ勅語(明治39年6月7日)”. NAKANO Makoto. 2018年10月14日閲覧。


  25. ^ 熊本市教育委員会(編) 『島崎:歴史と文化財』 熊本市教育委員会、1988年3月。[要ページ番号]


  26. ^ 伊藤之雄. “日露戦争と日本外交”. p. 63. 2010年12月6日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。


  27. ^ 曹樹基著『中国人口史 第5巻』復旦大学出版社、2001年5月、p.704。やや時間のとっているスパンが長いが、同時期の人口の急激な増加がうかがえる。


  28. ^ Montenegrina, digitalna biblioteka crnogorske kulture (Montegreina, digital library of Montenegrin culture), Istorija: Đuro Batrićević, citing Batrićević, Đuro. (1996). Crnogorci u rusko-japanskom ratu (Montegegrans in the Russo-Japanese War); retrieved 2011-05-12; compare Dr Anto Gvozdenović: general u tri vojske. Crnogorci u rusko-japanskom ratu (Dr. Anto Gvozdenovic: General in Three Armies; Montegegrans in the Russo-Japanese War)


  29. ^ 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について- 外務省


  30. ^ “一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問主意書”. オリジナルの2011年3月24日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110324071542/http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a164069.htm 2011年3月19日閲覧。 


  31. ^ “衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問に対する答弁書”. オリジナルの2011年3月24日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110324071546/http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164069.htm 2011年3月19日閲覧。 


  32. ^ モンテネグロの承認及び山中総理特使のモンテネグロ訪問について 外務省 平成18年6月16日


  33. ^ "Montenegro, Japan to declare truce," UPI通信社 (US). June 16, 2006; "Montenegro, Japan End 100 Years' War," History News Network (US). citing World Peace Herald, June 16, 2006; 2014年8月9日閲覧


  34. ^ 山中外務大臣政務官のモンテネグロ共和国訪問(概要) 外務省 平成18年6月


  35. ^ ネルー『父が子に語る世界史』[要文献特定詳細情報]


  36. ^ バールィシェフ・エドワード (2005年). “第一次世界大戦期における日露接近の背景--文明論を中心として”. スラヴ研究 = Slavic Studies (北海道大学スラブ研究センター): 205-240. http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/52/baryshev.pdf. 




参考文献







歴史書



  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー(著)、妹尾作太男・三谷庸雄(共訳)『日露戦争全史』、時事通信社、1978年、ISBN 4788778254

  • 軍事史学会編 『日露戦争(一)-国際的文脈』、錦正社、2004年、ISBN 4764603187

  • 軍事史学会編 『日露戦争(二)-戦いの諸相と遺産』、錦正社、2005年、ISBN 4764603195



戦時史料



  • 『御詔勅草案』、伊藤博文『秘書類纂. 雑纂 其1』、秘書類纂刊行会(1935)

  • 川本九右衛門『日露戦争国民的後援演説集』、 大日本実業学会(1904年)。

  • 『英語青年 The rising generation』、英語青年社(1904年)

  • 『征露戦報』(1900年 - 1909年)、実業之日本社。



従軍記・回想録




  • 水野廣徳 『此一戦』、明元社、2004年、ISBN 4902622017


  • 櫻井忠温 『肉弾』、明元社、2004年、ISBN 4902622025


  • アレクセイ・ノビコフ=プリボイ(著)、上脇進(訳)『ツシマ―バルチック艦隊の壊滅』上、下、原書房、2004年版、ISBN 4562037865, ISBN 4562037873


  • ニコライ・エドゥアルドヴィチ・ゲインツェ(ロシア語版) 『В действующей армии (Письма военного корреспондента)』(軍では ─従軍記者の手紙より─) (ロシア語)



近年刊行の関連書籍




  • 野村實『日本海海戦の真実』、講談社現代新書、1999年、ISBN 4061494619


  • 長山靖生『日露戦争 もうひとつの「物語」』新潮新書、2004年


  • 柘植久慶『あの頃日本は強かった 日露戦争100年』、中公新書ラクレ、2003年、ISBN 4121501063


  • 山室信一『日露戦争の世紀―連鎖視点から見る日本と世界』、岩波新書、2005年、ISBN 4004309581


  • 黒岩比佐子『日露戦争 勝利のあとの誤算』、文春新書、2005年、ISBN 4166604732


  • 横手慎二『日露戦争史 20世紀最初の大国間戦争』中公新書、2005年、ISBN 4121017927

  • 森貞彦『日露戦争と「菊と刀」』、東京図書出版会、2004年、ISBN 4434040065

  • 日露戦争研究会『日露戦争研究の新視点』、成文社、2005年、ISBN 4915730492


  • 児島襄『日露戦争』全8巻、文春文庫(品切れ)、1994年、ISBN 4167141469, ISBN 4167141477, ISBN 4167141485, ISBN 4167141493, ISBN 4167141507, ISBN 4167141515, ISBN 4167141523, ISBN 4167141531


  • 岡田和裕『ロシアから見た日露戦争』、2010年、ISBN 4769826680


  • ゲームジャーナル『坂の上の雲5つの疑問』、2011年、ISBN 4890632840



関連項目











  • 大戦景気

  • 日清戦争

  • 与謝野晶子

  • 日本の脚気史

  • 満韓交換論

  • 近代における世界の一体化

  • グレート・ゲーム


  • モシン・ナガンM1891/30 - ロシア帝国の主用小銃


  • 正露丸 - 衛生管理が不十分だったこの頃、正露丸によって兵士たちの腹痛、下痢が激減したという。元々は「征露丸」と表記していた。



外部リンク




  • The Russo-Japanese War Research Society - 日露戦争の研究ページ。英語。


  • Русско-Японская война на море 1904-1905 г.г. - 「海における日露戦争 1904-1905年」海軍中心の日露戦争研究ページ。ロシア語。


  • Дедовские войны - 主に19世紀ロシアの戦争を扱ったページ。ロシア語。書庫 (библиотека) にノビコフ・プリボイ作「ツシマ」などを収める。


  • 日露戦争特別展―公文書にみる日露戦争 - 国立公文書館 アジア歴史資料センター


  • 日露戦争特別展II 開戦から日本海海戦まで 激闘500日の記録 - 国立公文書館 アジア歴史資料センター


  • Yellow Promise/Yellow Peril - 西洋のポストカードに描かれた日露戦争(日本の指揮官の肖像や黄禍論などを描いたもの)







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