野球界の永久欠番
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野球界の永久欠番(やきゅうかいのえいきゅうけつばん)では、野球の競技者・関係者などに対して適用される永久欠番について述べる。
目次
1 メジャーリーグベースボールの永久欠番
2 日本プロ野球(NPB)の永久欠番
2.1 失効・消滅となった永久欠番
2.2 準永久欠番
3 日本の独立リーグの永久欠番
3.1 四国アイランドリーグplusの永久欠番
3.2 ベースボール・チャレンジ・リーグの永久欠番
3.3 BASEBALL FIRST LEAGUEの永久欠番
4 日本のアマチュア野球の永久欠番
4.1 大学野球
5 韓国プロ野球界の永久欠番
6 台湾プロ野球界の永久欠番
7 野球ナショナルチームの永久欠番
8 脚注
メジャーリーグベースボールの永久欠番
野球界における永久欠番の歴史は1939年、MLBアメリカンリーグのニューヨーク・ヤンキースでルー・ゲーリッグが使用していた4を欠番としたことに始まる。当時ゲーリッグは、不治の病とされのちに「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれる筋萎縮性側索硬化症で引退を余儀なくされたが、永久欠番とすることでチームに居続けることができることに歓喜した。引退の際、 "Today, I consider myself the luckiest man on the face of the Earth."(「今日の私は自分を地球上で最も恵まれた男だと思っています」)と名言を残している。
ナショナルリーグではニューヨーク・ジャイアンツが1947年にカール・ハッベルの11を永久欠番に指定し、ナショナルリーグ初の永久欠番となる。ドジャース、レッドソックス、アスレチックスの3球団は、選手のアメリカ野球殿堂入り・チームが定める在籍年数など永久欠番とするための条件を有している。また、選手以外にもファン、オーナー、球場アナウンサーが永久欠番を与えられて顕彰されたり、永久欠番と同様の顕彰を受けているケースもある。
- 全球団共通永久欠番
42:ジャッキー・ロビンソン(二塁手)
- 黒人選手第1号であるロビンソンを顕彰し、1997年4月15日に制定。従来から使っていた選手のみが引退まで継続して使用することを認められた。これは、数字を統一する事で黒人と白人を区別をさせないという意味も含まれていると言われている。制定当時は選手・コーチを含めて該当者が20人前後いたが、移籍やマイナー行きなどの理由でその数は徐々に減っていった。
- MLBで最後に42をつけた選手はヤンキースのマリアノ・リベラで、2013年シーズンを最後に現役引退したことにより欠番の例外となる人物はいなくなった。また、リベラの背番号も同時に欠番に指定された。カージナルスのブルース・スーターも現役時代の背番号が42で、2006年に殿堂入りを果たして欠番に指定されている。リベラとスーターの背番号は各々の球団でロビンソンの背番号と並立して称えられている。
- 日本のプロ野球で、特に外国人選手が42番を着けることが多いのは、42が「死に」につながり日本人選手が敬遠することが多いためだが、現在ではMLBでは着けることのできない番号だからという理由もある。
- 複数球団にまたがる一競技者の永久欠番
現在までに11名が存在する。
ノーラン・ライアン(エンゼルスの30、アストロズ、レンジャーズの34)
フランク・ロビンソン(レッズ、オリオールズ、インディアンスの20)
ハンク・アーロン(ブレーブス、ブルワーズの44)
ケーシー・ステンゲル(ヤンキース、メッツの37)
カールトン・フィスク(レッドソックスの27、ホワイトソックスの72)
ロッド・カルー(ツインズ、エンゼルスの29)
ローリー・フィンガース(アスレチックス、ブルワーズの34)
レジー・ジャクソン(ヤンキースの44、アスレチックスの9)
グレッグ・マダックス(カブス、ブレーブスの31)
スパーキー・アンダーソン(レッズの10、タイガースの11)
ウェイド・ボッグス(レイズの12、レッドソックスの26)
- 複数の競技者を称えた永久欠番
現在までに5つのケースがある。
- ヤンキースの8(ビル・ディッキーとヨギ・ベラ)、42(マリアノ・リベラとジャッキー・ロビンソン)
- カージナルスの42(ブルース・スーターとジャッキー・ロビンソン)
- カブスの31(ファーガソン・ジェンキンスとグレッグ・マダックス)
- ナショナルズの10(アンドレ・ドーソンとラスティ・スタウブ)
日本プロ野球(NPB)の永久欠番
球団設立順。人物名の後にある日付は制定日。
- 読売ジャイアンツ
1:王貞治(一塁手) 1989年3月16日
- 入団当初から監督退任までの30年間使用。同一人物による途切れなしでの30年間使用は2014年に山本昌(中日、背番号34[1])が更新するまで日本最長であった。
3:長嶋茂雄(三塁手) 1974年11月21日
- 第2期監督時代の2000年 - 2001年にも使用している。
4:黒沢俊夫(外野手) 1947年7月9日
- 日本野球界初の永久欠番の一つ。同じチームだった千葉茂の著書や証言によれば、大半の主力選手を軍隊に取られた戦時下に、球団史上初のトレードで移籍後四番を打ち、戦後も病に倒れるまで五・六番打者として活躍した本人への感謝の意として千葉を中心とする選手有志が提案し、戦死した沢村栄治と共に永久欠番になったとのこと。
14:沢村栄治(投手) 1947年7月9日
- 黒沢と同じく日本野球界初の永久欠番の一つ。引退する1943年まで使用していたが翌年に戦死。1946年に今泉勝義と坂本茂が使用している。1947年に黒沢の4とともに日本野球界初の永久欠番に指定された。
16:川上哲治(一塁手) 1965年1月18日
1958年の現役引退後、ヘッドコーチ時代(1959年 - 1960年)・監督時代の一部(1961年 - 1964年)で16を使用した。1965年に野球殿堂入りが決定したことで永久欠番となり、77に変更した。
34:金田正一(投手) 1970年4月2日
- 巨人移籍前に在籍した国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の34は欠番となっていない。
- 阪神タイガース
10:藤村富美男(三塁手) 1958年11月30日
- 球団創設以来、阪神で10をつけた選手は藤村のみ。これは選手に対する永久欠番で唯一の事例である。
11:村山実(投手) 1972年11月2日
- 第2期監督時代の1988年 - 1989年にも使用している。
23:吉田義男(遊撃手) 1987年10月13日
1969年の引退以降、ふさわしい人物の入団まで欠番とされたが、使用した選手はいなかった。日本一となった第2期監督退任に合わせて永久欠番とされた。
- 中日ドラゴンズ
10:服部受弘(投手・捕手) 1960年3月20日
- 二軍監督時代の1977年にも使用している。
15:西沢道夫(一塁手・投手) 1959年3月15日
- ヘッドコーチ・監督時代の1963年 - 1966年にも使用している。
服部と西沢の欠番は、両選手を辞めさせる時の「妥協点」という杉下茂の談話が中日の球団史に掲載されている[2]。
- 北海道日本ハムファイターズ
100:大社義規(日本ハム球団初代オーナー) 2009年2月1日
- 野球殿堂入りを記念し、永久欠番に制定した。
- 前身の東映フライヤーズ時代では、1962年に初優勝した時、当時のオーナー・大川博が「100」の背番号を付けたユニフォームを着用し、パレードなどに参加したことがあった。なお、東映製作による記録映画として『東映優勝 背番号100』が同年制作・公開されている。
- また日本ハムファイターズ時代の1993年から2005年までは、マスコットの「ファイティー」が付けていた。
日本ハムでは、選手の背番号に関しては、恒久的な永久欠番を制定しない方針と報じられている[3][4]。
- 広島東洋カープ
3:衣笠祥雄(三塁手) 1987年9月21日
8:山本浩二(外野手) 1986年10月27日
- 第2期監督時代の2001年 - 2005年にも使用している。
15:黒田博樹(投手) 2016年11月1日
- 黒田が2008年にMLB移籍の際、広島に戻ってくる時に備えて2014年まで欠番となっていたが[5]、2015年に黒田が広島への復帰時に再び着用。翌年(2016年)の引退時に、同年の日米通算200勝達成と25年ぶりのリーグ優勝貢献を称える形で永久欠番となった[6]。
衣笠と山本は広島新入団時の背番号(衣笠は28、山本は27)から変更を経験している。
- 埼玉西武ライオンズ
24:稲尾和久(投手) 2012年7月4日(決定発表は5月1日)
- 引退後も1972年までは稲尾自身が監督として付け、1973年の福岡野球株式会社(太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ)への売却時に稲尾が背番号を81に変更したことから欠番となった。当時稲尾が固辞したため球団は永久欠番とせず、「将来有望な選手が入団してきたら24番をプレゼントしたい」として暫く欠番とした後、1976年に古賀正明が使用した。
- その後、秋山幸二、平野謙、金村義明、眞山龍、松永浩典等様々な選手が使用したが、2012年の生誕75周年を機に永久欠番に指定(同年はライアン・マルハーンの退団により当初より欠番となっていた)。西武は7月1日のホームゲームと7月4日の福岡での試合において全選手・コーチが背番号「24」の西鉄・復刻ユニフォームを着用し、福岡での試合終了をもって永久欠番とした[7]。
- 東北楽天ゴールデンイーグルス
10:イーグルス・ファン 2004年12月17日
スターティングメンバーの9人に続く10人目、サブメンバーの一人の意味。球団や球界に対する功績を残した特定人物を称える意味ではなく、不特定のファンのための番号を「永久欠番」と称したのは当時日本プロ野球界では初の試みであった。- なお、球団創設の年に制定されたため、チーム発足以来背番号「10」を使用した選手・監督・コーチはいない。
- 当初はドラフト4巡目で入団した西谷尚徳[8]に与えられる予定だったが、入団発表直前に6に変更になった[9]。
- 球団マスコットの「クラッチ」がイーグルス・ファンの代表として、背番号10を着用している。
77:星野仙一(4代目監督)2018年3月26日
- 監督として球団初のリーグ優勝・日本一に導き、退任後も球団取締役副会長としてチームに貢献。
- 2018年1月4日逝去。球団会長兼オーナーの三木谷浩史が同年3月19日に東京都内で行われた「星野仙一さんお別れ会」の場で弔辞を述べる際、背番号77を永久欠番とする意向を表明、同月26日に正式発表された。NPB初の「監督」の永久欠番である(川上哲治の「16」は監督として着用していた時期があるが、明確に「監督」の背番号としての永久欠番は初)[10][11]。
失効・消滅となった永久欠番
球団設立順。
- 横浜DeNAベイスターズ
100:球団に対して貢献のある複数の著名人 1997年11月11日
- 初めて与えられたのは1997年11月11日、前宜野湾市市会議員の桃原功。
- 2013年から2015年まで、育成選手の今井金太が使用したため失効となった。
- 大阪近鉄バファローズ
1:鈴木啓示(投手) 1985年7月31日制定
- 近鉄消滅時点でパ・リーグ唯一の永久欠番だったが、2004年11月10日、オリックス野球クラブ株式会社への営業譲渡により消滅した[12]。
- 合併前のオリックス時代から後藤光尊が使用していたことと、鈴木本人が永久欠番を継続しないことを了承したため。
- 近鉄最後の監督となった梨田昌孝は選手に向けて「お前たちが付けている背番号は、全て近鉄バファローズの永久欠番だ」との言葉を残している。
準永久欠番
偉大な功績をあげた前任者を讃えた「名誉番号」「準永久欠番」を指定し、一定の期間空き番号としておく、前任者の「預かり」としておく球団もある。これは、米国でHono(u)red Number(名誉番号)と称されているものである。なお、これ以外にも特定の番号を「ふさわしい」選手が現れるまで空き番号とするケースがある。いずれにしても永久的に欠番にする訳ではなく、永久欠番とは根本的に性質を異にするものである。
球団創立順。球団で「名誉番号」「準永久欠番」「欠番とする」の類の公式発表がなされ、尚且つ1年以上の欠番があった場合のみ記載。現在、欠番でないものも含まれる。
- 読売ジャイアンツ
55:松井秀喜(外野手)2003年 - 08年、14年 -
- ニューヨーク・ヤンキースに移籍した2003年以降、2009年にドラフト1位で入団した大田泰示がつけるまで空き番号であった。2013年、長嶋茂雄と共に国民栄誉賞を授与されたことを機に55を永久欠番にする話もあったが、見送りとなった[要出典]。しかし大田が2014年から背番号を44に変更し再び空き番号となった。
- 阪神タイガース
6:金本知憲(外野手)2013年 - 15年、19年 -
- 引退時に連続フルイニング出場記録などの功績を称えて永久欠番にすることが検討されたが、阪神では景浦將、藤田平、和田豊ら歴代の名選手が長らく背負った番号であることから球団内外でも意見が分かれ、かつ金本本人も固辞したため永久欠番は見送りになった[13]。2016年に金本が監督就任した際に再び着用したが、2018年シーズン限りで退任した後は再び「ふさわしい選手が出てくるまで」として欠番となっている[14]。
31:掛布雅之(三塁手)1989年 - 91年、2014年 - 15年、18年 -
- 引退後3年間欠番とされた後、萩原誠、広澤克実、濱中治、林威助らが掛布の後継者として期待されこの背番号を背負ったが(特にヤクルト・巨人で主軸打者として実績のあった広澤は球団から「31は掛布のイメージが強すぎるのでそれを払拭して欲しい」という要望を受け着用している)、2014年に林威助の退団と同時に掛布がゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター(DC)として阪神に復帰したのを期に、掛布の後を継ぐに足る選手の台頭と成長まで、この番号を凍結する方針を固めた[15]。2016年に掛布が二軍監督に就任してこの番号を再び着用したが、2017年シーズン終了後に退任したため、再び空き番号となっている。
53:赤星憲広(外野手)2010年 - 14年途、15年 - 17年
- ケガによる電撃引退後4年間は功績を称えるために準永久欠番扱いとなっていたが[16][17]、2014年途中に入団した投手の建山義紀が着用[18]。建山が同年限りで現役引退した後は再び空き番号となっていた。2018年からは赤星と同じドラフト4位で入団した左打の外野手である島田海吏が着用している。
- オリックス・バファローズ
3:長池徳士(外野手) 1983年 - 84年、86年 - 87年
- 1979年の引退後もコーチとして着用し続け、82年の退団と共に欠番となったが、毎日放送の野球解説者を経て、1985年に西武ライオンズのコーチに就任したため欠番ではなくなった。ただ、背番号自体は移籍した1985年の1年間こそジョー・ヒックスが着用したものの、阪急ブレーブスとして最後の年となった1988年に石嶺和彦が着用(29から変更)するまで2年間空き番となっていた(その石嶺がFAで阪神へ移籍した1994年からも3年間空き番に)。
7:福本豊(外野手) 1991年 - 2000年
- 通算盗塁世界記録を達成した1984年に永久欠番となることが決定したが、本人が現役のため固辞。コーチ・二軍監督時代の1989年 - 1990年にも使用している。2000年までの10年間、田口壮・小川博文・イチローの3名が7を打診されるも全て固辞、谷佳知は入団時に7を希望するも却下され、欠番となっていた。2001年に横浜からトレードで移籍した進藤達哉が福本公認の下で使用し、欠番でなくなった。
51:イチロー(外野手) 2001年 -
- イチローのMLB移籍後、誰も使用しないまま現在も欠番となっており、イチロー本人も「誰も僕の番号を付けたがる選手はいないでしょうね」と語っている。2005年にオリックスの監督に復帰した仰木彬監督に51着用を勧めたが「そんな番号は恐れ多くてつけられん」と拒否された。2010年に移籍してきた坪井智哉は、同学年のイチローからリップサービスからか51着用を勧められたことがあった(球団が却下しお流れに)。
- 福岡ソフトバンクホークス
9:小久保裕紀(内野手) 2004年 - 06年、13年 - 14年
- 2003年シーズン終了後、巨人へ無償トレードされてから、将来的な復帰を想定して「監督預かり」となっており[19]、小久保がホークスに復帰した2007年から引退する2012年まで再び使用した。引退以降は再び欠番となっていたが、2015年からは柳田悠岐が着用。
15:藤井将雄(投手) 2001年 -
- 1999年に「炎の中継ぎ」としてダイエーホークス初の日本一に貢献するも、翌年10月に現役のまま病死。藤井以降に15を使用した選手はおらず、チームの親会社がソフトバンクに変わった現在も欠番のままとなっている[19]。
30:鶴岡一人(監督)1966 - 1979年
- 1947年より、一旦監督を辞任した1965年まで着用し、1966年以降は後任監督の蔭山和夫に禅譲する予定だったが、蔭山が就任して5日後に急死したため(南海蔭山新監督急死騒動)、球団挙げての復帰要請で急遽監督に復帰した鶴岡は1968年に再度辞任するまで31を着用した。その後は長期に渡って空き番だったが、1980年に台湾出身の高英傑が着用し、14年振りに復活した。
89:王貞治(監督) 2009年 -
- 「野球(やきゅう)」とも読めるこの背番号で福岡移転後の監督としては最多の、3度のリーグ優勝と2度の首位、2度の日本一達成。監督退任後、次期監督の秋山幸二に継承を打診も、秋山本人が辞退。
90:景浦安武(外野手) 1973年 - 2015年
水島新司の野球漫画『あぶさん』に登場する架空の野球選手。連載開始とともに欠番となる。原作上では南海時代からソフトバンク時代まで約35年以上にわたり現役として活躍した。景浦の引退後も欠番が引き継がれていたが、漫画の連載終了後に水島の了解を得た上で[20]2016年からロベルト・スアレスが着用し、長年にわたる欠番に終止符が打たれた。
- 北海道日本ハムファイターズ
11:ダルビッシュ有(投手)、大谷翔平(投手・指名打者)2018年 -
- 前者は八面六臂の活躍でタイトルを総なめ、後者は二刀流で話題をさらう。大谷のメジャー移籍後、ふさわしい選手が出るまでは欠番にすることを表明した[4]。
- 千葉ロッテマリーンズ
8:有藤通世(三塁手・外野手) 1987年 - 91年
- 「ミスターロッテ」と呼ばれた有藤の功績をたたえて欠番となっていたが、球団の千葉移転によりマックス・ベナブルが着用し欠番でなくなった。2005年からは今江敏晃が着用したが、2016年に楽天へ移籍。その後、2017年から中村奨吾が着用している。
26:マリーンズファン 2005年 -
- ベンチ入り25人の選手に次ぐ「26番目の選手」の意味[21]。試合中、ベンチには26番のユニフォームが飾られており、ホーム開幕戦での始球式で登板した人物が着用することがある。
29:村田兆治(投手) 1991年 - 94年
- 引退後欠番となっていたが、村田の福岡ダイエーホークス投手コーチ就任により内藤尚行が着用し、欠番でなくなった。その後も近藤芳久、小野晋吾、西野勇士などが着用している。
- 横浜DeNAベイスターズ
18:三浦大輔(投手) 2017年 - 2018年
- 現役引退時に球団が「横浜ナンバー」と称して、「準永久欠番」にすることを発表した。「プレー・振る舞いの両面でチームを牽引するとともに、チームの象徴となるべき存在の選手が付ける番号」と意味付ける趣旨としている[22]。DeNAにコーチとして復帰した2019年から再び着用することになった。
- 埼玉西武ライオンズ
3:大下弘(外野手) 1960年 - 67年
- 1960年3月1日の引退試合後、「大下選手の名に恥じない選手が出ればその選手に渡す。またその際には大下選手の同意を求める」という当時の西亦次郎球団社長の意向で当分の間欠番となっていた[23]。 1968年、大下の東映フライヤーズ監督就任と同時期に、中日から移籍の広野功が使用[24]。
6:中西太(三塁手) 1970年 - 72年
- 引退後、相応しい選手が出るまで欠番とされていたが、福岡野球株式会社への売却後に「もう新球団になったんだからいいじゃないか」と、当時の監督・稲尾和久の推薦で菊川昭二郎(33から変更)が使用した。
27:伊東勤(捕手) 2004年 - 06年
- 伊東の引退と監督就任に伴い、自らが後継者として認める正捕手が出るまで欠番とされた。2006年に細川亨が継承。細川の移籍後、2012年より炭谷銀仁朗が着用。
89:森慎二(投手→投手コーチ) 2018年 -
- コーチとして在任中の2017年6月28日に急逝。生前、コーチとして指導し、西武の2位入りに貢献した。
- 広島東洋カープ
1:前田智徳(外野手) 2014年 - 2018年
- 引退を機に欠番となる。次の着用者を選定する時は前田に決定権を委ねていたが[25]、2019年より鈴木誠也に継承された。
7:野村謙二郎(遊撃手) 2006年 - 12年
- 野村の「預かり番号」とされていたが、2013年より堂林翔太に継承された。
9:緒方孝市(外野手) 2010年 - 13年、19年 -
- ふさわしい選手が現れるまで欠番とされていたが、2014年に丸佳浩に継承された。2019年に丸が巨人へFA移籍した後は再び空き番号となった。
20:北別府学(投手) 1995年 - 2002年
- 北別府の推薦する選手が出るまで欠番とされていたが、2002年に永川勝浩に継承された。
25:新井貴浩(内野手) 2019年 -
- 通算2000本安打達成や、FA移籍した阪神から出戻り2016年にはMVPに選出される活躍で広島の25年ぶり優勝への貢献したことなどを称え、2018年シーズンの現役引退を機に、ふさわしい選手が現れるまで欠番となった[26]。
- 東京ヤクルトスワローズ
1:若松勉(外野手) 1990年 - 91年、2000年、2007年 - 09年、2012年 - 2015年
- 原則として球団生え抜きで、なおかつそれに見合う実績を挙げた選手にのみ使用させる「準永久欠番」。背番号1は「ミスタースワローズ」という称号とワンセットになっている。自身が使用を熱望し、若松の推薦もあったことから池山隆寛(36から変更)が使用していたが、若松が監督に就任した際、池山が返上して36番に戻したため1年間欠番となった後、2001年からは岩村明憲が使用。岩村のMLB移籍後に再び欠番となり(ヤクルト復帰時は入団時と同じ48を着用)、2010年から青木宣親が使用したが、2011年限りでMLBへ移籍したため、再度欠番となった(ヤクルト復帰時は入団時と同じ23を着用)。2015年には日本ハムから移籍してきた大引啓次に提示されたが、本人は辞退して2を選択した[27][28]。そして、2016年から前年にトリプルスリーを達成した山田哲人が着用することになった。
6:宮本慎也(遊撃手・三塁手) 2014年 -
- 2017年オフにヘッドコーチとしてヤクルトに復帰した際は背番号86を着用。
8:大杉勝男(一塁手) 1984年
- 引退を決めた1983年11月9日「保留欠番とし、来春3月下旬に引退試合を行うことを決めた」[29]と球団から発表された。1年間欠番の後1985年から広沢克己が着用し、その後は移籍選手の辻発彦・佐藤真一を経て2004年から武内晋一が着用。
27:古田敦也(捕手) 2008年 -
- 名誉番号で、(生え抜き・移籍を問わず)球団と古田本人のいずれかが推薦する捕手が出るまで欠番となる[30]。2009年に相川亮二が入団した際に提示されたが本人が辞退。
日本の独立リーグの永久欠番
四国アイランドリーグplus、ベースボール・チャレンジ・リーグで永久欠番を制定している球団が存在する。また、日本独立リーグ野球機構に所属していないが、BASEBALL FIRST LEAGUEの球団についてもここで取り扱う。
四国アイランドリーグplusの永久欠番
- 高知ファイティングドッグス
0:梶田宙(外野手)[31][32] 2014年9月13日
四国アイランドリーグ発足時の選手で最後まで残り、実働10年でリーグ公式戦最多出場を記録[33]。
- 愛媛マンダリンパイレーツ
77:弓岡敬二郎(監督)[34] 2016年11月25日
- チーム初のリーグ総合優勝、独立リーグ日本一、前後期優勝とリーグ総合優勝を合わせた完全優勝を達成。
ベースボール・チャレンジ・リーグの永久欠番
- リーグの全球団
10
- リーグ発足前年、急死した新潟県在住の少年野球選手が生前「新潟のプロ野球球団を応援したい」という思いを抱いていたことを遺族の手紙でリーグ創設者の村山哲二が知り、それを励みにリーグを実現させたことから、少年が所属していた野球チームでキャプテンが使用する番号(少年が付けることを望んでいた)をリーグ全球団の永久欠番としている[35]。リーグ発足当初は新潟アルビレックス・ベースボール・クラブだけが永久欠番としていた[36]。2014年の時点では欠番に指定していたのは新潟と信濃グランセローズであった[37]。この段階では10番を付けた選手が在籍する球団があったが、2015年の開幕前に石川ミリオンスターズ[38]および群馬ダイヤモンドペガサス[39]の該当選手が番号を変更したことで、このシーズンよりリーグに10番の選手はいなくなった[40]。
- 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ
22:高津臣吾(投手・監督) 2012年9月22日
選手兼任監督としてリーグ優勝、独立リーグ日本一(グランドチャンピオンシップ優勝)に貢献。NPBでは歴代2位の通算286セーブを記録。
- 石川ミリオンスターズ
12:木田優夫(投手) 2014年9月14日
- プロ野球選手として実働26年、56試合の独立リーグ最多登板を記録。独立リーグ日本一に貢献。
34:森慎二(監督・コーチ・投手)[41] 2017年9月2日
- 監督としてチームを初の独立リーグ日本一に導く。2017年、西武コーチ在任中に急逝し、永久欠番指定された[41]。
BASEBALL FIRST LEAGUEの永久欠番
- 兵庫ブルーサンダーズ
17:山川和大(投手)[42] 2016年12月28日
2016年のドラフト会議で巨人に育成選手指名され、入団決定。
27:薬師神真之(内野手)[42] 2016年12月28日
- 2016年のシーズン中に現役のまま急逝[43]。「活躍、ならびに志と高い人間性に敬意を表して」決定された[42]。
50:向谷拓巳(内野手)[42] 2016年12月28日
- 2016年のドラフト会議で楽天に育成選手指名され、入団決定。
66:山崎章弘(監督)[42] 2016年12月28日
- チーム創設以来指導に携わり(当初はコーチ、2013年より監督)、監督時代は毎年優勝またはそれに準じる成績をあげた。
77:田中耀飛(外野手)[44] 2017年12月25日
2017年のドラフト会議で、リーグ史上初の支配下登録枠で楽天に指名され、入団決定。
日本のアマチュア野球の永久欠番
大学野球
日米大学野球選手権大会日本チーム(現・侍ジャパン大学日本代表)
13:東門明(三塁手)1972年 -
- 元早稲田大学野球部三塁手。第1回日米大学野球選手権大会で送球を頭部に受けて急死。
國學院大學(東都大学野球連盟)
38:彬子女王(皇族、三笠宮家)
- 2016年に同学の特別招聘教授に就任し、同年9月21日の秋季リーグ戦(対東洋大学)にて始球式を務めたことによる。38は「宮(ミヤ)家」にちなむ。
創価大学(東京新大学野球連盟)
15:鳥居輝之(投手)1992年 - 2015年
- 3年時の1992年2月10日に病没。2015年秋季より田中正義がつけるまで監督の岸雅司が欠番としていた[45][46]。
韓国プロ野球界の永久欠番
韓国では、1986年にOBベアーズ(現・斗山ベアーズ)に捕手として在籍していた金栄伸の54を制定したことに始まる。ネクセン・ヒーローズ、NCダイノス、KTウィズでは指定されていない。
- サムスン・ライオンズ
10:梁埈赫(ヤン・ジュンヒョク、一塁手・外野手・指名打者)2010年 -
- 韓国プロ野球初の2000安打達成者で、安打などの個人通算記録を複数保持。
22:李萬洙(イ・マンス、捕手)2003年 -
- チーム一筋の捕手で韓国史上に残るスラッガー。三星ライオンズで22を使用した唯一の人物である。
36:李承燁(イ・スンヨプ、一塁手)2018年 -
- 韓国最年少で300本塁打とシーズン56本塁打のアジア記録(当時)を樹立。2004年に千葉ロッテマリーンズ移籍により指定。2012年、チーム復帰により再使用し、2017年限りで現役を引退した。
- ロッテ・ジャイアンツ
11:崔東原(チェ・ドンウォン、投手)2011年 -
- 1983年 - 1990年に韓国プロ野球で活動。1984年韓国プロ野球最優秀選手、韓国シリーズ4勝記録。通算103勝26セーブ、1019奪三振記録。2011年9月14日に大腸癌のため53歳で逝去。同月30日に指定。
- LGツインズ
41:金龍洙(キム・ヨンス、投手)1999年 -
- 通算227セーブ、251セーブポイントはともに当時の韓国記録。
9:李炳圭(イ・ビョンギュ、外野手)2017年 -
- LGツインズ史上初めて通算2000安打(韓国プロ野球のみの記録)を達成。「赤兎馬」のニックネームで看板打者として活躍。
- 斗山ベアーズ
21:朴哲淳(パク・チョルスン、投手)2002年 -
- 長年チームを支えたエースで、韓国プロ野球初年度に樹立した22連勝は韓国記録。
54:金栄伸(キム・ヨンシン、捕手)1986年 -
- 韓国球界初の永久欠番。ロサンゼルス五輪に韓国代表で出場経験を持つ期待の若手捕手であったが、1986年に水難事故により逝去している。
- 起亜タイガース
7:李鍾範(イ・ジョンボム、外野手)2012年 -
- ヘテタイガース・起亜タイガースの主力選手としてのみならず、中日ドラゴンズやWBC韓国代表でも活躍した。2012年4月、引退を機に指定。
18:宣銅烈(ソン・ドンヨル、投手)2002年 -
- 韓国史上最高投手と呼ばれ、1995年の中日ドラゴンズ移籍後も1999年の引退後も欠番となっていた。2001年途中のヘテからの身売りの際に「宣銅烈の18を返上、新人投手に与える」と発表したが、韓国球界・マスコミなどで猛反発を招き、元通り欠番に。2002年1月28日に正式に永久欠番に指定。
- ハンファ・イーグルス
21:宋津宇(ソン・ジヌ、投手)2009年 -
- 21年間韓国プロ野球で活動。通算最多である3003イニング、210勝、2048奪三振記録。2009年9月22日に指定。
23:鄭珉哲(チョン・ミンチョル、投手)2009年 -
- 宋津宇に次ぐ通算記録2位の161勝を挙げる。読売ジャイアンツにも在籍。引退と同時に宋津宇と共に指定。
35:張鍾勲(チャン・ジョンフン、遊撃手)2005年 -
- 3シーズン連続本塁打王(1990 - 1992)、通算340本塁打を記録。テスト生から這い上がったその生い立ちは「練習生神話」と呼ばれた。2005年9月15日の引退試合と共に指定。
- SKワイバーンズ
26:朴勍完(パク・キョンワン、捕手)2014年 -
サンバンウル・レイダース、現代ユニコーンズ、そしてSKワイバーンズの正捕手として韓国球界最長の23年間選手生活を続けた。2014年4月、引退を機に指定。
台湾プロ野球界の永久欠番
- 中信兄弟
4:林易増(外野手)2001年 - 2011年、2013年 - 2015年
- 盗塁王を5度受賞する名手。監督としても台湾シリーズ2連覇を果たしている。2012年の1年間のみ内野手の徐睿擇が使用後、再度欠番になったが、2016年から外野手の陳文杰が使用。
26:王光輝(二塁手・三塁手)2008年 - 2011年
- 球団史上に残る中心選手。コーチ・監督を務めた。2008年、退団をもって指定。2012年から捕手の黄鈞聲が使用。
67:曽紀恩(監督)2012年 -
- 初代監督。球団社長も務めた。2012年3月25日指定。
99:エレファンツ・ファン 2006年 - 2012年
- 2012年から投手の陳鴻文が使用。
- 統一ライオンズ
22:曽智偵(捕手)1999年 - 2008年
- 1999年3月20日指定。台湾を代表する名捕手で、監督を務めた後に45歳で現役復帰を果たす。2012年から投手の張志強が使用。
- 富邦ガーディアンズ
10:ブルズ・ファン - 2012年
- チーム名が興農ブルズから義大ライノズになり消滅した。
17:黄忠義(二塁手)2009年 - 2012年
- 球団、台湾球界を代表する二塁手。2009年制定。チーム名が興農ブルズから義大ライノズになり消滅した。
85:徐生明(監督)2013年 -
- 台湾史上初の700勝を挙げる名監督であったが、2013年前期優勝の後、後期の試合後に心筋梗塞で急逝。
野球ナショナルチームの永久欠番
- 野球中華民国代表
33:郭源治(投手)
- 1999年指定。中日ドラゴンズに所属しており、帰国後も台湾球界で活躍する。後に許銘傑、羅嘉仁らが使用。
- 野球アメリカ合衆国代表
41:マーク・マグワイア(一塁手)
- 野球プエルトリコ代表
21:ロベルト・クレメンテ(外野手)
22:ルーベン・ゴメス(投手)
30:オーランド・セペダ(一塁手)
- 野球ベネズエラ代表
11:ルイス・アパリシオ(遊撃手)
17:チコ・カラスケル(遊撃手)
脚注
^ 山本昌の34は、引退翌年に福敬登が着用し、欠番にはならなかった。
^ 中日新聞社 『中日ドラゴンズ70年史』 中日新聞社、2006年。ISBN 4-8062.-0514-1。32頁
^ “エースの象徴がたった1年で…ダル父 ハムの背番号“管理”疑問”. スポーツニッポン. (2012年12月10日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/10/kiji/K20121210004746600.html 2018年3月21日閲覧。
- ^ ab“ハム、大谷「11」は“半永久欠番” 次のスター登場まで空き番号”. スポーツニッポン. (2018年1月17日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/01/17/kiji/20180117s00001173053000c.html 2018年3月21日閲覧。
^ “広島が黒田背番号「15」半永久欠番に”. 日刊スポーツ. (2007年12月1日). http://hiroshima.nikkansports.com/baseball/professional/carp/p-rp-tp0-20071201-290023.html 2012年7月13日閲覧。
^ “広島が黒田「15」永久欠番発表 山本、衣笠に続く”. 日刊スポーツ. (2016年11月1日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1732380.html 2016年11月2日閲覧。
^ 西武の全選手、背番号24 故稲尾氏、球団初の永久欠番2012年7月4日 朝日新聞デジタル
^ 明治大学で主将を務めたため、主将の番号だった10番をという意向からだった。
^ 出典:広野功『広野功の楽天誕生秘話』。日刊ゲンダイ、2013年11月19日号、33面
^ 星野仙一さんの背番号「77」を永久欠番に,東北楽天ゴールデンイーグルス,2018年3月26日
^ 【楽天】星野仙一元監督の「77」を永久欠番に…今季着用ユニホームの左胸裏に星ロゴ,スポーツ報知,2018年3月26日
^ 背番号にまつわるエトセトラ『週刊ベースボール』2012年2月27日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20444-2/26, 31頁。
^ 金本「6」永久欠番見送り…「誰が付けてもいい」本人の意向尊重 Sponichi Annex 2012年10月29日
^ 阪神 金本前監督の背番号6来季欠番に 球団幹部「ふさわしい選手が出てくるまで」 Sponichi Annex 2018年11月13日
^ 【阪神】背番「31」15年ぶり欠番! 掛布DC自ら「2世」育てる - スポーツ報知、2013年11月11日付
^ スポーツニッポン2009年12月11日付
^ ドラ4島田、背番号は「53」 赤星二世に意欲「1つでも多く盗塁を」 デイリースポーツ online 2017年12月4日
^ 背番号は赤星氏の53 建山「お断りしたいと伝えたんですが…」 スポーツニッポン 2014年6月26日
- ^ ab西日本スポーツ2005年1月30日付、スポーツ報知2005年1月30日付
^ 【ソフトB】新助っ人スアレス、球団初あぶさんの「90」背負う! - スポーツ報知、2015年11月4日。
^ 26番目の戦士たち | 千葉ロッテマリーンズ
^ “【DeNA】引退・番長の背番号18は「横浜ナンバー」の準永久欠番に”. スポーツ報知. (2016年9月20日). http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160920-OHT1T50072.html 2016年10月26日閲覧。
^ 西日本スポーツ(野口正明『大下君ご苦労さん』)・西日本新聞・読売新聞。1960年3月2日。
^ 当時の西日本スポーツ(1968年1月21日)は、「広野の背番号は大型打者にふさわしく、大下弘選手(現東映監督)が(昭和)36年に引退してから、長い間欠番になっていた『3』に決まった」と報じているが、前述の大下の同意があったかは不明。
^ 中日、山本昌の背番号「34」を準永久欠番扱いしなかったことの是非 - THE PAGE(2015.12.12 12:00)
^ 【広島】バティスタ、新井の背番号「25」熱望 - スポーツ報知、2018年11月7日。
^ 大引、“ミスタースワローズ”背番号1を固辞「重みを尊重したい」 - サンケイスポーツ・2014年11月22日。
^ ヤクルト入りの大引 背番号は「2」 - スポニチアネックス・2014年11月23日。
^ 後年の文献・資料では「永久欠番」と記述している物も見受けられるが(ベースボール・マガジン社『週刊プロ野球データファイル』等)、引退表明を1面で大きく扱ったサンケイスポーツ(東京版・1983年11月10日付)の記事では「保留欠番」と記述されているため、本項もそれに従う。
^ 国鉄スワローズ時代の根来広光以後、捕手以外の27番は投手のロン・デービス(1989年)のみである。
^ 梶田主将「幸せな10年間」 - 読売新聞高知版2014年9月14日
^ FD・梶田宙選手の引退式にファン続々 - 高知新聞2014年9月14日
^ 10年目梶田が今季で引退 - 高知新聞2014年9月7日
^ 愛媛マンダリンパイレーツ球団初! 弓岡監督の背番号「77」を永久欠番に!!【チームからのお知らせ】 - 愛媛マンダリンパイレーツ(2016年11月21日)
^ MIKITO AED PROJECT - ベースボール・チャレンジ・リーグ
^ 杉山正己「野球少年のハートを守る」『練馬の印刷 (PDF) 』2008年1月号、東京都印刷工業組合練馬支部、p.12(記事中に掲載されている新聞記事に「地元のリーグチームも背番号「10」を永久欠番とし」とある)
^ “「ミキトAEDプロジェクト」協賛で公式戦 アルビBC、悲劇を繰り返さぬために”. 上越タイムス. (2017年7月22日). http://www.j-times.jp/news.php?seq=9177 2017年10月13日閲覧。
^ “【2015年新入団監督・ヘッドコーチ・新入団選手背番号及び既存選手背番号変更】”. 石川ミリオンスターズ (2015年2月9日). 2017年10月13日閲覧。
^ 背番号変更のお知らせ - 群馬ダイヤモンドペガサス(2015年3月7日)
^ 出場選手登録 (PDF) - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2015年4月13日)
- ^ ab2017年9月2日 - 石川ミリオンスターズ公式twitter
- ^ abcde永久欠番について - 兵庫ブルーサンダーズ(2016年12月28日)
^ 薬師神 真之選手 訃報のお知らせ - 兵庫ブルーサンダーズ(2016年9月1日)
^ 永久欠番について - 兵庫ブルーサンダーズ(2017年12月25日)
^ “創価大・田中正義、あるぞ史上初の12球団競合”. ニッカンスポーツ. (2015年12月31日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1586132.html 2016年10月22日閲覧。
^ “田中正義が背負う特別な背番号「15」”. デイリースポーツ. (2016年1月9日). http://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2016/01/09/0008709045.shtml 2016年10月22日閲覧。
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