ジャマイカ
- ジャマイカ
- Jamaica
(国旗)
(国章)
- 国の標語:Out of Many, One People
(英語: 多くの部族から一つの国民に)
国歌:ジャマイカ、我々の愛する地
公用語
英語
首都
キングストン
最大の都市
キングストン
- 政府
女王
エリザベス2世
総督
パトリック・アレン
首相
アンドリュー・ホルネス
- 面積
総計
10,991km2(160位)
水面積率
1.5%
- 人口
総計(2008年)
2,719,000人(136位)
人口密度
247人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年)
14,304億[1]ジャマイカ・ドル
- GDP (MER)
合計(2013年)
142億[1]ドル(120位)
- GDP (PPP)
合計(2013年)
236億[1]ドル(130位)
1人あたり
8,487[1]ドル
独立
- 日付
イギリスより
1962年8月6日
通貨
ジャマイカ・ドル (JMD)
時間帯
UTC -5(DST:なし)
ISO 3166-1
JM / JAM
ccTLD
.jm
国際電話番号
1-876
ジャマイカ(英語: Jamaica 英語発音: [dʒəˈmeɪkə] ( 音声ファイル))は、中央アメリカ、カリブ海の大アンティル諸島に位置する立憲君主制国家であり、英連邦王国の一国である。島国であり、北にはキューバとケイマン諸島が、東にはジャマイカ海峡を隔ててイスパニョーラ島に位置するハイチとドミニカ共和国が存在する。首都はキングストン。
イギリス連邦加盟国のひとつ。アメリカ、カナダに続き、アメリカ州で三番目に英語の話者が多い国でもある。
目次
1 国名
2 歴史
2.1 アラワク
2.2 スペイン統治時代
2.3 イギリス統治時代
2.4 西インド連邦〜独立
3 政治
4 軍事
5 地方行政区分
5.1 主要都市
6 地理
7 経済
8 国民
8.1 言語
8.2 宗教
8.3 教育
8.4 治安
8.5 ジャマイカ人移民
9 文化
9.1 文学
9.2 音楽
9.3 映画
9.4 スポーツ
9.5 ジャマイカの食品
9.6 世界遺産
9.7 祝祭日
10 脚註
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
国名
正式名称は、Jamaica(英語での発音はあえてカタカナ転記するならジャメイカに近い)。
日本語の表記は、ジャマイカ。
国名は、先住民だったアラワク人の言葉Xaymaca(ザイマカ)に因む。この言葉は、木と水の地あるいは泉の地を意味する。当初スペイン植民地となった際にスペイン語でJamaica(ハマイカ)と綴られ、後にイギリス植民地になると綴りは変えられずに読みだけが英語読みになり、Jamaica(ジャメイカ)と呼ばれるようになった。ジャマイカ英語ではJameeka、ジャマイカ・クレオール語ではJamieka、Jomieka、Jumiekaなどと呼ばれる[2]。
歴史
アラワク
ヨーロッパ人の到来する前のジャマイカには、南米のギアナ地方から渡ってきたとされるアラワク系のタイノ人や、カリブ人が存在していた。
スペイン統治時代
1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を「発見」すると、多くのヨーロッパ人がジャマイカを訪れた。1494年にはコロンブス自身が第二回航海において、ジャマイカ島を「発見」した。その後1509年にスペイン領となった。スペインはこの地にサトウキビのプランテーションを設置して、アラワク族を容赦なく酷使したため、その数が著しく減少した。スペインは西アフリカから黒人奴隷の輸入によって労働力を確保した。
しかし1655年、イギリス護国卿オリヴァー・クロムウェルの命を受けてのイスパニョーラ島攻略に失敗したイギリス海軍提督ペン(アメリカ合衆国のペンシルベニア州を創設したウィリアム・ペンの父)とベナブルズ将軍が、残存兵力を率いてジャマイカに侵攻し、ほぼ無血でこの島を占領した。
イギリス統治時代
1670年にマドリード条約によって正式にイギリス領になった。イギリスは港町ポートロイヤルを首府とし、ジャマイカにはイギリス海軍の司令部が置かれ、海賊や私掠船の母港となった。1692年の大地震で町が倒壊したため、北のキングストンに首府が移った。さらにイギリスはジャマイカを拠点にしてカリブ海への影響力を強め、ミスキート族の王国、モスキート海岸(現ニカラグア、ホンジュラス)や、英領ホンジュラス(現ベリーズ)がイギリス領になったのもジャマイカからの圧力のためであった。
黒人奴隷や逃亡黒人(ジャマイカのマルーン)の反乱(1731年の第1次マルーン戦争、1795年の第2次マルーン戦争)は長い間続き、コロマンティ(アカン族の黒人奴隷)が蜂起したタッキーの反乱(1760年)なども起こり、ハイチ革命(1791年 - 1804年)の際にはトゥーサン・ルーヴェルチュールによるジャマイカ侵攻の可能性もあったが、結局は実行されなかった。ラテンアメリカ諸国の独立時にも白人支配層によってジャマイカが独立するような動きは存在しなかった。バプテスト戦争(1831年 - 1832年)は奴隷制度廃止法案 (1833年)の成立に大きな影響を与えた。1865年には英国の支配に対する大規模な黒人の反乱が起き、総督エアは召喚されてジャマイカは英国の直轄領となった(ジャマイカ事件、Morant Bay rebellion)。
西インド連邦〜独立
1938年にジャマイカ労働党(JLP)が設立され、1958年から1961年まで西インド連邦が樹立された。1959年にはイギリスから自治権を獲得し、1962年にイギリス連邦加盟国として独立(ジャマイカの独立)。なお、独自の元首を持たず、イギリス国王を元首とした(英連邦王国)。その後、保守のジャマイカ労働党と非同盟・民主社会主義政党の人民国家党が交互に政権に携わっている。近年は親米路線を踏襲している。
政治
政治体制はジャマイカ国王を国家元首とする立憲君主制。英連邦王国のため、ジャマイカ国王の地位は名目的にイギリス国王と同一人物となっており、首相の推薦に基づき国王が任命する総督がその権限を代行する。前首相ポーシャ・シンプソン=ミラーは就任翌日の2012年1月6日、独立50周年である2012年中に独自の大統領を置き、共和制に移行する計画を発表した[3]。
パトリック・アレン総督が国家元首を国王から非常勤の大統領に変更する憲法の修正を2016年4月16日までに議会に提案した[4]。
議院内閣制のジャマイカでは、行政府の長たる首相が政治の実権を握る。総選挙の結果、下院で第一党となった政党の党首が総督によって首相に任命される。閣僚は首相の助言に基づき総督が任命する。
立法権を有する議会は両院制である。上院は全21議席。首相が13人を、下院の野党党首が8人を推薦し、総督が任命する。下院は、全63議席。議員は国民の選挙によって選出される。上下院とも任期は5年[5]。
ジャマイカの政党には自治権の拡大と民主社会主義を掲げる人民国家党(PNP)と労働条件の改善など現実的な社会改革を求める保守中道のジャマイカ労働党(JLP)があり、二大政党となっている。ほかに国民民主運動、統一人民党なども存在する。
軍事
ジャマイカ国防軍は約2,800人(総人口の0.1%)の兵力規模で、ジャマイカ連隊を基幹に小規模な沿岸警備隊と航空団を有している。近年は麻薬密輸や凶悪犯罪対策のために警察支援活動を実施している。
地方行政区分
ジャマイカは、3つの郡 (county) に分割され、さらに14の行政教区 (Parish) に分かれる。
コーンウォール郡(西部)は以下の行政教区を含む。
ハノーバー教区 Hanover
セント・エリザベス教区 Saint Elizabeth
セント・ジェームズ教区 Saint James
トレローニー教区 Trelawny
ウェストモアランド教区 Westmoreland
ミドルセックス郡(中部)は以下の行政教区を含む。
クラレンドン教区 Clarendon
マンチェスター教区 Manchester
セント・アン教区 Saint Ann
セント・キャサリン教区 Saint Catherine
セント・メアリー教区 Saint Mary
サリー郡(東部)は以下の行政教区を含む。
キングストン教区 Kingston
ポートランド教区 Portland
セント・アンドリュー教区 Saint Andrew
セント・トーマス教区 Saint Thomas
主要都市
- キングストン
- モンテゴ・ベイ
- ポート・アントニオ
- オーチョ・リオス
- ネグリル
地理
ジャマイカは大アンティル諸島で三番目に大きい島であり、キューバから 160km 南に位置する、面積 10,991km2 と岐阜県ほどの広さの島国である。山がちな島で中央部には山脈が連なり、国内最高峰は首都キングストンの東部近郊にあるブルー・マウンテン山脈のブルーマウンテン山(2256m)である。ジョン・クロウ山脈(1143m)はブルーマウンテン山脈のすぐ付近にあり、ブルーマウンテン山脈と共にブルー・アンド・ジョン・クロウ・マウンテンズ国立公園を構成している。モチョ山脈、ドライハーバー山脈などの山脈や、コクピット・カントリーの様な緑に覆われた山岳地帯もある。120にも及ぶ川が流れ、島は緑豊かな熱帯雨林に覆われた島である。本島から南、約50km から70km 離れた無人の珊瑚礁ペドロ諸島とモラント諸島はジャマイカ属領である。
モンテゴ・ベイの付近の海はモンテゴ・ベイ海洋公園となっている。メイ・ペンの南方の海岸付近のアリゲーター・ホール(Alligator Hole)と言うマングローブの湿地にはワニも生息している。
ジャマイカの気候は熱帯で暑く、湿っているが、内陸部ではやや穏やかな気候になる。南岸のリグアニア平原とペドロ平原のような地域では相対的に乾燥した雨陰の地域となる。ジャマイカは大西洋のハリケーン・ベルトに位置しており、そのためにかなりの被害を受けることがある。1951年のチャーリーと1988年のギルバートがジャマイカを直撃し、多くの被害と死者を出した。2000年代にはアイヴァンとディーンが、2010年代にはサンディが島に厳しい天候をもたらした。
経済
IMFによれば、2017年のジャマイカのGDPは147.7億ドル、一人当たりのGDPは5,109ドルで、高中進国に分類される[1]。経済成長率 は わずか1%台で推移し、今後も微増が続く見込みである
OECDによれば、2009年の失業率は14.5%、特に24歳以下の若年層では3割超と、世界で最も高い水準にある。
鉱業がジャマイカの経済を支えていると言える。ボーキサイトは世界第4位の生産量(1312万トン、2002年)である。ボーキサイト以外の鉱物資源は金、塩のみである。
農業には2002年時点で人口の10%が従事する。一人当たりの耕地面積は1.1haである。気候条件により、主食作物の栽培はサツマイモ(2万5000トン)、ついでキャッサバに偏っている。商品作物ではココナッツ、バナナである。畜産業はニワトリ、ヤギ、ついでウシを対象とする。高級コーヒー豆として有名なブルーマウンテンの80%は日本に輸出されている。コーヒー豆の生産は3000トンに留まり、世界生産量の0.04%に過ぎない。工業は食品工業、繊維業に偏る。
観光も主要産業で、モンテゴ・ベイやオーチョ・リオスなどは、有名なリゾート地である。しかし、犯罪が多いため周囲に壁やフェンスを張りめぐられたリゾート施設が増えてきている。ほか、軽工業とアメリカ企業へのデータの電算機処理は成長部門である。
国民
先住民のアラワク人は、他の多くのインディヘナと同じようにヨーロッパから持ち込まれた疫病に対して免疫力が無く、植民地時代に絶滅した。
その後、砂糖プランテーションを支えるための労働力として、西アフリカから奴隷として連れてこられたアフリカ系の諸部族民が住民となった。現在の国民は、アフリカ系が大部分(90.9%)を占め、インド系1.3%、白人0.2%、中国系0.2%、ムラート7.3%である。現在は中国、南アジア、コロンビア、及びその他のカリブ海諸国から移民が流入している。
20世紀の後半に大規模な製糖業が行われたが、労働力不足のためインド人(印僑)や中国人(多くは客家人)の季節労働者がジャマイカに集まった。このため、現在のような多人種国家ができあがった。国家のモットーは「One Out Of Many」(多くの部族から一つの国民に)である。
言語
イギリスの旧植民地だったこともあり、公用語はイギリス英語である。日本で出版されているガイドブックなどでは『ジャマイカではパトワ語が話されている』という記述を見ることがあるかもしれないが、そもそもパトワという名前はカリブ海諸国におけるヨーロッパ言語のクレオール語の総称であり、ジャマイカの起伏が激しい地形も手伝って地域色も色濃い為必ずしも正しいとは言えない。なお、「ジャマイカ英語」は英語の方言の一つであり、クレオール言語であるパトワ語とは異なる。
ジャマイカのパトワにはrとl、bとvの区別をしない、ThatやThinkをDat,Tinkと発音するなど発音面での簡略化が見られる。またこれらの変化はパトワを表記する際にも現れることがある。パトワの語彙の中には英語だけでなくフランス語、スペイン語、ポルトガル語、アジアの諸言語(ヒンディー語、客家語)先住民の言語(アラワク語)なども混じっているが、英語以外の全ての要素を併せたよりもアフリカの諸言語(アカン語、イウェ語、ヨルバ語)の影響の方が多い。
しかしジャマイカ人は学校で標準英語の訓練を受けているため、英語が話せればジャマイカ人とのコミュニケーションで困ることはない。地名には、スペインの植民地時代を反映して、オーチョ・リオスなど、スペイン系の地名も多い。
宗教
宗教はプロテスタントが 61.3%、ローマ・カトリックが4%、その他(ラスタファリ運動、イスラム教、ユダヤ教、無宗教者を含む)が34.7%である。ジャマイカのプロテスタントはヴードゥー教やサンテリアのように、ジャマイカで独自のアフリカ的発展を遂げたものもある。
その他の非キリスト教としては、バハーイー教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教などがある。ユダヤ人の数は200人程と少ない。ジャマイカのユダヤ人は、15世紀にスペイン、ポルトガルで迫害されていたユダヤ人にルーツを持つ。
教育
6歳から11歳までが義務教育期間となっている。2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.9%である[6]。
主な高等教育機関としては西インド諸島大学(1948年)、ジャマイカ工科大学(1958年)、北カリブ大学(1919年)などが挙げられる。
治安
特にキングストン市では殺人、強盗などの凶悪犯罪の発生率が高い[7]。2009年の殺人事件は1660件であるなど[8]、ジャマイカは長年に渡って世界で最も殺人事件発生率の高い国の一つであり[7]、国連の調査によると、大抵コロンビア、南アフリカ共和国に次いで世界第三位となる。警察による殺人も多く[7]、2010年にアルジャジーラが放送したドキュメンタリー番組「PEOPLE & POWER Island of music and murder」によると、2010年1月 - 4月間だけで警察による一般市民への銃撃は83件であり[9]、2000年から2009年の10年間に1900人以上が警察に殺害されている[7][10]。2010年6月には麻薬王クリストファー・コークの逮捕を巡り、軍・警察とキングストン・チボリガーデン地区の住民及びギャングとの間で激しい銃撃戦が起き、乳幼児を含む76名が死亡するなど[11][12]、ギャングや政党間の闘争も苛烈である。
ジャマイカ人移民
過去数十年の間に多くのジャマイカ人が、主にイギリス、アメリカ合衆国、カナダに移住した。これらの移民は最近では数が少なくなっている。しかし、海外に居住する膨大な数のジャマイカ人は「ジャマイカ人のディアスポラ」として知られるようになった。また、キューバへのジャマイカ人の移民もあった。[13]
海外に居住するジャマイカ人の集住はニューヨーク市、バッファロー、マイアミ大都市圏、オーランド、タンパ、ワシントンD.C.、フィラデルフィア、ハートフォード、ロサンゼルスといった合衆国の諸都市で多い。カナダではジャマイカ人はトロントに集中しており、モントリオールやオタワにも小さなコミュニティがある。イギリスでは、多くの都市にジャマイカ人のコミュニティがあり、そこで彼らはブリティッシュ・カリビアン共同体の大部分を占めている。
文化
文学
イギリスの作家イアン・フレミングはジャマイカに住んでいたことがあり、『007ジェームズ・ボンド』にはジャマイカから着想を得た話がある。セント・ルシア出身のノーベル賞作家デレック・ウォルコットは西インド諸島大学で学んだ。
ジャマイカ出身の作家としてはクロード・マッケイやルイス・シンプソンが挙げられる。
音楽
スカ以前においてメントはトリニダード・トバゴのカリプソと混同されながらも1950年代にアメリカ市場で成功し、ジャマイカ音楽の世界での成功の基盤を築いた。
1960年代初頭にジャズなどのアメリカ合衆国のポピュラー音楽の影響を受けてスカが誕生し、その後ロックステディを経て、1960年代後半にレゲエが誕生し、ダブやダンスホール・レゲエ、ラガマフィンなどの音楽ジャンルが生まれた。1970年代のボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの世界的ヒット以降、レゲエとそのサブジャンルは世界的に認知を広げ、各地のポピュラー音楽に対して影響を与えている[14]。
映画
ジャマイカ映画の知名度は高くはないが、キングストンのトレンチタウンでレゲエの生まれた時期を取り扱った『ハーダー・ゼイ・カム』(1972年)はジャマイカ初の長編映画として有名である。
スポーツ
国技はクリケットである。他にサッカー、競馬も盛んである。サッカーは国内リーグがあり、サッカージャマイカ代表は1998 FIFAワールドカップに出場、グループリーグで日本と対戦し、2-1で大会初勝利をあげた。また、2000年代に入るとスプリント競技において、義務教育からの徹底した訓練と国による助成で人材の海外流出に歯止めがかかり[15]、100メートル競走、200メートル競走と400メートルリレー走世界記録保持者のウサイン・ボルト、及び100メートル競走前世界記録保持者のアサファ・パウエルらを輩出した。
ウィンタースポーツとしては、1988年のカルガリー冬季オリンピックに出場して以来ボブスレーが盛んであり、1993年には同五輪出場時のエピソードを元にした『クール・ランニング』という映画が製作された。
ジャマイカの食品
ジャマイカでの調理方法は、主として、アフリカなど、英国、中国、インド、スペイン、アイルランド、スコットランド、マルーン、その他の多くの異なった文化の影響を受けている。
世界遺産
2015年の第39回世界遺産委員会終了時点で、ジャマイカにはUNESCOの世界遺産リストに登録された物件が1件ある。
- ブルー・アンド・ジョン・クロウ・マウンテンズ
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | New Year's Day | |
2月21日 | 灰の水曜日 | Ash Wednesday | |
4月5日 - 10日 | 復活祭 | Easter | |
5月23日 | 労働者の日 | Labour Day | |
8月1日 | 解放記念日 | Emancipation Day | 英領西インド諸島における1833年の黒人奴隷解放の日 |
8月6日 | 独立記念日 | Independence Day | |
10月16日 | 国民的英雄の日 | National Hero's Day | |
12月25日 | クリスマス | Christmas Day | |
12月26日 | ボクシング・デー | Boxing Day |
脚註
- ^ abcde“World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2015年1月2日閲覧。
^ Jumieka Langwij: Aatagrafi/Jamaican Language: Orthography Jumieka Langwij/Jamaican Language
^ Jamaica to become a republic, prime minister pledges ガーディアン、2012年1月6日、2012年1月8日閲覧
^ “「エリザベス女王を国家元首から外す」、ジャマイカ総督が提案”. CNN. (2016年4月16日). http://www.cnn.co.jp/world/35081305.html 2016年4月16日閲覧。
^ 「ジャマイカ」『世界年鑑2016』(共同通信社、2016年)357頁。
^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/jm.html 2009年3月30日閲覧
- ^ abcd"PEOPLE & POWER Island of music and murder" - english.aljazeera.net、2010年4月28日、2010年5月1日閲覧。
^ Jamaica stand-off highlights links between ruling party and drug gang - インデペンデント、2010年5月26日、2010年6月1日閲覧。
^ "Al Jazeera Turns Spotlight On Jamaican Police Killings" - jamaica-gleaner.com、2010年4月30日、2010年5月1日閲覧。
^ "Al Jazeera calls Jamaica the island of music and murder" - Jamaica Observer、2010年4月30日、2010年5月1日閲覧。
^ ジャマイカのコーク被告引き渡し、ニューヨークに到着 - CNN、2010年06月25日、2010年7月8日閲覧。
^ "Toll from crackdown on Jamaica slum climbs to 73" Reuters, 27 May 2010.
^ Jamaicans to Cuba
^ 北中 (2007, p.28)
^ 1990年代まではジャマイカ出身のスプリンターが他国に帰化することは珍しいことではなかった。リンフォード・クリスティ (イギリス国籍)、マリーン・オッティ (スロベニア国籍)、ベン・ジョンソン (カナダ国籍)、ドノバン・ベイリー (カナダ国籍)らはジャマイカ出身である。
参考文献
- 二村久則、野田隆、牛田千鶴、志柿光浩 『ラテンアメリカ現代史III』 山川出版社〈世界現代史35〉、東京、2006年4月。ISBN 4-634-42350-2。
- 福井英一郎編 『ラテンアメリカII』 朝倉書店〈世界地理15〉、東京、1978年。
ステファニー・ブラック監督『ジャマイカ楽園の真実』LIFE&DEBT、2001年[DVD発売日は2005年12月]。- 北中正和監修 『世界は音楽でできている―中南米・北米・アフリカ編―』 音楽出版社、2007年。ISBN 978-4861710261。2010年8月26日閲覧。
関連項目
- ジャマイカ人の一覧
外部リンク
- 政府
ジャマイカ内閣 (英語)
在日ジャマイカ大使館 (日本語)
- 日本政府
日本外務省 - ジャマイカ (日本語)
在ジャマイカ日本国大使館 (日本語)
- 観光
ジャマイカ政府観光局 (日本語)
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