8世紀
千年紀: | 1千年紀 |
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世紀: | 7世紀 - 8世紀 - 9世紀 |
十年紀: | 700年代 710年代 720年代 730年代 740年代 750年代 760年代 770年代 780年代 790年代 |
8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。
目次
1 できごと
1.1 700年代
1.2 710年代
1.3 720年代
1.4 730年代
1.5 740年代
1.6 750年代
1.7 760年代
1.8 770年代
1.9 780年代
1.10 790年代
1.11 800年代
2 時代の動向
2.1 東アジア
2.1.1 大陸
2.1.2 朝鮮半島
2.1.3 日本
2.2 西アジア
2.3 南アジア
2.4 東南アジア
2.5 ヨーロッパ
3 伝説・フィクションのできごと
4 人物
4.1 東アジア
4.1.1 唐
4.1.2 渤海
4.1.3 日本
4.2 南アジア・チベット・東南アジア
4.3 イスラム世界
4.3.1 ウマイヤ朝
4.3.2 後ウマイヤ朝
4.3.3 アッバース朝
4.3.4 思想家・学者
4.4 中央アジア
4.5 キリスト教世界
4.5.1 フランク王国
4.5.2 イタリア
4.5.3 東ローマ帝国と東方正教圏
4.5.4 イベリア半島
4.5.5 イングランド
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
できごと
700年代
詳細は「700年代」を参照
701年
大宝律令の撰定が完成する。刑部皇子・藤原不比等らに禄を賜う。
則天武后の命により中宗の嫡男李重潤(懿徳太子)・七女永泰公主らを処刑する。
702年
- 第八次遣唐使が派遣され、執節使粟田真人が則天武后に謁見する。
- この遣唐使は663年以来40年ぶりのもので、「倭」に代わる国名「日本」を承認させる目的もあった。
- 第八次遣唐使が派遣され、執節使粟田真人が則天武后に謁見する。
703年
- 持統太上天皇死去、天皇経験者として最初の火葬にされる。
705年
- 則天武后が死去し、復位した中宗により唐が再興される(神龍革命)。
ウマイヤ朝カリフのワリード1世によりダマスクスのウマイヤド・モスクが完成する。- 東ローマ皇帝ユスティニアノス2世がティベリオス3世を打倒し復位を果たす。
706年頃 - 真臘が北部の陸真臘と、南部の水真臘とに分離する。
707年 - 文武天皇が死去し、第43代元明天皇即位する。
708年
和同開珎鋳造。- アヴランシュのオベールがモン・トンブ山に礼拝堂を建てる(モン・サン=ミシェル修道院の始まり)。
710年代
詳細は「710年代」を参照
710年
平城京へ遷都。奈良時代はじまる。- 唐で韋后排斥の政変により睿宗が復位。この功績で李隆基が皇太子となる。
- 涼州に最初の節度使である河西節度使が設置される。
- 710年頃 - ブルガリアのマダラの騎士像が作られる。
711年
ウマイヤ朝がグアダレーテの戦いで西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島を占領。- 東ローマ皇帝ユスティニアノス2世が殺害され、ヘラクレイオス朝が断絶する。
- ウマイヤ朝のムハンマド・ビン・カーシムがシンド地方(現パキスタン)を征服する。
712年
太安万侶が『古事記』を撰上する。- 唐で李隆基が玄宗として即位。唐は最盛期を迎える(開元の治)。
- ウマイヤ朝のクタイバ・イブン・ムスリムがサマルカンドを占領し、マー・ワラー・アンナフル全域の征服完了。
713年
- 諸国に『風土記』の編纂を命ずる。
- 唐の玄宗が太平公主一派を倒す。
- 四川の楽山大仏の建設が始まる( - 803年)。
- 震国が国号を渤海と改称。
714年
- 『続日本紀』に奄美・信覚・球美などの人々が来朝したとされる。
- 唐で最初の市舶司が広州に設置される。
715年 - 元明天皇が譲位し、第44代元正天皇が即位する。
717年 - テマ・アナトリコン長官であったレオーン3世が東ローマ皇帝に即位し、イサウリア朝を開く。
718年 - 東ローマ皇帝レオーン3世がコンスタンティノポリスを包囲したウマイヤ朝軍を撃退する。
720年代
詳細は「720年代」を参照
720年 - 『日本書紀』完成。舎人親王が『日本紀』30卷・系図1卷を撰上する。
722年 - コバドンガの戦いでペラーヨがイスラム勢力からアストゥリアスを奪回(最初のレコンキスタ)。
722年頃 - 新羅人僧慧超がインドに渡る( - 727年)。
723年
- 田地開墾のため三世一身法を施行する。太安万侶没する。
- ウマイヤ朝ヤズィード2世がキリスト教徒の聖画像を禁止する。
724年
- 元正天皇が譲位し、第45代聖武天皇(首皇子)が即位する。
- ウマイヤ朝カリフのヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクが即位( - 743年)。
- ウマイヤ朝最後の安定期をもたらし、モザイク床遺跡で知られるヒシャーム宮殿を建設。
- ピルミニウスによりボーデン湖(コンスタンツ湖)の島にライヒェナウ修道院が創設される。
726年 - 東ローマ皇帝レオーン3世が聖像禁止令を公布(イコノクラスム(聖像破壊運動)の始まり)。
727年 - 渤海国王大武芸が高仁義らを日本に派遣(第一回渤海使)。翌年には日本から遣渤海使が送られる。
728年 - ローマ教皇グレゴリウス2世とランゴバルド王リウトプランドの領土寄進に関する合意がなされる(「スートリの寄進」)。
729年 - 長屋王の変。
730年代
詳細は「730年代」を参照
730年
- 東ローマ皇帝レオーン3世がイコン擁護派のコンスタンティノポリス総主教ゲルマノス1世を罷免する。
732年
トゥール・ポワティエ間の戦いで、カール・マルテル率いるフランク王国軍がウマイヤ朝軍を破る。
- この戦いと、718年の東ローマ帝国の勝利により、キリスト教世界はイスラム帝国の進撃を止めることに成功。
オルホン川流域のホショ・ツァイダムに東突厥のキュル・テギンの碑文が建てられる。- 東ローマ皇帝レオーン3世がイリュリクムの裁治権をローマ教皇からコンスタンティノポリス総主教に移管する。
- 東ローマ皇帝レオーン3世の息子(後の皇帝コンスタンティノス5世)がハザール王女チチャク(エイレーネー)と結婚。
734年
遣唐使留学生井真成36歳で長安で没する。
- その2005年4月に発見された墓誌には、玄宗皇帝から官位授与や「国号日本」も記録されている。「日本」表記の現存資料としては最古。
- ボールンの戦いで、フランク王国がフリースラント王国を征服。
735年 - オルホン川流域のホショ・ツァイダムに東突厥のビルゲ・カガンの碑文が建てられる。
738年
- 唐が皮羅閣を雲南王に冊封し南詔が建国される。
- 唐の玄宗が翰林学士院を設置する。
キリグア王カック・ティリウが反乱を起こし、コパン王を斬首してマヤ地域の覇権を握る。
740年代
詳細は「740年代」を参照
740年
藤原広嗣の乱。- アクロイノンの戦いで東ローマ帝国がウマイヤ朝に勝利し、小アジアの確保に成功。
740年 - クーファのシーア派によるザイド・ブン・アリーの乱。
741年
- 東ローマ皇帝レオーン3世により「ローマ法大全」を改訂した「エクロゲー(ギリシア語法選集)」が出される(726年説もある)。
- 聖武天皇の国分寺建立の詔。
742年 - 突騎施の莫賀達干が十姓可汗(阿史那昕)を殺害し西突厥を滅ぼす。
743年 - 墾田永年私財法を施行。大仏建立の詔が出される。
744年 - ザクセン人への宣教のためフルダ修道院が設立される。
745年
- 唐の玄宗が楊太真を貴妃とする(楊貴妃)。
大秦国(東ローマ帝国)からネストリウス派聖職者の佶和(ゲワルギス)が長安に来訪し玄宗に謁見する。
回鶻(ウイグル)の懐仁可汗が白眉可汗(鶻隴匐)を殺害し東突厥を滅ぼす。
746年 - カンスタットの血の宮廷。
749年
陸奥国司百済王敬福が朝廷に黄金を献上(日本での産金の最古の記録)。- 東大寺大仏造営にあたり宇佐八幡宮より八幡神が勧請され手向山八幡宮が創建される。
- 聖武天皇が譲位し、第46代孝謙天皇即位する。
- アブー・アル=アッバース(サッファーフ)がイラクのクーファでアッバース朝を建てる。
750年代
詳細は「750年代」を参照
- 750年 - ザーブ河畔の戦いで、アッバース朝がウマイヤ朝残党に勝利する。
- アッバース朝初代宰相(ワズィール)アブー・サラマが暗殺され、以後シーア派の粛清が続く。
- 750年頃 - ベンガル地方にパーラ朝が成立。
751年
- 唐の高仙芝が中央アジアに遠征し、タラス河畔でアッバース朝に敗れる(タラス河畔の戦い)。
ランゴバルド王アイストゥルフが東ローマ帝国のラヴェンナ総督府を占領。- フランク王国でソワソン会議によりメロヴィング朝のキルデリク3世が廃位される。
カール・マルテルの子ピピン3世(小ピピン)が国王に選出され、カロリング朝が成立する。
- 新羅の宰相金大城が都の慶州に石窟庵と仏国寺を建立。
752年 - 東大寺大仏の開眼供養が行われる。
753年
- 唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争う。
- 唐僧の鑑真が日本に着く。阿倍仲麻呂は難破して安南に漂着し日本に帰れず。
ダンティドゥルガが前期チャールキヤ朝を滅ぼしラーシュトラクータ朝を興す。
- 754年
- ヒエレイア教会会議で聖像破壊論者が聖像崇敬を断罪する。
教皇ステファヌス3世とフランク王ピピン3世とのポンティオンの会見。- 宣教師ボニファティウスがフリースラントのドックムで殉教する。
- イスラム支配下のスペインで『754年のモサラベ年代記』が執筆される。
755年
- 唐で安史の乱が起こる(- 763年)。
- 渤海国王大欽茂が中京顕徳府から上京龍泉府に遷都。
- アッバース朝建国の功臣アブー・ムスリムがカリフ・マンスールに処刑される。
756年
安禄山が洛陽で大燕皇帝を名乗る。- 唐の玄宗が長安から出奔。馬嵬にて楊国忠・楊貴妃を処刑。玄宗に代わり粛宗が霊武にて即位。
- 聖武太上天皇死去。聖武太上天皇の七七忌に当たり、東大寺に遺品を施入したのが正倉院の始まり。
- フランク王ピピン3世がラヴェンナを含む北イタリアをランゴバルドから奪う。
- これらの領土は教皇ステファヌス3世に寄進され(「ピピンの寄進」)、ローマ教皇領の始まりとなる。
- ウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世がムサラの戦いで勝利し、コルドバでアミールを名乗る。
- これにより後ウマイヤ朝がイベリア半島で独立し、イスラム帝国は分裂する。
- ラシュトラクータ朝のクリシュナ1世が即位。
- この王のもとでエローラ石窟のカイラーサナータ寺院が建造される。
- コンカン地方ムンバイ近郊ガーラープリー島エレファンタ石窟群もこの時代までに整備される。
757年
- イスラム世界で最初の製紙工場がサマルカンドに設立される。
- 安禄山が安慶緒に殺害される。唐とウイグルの連合軍が長安を奪回。
- 孝謙天皇が道祖王を廃太子として大炊王を皇太子とする。橘奈良麻呂の変。
758年
- 孝謙天皇が譲位し、第47代淳仁天皇が即位する。
- 唐の塩鉄使の第五琦が塩の専売制を行う。
759年
- 安慶緒が史思明に殺害される。
- フランク王ピピン3世がナルボンヌを奪回し、南フランスからイスラム教徒を放逐。
- 鑑真により唐招提寺が創建される。
- 『万葉集』に採録された最も年代の新しい大伴家持の和歌が詠まれる。この年以降に『万葉集』が成立する。
760年代
詳細は「760年代」を参照
760年 - 揚州大虐殺。
761年 - 史思明が史朝義に殺害される。
761年頃 - カウィール・チャン・キニチがドス・ピラスを放棄し、アグアテカに遷都する。
762年
回鶻(ウイグル)の牟羽可汗がマニ教を受容する。- アッバース朝のカリフ・マンスールがハーシミーヤからバグダードに遷都。
- 唐で玄宗と粛宗が相次いで死去。粛宗の張皇后と宦官李輔国を倒した宦官程元振が実権を握る。
763年 - 史朝義が自殺し、安史の乱が終結する。吐蕃が一時的に唐の長安を占領する。
764年
- 僕固懐恩の乱( - 765年)。
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)。
- 乱を鎮圧した孝謙上皇が重祚して、第48代称徳天皇となり、淳仁天皇を廃して淡路国に配流とする。
765年
- 道鏡が太政大臣禅師となる。称徳天皇の発願で大和西大寺が創建される。
- この年の年号(神護元年)の木簡で式部省大学寮のペルシア人官僚破斯清通の名が記されていたものが平城宮跡から出土している。
766年 - 道鏡が法王になる。
767年 - シャイレーンドラ朝軍が北ベトナムの安南都護府を攻撃する。
768年
- フランク王ピピンが死去、息子のカールとカールマンが共同のフランク王に即位する。
藤原永手が鹿島・香取・枚岡各社の祭神を勧請し春日大社を創建。
宇佐八幡宮神託事件で和気清麻呂が大隅国に流罪となる。
770年代
詳細は「770年代」を参照
770年
- 称徳天皇の命で法隆寺など有力寺院に百万塔陀羅尼が奉納される。
- 称徳天皇が没し、第49代光仁天皇が即位する。道鏡を下野国に配流する。
- 光仁天皇の皇后井上内親王と皇太子他戸親王が廃される。
771年 - カールマンの死去によりカールがフランク単独の王となる。
772年 - フランク王カールによるザクセン戦争( - 804年)。
774年 - フランク王カールがランゴバルド王国を滅ぼす。都パヴィアを制圧し「ランゴバルドの鉄王冠」を取得。
775年
- 東ローマ皇帝コンスタンティノス5世コプロニュモスが死去し、レオーン4世ハザロスが皇帝に即位(在位775-780年)。
- 吐蕃王ティソン・デツェンがサムイェー寺を建設する。
776年 - ムカンナーの反乱( - 783年)。
776年頃 - ハワーリジュ派系イバード派によりアルジェリアにルスタム朝が成立する。
777年 - 唐の宰相元載が皇帝代宗の命で誅殺される。
778年 - スペイン遠征中のフランク王国軍がバスク人とのロンスヴォーの戦いで敗退する。
- この事件がもととなり後に『ローランの歌』が作られる。
779年
- フランク王カールによるヘルスタル勅令。
- この法令によりフランク王国のキリスト教徒は教会に十分の一税を納めることが定められる。
- 回鶻(ウイグル)の牟羽可汗が殺害され、宰相の頓莫賀達干が合骨咄禄毘伽可汗として即位、マニ教は弾圧される。
- フランク王カールによるヘルスタル勅令。
780年代
詳細は「780年代」を参照
780年 - 唐の宰相楊炎の建議により租庸調制から両税制へ税制を移行。
780年頃 - インドネシアのシャイレーンドラ朝がボロブドゥールの建設を始める。
781年
- 唐の徳宗の抑圧策により河朔三鎮・河南二鎮の節度使(藩鎮)が反乱を起こす。
- 中央アジア出身の伊斯が長安の大秦寺に「大秦景教流行中国碑」を建立。
- 光仁天皇が病気のため譲位し、桓武天皇が即位する。
782年
- フランク王国の宮廷学校にヨーク出身のアルクィンが招かれる(カロリング・ルネサンスの始まり)。
氷上川継の乱。
783年 - 唐で朱泚の乱が起こり、皇帝徳宗が長安から逃亡。
- この時期に何家村の宝物が埋蔵されたか(何家村唐代窖藏)。
784年 - 長岡京に遷都。
785年
- 長岡京建設の責任者藤原種継が暗殺される。
- この事件で桓武天皇の弟で皇太子の早良親王が流罪となるがその途上で憤死。
- 唐の徳宗の命で楊良瑶がアッバース朝に派遣される。
- 長岡京建設の責任者藤原種継が暗殺される。
786年
- アッバース朝でハールーン・アッ=ラシードがカリフとなる( - 809年)(アッバース朝の最盛期)。
- フランク王カールがアーヘン大聖堂の建設に着手。
787年 - 第2ニカイア公会議でキリスト教会での聖像使用の教義が確認される。
788年
最澄が一乗止観院を建てる(後の比叡山延暦寺)。- フランク国王カールがバイエルン部族公タッシロ3世を追放する。
マグリブ西部のモロッコにイドリース朝が興る。
789年
- フランク王カールによる「一般訓令(Admonitio generalis)」。
790年代
詳細は「790年代」を参照
791年 - フランク国王カールがアヴァールを征討。
793年
- バグダードに最初の製紙工場が設立される
- イングランド北部のリンデスファーン修道院がヴァイキングに襲撃され、ヴァイキング時代の幕開けとなる。
794年
平安京へ遷都し平安時代はじまる。山背国を山城国へ改称。- フランク国王カールの招集によるフランクフルト教会会議が開催される。
795年
- フランク王国がスペイン辺境領を設置。
- 回鶻(ウイグル)の懐信可汗が即位、マニ教が再び国教とされる。
796年 - アッバース朝カリフのハールーン・アッ=ラシードがラッカに宮廷を遷す( - 809年)。
797年
- 東ローマ皇帝コンスタンティノス6世が母エイレーネーによって廃位され、エイレーネーがローマ帝国初の女帝として即位。
- フランク国王カールがアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードに使節を送る。
797年頃 - 唐僧摩訶衍がインド僧カマラシーラに敗北しチベットから退去。サムイェー寺の宗論が終わる。
800年代
詳細は「800年代」を参照
800年
- フランク国王カールがローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」の冠を受ける(カール大帝)。
- マグリブ東部のチュニジアにアグラブ朝が興る。
- 早良親王に「崇道天皇」の追尊号が贈られる。
富士山の延暦噴火。
時代の動向
東アジア
大陸
朝鮮半島
日本
日本では唐制に倣った律令制が布かれた時代にあたり、その最盛期とされる。時代区分で言うと飛鳥時代から奈良時代へと移り変わり、さらに平安時代初頭にあたる。条坊制を布いた都城制の都が建設され、藤原京>平城京>恭仁京>難波京>紫香楽宮>平城京>長岡京>平安京と遷都が繰り返された。
西アジア
南アジア
東南アジア
ヨーロッパ
デンマークの建国
伝説・フィクションのできごと
712年以降 - 唐の玄宗皇帝が瘧の高熱に浮かされていると、夢の中に鍾馗が現れ、玄宗への恩義に報いるべく、瘧の原因となっている子鬼どもを退治していく(「鍾馗」伝説)。
716年 - 735年 - 唐に留学中の吉備真備が唐人により楼閣に幽閉されるが、鬼となった阿倍仲麻呂の霊の助力により、難解な「野馬台詩」の解読や囲碁の勝負などを解決していく(『江談抄』『吉備大臣入唐絵巻』)。
729年 - 749年 - 聖武天皇の天平年間に大和国吉野郡にいた久米仙人が飛行術で空を飛んでいたが、久米川で洗濯する若い女性の白い脛に見惚れて、神通力を失って墜落し、その女性を妻として俗人となる道を選んだ(『七大寺巡礼私記』『久米寺流記』『元亨釈書』『扶桑略記』他)。
750年頃 - 唐の玄宗皇帝の天宝末年、隴西の李徴が進士に及第した。にもかかわらず官吏の生活を良しとせず河南に出張中に発狂し行方知れずとなる。後年、旧友の袁傪は図らずも虎となった李徴と再会する(中島敦『山月記』)。
756年以降 - 唐の玄宗皇帝は馬嵬で殺された楊貴妃を想い、方士に命じその魂魄の行方を探させる。各地を遍歴して蓬莱宮に至った方士は楊貴妃に巡り会い、玄宗への形見と誓いの言葉を託される(白居易「長恨歌」)。
773年 - 藤原豊成の娘中将姫が長谷観音の導きにより一夜で蓮糸を用いて曼荼羅を織り上げる(「當麻曼荼羅」伝説・折口信夫『死者の書』ほか)。
人物
東アジア
唐
張柬之(625年 - 706年) - 唐の政治家・張易之と張昌宗の兄弟を斬り則天武后を退位させる・中宗の復位を実現
韋后(? - 710年) - 唐の皇帝中宗の皇后・「武韋の禍」の一人・娘の安楽公主とともに中宗を殺害し帝位を窺う
太平公主(665年? - 713年) - 唐の皇帝高宗の娘・母は則天武后・韋后排斥の中心人物・後に甥の李隆基と対立し滅ぼされる
張説(667年 - 730年) - 唐の政治家・宰相・李隆基に挙兵を決断させた功で有名・詩人として『張説之文集』がある
玄宗(李隆基)(685年 - 762年) - 唐の第6代皇帝(在位712年 - 756年)・その治世前半が「開元の治」
姚崇(650年 - 721年) - 唐の政治家・宰相・宋璟とともに「姚宋」と呼ばれ「開元の治」を指導
宋璟(663年 - 737年) - 唐の政治家・宰相・姚崇とともに「姚宋」と呼ばれ「開元の治」を指導
張九齢(678年 - 740年) - 唐の政治家・宰相・李林甫と対立し辞職・「開元最後の賢相」と呼ばれる
李林甫(? - 752年) - 唐の政治家・宰相・張九齢らを失脚させ天宝年間の政局を握る・府兵制崩壊に伴い異民族節度使を登用
高力士(684年 - 762年) - 唐の宦官・韋后討伐から安史の乱まで玄宗の腹心として仕える・李輔国に失脚させられる
郭子儀(697年 - 781年) - 唐の軍人・安史の乱を平定・後には吐蕃やウイグルの反乱も鎮圧する
高仙芝(? - 755年)- 唐の高句麗系軍人・タラス河畔の戦いで敗北・安史の乱の渦中で処刑される- 杜環(生没年不詳) - 唐の著述家・タラス河畔の戦いで捕虜となり中央アジアや西アジアに滞在したのち帰国し『経行記』を執筆
李輔国(704年 - 762年) - 唐の宦官・玄宗に代わり粛宗を擁立・粛宗の皇后を殺害させるなど専権を極める
楊国忠(? - 756年) - 唐の宰相・楊貴妃の親族として出世・安史の乱で長安を捨て四川に逃亡するが殺害される
楊貴妃(719年 - 756年) - 唐の玄宗の寵妃・安史の乱の原因とされ楊国忠に続き馬嵬で殺される
安禄山(705年? - 757年) - 唐の安史の乱の指導者・もとは節度使・大燕皇帝を自称(在位756年 - 757年)・実子安慶緒に殺される
史思明(703年 - 761年) - 唐の安史の乱の指導者・もとは安禄山の部下・大燕皇帝を自称(在位759年 - 761年)・実子史朝義に殺される- 魚朝恩(721年 - 770年) - 唐の宦官・神策軍を従え代宗の宮廷で専権を振るうが元載の命で処刑される
元載(? - 777年) - 唐の政治家・宰相・宦官魚朝恩を滅ぼし政権を掌握・後に代宗の命で処刑される
楊炎(727年 - 781年) - 唐の政治家・皇帝徳宗に仕え均田制/租庸調制に代わる両税法を創設・のちに失脚し処刑される
第五琦(729年 - 799年) - 唐の政治家・塩法による塩の専売制を導入し財政再建に尽力・乾元重宝銭の鋳造で物価高騰を招く
杜佑(735年 - 812年) - 唐の官僚・歴史家として法令制度の通史『通典』をまとめる・杜牧は孫
司馬承禎(643年 - 735年) - 唐の道士・「道先仏後」の唐にあって玄宗の信任を得る・著作に『坐忘論』『天隠子』がある
李思訓(651年 - 718年) - 唐の画家・皇族であり官僚として玄宗に仕える・「北画の祖」とされる
呉道玄(生没年不詳) - 唐の画家・玄宗に仕えて山水画の画法に変革をもたらし「画聖」と呼ばれる
張萱(生没年不詳) - 唐の画家・宮廷で活躍し「虢国夫人游春図」「搗練図」(いずれも後世の模作)が残る- 呉競(670年 - 749年) - 唐の歴史家・唐の太宗とその臣下の言行を記録した『貞観政要』を編纂
- 李瀚(生没年不詳) - 唐の文筆家・上古から六朝までの逸話を選び初学者用に編纂した『蒙求』で知られる
一行(683年 - 727年) - 唐の僧侶・真言八祖の一人であり善無畏と『大日経疏』を編纂・天文学者としては大衍暦を作成
鑑真(688年 - 763年) - 唐の僧侶・日本に渡り律宗を伝える・奈良の唐招提寺の開基となる
孟浩然(689年 - 740年) - 唐の詩人・代表作に「春暁」がある・官人にはなれず在野で活躍
王維(701年 - 761年) - 唐の詩人で「詩仏」と称される・画家として「南画の祖」とされる
李白(701年 - 762年)- 唐の詩人で「詩仙」と称される・代表作に「早發白帝城」がある
顔真卿(709年 - 785年) - 唐の書家・「争座位帖」や「祭姪文稿」がある・安史の乱でも活躍し忠臣とされる
杜甫(712年 - 770年) - 唐の詩人で「詩聖」と称される・代表作に「春望」がある
張旭(生没年不詳) - 唐の書家・狂草という奔放な書体で有名・「自言帖」や「郎官石柱記」がある
懐素(725年 - 785年) - 唐の書家・僧侶・張旭の狂草の影響を受ける・「草書千字文」が有名
陸羽(733年 - 804年) - 唐の文筆家・茶にまつわる知識をまとめた『茶経』を残す
沈既済(750年 - 800年頃) - 唐の歴史家・小説家・歴史書『建中実録』や伝奇小説「枕中記」「任氏伝」がある。
渤海
大欽茂(文王)(? - 793年) - 渤海の第3代王(在位737年 - 793年)・律令体制を整え上京龍泉府に遷都
日本
藤原不比等(659年 - 720年) - 公卿・右大臣・大宝律令を制定・藤原四兄弟や光明皇后の父
柿本人麻呂(660年頃 - 720年頃) - 歌人・『万葉集』の代表的な歌人・「歌聖」と呼ばれる
山上憶良(660年? - 733年?) - 官人・歌人・『万葉集』の「貧窮問答歌」「子を思ふ歌」が知られる
元明天皇(661年 - 721年) - 第43代天皇(在位707年 - 715年)・女帝・平城京に遷都
太安万侶(? - 723年) - 文官・『古事記』を編纂・太安万侶墓誌が発見されている
行基(668年 - 749年) - 大僧正・東大寺大仏造造営の勧進としても活躍・「行基菩薩」と呼ばれる
舎人親王(676年 - 735年) - 天武天皇皇子・淳仁天皇の父(崇道尽敬皇帝)・『日本書紀』を編纂
藤原四兄弟
藤原武智麻呂(680年 - 737年) - 公卿・藤原南家祖
藤原房前(681年 - 737年) - 公卿・藤原北家祖
藤原宇合(694年? - 737年) - 公卿・藤原式家祖
藤原麻呂(695年 - 737年) - 公卿・藤原京家祖
橘諸兄(684年 - 757年) - 公卿・左大臣・藤原四兄弟亡き後の政局を指導・初代橘氏長者
長屋王(684年? - 729年) - 皇族・公卿・左大臣・高市皇子の長男・長屋王の変で自害した
良弁(689年 - 774年) - 華厳宗の僧・奈良東大寺初代別当・大仏開眼供養に尽力・鷲に攫われた幼児の伝説も有名
平群広成(? - 753年) - 官人・遣唐使の判官・唐から帰国途中に遭難しチャンパに漂流・後に渤海から無事に帰国
吉備真備(695年 - 775年) - 遣唐留学生・帰国後は恵美押勝の乱を鎮圧・称徳天皇に重んじられ右大臣となる
阿倍仲麻呂(698年 - 770年) - 遣唐留学生・帰国は果たせず唐の玄宗皇帝に仕え安南都護府に在任する
聖武天皇(701年 - 756年) - 第45代天皇(在位724年 - 749年)・奈良東大寺を創建
光明皇后(701年 - 760年) - 聖武天皇の皇后・人臣で最初の皇后・孝謙称徳天皇の母・正倉院の創設にも関与
藤原広嗣(? - 740年) - 官人・大宰少弐・式家宇合の子・藤原広嗣の乱を起こし処刑される
藤原仲麻呂(706年 - 764年) - 公卿・太師(太政大臣)・藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を起こし敗死
藤原真楯(715年 - 766年) - 公卿・大納言・北家房前の子
国中公麻呂(? - 774年) - 仏師・造東大寺次官・東大寺盧遮那仏の造像と大仏殿建立の指揮をする
孝謙・称徳天皇(718年 - 770年) - 第46代天皇(在位749年 - 758年)・第48代天皇(在位764年 - 770年)
大伴家持(718年頃 - 785年) - 公卿・中納言・諸国の国司を歴任・和歌に優れ『万葉集』を編纂したか
橘奈良麻呂(721年? - 757年) - 公卿・参議・橘諸兄の子・橘奈良麻呂の乱が露見し処罰される
道鏡(? - 772年) - 太政大臣禅師・法王・宇佐八幡宮神託事件に関与・称徳天皇没後は下野国に追放される
藤原百川(732年 - 779年) - 公卿・参議・井上廃后事件に関与して桓武天皇を擁立したか
和気清麻呂(733年 - 799年) - 公卿・民部卿・宇佐八幡宮神託事件で道鏡を退ける
桓武天皇(737年 - 806年) - 第50代天皇(在位781年 - 806年)・長岡京そして平安京に遷都
藤原種継(737年 - 785年) - 公卿・中納言・式家百川の甥・長岡京造営の途中で暗殺される
南アジア・チベット・東南アジア
- ナラシンハヴァルマン2世(? - 728年頃)- インドのパッラヴァ朝の王(在位700年頃 - 728年頃)・マハーバリプラム海岸寺院を建立
- ヴィクラマーディティヤ2世(? - 744年) - インドの前期チャールキヤ朝の王(在位733年 - 744年)・パッタダガル寺院を建立
- ダンティドゥルガ(? - 756年) - インドのラーシュトラクータ朝の王(在位753年 - 756年)・チャールキヤ朝の君主を廃しデカン地方を支配
- クリシュナ1世(? - 775年) - インドのラーシュトラクータ朝の王(在位756年 - 775年)・エローラ石窟のカイラーサ寺院を建立
ダルマトゥンガ(? - 782年) - ジャワ島のシャイレーンドラ朝の王(在位755年以前 - 782年)・ボロブドゥール寺院建立に着手
シュバカラシンハ(637年 - 735年) - インド出身の僧侶・中国名は善無畏・唐に密教(真言宗)を伝え第五祖とされる
シャーンタラクシタ(? - 787年頃) - インドの僧侶でナーランダ寺院の出身・チベットに仏教を伝えサムイェー寺を建立- カマラシーラ(生没年不詳) - インドの僧侶・チベットに招かれサムイェー寺の宗論で唐僧摩訶衍に勝利する
パドマサンバヴァ(8世紀後半) - インドの僧侶・チベットに仏教を伝えニンマ派(紅教)の祖となる- ダーモーダラグプタ(8世紀後半) - カシミール王国の宰相・詩人・風俗抒情詩『クッタニーマタ(遊女の手引き)』は資料としても評価が高い
ティソン・デツェン(742年 - 797年) - チベットの吐蕃の王(在位755年 - 797年)・安史の乱に乗じて長安を占領・仏教興隆に尽力
イスラム世界
ウマイヤ朝
クタイバ・イブン・ムスリム(669年 - 715年/716年) - ウマイヤ朝の軍人・ホラサーン総督となりマー・ワラー・アンナフルを征服する
ワリード1世(674年 - 715年) - ウマイヤ朝の第6代カリフ(在位705年 - 715年)・ウマイヤド・モスクを建設
タリク・イブン・ズィヤード(689年 - 720年) - ウマイヤ朝の軍人・イベリア半島を征服しジブラルタルの名の由来になる- アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー(? - 732年) - ウマイヤ朝の軍人・アルアンダルス知事・トゥール・ポワティエ間の戦いで敗北
後ウマイヤ朝
アブド・アッラフマーン1世(731年 - 788年) - 後ウマイヤ朝の初代アミール(在位756年 - 788年)・コルドバを都とする
アッバース朝
サッファーフ(724年? - 754年) - アッバース朝の初代カリフ(在位750年 - 754年)・ウマイヤ家残党を粛清
マンスール(712年 - 775年) - アッバース朝の第2代カリフ(在位754年 - 775年)・都バグダードを建設
ハールーン・アッラシード(763年 - 809年) - アッバース朝の第5代カリフ(在位786年 - 809年)・アッバース朝の最盛期- ジヤード・イブン・サーリフ(? - 752年) - アブー・ムスリム配下の将軍・タラス河畔の戦いで高仙芝率いる唐の軍団を撃破
アブー・ムスリム(700年頃 - 755年) - アッバース革命の指導者でアッバース朝建国における最大の功臣・「ホラサーンの猛虎」
ムカンナー(メルヴのハキム)(? - 783年) - ペルシアの反乱指導者・アブー・ムスリムを預言者とみなす反主流派の教団を形成した
思想家・学者
- アブー・ハニーファ(699年頃 - 767年) - イスラム法学者・ハナフィー学派の祖・シーア派との関係を疑われ獄死
ジャアファル・サーディク(702年 - 765年) - シーア派の第6代イマーム・イスラム法学者としてはジャアファル学派の祖- イブン・イスハーク(704年 - 761年/770年) - アッバース朝の著述家・カリフのマンスールに命じられ『預言者の生涯』をまとめる
- マーリク・イブン・アナス(714年 - 796年) - イスラム法学者・マーリク学派の祖・著作に『ムワッタ』がある
ラービア・アル・アダウィーヤ(717年頃 - 801年頃) - バスラ出身の女性神秘家・禁欲から「神への愛」を昇華させたスーフィーの先駆者- アル・ハリール・イブン・アフマド・アル・ファラーヒディー(718年 - 786年/791年) - 文献学者・アラビア語辞書を編纂しアラビア語正書法を確定
イブン・アル=ムカッファ(721年 - 757年) - アッバース朝の著作家・ペルシアのサーサーン朝の年代記『フダーイ・ナーメ』をアラビア語に翻訳
ムハンマド・アル・ファザーリ(? - 796年/806年) - 天文学者・インドのブラーマグプタの天文学書を翻訳し『シンドヒンド』として編纂する
ジャービル・イブン・ハイヤーン(721年? - 815年?) - アッバース朝の哲学者・化学者・塩酸や硝酸の調合や蒸留装置を開発
アブル・アターヒーヤ(748年 - 828年) - アッバース朝の詩人・もとは壺売りだったが歴代カリフにより宮廷に招かれ「天才詩人」と呼ばれる
中央アジア
ビルゲ・カガン(? - 734年) - 東突厥のカガン(在位716年 - 734年)・オルホン河畔のホショ・ツァイダム碑文で有名
ブラン・カガン(? - 740年) - ハザールのカガン(在位730年 - 740年)・テュルク系遊牧国家ながらユダヤ教に改宗
牟羽可汗(? - 779年) - 回鶻の可汗(在位759年 - 779年)・マニ教を受容・安史の乱の鎮圧に協力するが後に唐と反目
キリスト教世界
フランク王国
- アヴランシュのオベール(? - 720年) - ノルマンディー地方のアヴランシュ司教・モン・サン・ミシェル修道院の基礎を築く
カール・マルテル(686年 - 741年) - フランク王国の宮宰・トゥール・ポワティエ間の戦いで勝利しイスラム軍を撃退
ピピン3世(小ピピン)(714年 - 768年) - カロリング朝の開祖(在位751年 - 768年)・カール・マルテルの子・教皇領を寄進
カール大帝(742年 - 814年) - フランク国王(在位768年 - 814年)・西ローマ皇帝(在位800年 - 814年)・小ピピンの子
ローラン(? - 778年) - ブルターニュ辺境伯・カール大帝に仕える・ロンスヴォーの戦いでの死が『ローランの歌』伝説のもとになる
ヴィドゥキント(730年頃 - 808年?) - ザクセン部族公・ザクセン戦争でカール大帝に敗北しキリスト教に改宗- タッシロ3世(742年頃 - 794年頃) - バイエルン部族公・カール大帝と対立しバイエルンから追放される
ボニファティウス(672年頃 - 754年) - キリスト教宣教師・「ドイツ人の使徒」・フリースラントで殉教- ピルミニウス(700年頃 - 753年) - 修道士(ベネディクト会)・ライヒェナウ島修道院を建設
アルクィン(735年? - 804年) - 神学者でトゥール司教・フランク王国宮廷学校校長・「カール大帝の知的宰相」- リュートガー(ルドガー)(742年頃 - 809年) - キリスト教宣教師・ザクセン人やフリース人に布教しミュンスターで修道院を創設
イタリア
- デシデリウス(? - 786年) - ランゴバルド王国最後の国王(在位756年 - 774年)
パウルス・ディアコヌス(720年 - 799年) - イタリアの著述家・歴史家として『ランゴバルド史』を著す
ザカリアス(? - 752年) - ローマ教皇(在位741年 - 752年)・ピピン3世のカロリング朝創設を支援
ステファヌス3世(? - 757年) - ローマ教皇(在位752年 - 757年)・ピピン3世による寄進を受ける(教皇領の始まり)
レオ3世(750年? - 816年) - ローマ教皇(在位795年 - 816年)・「カール大帝の戴冠」を行う
東ローマ帝国と東方正教圏
ユスティニアノス2世(668年? - 711年) - 東ローマ帝国ヘラクレイオス朝の皇帝(在位685年 - 695年、705年 - 711年)・「鼻削がれ」の名で有名
レオーン3世(680年? - 741年) - 東ローマ帝国イサウリア朝の皇帝(在位717年 - 741年)・イスラム軍を撃退・聖像崇拝を禁止
コンスタンティノス5世(コプロニュモス)(718年 - 775年) - 東ローマ帝国イサウリア朝の皇帝(在位741年 - 775年)
エイレーネー(アテナイア)(752年 - 803年) - 東ローマ帝国イサウリア朝の女帝(在位797年 - 802年)・聖像崇敬を復活
ダマスコのヨハネ(676年頃 - 749年) - キリスト教神学者・聖像崇敬を擁護・著作に『神学の泉』がある- テオドロス・ストゥディテス(759年 - 826年) - キリスト教神学者・首都のストゥデイオス修道院院長・聖像崇敬派を率い皇帝と対決
イベリア半島
ロデリック(687年以降 - 712年頃) - 西ゴート王国最後の国王(在位710年 - 712年頃)・イスラム軍に敗北し殺害される
ペラーヨ(? - 737年) - 西ゴート王国の貴族・反イスラム勢力を糾合しアストゥリアス王国を建国(在位718年 - 737年)- エリパンドゥス(718年頃 - 802年頃) - トレド大司教・ウルヘル司教フェリックスとともにキリスト養子論を提唱し論争を引き起こす
- リエバナのベアトゥス(730年頃 - 800年頃) - アストゥリウス王国のリエバナの修道院長・キリスト養子論を否定・著作に『黙示録注解』がある
イングランド
ベーダ・ヴェネラビリス(672年/673年 - 735年) - キリスト教聖職者・歴史家として『イングランド教会史』を著す- オファ(? - 796年) - マーシア王(在位757年 - 796年)・ブレトワルダ(上王)として覇を唱える・オファの防塁でも有名
脚注
注釈
出典
関連項目
- 年表
外部リンク
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