西部劇
西部劇(せいぶげき)は、19世紀後半のアメリカ合衆国の西部開拓時代に当時フロンティアと呼ばれた主にアメリカ西部の未開拓地を舞台にした映画(テレビ映画を含む)や小説である。Western(ウェスタン)の訳語。
目次
1 概要
2 西部劇の歴史
2.1 ハリウッド
2.2 西部劇スターと監督
2.3 西部劇の黄金期
2.4 B級西部劇とテレビ西部劇
2.5 西部劇の変貌
3 諸外国の西部劇映画
4 監督
4.1 サイレント時代
4.2 トーキー時代
4.3 マカロニ・ウエスタン
5 俳優
5.1 主演俳優
5.2 助演俳優
6 代表的な西部劇映画
6.1 サイレント時代
6.2 1930年代
6.3 1940年代
6.4 1950年代
6.5 1960年代
6.6 1970年代
6.7 1980〜90年代
6.8 2000年代以降
6.9 外国製の西部劇映画
7 テレビ西部劇
7.1 主な番組
7.2 主演俳優
8 西部劇における先住民の描写
9 西部劇に登場する拳銃
10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
概要
南北戦争後の19世紀後半のアメリカ西部を舞台に、開拓者魂を持つ白人を主人公に無法者や先住民と対決するというプロットが、白人がフロンティアを開拓したという開拓者精神と合致し[1]、大きな人気を得て、20世紀前半のアメリカ映画の興隆とともに映画の1つのジャンルとして形成された。
それ故に「19世紀後半のアメリカ西部開拓期を撮った映画」が西部劇であり、「新興の気に満ち満ちていた若きパイオニア精神が壮烈なアクションとともに展開するのが特徴」であるが、「現在西部劇は殆ど滅び去ったと言ってよく、パイオニア精神の失われた今のアメリカで成り立ち得ないジャンル」であるとされている[2]。
なお19世紀後半(特に1860年代から1890年代にかけて)のアメリカ西部を舞台とするとした西部劇の定義は必ずしも厳密なものではなく、ゲイリー・クーパー主演『征服されざる人々』の舞台は独立宣言前の東部のペンシルベニア州ピッツバーグであり、ジョン・フォード監督ヘンリー・フォンダ主演『モホークの太鼓』は独立戦争時のニューヨーク州が舞台で、セシル・B・デミル監督『北西騎馬警官隊』は時代は1880年代だが舞台はカナダで、いずれも未開拓の地を切り開いていく物語であり西部劇と見なされている。また『明日に向って撃て!』『アラスカ魂』『ワイルドバンチ』は、20世紀初頭の物語であり、「明日に向って撃て!」は最後は南米ボリビア、『アラスカ魂』はアラスカ、『ワイルドバンチ』や他に『荒野の七人』などはメキシコが舞台だが西部劇のジャンルとされている。
そして最後は第一次世界大戦時になる『シマロン』は西部劇に入るが、同じ作家が書いた『ジャイアンツ』はテキサスを舞台にした20世紀の物語で西部劇とはされていない。また南部アトランタを舞台に南北戦争時のストーリーである『風と共に去りぬ』も西部劇のジャンルには入っていない。
西部劇の歴史
西部劇は映画とともに歴史を歩んできた。そして西部劇はハリウッドが築き上げた独自のジャンルであり、西部開拓の歴史を持つアメリカだからこそ生まれたとも言える。厳しい自然の中で多くの困難と闘いながら逞しく生きてきた開拓者の物語はアメリカ人の誇りとするものであり、フロンティア精神と夢を含み、アメリカンドリームそのものであった[3]。
ハリウッド
西部を舞台とする発想は映画史のごく初期から存在しており、1898年には、エジソンのキネトスコープ(覗き眼鏡方式)による活動写真において最初の西部劇が作られている。1895年にリュミエール兄弟が初めてシネマトグラフ(スクリーン投影方式)を生み出し、やがてサイレント映画が登場すると、最初の本格的な西部劇映画である1903年のエドウィン・S・ポーター監督『大列車強盗』がつくられた。列車を襲った強盗を自警団が追跡して討ち取る簡単なストーリーだが、走る列車の上での立ち回り、殺人と金庫の爆破、追跡と撃ち合いなど動きのある映像を編集した画面によって観客は興奮を味わい、やがて西部劇はアクションを売り物に盛んに製作された。この「大列車強盗」はその後の西部劇映画の基本となる骨格を整えた画期的な作品で、映画の歴史に大きな影響を与えた[4]。ただし、この映画の撮影はエジソン社に近い東部のニュージャージー州であり、西部の自然はスクリーンに映されていなかった。当時は撮影は東部でしか出来ず、物語は西部でも、撮影は全て東部で行われていた。1910年代に入るとエジソン社による特許権紛争が起こり、トラストによってエジソン社の特許を持たない映画関係者の強制排除が行われ(後に裁判でエジソン社は敗れる)、特許料の支払いから逃れるように遠い西部に移った人々はカリフォルニア州ロサンゼルス郊外に西部劇を製作するのに好条件の土地を見出した。豊かな太陽、美しく雄大な景観をバックに、ロケーションに事欠くことなく西部劇の撮影が進められ、ここが映画製作の中心地となった。それがハリウッドであった。
西部劇スターと監督
西部の荒野で、逆境に立ち向かい、悪をやっつけて、弱者(女性や子供)には優しいガンマンを主人公に、懸賞金が掛けられたお尋ね者と決闘したり、駅馬車を追っかけたり、銀行強盗があったり、騎兵隊が来たり、そして先住のインディアンと争ったりするのがパターンであった。実在した保安官(ワイアット・アープやワイルド・ビル・ヒコック)やガンマン(バット・マスターソン、ビリー・ザ・キッド、ジェシー・ジェームス)を題材にして、アメリカ西部の大自然を背景に開拓者魂(フロンティア精神)を詩情豊かに描く西部劇は多くの人々を魅了し、西部開拓時代へのノスタルジーを掻き立てられた[5]。それは19世紀後半の西部開拓時代での開拓者精神を称え、アメリカを発展させたものとして賛美するものであった。
こうした西部劇の基本は強く勇敢なヒーローの存在であり、そのヒーローを演じる俳優は西部劇スターとなった。最初の頃に登場したブロンコ・ビリー・アンダーソン[6]は「ブロンコ・ビリー」[7]シリーズで主演し、毎週1本ずつ一巻物(上映時間12分まで)で製作された連続活劇に7年間出演した。
ブロンコ・ビリーの後にはブロードウエイの舞台俳優であったウィリアム・S・ハートが二挺拳銃の颯爽とした姿で登場し「西部の騎士」のようなスタイルで多くの観客を魅了した。ハートはそれまでの西部劇役者とは全く異質で、騎士道精神を前面に出しながらも孤独で悲劇的立場に追い込まれる場面が多く、そこが観客の心を強く打つものであった。[8]彼は俳優のみならず製作・監督にもたずさわり、「曠野の志士」(1925年)などのサイレント作品が日本でも上映されて西部劇映画に大きな足跡を残した。
そしてほぼ同時期にハリー・ケリーが登場して1917年から1919年にかけて「シャイアン・ハリー」シリーズで人気を呼んだ。ハリー・ケリーは後年は脇役に回って、戦後は「白昼の決闘」「赤い河」にも出演していたがサイレント期の西部劇スターとしてその名は記憶されている。この「シャイアン・ハリー」シリーズの殆どを製作・監督したのが当時ジャック・フォードと名乗っていた後のジョン・フォードであり、ハリー・ケリーはフォード一家とは親しい関係で、息子のハリー・ケリー・ジュニアは後にジョン・フォード西部劇の貴重なバイプレイヤーとなり、ハリー・ケリーの妻は後年のフォード西部劇の傑作『捜索者』に出演している。
ジョン・フォードは兄のフランシス・フォードによって映画界に入り、フランシスの助手を務めながらやがて映画監督になったが、そのフランシスはサイレント時代の西部劇の製作に多く関わり、『Custer`s Last Fight』[9](1912年)「旋風児」(1921年)「Western Yesterday」(1924年)などの作品を製作している。このサイレント期には、前述のエドウィン・S・ポーター、フランシス・フォード、ウィリアム・S・ハート以外にスチュアート・ペイトン、リン・F・レイノルズなどの映画監督が西部劇に多数の映画を残していた。また他の西部劇スターとしてはウイリアム・ファーナムやトム・ミックスらがいた。
第一次世界大戦後にはジェームズ・クルーズ監督『幌馬車』(1923年)が製作された。この映画はスターによるヒーロー物語ではなく、自然の猛威や先住民と戦いながら西部の荒野を西へ西へと進む集団の物語で、それまでの西部劇とは全く違う新しい西部劇を作った。ジョン・フォードは1924年に大陸横断鉄道の建設を軸にした西部開拓叙事詩「アイアンホース」、1926年に『三悪人』を製作していた。
そして1927年に「ジャズシンガー」でトーキーが普及すると、後に「風と共に去りぬ」「オズの魔法使い」を作ったヴィクター・フレミング監督が1929年「ヴァージニアン」を製作して主演に抜擢されたゲイリー・クーパーはこの作品で西部劇スターの座を獲得した。その後1936年にセシル・B・デミル監督の『平原児』で主役ワイルド・ビル・ヒコックを演じ、ジーン・アーサー演じるカラミティ・ジェーンとの悲恋を絡めながら巧みなガンさばきを見せて大スターとなった。
一方1930年ラオール・ウォルシュ監督の「ビッグ・トレイル」でジョン・フォードは当時無名だったジョン・ウェインを推薦して主役に抜擢させたが不評に終わったので、ジョン・ウェインはその後B級西部劇に10年近く出演を続けた。そして1939年になってB級映画で俳優として経験を積んだジョン・ウェインを再び抜擢してジョン・フォードは『駅馬車』を製作し、ジョン・ウェインは主役リンゴー・キッドを演じた。この映画は駅馬車の走行にインディアンの襲撃及びガンマンの決闘、そして駅馬車に乗り合わせた乗客のそれぞれの人生模様を描き、たんなる娯楽活劇ではなく西部劇の評価を一気に高めて、今日でも戦前の西部劇の最高峰と評価されている[10]。
この時期にはサイレント映画の名作「ビッグ・パレード」を作ったキング・ヴィダー監督が西部劇の「ビリーザ・キッド」(1930年)、「テキサス決死隊」(1936年)を製作し、同じくサイレントで「スコオ・マン」を作り、トーキー以後の1931年にも再映画化をしたセシル・B・デミル監督が「平原児」の後に1939年に大陸横断鉄道の建設、列車転覆、襲撃、悪との対決、恋を絡ませたジョエル・マクリー主演『大平原』、その翌年1940年にゲイリー・クーパー主演『北西騎馬警官隊』を製作し、同じ1939年にヘンリー・キング監督でタイロン・パワーがジェシー・ジェームスを演じた『地獄への道』、ジョージ・マーシャル監督でジェームズ・スチュアートとマレーネ・ディートリヒ主演『砂塵』、1940年にウィリアム・ワイラー監督で西部開拓史にその名を残すロイ・ビーン判事を描いたゲイリー・クーパー主演『西部の男』など西部劇の傑作と呼ばれる作品が次々と発表された。
第二次大戦の戦時下でもハワード・ヒューズ監督でジェーン・ラッセルの妖艶な姿が話題となった『ならず者』(1943年)、ラオール・ウォルシュ監督の史上に名高いリトル・ビッグホーンでの第七騎兵隊の全滅とカスター将軍の最後を描いたエロール・フリン主演『壮烈第七騎兵隊』(1943年)、ウィリアム・A・ウェルマン監督でヘンリー・フォンダ主演の『牛泥棒』(1943年)、ジョエル・マクリー主演でバッファロー・ビル・コディを描いた『西部の王者』(1944年)などの作品が作られている。
西部劇の黄金期
そして第二次大戦が終わって後に西部劇は黄金時代を迎えて、1960年頃まで多数の名作を生んだ。[11]また多くの俳優が西部劇で主演を演じて、その中からゲイリー・クーパー、ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、グレゴリー・ペック、ジェームズ・スチュアートらの大スターが西部劇から育っていった。[12]
ジョン・フォード監督のヘンリー・フォンダ主演でワイアット・アープとクラントン一家との対決を描いた『荒野の決闘』(1946年)、そしてジョン・ウェイン主演で後に騎兵隊三部作と言われた『アパッチ砦』(1948年)・『黄色いリボン』(1949年)・『リオ・グランデの砦』(1950年)、今日では最高傑作とされる『捜索者』(1956年)、そしてウィリアム・ホールデンと共演した『騎兵隊』(1959年)、ハワード・ホークス監督のジョン・ウェイン主演『赤い河』(1948年)、ジョン・ウェインとディーン・マーティン主演『リオ・ブラボー』(1958年)、ヘンリー・キング監督のグレゴリー・ペック主演「拳銃王」(1950年)、デルマー・デイヴィス監督のジェームズ・スチュアート主演『折れた矢』(1950年)、そしてフレッド・ジンネマン監督のゲイリー・クーパー主演『真昼の決闘』(1952年)、ジョージ・スティーブンス監督のアラン・ラッド主演『シェーン』(1953年)、ジョン・スタージェス監督のバート・ランカスターとカーク・ダグラス主演で「荒野の決闘」と同じく西部開拓史上最も有名な決闘を描いた『OK牧場の決斗』(1957年)などの名作が世に送り出された。
この時期の『捜索者』・『真昼の決闘』・『シェーン』の3作品は、戦前の『駅馬車』と合わせてアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が1998年と2008年に行った「偉大なアメリカ映画ベスト100」で西部劇部門の最上位を占め、1998年は『真昼の決闘』が、2008年は『捜索者』が西部劇映画のトップとして評価されている[13]。
またこの時期にジョン・スタージェス監督の「ブラボー砦の脱出」、『ガンヒルの決斗』、ロバート・テイラー主演『ゴーストタウンの決斗』[14]そして「六番目の男」、キング・ヴィダー監督のグレゴリー・ペック主演『白昼の決闘』そして「星のない男」、ラオール・ウォルシュ監督の『死の谷』「追跡」「決闘一対三」、ヘンリー・キング監督の「無頼の群」、ロバート・アルドリッチ監督の「アパッチ」『ヴェラクルス』「ガンファイター」、ウィリアム・ワイラー監督でグレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストン主演の『大いなる西部』とゲイリー・クーパー主演の『友情ある説得』、デルマー・デイヴィス監督でグレン・フォードとヴァン・ヘフリン主演『決断の3時10分』、リチャード・ウィドマーク主演「襲われた幌馬車」、グレン・フォード主演「カウボーイ」そしてゲイリー・クーパー主演『縛り首の木』、アンソニー・マン監督の『ウインチェスター銃73』『裸の拍車』『ララミーから来た男』『怒りの河』『遠い国』『胸に輝く星』『西部の人』、エドワード・ドミトリク監督でヘンリー・フォンダとリチャード・ウィドマークとアンソニー・クイン主演の『ワーロック』そして「折れた槍」、スチュアート・ギルモア監督の「落日の決闘」、フランク・ロイド監督の「アラモの砦」、ロバート・ワイズ監督でロバート・ミッチャム主演の「月下の銃声」、ニコラス・レイ監督の『大砂塵』『無法の王者ジェシイ・ジェイムス』、ジョージ・マーシャル監督の「燃える幌馬車」、オットー・プレミンジャー監督のロバート・ミッチャムとマリリン・モンロー主演で初のシネマスコープ作品『帰らざる河』、ジョン・ヒューストン監督のバート・ランカスターとオードリー・ヘプバーン主演『許されざる者』、ロバート・D・ウエッブ監督のロバート・ライアン主演「誇り高き男」、ヘンリー・ハサウェイ監督の「狙われた駅馬車」「向こう見ずの男」そしてゲイリー・クーパー主演『悪の花園』、アーサー・ペン監督ポール・ニューマン主演でビリー・ザ・キッドを描いた「左ききの拳銃」などが製作された。
そして1960年代に入るとジョン・スタージェス監督のユル・ブリンナーとスティーブ・マックイーン主演『荒野の七人』、マイケル・カーティス監督の『コマンチェロ』、ジョン・フォード監督の『バファロー大隊』『リバティ・バランスを射った男』『シャイアン』、また西部劇スターが製作監督してジョン・ウエイン監督で初の70ミリ作品『アラモ』、マーロン・ブランド監督の「片目のジャック」、そして西部開拓の歴史を家族の一代記としてオムニバスで描いたヘンリー・ハサウェイとジョン・フォードとジョージ・マーシャル監督の初のシネラマ作品『西部開拓史』などの作品が続々と製作された。
B級西部劇とテレビ西部劇
第二次世界大戦が終わる頃まで、アメリカ映画の大きなジャンルとして西部劇は確固としたもので人気は高かった。1930年代に西部劇の製作本数は100本を超えて、1935年には150本、戦争を挟んで1950年頃も140本近くを記録した。[15]この製作本数の増加は、30年代から始まった二本立て興行の添え物としてB級映画が製作されて、西部劇もB級作品として50〜70分程度のB級西部劇が多数製作されたことによるものである。単純明快な活劇であり、善悪がはっきりして勧善懲悪なストーリーで、当時は西部劇なら必ず当たると言われたほどであった。この粗製乱造と言われるほど大量に作られた時期に、その試行錯誤から映像表現の技術と可能性を発展させ、また西部劇の売上げ増による資本の蓄積が映画を産業として発展させる基礎を構築し、映画王国を築く活力源となった。[16]
B級西部劇からジョン・ウェインは育ってきたスターであり、ランドルフ・スコットやジョエル・マクリー或いはオーディ・マーフィなどもB級西部劇スターと呼ばれた[17]。この他にはチャールズ・スターレット[18]、フート・ギブスン、バック・ジョーンズ、ケン・メイナード、ジョニー・マック・ブラウンや『ホパロング・キャシディ』[19]で有名なウイリアム・ボイド、そしてB級西部劇のサブジャンルとしてミュージカル西部劇が第二次大戦前後に人気となり、歌うカウボーイとしてジーン・オートリーやロイ・ロジャーズがその歴史に刻まれている。[20]
またB級西部劇の監督としてレイ・エンライト、ジョセフ・ケーン、アンドレ・ド・トス、ジョージ・シャーマン、ルドルフ・マテ、バッド・ベティカー、アラン・ドワン、ラッセル・ラウズなどが活躍し、やがてB級映画の監督から後に大作のメガホンをとる監督も現れてきた。レイ・エンライト監督のランドルフ・スコットとジョン・ウェインとマレーネ・ディートリヒ主演『スポイラース』や「西部の裁き」、ジョセフ・ケーン監督の「無法の道」「最後の駅馬車」、アンドレ・ド・トス監督の「スプリングフィールド銃」「平原の落雷」「賞金を追う男」、ジョージ・シャーマン監督の「戦いの矢」「生まれながらの無宿者」、ルドルフ・マテ監督の「欲望の谷」「三人の荒くれ者」、バッド・ベティカー監督の「平原の待ち伏せ」「決闘コマンチ砦」、アラン・ドワン監督の「私刑される女」「バファロウ平原」、ラッセル・ラウズ監督の「必殺の一弾」「バスク決死隊」などがある。
そしてB級西部劇が衰退した頃からテレビ西部劇が盛んに製作されて、テレビからスターが生まれ、西部劇映画の監督が生まれた。「拳銃無宿」のスティーブ・マックイーン、「マーベリック」のジェームズ・ガーナー、『ローハイド』のクリント・イーストウッド、そしてジェームズ・コバーン、チャールズ・ブロンソン、リー・マーヴィンがその例であり、テレビ出身の監督からサム・ペキンパー監督でランドルフ・スコットとジョエル・マクリー主演「昼下がりの決闘」、ゴードン・ダグラス監督の「駅馬車」[21]、アンドリュー・V・マクラグレン監督の「シェナンドー河」、ドン・シーゲル監督でオーディ・マーフィ主演「抜き射ち二挺拳銃」、エルビス・プレスリー主演「燃える平原児」などの作品が生まれた。[22]
そして、1960年代に入った頃から西部劇の人気は下降していった。ほぼ同時にテレビ西部劇も衰退して当時日本でも人気番組であった「ローハイド」もアメリカで製作中止となり出演していたクリント・イーストウッドはイタリアに渡り、セルジオ・レオーネ監督『荒野の用心棒』(1964年)で一躍マカロニ・ウエスタンが注目されると同時に彼は一気に西部劇スターの座を獲得した。クリント・イーストウッドはやがて西部劇衰退の時代に活躍することとなった。
西部劇の変貌
西部劇が描く人物像は基本的に主人公は白人で、強く正しくて『勧善懲悪』をストーリーの骨子とし、そこへ応援に来たりする(陸軍の)騎兵隊は「善役」であり、それに刃向う先住民インディアンを「悪役」としたものが多い。そして劇中で描かれた白人とインディアンとの戦いには史実も多いが、戦いの原因(土地の領有権)に触れたものはほとんどなかった。
しかし、やがて史実とは違う(白人に都合のいい)内容に対する反発や反省が西部劇を衰退させる強い動因となった。戦後、多様化する価値観や倫理観の変化に勧善懲悪のドラマがついていけなくなったのである[23]。
1950年代に入る頃から、フロンティア精神を肯定してそこに主人公(ヒーロー)がいて無法者や先住民を倒す「西部劇」という一つの図式が崩れ始めた。1950年のデルマー・デイヴィス監督『折れた矢』は先住民は他者で白人コミュニティを脅かす存在という図式ではなく、先住民の側から描き、戦いを好むのではなく平和を求める彼らの姿を描いた。それは、当時黒人の地位向上を目指す公民権運動が次第に激しくなる時代に入り、人権意識が高まる中でインディアンや黒人の描き方が批判されるようになって、単なる勧善懲悪では有り得ない現実を浮かび上がらせ、それまでの西部劇が捨象してきた問題に対して向き合わざるを得なくなったことであった[24]。
そしてもう一つの図式である勧善懲悪で、開拓者精神を肯定する強いヒーローがいて悪を倒すそれまでの図式も崩れていった。町の誰からも助けてもらえない保安官(『真昼の決闘』のゲイリー・クーパー)、復讐に執念を燃やす男(『捜索者』のジョン・ウェイン)、農園を取り戻すだけのために賞金稼ぎとなり人を殺す農園主(『裸の拍車』のジェームズ・スチュアート)が主人公の西部劇が50年代に多数製作されて、それまでの映画にあった悪に立ち向かうヒーロー像がもはや存在せず、何が正しくて何が悪いか、明らかにしないままにただ主人公の人間らしさが主になって、そこではもはやヒーローが描きにくくなったのである[25]。
この時期になると、善悪の区別が曖昧で複雑な作品が多くなった。痛快で豪快なアクション、ヒーローと悪役との対決、派手なガンさばきを見せたりして見せ場はあっても全体としての雰囲気は重く暗いものになった[26]。ラオール・ウォルシュ監督の『死の谷』「追跡」、アンソニー・マン監督の『裸の拍車』、キング・ヴィダー監督の「白昼の決闘」、ヘンリー・キング監督の「拳銃王」「無頼の群」、ジョン・スタージェス監督の「六番目の男」、ジョージ・シャーマン監督の「生まれながらの無宿者」、デルマー・デイヴィス監督の『縛り首の木』、ニコラス・レイ監督の『大砂塵』、エドワード・ドミトリク監督の『ワーロック』、そしてフレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』などの主人公は誰からも信用されない、心にトラウマがあったり、死にたいと願ったり、孤立無援の戦いに追い込まれたりしている。それは第二次大戦が終わって未曽有の戦争を体験したアメリカ社会が、それまであった「強く正しいヒーローが大活躍する単純明快な西部劇が作りにくくなったことを示している」と川本三郎は述べている[27]。
そしてそれはまた、この当時ハリウッドを襲った「赤狩り」という暗い空気の中で、アンソニー・マンやフレッド・ジンネマンが描いた世界が西部劇の変貌をもたらしたとも言われている[28]。
これが1960年代に入ると、公民権運動が高まると同時に西部劇の衰退を招くこととなった。1960年にジョン・F・ケネディが大統領に就任し人種差別の撤廃に強い姿勢で臨み、これに伴い従来の製作コードが通用しなくなり製作本数も激減した。そして製作費の高騰もあってイタリアなどでいわゆるマカロニ・ウェスタンと呼ばれる多くの西部劇が作られたが、その影響を受けるなかで逆にアクションが激しい描写となり、暴力場面も過激になって、サム・ペキンパー監督『ワイルドバンチ』のように主人公の男たちがやたらと人殺しに走るようになって、善悪の境目が無くなり従来からの西部劇ファンが離れていく結果を招いた。川本三郎は「西部劇がダメになったのはマカロニ・ウエスタンがきっかけで、過去の西部劇と差別化するために徹底的に詩情を排して、ガンプレイに特化した乾いた絵を作った。それがアメリカ本国の西部劇までバンバンとただ撃ち合えばいい映画になり、この詩情を失くしたことが西部劇の魅力を失くしたことにつながった」と述べている[29]。
こうした状況から西部劇はそれまでの単純な善悪二元論では立ち行かなくなり、1950年代初頭には年間100本ほどの製作本数が、四半世紀後の1970年代後半にはわずか1ケタの製作本数に激減していく[30]。
やがてニューシネマの台頭でジョージ・ロイ・ヒル監督ポール・ニューマンとロバート・レッドフォード主演の『明日に向って撃て!』のような秀作も生まれ、またアーサー・ペン監督『小さな巨人』とラルフ・ネルソン監督『ソルジャー・ブルー』が1970年に公開され、『ソルジャー・ブルー』は1864年のサンドクリークの虐殺を基に、被害者である先住民の立場に立って虐殺事件を描き、当時話題になった作品である。
60年代から70年代になるとマカロニ・ウエスタンの影響を受けながらも、バート・ケネディ監督の「続・荒野の七人」「夕陽に立つ保安官」、リチャード・ブルックス監督の「プロフェッショナル」「弾丸を噛め」、ドン・シーゲル監督でクリント・イーストウッド主演の「真昼の死闘」とジョン・ウェイン主演の『ラスト・シューティスト』、ラルフ・ネルソン監督の「砦の29人」、マーク・ライデル監督でジョン・ウェイン主演の「11人のカウボーイ」、ロバート・シオドマク監督の「カスター将軍」、マイケル・ウイナー監督でバート・ランカスター主演の「追跡者」、サム・ペキンパー監督でチャールトン・ヘストンとジェームズ・コバーン主演「ダンディー少佐」、ウィリアム・ホールデンとロバート・ライアン主演「ワイルド・バンチ」、アンドリュー・V・マクラグレン監督でチャールトン・ヘストン主演の『大いなる決闘』、ベテランのハワード・ホークス監督の『エル・ドラド』『リオ・ロボ』、ジョン・スタージェス監督でワイアット・アープの決闘後を描いたジェームズ・ガーナー主演の「墓石と決闘」、ヘンリー・ハサウェイ監督でスティーブ・マックイーン主演「ネバダ・スミス」とジョン・ウェイン主演の『エルダー兄弟』そして『勇気ある追跡』などの西部劇が製作された。
1970年代以後になると、クリント・イーストウッド主演・監督の『荒野のストレンジャー』(1973年)・『アウトロー』(1976年)・『ペイルライダー』(1985年)・『許されざる者』(1992年)、ローレンス・カスダン監督の『シルバラード』(1985年)、ケビン・コスナー主演の『ワイアット・アープ』(1994年)、ケビン・コスナー主演・監督の『ダンス・ウィズ・ウルブス』(1990年)・『ワイルド・レンジ 最後の銃撃』(2003年)などの秀作が生まれている。しかしかつて活劇映画として人気のあった頃の西部劇の魅力はすでに失われている。
加藤幹郎は『クリント・イーストウッドの西部劇とともにジャンルの内部崩壊に突入した」と述べてイーストウッドの西部劇では無法者と保安官の立場が逆転して保安官の偽善と法と正義の脆弱さを描き、無法者が保安官を裁く逆転劇になったと指摘している[31]。ここでは暴力は西部における法と正義と道徳の未成熟を強調して、かつてこのような西部劇は存在したことがなく、それまでの西部劇とは全く正反対の顔をして、「西部劇が西部開拓事業を寿くことを完全に放棄した」ことはイーストウッドで初めて可能となり、それはジャンルの長い歴史の終焉期において初めて可能となったことであると結論付けている[32]。
現在において西部劇は製作されているが数少なく、過去の作品と肩を並べるような傑作を世に送り出していない。物語りとしての図式が出来ず、西部劇としてのジャンルが確立されていないからである。その一方で、時代考証や衣装設定、ガン・アクションは過去の作品とは比較できないほどの正確さで表現されており、『トゥームストーン』のような娯楽性に富んだアクション映画も作られている。
諸外国の西部劇映画
西部劇はドイツ、イタリアなどでも製作された。
ドイツ(当時は西ドイツ)では、米国俳優のレックス・パーカー主演で、1961年から1965年にかけて『アパッチ』[33]『大酋長ウイネットー』『シルバーレークの待ち伏せ』などが製作されて日本で公開されている。これらの映画には、アメリカの俳優でハリウッドでは作品に恵まれず、ドイツやイタリアに行った俳優は多かった[34]。
イタリアではマカロニ・ウェスタン[35]と呼ばれて、1965年にクリント・イーストウッド主演で『荒野の用心棒』が大ヒットすると、アメリカでの仕事が減少していた中堅の西部劇スターが大挙して出演し[36]、数多くのマカロニ・ウェスタンが製作されて一時的に大ブームを引き起こした。その中からクリント・イーストウッドの外にジュリアーノ・ジェンマ、フランコ・ネロ、リー・ヴァン・クリーフのスターが生まれたが、駄作も多く、やがて衰退に向かった。
しかしセルジオ・レオーネの演出やエンニオ・モリコーネの音楽はそれまでの西部劇に無いものであり、クリント・イーストウッドの全篇を通した無精髭のガンマンの姿は本家ハリウッドの男優に影響を及ばしたことは否定できない。
マカロニ・ウェスタンはアクションと残酷シーンを売り物に、史実を無視した自由な発想で製作されており、ロケーションは主にスペインや、荒涼とした砂漠地帯があるメキシコのデュランゴを選んで撮影されている。1960年代当時すでにハリウッドは撮影場所としてはその歴史を終えつつあったし、フォードの西部劇の撮影地として知られたアリゾナも滞在費が高騰して馬のレンタル料も高くなり、メキシコのデュランゴがロケ地に選ばれるようになった。
日本では、戦前から西部劇の人気が高く、戦後特に1960年前後にはガン・ブームと呼ばれる現象が生まれ、当時日活が無国籍映画と言われる西部劇のような活劇を作ったりしたが特筆されるほどではなかった[37]。ただ時代劇の分野で黒澤明監督「七人の侍」がアメリカでリメイクされてジョン・スタージェス監督「荒野の七人」となり、「用心棒」が「荒野の用心棒」となり、西部劇の世界に影響を与えることとなった。
監督
サイレント時代
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トーキー時代
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マカロニ・ウエスタン
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俳優
主演俳優
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助演俳優
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代表的な西部劇映画
サイレント時代
大列車強盗(1903年)
幌馬車(1923年)- アイアン・ホース(1924年)
三悪人(1926年)
1930年代
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1940年代
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1950年代
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1960年代
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1970年代
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1980〜90年代
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2000年代以降
ワイルド・レンジ 最後の銃撃(2004年)
3時10分、決断のとき(2007年)
ジェシー・ジェームズの暗殺(2007年)
トゥルー・グリット(2010年)
ジャンゴ 繋がれざる者(2012年)
マグニフィセント・セブン(2016年)
外国製の西部劇映画
ハリウッド以外の外国で製作された西部劇映画。
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テレビ西部劇
第二次大戦後はテレビの登場とともに数多くのテレビ西部劇が製作され、大きなジャンルを形成していた。それらは1960年代初頭まで隆盛を誇り、同時期に日本にも『ローハイド』『ララミー牧場』など多くの作品が輸入され、当時のテレビ番組の主力として高い人気を博していた。
主な番組
アニーよ銃をとれ(KRT、現TBS、1957年3月〜9月;1958年3月〜9月 フジテレビ 1960年1月〜1961年7月)
ローン・レンジャー(KRT、現TBS、1958年8月〜1959年2月 フジテレビ 1961年7月〜1962年12月)
バット・マスターソン(NET、現テレビ朝日、1959年2月〜1961年3月)
ガンスモーク(フジテレビ、1959年3月〜1962年5月)
ローハイド(NET、現テレビ朝日、1959年11月〜1965年10月)
拳銃無宿(フジテレビ、1959年12月〜1961年12月;日本テレビ、1966年2月〜8月)
西部のパラディン(NHK、1960年4月〜6月、TBS 1961年7月〜1963年3月)
シャイアン(KRT、現TBS、1960年5月〜1963年8月)
ララミー牧場(NET、現テレビ朝日、1960年6月〜1963年7月)
ボナンザ(カートライト兄弟) (日本テレビ、1960年7月〜1965年4月)
幌馬車隊(日本テレビ、1960年10月〜1962年4月)
ライフルマン(TBS、1960年11月〜1963年12月)
ブロンコ(TBS、1961年5月〜1963年4月)
マーベリック(NET、現テレビ朝日、1961年5月〜1962年3月)
保安官ワイアット・アープ(日本テレビ、1961年9月〜1965年4月)
バージニアン(NET、現テレビ朝日、1964年4月〜1966年1月)
バークレー牧場(NET、現テレビ朝日、1965年11月〜1966年6月)後に東京12チャンネルで放送。
0088/ワイルド・ウエスト(フジテレビ、1965年12月〜1966年6月)
主演俳優
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西部劇における先住民の描写
コロンブスがアメリカ大陸に到達した時には、北米大陸にもすでに先住の民族がいた。北米大陸に着いた時にインドに着いたと勘違いして先住民をインディアンと呼んだ話は有名だが、17世紀初めにイギリス人が最初の植民地を作った頃に北米にはおよそ人口100万人、部族の数では約500余りが暮らしていたと言われている[43]。しかし西部開拓が進む頃から白人との戦いが始まった。西部開拓の歴史はまた先住民迫害そして虐殺の歴史でもあった。そして西部開拓時代の1870年には人口がわずか2万5千人に激減している。
20世紀初頭の黎明期の西部劇では、インディアンをヒーローとして扱ったものもあったが、西部劇がアクション中心の娯楽映画に移行するとインディアンは『フロンティア』を害する悪役となり、白人開拓者にとっては邪悪と凶暴さの象徴であった。
西部劇は、インディアンのイメージを決定付けた。劇中に登場するインディアン達は、決まって馬にまたがって派手な羽飾りをつけ、手斧を振り回し、「アワワワワ」と鬨(とき)の声を挙げて襲ってくる。これらは馬にまたがり、羽飾りをつけること以外は出鱈目なものである。彼らの衣装も、撮影所のデザイナーが考えたものであり、またそのほとんどが、白人たちが演じており、資料的価値は皆無である。
また、西部劇には「号令一下、全インディアン戦士を従わせる大酋長(Grand Chief)や戦争酋長(War chief)」が登場するが、これはインディアン文化に対する白人の誤解から生まれたものである。基本的にインディアンの社会は合議制民主主義社会であり、このような絶対権力者は存在しない[44]。「大酋長」も「戦争酋長」もまったくのフィクションであり、現実には存在しない西部劇の中のキャラクターなのにも関わらず、これが全世界で公開されることで、『酋長は部族長である」といった、誤ったインディアンに対する認識をさらに広めることとなってしまった。
平原の部族の風俗である羽飾りをつけ、無表情に片言の英語を喋る(台詞「インディアン、ウソツカナイ」はこの典型である)このステレオタイプは、その後世界中の人々が「インディアン」と聞いて真っ先に頭に思い浮かぶイメージとなった。ラジオやTVのシリーズ『ローン・レンジャー』に出てくる、主人公の相棒であるインディアンの「トント」は、インディアンの間では「白人にへつらうインディアン」の代名詞となっている。
1950年代に入って、このようなインディアンの描き方に対する反省から『折れた矢』「アパッチ」が製作され、1960年代に入ると、『モホークの太鼓』(1939)で典型的なインディアンの描き方をして以後も悪役としてのインディアンしか描いてこなかったジョン・フォードが「シャイアン」(1964)でシャイアン族の悲劇を描くようになり、1970年には『ソルジャー・ブルー』で騎兵隊がインディアンを虐殺する場面が描かれている。
1960年に「片目のジャック」を監督・主演したマーロン・ブランドは、インディアン権利団体『アメリカインディアン運動』(AIM)に賛同し、同団体設立当初から助言と運動をともにしていたが、1973年に映画『ゴッド・ファーザー』でアカデミー賞を受賞した際、授賞式に「インディアン女性」を代理出席させ、ハリウッド西部劇において、いかにインディアンが理不尽な扱いを受けているかメッセージを代読させた[45]。
映画俳優でAIMの運動家でスポークスマンをも務めるラッセル・ミーンズはハリウッド映画についてのインタビューに答え、こう述べている。
ハリウッドが映画の中でインディアンの人々に求める姿として、私たちは、2種類の姿でいさえすればよいのです。私たちは夏の間、革服で盛装します。あるいは、我々は『スキンズ』(2002年)だとか、『スモーク・シグナルズ』(1998年)のような映画のように、酔っぱらいの社会不適格者でないといけないのです[46]。
1940年代のある土曜日の午後に、私は弟のデイスと二人でカリフォルニアのバレーホにあるエスクァイア映画劇場へ映画を観に行ったことがあります。その映画にはカウボーイとインディアンが出てきて、満場の観客たちが大喝采する中、進軍ラッパが鳴り響き、騎兵隊が撃ちまくり、否も応もなしにインディアンがぶち殺されるんです。デイスは、とても見ていられない様子でした。 彼は、顔を手で覆っていました。あなたが8歳か9歳だった頃、私たちはそんなふうだったんです。あなたは多分、今度の映画(『ラスト・オブ・モヒカン』)はそれと違ってインディアンが勝つかもしれないなと思うでしょうね。まあそれからその後で、私たちは映画館を出るわけです。
それから、これはホントの話なんですが、そのあと私たち兄弟は、メキシコ人とかフィリピン人、中国人や黒人に対して、ちょうど映画の中でインディアンが白人と戦うのと同じようにして、背中合わせに戦わなければなりませんでした。こういう近所の子供たち全員が、私たちに言うわけです。「おいインディアン、思いっきりケツひっぱたいてやるぞ!」とね[47]。
西部劇に登場する拳銃
ガンマンが題材となることの多い西部劇には、正確な考証に基づくものから近現代の銃器を手直ししてそれらしく見せかけたものまで、様々の銃器が小道具として登場した。中でも象徴的なのがサミュエル・コルトが考案した連発銃コルト・シングル・アクション・アーミー・リボルバー、通称「コルト45(ピースメーカー)」[48]SAAや、コルトM1851のようなシングルアクションリボルバーの拳銃である。「コルト45(ピースメーカー)」はコルト社の最高傑作と言われる名銃で1873〜1940年までの67年間に35万挺が製造されている。
腰のベルト付きホルスターにシングルアクションの回転式拳銃を収めたカウボーイスタイルは、映画に登場する西部ガンマンの定番であった。日本においても、西部劇人気の高まりと共にコルト45のようなシングルアクション拳銃の知名度は上昇し、多くのメーカーからトイガン製品が販売された。
この時代のシングルアクション拳銃には様々なバリエーションが存在するが、特にマカロニ・ウェスタンにおいて、主役は5.5インチの金属薬莢式、悪役のボスは7.5インチなどの長銃身で大型、その他大勢は4.75インチの金属薬莢式拳銃や、パーカッション式リボルバーという具合に、持ち主の役どころにより銃の種類が決められている場合が多かった。
目にも止まらぬ抜き撃ち連射、華麗なスピンといったガンプレイに習熟することが主演スターには要求され、ゲイリー・クーパーは『平原児』(1936)でセシル・B・デミルと話し合った結果、二丁拳銃の抜き撃ちを2週間猛練習し、名場面を作りあげた。
映画がカラーになり、やがてワイド化して横長画面になった頃、1950年代中期以降は朝鮮戦争の帰還兵士であったレッド・ロッドウィングが銃器類の取り扱い指導者になり多くのスターに拳銃の技を伝授した。このガン・プレイの指導にはアルヴァ・オジャラやドイル・ブルックスなどの名前が伝わっているが、遡ると映画がサイレントからトーキーになった頃に、まだデビュー前のジョン・ウェインにガン・プレイを指導したのはあのワイアット・アープ本人であったという話がある。
引き金を引いたままで拳銃を抜き、撃鉄をもう一方の手で連打することで高速に連射する「ファニング」[49]と呼ばれるテクニックは、『荒野の決闘』で名バイプレーヤーワード・ボンドが初めて披露した技である。
なお、ジョン・ウェインはコルト6連発銃によるガンプレイが実は巧かった(「捜索者」でその片鱗を披露している)が大柄(やや太めのウェスト)過ぎて似合わないのでジョン・フォード監督のアドバイスでウィンチェスター銃(ライフル)を愛用したと伝えられる。そして後にライフル銃を持つとこれほど似合う俳優はいないと言われた。
そのウィンチェスター銃はオリバー・ウィンチェスターが考案したライフルで、最初は6連発のライフル銃であったが、コルト45「ピースメーカー」が売り出された同じ1873年に17連発の「73年型ウィンチェスター銃」(M1873通称ウィンチェスター銃73)[50])が登場して、このウィンチェスター73も1873〜1932年の59年間に72万挺製造され当時の西部に広く普及したと言われている。ただし当時のアメリカ陸軍には不評で、19世紀に騎兵隊などの軍関係にはウインチェスター銃は使われていない。したがって歴史的には騎兵隊がライフル銃を使う場合はウインチェスター銃ではなく単発のスプリングフィールド銃が使われており、1876年にカスター将軍以下の第七騎兵隊がリトルビッグホーンでインディアンに全滅したのはインディアン側は連発のウインチェスター銃で、騎兵隊側は単発のスプリングフィールド銃を使っていたからという「まことしやかな説がある」と言われている[51]。しかし西部劇映画では騎兵隊がウインチェスター銃で射ちまくる場面がよく見られるという。またテレビ「拳銃無宿」に主演したスティーブ・マックイーンが愛用していた銃は、このウインチェスター銃の銃身を短くした通称ランダルカスタムと呼ばれる銃である。ちなみに映画やテレビで使われるウインチェスター銃は有名なM1873ではなく後継のM1892が使用されている。
この「コルト45(ピースメーカー)」と「ウィンチェスター73」の2つの銃が後に「西部を征服した銃」と呼ばれている[52]。
脚注
^ 『アメリカ文化入門』杉野健太郎編 三修社p36
^ 「映画小辞典」188P 「西部劇」の項 田山力哉著 ダヴィッド社 1987年9月発行
^ 「映画この百年ー地方からの視点」第9章 西部劇 206P
^ 「映画この百年ー地方からの視点」第9章 西部劇 207P
^ カウボーイには黒人も多かったし、町には中国人など外国人も多かった。中国人が西部劇に出たものとしてはジェフ・ブリッジス主演『ワイルド・ビル』(1995年)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ&アメリカ/天地風雲』(1997年)、ジャッキー・チェン主演の『シャンハイ・ヌーン』(2000年)がある。『戦う幌馬車』(1967年)にはカーク・ダグラスが箸で中華料理を食べる場面もある。
^ 本名ギルバート・M・アンダーソン。1882年〜1971年。もとはボードビリアンで、最初の本格的西部劇の「大列車強盗」では1人3役をこなしている。この最初の西部劇スターは乗馬も射撃も全くダメですべて代役が演じていたと言われている。なお後にクリント・イーストウッド主演で「ブロンコ・ビリー」が製作されたが、「大列車強盗」に出演したブロンコ・ビリー・アンダーソン本人とは直接の関係はない。
^ 「ブロンコ・ビリー」シリーズで1907年から1914年まで合計375本製作された。なお別の資料では1908年から1915年までで500本に及んだという説もある。
^ 「映画この百年ー地方からの視点」第9章 西部劇 209〜211P
^ その題名の通り、カスター将軍と第七騎兵隊のリトルビッグホーンでの全滅を描いた30分ほどのサイレント映画。フランシス・フォードは主演・監督でカスター将軍をも演じている。なお西部劇映画でこのカスター将軍の最後を描いた初めての作品とされている。
^ 「映画この百年ー地方からの視点」第9章 西部劇 215P
^ 戦後の1946年から1951年までが西部劇の黄金時代といわれ、量的な発展だけでなく、質的にも優れた作品が多く作られている。「映画この百年ー地方からの視点」第9章 西部劇 222P ただしこの説は西部劇の製作本数が大きく伸びて、1950年にピークを迎えて、その後に急減したことを前提にしているが、1952年以後に急減したのはB級西部劇が廃れたことが減少の原因であり、量的には減少したけれど、質的にはむしろ1952年以降に傑作が多い。
^ 「映画この百年ー地方からの視点」第9章 西部劇 215P
^ 『NewsWeek 日本版』 2009年5月6・13日号 42〜91P 【The Greatest Movies 100】(映画ザ・ベスト100) 参照
^ 前述の「OK牧場の決斗」と『ガンヒルの決斗』『ゴーストタウンの決斗』を合わせてスタージェスの決闘三部作と言われている。
^ 「映画この百年ー地方からの視点」第9章 西部劇 221P
^ 「映画この百年ー地方からの視点」第9章 西部劇 213〜214P
^ 後の第40代アメリカ大統領となったロナルド・レーガンもB級映画のスターであった。
^ デュランゴ・キッドのシリーズが知られている。
^ 戦後になって主演したウイリアム・ボイドがホパロング・キャシディシリーズのフィルムを買い取り、テレビの登場とともにテレビ版に再編集して放映され、関連商品が人気になって巨万の冨を築いた話はよく知られている。日本でもテレビ創世期に「我らがキャシディ」の題名でこのB級西部劇作品のテレビ編集版が放送されている。
^ 「B級映画ーフィルムの裏まで」91〜92P 94〜98P参照 増渕健 著 平凡社 1986年8月発行
^ ジョン・フォード監督の1939年作品のリメイクである。
^ 各西部劇映画の題名・監督・主演俳優は、『大いなる西部劇』・『西部劇(ウエスタン)への招待』・『西部劇を見て男を学んだ』・『ハリウッド映画史講義』の著書の中の各資料・索引を引用。
^ 「大いなる西部劇」12〜13P 逢坂剛 川本三郎 著 2001年5月発行 新書館
^ 『インディアンの声を聞け』(ワールドフォトプレス社)特集記事「映画の中のアメリカインディアン」
^ 「アメリカ映画主義」166〜167P 大場正明 編著 フィルムアート社 2002年10月発行
^ 「西部劇(ウエスタン)への招待」182P ダーク・ウエスタンの暗い魅力 川本三郎著
^ 「西部劇(ウエスタン)への招待」185P ダーク・ウエスタンの暗い魅力 川本三郎著
^ 「ハリウッド映画史講義」68P 西部劇の変貌 蓮実重彦著 筑摩書房 1993年9月発行
^ 別冊暮らしの手帖「シネマの手帖〜250本の名作ガイド〜」』20P参照 川本三郎 2009年12月発行 暮しの手帖社
^ 「ユリイカ」2010年5月号 90P クリント・イーストウッド特集 青土社 2010年3月発行
^ 「ユリイカ」2010年5月号 90〜93P クリント・イーストウッド特集 青土社 2010年3月発行
^ 「ユリイカ」2010年5月号 94P クリント・イーストウッド特集 青土社 2010年3月発行
^ バート・ランカスター主演の「アパッチ」(1954年)とは別の映画で、ハラルト・ラインル監督作品。
^ 「大いなる西部劇」172〜173P 逢坂剛 川本三郎 著 2001年5月発行 新書館
^ アメリカでは「スパゲティ・ウェスタン」と呼ばれたが、日本では語感と呼びやすさを重視して『マカロニ・ウェスタン』と呼ばれた。
^ その中には、リー・ヴァン・クリーフやジャック・イーラムがいた。
^ 1961年4月封切りの「早射ち野郎」。日活製作、野村孝監督、宍戸錠主演。公開時に「日本製ウエスタン」と呼ばれたが、キネマ旬報に「日本映画にこれほどの愚作はない」と書かれた。しかし映画興行としてはヒットしている。大下英治は和製の「みそ汁ウエスタン」と述べている。「みんな日活アクションが好きだった」153P参照 大下英治 著 廣済堂出版 1999年発行。
^ オットー・プレミンジャー監督。マリリン・モンローとロバート・ミッチャム主演。西部劇映画初のシネマスコープで撮影されている。
^ ジョン・フォード監督。ジョン・ウエイン主演。公開当時はそれほどには高く評価されなかったが、現在では西部劇で最高の作品として評価されている。
^ ジョン・ウエインが製作・監督。西部劇初の70ミリで撮影された。
^ ジョン・フォード、ヘンリー・ハサウエイなど4人の監督で製作された。シネラマで初めて製作された劇映画である。
^ 「スコウ」はインディアン女性のことだが、現在は蔑称としてインディアン団体から強い抗議を受けている単語である
^ 「西部劇を見て男を学んだ」56〜57P 先住民族の悲史 参照 芦原伸 著 祥伝社新書 2006年3月発行
^ 『Crazy Horse』(Larry Mcmurtry著、Penguin LIVES)
^ ただしこの「インディアン女性」は実は非インディアンのフィリピン系女性だった。(彼女は俳優組合から名前を抹消される処分を受けた)これ自体が上記のようなデタラメな白人が演じるインディアンのパロディーであり、ハリウッドに対するブランドが一矢報いたのだが、この行為によって彼は自らの輝かしいキャリアに泥を塗る失態を犯し映画界での信頼を失った。
^ ラッセル・ミーンズの公式サイト『Russell Means Freedom』でのインタビュー記事“Russell Means Interview with Dan Skye of High Times”(2009年5月20日)より
^ 『Entertainment Weekly』誌でのインタビュー記事“Acting Against Racism”(1995年10月23日)より
^ 「コルト45」の名前で有名である。この拳銃名をそのまま題名にしたテレビ映画がある。
^ 通常右手の人差し指で、引き金を引くが、その前に銃の一番後ろにある撃鉄を、親指で起こして、その撃鉄が銃弾の入っている孔に打ち込むことで弾が発射される。ゆえに拳銃をホルダーから取り出して構えても、親指で撃鉄を起こさないと撃てない。西部劇映画で射撃に入る寸前に右手の親指で撃鉄を起こす動作が見られるのはこのためで、また相手に向かって構えていても、それだけでは威嚇でしかない。しかし撃鉄を起こす動作をすれば、相手はいつでも抜き撃ちの構えに入る。このファニングとは、右手の人差し指で引き金を引いたまま、左手のひらで撃鉄を上から叩いて起し連続して発射する方法である。なお19世紀末には引き金を引くと同時に自動的に撃鉄が動く拳銃(ダブルアクション)が出現している。
^ ジェームス・スチュアート主演で同名の映画『ウィンチェスター銃73』がある。
^ 「西部劇(ウエスタン)への招待」14〜17P 参照
^ 「西部劇を見て男を学んだ」102〜103P 参照 芦原伸 著 祥伝社新書 2006年3月発行
参考文献
- 『大いなる西部劇』 逢坂剛 川本三郎 著 新書館 2001年5月発行
- 『西部劇(ウエスタン)への招待』 逢坂剛 川本三郎 菊地秀行 永田哲朗 縄田一男 宮本昌孝 著 PHPエル新書 PHP研究所 2004年9月発行
- 『西部劇を見て男を学んだ』 芦原伸 著 祥伝社新書 2006年3月発行
- 『アメリカ映画主義』ジャンル映画の隆盛 大場正明 編著 フィルムアート社 2002年10月発行
- 『ハリウッド映画史講義』 西部劇の変貌 蓮実重彦著 筑摩書房 1993年9月発行
- 『文藝春秋SPECIAL・映画が人生を教えてくれた』ジャンル別ベスト10「西部劇」逢坂剛 著 2009年7月発行
- 『映画この百年ー地方からの視点』第9章 西部劇 熊本大学・映画文化史講座 1995年6月発行
- 『B級映画ーフィルムの裏まで』 増渕健 著 平凡社 1986年8月発行
- 『思い出のアメリカテレビ映画』 瀬戸川宗太著 平凡社新書 2014年4月発行
- 『SCREEN特編版「なつかしの外国TVシリーズ」』 近代映画社 2006年5月発行
- 『週刊TVガイド別冊「テレビ30年」』 東京ニュース通信社 1982年2月8日発行
- 『キネマ旬報臨時増刊「テレビの黄金伝説〜外国テレビドラマの50年〜 」』1997年7月2日号
- 『テレビドラマ全史」1953〜1994 TVガイド 東京ニュース通信社 1994年5月発行
- 『別冊暮らしの手帖「シネマの手帖〜250本の名作ガイド〜」』 2009年12月発行 暮しの手帖社
関連項目
- カウボーイ
- マカロニ・ウェスタン
- 荒野の少年イサム
- ガンスモーク
- 西部警察
- 時代劇
レッド・デッド・リデンプションシリーズ