シャトーブリアン (ロワール=アトランティック県)
Châteaubriant | |
---|---|
行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏 |
県 (département) | ロワール=アトランティック県 |
郡 (arrondissement) | シャトーブリアン郡 |
小郡 (canton) | 小郡庁所在地 |
INSEEコード | 44036 |
郵便番号 | 44110 |
市長(任期) | アラン・ユノー (2008年 - 2014年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de communes du Castelbriantais |
人口動態 | |
人口 | 12,077人 (2009年) |
人口密度 | 人/km2 |
住民の呼称 | Castelbriantais |
地理 | |
座標 | 北緯47度43分04秒 西経1度22分30秒 / 北緯47.7177777778度 西経1.375度 / 47.7177777778; -1.375座標: 北緯47度43分04秒 西経1度22分30秒 / 北緯47.7177777778度 西経1.375度 / 47.7177777778; -1.375 |
標高 | 平均:m 最低:48m 最高:107 m |
面積 | 33.62km2 |
Châteaubriant | |
公式サイト | http://www.mairie-chateaubriant.fr/ |
シャトーブリアン (Châteaubriant、ブルトン語:Kastell-Briant)は、フランス、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏、ロワール=アトランティック県のコミューン。歴史的にはブルターニュ、メ地方に属する。シャトーブリアンは主として田園風景に囲まれ、百年戦争で仏英の戦いの場となった城の周りで発展した。経済は長い間農業やウシの飼育が行われ、19世紀には金属加工業、その後プラスチック製造が盛んになった。
目次
1 地理
2 交通
3 由来
4 歴史
5 史跡
6 人口統計
7 出身者
8 姉妹都市
9 脚注
10 参考文献
地理
県北部に位置するシャトーブリアンは、レンヌの南約55km、ナントの北東70km、アンスニの北50kmにある。
交通
- 道路 - 県道4本が通る
- バス - カステルビュスという名の小型バス路線があり、町中に30箇所の停留所がある。
- 鉄道 - TERが運営するナント-オルレアン-シャトーブリアン間の路線、シャトーブリアン-レンヌ間路線が停車するシャトーブリアン駅
- 空港 - レンヌ-サン=ジャック空港かナント・アトランティック空港
由来
11世紀にブリアン(Brient)という人物が城を建設したのが起源である。ブリアンはBrientiiまたはBrieniと記されていた。Castrum BrieniまたはCastrum Brientiiと記された。語尾のtは除かれている。1266年に初めて記されたフランス語文書では男爵の名がジョフロワ・ド・シュトー・ブリアン(Geffrey de Cheteau Brient)とされていた。Chasteau Brientのつづりが最も用いられた。15世紀になるとaでなくeを用いたBrientに変わり、語尾の-tは書き手によっては-dとなった。17世紀、sが曲折したアクセントのため場所を明け渡し、次の世紀ではsなしのかたちが完成した。一方、語尾の-dが優勢に書かれることがなくなった。反革命的であるとして、元貴族で軽騎兵隊長のジャン=バティスト=オギュスト・ド・シャトー=ブリアン(Jean-Baptist-Auguste de CHATEAU-BRIANT、作家フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの兄)が1794年にギロチンで処刑された。19世紀に傾向は変わり、単語としてのシャトーブリアンにはtが必要とされ、dの代わりとされた。
歴史
シャトーブリアン周辺では古代からの人の生業の痕跡が残る。『メンヒルの大型駆逐艦』(grand destructeur de menhirs)の愛称で知られるメンヒルなどが、シャトーブリアン周辺に見られる[1]。
新石器時代の斧も、ベール地区北の元競馬場跡から発見されている[2]。ベール地区はガリアの村を起源としており、地下には鉄が豊富にあったため、非常に古い採掘跡が残っている。シャトーブリアンの周囲は、ガリア系のアンデカヴィ族、ケルト系のレドネス族、ヴェネティ族、ナムネテス族の境界にあたった[3]。
ベール(Béré)の名称はケルト語で『高さがある』を意味し、ラテン語化されてBairacus、その後Bereus、Béréと変化した[4]。ローマの建物の遺跡は、1876年に見本市広場で発見されている。ローマの道がコンデイウム(Condeium、現在のカンデ)とコンデヴィクヌム(現在のナント)とを結んでいた[5]。
6世紀にシャトーブリアン周辺はブルトン人の侵略を受け、ブルトン人王国に併合された。当時のブルターニュは、規模の小さい封建領主ごとに土地が分割されていた[6]。中世初頭、村は重要な発展を経験した。聖ピエールと聖ジャン=バティストの2人に捧げられた礼拝堂がつくられた。硬貨鋳造の工房もあった。ベールは農業と牧畜、金属加工と商業が中心であった[7]。
1000年後、おそらくナント司教ゴーティエ2世が領地を指定し、ブリアン家が2聖人の礼拝堂の地に定着した。これは政治的な行動であり、ナント司教はレンヌ伯とは対照的に、ナント伯やアンジュー伯との戦いで貴族の支持を集めていた[8]。
シャトーブリアンの歴史は11世紀に始まる。レンヌ伯の同盟者であったブリアンは、シェール川とロラール川の合流地点の丘の上に要塞を築いた[9]。この地はヴィトレ、フージェール、アンスニとともにマルシュ・ド・ブルターニュ(ブルターニュの辺境)と呼ばれ、フランス王国に対してブルターニュの国境を守る役割を負っていた。ブリアンは後にベールにサン=ソヴール修道院を建てた[10]。この修道院はまちの最初の中心であり、11世紀のサン=ジャン=バティスト教区、13世紀のサン=ミシェル修道院の創設によって南東に広がった。シャトーブリアンのまちは12世紀に、城の西側で成長を始めた[11]。
1222年3月3日、ベールは、ブルターニュ公ピエール1世と戦いのアンジュー城代アモーリー率いる男爵軍との戦いの舞台となった[12]。城が戦略的に重要な場所であったため、まちは戦いと侵略の対象だった。1235年にルイ9世によって行われた包囲戦は重要である。不安にかられた城主たちは、13世紀と15世紀に城の壁をさらに高くする工事を行っている[13]。
13世紀から15世紀の中世のまちは城壁で覆われて守られ、北のシェール川と南のロラール川に供給される堀に囲まれていた。城壁は5つの門で守られていた。14世紀、シャトーブリアンをつくったブリアン家は男爵に昇格した。城主はその後ディナン家、そしてラヴァル家に変えられた[14]。
1488年4月、フランス軍指揮官ルイ2世・ド・トレモイユがシャトーブリアンを包囲した。シャトーブリアン城は解体され、ジャン・ド・ラヴァルは人質となった。これは、クリソン、ルドン、ガンガンといった要塞を含む、異なるブルターニュの軍事拠点が連続して落とされる軍事作戦の始まりだった。
16世紀は、1532年から1542年までブルターニュ総督を務めたジャン・ド・ラヴァルの活躍が挙げられる。彼は妻のフランソワーズ・ド・フォワのために城にルネサンス翼を建設した[15]。ジャン・ド・ラヴァルは、自らの男爵領をアンヌ・ド・モンモランシーに遺贈した。17世紀にコンデ公家がシャトーブリアンを相続したが、彼らが滞在することはなかった[16]。1680年に病院が建設された。
フランス革命時代にシャトーブリアンは郡の所在地となった。1793年以降、まちは共和国派と王党派の戦いの舞台となった[17]。この時期に、軍人でのち将軍となるジョセフ・レオポール・ユーゴー(fr)は、恐怖政治のためにナントからシャトーブリアンへ逃れてきていたソフィー・トレビュシェと出会っている。2人の間の子がヴィクトル・ユーゴーである[18]。ソフィーが暮らした家が現在も残っている。
19世紀からシャトーブリアンは都市化が始まる。製粉所と城壁が取り去られ、大通りがつくられ、高いコミューン庁舎が建ち、病院や教会が再建された。1877年から1887年にかけ3本の鉄道路線が敷かれた。1876年からガスが、1928年から上水道が供給されるようになった。
1941年10月20日、ナントで起きたカール・ホッツ(en:Karl Hotz)中佐暗殺事件の報復として、シャトーブリアン収容所にいた27人の人質が武装SSに引き渡され、銃殺された。27人の人質のうち、最年少は17歳だったルネ・モケであった。処刑の場所は、Carrière des FusillésまたはLa Sablièreの名で知られ、シャトーブリアン周辺におけるナチ支配の記念の地となっている。1944年、シャトーブリアンは連合国側の爆撃を受けた。作戦は製錬所を対象としたものだったが、中心部や城の一部も爆撃された[19]。
1960年代、戦後復興の一環として、サン=ナゼールに向かう国道775号線沿いに工業地帯が建設され、まちは南に向けて拡大し続けた。
史跡
中心にある旧市街は、15世紀に建てられた住宅やマンション、邸宅が多く残る。
シャトーブリアン城のルネサンス翼
1900年完成の屋根付き市場
ネオ・ゴシック様式のサン=ニコラ教会
メゾン・ド・ランジュ
人口統計
1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 |
---|---|---|---|---|---|---|
10852 | 11986 | 13231 | 14023 | 12783 | 12065 | 12390 |
参照元:1968年以降INSEE[20] · [21] · [22]
出身者
- ジャック・パリ・ド・ボラールディエール(fr) - フランスの軍人。第二次世界大戦、インドシナ戦争、アルジェリア戦争に従軍
姉妹都市
ラデフォルムヴァルト、ドイツ
アスローン、アイルランド
ブラボヴァ、ルーマニア
脚注
^ "Buffé_p15"p.15
^ "Buffé_p16"
^ Marcel Buffé, Châteaubriant, une cité dans l'histoire - De la préhistoire à nos jours, 1983 p.17
^ Marcel Buffé, Châteaubriant, une cité dans l'histoire - De la préhistoire à nos jours, 1983 p.24
^ "Buffé"p. 25
^ "Bouvet_2008_p6"p. 6
^ "Bouvet_2008_p6" p. 6
^ "Bouvet_2008_p6"
^ Christian Bouvet, Châteaubriant histoires, Histoire et patrimoine du pays de Châteaubriant, 2002 p. 20
^ « Histoire de Châteaubriant », sur site de la mairie de Châteaubriant (consulté le 12 novembre 2010)
^ « Ville de Châteaubriant (44) », Patrimoine de France (consulté le 12 novembre 2010)
^ Le Moyne de la Borderie|1972|p=306
^ Christian Bouvet, Châteaubriant histoires, Histoire et patrimoine du pays de Châteaubriant, 2002 p. 75
^ "Flohic_p257"
^ histoire châteaubriant
^ "Histo_mairie"
^ Châteaubriant : Histoire, Patrimoine, Noblesse (commune chef lieu de canton)
^ "Histo_mairie"
^ « Livre - Les bombardements de Châteaubriant », sur site d'information sur Châteaubriant, 27 décembre 2009(consulté le 12 novembre 2010)
^
« Évolution et structure de la population », sur Résultats du recensement de la population - 2008 (consulté le 19 juillet 2011)
^
« Recensement de la population au 1er janvier 2006 », sur le site de l'Insee (consulté le 19 juillet 2011)
^
« Recensement de la population au 1er janvier 2009 », sur le site de l'Insee (consulté le 2 janvier 2011)
参考文献
- Marcel Buffé, Châteaubriant, une cité dans l'histoire - De la préhistoire à nos jours, Nantes, Éditions Cid, 1983, 679 p. (ISBN 2-904633-03-0)
- Christian Bouvet, Châteaubriant histoires, Histoire et patrimoine du pays de Châteaubriant, 2002, 191 p