ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
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ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ Joséphine de Beauharnais | |
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フランス皇后 | |
在位 | 1804年5月20日 - 1810年1月10日 |
戴冠 | 1804年12月2日 |
別称号 | イタリア王妃 ナヴァール女公 |
全名 | Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerieマリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ |
出生 | (1763-06-23) 1763年6月23日 フランス領西インド諸島・マルティニーク島 |
死去 | (1814-05-29) 1814年5月29日(50歳没) フランス王国、リュエイユ=マルメゾン |
埋葬 | フランス王国、リュエイユ=マルメゾン、サン・ピエール=サン・ポール教会 |
結婚 | 1779年12月13日 1796年3月9日 |
配偶者 | アレクサンドル・ド・ボアルネ |
ナポレオン・ボナパルト | |
子女 | ウジェーヌ・ド・ボアルネ オルタンス・ド・ボアルネ |
父親 | Joseph Gaspard Tascher de La Pagerie |
母親 | Rose Claire des Vergers de Sannois |
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(フランス語: Joséphine de Beauharnais、1763年6月23日 - 1814年5月29日)は、フランス皇后。ナポレオン・ボナパルトの最初の妻。貴族出身。
ホラント王妃オルタンスの母、ナポレオン3世とスウェーデン王妃ジョゼフィーヌの祖母、スウェーデン王カール15世・オスカル2世の曾祖母、スウェーデン王グスタフ5世・デンマーク王妃ロヴィーサの高祖母。
目次
1 来歴・人物
1.1 恋多き女
1.2 フランス皇后
2 家族
3 逸話
4 関連項目
4.1 関連作品
5 脚注
6 参考文献
来歴・人物
恋多き女
フランス領西インド諸島マルティニーク島の生まれ。祖父の代から母国を離れたクレオールの出身。結婚前の正式名は、マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ(Marie Josèphe Rose Tascher de la Pagerie)だった。貴族の娘でエキゾチックな美貌の持ち主だったが、大変な浪費家でもあった。生家は貴族といっても名ばかりであり困窮していた。
1779年にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚、一男ウジェーヌ、一女オルタンスをなしたが、当初から夫婦仲が悪く、1783年に離婚した。後にボアルネ子爵は、フランス革命中の1794年7月23日にギロチンで処刑されてしまう。離婚後、マルティニーク島の実家に戻っていたジョゼフィーヌも、島での暴動の多発に不安を感じてフランスに戻ったが、夫や友人の助命嘆願が罪に問われてカルム監獄に投獄されてしまう。獄中では、ルイ=ラザール・オッシュ将軍と恋人同士となったと伝わる。しかし、ロベスピエールが処刑されたことにより、8月3日に釈放された。
その後、生活のために総裁政府のポール・バラスの愛人となり、親友のテレーズ・カバリュス、ジュリエット・レカミエと並ぶ社交界の花形となって、「陽気な未亡人」と呼ばれた。このころ、年下のナポレオンの求婚を受け1796年に結婚[1]。バラスが彼女に飽きてナポレオンに押しつけたともいう。この結婚について、ウジェーヌは反対、オルタンスは賛成だったと伝えられている。しかし、彼女はナポレオンを無骨でつまらない男と見ており、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。そうしたこともあって、ナポレオンの母や兄弟姉妹たちとの折り合いは悪かった。
イタリア遠征中にナポレオンが彼女にあてた熱烈な恋文は有名だが、受け取った彼女はろくに読むことも返事を書くこともなく、「ボナパルトって変な人ね」とその手紙を友人に見せて笑いをさそっていた。ナポレオンに戦場へ来るように何回も促されたが、ごまかして行こうとしない妻のそっけない態度にナポレオンは幾度も絶望を抱く。それに気を揉んだ総裁政府の命令で、彼女は渋々イタリアへ向かった。
ナポレオンはエジプト遠征中にジョゼフィーヌと美男の騎兵大尉イッポリト・シャルルとの浮気を知り、その事を嘆く手紙をフランスに送ったが、手紙を載せたフランス艦がイギリスに拿捕され、手紙の内容が新聞に掲載されてしまう。大恥をかいたナポレオンは離婚を決意し、妻が戻る前に家から荷物を叩き出してしまった。しかし、彼女の連れ子のウジェーヌとオルタンスの涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌへの愛から離婚は思い止まったのだが、この直後のブリュメールのクーデタを成功に導くための要人対策に広い人脈があったジョゼフィーヌも一役買っている。
ジョゼフィーヌは、初めの離婚騒動あたりから徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていくが、反対にナポレオンのジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情は冷めていき、他の女性達に関心を持つようになっていった。
フランス皇后
1804年12月、ナポレオンが「フランス人の皇帝陛下」として即位すると、ジョゼフィーヌにも「フランス人の皇后陛下」の称号が与えられた。
その後ナポレオンは、妹のカロリーヌから紹介されたエレオノール・ドニュエルやポーランドの愛人マリア・ヴァレフスカとの間に男児が生まれた事などもあり、1810年1月には嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌを離縁した。離婚式での彼女は娘のオルタンスが支えなければ歩けないほどショックを受けた様子だった。それ以後、彼女はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送ったが、多額の年金を支給され、死ぬまで「ナヴァール女公皇后殿下」という「皇后」の称号を保持することを許された。マルメゾン城のナポレオン居室は、皇帝が去ったままの状態でジョゼフィーヌの手によって保たれ、彼女はこの部屋のものを「聖遺物」と称したという。離婚後もナポレオンとはよき話相手であり、ナポレオンの後妻マリア・ルイーザが嫉妬するほどだった。
ナポレオンの退位後は気落ちしがちで、彼が百日天下でパリに帰還するのを待たずに肺炎になって急死[2]、マルメゾン市内のサン・ピエール=サン・ポール教会に埋葬された。最後の言葉は「ボナパルト、ローマ王、エルバ島…」だった。そのナポレオンが配流先のセントヘレナ島で死去した際の最期の言葉は「フランス、陸軍、陸軍総帥、ジョゼフィーヌ…」だった。
家族
ジョゼフィーヌが前夫ボアルネ子爵との間にもうけた娘オルタンスは、ナポレオンの弟ルイと結婚してオランダ王妃となり、後に皇帝ナポレオン3世となるルイ=ナポレオンら3人の男子を生んだ。1810年にオルタンスはルイ・ボナパルトと離婚し、三男のルイ=ナポレオンはオルタンスが引き取って育てた。
息子ウジェーヌはナポレオンの養子となり、イタリア副王にまで出世した。その後バイエルン王マクシミリアン1世の娘アウグステ王女と結婚し、ナポレオン失脚後はバイエルン王国の貴族となった。その長女のジョゼフィーヌはスウェーデン王オスカル1世の王妃となった。
逸話
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関連項目
帝政様式 - ヴァンドーム広場にあるショーメに造らせたティアラの着用が欧州王室礼装の習慣になったのは、"帝政スタイル"を創り出したジョゼフィーヌからだとされている。
ウビガン - 愛用香水の一つ- デジレ・クラリー
関連作品
- 舞台
- 『愛あれば命は永遠に』(1985年、宝塚歌劇花組公演、演・若葉ひろみ)
- 『眠らない男・ナポレオン -愛と栄光の涯に-』(2014年、宝塚歌劇星組公演、演・夢咲ねね)
脚注
^ ジョン・バクスター 『二度目のパリ 歴史歩き』 ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013年、36頁。ISBN 978-4-7993-1314-5。
^ 池上英洋 『美しきイタリア 22の物語』 光文社、2017年、23頁。ISBN 978-4-334-04303-2。
参考文献
安達正勝 『ジョゼフィーヌ―革命が生んだ皇后』 白水社、1989年
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