五斗米道

































五斗米道(ごとべいどう)は、通説では後漢末に張陵(張道陵とも)が、蜀(四川省)の成都近郊の鶴鳴山(あるいは鵠鳴山とも、現在の大邑県)で起こした道教教団。2代目の張衡の死後、蜀では巴郡巫県の人である張脩(張修)の鬼道教団が活発化した、益州牧劉焉の命で、3代目の張魯とともに漢中太守蘇固を攻め滅ぼしたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めた。



概要


魚豢の『典略』(『魏略』)によると、五斗米道として教団を創始したのは張脩であるという。『三国志』の注釈者である裴松之はこの記述について「張脩は張衡とあるべき」としているが、『資治通鑑』や『三国志集解』にある『張魯伝集解』ではこれを否定している。『後漢書』では「黄巾の乱が起こった中平元年(184年)の7月に、巴郡の妖巫張脩が反乱した」とあるので、一時期は張脩が宗教勢力を持っていたのだろう。


五斗米道の名は、信者に五斗(=500合=当時20リットル)の米を寄進させたことに由来する。張魯が張陵を『天師』として崇めたことから、後には『天師道』という呼称に変わり、さらに正一教と名を変えて現代まで残る。呪術的な儀式で信徒の病気の治癒をし、流民に対し無償で食料を提供する場を設けた。悪事を行ったものは罪人とせず3度まで許し、4度目になると罪人と評して道路工事などの軽い労働を課した。これらのことにより信仰を集め、さらに信者から構成される強固な自治組織が形成されていった。一般信者を鬼卒、それをまとめるものを祭酒、更にその上に治君・師君(張魯が号した)を置く階級制があった。


こうして五斗米道は、三国時代直前には漢中に宗教王国とも言える組織を形成したが、建安20年(215年)に曹操が漢中に侵入してくると、これに帰順する。五斗米道は帰順後も漢中支配を実質的に容認されたが、曹操が五斗米道信者を強制的に北方へ連行した事から教祖を中心とした祭酒制度を崩壊、五斗米道そのものは一時中絶の危機に陥る。その後、西晋が滅亡し東晋が東遷した時に、現在の江西省にある竜虎山へ拠点を移した。以降は正一教の項を参照の事。





関連項目


  • 太平道







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