ソグド人
ソグド人(そぐどじん、英: sogd)は、中央アジアのゼラフシャン(ザラフシャン)川流域地方に住んでいたイラン系(ペルシア系)のオアシス灌漑農耕民族。また、商業を得意とし、あまり定住にこだわらず、シルクロード周辺域で多様な経済活動を行った。近年の研究では、シルクロードを経済的に支配していたといわれている。
居住地であるソグディアナがシルクロードの中間に位置することから、アケメネス朝支配下にあった頃より広く交易に従事し、マケドニアのアレクサンドロス大王の征服、その後のグレコ・バクトリア王国支配下においても、独自のソグド語を守り、ウイグル文字の祖であるソグド文字を利用し、宗教的にはゾロアスター教、のちに一部がマニ教を信奉して、東方のイラン系精神文化を中国にもたらした。その活動範囲は東ローマ帝国から唐の長安にまで及んだが、イスラム勢力の台頭によりイスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われた。ソグディアナ地方はのちに、ウズベク人南下によるテュルク化が進んでいった。
目次
1 歴史
1.1 ゼンド・アヴェスター
1.2 アケメネス朝時代
1.3 ヘレニズム時代
1.4 奄蔡・康居時代
1.5 粟特国・昭武九姓
1.6 玄奘の記録
1.7 ウイグル時代
1.8 ソグド人の行方
2 ソグド人の扱う商品
3 ソグド姓
4 人種
5 言語・文字
6 宗教
7 習慣
8 脚注
9 参考資料
10 関連項目
歴史
ゼンド・アヴェスター
ソグド人がもっとも古く現れているのは、『ゼンド・アヴェスター』(アヴェスターに付けられた注釈、en)であるとされている。イランの最高神オルムズが自らの創った国々の名を挙げている中で、「スグドの地のガウ」という言葉が出てくる。また、『ヤシュト書』にも出てくる[1]。
アケメネス朝時代
アケメネス朝のダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)によって建てられた『ベヒストゥン碑文』において、ダレイオス1世に臣従した23国の一つとしてスグダと刻まれている。また、古代ギリシャのヘロドトスも『歴史』においてソグドイ人、ソグディア人と記している。
アケメネス朝の臣下となったソグド人は、パルティア人、コラスミオイ人、アレイオイ人とともに第16番目の州(納税区)に属し、300タラントン[2]を納めることとなった。
紀元前480年、クセルクセス1世(在位:前485年 - 前465年)のギリシア遠征ではアルタイオスの子であるアザネスの指揮下で従軍した。
ヘレニズム時代
紀元前329年、マケドニア王アレクサンドロス3世の軍隊が中央アジアに侵攻し、マラカンダ(サマルカンド)を攻め落とした時、抵抗したソグド人の死者は約3万人にのぼったと歴史書にある。長期間のゲリラ戦に手を焼いたアレクサンドロスは、中心都市の占領のみで矛を収め将兵にソグド女性との婚姻を奨励するなど住民の鎮撫に努めた。アレクサンドロスの死後、マラカンダを中心とするソグディアナ一帯は周辺の諸民族の乱入による混乱が続くが、その間にソグド人はしだいに東西貿易に従事する商人として優れた才能を発揮するようになる。
奄蔡・康居時代
中国の史書では初め、西方異民族のことを、専ら胡人と呼んでいた。ソグド人もこの中に含まれており、商胡というのがそれにあたる。この頃のソグディアナは康居(こうきょ)という遊牧国家が支配していた。その西北にも奄蔡(えんさい)という遊牧国家があり、ソグド人はこれらのもとで暮らしていた。
前漢の武帝(在位:前141年 - 前87年)の時代から、中国が西域(中央アジア)と通じるようになり、シルクロード交易が盛んになると徐々にバクトリア商人に取って代わり、4世紀以降ソグド商人は東西交易の主役となった。ソグド人商人はシルクロードの各所にソグド人コロニーを形成し、ソグドネットワークともいえる情報網を張り巡らしていた。ソグド人はこれによってシルクロード交易で主導的な地位を成していた。
粟特国・昭武九姓
“ソグド”として中国史書に登場するのは、『魏書』西域伝においてであり、そこには粟特国(そくどくこく)と記されている。粟特国は漢代に奄蔡と呼ばれた地域にあたり、康居の西北、大沢(アラル海)沿いに在った。北魏の時代(386年 - 534年)、粟特国には商人が多く涼州の姑臧にまで商売に来ていたという。この商人こそがソグド人だと思われる。また、旧康居である康国(サマルカンド)をはじめとした国々、いわゆる昭武九姓においてもソグド人は健在で、深目、高鼻、多髯という外見と商業に長けていることが記されている。
これらの国々はクシャーナ朝、エフタル、突厥と、たびたび遊牧国家の支配を受け、その都度支配者が変遷したが、その間もソグド人は独自の文化を維持し、農業と商業に従事した。
玄奘の記録
中国唐の時代、ソグド人は玄奘の『大唐西域記』において、窣利人として記される。以下は窣利総記の全文。
素葉(スイアブ)より西に数十の孤城があり、城ごとに長を立てている。命令をうけているのではないが、みな突厥に隷属している。素葉城から羯霜那国(史国)に至るまで、土地は窣利と名付け、人も「窣利人」という。文字・言語もその名称に随って「窣利文字・窣利語」と称している。字の成り立ちは簡略で、もと二十余文字であるが、それが組み合わさって語彙ができ、その方法が次第にひろがって文を記している。ほぼ記録があり、その文を竪(縦)に読んでいる。そのやり方を順次に伝授して、師匠も弟子もかえることがない。氈や褐を身につけ、皮や氎を着ている。裳も服もせまく、身にぴったりとし、頭髪をととのえて頭頂を出しているか、或いはまったく剃り、絵彩を額に巻く。体つきは大きいが、性格は臆病であり、風俗は軽薄で、詭詐がまかり通っている。おおむね欲張りで、父子ともに利殖をはかっている。財産の多い者を貴とし、身分の優劣の区別が無い。たとえ巨万の富を持った者でも、衣食は粗悪である。力田(農民)と逐利(商人)が半ばしている。
ウイグル時代
8世紀、中央ユーラシアにおいて突厥に代わり、回鶻(ウイグル)が北方草原の覇者となった。ソグド人は引き続き貿易相手となったウイグルのもとへ入り込み、植民集落(ソグド人コロニー)や植民都市を形成した。これらのソグド人たちはウイグルにソグド文化を持ち込み、なかには遊牧民化する者も現れたため、次第に混血が起こり、ソグド系突厥人やソグド系ウイグル人といった集団が生まれるようになった。こうしてウイグルのもとで貿易活動に従事したソグド人は唐国内の長安を筆頭とする大都市に多くのマニ教寺院を建て、そこを拠点に商業活動に従事した。
ソグド人の行方
唐の時代に活発に活動したゾグド人であったが、同胞の有力節度使の安禄山が安史の乱を起こして同国に壊滅的な打撃をあたえた。それまでの商業活動に反感を持たれていたこともあり各地で迫害を受け衰退し周辺民族に吸収されていった。
ソグド人の本国ソグディアナは8世紀中ごろにアッバース朝の直接支配下に入り、それ以後イスラム化が進行するにつれて、徐々にソグド人としての宗教的・文化的独自性は失われていく。特にサーマーン朝治下では、アラビア文字ペルシア語が主流となった。そのような近代ペルシア語が現在のタジク語につながっていく。一方、カラハン朝以後のテュルク系イスラム王朝治下でテュルク化が進むと、アラビア文字テュルク語が支配的となっていく。
カラハン朝出身の大学者マフムード・カーシュガリーの『ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク』(トルコ語アラビア語総覧)では、西部天山の北麓に11世紀まで本国出身のソグド人集団が確認されるが、彼らはソグド語とテュルク語(カラハン朝トルコ語)のバイリンガルであり、テュルクの服装と習慣に染まっていたという。しかし彼らはその1〜2世紀後にソグド文字とソグド語を使わなくなった。
西トルキスタンの大部分ではテュルク語やペルシア語に替わったものの、山間部ではソグド語が細々と保たれ、20世紀後半にザラフシャン河上流にあるヤグノーブ渓谷で約3千人のヤグノビ人に話されていたヤグノーブ語はその生き残りである。
一方、東トルキスタンにいたソグド人も西ウイグル王国や甘州ウイグル王国などのもとで生き残り、彼らのもたらしたソグド文字はウイグル文字に進化し、さらに13世紀にモンゴル文字へ、16〜17世紀には満州文字へと進化していった。
このようにソグド人は他の民族の中に溶け込んでいき、後世の文化へ多大な影響を与えることとなった。
ソグド人の扱う商品
ソグド人が売買する商品はシルクロードという名の通り、絹馬貿易によってウイグルに備蓄された絹織物(馬価絹:ばかけん)や鉄製品、陶磁器、大黄、肉桂などの中国の産物と、西方からの金銀器、ガラス製品、瑪瑙、玉(ぎょく)、琥珀、真珠、珊瑚などの宝石類と金塊、金貨、駿馬、香辛料、薬草、葡萄酒、香料、絨毯(じゅうたん)などの産物で、主に扱われたのは奢侈品(しゃしひん)であった[3]。
また、馬やラクダと並ぶほど高額商品として売買されたのが奴隷であった。戦争や犯罪などによって国内外から生み出された奴隷は、付加価値を高めるため外国語や礼儀作法、歌舞音曲その他の技芸を教え込まれ、商品としての教育を施された上で売りさばかれた。これについて10世紀のイブン・ハウカルは「サーマーン朝統治下のサマルカンドはマー・ワラー・アンナフル中の奴隷の集まる所であり、しかもサマルカンドで教育を受けた奴隷が最良である」と記している。これら奴隷貿易では契約文書が用いられており、近年になってそれが多数発見されている。
ソグド姓
中国に来住したソグド人は、漢文書による行政上の必要から漢字名を持たされたらしく、その際には出身都市名を示す漢語が姓として採用された。
- サマルカンド→康
- ブハラ→安(安禄山など)
- マーイムルグ→米
- キッシュ→史(史思明など)
- クシャーニヤ→何
- カブーダン→曹
- タシュケント→石
- パイカンド→畢
これらを一括してソグド姓と呼ぶ。また、都市名を特定できないが、羅、穆、翟もソグド姓に含まれる。
人種
ソグド人は、色黒の肌[4]深目、高鼻、多鬚[5]
などのコーカソイドとしての身体的特徴が挙げられる。
言語・文字
ソグド人の言語はソグド語である。ソグド語は印欧語族イラン語派に属する中世イラン語の東方言のひとつであり、同じ仲間としてはホラズム語、バクトリア語、コータン語がある。
紀元前6世紀にソグディアナがアケメネス朝の支配下に入ると、アケメネス朝からアラム文字が流入し、初めはアラム文字でアラム語を記していたが、次第にアラム文字でソグド語を記すようになり、最終的にアラム文字を草書化してソグド文字を開発し、ソグド文字でソグド語を記すようになった。やがてソグド人が商人として各地に散らばったため、ソグド語・ソグド文字は中央アジアのシルクロードにおいて国際共通語となった。
宗教
ソグド人の宗教はゾロアスター教をはじめ、マニ教、ネストリウス派キリスト教、仏教を信仰した。
習慣
生まれたばかりの赤子の口に氷砂糖を含ませ、掌に膠(接着剤)を塗る習慣があった。その理由は、成長して商人となった時、甘い言葉で商売の相手を口説き、お金を握ったら絶対に離さないという願掛けのようなものである。
脚注
^ 護雅夫・岡田英弘『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』p91
^ 当時の1タラントンはおよそ黄金25キログラムくらいと思われる。
^ 森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』
^ 「易林」で胡人について黒須、深目、高鼻と記録
^ 『魏書』列伝90「粟特国、康国。顔帥古注漢書‐巻96烏孫国に異相で青眼赤須の注釈有り、奄蔡に注釈な無し』
参考資料
アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記 上』大牟田章訳、岩波書店、2005年、ISBN 4003348311
荒川正晴 『ユーラシアの交通・交易と唐帝国』 名古屋大学出版会、2010年。
玄奘『大唐西域記1』水谷真成訳、平凡社、1999年、ISBN 4582806538
小松久男『中央ユーラシア史』山川出版社、2005年、ISBN 463441340X
ヘロドトス『歴史』(『ヘロドトス』松平千秋訳、筑摩書房、1988年、ISBN 4480203109)
護雅夫・岡田英弘『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』山川出版社、1996年 ISBN 4634440407
森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』講談社、2007年、ISBN 9784062807050
- 『魏書』(列伝第九十 西域)
関連項目
- 安禄山
- 如宝
- イラン語群
- 回鶻
- 胡
- 昭武九姓
- シルクロード
- ソグディアナ
- ソグド語
- トハラ人
- マッサゲタイ