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カール6世(ドイツ語: Karl VI., 1685年10月1日 - 1740年10月20日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1711年 - 1740年)、ハンガリー王(在位:同)、ボヘミア王(在位:同)。レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーネの次男でヨーゼフ1世の弟。マリア・テレジアの父。ハプスブルク家最後の男系男子であり、狭義には同家最後のローマ皇帝である。
目次
1 生涯
1.1 スペイン継承戦争
1.2 皇帝即位後
1.3 晩年
2 系譜
3 子女
4 人物
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
生涯
スペイン継承戦争
1700年、従兄のスペイン王カルロス2世が病死した。カルロス2世には男児がなかったため、スペイン・ハプスブルク家は断絶した。そのため、カールの父レオポルト1世は、カルロス2世の後継者としてカールを送ろうとした。しかしカルロス2世は生前、後継者としてフランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップ(フェリペ5世として即位)を推薦していたため、ここにスペイン継承戦争が起こった。これはイングランドやオランダ共和国などが、フランスがスペインを併合することで欧州の勢力均衡が崩れることを恐れたためである[1][2]。
カールは1703年に同盟国ポルトガルへ渡り、1705年にイングランドの将軍ピーターバラ伯がバルセロナを占領すると(第1次バルセロナ包囲戦)、バルセロナに入ってカルロス3世を称し、マドリードのフェリペ5世と対峙した。1706年にスペイン軍に包囲されたバルセロナを守り抜き(第2次バルセロナ包囲戦)、ポルトガルから進軍してマドリードを落としたイングランドの将軍ゴールウェイ伯・ピーターバラと合流した。しかし、フェリペ5世にマドリードを奪い返され、翌1707年にピーターバラがイングランドへ召還、ゴールウェイがフランスの将軍ベリック公にアルマンサの戦いで大敗するとスペインのほとんどを制圧され、劣勢になった。
1708年、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル家のエリーザベト・クリスティーネとバルセロナで婚礼を挙げ、1710年にイギリスの将軍ジェームズ・スタンホープとオーストリアの将軍グイード・フォン・シュターレンベルクが反撃してマドリードを再占領したが、フェリペ5世に再び奪回された上、フランスから援軍を率いたヴァンドーム公が同盟軍を急襲、スタンホープはブリウエガの戦いで捕らえられシュターレンベルクもビリャビシオーサの戦いで敗北、フェリペ5世の優位は決定的になった[3]。
1711年、兄の皇帝ヨーゼフ1世が死去すると情況が大きく変わった。兄には息子がなく、皇帝選出のためドイツへ戻ったカールがカール6世として帝位を継ぐことになったのである。こうなると、もしカール6世がスペイン王位も継承すれば、かつてのカール5世(スペイン王カルロス1世)のような欧州の広大な領土に君臨する強大な君主の出現となり、やはり勢力均衡が崩れてしまうことになる。そこで1713年、イギリスなどはフランスとスペインが併合されないことを条件として、フェリペ5世の即位を認めることにしてユトレヒト条約を結んだ。こうしてカールはスペイン王位を断念せざるを得なくなり、1714年にオーストリアもフランス・スペインとラシュタット条約を締結した。残されたバルセロナは1714年にフェリペ5世に落とされている(第3次バルセロナ包囲戦)[4][5]。
皇帝即位後
皇帝即位後は対外戦争に力を注ぎ、父の代から続いていたハンガリーでのラーコーツィ・フェレンツ2世の反乱を終息させ、南ネーデルラントからミラノ公国などに勢力を拡大する。また四国同盟戦争でサヴォイア公国との間でシチリアとサルデーニャの交換が成立し、その際サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世にサルデーニャ王の称号を認めた。さらに1716年、オスマン帝国との間に墺土戦争が起こるとバルカン半島にプリンツ・オイゲンを派遣してオスマン帝国スルタン・アフメト3世と戦い勝利、1718年のパッサロヴィッツ条約でオスマン帝国からベオグラードを奪い、オーストリア系ハプスブルク家の最大版図を築き上げた。
しかし、スペイン領イタリアの奪回を夢見るスペインとの対立は続き、フェリペ5世はサルデーニャとシチリアを占領する強硬策に出たため四国同盟戦争に巻き込まれた。たび重なる戦争で疲憊している同盟側はスペインを圧倒するものの、決定的な勝利を得ることができず、パルマ公国を譲渡する羽目になった。大北方戦争ではロシアのツァーリ・ピョートル1世のバルト海進出を抑えるためイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世およびポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世と同盟を結んだ。しかし、その後消極的な姿勢を取ったためイギリスが離反して1721年にフランス・スペインと同盟を結び、オーストリアは孤立した。カール6世はイギリスに対抗してオステンド会社を成立して交易の競争に参入し、同じくイギリスと対立しているスペイン(両国はジブラルタルをめぐって対立)と1725年にウィーン条約を締結してそれまでの対立を解消した。これに対してイギリス、フランス、オランダはハノーファー条約で同盟し、戦争がおこるように思われたが、翌年にオイゲンの尽力でロシア・プロイセンとも同盟を締結して孤立から脱した。1727年からスペインとイギリスのジブラルタルをめぐる小規模な戦争が行われ、1729年にセビリア条約で終結した。スペインはオーストリアの援軍を期待したが、イギリスの外交官の手回しで中立を堅持した。さらに政略結婚を断られたためスペインは同盟を解消した。国事詔書の承認を求めるカール6世は孤立を避けるため、イギリスと新たに1731年にウィーン条約を締結して同盟を結び直した[6][7]。
ハプスブルク家ではそれまで所領の分割相続が行なわれ、家領の統治の一体性が損なわれてきた。そのためカール6世は1713年、国事詔書を出して領土の分割禁止と長子相続を決定した。この政策で全領土の支配層及び諸国の承認を求め、ハンガリーは貴族の特権を承認、ドイツ諸侯は1732年に承認、イギリスはオステンド会社の解散と引き換えに1731年に、フランスは1733年から1735年のポーランド継承戦争でロレーヌ公国を手放すことで承認を取り付けた。
しかし皇后との間にはなかなか子ができず、ありとあらゆる治療を試みた。1716年に唯一の男児レオポルトが誕生するが1歳に満たずに夭折した。その後は女児しか誕生せず、長女マリア・テレジアを後継者にするしかなくなった。このため1724年、再び国事詔書を出してマリア・テレジアを家領の相続者に定めた[8][9][10]。
晩年
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内政においては重商政策を採用して財政を潤わした。また、自身が文化人でもあったことから音楽・建築・美術を保護したが、晩年にも対外戦争は続けられ、東インド会社の解散などで財政は悪化した。ポーランド継承戦争でロレーヌの放棄と引き換えにロンバルディアを得たが、スペインにナポリとシチリアを奪われた(代わりにパルマ公国を獲得)。1737年にオスマン帝国との再度の戦争(オーストリア・ロシア・トルコ戦争)に敗れてベオグラードを奪還され、領土は縮小した。
ウィーンへ留学に来ていたロレーヌ公子フランツ・シュテファン(後の皇帝フランツ1世)を息子代わりと思ったのか大変気に入り、勉学のために来た彼を趣味の狩猟に頻繁に誘った。マリア・テレジアもフランツを心から愛するようになり、1736年に2人は華燭の典を挙げた。政治的にも影響力のあったオイゲンは結婚相手にプロイセンのフリードリヒ王子(後の大王フリードリヒ2世、カトリックに改宗する見込みがないため婚約は破棄された)を推挙していた。また1737年には、イタリアでトスカーナ大公国のメディチ家が断絶すると大公位はフランツが継承した。フランスとの交渉で、フランツとマリア・テレジアの結婚を認めるに当たって、フランツがロレーヌを放棄する見返りに与えられたのである。
1740年、狩猟の最中に突如腹痛を訴え、闘病の末、56歳で崩御した。死因は胃癌と推定されている。国事詔書に基づいてマリア・テレジアがハプスブルク家の家督を継いだが、これを巡ってオーストリア継承戦争が勃発することとなる。
系譜
カール6世
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父: レオポルト1世 (ローマ皇帝)
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祖父: フェルディナント3世 (ローマ皇帝)
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曾祖父: フェルディナント2世 (ローマ皇帝)[1]
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曾祖母: マリア・アンナ (バイエルン公女)
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祖母: マリア・アナ[2]
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曾祖父: フェリペ3世 (スペイン王)
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曾祖母: マルガリータ[1]
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母: エレオノーレ・マグダレーネ[3]
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祖父: フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)
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曾祖父: ヴォルフガング・ヴィルヘルム (プファルツ=ノイブルク公)
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曾祖母: マグダレーネ (バイエルン選帝侯女)
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祖母: エリーザベト・アマーリア
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曾祖父: ゲオルク2世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)
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曾祖母: ゾフィー・エレオノーレ (ザクセン選帝侯女)
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- [1]は兄妹。[2]の兄はスペイン王フェリペ4世、姉はフランス王妃アンヌ・ドートリッシュ。
- [3]の妹はポルトガル王ペドロ2世妃マリア・ソフィアと、スペイン王カルロス2世妃マリア・アンナがいる。
子女
皇后エリーザベト・クリスティーネ(愛称リースル、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルードルフの娘)との間には4子がいるが、成人したのは2人だけである。
- レオポルト・ヨーハン(1716年)
マリア・テレジア(1717年 - 1780年) - ハンガリー女王、ボヘミア女王、オーストリア大公、ローマ皇后。通称「女帝」
マリア・アンナ(1718年 - 1744年) - ロートリンゲン公子カール・アレクサンダー(フランツ1世の弟)妃
- マリア・アマーリア(1724年 - 1730年)
人物
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- 男児にこそ恵まれなかったが、皇后エリーザベト・クリスティーネを「白き肌のリースル」と呼びこよなく愛した。
- 家臣の忠告を無視し、娘に政治家としての教育を施さず、大した軍事力を残さなかったために、各国から侵攻を受けた際、マリア・テレジアは非常に苦労した。
- 死の直前まで男児誕生(ただし娘マリア・テレジアの子=孫)を夢見ていた。なお、カール6世の死亡時にマリア・テレジアは第4子を懐妊中で、この子こそ待望の男児(後の皇帝ヨーゼフ)であったが、その誕生は1741年3月であった。
- プロイセン王国のフリードリヒ2世が王太子時代に確執関係にあった父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世から廃嫡の憂目にあったのを見かねて、自ら調停に乗り出して父子関係を修復させたことがある[11]。
脚注
^ 友清, pp.12-26.
^ マッケイ, pp. 61-67.
^ 友清, pp. 74-76, 156-159, 177-179, 197-199, 292-294.
^ 友清, pp. 303-304, 314-315, 362-366.
^ マッケイ, pp. 171-176, 185-192.
^ 成瀬ら編, pp. 21-24.
^ マッケイ, pp. 207-236, 276-297.
^ 成瀬ら編, pp. 25-26.
^ 南塚編, pp. 134-138.
^ マッケイ, pp. 193-221.
^ 菊池, pp. 191-192.
参考文献
- 『ドイツ史 2 1648年-1890年』 成瀬治、山田欣吾、木村靖二編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。ISBN 978-4-634-46130-7。
- 『ドナウ・ヨーロッパ史』 南塚信吾編、山川出版社〈新版 世界各国史 19〉、1999年3月。ISBN 978-4-634-41490-7。
- 菊池良生 『傭兵の二千年史』 講談社〈講談社現代新書 1587〉、2002年1月。ISBN 978-4-06-149587-6。
- 友清理士 『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史』 彩流社、2007年2月。ISBN 978-4-7791-1239-3。
- マッケイ, デレック 『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア 興隆期ハプスブルク帝国を支えた男』 瀬原義生訳、文理閣、2010年5月。ISBN 978-4-89259-619-3。
関連項目
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ウィキメディア・コモンズには、カール6世 (神聖ローマ皇帝)に関連するメディアおよびカテゴリがあります。 |
先代: ヨーゼフ1世
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神聖ローマ皇帝 1711年 - 1740年
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次代: カール7世
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テシェン(チェシン)公 1711年 - 1722年
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次代: レオポルト
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オーストリア大公 ハンガリー王 ボヘミア王 1711年 - 1740年
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次代: マリア・テレジア
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先代: カルロ1世
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パルマ公 1735年 - 1740年
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先代: フェリペ5世
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バルセロナ伯 1705年 - 1714年
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次代: フェリペ5世
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ナポリ王 1707年 - 1735年
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次代: カルロ7世/5世
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先代: ヴィットーリオ・アメデーオ
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シチリア王 1720年 - 1734年
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神聖ローマ皇帝
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カロリング朝 |
カール1世800-814 / ルートヴィヒ1世813-840 / ロタール1世817-855 / ルートヴィヒ2世850-875 / カール2世875-877 / カール3世881-887 / グイード1891-894 / ランベルト1891-898 / アルヌルフ896-899 / ルートヴィヒ3世2901-915 / ベレンガル3915-924
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ザクセン朝 |
オットー1世962-973 / オットー2世967-983 / オットー3世996-1002 / ハインリヒ2世1014-1024
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ザーリアー朝 |
コンラート2世1027-1039 / ハインリヒ3世1046-1056 / ハインリヒ4世1084-1105 / ハインリヒ5世1111-1125 / ロタール3世41133-1137
|
ホーエンシュタウフェン朝 |
フリードリヒ1世1155-1190 / ハインリヒ6世1191-1197 / オットー4世51209-1215 / フリードリヒ2世1220-1250
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ルクセンブルク家 |
ハインリヒ7世1312-1313 / ルートヴィヒ4世61328-1347 / カール4世1355-1378 / ジギスムント1433-1437
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ハプスブルク家 |
フリードリヒ3世1452-1493 / マクシミリアン1世1508-1519 / カール5世1530-1556 / フェルディナント1世1558-1564 / マクシミリアン2世1564-1576 / ルドルフ2世1576-1612 / マティアス1612-1619 / フェルディナント2世1619-1637 / フェルディナント3世1637-1657 / レオポルト1世1658-1705 / ヨーゼフ1世1705-1711 / カール6世1711-1740 / カール7世61742-1745
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ハプスブルク=ロートリンゲン家 |
フランツ1世71745-1765 / ヨーゼフ2世1765-1790 / レオポルト2世1790-1792 / フランツ2世1792-1806
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^1 ヴィドー家
^2 ボゾン家
^3 ウンロシング家
^4 ズップリンブルク家
^5 ヴェルフ家
^6 ヴィッテルスバッハ家
^7 ロートリンゲン家
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ハンガリー王
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|---|
アールパード朝(大公) |
アールモシュ855頃-895頃 / アールパード895頃-907頃 / ジョルト907頃-947頃 / ファリチ947頃-955頃 / タクショニュ955頃-972頃 / ゲーザ972頃-997 / イシュトヴァーン997-1000
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アールパード朝(王) |
イシュトヴァーン1世1000-1038 / オルセオロ・ペーテル1038-1041 / アバ・シャームエル1041-1044 / オルセオロ・ペーテル(復位)1044-1046 / アンドラーシュ1世1046-1060 / ベーラ1世1060-1063 / シャラモン1063-1074 / ゲーザ1世1074-1077 / ラースロー1世1077-1095 / カールマーン1世1095-1116 / イシュトヴァーン2世1116-1131 / ベーラ2世1131-1141 / ゲーザ2世1141-1162 / イシュトヴァーン3世1162-1172 / ラースロー2世(対立王)1162-1163 / イシュトヴァーン4世(対立王)1163-1165 / ベーラ3世1172-1196 / イムレ1世1196-1204 / ラースロー3世1204-1205 / アンドラーシュ2世1205-1235 / ベーラ4世1235-1270 / イシュトヴァーン5世1270-1272 / ラースロー4世1272-1290 / アンドラーシュ3世1290-1301
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プシェミスル朝 |
ヴェンツェル1301-1305
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ヴィッテルスバッハ朝 |
オットー1305-1307
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アンジュー朝 |
カーロイ1世1308-1342 / ラヨシュ1世1342-1382 / マーリア1382-1385 / カーロイ2世1385-1386 / マーリア(復位)1386-1395
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ルクセンブルグ朝 |
ジグモンド1387-1437
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ハプスブルグ朝 |
アルベルト1437-1439
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ヤゲロー朝 |
ウラースロー1世1440-1444
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ハプスブルグ朝 |
ラースロー5世1444-1457
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フニャディ朝 |
マーチャーシュ1世1458-1490
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ヤゲロー朝 |
ウラースロー2世1490-1516 / ラヨシュ2世1516-1526
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ハプスブルグ朝 |
フェルディナーンド1世1526-1564 / ヤーノシュ1世(対立王)1526-1540 / ヤーノシュ2世(対立王)1540-1570 / ミクシャ1世1564-1576 / ルドルフ1576-1608 / マーチャーシュ2世1608-1619 / フェルディナーンド2世1619-1637 / フェルディナーンド3世1637-1647 / フェルディナーンド4世1647-1654 / リポート1世1655-1705 / ヨージェフ1世1705-1711 / ラーコーツィ・フェレンツ2世(対立王)1705-1711 / カーロイ3世1711-1740 / マーリア・テレージア1740-1780
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ハプスブルグ=ロタリンギア朝 |
ヨージェフ2世1780-1790 / リポート2世1790-1792 / フェレンツ1世1792-1835 / フェルディナーンド5世1835-1848 / フェレンツ・ヨージェフ1世1848-1916 / カーロイ4世1916-1918
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※1918年、ハンガリー民主共和国成立 |
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ボヘミア君主
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プシェミスル朝(ボヘミア公) |
ボジヴォイ1世850/71-894/5 / スピチフニェフ1世894/5-905/15 / ヴラチスラフ1世905/15-921 / ヴァーツラフ1世921-929 / ボレスラフ1世929-967 / ボレスラフ2世967-999 / ボレスラフ3世996-1002
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ピャスト朝(ボヘミア公) |
ヴラジヴォイ1002-1003 / ボレスラフ4世1003-1004
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プシェミスル朝(ボヘミア公) |
ヤロミール1004-1012 / オルドジフ1012-1033 / ヤロミール(復位)1033-1034 / ブジェチスラフ1世1034-1055 / スピチフニェフ2世1055-1061 / ヴラチスラフ2世1061-1092(王:1085-1092) / コンラート1世1092 / ブジェチスラフ2世1092-1100 / ボジヴォイ2世1100-1107 / スヴァトプルク1107-1109 / ヴラジスラフ1世1109-1117 / ボジヴォイ2世(復位)1117-1120 / ヴラジスラフ1世(復位)1120-1125 / ソビェスラフ1世1125-1140 / ヴラジスラフ2世1140-1173(王:1158-1173) / ベドジフ1172-1173 / ソビェスラフ2世1173-1178/9 / ベドジフ(復位)1178/9-1189/92 / コンラート2世1189-1191 / ヴァーツラフ2世1191-1192 / オタカル1世1192-1193 / インジヒ・ブレチスラフ1193-1197 / ヴラジスラフ3世1197 / オタカル1世(復位)1197-1198
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プシェミスル朝(ボヘミア王) |
オタカル1世1198-1230 / ヴァーツラフ1世1230-1253 / オタカル2世1253-1278 / ヴァーツラフ2世1278-1305 / ヴァーツラフ3世1305-1306
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メンハルド朝 |
インジフ・コルタンスキー1306
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ハプスブルコヴェ朝 |
ルドルフ1世1306-1307
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メンハルド朝 |
インジフ・コルタンスキー(復位)1307-1310
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ルケンブルコヴェ朝 |
ヤン・ルケンブルスキー1310-1346 / カレル1世1346-1378 / ヴァーツラフ4世1378-1419 / ジクムント1419-1437
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ハプスブルコヴェ朝 |
アルブレヒト1438-1439 / ラジスラフ・ポフロベク1453-1457
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ポジェブラト朝 |
イジー・ス・ポジェブラト1458-1471
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フニャディ朝 |
マティアス1世・コルヴィン(対立王)1469-1490
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ヤゲロンキ朝 |
ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー1471-1516 / ルドヴィーク1516-1526
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ハプスブルコヴェ朝 |
フェルディナンド1世1526-1564 / マクシミリアン1世1564-1576 / ルドルフ2世1576-1612 / マティアス2世1612-1619
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ヴィッテルスバホヴェ朝 |
フリードリヒ1世1619-1620
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ハプスブルコヴェ朝 |
フェルディナンド2世1620-1637 / フェルディナンド3世1637-1646 / フェルディナンド4世1646-1654 / レオポルド1世1655-1705 / ヨゼフ1世1705-1711 / カレル2世1711-1740 / マリエ・テレジエ1740-1741
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ヴィッテルスバホヴェ朝 |
カレル3世・アルブレフト1741-1743
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ハプスブルコヴェ朝 |
マリエ・テレジエ(復位)1743-1780
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ハプスブルスコ=ロートリンスカ朝 |
ヨゼフ2世1780-1790 / レオポルド2世1790-1792 / フランティシェク1世1792-1835 / フェルディナンド5世1835-1848 / フランティシェク・ヨゼフ1世1848-1916 / カレル3世1916-1918
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※1918年、チェコスロバキア成立 |
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ナポリ王(1707年 - 1735年)
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アンジュー朝 |
カルロ1世1282-1285 / カルロ2世1285-1309 / ロベルト1世1309-1343 / ジョヴァンナ1世1343-1382 / カルロ3世1382-1386 / ラディズラーオ1世1386-1389
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ヴァロワ=アンジュー朝 |
ルイージ2世1389-1399
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アンジュー朝 |
ラディズラーオ1世(復位)1399-1414 / ジョヴァンナ2世1414-1435
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ヴァロワ=アンジュー朝 |
レナート1世1435-1442
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トラスタマラ朝 |
アルフォンソ1世1442-1458 / フェルディナンド1世1458-1494 / アルフォンソ2世1494-1495
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ヴァロワ朝 |
シャルル8世 (フランス王)1495
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トラスタマラ朝 |
フェルディナンド2世1495-1496 / フェデリーコ1世1496-1501
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ヴァロワ朝 |
ルイ-ジ3世1501-1504
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トラスタマラ朝 |
フェルディナンド3世1504-1516
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スペイン・ハプスブルク朝 |
カルロ4世1516-1556 / フィリッポ1世1556-1598 / フィリッポ2世1598-1621 / フィリッポ3世1621-1665 / カルロ5世1665-1700
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ブルボン朝 |
フィリッポ4世1700-1707
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オーストリア・ハプスブルク朝 |
カルロ6世1707-1735
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ブルボン朝 |
カルロ7世1735-1759 / フェルディナンド4世1759-1806
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ボナパルト朝 |
ジュゼッペ1806-1808 / ジョアッキーノ1世1808-1815
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ブルボン朝 |
フェルディナンド4世(復位)1815-1816
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※1816年、両シチリア王国成立 |
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サルデーニャ王
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アルボレア家 |
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ホーヘンスタウフェン家 |
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アラゴン家 |
ジャコモ1世1323-1327 / アルフォンソ1世1327-1336 / ピエトロ1世1336-1387 / ジョヴァンニ1世1387-1396 / マルティーノ1世1396-1410
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トラスタマラ家(アラゴン系) |
フェルディナンド1世1412-1416 / アルフォンソ2世1416-1458 / ジョヴァンニ2世1458-1479 / フェルディナンド2世1479-1516 / ジョヴァンナ1世1504-1555
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スペイン・ハプスブルク家 |
カルロ1世1516-1554 / フィリッポ1世1554-1598 / フィリッポ2世1598-1621 / フィリッポ3世1621-1665 / カルロ2世1665-1700
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スペイン・ブルボン家 |
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オーストリア・ハプスブルク家 |
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サヴォイア(=ブレッセ)家 |
ヴィットーリオ・アメデーオ1世1720-1730 / カルロ・エマヌエーレ1世1730-1773 / ヴィットーリオ・アメデーオ2世1773-1796 / カルロ・エマヌエーレ2世1796-1802 / ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世1802-1821 / カルロ・フェリーチェ1821-1831
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サヴォイア(=カリニャーノ)家 |
カルロ・アルベルト1831-1849 / ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世1849-1861
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シチリア王(1720年 - 1734年)
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オートヴィル朝 |
ルッジェーロ1世(伯)1072-1101 / シモーネ(伯)1101-1105 / ルッジェーロ2世(伯)1105-1130, (王)1130-1154 / グリエルモ1世1151-1166 / グリエルモ2世1166-1189 / タンクレーディ1189-1194 / ルッジェーロ3世(父と共治)1193 / グリエルモ3世1194 / コスタンツァ1194-1198
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ホーエンシュタウフェン朝 |
エンリーコ1194-1197 / フェデリーコ1世1198-1250 / コッラード1250-1254 / コッラディーノ1254-1268 / マンフレーディ1258-1266
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アンジュー朝 |
カルロ1世1266-1282
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アラゴン朝 |
ピエトロ1世1282-1285 / ジャコモ1世1285-1296 / フェデリーコ2世1296-1337 / ピエトロ2世1337-1342 / ルドヴィーコ1342-1355 / フェデリーコ3世1355-1377 / マリア1377-1401 / マルティーノ1世1390-1409 / マルティーノ2世1409-1410
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トラスタマラ朝 |
フェルディナンド1世1412-1416 / アルフォンソ1世1416-1458 / ジョヴァンニ1世1458-1479 / フェルディナンド2世1479-1516
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スペイン・ハプスブルク朝 |
カルロ2世1516-1556 / フィリッポ1世1556-1598 / フィリッポ2世1598-1621 / フィリッポ3世1621-1665 / カルロ3世1665-1700
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ブルボン朝 |
フィリッポ4世1700-1714
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サヴォイア朝 |
ヴィットーリオ・アメデーオ1714-1720
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オーストリア・ハプスブルク朝 |
カルロ4世1720-1734
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ブルボン朝 |
カルロ5世1735-1759 / フェルディナンド3世1759-1816
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※1816年、両シチリア王国成立 |
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アラゴン王
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ヒメノ朝 |
ラミロ1世1035-1063 / サンチョ・ラミレス1063-1094 / ペドロ1世1094-1104 / アルフォンソ1世1104-1134 / ラミロ2世1134-1137 / ペトロニラ1137-1164
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バルセロナ朝 |
アルフォンソ2世1164-1196 / ペドロ2世1196-1213 / ハイメ1世1213-1276 / ペドロ3世1276-1285 / アルフォンソ3世1285-1291 / ハイメ2世1291-1327 / アルフォンソ4世1327-1336 / ペドロ4世1336-1387 / フアン1世1387-1396 / マルティン1世1396-1410
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トラスタマラ朝 |
フェルナンド1世1412-1416 / アルフォンソ5世1416-1458 / フアン2世1458-1479 / エンリケ4世(対立王)1462-1463 / ペドロ5世(対立王)1463-1466 / レナト1世(対立王)1466-1472 / フェルナンド2世1479-1516 / フアナ1504-1555
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アブスブルゴ朝 |
カルロス1世1516-1556 / フェリペ1世1556-1598 / フェリペ2世1598-1621 / フェリペ3世1621-1665 / カルロス2世1665-1700
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ボルボン朝 |
フェリペ4世1700-1705
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アブスブルゴ朝 |
カルロス3世1705-1714
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※1715年、スペイン王位へ統合 |
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