ホンダF1





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エントリー名
ホンダ・レーシング (1964 - 1968)
ラッキーストライク・ホンダ・レーシング・F1チーム (2006)
ホンダ・レーシング・F1チーム (2007 - 2008)
チーム国籍
日本の旗 日本
チーム本拠地
日本の旗 日本 東京 (1964)
オランダの旗 オランダ アムステルダム (1965 - 1966)
イギリスの旗 イギリス バークシャー スラウ (1967 - 1968)
イギリスの旗 イギリス ノーサンプトンシャー ブラックレー ,
日本の旗 日本 栃木 (2006 - 2008, 2015 - 現在)
主なチーム関係者
日本の旗 中村良夫
イギリスの旗 ロス・ブラウン
イギリスの旗 ニック・フライ
日本の旗 田辺豊治
主なドライバー
アメリカ合衆国の旗 ロニー・バックナム
アメリカ合衆国の旗 リッチー・ギンサー
イギリスの旗 ジョン・サーティース
イギリスの旗 ジェンソン・バトン
ブラジルの旗 ルーベンス・バリチェロ
以前のチーム名称
ラッキーストライク・B・A・R・ホンダ
撤退後
ブラウンGP・フォーミュラワン・チーム

F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度
1964 - 1968 , 2006 - 2008
出走回数
88
コンストラクターズ
タイトル

0
ドライバーズ
タイトル

0
優勝回数
3
通算獲得ポイント
157
表彰台(3位以内)回数
9
ポールポジション
2
ファステストラップ
2
F1デビュー戦
1964年ドイツGP
初勝利
1965年メキシコGP
最後のレース
2008年ブラジルGP
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ホンダF1(Honda F1)は、モータースポーツ世界選手権「フォーミュラ1」で活動している日本のレーシングチーム。正式名称は、ホンダ・レーシング・F1チームHonda Racing F1 Team)。2015年以降はエンジンサプライヤーとして参戦している。母体は自動車メーカーの本田技研工業。




目次






  • 1 歴史


    • 1.1 第1期


    • 1.2 第2期


    • 1.3 無限ブランドとしての参戦


    • 1.4 第3期


      • 1.4.1 シャシー製造への試み


      • 1.4.2 エンジンサプライヤーとしての復帰


      • 1.4.3 フルコンストラクターとしての参戦再開


      • 1.4.4 撤退とチーム売却




    • 1.5 第4期


      • 1.5.1 第2期マクラーレンとのジョイント


      • 1.5.2 レッドブルグループ勢とのジョイント






  • 2 拠点


  • 3 F1での戦績


  • 4 ホンダエンジンを搭載したチームとドライバー


  • 5 ギャラリー


  • 6 シャーシおよびエンジンの型式名


    • 6.1 参戦年度・型式名




  • 7 関連人物


  • 8 脚注


  • 9 関連項目


  • 10 外部リンク





歴史


ホンダのF1参戦は、シャシー、エンジン含め全て自社製造しフルワークス体制でチームとして参戦した1964年から1968年の第1期、既存チームにエンジンを供給するという「エンジンサプライヤー」としての1983年から1992年の第2期、当初エンジンのみを供給し、後にフルワークス体制のホンダF1チームに移行した2000年から2008年の第3期、エンジンとエネルギー回生システム(ERS)をパッケージしたパワーユニットのサプライヤーとしての2015年からの第4期に分かれる。


なお、厳密にいえば、参戦体制は、第1期・第2期・第4期の参戦は本田技研工業及び本田技術研究所によるものであり、2006年以降を含む第3期参戦は本田技研工業により1999年にイギリスに設立されたホンダ・レーシング・ディベロップメント(HRD)社によるものである。



第1期





RA271(1964年)


1964年にF1参戦した当時のホンダは、マン島TTレースを制したものの、単なるオートバイメーカーに過ぎず、四輪車は軽トラックを発売しただけという四輪車メーカーとしては弱小メーカーでしかなかった。F1参戦の準備は、順風満帆の2輪部門の陰でこっそりと行われた。
1961年からF1の排気量は1.5Lと決まっており、横置きの1.5LV型12気筒エンジンを開発することに決定。エンジン技術者である中村良夫は、開発したエンジンを使ってもらうコンストラクターを探し始める。当初ホンダはエンジンサプライヤーとして参戦する予定だったのである。フェラーリとBRMは自社製エンジンを使っているため除外、ブラバムとロータスとクーパーにしぼられそのうちのブラバムにほぼ内定。ブラバムのシャシーに載せることを前提にエンジンの熟成が進められた。


1963年秋、ロータスのコーリン・チャップマンが急きょ来日、ホンダ本社に訪れこう言った。「2台走らせるロータス・25のうち1台はクライマックスエンジンを載せるが、もう1台にホンダを載せたい。場合によってはジム・クラークにドライブさせてもいい」と。これを機にコンストラクターはブラバムからロータスに変更され、エンジン開発もロータス・25にあわせて行われた。ところが1964年2月、チャップマンから電報が届いた。「2台ともクライマックスエンジンでやる。ホンダのエンジンは使えなくなった。あしからず」というものだった[1]。となると自社でシャシーを造るしか道はなくフルコンストラクターとして参戦することになった。


急きょシャシーを急造することになるが、さらなる問題が発生する。ナショナルカラーの問題である。1960年代のF1マシンは国ごとにナショナルカラーが決まっており、イギリスはブリティッシュグリーン、フランスはブルー、イタリアはレッド、ドイツはシルバーという具合だった。日本は初出場なためナショナルカラーは決まっていなかった。宗一郎が好きな色だったゴールドが提案されたがすでに南アフリカが登録済み、日の丸をイメージした白と赤を申し出たがかなわず、アイボリーホワイトに日の丸を入れたものに決定した。




初優勝を果たしたRA272(ホンダコレクションホール所蔵)


1964年8月2日のドイツGP(ニュルブルクリンク)で初参戦[2]。チャップマンから絶縁電報を受け取ってからわずか6か月後のことであった。


1965年には全戦出場し最終戦の第10戦メキシコGPでリッチー・ギンサーが念願の初優勝を果たすが、これは1.5Lエンジン時代のF1最終戦での勝利であると同時に、その後F1に参加したタイヤメーカーの中では最多の368勝をあげることになるグッドイヤーの初勝利でもあった。


1966年に大幅なレギュレーションの改正が行われ、エンジンの排気量がそれまでの1.5Lから倍の3.0Lになった。ホンダはこのレギュレーションに対応するべく新しいV型12気筒エンジンの開発を行ったが、既存のエンジンを結合したり、スポーツカーレースのカテゴリで使っていたエンジンを流用した他のチームと比べると、大幅に出遅れた。結局このシーズンは終盤のイタリアGPでようやくエンジンが完成して参戦した。同年のF2ではホンダエンジンを供給したブラバムが開幕11連勝を達成。最終戦でシーズン全勝は逃すものの、圧倒的な強さを見せた。




イタリアでの劇的なレースを制したRA300。このマシンはサーティースの仲介によってローラがシャーシーの制作に加わった。


1967年にはジョン・サーティースがチームに加入した。1964年のワールドチャンピオンの加入はチームに大きな力を与えた。このシーズンのドライバーはサーティース1人だけだったが、彼はホンダのマシンで優勝1回、3位1回と2回表彰台に昇り20ポイントを獲得、コンストラクターズランキング4位につけた。特に優勝したイタリアGPは2位のジャック・ブラバムに対してわずか0.2秒差での勝利で、この1967年の成績が第1期ホンダの最高成績となった。


1968年のワークスマシンは昨シーズンサーティースがイタリアで劇的な勝利をもたらしたRA300の進化版RA301であった。一方これとは別に、創始者の本田宗一郎が固執していた空冷エンジン(V型8気筒)を搭載したRA302が制作され、この年のフランスGPに持ち込まれたが、スポット参戦でドライブしたジョー・シュレッサーが炎上死する悲劇に見舞われた。


この事故の後、ホンダはF1を撤退するのではないかとささやかれ始めた。この頃社会問題になっていた大気汚染に対する市販車用低公害型エンジン[3]の開発を理由として、結局1968年シーズン終了後F1活動休止を発表した。この年は初めてフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したマシンがドライバーズとコンストラクターズのチャンピオンになった。DFVエンジンの登場はグランプリからワークスチームの退場と、プライベーターチームの百花繚乱をもたらした。



第2期





スピリット201C・ホンダ(1983年)





ウィリアムズFW10・ホンダ(1985年)





マクラーレンMP4/5・ホンダ(1989年)




ターボエンジン・RA168E(1988年)。この年マクラーレンのプロストとセナによってイタリアGP以外のすべてのレースに勝利した


ルノーによって先鞭が付けられたターボエンジンの登場は、自動車メーカーに対してF1へのカムバックを促した。ホンダはまず国際F2選手権や全日本F2選手権にエンジン供給を行い、1983年にスピリットチームにエンジンを供給するというかたちでF1への復帰を果たした。その年の最終戦南アフリカGPからウィリアムズへのV型6気筒エンジンRA163Eの供給を開始し、翌1984年第9戦アメリカGPでケケ・ロズベルグにより復帰後初勝利をあげた。


開発初期にはターボラグの解消に悩まされたが、量販車の技術を応用した低燃費・高出力のターボエンジンの開発に成功。車載センサーからリアルタイムでデータを収集するテレメトリーシステムを導入し、衛星回線を通じて日本の研究所でも分析を行った。さらに1986年まで中嶋悟が鈴鹿サーキットなどでウィリアムズシャシーを使ったエンジンテストを行いつつ、ヨーロッパでもホンダエンジンを搭載したラルトでF2に参戦した。その後中嶋悟は1987年にロータス(この年からエンジンを供給)から日本人初のフル参戦を果たした。なお、ホンダは中嶋の個人スポンサーでもあった。


また第2期F1活動中の1980年代後半には、1986年と1987年にはコンストラクターズ・タイトル、1987年にはネルソン・ピケのドライバーズ・タイトルを獲得した上に、1988年にホンダエンジンを搭載したマクラーレンが16戦中15勝し[4][5]、アイルトン・セナがドライバーズ・タイトルを獲得した。さらに1989年にはマクラーレンのアラン・プロストが、1990年にはセナが再びチャンピオンに輝くなど、その当時ホンダのエンジンが最も高性能であり、コンストラクターは6年連続、ドライバーは5年連続でホンダエンジン搭載車が獲得したことから、「ホンダエンジンなくしては総合優勝を狙えない」とまで言われた。またホンダの活躍と中嶋の参戦、フジテレビジョンによる全戦中継が後押しした1980年代後半から1990年代前半にかけての日本国内のF1ブームでは、当時人気を博したセナと蜜月関係を結び、「F1のホンダ」として大いに知名度を高めた。 


1991年には、中嶋が所属するティレルチームに対し、前年マクラーレンが使用したV型10気筒エンジンをベースとしたRA101Eを供給した。しかし、これは前年のコスワースDFRに比べて、重く大きくなったことからマシンバランスを崩すことになり、エンジンパワーの増加による駆動系の信頼性の問題と相まって、ステファノ・モデナのモナコGPでの予選2位、カナダGPでの決勝2位という散発的な好リザルトは得るも、シーズン通しての好成績には結びつかなかった。


同1991年にマクラーレン・MP4/6には、V型12気筒エンジンRA121Eが搭載された。そしてブラジルGPにおいてアイルトン・セナがドライブするマシンは深刻なギアボックス・トラブルを抱えていた。4速を失ったのを始め、続いて3速・5速を失った。レース終盤にはついに6速のみで走行せざるを得なかった[6]が、セナは母国初優勝を果たした。このことは彼の秀逸なドライビングテクニックのみならず、ホンダエンジンの高い適応性を示した。


その後、ウィリアムズが優れた空力性能に加えてアクティブサスペンションなどハイテク装備で他チームを圧倒したことや、本田技研工業の世界各国での新車販売不振などにより、第2期F1活動は1992年に終了。この間ウィリアムズやマクラーレンなど多くのチームにエンジンを供給していたホンダは、1983年~1992年までの間だけで通算69勝をあげ、F1史上空前の強力なエンジンサプライヤーとして君臨した。F1撤退後の1993年には、かつてライバルだったフェラーリへ技術供与を行っていた。



無限ブランドとしての参戦



1992年には無限(現・M-TEC)が1991年にティレルに供給されたRA101Eをベースに独自に開発した無限MF351Hで、F1への参戦を開始[7]するなど、ホンダの撤退後もホンダの技術を元にしたエンジンはF1に参戦し続けた。


1996年にはモナコGPにてオリビエ・パニス(リジェ)が無限ブランドとしての初勝利をあげ、この勝利を皮切りとして1998年ベルギーGPではジョーダンのデイモン・ヒルが優勝、チームメイトのラルフ・シューマッハが2位という、無限ブランドとして初(ジョーダンにとっても初)のワン・ツーフィニッシュを飾る。
1999年にはハインツ=ハラルド・フレンツェンがフランスGP、イタリアGPにてそれぞれ優勝を飾った。なお、フレンツェンのF1生涯における3回の優勝のうち、2回が無限エンジンでの勝利であった。


2000年もシーズン終了までジョーダンにエンジン供給がなされる予定であったが、この年からホンダブランドでB・A・Rのために開発したエンジンを投入したことに伴い、シーズン途中からジョーダンにもホンダエンジンとしてのブランドのエンジンが供給されることが決定したため、2000年度をもってこのブランドでの参戦に幕を閉じた。


1992年から2000年にかけての無限ブランドの F1 における戦績は、通算4勝、ポールポジション1回、獲得総ポイント182ポイントであった。



第3期



シャシー製造への試み




RC-F1 1.5X(ホンダコレクションホール所蔵)




RA099(ホンダコレクションホール所蔵)


第2期活動の終盤、「エンジンだけでなく車体も造ってみたい」という社内有志の希望により、水面下でリサーチカーの試作が行われた[8]。1991年末にはV12エンジンを搭載するRC-F1 1.0X(現在ホンダ学園所蔵)、1992年にはモノコックを新造したRC-F1 1.5Xがテスト走行を行った。さらに、F1活動休止中の1996年にも、ステップドボトム仕様のRC-F1 2.0X(無限ホンダV10搭載)が製作された。1.5Xと2.0Xは黒一色のボディカラーから通称「カラス」と呼ばれた。


1998年には当時本田技研工業の社長だった川本信彦の口から「シャシー製造を含めたフルワークスによるF1参戦」が明言された。その後、イギリスにホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD) を設立し参戦準備を進め、デザインを日本で行いイタリアのダラーラがシャーシRA099の製作を担当して、1999年にテストドライバーにヨス・フェルスタッペンを起用してサーキット走行を行うところまで準備が進んだ。しかし、当時テクニカルディレクターを務めていたハーベイ・ポスルスウェイトがバルセロナでのテスト中に急死したこと、またホンダ社内に根強く残る慎重論などを背景に、結局ホンダはフルワークスによる参戦を断念した。



エンジンサプライヤーとしての復帰





2004年アメリカGPで3位を獲得した佐藤琢磨





B・A・R 007に搭載されたRA005E


2000年に、B・A・Rへエンジン供給と車体の共同開発を行うという形でF1に復帰した[9]。2000年シーズンはすでにB・A・Rによってマシンが製作されていたため、本格的な車体の共同開発は2001年以降となる。


エンジン供給にとどまらず、2002年からはホンダ独自のギアボックスの開発が行われた[10]。当初はギヤなどの内部部品とマグネシウムケーシングの研究が行われた。マグネシウムケーシングに関しては2002年のB・A・R 004で採用されたが、B・A・Rがカーボンファイバーケーシングの採用を決定したことから開発はそちらに移行した[11]。内部部品のほうに関しては開発が継続され、2004年から実戦投入された。2005年には、変速時のパワーロスを無くすシームレスシフト(クイックシフト)を実戦投入した[12]。2006年以降他チームにも急速に広まっていった。


2001年と2002年にはジョーダンにもエンジン供給を行った。


2000年から始まった第3期では、第2期と異なりなかなか良い結果を残せずにいた。しかし、2004年シーズンは好成績を収めた。タイヤをブリヂストンからミシュランに変更したが、その変更にうまく対応できたB・A・R 006で11回表彰台に上り、コンストラクターズランキング2位へと躍進した。しかし、念願の第3期初優勝には手が届かなかった。同年末にはチームの株式45%を取得し、共同経営に乗り出した。


2005年シーズンは、開幕当初レギュレーション変更に伴う影響をマシン設計に十分反映できていなかったことから出遅れ、ようやく、第4戦サンマリノGPで3、5位でフィニッシュし復活の兆しを見せたと思われるや、レース後の車検で重量違反が発覚し、その後の裁定でサンマリノGPのリザルト取り消しおよびその後2戦(スペインGP、モナコGP)の出場停止となってしまった。しかし、その後巻き返しを見せて、第8戦カナダGPでポールポジションを獲得、第12戦ドイツGP、第16戦ベルギーGPではジェンソン・バトンが表彰台を獲得したが、コンストラクターズランキングは6位に終わった。



フルコンストラクターとしての参戦再開





RA106(2006年アメリカGPにて)



2006年

2007年よりタバコ広告が全グランプリで禁止されることにともない、B・A・Rのメインスポンサーであるブリティッシュ・アメリカン・タバコ (BAT) が2006年限りで撤退することが決まっていた。そこで、ホンダはBATが保有する残り株式を取得し、38年ぶりに「純ホンダ」のワークスチームとして参戦することを決めた[13]

ドライバーはB・A・R時代からのエースであるバトンと、フェラーリから移籍のルーベンス・バリチェロ、サードドライバーにはアンソニー・デビットソンというラインアップ。また鈴木亜久里が新たに立ち上げたスーパーアグリにエンジンを供給し、ギアボックス等の開発にあたって技術支援も行った。

前半戦は成績不振が続き、B・A・R時代から技術部門を率いてきたジェフ・ウィリスに替えて、中本修平をシニア・エンジニアリング・ディレクターに任命した。第13戦ハンガリーGPでジェンソン・バトンが14位スタートながら波乱のレースを制して、優勝し第3期参戦としての初勝利を果たした。オールホンダとしては39年ぶりの優勝。後半戦はコンスタントにポイントを獲得して、コンストラクターズランキング4位で終了した。

2007年




展示されるRA107(2007年東京モーターショーにて)



2007年はバトン、バリチェロ共に残留、サードドライバーにスーパーアグリのレギュラーシートを獲得したデビッドソンに代わって前年レッドブルのレギュラードライバーだったクリスチャン・クリエンを迎えた。

ホンダは2007年に使用するマシンRA107のカラーとしてスポンサーロゴを使用せずに、宇宙から映し出される地球をイメージし、環境問題をテーマとしたカラーリングを発表した。ただしレギュレーションによって定められているノーズのマニュファクチャラーロゴと供給タイヤメーカーロゴはプリントされている。

このマシンを構成するカラーのピクセルをウェブ上で誰でも購入できるチャリティを展開した。イギリスGPからは、マシン上にピクセル購入した人の名前が小さな白文字で書かれた(環境問題に賛同すれば寄付金は、必ずしも必要でない)。リアウイングには「myearthdream.com」とチャリティサイトのアドレスが示された。

ホンダのエンジニアが初めて指揮を執って「低中速域でのダウンフォース向上」を目標にマシン開発を行なったが、シーズンオフのテスト段階からマシンの戦闘力の低さを露呈し、開幕後第7戦までノーポイントと成績が伸びず、事実上のBチームであるスーパーアグリにも遅れを取りチーム史上最悪の低迷期であった。第8戦フランスグランプリにおいてバトンがようやく初ポイント(8位・1pt)を記録したが、結局獲得ポイントは6点に終わった。コンストラクターズランキングは8位。

これらをふまえ、各分野での人材補強を着々と進めるため、ベネトンやフェラーリでミハエル・シューマッハの走りを支え、同年は休養していたロス・ブラウンをチーム代表に迎えることになった。

2008年





RA108(2008年マレーシアGPにて)



2008年もバトン、バリチェロ共に残留、リザーブドライバー兼テストドライバーに去年までウィリアムズをドライブしたアレクサンダー・ヴルツを迎えた。新代表に就任したロス・ブラウンは「3年計画」というものでの活動を発表した。なお、バリチェロとは、2005年のフェラーリ以来の同僚となった。

昨年の「my earth dream」を継続した形の「earth dreams」コンセプトを発表。昨年とは異なる物の地球環境をテーマとしたカラーリングを用い、地球環境問題の意識向上を謳っている。

2008年度のマシンRA108も、開幕前から戦闘力不足が囁かれていた。予選ではなかなかQ3に進むことができず、決勝でも入賞圏外から離れた位置でフィニッシュすることがたびたびであった。第9戦イギリスGPでは大混乱の雨の中タイヤ戦略が的中し、ルーベンス・バリチェロが3位入賞。自身3年ぶり、チームにとっても2年ぶりのポディウムとなった。しかし、その後一度も入賞できず、コンストラクターズランキング9位でシーズンを終えた。

また、5月27日に、ブラックレーのファクトリーがF1チームとして初のISO14001を取得した。

サーキット以外でもF1マシンが登場した。静岡市葵区の県立こども病院に白血病の男の子が寝ているベッドの横に並んだ。



撤退とチーム売却


2008年シーズン終了後、チームは2009年から搭載が可能になる運動エネルギー回生システム (KERS) のテストを進め、来期のドライバーにはバリチェロに代わり、セナの甥であるブルーノ・セナかルーカス・ディ・グラッシを起用すると噂された[14]


しかし、2008年12月5日、ホンダ社長の福井威夫が緊急記者会見を行い、2009年以降F1世界選手権シリーズから撤退する方針を発表した[15]。撤退の理由として、サブプライムローン問題に端を発した金融危機による業績の悪化に伴って、レーシングチームの維持費負担がホンダの経営を圧迫する恐れがあるため、経営資源の効率的な再配分が必要であることが挙げられた。なお、今回の記者会見では「2008年の成績や今後のレギュレーション変更が(撤退の)理由ではない」ことを明言している。「休止」ではなく「撤退」という表現を使用したことについては、「自動車産業の新しい時代に対処するというメッセージが入っている」と説明した[16]


ホンダはチームを解散せず、新オーナーへの売却によりF1参戦を継続することを目指しており、2009年1月12日にFIAが公表した2009年シーズンのエントリーリスト[17]には依然名前が残されていた。3月6日、チーム代表であったロス・ブラウンに全株式を売却したことが発表され、新チーム名は「ブラウンGP F1チーム」となった[18]。売却額が1ポンド(147円)と報道された[19]ように無償譲渡も同然であった[20]



ホンダのチーム資産とRA109(改めブラウン・BGP001)を引き継いだブラウンGPは、2009年開幕戦で初出場、初優勝を遂げるなどし、最終的にはダブル・タイトルを獲得した、翌年からはチーム売却でメルセデスチームとして活動している。


なお、F1への投資額に関して、2007年はホンダが全F1参戦チームで最もコストが高かったという[21]。また、デイリーテレグラフによれば、ロス・ブロウン獲得とその後の「2009年向け開発」を重視しての先行開発費用がさらに増えることから、2008年も最も高いコストをかけたチームとなる模様だと伝えられてきた。他にもBBCが報じた2005-2009年のメーカー別F1投資額[22]では、撤退し参戦していない2009年を除き全ての年で最高額を投じている[23]


さらに「Pitpass」の報じた1950-2009年のF1の全歴史で投じた額[24]でも、ホンダは17億2000万ポンドでトップとなっている(2位はメルセデスの14億7000万ポンド、フェラーリは8億9100万ポンド)。


撤退後の2009年、当時のホンダ社長である伊東孝紳は「経済的に回復してもF1に復帰することはない」と述べた[25]。しかし、2014年からF1のエンジン規定が見直されることから、ホンダがF1に復帰するのではないかとの憶測が流れた[26]。2013年2月の記者会見で、伊東は「F1のレギュレーションも変わりつつあり、一方で我々の事業も安定してきている」「今は一生懸命勉強している最中です」とコメントした[27]


なお、F1エンジンの開発を担当していた一部エンジニアは、2006年から2008年までF1プロジェクトの技術担当だった中本修平によってHRCへと招聘され、ロードレース世界選手権に参戦しているRC212Vのエンジン及び電子制御システム開発を担当している。また撤退発表後も、ホンダの栃木研究所においてシャシー開発が引き続き行われていたことが、2012年に明らかになっている(詳細はブラウン・BGP001#幻のRA109を参照)。



第4期



第2期マクラーレンとのジョイント





マクラーレンMP4-30・ホンダ(2015年マレーシアグランプリ)


2013年5月16日、ホンダは緊急記者会見を開き、2015年よりパワーユニット(エンジンおよびエネルギー回生システム(ERS)。以下、PUと略す)のサプライヤーとしてF1へ復帰すると発表した[28][29]。2015年は第2期のパートナーだったマクラーレンのみと再び組むことになるが[30]、独占契約ではないため2016年以降は複数チームへ供給する可能性もある[31]
2015年2月10日には本田技研工業本社(東京都港区南青山)にて本田技研社長伊藤孝紳および新井康久F1プロジェクト総責任者がフェルナンド・アロンソおよびジェンソン・バトンの両選手同伴でF1復帰に関する記者会見を開いた[32]


2015年は一年を通じて信頼性やパフォーマンスに悩まされた。カナダGPではチームからの(パワー不足のため)燃料をセーブせよという無線の指示にアロンソが「こんなドライビング、まるでアマチュアのようじゃないか。僕はレースをする。燃料のことは後で集中するから」と断り[33]、ホンダのホームグランプリとなる日本GPでもアロンソが無線で「GP2のエンジンかよ! GP2だ!」とパワー不足のエンジンに不満を漏らした[34]。コンストラクターズランキング9位とマクラーレンは創立以来ワーストの結果となってしまった。それでも最終戦アブダビGPでは、バトンがホンダPUよりも圧倒的に性能の優れているメルセデスPUを搭載するウィリアムズのバルテリ・ボッタスを抑えたりアロンソがレース中のラップタイムで3番目に速いタイムを出すなどシーズン前半と比べると性能が向上していることが伺えた。


  • 2015年の戦績についてはF1>リンク・アーカイブ>2015年を参照。

2016年、八郷隆弘社長は同年の目標を「安定的に予選10位以内から決勝に臨む」ことに定めた[35]。定年に伴い退職する新井康久に代わり、長谷川祐介がF1プロジェクト総責任者に就任した[36][37]
予選では度々Q3まで進出、決勝でもコンスタントに入賞できるようになりダブル入賞4回を記録、イタリアGPではアロンソがファステストラップを記録するなどパフォーマンスが向上し、表彰台には一歩及ばなかったもののコンストラクターズランキング6位まで浮上した。しかし、地元鈴鹿での日本GPでは前年同様不調に終わった。同GPでQ1敗退を喫したバトンは、高速サーキットの鈴鹿はマクラーレン・ホンダにとってカレンダーで最悪のサーキットの一つと考えている[38]


  • 2016年の戦績についてはF1>リンク・アーカイブ>2016年を参照。

2017年もマクラーレンへ独占供給を続ける[39]。長谷川祐介F1プロジェクト総責任者は「2017年の“現実的な目標”は表彰台」と語っている[40]。新車MCL32に搭載された「RA617H」はコンセプトを一新し、低重心化と軽量化を図りパワーを向上させたとしている[41]が、プレシーズンテストではトラブルが続出し、パワー不足も露呈してしまった[42]。パワー不足については、他メーカーのパフォーマンス改善がホンダを上回っていたと長谷川は語っている[43]。それでもアロンソは開幕2戦では渾身の走りで入賞圏内を走行していたが、いずれもパワーユニット以外のトラブルによりリタイアに終わった。そして第3戦バーレーンGPは信頼性及びパワーの低さの問題が如実に現れたレースとなってしまった。ストフェル・バンドーンがフリー走行初日の午前と午後の2回ともMGU-Hのトラブルに見舞われ[44]、予選ではアロンソがMGU-HのトラブルでQ2を走行できなかった[45]。決勝ではバンドーンのMGU-Hに再びトラブルが発生しスタートすらできず[46]、アロンソは「こんなパワー不足でレースをしたことはない!」と無線で叫ぶほどのパワー不足に泣かされるも、下位グループとのバトルを行いつつ走行していたが[47]、完走を目前にエンジントラブルが発生してリタイア(90%以上走行したため14位完走扱い)に終わった[48]。さらにロシアGPでもフリー走行でバンドーンのMGU-Kが故障し、早くも4戦目で規定を超える5基目のパワーユニット交換を強いられた。予選ではストレートでのパワー不足で1周につき2.5秒失っているとアロンソが主張している[49]。決勝ではフォーメーションラップでアロンソのパワーユニット(以下PU)に不具合が出てスタートすらできなかった。スペインGPでもフリー走行でアロンソのPUにトラブルが発生したが、予選では初めてQ3に進出し7番グリッドを得た。モナコGPではバトン(インディ500に参戦したアロンソの代走)とバンドーンが揃ってQ3に進出した。しかし、高速サーキットのジル・ヴィルヌーヴ・サーキットで行われたカナダGPでは、決勝におけるアロンソのスピードトラップトップ317.6km/hに対し、トップのセバスチャン・ベッテル(フェラーリ)は344.1km/hと26.5km/hも遅く、「彼らはストレートの途中で僕を抜いていった。こんなにスピード差があるのは危険でさえある」とアロンソは酷評した。それでもアロンソはレース終盤まで入賞圏内の10位を走行していたが、残り2周でエンジンがブローして入賞を逃した[50]。ここまでマクラーレンはチームワーストの開幕7戦ノーポイントとなってしまった。しかし第8戦アゼルバイジャンGPでアロンソが9位に入り、ようやく今季初入賞を果たした。その後、ハンガリーGPでアロンソが6位、バンドーンが10位にそれぞれ入賞し、ザウバーを逆転してコンストラクターズランキング最下位を脱し9位となった。


この状況に業を煮やしたマクラーレンは、ホンダとの提携解消を示唆した[51]。一方、ホンダはマクラーレン以外のチームへのパワーユニット供給を模索し[52]、2018年からザウバーへカスタマーパワーユニットを供給することが決まった[53]。しかし、ザウバーのチーム代表がモニシャ・カルテンボーンからフレデリック・ヴァスールに交代してからは契約の解除が検討され[54]、7月27日に契約が白紙撤回された[55](翌28日にフェラーリとの契約を発表[56])。その後、トロ・ロッソとの交渉を行ったが一度決裂した[57]。しかし、第14戦シンガポールグランプリのフリー走行1回目の後に、供給されることが発表され[58]、同時に2015年から供給を行っていたマクラーレンとの契約を2017年いっぱいで解消することが発表された。契約解消発表後は入賞回数も増加し、アロンソは終盤3戦でポイントを獲得した。


シーズン終了後に長谷川F1プロジェクト総責任者が退任、運営体制も変更され、HRDさくらを担当する執行役員が研究開発をリードし、レース・テスト運営も統括する。また、F1プロジェクト総責任者のポジションは廃止され、現場の指揮に専念するテクニカルディレクターを新たに設置した。初代テクニカルディレクターは田辺豊治が務める[59]


この3年間に関して、元FOA会長のバーニー・エクレストンは「毎日毎日、彼らは協力して働くのではなく、あらゆることで戦いをしかけていた。愚かなことだ」とマクラーレン側の態度を批判した[60]。また、マクラーレン側がホンダに対して理不尽な態度を何度も繰り返した事を批判する声[61]、アロンソが政治的駆け引きからホンダを一方的に批判していると指摘する者[62]もいるなど、ホンダに対して同情的な声も聞かれた。


  • 2017年の戦績についてはF1>リンク・アーカイブ>2017年を参照。


レッドブルグループ勢とのジョイント





トロ・ロッソ STR13・ホンダ


2018年はトロ・ロッソへ単独供給を行う。開幕前のテストではPUに関するトラブルはほとんど見られず順調に周回をこなしたが[63][64]、開幕戦オーストラリアGPで早くもピエール・ガスリーのMGU-Hにトラブルが出てリタイア[65]、ブレンドン・ハートレイはタイヤのトラブルに2回見舞われた影響で最下位の15位完走に終わり、厳しいスタートとなった。その後はマシントラブルの減少やQ3進出回数ではマクラーレンを上回っているなど明るいニュースも見られたが、テクニカルディレクターのジェームス・キーの離脱によるシャシー開発の停滞、チーム戦略やドライバーのミス、などにより十分な結果を残せず、ランキング9位に留まって前年までのパートナーだったマクラーレンを逆転するには至らなかった。


トロ・ロッソの親チームであるレッドブルが、ルノーとの関係悪化からホンダへパワーユニット供給元を変更する噂が各所から流れていたが[66][67]、6月19日にホンダと2019年から2年間の供給契約を締結したことを正式に発表した。トロ・ロッソへも引き続き供給を行う[68]。レッドブルチーム代表のクリスチャン・ホーナーは「今シーズンのホンダには大きな進歩が見られた。カナダGPで投入されたルノーとホンダの各新パワーユニットへの調査の結果、パワーユニット変更への決心が付いた」「純粋に技術的な理由により、これが将来に向けて正しい動きであるという結論に達した」[69]「初めて自動車メーカーと緊密に連携することになり、当初から車体とパワーユニットの融合を考慮したマシン造りができる」[70]とコメントしている。なお、レッドブル側はアストンマーティンとのタイトルスポンサー契約は継続する意向を示し、日英の自動車メーカーの名前が「1つのチームに並び立つ」ことになる[71]。更にターボチャージャーの開発・製造に関わる技術協力体制を強化すべく、IHIとテクニカルパートナーシップ契約を締結した[72]


  • 2018年の戦績についてはモータースポーツ>F1-フォーミュラ・ワン世界選手権を参照。


拠点


2018年現在は日本(HRD Sakura)とイギリス(HRD Milton Keynes)の2拠点体制となっている。2拠点間の時差を利用してほぼ24時間体制で開発が行われているという[73]



HRD Sakura


栃木県さくら市に所在。本田技術研究所の一部門であり、F1以外にSUPER GTやスーパーフォーミュラ等の車両・エンジンの開発も行っているが[74]、全従業員の8割以上がF1に関わっているという[73]。主にパワーユニット(PU)の基礎開発などを担当する。

HRD Milton Keynes

イギリス・バッキンガムシャーのミルトン・キーンズに所在。Honda R&D Europe(UK)の一部門である。主にレースの運用部門のエンジニアが常駐し、PUのメンテナンスを担当するほか、バッテリーパックの開発なども行っている[73]



F1での戦績


(key)






































































































































































































































































































































































































































































































































































































シャーシ エンジン タイヤ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 ポイント ランキング

1964

RA271
RA271E 1.5L V12

D


MON

NED

BEL

FRA

GBR

GER

AUT

ITA

USA

MEX








0
9位

アメリカ合衆国の旗 ロニー・バックナム






Ret


Ret

Ret










1965

RA272
RA272E 1.5L V12

G


RSA

MON

BEL

FRA

GBR

NED

GER

ITA

USA

MEX








11
6位

アメリカ合衆国の旗 リッチー・ギンサー


Ret

6

Ret

Ret

6


14

7

1









アメリカ合衆国の旗 ロニー・バックナム


Ret

Ret

Ret




Ret

13

5









1966

RA273
RA273E 3.0L V12

G


MON

BEL

FRA

GBR

NED

GER

ITA

USA

MEX









3
8位

アメリカ合衆国の旗 リッチー・ギンサー







Ret

NC

4










アメリカ合衆国の旗 ロニー・バックナム








Ret

8










1967

RA273
RA300
RA273E 3.0L V12

G

F




RSA

MON

NED

BEL

FRA

GBR

GER

CAN

ITA

USA

MEX







20
4位

イギリスの旗 ジョン・サーティース

3

Ret

Ret

Ret


6

4


1

Ret

4








1968

RA300
RA301
RA302
RA273E 3.0L V12
RA301E 3.0L V12
RA302E 3.0L V8

F

G




RSA

ESP

MON

NED

BEL

FRA

GBR

GER

CAN

ITA

USA

MEX






14
7位

イギリスの旗 ジョン・サーティース

8

Ret

Ret

Ret

Ret

2

5

Ret

Ret

Ret

5

6







フランスの旗 ジョー・シュレッサー






Ret













イギリスの旗 デビッド・ホッブス









Ret










スウェーデンの旗 ヨアキム・ボニエ*












5







2006

RA106
RA806E 2.4L V8

M


BHR

MAL

AUS

SMR

EUR

ESP

MON

GBR

CAN

USA

FRA

GER

HUN

TUR

ITA

CHN

JPN

BRA
86
4位

ブラジルの旗 ルーベンス・バリチェロ

15

10

7

10

5

7

4

10

Ret

6

Ret

Ret

4

8

6

6

12

7

イギリスの旗 ジェンソン・バトン

4

3

10

7

Ret

6

11

Ret

9

Ret

Ret

4

1

4

5

4

4

3

2007

RA107
RA807E 2.4L V8

B


AUS

MAL

BHR

ESP

MON

CAN

USA

FRA

GBR

EUR

HUN

TUR

ITA

BEL

JPN

CHN

BRA

6
8位

イギリスの旗 ジェンソン・バトン

15

12

Ret

12

11

Ret

12

8

10

Ret

Ret

13

8

Ret

11

5

Ret


ブラジルの旗 ルーベンス・バリチェロ

11

11

13

10

10

12

Ret

11

9

11

18

17

10

13

10

15

Ret


2008

RA108
RA808E 2.4L V8

B


AUS

MAL

BHR

ESP

TUR

MON

CAN

FRA

GBR

GER

HUN

EUR

BEL

ITA

SIN

JPN

CHN

BRA
14
9位

イギリスの旗 ジェンソン・バトン

Ret

10

Ret

6

11

11

11

Ret

Ret

17

12

13

15

15

9

14

16

13

ブラジルの旗 ルーベンス・バリチェロ

DSQ

13

11

Ret

14

6

7

14

3

Ret

10

16

Ret

17

Ret

13

16

11



  • 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。


  • 印はリタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。


  • * ヨアキム・ボニエはプライベートチームからの出走。



ホンダエンジンを搭載したチームとドライバー




ピットで中村監督と会話するジョン・サーティース(1967年オランダGP)




ホンダエンジンの最多勝利獲得者であるアイルトン・セナ




ホンダコレクションホールより




  • ホンダ (1964 - 1968 , 2006 - 2008) (3勝)


    • ロニー・バックナム (1964 - 1966)


    • リッチー・ギンサー (1965 - 1966) (1勝)


    • ジョン・サーティース (1967 - 1968) (1勝)


    • ジョー・シュレッサー (1968)


    • デビッド・ホッブス (1968)


    • ヨアキム・ボニエ (1968)[75]


    • ルーベンス・バリチェロ (2006 - 2008)


    • ジェンソン・バトン (2006 - 2008) (1勝)




  • スピリット (1983)

    • ステファン・ヨハンソン (1983)



  • ウィリアムズF1 (1983 - 1987) (23勝)(1986 , 1987コンストラクターズチャンピオン)


    • ケケ・ロズベルグ (1983 - 1985) (3勝)


    • ジャック・ラフィット (1983 - 1984)


    • ナイジェル・マンセル (1985 - 1987) (13勝)


    • ネルソン・ピケ (1986 - 1987) (7勝)(1987ドライバーズチャンピオン)


    • リカルド・パトレーゼ (1987)




  • チーム・ロータス (1987 - 1988) (2勝)


    • 中嶋悟 (1987 - 1988)


    • アイルトン・セナ (1987) (2勝)

    • ネルソン・ピケ (1988)




  • マクラーレン (1988 - 1992 , 2015 - 2017) (44勝)(1988 - 1991コンストラクターズチャンピオン)


    • アラン・プロスト (1988 - 1989) (11勝)(1989ドライバーズチャンピオン)

    • アイルトン・セナ (1988 - 1992) (30勝)(1988 , 1990 , 1991ドライバーズチャンピオン)


    • ゲルハルト・ベルガー (1990 - 1992) (3勝)


    • フェルナンド・アロンソ (2015 - 2017)

    • ジェンソン・バトン (2015 - 2017)


    • ケビン・マグヌッセン (2015)


    • ストフェル・バンドーン (2016 - 2017)




  • ティレル (1991)

    • 中嶋悟 (1991)


    • ステファノ・モデナ (1991)




  • B・A・R (2000 - 2005)


    • ジャック・ヴィルヌーヴ (2000 - 2003)


    • リカルド・ゾンタ (2000)


    • オリビエ・パニス (2001 - 2002)

    • ジェンソン・バトン (2003 - 2005)


    • 佐藤琢磨 (2003 - 2005)


    • アンソニー・デビッドソン (2005)




  • ジョーダン・グランプリ (2001 - 2002)


    • ハインツ=ハラルド・フレンツェン (2001)


    • ヤルノ・トゥルーリ (2001)

    • リカルド・ゾンタ (2001)


    • ジャン・アレジ (2001)


    • ジャンカルロ・フィジケラ (2002)

    • 佐藤琢磨 (2002)




  • スーパーアグリF1チーム (2006 - 2008)

    • 佐藤琢磨 (2006 - 2008)


    • 井出有治 (2006)


    • フランク・モンタニー (2006)


    • 山本左近 (2006)

    • アンソニー・デビッドソン (2007 - 2008)




  • スクーデリア・トロ・ロッソ (2018 -)


    • ピエール・ガスリー (2018)


    • ブレンドン・ハートレイ (2018 -)


    • ダニール・クビアト (2019 -)




  • レッドブル・レーシング (2019 -)


    • マックス・フェルスタッペン (2019 -)

    • ピエール・ガスリー (2019 -)





ギャラリー



  • ワークス(1964年 - 1968年, 2006年 - 2008年)



  • サプライヤー 1(1983年 - 1992年)



  • サプライヤー 2(2000年 - 2008年)



  • サプライヤー 3(2015年 - )



シャーシおよびエンジンの型式名


ホンダでは伝統的に「RA」で始まる型式名としているが、これは第1期のF1参戦時において、すでに実績を残していた2輪と区別する意味において、「Racing Automobile」を示す意味で付けられたもの。なお、その後に付けられる数字については参戦時期において下記のように異なる意味が込められている。



第1期

系統だった命名規則はなかった模様。最初に作られた試作エンジンの「RA270E」については、「最高出力270馬力(最高時速270kmという説もある)を目標とする」というところから「270」とつけられたと言われている。1967年の「RA300」以降については、シャシーの開発体制を日本の研究所が中心だった旧体制からイギリスの現地部隊中心の新体制に改めたことから、新たな飛躍を目指す意味で当時の監督だった中村良夫が番号を一新することを決め、きりの良いところで「300」とした。

第2期 : RA1○△E

R(Racing)

A(Automobile)

1(Formula One)

○(シリンダー数の下1桁。0,2,6が用いられた)

△(西暦の下1桁)

E(Engine)

第3期のエンジン : RA○△△E

R(Racing)

A(Automobile)

○(シリンダー数の下1桁。0,8が用いられた)

△△(西暦の下2桁)

E(Engine)

2006-2008年のシャーシ : RA1△△

R(Racing)

A(Automobile)

1(Formula One)

△△(西暦の下2桁)

第4期 : RA○△△H

R(Racing)

A(Automobile)

○(シリンダー数の下1桁。6が用いられている)

△△(西暦の下2桁)

H(Hybrid)



参戦年度・型式名




  • 第1期

    • 1963年 RA270(試作シャシー)、RA270E(研究目的の試作エンジン、1.5L V12)

    • 1964年 RA271(シャシー)、RA271E(エンジン)

    • 1965年 RA272(シャシー)、RA272E(エンジン)

    • 1966年 RA273(シャシー)、RA273E(エンジン、レギュレーション改定に伴い排気量が3.0Lとなる)

    • 1967年 RA273, RA300(シャシー、ホンダとローラの共同開発によるマシン。通称Hondola)、RA273E(エンジン)

    • 1968年 RA300, RA301, RA302(シャシー)、RA301E, RA302E(エンジン、RA302EはV型8気筒空冷エンジン)




  • 第2期

    • 1983年 RA163E(80度V型6気筒 1.5Lエンジン、F2用エンジンをショートストローク化した上でターボを付加した)

    • 1984年 RA164E

    • 1985年 RA164E、RA165E(完全新設計、ロングストローク化)

    • 1986年 RA166E

    • 1987年 RA167E

    • 1988年 RA168E

    • 1989年 RA109E(ターボエンジン禁止により3.5L NA・V10エンジンに移行)

    • 1990年 RA100E

    • 1991年 RA121E(V12エンジン、マクラーレンに供給)、RA101E(V10エンジン、ティレルに供給)

    • 1992年 RA122E、RA122E/B




  • 第3期

    • 1999年 RA099(シャシー)、無限MF301HD(エンジン) - フルコンストラクター参戦準備のテストに使用された。

    • 2000年 RA000E(3.0L V10エンジン)

    • 2001年 RA001E

    • 2002年 RA002E

    • 2003年 RA003E

    • 2004年 RA004E

    • 2005年 RA005E

    • 2006年 RA106(シャシー)、RA806E(エンジン、レギュレーション改定に伴い2.4L V8へ移行)

    • 2007年 RA107(シャシー)、RA807E(エンジン)

    • 2008年 RA108(シャシー)、RA808E(エンジン)




  • 第4期

    • 2015年 RA615H(1.6L V6ターボ)

    • 2016年 RA616H

    • 2017年 RA617H

    • 2018年 RA618H





関連人物




  • 第1期


    • 中村良夫 - 第1期(1964年 - 1968年(断続的))監督。同時期、監督と市販四輪車開発を兼務した。


    • 河島喜好 - 1965年に短期ながら監督を務めた(埼玉製作所の所長と兼務)。のちの第2代本田技研工業社長。


    • 久米是志 - RA302のエンジン設計者(当時は川本の上司)。のちの第3代本田技研工業社長。


    • 川本信彦 - RA300・RA301のエンジン設計者であり、第2期参戦当初(1983年~1984年)のチーム監督でもあった。のちの第4代本田技研工業社長。


    • 入交昭一郎 - RA273のエンジン設計者。入社まもない設計者だったが中村達に抜擢された。後のホンダ副社長、元セガ(後のセガゲームス)社長。




  • 第2期


    • 桜井淑敏 - 第2期前半(1984年 - 1987年)総監督。


    • 後藤治 - 第2期後半(1988年 - 1990年)プロジェクトリーダーを務める。後にマクラーレン、フェラーリ、ザウバーに在籍。


    • 本田博俊 - 元無限社長。本田宗一郎の長男。1992年から2000年まで「無限-ホンダ」としてエンジン供給し、実質的にホンダ不在の間を埋めた。




  • 第3期


    • 福井威夫 - 2000年の第3期F1参戦開始時に指揮を執る。のちの第6代本田技研工業社長。2008年の撤退会見も社長として行うこととなった。


    • ジル・ド・フェラン - 2005年より2007年7月までB・A・Rおよびホンダのスポーティングディレクターを務めた。


    • ニック・フライ - ホンダ・レーシング・F1チームのCEO。


    • ロス・ブラウン - 2007年 - 2008年にチーム代表を務めた。




  • 第4期


    • 新井康久 - 2015年のF1プロジェクト総責任者。


    • 長谷川祐介 - 2016年 - 2017年のF1プロジェクト総責任者。


    • 田辺豊治 - 2018年以降のテクニカルディレクター。





脚注





  1. ^ それまで同社にエンジンを供給していたコヴェントリー・クライマックス社が、ロータスと当時協力関係にあったジャガーに買収され、ロータスも引き続きコヴェントリー・クライマックスのエンジンを使わなくてはならなくなったためとされる


  2. ^ 「ホンダについて特筆すべきは、車自身のユニークさよりも、それがフルに開発される以前にグランプリ・レースの渦中に躍り出たという事実にある。ダイムラー・ベンツのような会社だったら、少くとも勝つチャンスがなければ決してその製品をレースに出したりはしないに違いない。しかしホンダは彼らの実験を大観衆の眼前で行うことを少しも恐れない。仕事を早く仕上げるためにはレースカレンダーの要求に勝るものはないのを知っているかのようだ。ホンダがモーターサイクル・レースに現われたときも然りだった。最初の数シーズンはひどく素人くさかったのに、ごく短期間に世界のトップランクにのし上がった。」 1964 F1グランプリレーサー デイヴィド・フィップスCAR グラフィック1965年2月号


  3. ^ F1から撤退後に誕生したのがCVCCエンジンである


  4. ^ イタリアGPでセナと接触しホンダエンジン16戦全勝を阻んだジャン=ルイ・シュレッサーは、1968年にホンダRA302で事故死したジョー・シュレッサーの甥であり、ホンダにとって皮肉な巡り合わせとなった。


  5. ^ エンジンサプライヤーとしての最多勝利は1995年にルノーが上回るまでホンダが保持していた。


  6. ^ そのときの彼を捉えたオンボードカメラでは、シフトチェンジをせず終始ステアリングをから手を離さずに周回している映像が記録されている


  7. ^ エンジンのカムカバーには「HONDA」のロゴがつけられたほか、エントリー名も「無限ホンダ」だった


  8. ^ "ツインリンクもてぎ開業15周年記念展示『'90s Racing Collection』第4回 もてぎ 2&4 レース編". モビリティランド. 2013年1月15日閲覧。]


  9. ^ 『モーターファン・イラストレーテッド F1のテクノロジー3』 三栄書房、2011年、p.84。ISBN 9784779611933。


  10. ^ 『モーターファン・イラストレーテッド F1のテクノロジー3』 三栄書房、2011年、p.77。ISBN 9784779611933。


  11. ^ 『モーターファン・イラストレーテッド F1のテクノロジー3』 三栄書房、2011年、p.81。ISBN 9784779611933。


  12. ^ 『モーターファン・イラストレーテッド F1のテクノロジー3』 三栄書房、2011年、p.78。ISBN 9784779611933。


  13. ^ "Honda、BAR Hの全株式取得 単独チームで参戦へ". Carview.(2005年10月4日)2013年1月15日閲覧。


  14. ^ "バリチェロ、「F1に残留できなければ引退する」". F1-Gate.com.(2008年11月13日)2013年1月15日閲覧。


  15. ^ F1レース活動について ホンダ 広報発表 Press Information 2008 2008年12月5日閲覧


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  75. ^ プライベートチームからの出走




関連項目







  • スーパーアグリF1チーム

  • モータースポーツ

  • F1コンストラクターの一覧

  • F1世界チャンピオンの一覧



外部リンク


  • ホンダ | モータースポーツ | F1世界選手権






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