知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館 | |
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施設情報 | |
前身 | 知覧特攻遺品 |
専門分野 | 旧陸軍特別攻撃隊隊員の遺品や関係資料を展示し、当時の記録を後世に伝える |
事業主体 | 南九州市 |
管理運営 | 南九州市総務部 |
開館 | 1985年 |
所在地 | 〒897-0302 鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地 |
位置 | 北緯31度21分48.3秒 東経130度26分3.8秒 / 北緯31.363417度 東経130.434389度 / 31.363417; 130.434389座標: 北緯31度21分48.3秒 東経130度26分3.8秒 / 北緯31.363417度 東経130.434389度 / 31.363417; 130.434389 |
プロジェクト:GLAM | |
知覧特攻平和会館(ちらんとっこうへいわかいかん)は、鹿児島県南九州市知覧町郡(旧川辺郡知覧町)にある、第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示する施設。知覧特攻平和会館が建てられている場所とその周辺は、知覧平和公園として整備されている。
目次
1 展示内容
1.1 戦闘機
2 特攻基地の歴史
2.1 大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所
2.2 特別攻撃隊の拠点化
3 特攻平和観音
4 アクセス
4.1 公共交通機関
4.2 道路
5 関連項目
6 脚注
7 外部リンク
展示内容
写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036柱などが展示されている。その展示されている遺影、遺品のほとんどは、知覧特攻平和会館初代館長板津忠正(元特攻隊員)が集めたものである。なお館内の展示品は全て撮影禁止となっている。(以下の写真は許可を得て撮影)
戦闘機
零式艦上戦闘機五二型丙(実機)
実物。損傷が激しく機体前部と主翼及び主脚のみ現存の状態。薩摩川内市の甑島沖約500m、水深約35mに沈んでいたものを引き上げ修復したもの。
四式戦闘機「疾風」I型甲(実機)
世界で唯一原型を留めた良好な状態で現存する機体。フィリピンの戦いにおいて、アメリカ軍に鹵獲された経歴を持つ第一線からの里帰り機。
一式戦闘機「隼」III型甲(レプリカ)
映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』の撮影に使用され、映画配給元の東映より知覧町へ譲渡された実寸大精巧レプリカ。屋外展示であったため、劣化が進行している。
なお、1986年からは航空自衛隊岐阜基地で保管されていた日本国内で唯一現存する三式戦闘機「飛燕」II型改の貸与を受けて機体が展示されていたが、この機体は2015年9月に日本航空協会が行う修復作業に合わせて岐阜県各務原市の川崎重工業岐阜工場に搬出され、神戸市での展示を経て、2018年3月からはリニューアルオープン予定の各務原市のかかみがはら航空宇宙科学博物館(オープン後はぎふかかみがはら航空宇宙博物館)で恒久展示されることとなった[1][2]。
特攻基地の歴史
大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所
大東亜戦争(太平洋戦争)直前の1941年(昭和16年)12月、知覧町に陸軍の飛行場が完成。飛行場は直ちに大刀洗陸軍飛行学校の分教所となり、戦争に突入した翌1942年(昭和17年)1月、最初の入校者78人が知覧に到着した[3]。
当初こそ九州島内や朝鮮(現・韓国)の各地に設けられた分校と同じく少飛や特幹の教育・訓練を行うことが目的とされていたが、1944年(昭和19年)夏以降、陸軍航空隊の戦術が艦船への体当たりを柱とする特攻を主軸とするものに転換。この過程で近い将来の本土決戦(決号作戦)に備えた航空関連軍学校の軍隊組織化が進められた。
特別攻撃隊の拠点化
陸軍飛行学校が教導飛行師団と改められるのに合わせ、 1945年(昭和20年)2月、太刀洗飛行学校は第51航空師団と改称。知覧分校は上部組織の第6航空軍に隷属する「第7飛行団」となる。こうして知覧特攻基地(ちらんとっこうきち)が誕生。振武隊(しんぶたい)と名付けられた特攻隊が出撃することになった。
1945年3月20日付で、参謀本部から『「と」号部隊』と呼ばれる陸軍特攻隊の編成が発令される。同時に陸軍第6航空軍は連合艦隊の指揮下に入り、振武隊は海軍側の特攻隊として既に動き出していた神風特攻隊と共同歩調を取ることになる。そして沖縄戦始まった4月1日、第二十振武隊を皮切りに知覧からの特攻出撃が始まった。以後は海軍の鹿屋航空基地とともに特攻出撃の最前線となり、戦艦大和の最期となった坊ノ岬沖海戦で一度の戦いでは最大級となる陸海軍合わせて300機もの出撃の一翼を担うことになる。
一方で、米軍は特攻機の出鼻を挫くため飛行場をB-29の機動部隊で空襲する戦術を導入。知覧飛行場も攻撃対象となり、多くの特攻機が出撃前に失われた。
陸軍第6航空軍は5月28日の菊水八号作戦を最後に連合艦隊隷属を外れたが、その後も沖縄戦線への特攻は行われた。大規模なものは6月22日の菊水十号作戦まで続き、6月25日、沖縄での組織的戦闘が終了(沖縄敗戦)するという大本営発表で知覧もその役目を終えるかに見えた。しかし、米軍の日本本土上陸はもはや間近に迫っており、知覧飛行場は帝国陸軍の本土防衛の最前線となっていた。出撃は8月15日の終戦まで、散発的に続いていった。
陸軍関連の総出撃者1,036人のうち、全体の4割ほどにあたる439人が知覧から出撃したと会館では記録している[4]。が、資料によっては変動も見られる。
なお知覧から出撃したのは基本的には陸軍の部隊であることに注目する必要がある。実際に、出撃した航空機数や戦死兵の数は海軍の鹿屋基地の方が多く、知覧の2倍前後もの数となっている。ただし、陸軍の兵士であっても鹿屋から出撃したり、逆に海軍の兵士が知覧から出撃するといったイレギュラーケースもあった。また振武隊自体が神風特攻隊と混同されることも多いが、戦史の上では厳密に区別される。
知覧から出撃した航空機は九七戦が最も多く、ついで一式戦という順になっている。
特攻平和観音
特攻隊員の精神の顕彰と世界平和の祈念を目的に1955年(昭和30年)9月28日に特攻平和観音堂として建立された。1952年に特攻隊員の慰霊を目的として及川古志郎、河辺正三、菅原道大らが、法隆寺夢違観音を元に複製した4体の観音像のうちの1体が安置されている[5]。毎年5月3日に知覧特攻基地戦没者慰霊祭が行われている。
アクセス
公共交通機関
JR九州新幹線鹿児島中央駅東口バスターミナル東16番乗り場、または指宿枕崎線平川駅から鹿児島交通バス知覧線、特攻観音入口行きで終点の知覧特攻観音入口バス停下車、徒歩3分。毎日8往復運転、他に知覧止まりのバスが4便ある。「鹿児島交通#都市間路線」も参照
- JR指宿枕崎線指宿駅、または喜入駅から鹿児島交通バスの知覧武家屋敷入口行きで特攻観音入口バス停下車。指宿から毎日5往復、喜入駅からは毎日10往復運転。
- JR指宿枕崎線枕崎駅から鹿児島交通バス知覧行きで特攻観音入口バス停下車。平日1日4往復、土曜・日曜・祝日は2往復運転。
道路
- 最寄りインターチェンジ:南薩縦貫道南九州知覧インターチェンジ又は指宿スカイライン知覧インターチェンジ
関連項目
- 筑前町立大刀洗平和記念館
- 広島平和記念資料館
- 長崎原爆資料館
- 特別攻撃隊
- 鳥濱トメ
映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』- 映画『月光の夏』
振武寮(しんぶりょう)- 伊藤五百亀
- 振武隊
- 一愛(にのまえあい)・稼木美優(かせぎみゆ) - 知覧の特攻隊員から母への手紙を元にした歌「雲のうつし絵」を歌唱。
脚注
^ 陸軍三式戦闘機「飛燕」の修復についてのお知らせとお願い - 日本航空協会ホームページ、2016年3月31日閲覧。
^ 岐阜新聞. (2015年9月9日). http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20150909/201509090919_25690.shtml+2016年3月31日閲覧。
^ 知覧特攻基地
^ 航空特攻作戦の概要 - 特攻平和会館公式ホームページ
^ 福間良明『「戦跡」の戦後史:せめぎあう遺構とモニュメント』岩波書店〈岩波現代全書〉2015年、ISBN 9784000291729 pp.197-199.
外部リンク
- 知覧特攻平和会館
- 或る戦闘機(川崎キ61三式戦Ⅱ改飛燕)の戦後史
- 板津忠正(知覧特攻平和会館初代館長)