慶應義塾




































慶應義塾
法人番号
4010405001654
創立者
福澤諭吉
理事長
長谷山彰
創立
1858年(安政5年)
所属学校
慶應義塾大学
慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部
慶應義塾高等学校
慶應義塾女子高等学校
慶應義塾志木高等学校
慶應義塾ニューヨーク学院
慶應義塾普通部
慶應義塾中等部
慶應義塾幼稚舎
慶應義塾横浜初等部
所在地
東京都港区・三田
ウェブサイト
https://www.keio.ac.jp/ja/

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1862年(文久2年)江戸築地鉄砲洲中津藩中屋敷内の蘭学塾。慶應義塾の発祥。画面中央左側築山下の平地




図中央に新銭座町とあるのが慶應義塾に当たり、東には浜御殿がある。江川英龍の「江川太郎左衛門鉄砲調練所」が隣接しており、この江川家屋敷に「分塾」があった。

尾張屋清七版芝愛宕下絵図


慶應義塾(けいおうぎじゅく)は、日本の学校法人。福沢諭吉が1858年(安政5年)に中津藩江戸藩邸で開いた蘭学塾が起源。シンボルマークはペンマーク。




目次






  • 1 「義塾」の意味


  • 2 塾訓


  • 3 設置している大学・学校等


    • 3.1 大学


    • 3.2 中学校・高等学校併設校


    • 3.3 高等学校


    • 3.4 中学校


    • 3.5 小学校




  • 4 過去に設置していた学校


  • 5 一時経営に参画したことがある学校一覧


  • 6 沿革


    • 6.1 年表


    • 6.2 慶應義塾の三藩


      • 6.2.1 越後長岡藩


      • 6.2.2 紀州藩


      • 6.2.3 中津藩




    • 6.3 学校法人共立薬科大学との合併




  • 7 歴代塾長一覧


  • 8 事務部門


  • 9 式典・記念行事


    • 9.1 世紀送迎会


    • 9.2 創立150年式典の開催




  • 10 主な建造物


    • 10.1 三田キャンパス


      • 10.1.1 その他




    • 10.2 日吉キャンパス


      • 10.2.1 教育施設


      • 10.2.2 宿泊、居住施設


      • 10.2.3 厚生施設


      • 10.2.4 屋内運動施設/スポーツ関連施設


      • 10.2.5 野外運動施設


      • 10.2.6 そのほか




    • 10.3 信濃町キャンパス


      • 10.3.1 臨床施設


      • 10.3.2 教育・研究施設


      • 10.3.3 その他(厚生施設など)




    • 10.4 矢上キャンパス


    • 10.5 湘南藤沢キャンパス


    • 10.6 芝共立キャンパス


    • 10.7 その他のキャンパス




  • 11 注釈


  • 12 出典


  • 13 参考文献


  • 14 関連項目


  • 15 外部リンク





「義塾」の意味


天明7年(1787年)、幕命により蝦夷地を探検して功績を挙げた近藤重蔵が同志と協力して子弟のために開いた塾を「白山義塾」と呼んだのが慶應義塾以前に見出しうる唯一の例であるという。もう一つは、掛川藩儒員松崎慊堂の日記「慊堂日暦」の文政8年(1825年)1月25日の条に、慊堂が桑名藩の儒者広瀬蒙斎を訪れて、「義塾の事を議す」とあり、その二は、寺門静軒が天保3年(1832年)に著した『江戸繁盛記』4篇学校の項に、「官学外儒門の義塾」とある記事である(記事の紹介者名倉英三郎)。


つまり中国では「義塾」本来の語義は、公衆のために義捐で運営される学塾という意味で、学費を納めないのが原則である。


蓋此學を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く
— 『慶應義塾之記』より

これはおそらく英国のパブリックスクールを指すものとされ、要するに慶應義塾は、中国伝統の「義塾」に英国のpublic schoolの内容を盛ったものであるとされている[1][2]



塾訓




「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
慶應義塾大学東館に刻まれているラテン語で書かれた福澤の言。なお、三田キャンパス・ステンドグラスにも同文が明記されている



独立自尊

従来の日本の門閥制度や官僚主義を良しとせず、欧州において政府から独立した中産階級(「ミッヅルカラッス」)が国家を牽引し発展させるあり方に独立国のモデルを見た福澤は「一身の独立なくして一国の独立なし」[3]と論じ、まずは各人の独立を旨とし、塾訓とした。これは、「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」などと説明されている(修身要領第2条[4])。独立自尊という言葉は、福澤諭吉の人となりを端的に示すものとされ、また、福澤の教えの根本をいい表すものともされる[5]



実学の精神

「常に学問の虚に走らんことを恐」れた福澤が慶應義塾の理念として掲げた指針。これは「実際に役に立つ学問」の意味であると誤解されがちであるが、福澤は単なる知識に終わらず、物事の本質や理念や仕組みを理解した上で体得する学問のことを指している。どうやら福澤が意図したものが今日にいう「科学」のことであることは、「実学」の語に「サイヤンス」とルビを振っていることからも分かる[6]。「役に立つことを主眼に置く学問」が実学と見なされることが多く、今日その意味でも流通しているが、福澤は、新しい事物や事柄の表層だけをなぞって実際的な利便だけを追求する学問については、特に語学、工学の勉学における失敗例を挙げながら、こうしたものを軽薄な虚学として福澤は退けている。こうした、基礎学力がないとどんな知識もものにならないとの考えから福澤は学びの手順を明確に示しており(「学問の目的を爰に定め、其術は読書を以て第一歩とす。而して其書は有形学及び数学より始む。地学、窮理学、化学、算術等、是なり。次で史学、経済学、脩身学等、諸科の理学に至る可し。何等の事故あるも此順序を誤る可らず」[7])、この考え方は慶應義塾だけではなく、近代日本の学制の制定に大きく影響している。他に建学理念に「実学」を謳う大学は数多くあるが、英吉利法律学校(現・中央大学、創立者増島六一郎らと共に、馬場辰猪ら福澤門下が前身である三菱商業学校と明治義塾にて教育)、商法講習所(現・一橋大学、創設に際して福澤が森有礼に助力)、東京専門学校(現・早稲田大学、創立に際して矢野文雄が助力)には福澤の間接的影響があり、今日でも残っている例である。



半学半教

ある程度学びを修めた者が後生を教え、学び合い教え合う理念であり制度。私塾としての財政圧迫を救い、塾生の学費を低く抑えるねらいがあった(「社中素より学費に乏しければ、少しく読書に上達したる者は半学半教の法を以て今日に至るまで勉強したることなり。此法は資本なき学塾に於て今後も尚存す可きものなり」[7])。やがて社中協力の重要な理念として残ってゆく。塾中に先生と呼ばれるのは福澤諭吉一人で、塾生、教員、義塾社中を、正式行事に際して、時にはニックネーム的に、みな互いに「〜君」と呼び合う習慣はここに発しており、今日も残っている。同時に、卒業者も教員も学び続けることをやめてはいけないと釘を刺す訓辞でもある(「然るに年月の沿革に従ひ、或は社中の教師たる者、教場の忙しきに迫られ、教を先きにして学を後にするの弊なしと云う可からず。方今世上の有様を察するに、文化日に進み、朋友の間にても三日見ずして人品を異にする者尠なしとせず。斯る時勢の最中に居て、空しく一身の進歩を怠るは学者のために最も悲しむ可きことなり。故に今より数年の間は定めて半学半教の旨を持続せざる可らず」[7])。



社中協力

元々慶應義塾の経営難に際して資金を調達するために苦肉の策として作った結社としての制度であり、一私塾を法人化するきっかけともなった(当時福澤は「会社」と命名)。これが教員、塾生、塾員を慶應義塾社中として助け合い協力するという理念に発展した。これは、たびたびに渡る慶應義塾の廃学の危機を救うとともに、日本中の大学が同窓組織を作る先駆的な例となった。



一貫教育

慶應義塾では幼稚舎から大学・大学院に至るまで設置している。慶應義塾は小学校、中学校、高等学校、大学・大学院の各段階に相当する学校を複数設置している。大学の各学部学科には塾内進学者の定員が設けられており、進学希望者の数がその定員をオーバーした場合には、当該進学希望者の学業成績順で入学者が決定される。そのため、成績が足りないという理由で希望の学部学科に進学できない者もいる。その場合は、空きのある第2志望以下の学部学科へ入学することになる。なお、必ず慶應義塾大学に進学しなければならないという制約はなく、推薦を辞退した上で他大学を受験することは可能である(医学部進学希望者は慶應義塾大学(医学部のみ)への推薦入学権を留保したまま他大学の医学部・医科大学のみを受験できるなど、一定の例外はある。詳細は各一貫教育校のホームページを参照のこと。)。



塾生皆泳

慶應義塾には『塾生皆泳』という言葉があり、「泳ぐ技能を身につけることが、人として備えるべき重要な素養のひとつである」という水泳教育の理念がある。塾生は水泳技術を身につけ、泳げないことが理由で命を落としたり、溺れている人を救えないことがないように、というのがその教えである。


慶應義塾の目的

慶應義塾には、「慶應義塾の目的」という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝・紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を元に、福澤自身が書き直したものである[8]。内容は以下の通り。



慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず

其目的は我日本国中に於ける気品の泉源智徳の模範たらんことを期し

之を実際にしては居家処世立国の本旨を明にして

之を口に言ふのみにあらず躬行実践

以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり
以上は曾て人に語りし所の一節なり 福澤諭吉書



この一文は、福澤諭吉が門下生たちに「恰も遺言の如くに」托したもので、慶應義塾の真に目的とするところを最も簡明にいい表したものと解されている[8]



設置している大学・学校等




ビジネススクール(旧校舎)



大学



  • 慶應義塾大学(三田、日吉、矢上、信濃町、湘南藤沢、芝共立の各キャンパス、およびサテライトキャンパスとして新川崎タウンキャンパス、鶴岡タウンキャンパス、浦和共立キャンパス、慶應大阪リバーサイドキャンパス、慶應丸の内シティキャンパス) - 男女共学


中学校・高等学校併設校



  • 慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部(神奈川県藤沢市) - 男女共学、中高一貫校


高等学校




  • 慶應義塾高等学校(神奈川県横浜市) - 男子校


  • 慶應義塾女子高等学校(東京都港区) - 女子校


  • 慶應義塾志木高等学校(埼玉県志木市) - 男子校


  • 慶應義塾ニューヨーク学院(ニューヨーク州ウェストチェスター郡) - 男女共学



中学校




  • 慶應義塾普通部(神奈川県横浜市) - 男子校


  • 慶應義塾中等部(東京都港区) - 男女共学



小学校




  • 慶應義塾幼稚舎(東京都渋谷区) - 男女共学


  • 慶應義塾横浜初等部(神奈川県横浜市青葉区) - 男女共学




過去に設置していた学校



  • 大阪慶應義塾(1873年 - 1875年) → 徳島慶應義塾(1875年 - 1876年)

  • 京都慶應義塾(1874年 - 1875年)


  • 慶應義塾医学所(1873年 - 1880年)

  • 慶應義塾夜間法律科(夜間・1879年 - 1880年・同科を開設した相馬永胤ら4名が独立、専修学校に統合される形で閉鎖)

  • 慶應義塾商業学校(夜間・1891年 - 1948年)

  • 慶應義塾商工学校(1905年 - 1948年) → 慶應義塾中等部

  • 慶應義塾日吉工業学校(旧・藤原工業学校、1943年 - 1945年) + 慶應義塾三田工業学校(1944年 - 1945年) → 慶應義塾工業学校(1945年 - 1948年)

  • 慶應義塾大学予科(1920年 - 1949年)

  • 慶應義塾高等部(大学専門部・1922年 - 1946年)


  • 慶應義塾獣医畜産専門学校(1944年 - 1949年) → 慶應義塾農業高等学校(1948年 - 1957年) → 慶應義塾志木高等学校

  • 慶應義塾第一高等学校(1948年 - 1949年) + 慶應義塾第二高等学校(1948年 - 1949年) → 慶應義塾高等学校

  • 慶應義塾大学付属医学専門部(1944年 - 1952年)

  • 慶應義塾大学医学部付属看護婦養成所(1917年 - 1945年) + 慶應義塾大学医学部付属産婆養成所(1922年 - 1945年) → 慶應義塾大学医学部付属看護婦産婆養成所(1945年 - 1950年) → 慶應義塾大学医学部付属厚生女子学院(1950年 - 1990年) → 慶應義塾看護短期大学(1988年 - 2003年) → 慶應義塾大学看護医療学部


  • 慶應義塾外国語学校(1942年 - 2013年)



一時経営に参画したことがある学校一覧




  • 藍謝堂(明治4年)1871年


  • 亮天社(明治8年)1875年


  • 立志学舎(明治9年)1876年


  • 三菱商業学校(明治義塾)(明治11年)1878年


  • 神戸商業講習所(明治11年)1878年


  • 簿記講習所(明治12年)1879年

  • 慶應義塾夜間法律科 → 専修学校 (旧制)(明治13年)1880年


  • 三田英学校(明治13年)1880年


  • 耕余義塾(明治20年)1887年


  • 国民英学会(明治21年)1888年


  • 高山歯科医学院(明治23年)1890年



沿革


慶應義塾の成立

18世紀後半の中津藩江戸藩邸では、第3代藩主奥平昌鹿の下で本草学や蘭学研究が行われ、明和8年(1771年)には青木昆陽の門人である藩医・前野良沢が中川淳庵、杉田玄白と『解体新書』の底本となった解剖学書『ターヘル・アナトミア』の解読を始めたのは、この中屋敷内であった[9]。その同じ中屋敷内に80年余を隔て成立した蘭学塾が慶應義塾の原点である。その後藩主が変わり、中津藩では主に国学・漢学が重視されており、幕末の藩政改革では長崎の警備を任ぜられ、三重津海軍所を設置した鍋島閑叟侯の肥前藩や薩摩藩といった西南の雄藩からは立ち遅れた状況にあった。


幕末の中津藩江戸藩邸では、当主・奥平昌服が江戸汐留の上屋敷に居住し、祖父で薩摩藩島津家より養子に入った奥平昌高が中屋敷に隠居所を構えていた。昌高は蘭癖大名と評されていたが、単なる物好き程度ではなく、日蘭辞書『蘭語訳撰』(『中津辞書』)の刊行に尽力するなど本格的な蘭学研究者であった。その影響があってか、のちに統計学者として有名になる杉亨二が中津藩に招かれ、中屋敷において藩士に蘭学教授を行っていた。ところが、1853年(嘉永6年)のマシュー・ペリー黒船来航による米国の開国要求に対する江戸幕府の諮問をめぐって、昌高が7月に開国論を、翌月当主の昌服が鎖国論を上申したことで、藩内における両派の対立が明らかになり、杉の辞任騒ぎを引き起こした。このとき、中津藩砲術師範を務めていた佐久間象山の下で西洋砲術を学んだ中津藩士・岡見彦三は、蘭学教育の継続を強く望み、知人の薩摩藩蘭医・松木弘安(のち寺島宗則)に、安政2年の大地震(安政の大地震)で失った住居の代わりとして、岡見所有の築地小田原町の持ち屋を無償で貸すことを条件に、蘭学教授を依頼した。しかし、安政4年4月になると、松木は参勤交代による藩主の就国に侍医として随行することになり、教授を続けることができなくなった。そこで当時大坂の適塾(後の大阪大学)で塾長を務めていた福澤諭吉に白羽の矢が立ち、福澤は藩から江戸での蘭学教授を命ぜられるに至ったのである。現在、開塾の地の近くには創立100年を記念して、『慶應義塾発祥の地記念碑』が建てられている。1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」および江川英龍の「韮山塾[10]」等の旧私塾の流れを汲む。


前期鉄砲州時代

1858年(安政5年)、中津藩より江戸築地鉄砲州(現・東京都中央区明石町)にあった中津藩中屋敷内での蘭学教授を命ぜられた福澤諭吉は、塾長として蘭学を学んでいた適塾(後の大阪大学)がある大坂から、早速中津に戻り母に報告、大坂に戻って助手を務める同行者を求め、岡本周吉(古川正雄)・足立寛・原田磊蔵らと共に同年10月中旬、江戸に到着した。福澤の書簡(安政5年11月23日付宛名未詳)によれば、当初は3、4年の任期と心得ていたようである。汐留の上屋敷に出向いた福澤は、江戸定府の藩士・岡見彦三の支持で中屋敷の長屋を与えられ、そこで蘭学を教えた。足立寛や今泉みねの回想によると、長屋は二階建てで一階は六畳一室と台所など、二階は15畳ほどであったという。開塾当初の協力者は、村田蔵六(大村益次郎)の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介、久留米藩医・松下元芳、中定勝(大阪府仮病院医員)、山口良蔵などやはり適塾に連なる人物が多い。


福澤諭吉の渡航

安政6年(1859年)の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号 で渡米することとなり、軍艦奉行木村摂津守の従者として、咸臨丸で渡米。二度目は竹内下野守を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日(1862年1月30日)、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には松木弘安・箕作秋坪。慶応3年(1867年)には使節主席・小野友五郎と共に幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米。この間、中津藩士・島津祐太郎宛の書簡で、大量に英書や物理書を塾に持ち帰ったため、塾生が同じ版本を持って授業が受けられるようになり、それまでの教授法にも新紀元を開くに至った。


前期新銭座時代

文久元年冬から同三年秋までは芝新銭座(現東京都港区浜松町)の借家に塾が置かれていた。この塾がいつ築地鉄砲州から移転したかについては足立寛の回想にもはっきりしない。福澤は既に江戸定府の中津藩士となり、江戸幕府の外国方にも出仕しており、この時代は藩命による塾教師から本格的な学塾経営者への移行期と捉えられている。入門帳(入社張)の記録がはじまったのは、文久3年(1863年)の春からである。


後期鉄砲州時代

文久3年秋から1867年(慶応3年)末まで中屋敷内旧藩主隠居所に塾が置かれていた時代をいう。文久3年9月23日に幕府より諸藩へ、出府藩士の江戸市中住居禁止命令が出され、これを受けて福澤も藩邸内に戻ったと推測される。この移転について『福翁自伝』には何も経緯が記されておらず、格式を重んずる中津藩としては幕府に出仕する身とはいえ、旧藩主の隠居所を許可するとは考えがたく、藩側に貸与を進める意図があった。この時代の学塾運営は、英国の公立学校を参考に、中津へ帰郷し小幡篤次郎、小幡甚三郎、服部浅之助、小幡貞次郎、浜野定四郎、三輪光五郎らを連れ、横浜の外字新聞の翻訳、諸藩から依頼の翻訳、仙台藩の大童信太夫を通じた奥羽越列藩同盟との関係などが見て取れる。また、幕府の開成所から移ってきた永田健助によるとこの頃の塾の蔵書は「経済、修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史の類一と通り備わり、ウエブスター大字典の如きも数十部もあった」[11]といい、幕府の学問所と同等の水準があった。


紀州塾

後期鉄砲州時代に、紀州藩から藩命を受けて同藩が建築費用を負担して設けた塾舎。藩の有力者岸嘉一郎が鉄砲州時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り[12]、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを「紀州塾」と称していた[13]。和歌山藩の入塾生は元治元年九月入塾の臼杵鉄太郎を最初とし、慶応元年三名、慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも紀州徳川家第15代当主徳川頼倫は三宅米吉、英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授)、米国人のウィリアム・S・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修め、鎌田栄吉(のち塾長)からは精神的な薫陶を受けている[注 1][14][15][16][注 2]


後期新銭座時代

慶応4年1月から明治3年末までの再び芝新銭座に塾が置かれた時期をいう。塾舎は前期とは異なった場所で、新に越前丸岡藩有馬家の土地四百坪を購入した。慶応3年6月に鉄砲州一帯が外国人居留地に指定され、木村摂津守とその用人大橋栄二の世話で有馬屋敷を購入することができた。慶応4年には元号をとって『慶應義塾』と命名。同年四月頃までに奥平屋敷の長屋をもらい受け、約百五十坪の塾舎を四百両ほどの費用で完成した。授業は既に七曜制を用い、教科も(修心論・経済・歴史・地理・窮理・算術・文典)などを設置、「数理」を基本とした授業体系を確立した。1865年(慶応元年)頃の塾生数を示すものとしては、同年6月6日に入塾している立田革の懐旧談にて、『私の出府当時の江戸の洋学界は、芝新銭座江川塾(江川太郎左衛門)・下谷箕作塾(箕作家)其他二三あれど、生徒の数は大抵二三人多くも五六人、義塾は二十二三人の塾生あり、先づ江戸にて一等盛な洋學塾と評して差支ない。』とある。入塾生の傾向からみて、元治元年までの入塾生数がごく少なく、尚且つ九州出身者がその七割を占めるといった傾向を示していたのに比較して、この頃は入門者も月平均四・三八人となり、藩別にみても九州の比率が相当低くなってきている点などから推察すると、この頃から既に慶應義塾は江戸では最大の洋漢學塾の観を呈し始め、九州出身者中心の塾といった傾向から、全国的學塾に移行した。


三田移転

福澤が発疹チフスに罹ったことから明治4年初頭から三田へ移転を開始。三田は島原藩邸のあった広壮な地域で、これまで新銭座を中心として奥平屋敷や吉田賢輔の上杉麻布邸、柏木忠俊の斡旋による江川太郎左衛門長屋や、その他寺院などに分散していた宿舎を一つに統合できた。在学生323名、東京府下における最大の私塾となった[11]。移転後芝新銭座の校地を近藤真琴の攻玉塾へ譲り、現在は『福沢近藤両翁学塾跡』(港区浜松町)の碑が立っている。明治6年5月、慶應義塾を訪れた福山藩の藩儒江木鰐水も「塾本、島原公邸、在三田、地勢高爽、前臨品川海、砲台在目前、右望品川後之山、左望江戸諸勝、皇居亦左近、(中略)而与諭吉氏登楼並講堂之楼、皆勝景、眺望雄豁美麗[11]」と嗟嘆している。


医学教育

新銭座時代から慶應義塾医務部が既に設けられており、薬品や医学者を揃えた。近藤良薫(のちの横浜十全病院長)・安藤正胤、印東玄得(のちの大学東校教授)・田代基徳(のちの軍医医監、陸軍軍医学校長)・栗本東明(長崎病院眼科医長兼内科医長)といった医学者を育てている。


各教育機関の詳細な沿革については、各教育機関の記事を参照。



年表




  • 1858年 - 福澤諭吉、築地・鉄砲洲の中津藩中屋敷内に蘭学塾を開設。開校当初は塾生の代表が塾長となり、学生として在籍する傍ら教壇に立つことが多かった。


  • 1868年 - 芝新銭座(現在の港区浜松町)に移転し、「慶應義塾」と呼称。


  • 1871年 - 芝新銭座の校地を近藤真琴へ譲渡、三田にある島原藩中屋敷跡の現校地に移転。明治維新後に洋学・特に英語を学習する生徒が殺到し、校舎の増築がままならなかった築地から移転することになった。


  • 1872年 - 初の外国人教員を招請。


  • 1873年 - 医学所を設置するも、1880年に閉鎖。


  • 1874年 - 幼稚舎開設。


  • 1881年 - 慶應義塾仮憲法を制定。この頃、攻玉社・同人社と共に「三大義塾」として並び称され、代表的な各種学校となる。明治十四年の政変。


  • 1885年 - 塾章を制定。なお、塾旗も含めて制式化されるのは1964年。


  • 1890年 - 大学部(ただし法令上は旧制専門学校)が発足し、文学・理財・法律の三科を設置。従来の課程を普通部と称する。大学部発足に際し、ハーバード大学から教員を招請。


  • 1892年 - 剣術・柔術・野球・端艇・弓術・操練・徒歩から成る体育会が発足。


  • 1898年 - 幼稚舎を設置。大学部に政治科を増設。塾旗を制定。


  • 1899年 - ドイツ・アメリカ合衆国に留学生6名を派遣。


  • 1900年 - 大晦日に世紀送迎会(第1回)開催。


  • 1901年 - 福澤諭吉死去。同窓生(社中)を中心として慶應義塾維持会を設立。


  • 1903年 - 三田綱町球場にて最初の慶早戦。


  • 1904年 - 塾歌を制定。ただし、現行の塾歌は1941年に制定されたもの。


  • 1906年 - 大学院を設置。


  • 1910年 - 文学科の教授を中心に『三田文学』創刊。


  • 1912年 - 創立50周年を記念して慶應義塾図書館が竣工。


  • 1915年 - 維持会から『三田評論』を創刊。三田大講堂が竣工。


  • 1917年 - 北里柴三郎を招請して、東京市四谷区(現新宿区)に大学部医学科を設置。


  • 1920年 - 大学部が大学令による大学(文学部・経済学部・法学部・医学部)に昇格、同時に大学予科を設置。大学病院を開設。


  • 1930年 - 第1回連合三田会を開催。


  • 1934年 - 神奈川県橘樹郡日吉村(現横浜市港北区)に日吉校舎を開設、大学予科を移転する。東京横浜電鉄(現東急電鉄)が誘致し、校舎用地の提供を受けた。「福沢先生誕生百年並に日吉開校記念祝賀会」を挙行。


  • 1944年 - 財団法人藤原工業大学を統合し、工学部を設置。獣医畜産専門学校を開校。藤原工業大学は藤原銀次郎の寄付により1939年に開校、当初から慶應義塾への統合を前提としていた。


  • 1945年 - 戦災と日吉校舎の接収に伴い、中央労働学園の校舎および、川崎市蟹ヶ谷の旧海軍東京通信隊施設を暫定的に使用。図書館にあったステンドグラスも焼失。ようやく1974年に復元が成る。


  • 1947年 - 中等部を設置。獣医畜産専門学校を埼玉県北足立郡志紀町(現志木市)に移転。旧東邦電力の東邦産業研究所跡地を、同窓の松永安左エ門による寄付によって取得。


  • 1948年 - 通信教育課程を設置。第一高校・第二高校・農業高校を設置。農業高校は志木校地に開校、1957年に志木高校となる。


  • 1949年 - 第一・第二高校を統合、慶應義塾高等学校設置。大学は学制改革に伴い、文学部・経済学部・法学部・工学部からなる新制大学となる。日吉校舎の接収解除、同時に高等学校を日吉へ移転。また工学部を西多摩郡小金井町(現小金井市)に移転。


  • 1950年 - 大学の一部講義を日吉で開始、日吉は高等学校ならびに学部学生の教養課程、三田は学部学生の専門課程として利用することになり、キャンパスの使用方法が大戦前の予科(新制の高等学校3年および学部1・2年に相当)と大学の区分に戻る。


  • 1951年 - 学校法人設置認可。新制の大学院設置。


  • 1952年 - 医学部が新制大学へ改組


  • 1958年 - 創立100年記念の切手が1種類(10円)、発行された。


  • 1965年 - 学費改訂と塾債発行から大学紛争が勃発。さらに米軍研究資金導入や大学立法を巡って紛争が長期化、1973年には工学部と通信教育課程を除くすべての学部で卒業式を中止する事態となる。


  • 1972年 - 大学工学部を日吉キャンパスの北隣・矢上キャンパスに移転。


  • 1990年 - 湘南藤沢キャンパスに大学環境情報学部・大学総合政策学部を設置。ニューヨーク高等部を開校。


  • 1992年 - 湘南藤沢キャンパスに藤沢中等部・高等部を開校。


  • 2008年 - 創立150年記念式典開催。学校法人共立薬科大学と合併、芝共立キャンパスに薬学部を設置。日吉キャンパスに大学院システムデザイン・マネジメント研究科、メディアデザイン研究科を設置。大阪リバーサイドキャンパスを、大阪市福島区の再開発地区「ほたるまち」に開設。



慶應義塾の三藩


慶應義塾の三藩(けいおうぎじゅくのさんぱん)とは、幕末 - 維新期に慶應義塾を支えた所縁のある3つの藩[17][18]。紀州藩・越後長岡藩・中津藩の三藩を指す。入塾した藩士はのちに塾長や要職を歴任しているため、慶應義塾の基礎となっている。廃藩置県後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、越後長岡藩・紀州藩・中津藩(慶應義塾の三藩)を中心とした士族が十中八九であった[19]



越後長岡藩


単身上京して新銭座に入塾した藤野善蔵(のち塾長、長岡洋学校主催)の影響が大きいと伝えられている[20]。長岡藩は戊辰戦争後に藩校崇徳館などで教育改革を進めて江戸の慶應義塾に多くの学生を送った。この結びつきは、大参事として維新後の長岡を指導した三島億二郎が福澤諭吉の思想に共鳴し交流が密であったことも一因であった。



  • 主な藩士:牧野鋭橘(越後長岡藩藩主)、城泉太郎(長岡藩家臣、のち塾長)、渡部久馬七(のち塾長)、蘆野巻蔵(のち塾長)、小林寛六郎(「米百俵」で知られる小林虎三郎の弟)、小林雄七郎、秋山恒太郎、名児耶六都、外山脩造、栗山東吾、牧野鍛冶之助、稲垣銀治、三島徳蔵、曽根大太郎、中島武藤太、高野弥次郎、小林見義、山田鶴遊


紀州藩


藩の有力者岸嘉一郎が鉄砲洲時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り[21]、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを「紀州塾」と称していた[13]。和歌山藩の入塾生は元治元年九月入塾の臼杵鉄太郎を最初とし、慶応元年三名.慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも紀州徳川家第15代当主徳川頼倫は三宅米吉、英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授)、米国人のウィリアム・S・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修め、鎌田栄吉(のち塾長)からは精神的な薫陶を受けている。



  • 主な藩士:小泉信吉(のち塾長)、松山棟庵(のち塾長、医師)、草郷清四郎(紀州藩騎兵指揮官)、前田政四郎(紀州藩騎兵仕官)、岸幹太郎(徳川家家令)、和田義郎(慶應義塾幼稚舎創始者)、三宅米吉(歴史学者)、巽孝之丞、中井芳楠(銀行家)、長屋喜弥太(軍目付、陸軍少佐)、小川駒橘(内務官僚、長崎師範学校校長)


中津藩


中津藩は福澤諭吉の出身藩であり、いうまでもなく学問の主流を成した藩である。藩主奥平昌邁、藩校進脩館、豊前国から多数の藩士が塾生となった。



学校法人共立薬科大学との合併


2006年11月、慶應義塾は学校法人共立薬科大学と合併についての協議に入った[22]。その後両学校法人の間で協議が重ねられた結果、2007年3月に両学校法人の合併を決定し、合併契約書を締結した[23]。これに伴い、両学校法人では2007年9月までに文部科学省から合併認可を得、その後に共立薬科大学の廃止認可申請および慶應義塾大学薬学部、同大学院薬学研究科の設置認可申請を実施。これらの手続きを経て2008年4月に両学校法人は合併し、慶應義塾大学に薬学部と大学院薬学研究科が設置された。両学校法人は「この合併には双方にメリットがある」としている。慶應義塾大学にとっては、既存の医学部、看護医療学部に薬学部、薬学研究科が加わることにより、同大学の医療分野の教育、研究の一層の充実を図ることができる。一方共立薬科大学にとっては、慶應義塾大学病院を使って実習を行えるようになるなど、より充実した環境のもとで薬学に携わる人材を育成できるというメリットがあるとしている[24]



歴代塾長一覧


1881年の塾長職制度化後の歴代塾長一覧。慶應義塾規約により塾長は慶應義塾の理事長と慶應義塾大学の学長を兼ねるとされる[25]


現在の塾長の任期は4年で、2011年の規約改正により再任は通算2期までとなった[26]







































































































氏名 就任時期 略歴
浜野定四郎 1881年− 1887年
-
小泉信吉 1887年− 1890年
横浜正金銀行支配人
小幡篤次郎 1890年− 1897年
英学者
鎌田栄吉 1898年− 1922年
-
福澤一太郎 1922年− 1923年
福澤諭吉長男
林毅陸 1923年− 1933年
-
小泉信三 1933年− 1946年
経済学者
高橋誠一郎 1946年− 1947年
元・経済学部長
潮田江次 1947年− 1956年
元・法学部長、福澤諭吉孫
奥井復太郎 1956年− 1960年
元・経済学部長、都市社会学者
高村象平 1960年− 1965年
元・経済学部長
永沢邦男 1965年− 1969年
元・法学部長
佐藤朔 1969年− 1973年
元・文学部長
久野洋 1973年− 1977年
元・工学部長
石川忠雄 1977年− 1993年
元・法学部長
鳥居泰彦 1993年− 2001年
元・経済学部長
安西祐一郎 2001年− 2009年
元・理工学部長
清家篤 2009年− 2017年
元・商学部長
長谷山彰 2017年− 元・文学部長


事務部門


慶應義塾の事務は、塾監局が中心となって担当している。形式的には学事センターも塾監局に属する組織であって、大学に属する組織ではない。三田以外の各キャンパスに所在する事務室も塾監局の支部の扱いである。ただし、大学病院のある信濃町キャンパスについては、従前は医学部事務局が塾監局の支部として存在していたが、病院経営改革に伴い、大学病院事務局(病院経営ボードに直属)と信濃町キャンパス事務室(塾監局の支部)とに分割されている。


塾監局の系統に属さない組織としては学生総合センターやメディアセンター(図書館)等があり、これらは主として大学に属する組織である。


近年は上記以外にも塾監局の系統に属さない組織(塾長室、広報室、研究支援センター等)が増加している。


なお、慶應義塾の職員は、大学病院や信濃町キャンパス、矢上キャンパスの技術系の職員を除いて、上記の組織の系統の違いに関わらず異動がありうる。



式典・記念行事



世紀送迎会




  • 1900年12月31日、福澤諭吉の提案で、三田山上の慶應義塾にて19世紀と20世紀の「世紀送迎会」を開催。風刺画などで19世紀を振り返り、20世紀の幕開けとともに「儒学者の夢」「階級制度の弊害」「蓄妾の醜態」という3枚の風刺画に一斉射撃して点火、「二十センチュリー」という花火が夜空に浮かび上がるなど趣向を凝らしたものであった[27]


  • 2000年12月31日には、100年前の送迎会に倣い三田山上で「第2回世紀送迎会」を開催。自らの意思で世紀を飛び超えるという意味で、21世紀の幕開けより6時間早い午後6時に「カウントアップ」し、新世紀の幕開けを祝った[28]



創立150年式典の開催




  • 2008年11月8日、日吉キャンパスで今上天皇・皇后臨席の元で創立150年記念式典が開催された。司会を務めたのは塾員である石坂浩二と遠藤玲子。式典には塾生・塾員約1万人のほか、ハーバード大学、ケンブリッジ大学の代表者等、慶應義塾にゆかりのある国内外の来賓が数多く参列した[29]。式典の模様は三田キャンパス、湘南藤沢キャンパス、大阪リバーサイドキャンパスに中継され、さらにはインターネットを通じて全世界にも同時中継されている[30]。式典において今上天皇は「今後も国の内外で活躍する人材を数多く育て、送り出すことを期待しています」とおことばを述べた[31]。天皇家と慶應義塾とは、元塾長の小泉信三が天皇の教育係であった等の点で接点があり、塾が主催した「小泉信三展」でも天皇皇后夫妻が来塾している[32]。ちなみに、創立90年と100年の節目においては昭和天皇が式典に臨席している[33]

  • 記念式典翌日には同じく日吉キャンパスにおいて連合三田会大会が開催され、加山雄三、紺野美沙子、櫻井翔などの塾員が登場した[34]

  • 2009年1月10日から3月8日まで、東京国立博物館で「慶應義塾 創立150年記念 『未来をひらく 福沢諭吉展』」[35]が開催された。同展カタログ『未来をひらく福澤諭吉展』(監修:前田富士男アートセンター所長、米山光儀福澤研究センター所長、小室正紀福澤研究センター前所長)は、第6回ゲスナー賞銀賞を受賞した。



主な建造物


慶應義塾は日本の教育機関として有数の歴史を持ち、さらに移転や大規模な建替えを伴う再整備事業を行っていないため、由緒ある建造物が多数現存している。この節ではそうした建築物の中から特筆すべきものを紹介している。



三田キャンパス


1871年(明治4年)芝新銭座より三田(島原藩中屋敷跡)に校舎を移転した。これ以降三田キャンパスは慶應義塾の中心地となる。三田演説館(1875年)、創立50年記念図書館(1912年)など歴史的にも重要な建造物が存在する。



  • 1858年(安政2年) - 福澤諭吉「蘭学塾」創始

  • 1868年(明治元年) - 慶應義塾に発展。

  • 1871年(明治4年) - 三田へ移転(島原藩邸跡)


幻の門



幻の門


現在東館の位置する場所に存在した門。1959年南校舎が建造され、同時に南門が正門として規定されるまで、事実上同門が正門として機能した。「幻の門」の名称はこれ以降用いられるようになった。
名称のいわれについては諸説あり、酔った学生がふざけて夜中門標を持ち去り、いくら新しいものを設置してもそのつど盗られるので、ついには門標なしの門となりこの名が慣用的に付けられたとする説。このほか「たとえ外見こそはそまつでも、これこそ青春のあこがれと理想を迎え入れる大きな門がそびえ立つように感じられ、これが形式にとらわれない義塾の精神と相通じるように思えて、これを「幻の門」と呼んで歌いあげたものだといわれる」(堀口大學『百年史』)などもある。



馬留石


現在残る石造りの門が設置されたのは1913年(大正2年)であり、それ以前は旧島原藩邸時代の木造の黒い門が建っていた。2000年(平成12年)、東館の設置に伴い、同館アーチを潜り抜け、左に曲がった石畳の坂道の上に移設されている。坂道の端には福澤諭吉が馬を繋いだ「馬留石」が存在する。


カレッジソングに『幻の門』(作詞:堀口大学、作曲:山田耕筰1933年(昭和8年)春、ワグネルソサィエティーと応援団共作)がある。




演説館



三田演説館

木造瓦葺、洋風、なまこ壁、床面積58坪余 (192.16m2) で、一部2階建で総坪数は付属建物合わせて87.9坪余 (290.34m2)。

  • 1876年(明治8年)5月1日 - 竣工(現在の図書館旧館と塾監局との中間に存在)

  • 1924年(大正13年) - 稲荷山(現在の場所)に移築

  • 1947年(昭和22年)5月 - 修復工事実施

  • 1967年(昭和42年)6月 - 重要文化財に指定

  • 1995年(平成7年) - 解体修復工事実施




稲荷山



稲荷山



現在、三田演説館が設置されている高台をいう。

名称のいわれとしては同所にかつて稲荷祠が存在したことによる。江戸末期各藩は財政的に逼迫し、拝観料を徴収する目的で屋敷内に淫祠を奉った[36]。現在の三田キャンパスがある島原藩も藩邸南部の江戸湾を一望できる高台の同所に稲荷祠を設けた。明治時代初期、敷地が慶應の所有になっても稲祠は残り、塾内でこの高台を「稲荷山」と呼んだ。現在、祠は存在しないが名称のみが残っている。




慶應義塾図書館・旧館



慶應義塾図書館・旧館

三田演説館と並んで慶應義塾大学を象徴する建造物の一つである。1907年に創立50周年記念事業として1908年起工、1912年竣工された。詳しくは独立記事慶應義塾図書館・旧館を参照のこと。




塾監局



塾監局


1926年(大正15年)9月竣工、鉄筋コンクリート造地階共4階建、延740余坪 (2450m2)

総務部(総務担当、広報担当)、人事部、経理部、管財部、学事センター、基金室、塾員センター、入学センター、一貫教育支援センター、学術事業連携室、塾長室(企画・広報担当、秘書担当)、人事部、第3会議室、国際連携推進室、経営改革プロジェクト室、学術事業連携室、ハラスメント防止委員会事務室




南校舎(新)




南校舎(旧)



南校舎(新)

創立150年記念事業として建設された。建物のデザインとしては旧南校舎同様のモダニズム様式を踏襲している。

設計において全体のイメージは半世紀に渡って塾員・塾生に馴染みの深かった旧南校舎にエレメント、素材感を一致させることで建築物としての「記憶」を継承させ、訪れる塾員に違和感を抱かせないように配慮されている。講義室(大小)、グループ学習室、5階に多目的ホール(680名収容)を設置し大規模授業の他、学会、シンポジウム、講演会など様々な場面で活用可能である。3階には社中交歡 萬來舍 (590.43m2) がある。2011年3月竣工。



南校舎(旧)


1959年、創立百年記念事業として建設。

長く三田キャンパスを代表する建造物であり、最も大きな建築物であった。完成に伴い南側の門が正門となる。外壁はコンクリート打ちっぱなしの典型的なモダニズム建築であった。36室(2,721人収容)。





「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の碑文




東館



東館


2000年(平成12年)に完成

旧図書館の赤煉瓦のイメージで建てられている。かつていわゆる「幻の門」が存在した場所にある。三田通りから台地上にあるキャンパスに至る傾斜を跨ぐ形で建設されており、アーチの上部にはラテン語で福澤諭吉の「HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」=「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の言葉が刻まれている。

G-SEC Labには米国の作家で医師のマイケル・クライトンの名を冠した「クライトンカフェ」が存在する。その経緯についてはマイケル・クライトン#エピソードを参照のこと。

三田研究支援センター、プロジェクト室、グローバルセキュリティ研究所、プロジェクト室、交流スペース、G-ホール、小会議室




南別館



南別館


2009年3月竣工

「未来先導館(仮称)を含む南校舎建て替え事業」に伴う事業として、南校舎建て替え工事期間中の代替教室確保を目的に建設された。




図書館新館



図書館新館(三田メディアセンター)


1982年(昭和57年)竣工。地上6階・地下5階。設計は槇文彦。1983年のBCS賞受賞。文・経・法・商学部の専門領域に関する人文・社会科学分野の資料を所蔵。閲覧室、開架式書庫、グループ学習室、AVホール、インター ネットやデータベース検索のためのエリア、AVコーナー・AV編集室




南館内部吹抜


南館



南館




2005年3月竣工、地上11階、地下5階でsemiac免震システムを採用。大成建設によるRC造。建築面積2,097m2、延べ床面積18,467m2。法科大学院、教室、模擬法廷、自習室や教員室、メディアセンター(図書館) (2005年)平成17年開館)。

ルーフ・テラス部に「ノグチ・ルーム」が移設されている。




新萬來舎




ノグチガーデン



新萬來舎

竣工:1946年(昭和26年)

設計:谷口吉郎、イサム・ノグチ

萬來舎は明治9~20年頃まで現在の塾監局付近に存在した建物であった。その後、現在の場所に再建されたが昭和19年戦災により消失してしまった。1951年(昭和26年)谷口吉郎、イサム・ノグチの合作により「新萬來舎」として再建され、南館建設に際して2005年(平成17年)同館屋上に移築されて今日に至っている。庭園、およびノグチのモニュメントも一部同所に移動し展示してある。




西校舎



西校舎


1959年に創立百年記念事業として南校舎と同時期に竣工。

ホール(800人収容可)、生協食堂、山食


1945年(昭和20年)の空襲で焼失した「大講堂」の跡に建設された。




大学院校舎



大学院棟

敷地面積:4.8ha、延床面積:8,787m2

創立125年記念事業として建設された。

講義室、ゼミ室、教員用研究室、産業研究所、東アジア研究所、メディア・コミュニケーション研究所、司法研究室、会計研究室、大学院生研究室、共用パソコン室、国際センター事務室、日本語・日本文化教育センター事務室



その他



西館

三田文学編集部、体育会事務室、業務監査室、労働組合三田支部、体育会本部



北館

大会議室、ホール、北館ホール(240人収容)、ファカルティクラブ



第一校舎

訪問教員用研究室、教職課程センター研究室



研究室棟

学部長室、学部長秘書室、研究支援センター本部、談話室、会議室A・B、研究室個室・事務室

教員の在室状況を1階の電光掲示板で確認出来る。



研究連携推進本部 先導研究センター

21世紀COEプログラム、グローバルCOEプログラム



論理と感性の先端的教育研究拠点、市民社会におけるガバナンスの教育研究拠点、市場の高質化と市場のインフラの総合的設計、社会イノベータコース/学生支援GP、パネルデータ設計・解析センター(パネル調査共同研究拠点)、三田研究支援センター分室

※建物そのものは賃貸である。



東別館

西別館


労働組合本部






慶應義塾大学出版会、慶應義塾大学通信教育部事務局分室、慶應インターナショナルレジデンス

5階建、上部3階は「慶應インターナショナルレジデンス」



慶應義塾大学出版会・マーケティング・センター

地上3階、地下1階




日吉キャンパス



日吉キャンパスは1934年(昭和9年)に大学予科を設置したのが始まりである。第二次世界大戦中は建物のいくつかが海軍の施設(軍令部第3部、人事局、建設部隊等、連合艦隊司令、海軍総隊司令部、航空本部等)として活用された。移転直後から敷地の地下に地下壕が建設され、現在も残る。


キャンパスの入口に門は存在せず、キャンパスを囲む塀はなく一部においては市街地と境界が入り組んでいる場所もある。キャンパスは敷地面積10万坪を誇り、構内には貴重な自然が温存されている。日吉駅からに日吉記念館に至る幅22m、長さ220m中央道路脇には100本の銀杏並木があり、黄葉の季節には市民の憩いの場となっている。銀杏並木は1997年第7回「横浜市まちなみ景観賞」を受賞している。




第1校舎


慶應義塾高校の校舎(旧:大学予科校舎)



第2校舎

214、221、224、231、234教室、生物学教室、物理学教室、化学教室


1934年(昭和9年)施工される、設計は曾禰中條建築事務所で施工は上遠合名会社、清水組が行う。構造はRC3階建て。正面に円柱を持つ列柱廊が存在する。建物の一部にはアール・デコの装飾が確認される。




協生館(綱島街道より)




協生館(陸上競技場より)




協生館
内部吹抜け



協生館

創立150年記念事業として2008年8月に完成。塾員、塾生のほか広く市民に開放されている施設を含む。CASBEE横浜(横浜市が環境に優しい建物として認証する制度)の第1号として最高位「Sランク」認定されている。

  • 慶應義塾専用施設

    • 大学体育施設 (B1F)(50mプール、飛び込みプール)

    • 大学院施設 (3-6F)

      • 経営管理研究科(ビジネス・スクール)

      • システムデザイン・マネジメント研究科、

      • メディアデザイン研究科

      • 研修宿泊施設 (7F)





  • 塾員・塾生以外に開放している施設

    • 慶應義塾運営施設 (2F)

    • 藤原洋記念ホール

    • イベントホール

    • 多目的教室



  • 社会・地域連携施設 (B1-2F)

    • コミュニケーション・プラザ

    • 開放型体育施設(セントラルウェルネスクラブ)

    • 保育支援施設(ベネッセチャイルドケアセンター日吉(横浜市認可保育園・一時保育施設))

    • 飲食施設:TULLY'S慶應日吉店、HUB慶應日吉店 、クイーン・アリス ガーデンテラス日吉

    • 物販施設:ローソン 慶應日吉店

    • クリニック:日吉メディカルクリニック 内科・リウマチ科・消化器科・整形外科・耳鼻咽喉科







来往舎らいおうしゃ



2001年(平成13年)竣工。清水建設設計・施工。

地上7階建て、3階までは共同研究室が中心、4-7階は個人研究室。教員専用のレファレンスライブラリーエクステリアは列柱と大きなガラスが特徴、エントランス側は吹き抜け空間が設けられている。


日吉第4校舎独立館



慶應義塾創立150年記念事業の一環として2009年3月竣工、4月22日(水)に開所式開催。綱島街道側の土手の斜面を削って用地を確保して建設された。設計・建設は鹿島建設。綱島街道側桜並木アプローチは協生館に続きCASBEE横浜第3号として最高位「Sランク」を認定されている。

同建物内には「日吉コミュニケーション・ラウンジ」が開設された。ここには和室「日吉の家」、ラウンジ、(3) インフォメーションスペース、(4) 学生活動支援スペース、(5) 日吉グローバルスタジオなどが含まれる。同施設は塾員、塾生に開放され授業や課外活動等に活用されている。


日吉図書館(日吉メディアセンター)



1985年(昭和60年)竣工。船をモチーフとして設計されている。蔵書数約60万冊。

記念館



記念館




1958年(昭和33年)11月8日の創立100年記念式典の会場として設計され、1958年(昭和33年)10月竣工。その後各種式典の場として活用される。

2011年3月までの竣工を目指して、建て替えを計画中である。

※ただし2009年現在工期の延期が検討されている[37]




藤山記念館



藤山記念館


1958年(昭和33年)塾員藤山愛一郎の寄付により図書館として建てられた。ラウンジ、会議室 、パソコン室、大会議室。

日吉新図書館の開館まで藤山記念図書館として使用していたが、現在は藤山記念館と名称を変え、多面的に利用されている。正面右脇に愛一郎の父で同じく塾員の藤山雷太の像がある。




経営管理研究科旧校舎



経営管理研究科(ビジネス・スクール)旧校舎


1978年(昭和53年)に開設.

現在は大学院としての機能は協生館に移り、2009年7月現在、建物だけが残っている



教育施設



第3校舎

外国語教育研究センター、ラボ、301-336



第4校舎A棟

J411-J447



第4校舎B棟

学生総合センター、国際センター、学事センター、学生相談室、J11-39


第5校舎



第6校舎

4階建、グリーン食堂、J611-643、ゼミ1、ゼミ2



第7校舎

701、703、704教室、理工学部基礎教室、日吉インフォメーションテクノロジーセンター、パソコン室



第8校舎

811、812、831教室、心理学研究室、美術研究室、音楽学研究室

学生団体部室、トレーニングルーム

日吉会館(慶應義塾高校)




宿泊、居住施設



日吉寄宿舎

設計:谷口吉郎

竣工:1937年(昭和12年)



下田学生寮 (Shimoda Student Village)

地上4階建て、延べ面積約1万m2

1階:体育会共用スペース(部室・食堂・トレーニング施設・浴室等)2-4階:宿舎(体育会棟・留学生棟)



体育会野球部合宿所

2008年4月4日完成



KBSハウス

KEIO NESTLE HOUSE




厚生施設



保健管理センター

塾生会館(課外活動棟)



食堂棟

1階:生協食堂(遊遊キッチン:472席・テラス席220席)、イタリアントマトカフェジュニア(114席)、2階:グリーン食堂(グリーンズマルシェ:531席)、さぼてんExpress(30席)、喫茶売店、3階:公認学生団体のための集会室


購買施設棟(生協購買部)



屋内運動施設/スポーツ関連施設



体育館

柔道場・剣道場



スポーツ棟

体育研究所、卓球場



柔道場(慶應義塾高校)

スポーツ医学研究センター




野外運動施設



ラグビー場(日本ラグビー発祥の地)

慶應義塾体育会馬術部




そのほか



地下壕入り口

弥生時代住居址群

(第六天古墳横穴式石室の玄室部)



佛教青年会館

YMCAチャペル

(ヴォーリズ[2][リンク切れ]設計。1936年竣工)






信濃町キャンパス


1917年(大正6年)医学科予科が三田に開設され、その後医学部の拠点を信濃町に移転する。戦時中は東京都北多摩郡武蔵野町に疎開し、戦後信濃町に戻る。東門と西門を貫く通路を挟んで、北側に教育施設、南側に臨床施設が設置されている。臨床施設は1号棟、中央棟を中心に枝の様に各種臨床施設が付随している。


施設は老朽化が進んでいる建物もあり創立150年記念事業の一環として、建て替え計画が進行しており、2020年まで継続的に改修工事等が続く予定である[38]。2018年3月、臨床研究棟・6号棟・7号棟の敷地部分に新1号館が竣工、リハビリテーション棟の建設が予定されている。




新1号館



1号館


2018年(平成30年)3月竣工。10階建て地下2階、798床。医学部創立100年に向け、全ての医療チームが結集する、クラスター診療を実現する施設として建設された。

Ⅰ期棟とⅡ期棟からなり、連絡通路で結ばれている。

6-10階は病棟となっている。




2号館



2号館


1987年(昭和62年)竣工、11階建て1,056床、当時最新のコンピュータを利用した総合医療情報システムを稼働させるための施設として建設された。

B1-2は業務部門、1,2階は外来施設、3,4階は手術施設、5-10階までは病棟が占め、11階には会議室、レストランが存在する。



3号館(臨床研究棟II)



北棟

地上6階、地下1階(2011年1月竣工)

低侵襲療法研究開発センター、病院情報システム部、内科系臨床施設





南棟

地上6階(2012年4月竣工)

中央臨床検査部門、放射線診断科核医学部門、予防医療センター、腫瘍センター、免疫統括医療センター、病棟


PETを備えている。




北里記念医学図書館(信濃町メディアセンター)



北里記念医学図書館(信濃町メディアセンター)

1937年(昭和12年)に医学部創設に功績があった北里柴三郎博士の威徳を顕彰し建設計画が立ち上がった。広く全国の塾員に募金を募り集まった三十万円を基に和田順顕に設計を依頼する。1944年(昭和19年)、慶應義塾大学に建物が寄贈され、医学部図書館となる。平成16年(2004年)に信濃町メディアセンターと名称変更し今日に至る。医史学の資料として「富士川文庫」、「石黒文庫」等が存在する。北里講堂では慶應医学賞の授与式が行われている。




総合医科学研究棟



総合医科学研究棟


2001年(平成13年)竣工、地下2階、地上9階、塔屋1階、延べ床面積 24400平方メートル

主な施設として、リサーチパーク 56ユニット、RI実験センター、中央機器管理部、動物実験センター等がある。




臨床研究棟



臨床研究棟


2008年(平成20年)2月竣工、地上5階・地下1階、延べ面積約5,600平方メートル。


大スパンモノコック構造を採用し、内部空間に柱がなく、また内部の仕切りを自由に組みかえられる工法を採用している。

CCR(クリニカル・リサーチ・センター)が位置する。




医学部予防医学教室



医学部予防医学教室(第3校舎)

竣工は1929年(昭和4年)、信濃町キャンパスに現存するものでは最も古い建造物である。

構造は鉄筋コンクリート造4階建て設計は曾禰中條建築事務所、施工は清水組によってなされた。

現在でも一部の講義は本校舎内で行われている。



臨床施設



中央棟


1963年(昭和38年)竣工



1号棟


1965年(昭和40年)外来病棟として竣工、A、B2棟からなる。

B棟は建物東側に螺旋状の避難通路があり、災害時にはバリアフリーで患者の避難が可能となっている。この建築様式は後に東海大学医学部付属病院にも採用されている。



2号棟(臨床研究棟)


1952年(昭和27年)竣工(旧:「ほ」号病棟)


1990年(平成2年)臨床研究棟に改修、内科系臨床施設を含む。




旧リハビリテーション棟

病院情報システム部、リハビリテーションセンター


内分泌検査棟



包括先進医療センター棟

第1,第2MR棟

SIGNA 1.5T, SIGNA 0.5Tが設置されている。



CTスキャナー棟

霊安室




教育・研究施設



東校舎


1957年(昭和32年)竣工



第二校舎


1961年(昭和36年)竣工

PBLルーム



新教育研究棟


1996年(平成8年)竣工

講堂、セミナールームは各種研究会や会合に利用されている。



本館臨床講堂

臨床講義用階段教室




日本ワックスマン財団


1957年設立


1952年12月、セルマン・エー・ワックスマン博士がノーベル生理学医学賞授賞式の帰途「北里柴三郎生誕百年祭」の招聘により来日した際に設立された。



孝養舎

看護学部の校舎として使われている。主に1・2年次は湘南藤沢キャンパス (SFC)・看護医療学部校舎を3・4年次の学生は本校舎を使用する。
学生総合センター、学事課、自習室、体育室



グラウンド

ミュージアム




犬舎

ボイラー室




その他(厚生施設など)



煉瓦館


1995年(平成7年)旧食養研究所跡に建設、設計清水建設

現在オフィス・商業施設として利用されている。



三四会館

三四会事務局



慶應稲荷大明神


1933年(昭和8年)鎮座

慶應義塾塾内に存在する神社であり、受験シーズンには慶應義塾ほか医・歯・薬学部(慶大に限らず)合格祈願の受験生の参拝が見られる。




白梅寮

慶應稲荷大明神、脇の梅の木が名称のいわれ

紅梅寮

慶應稲荷大明神脇にかつて存在した梅の木が名称のいわれ




食堂

百花百兆
壁面に処方箋待ちの番号を表示するディスプレイが設置されている。




コーヒー・ショップ

STARBUCKS COFFEE



花屋

HANAKITA



生協売店

購買部が存在し、外部に医療用品を含めた自動販売機が設置されており夜間の需要に対応している。



グリーンズカフェ

職員食堂










矢上キャンパス




創想館



創想館

2000年(平成12年)に竣工。地下2階、地上7階、塔屋1階建築面積 2,978m2

延床面積 21,286m2。施工は錢高組が担当。セミアクティブ免震構造を採用し、日本免震構造協会賞・技術賞(特別賞)を受賞している。名称は、理工学部の理念を実現する、「創造と想像の拠点」といった意味が込められている。

地階閲覧室は全館閉館後も24時まで開室している。






アルファ館



湘南藤沢キャンパス


1990年(平成2年) 神奈川県藤沢市に湘南藤沢キャンパスを設置、総合政策学部・環境情報学部を開設



アルファ館(本館)

学部長室、事務室


2001年(平成13年) 看護医療学部を開設





芝共立キャンパス


2008年(平成20年) 学校法人共立薬科大学との合併により薬学部・大学院薬学研究科開設芝キャンパス、浦和キャンパスが慶應義塾の施設として新たに加わることになった。




2号館




3号館



1号館

正面玄関が設置されている。交通の頻繁な日比谷通りに面しているが、道路までの間に芝公園がありそれが緩衝地帯の役割をなして騒音を防いでくれている。

屋上庭園が設けてあり、そこから東京タワーの夜景を楽しむことができる。

トレーニングジム、学生ホール、食堂、売店、事務局、マルチメディア講堂、屋上庭園、薬用植物園分園、体育館(多目的ホール)



2号館

記念講堂、学生相談室、講義室、実習室、実験動物飼育室



3号館


2000年(平成12年)竣工

セミナー室、教員研究室、実験室、マルチメディア・コンピュータ室、芝共立薬学図書館(薬学メディアセンター、蔵書は製本68,000冊)、附属薬局、事務局(総務課、経理課)、生体防御薬学研究センター



その他のキャンパス




注釈





  1. ^ 紀州藩は親藩だったために、幕末には長州征伐に出陣したりするのだが、地理的環境から京都、大阪を通じて反幕勢力の状態も知り、彼らに倣って早くから英学を採り入れたのである。鎌田栄吉の自伝によると廃藩前に紀州藩で福澤諭吉を破格の待遇で招こうとしたのだが、すでに慶應義塾を開いていたので不可能だった。そして紀州出身で福澤門下の松山棟庵が和歌山に帰って藩立の共立学舎という英学校を作った。その助教がやはり慶應出身の吉川泰次郎(後の郵便汽船三菱会社社長)だった。明治五年になって藩学は県学となって吉田政之丞が慶應から帰って来て、数人の助手を抱えて英学を教えた。鎌田栄吉はここで理学初歩、地理初歩に初まって、ギゾーの文明史、テーラーの英国史、ウエーランドの経済書などをすべて慶應流で教えられたとのことである。前記のように旧藩時代から小泉信吉(横浜正金銀行の創立者)らが福澤門下となっていたが、「福翁自伝」にも塾には紀州の学生が多いと書いている。当時の慶應義塾では福澤の属した中津藩出身者、越後長岡藩出身者、紀州藩出身者が学生の主流だったということである。また、岸幹太郎(徳川家家令)、草郷清四郎(紀州藩騎兵指揮官)、三宅米吉(歴史学者)、巽孝之丞ら初期の藩士だった。


  2. ^ また、維新後の和歌山における慶應義塾を範にとった変則中学の展開や、中井芳楠・長屋喜弥太が創設した私塾自修社(後の自修学校)、同地の義田結社「徳義社」の結成など、紀州藩との密なる関係がみてとれる。




出典


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  1. ^ [慶應義塾豆百科] No.7 塾名の由来、慶應義塾大学。


  2. ^ [慶應義塾豆百科] No.8 「義塾」という名のおこり


  3. ^ 福澤諭吉、『学問ノスゝメ』


  4. ^ [慶應義塾豆百科] No.60 独立自尊


  5. ^ 独立自尊の4字は、福澤諭吉の戒名「大観院独立自尊居士」にも取り入れられている。この名は、高弟・小幡篤次郎の撰によるとされる。


  6. ^ 福澤諭吉、「西洋の実学」、『福澤諭吉著作集』第5巻

  7. ^ abc福澤諭吉、「慶應義塾改革の議案」

  8. ^ ab[慶應義塾豆百科] No.53 「慶應義塾の目的」


  9. ^ 飯田鼎 『福沢諭吉——国民国家論の創始者』 中央公論社〈中公新書722〉、1984年3月。ISBN 4-12-100722-0。


  10. ^ 江川坦庵の知名度 桜井祥行(高32)

  11. ^ abc慶應義塾図書館史


  12. ^ 石河幹明・前揚第一巻

  13. ^ ab「慶應義塾七十五年史」210頁


  14. ^ 上田偵次郎伝 (PDF)


  15. ^ 「紀州塾」[リンク切れ]


  16. ^ 慶應キャンパス新聞 塾統~慶應義塾の伝統 第40回 「塾長経験・歴代最長」 鎌田栄吉 at Archive.is (archived 2006-11-10)


  17. ^ 慶應義塾の「三藩」[リンク切れ]


  18. ^ 築地鉄砲洲に 慶應義塾が建学されたころ塾には三つの大きなグループがあった。一つは九州中津の奥平藩、これは福澤先生の出身地。二つ目が紀州藩、三つ目が越後長岡藩だった。[リンク切れ]


  19. ^ 『慶應義塾入社生徒表』1882年


  20. ^ 石川幹明・『福澤諭吉伝』第一巻


  21. ^ 石川幹明・前揚第一巻


  22. ^ 慶應義塾、共立薬科大と合併へ -義塾に薬学部・薬学研究科設置か- ∣ SFC CLIP


  23. ^ Keio Top News 2008年4月1日の合併に向け、学校法人慶應義塾と学校法人共立薬科大学が合併契約を締結 2007/3/26[リンク切れ]


  24. ^ [1]


  25. ^ 慶應義塾規約 (PDF) 第7条


  26. ^ 次期塾長に、長谷山彰常任理事が選任される:[慶應義塾]


  27. ^ [ステンドグラス] 世紀送迎会


  28. ^ 慶應義塾「世紀送迎会」


  29. ^ 両陛下、慶應義塾創立150年式典に[リンク切れ]


  30. ^ 【慶應義塾 創立150年】三田、湘南、大阪に生中継


  31. ^ 主な式典におけるおことば(平成20年):天皇陛下のおことば - 宮内庁


  32. ^ 両陛下、「小泉信三展」ご鑑賞 慶應義塾図書館旧館


  33. ^ 慶應義塾の周年行事[リンク切れ]


  34. ^ 加山雄三さんらコンサート、慶應義塾創立150年記念[リンク切れ]


  35. ^ 東京国立博物館 - 展示 表慶館 慶應義塾創立150年記念 「未来をひらく福澤諭吉展」


  36. ^ 文政12年(1829年)の記録(大郷信斎『道聴塗説』第19編)には、「三田島原侯の別邸に住む老狐は、数百年の星霜を経ていて神霊に通じる力がある」との噂を載せている[慶應義塾豆百科] No.32 稲荷山


  37. ^ 『慶應塾生新聞』第449号


  38. ^ 新病院棟建設 | 慶應義塾大学病院




参考文献



  • 慶應義塾 『慶應義塾五十年史』1907年(明治39年)

  • 慶應義塾 『慶應義塾七十五年史』1932年(昭和7年)

  • 慶應義塾 『慶應義塾百年史』1969年(昭和44年)

  • 石田潤一郎著、増田彰久写真 1980年『日本の建築 明治大正昭和7 ブルジョワジーの装飾』(三省堂)

  • 慶應義塾大学三田情報センター編1972年『慶應義塾図書館史』(慶應義塾大学三田情報センター)

  • 『慶應義塾史事典』2008年(平成12年)



関連項目



  • 明六社

  • 交詢社

  • 慶應義塾大学病院

  • 慶應義塾大学出版会

  • 慶應義塾外国語学校



外部リンク



  • 慶應義塾

  • 慶應義塾創立150年Webサイト

  • 慶應義塾:作家別作品リスト - 青空文庫



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