坂上鷹養
凡例 坂上鷹養 | |
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時代 | 平安時代初期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 弘仁8年閏4月16日(817年6月4日) |
官位 | 従四位下・武蔵守 |
主君 | 嵯峨天皇 |
氏族 | 坂上氏 |
父母 | 父:坂上苅田麻呂 |
兄弟 | 石津麻呂、広人、田村麻呂、鷹養、 真弓、鷹主、雄弓、又子、登子 |
子 | 氏勝 |
坂上 鷹養(さかのうえ の たかかい)は、平安時代初期の貴族。左京大夫・坂上苅田麻呂の六男。官位は従四位下・武蔵守。
目次
1 経歴
2 官歴
3 系譜
4 脚注
5 参考文献
経歴
嵯峨朝初頭の大同4年(809年)従五位下に叙爵し、翌弘仁元年(810年)薬子の変終結後に民部大輔に任ぜられる。まもなく陸奥介に任ぜられ、陸奥出羽按察使・文室綿麻呂に従って蝦夷征討に参画する。弘仁2年(811年)4月に大伴今人・佐伯耳麻呂と共に征夷副将軍に任ぜられると、10月に征討軍は一定の戦果を挙げ、12月には蝦夷征討の功労として大伴今人・佐伯耳麻呂と共に昇叙され、鷹養は従五位上となった。
その後、弘仁4年(813年)正五位下・武蔵守、弘仁7年(816年)従四位下と引き続き地方官を務めながら順調に昇進している。弘仁8年(817年)閏4月16日卒去。最終官位は散位従四位下。
官歴
『日本後紀』による。
- 時期不詳:正六位上
大同4年(809年) 10月29日:従五位下
弘仁元年(810年) 9月27日:民部大輔
- 弘仁2年(811年) 3月20日:見陸奥介。4月17日:征夷副将軍。12月13日:従五位上
- 弘仁4年(813年) 正月7日:正五位下。正月10日:武蔵守
- 弘仁7年(816年) 正月7日:従四位下
- 弘仁8年(817年) 閏4月16日:卒去(散位従四位下)
系譜
- 父:坂上苅田麻呂[1]
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:坂上氏勝[2]
- 男子:坂上氏勝[2]
脚注
^ 「坂上系図」『続群書類従』巻第185所収
^ 『日本三代実録』元慶5年11月9日条
参考文献
森田悌『日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年- 森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年