達磨
達磨 | |
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生没年不詳 | |
達磨を描いた 月岡芳年『月百姿 破窓月』 (木版画 1887年) | |
諡号 | 聖胄大師、円覚大師 |
生地 | 南天竺国 |
没地 | 中国 |
宗派 | 中国禅宗初祖とされる |
師 | 般若多羅(『景徳伝燈録』第2巻) |
弟子 | 道育・慧可(『続高僧伝』巻第十六) |
菩提達磨(ぼだいだるま、中国語: 达摩、サンスクリット語: बोधिधर्म, bodhidharma、ボーディダルマ)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。達摩との表記もあるが、『洛陽伽藍記[1]』や、いわゆる中国禅の典籍『続高僧伝 [2]』など唐代以前のものは達摩と表記している。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。
目次
1 生涯
2 二入四行論について
3 影響
4 関連文献
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 関連項目
生涯
菩提達磨についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多く疑いを持たれている。南天竺[注 1]国王の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨になったということになっている。しかしそれよりも古い菩提達磨への言及は魏撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』卷一 永寧寺の条(547年)にあり、全ての達磨伝説はここに始まるともいわれている。
時有西域沙門菩提達摩者、波斯國胡人也。起自荒裔、來遊中土。
見金盤炫日、光照雲表、寶鐸含風、響出天外。歌詠讚歎、實是神功。自云,年一百五十歳、歴渉諸國、靡不周遍、而此寺精麗、閻浮所無也。
極佛境界、亦未有此、口唱南無、合掌連日。 洛陽城内伽藍記巻第一(永寧寺の条)
時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯国(ササン朝ペルシア)の胡人也。起ちて荒裔(はるか)なる自(よ)り中土に来遊す。
〈永寧寺塔の〉金盤日に炫(かがや)き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。
自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡(な)く、而して此の寺精麗にして閻浮(諸仏の国)にも無き所也。極物・境界にも亦(ま)た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。
このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。ペルシア生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の地を出て、中国へ来遊した。
永寧寺の塔の金盤が太陽に輝き、その光が雲表を照らしているのを見て、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと讃嘆した。
その自ら言うところでは、齢は150歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばない所はないが、この永寧寺の素晴らしさは閻浮にはまたと無い、たとえ仏国土を隈なく求めても見当たらないと言い、口に「南無」と唱えつつ、幾日も合掌し続けていた。
弟子の曇林が伝えるところ[3]によると、菩提達磨は西域南天竺国において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば南北朝の宋の時代(遅くとも479年の斉の成立以前)に宋境南越にやって来たとされている[4]。
北宋時代の景徳年間(1004 - 1007年)に宣慈禅師道原によって編纂され禅宗所依の史伝として権威を持つに至った『景徳伝燈録[5]』になると、菩提達磨は中華五祖、中国禅の初祖とされる。この燈史によれば釈迦から数えて28代目とされている。南天竺国香至[注 2]王の第三王子として生まれる[6]。中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで道育、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗(りょうがしゅう、楞伽経にちなむ)と呼ばれた。
普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。9月21日(10月18日)、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。この書では梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。
帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功德
師曰 並無功德
帝曰 何以無功德
師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
帝曰 如何是真功德
答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功德不以世求
帝又問 如何是聖諦第一義
師曰 廓然無聖
帝曰 對朕者誰
師曰 不識
帝不領悟
師知機不契 景德傳燈録第三巻
帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」
師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」
帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り
武帝は達磨の答を喜ばなかった。達磨は縁がなかったと思い、北魏に向かった。後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。
達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされている[7]が、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる『坐禅の定義』[8]などに継承されている。
大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って[注 3]決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。[10]
永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされる[11][注 4]。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう[12][13]。諡は円覚大師[14]。
一方『景徳伝燈録』は達磨没後の道教の尸解に類した後日譚を伝える[15]。中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。それは達磨の遷化から3年後、西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原の葱嶺という場所で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり履き物を片方だけ手にして歩いており、宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る」と答えたという。また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。宗雲は帰国してからこのことを話してまわった。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を開けさせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。
二入四行論について
彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』がある。柳田聖山によれば『二入四行論』が達磨に関する最も古い語録で達磨伝説の原型であるとともに達磨の思想を伝えるとされている。敦煌文書を基にした復元された『達摩二入四行論[注 5]』に登場する三蔵法師が、菩提達摩その人だと信じられている。これは、いくつかの既存の禅宗の文献を部分として含む重要な文献だとされている。しかし伊吹敦は『二入四行論』の内容を精査分析し、これが菩提達磨の教説ではなく中国人にしか書けないものであると報告している[16]。さらに伊吹敦は『二入四行論』の作者は誰かという問題に挑み、慧可であろうと推定している[17]。
影響
達磨により中国に禅宗が伝えられ、それは六祖慧能にまで伝わったことになっている。さらに臨済宗、曹洞宗などの禅宗五家に分かれる。日本の宗教にも大きな影響を及ぼした。
禅宗では達磨を重要視し、「祖師」の言葉で達磨を表すこともある。禅宗で「祖師西来意」(そしせいらいい:達磨大師が西から来た理由)と言えば、「仏法の根本の意味」ということである。
達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としてのだるまができた。これは『福だるま』と呼ばれ縁起物として現在も親しまれている。
関連文献
- 『禅の語録1 達磨の語録 二入四行論』、柳田聖山著、1969年 筑摩書房 (復刊)1996年 ちくま学芸文庫、ISBN 4-480-08309-X 。第2版 2016年 筑摩書房 ISBN 978-4-480-32301-9
- 『人類の知的遺産16 ダルマ』、柳田聖山著、1981年 講談社 (復刊)『ダルマ』1998年 講談社学術文庫、ISBN 978-4061593138
- 『達磨からだるま ものしり大辞典』中村浩訳・著、社会評論社刊(2011年7月)、ISBN 978-4-7845-1903-3
脚注
注釈
^ 「南天竺」は「南インド」とされるが、現在のインドと完全に一致するわけではない。
^ こうし、カンチプラム。
^ この伝説もまた、慧可と曇林が盗賊に臂を斬られたという唐高僧伝のエピソードからの潤色であろうと水野弘元などは指摘する[9]。
^ 成尋『参天台五台山記』によると太和19年(495年)10月5日入滅であるが、それより後年にも活動していた記述があり、信憑性にはやや問題がある。
^ 柳田聖山『禅の語録1 達磨の語録 二入四行論』(筑摩書房、1969年)に収録。
出典
^ 547年楊衒之撰。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:洛陽伽藍記/卷一
^ 645年道宣撰。大正新脩大蔵経 T2060_.50.0551b27 。
^ 『菩提達磨大師略辨大乘入道四行觀 弟子曇琳序』に「法師者、西域南天竺國人、是婆羅門國王第三之子也。神慧疏朗、聞皆曉悟。志存摩訶衍道、故捨素隨緇、紹隆聖種。冥心虚寂、通鑒世事、内外倶明、德超世表。」とある。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:達摩四行觀(略称)
^ 『続高僧伝』巻第十六「菩提達摩。南天竺婆羅門種。神慧疎朗。聞皆曉悟。志存大乘冥心虚寂。通微徹數定學高之。悲此邊隅以法相導。初達宋境南越。末又北度至魏。隨其所止誨以禪教。」(大正新脩大蔵経 T2060_.50.0551b27 - c26)
^ 第三巻 菩提達磨の条。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:傳燈錄/03
^ 『続高僧伝』では「婆羅門種」となっていたのが「姓刹帝利」クシャトリヤの一族に変わる。
^ 『景徳伝燈録』第三巻に「 … 寓止於嵩山少林寺。面壁而坐,終曰默然,人莫之測。謂之壁觀婆羅門。 … 略 … 迄九年已,欲西返天竺。… 」とある。
^ 坐禅の定義[疑問点 ]
^ 水野弘元「pdf 菩提達摩の二入四行説と金剛三昧経 (PDF) 」 、『駒澤大學研究紀要』第13号、1955年3月、 49-50頁、 ISSN 0452361X。[リンク切れ]
^ 瑩山紹瑾『伝光録』第二十九章を参照。
^ 大川普済『五灯会元』より(上記の伝光録の記述とは矛盾する)。
^ 道元『正法眼蔵』第二十五「渓声山色」。
^ 瑩山紹瑾『伝光録』第二十八章「菩提達磨章」。
^ 影山純夫 『禅画を読む』 淡交社、2011年3月、18頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
ISBN 978-4-473-03726-8。
^ 第三巻 菩提達磨伝の末尾に「後三歳、魏宋雲奉使西域回、遇師於葱嶺、見手攜只履、翩翩獨逝。雲問師何往。師曰「西天去。」又謂雲曰「汝主已厭世。」雲聞之茫然。別師東邁。既復命、即明帝已登遐矣。而孝莊即位、雲具奏其事。帝令啟壙。惟空棺一隻革履存焉」
^ 伊吹敦「『二入四行論』の成立について (PDF) 」 、『印度學佛教學研究』第55巻第1号、日本印度学仏教学会、2006年、 127-134頁、 doi:10.4259/ibk.55.127、 ISSN 00194344。
^ 伊吹敦「『二入四行論』の作者について--「曇林序」を中心に (PDF) 」 、『東洋学論叢』第32号、東洋大学文学部、2007年3月、 204-185頁。
関連項目
- 聖徳太子
- 達磨寺
- 雪だるま
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