授時暦
授時暦(じゅじれき)は、中国暦の一つで、元の郭守敬・王恂・許衡らによって編纂された太陰太陽暦の暦法。名称は『書経』堯典の「暦象日月星辰、授時人事」に由来する。至元18年(1281年)から実施され、明でも大統暦(だいとうれき)と名を変えられて明の末年(1644年)までの364年間に渡って使用された。
解説
宋代、十分な観測も行われず18回も改暦したのに対して、授時暦編纂時には観察器具も改良され、大規模な天体観測が行われた。モンゴル帝国(元)の時代になると、西方のイスラム・アラビア世界の科学技術が本格的に中国に流入するようになり、アラビア天文学の影響を受けて精密な天体観測が行われるようになったためであるとも言われる。
1太陽年をグレゴリオ暦と同じ365.2425日とし、1朔望月を29.530593日とした(ただし、授時暦の方がグレゴリオ暦より300年以上早く制定されている)。
計算法に招差法(三次内挿法)で太陽・月の不等が求められ、弧矢割円術(球面三角法)で黄経・黄緯と赤経・赤緯の換算が行われた。また1太陽年の長さが微妙に変化するという歳実消日法(100年ごとに0.0002日減少させる)を採用、さらに正式に上元積年法を廃止して近い任意の年を暦元とし、定数の端数の分母を一万で表す万分法(小数表記に類似)を使うなどしている。
明代では歳実消日法を除外したものが「大統暦」と名を変えて使われた。長年使用されたため実際の天体現象と一致しなくなっていったが、改暦は行われず、イスラム系の回回暦が補助的に用いられた。
日本でも貞享元年(1684年)3月3日に大統暦改暦の詔が出されたが、渋川春海が作成した大和暦の方が優れていることが判明したため10月に撤回され、翌年より貞享暦(詔により大和暦を改称)が実施された。なお、大和暦は授時暦の定数を若干改変し、里差、すなわち日本と中国の経度の差を補正したものである。
関連項目
- 観象授時
- 中国暦
- 郭守敬
- 大統暦
- 貞享暦
中国暦(至元18年(1281年)-崇禎17年(1644年)) | |||||||||||||||||||
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紀元前→後漢 | 古六暦 ?-? | 顓頊暦 ?-BC105 | 太初暦 BC104-4 | 三統暦 5-84 | 後漢→魏 | 四分暦 85-236 | 景初暦 237-444 | 魏→南朝 | 元嘉暦 445-509 | 大明暦 510-589 | | ||||||||
呉 | 四分暦 222 | 乾象暦 223-280 | 北朝 | 景初暦 398-451 | 玄始暦 412-522 | 正光暦 523-565 | 興和暦 540-550 | 天保暦 551-577 | 天和暦 566-578 | ||||||||||
蜀 | 四分暦 221-263 | ||||||||||||||||||
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北朝→隋 | 大象暦 579-583 | 開皇暦 584-596 | 大業暦 597-618 | 唐 | 戊寅元暦 619-664 | 麟徳暦 665-728 | 大衍暦 729-761 | 五紀暦 762-783 | 正元暦 784-806 | 観象暦 807-821 | 宣明暦 822-892 | ||||||||
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唐→後周 | 崇玄暦 893-955 | 後周、北宋、南宋 | 欽天暦 956-963 | 応天暦 963-981 | 乾元暦 981-1001 | 儀天暦 1001-1023 | 崇天暦 1024-1065 | 明天暦 1065-1068 | 崇天暦 1068-1075 | 奉元暦 1075-1093 | 観天暦 1094-1102 | 占天暦 1103-1105 | 紀元暦 1106-1135 | ||||||
後晋、遼 | 調元暦 893-943? 961-993 | 大明暦 994-1125 | |||||||||||||||||
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南宋 | 統元暦 1136-1167 | 乾道暦 1168-1176 | 淳熙暦 1177-1190 | 会元暦 1191-1198 | 統天暦 1199-1207 | 開禧暦 1208-1251 | 淳祐暦 1252 | 会天暦 1253-1270 | 成天暦 1271-1276 | 元以降 | 重修大明暦 1182-1280 | 授時暦 1281-1644 | 時憲暦 1645-1911 | グレゴリオ暦 1912- | |||||
金 | 大明暦 1137-1181 |